旧約書;サムエル記上21章1-6節(旧約聖書p.416)
福音書;ルカによる福音書24章30-42節(新約聖書p.134)
使徒書;ローマ人への手紙8章18-25節(新約聖書p.243)
みなさん、今日みなさんと共に、分ち合う説教の中心となる箇所は、ルカによる福音書24章30節から42節です。この箇所は、ルカによる福音書24章を構成するイエス・キリスト様の復活にかかわる三つの物語の最後の物語の前半部分です。
この三つの物語において、イエス・キリスト様が、かねてから聖書にも続きながら、弟子たちにご自分は十字架に架かられ三日後によみがえると予告しておられました。そしてその言葉通りに、祭司長たちやイスラエルの民の指導者的立場にある人たちの謀略によって、十字架に磔られ、アリマタヤのヨセフの配慮によって墓に葬られました。
その三日後の朝、イエス・キリスト様にガリラヤからついてきていたマグダラのマリヤやヨハンナ、ヤコブの母マリヤと言った女性たちが、イエス・キリスト様が葬られた墓に行ったところ、墓が空っぽになっており、二人の御使い(ルカ24:23)が彼女たちに現れ、イエス・キリスト様がよみがえられたと言うことを宣告するというのが、最初の物語でした。
このように、イエス・キリスト様がよみがえられたと言うことを告げ下されても、イエス・キリスト様の弟子たちは、そのことを信じることができませんでした。そのようにイエス・キリスト様の復活を信じることができない弟子たちの中にあって、クレオパという人ともう一人の人が、エルサレムからエマオと言う町に向かっているときに、よみがられたイエス・キリスト様が顕われたというのが、二番目の物語です。
この二番目の物語において、復活したイエス・キリスト様に出会った弟子たちは、それがイエス・キリスト様とは気づきませんでした。それはおそらく、「死んだ人間がよみがるはずはないと言う常識的な考えが彼らの目を閉ざしていたからだと思われます。しかし、その二人の弟子は、イエス・キリスト様が、パンをとり、それを祝福して、パンを裂き、それを彼らにお渡しになられるうちに、彼らは、今、目の前7パンを裂いている御方がイエス・キリスト様であると言うことに気づくのです。そうすると、イエス・キリスト様のお姿が見えなくなった。
この二番目の物語を受けて、最後の三番目の物語が始まります。その三番目の物語は、いよいよイエス・キリスト様の弟子たちすべてによみがえられたイエス・キリスト様がお現われになる物語です。そして、今日はその前半部分にスポットを当てたいと思います。
エマオの途上で復活してイエス・キリスト様と出会った弟子たちは、直ちにエルサレムへと取って帰り、自分たちはよみがえられたイエス・キリスト様に出会ったと告げます。そのときすでに、エルサレムにいるイエス・キリスト様の弟子たちの間では、イエス・キリスト様の一番弟子ともいえるシモン・ペテロによみがえられたイエス・キリスト様が顕われたということが話題になっていました。そこにあのエマオの途上で復活のイエス・キリスト様に出会った二人の弟子たちの証言が加わるのです。
使徒書のコリント人への第2手紙13章1節には「すべての事がらは、ふたりか三人の証人の証言によって確定する」と言われていますが、この聖書の言葉によれば、イエス・キリスト様がよみがえられたと言うことを3人の人物が証言してるのですから、本当でしたら、このことはもはや確かなことであると他の弟子たちも認めざるを得ないはずです、ところがどうやら、三人の証人がいても、それでもなお他の弟子たちにはイエス・キリスト様がよみがえられたということが信じきれなかったようです。それほど死人がよみがえるという話は信じられない突飛な話に思えたのでしょう。
そのような中「シモン・ペテロによみがえられたイエス・キリスト様が顕われた」という話とエマオの途上で復活したイエス・キリスト様に出会った」という二人の弟子たちの証言が語られているまさにそのときに、よみがえられたイエス・キリスト様が彼らのところにお立ちになられた。ところが、そのよみがえられたイエス・キリスト様が彼らの前に顕われたにもかかわらず、彼らは、そのイエス・キリスト様を見て恐れ驚いたと聖書は津得ています。そして、彼らはそれは、イエス・キリスト様の霊を見ているのだと思った。
口語訳聖書では「霊をみているのだ」と思ったとなっていますが、最も新しい新改訳聖書(新改訳2017)では、この霊と言う言葉、ギリシャ語ではπνεῦμαとなっていますが、そのπνεῦμαを幽霊と訳していますし、新共同訳では亡霊と訳しています。
πνεῦμαと言うギリシャ語は、非常に広い意味と用いられ方がありますが、その中にはたしかにπνεῦμαには、死人の霊といったニュアンスの意味もある。ですから、亡霊や幽霊と訳しても間違がっているわけではありません。もっともここで幽霊とか亡霊と訳されるπνεῦμαが、いわゆる日本的な幽霊であるとか亡霊と同じかというと必ずしもそうではないように思います。日本における幽霊とか亡霊と言うのは、何かしら怨念や恨みというものに結びついているからです。
そう言った意味で、日本的なニュアンスで幽霊や亡霊に対する恐ろしさの背後には、恨みや憎しみというものに対する恐れと言ったものがあります。しかし、このπνεῦμαを死んだ人の霊と言う意味で、幽霊や亡霊と訳し、そこに恐れを感じるというのは、私たちが幽霊や亡霊に感じる恐れとはちょっと違うかもしれません。
むしろそれは、本来あるべきものではないもの、理解できないものを見た恐ろしさと言っていいだろうと思います。なぜならば、ここで恐れ驚いているのは、イエス・キリスト様の弟子であり、その弟子の中でも第一世代の弟子だからです。加えて、ユダヤ人でありました。
みなさん、古く古代から人間というものを理解する際に、人間を霊と肉という二つの要素で考える2元論的な捉え方と、霊と肉と魂という三元論的な捉え方をする見方がありました。たとえば、二元的な見方はギリシャの哲学者プラトンなどに見られますし、3元論的な見方は、オリゲネスと言った神学者などに見られます。聖書におけるパウロなどは、二元論的な表現も三元論てきな表現もどちらも使っていますが、しかし、原則的にユダヤ人は人間を霊と肉の二つの要素で捉える2元論的な見方をします。
もっとも、ユダヤ人は確かに、人間の中に霊と肉と言う二つの要素を見ますが、決してそれは別々に切り離されてはいません。人間は霊だけでは存在しませんし、肉だけでも人間として存在できないのです。ですから、イエス・キリスト様の弟子たちが、よみられたイエス・キリスト様を見て「幽霊を見たのだと思い、恐れ驚いた」たのは、本来は霊と肉とが一体となった人間であるのに、肉体を伴わない霊というあり得ないものを見た驚きであり、自分の理解を超えたよくわからない存在に出会った恐れなのです。もちろん、彼らの理解は間違っており、イエス・キリスト様は霊と肉とをもってよみがえられたのですが、とにかくその時の弟子たちは、霊だと思った。
私は昔、中学生のころ読んだある文章が強く心に残っており、それを今でも覚えている。それは、確か国語の授業で読んだ文章であったと思いますが「なぜ、幽霊が怖いのか」と言うタイトルの文章でした。
その文章でいう幽霊の怖さは、急に蛇に出くわした時に蛇を怖いと感じる感情に似ていると言うのです。その文章を書いた人は、なぜ急にできわしたときに蛇が怖いというと、それは蛇の姿かたちにあるのではないと言います。蛇の姿かたちが怖いのなら、人間は長いもの、例えば縄や水ホースなどを見ても怖いと感じるはずだが、そのようなことはない。また、あの鱗を持った姿が怖いのかというと、蛇を怖いと感じる人でも、同じような鱗を持った魚を怖いとは感じない。だとすれば、蛇の怖さはそのようなところにあるのではないと言うのです。
そして、蛇が怖いのは、普段、岩陰や草むらに潜んでいて、いそうもないところから突然、現れれる。しかも、蛇が岩陰に潜んで何をしているのかなど私たちは知らないわけで、そのように、何をしているのか、そこにいるのかいないのかわからない日常性が欠如した存在が突然目の前にパッと表れる。だから蛇が怖いのだと言うのです。そして、幽霊が怖いのも同じなのではないかと言う。
たしかに、幽霊がどこにいて、どのような生活をしているか。それこそ、私たちと同じように、洗濯をしたり、買い物したりすると言う日常性を持っていたならば、仮に突然幽霊に出会うことがったとしても、それこそ、町で突然、十数年あっていなかった友達に出会った時に、驚くことはあったとしても「よっ、ひさしぶり」と挨拶をかわすように、決して怖いと感じることがないでしょう。でも、幽霊は怖いと感じる。それは幽霊には、私たちと同じ日常性がないからです。幽霊と私たちの間にはつながりがない。連続性がないのです。
それは、私たちには決して理解できない私たち人間の理解を超えた異質の存在なのです。だから恐れを感じる。そのような、私たちの取り巻く世界にはない何か異質なものと出会う時、恐れを感じるということがある。それが幽霊の持つ怖さであると言うのです。
だとすれば、ここで弟子たちが、蘇られたイエス・キリスト様と出会い、このお方との出会いに、幽霊を見たと思い恐れを感じたというのは、まさに、そのような、私たちの理解を超えた異質な存在との出会いの際に感じる恐れであったと言えます。
ところが、このような、あり得ない者、自分の理解を超えた存在に出会った時の恐れや驚きというものは、宗教の中核をなす一種の、そして大事な宗教経験なのだという人がいます。例えば、宗教学者のルドルフ・オットーという人は、言葉では言い表せない存在、自分の理解を超えた存在に出会う時、恐れと同時にそれに引き付けられる感情が若き上がると言い、そのような感情をヌミノーゼと名付けました。そして、このヌミノーゼのような感情が、宗教の根幹であると言うのです。
そう言った意味で、このエルサレムにいた弟子たちの内に起こった恐れと驚きは、イエス・キリスト様を神だとして崇める彼らの宗教性を養うためには有益なものとなったかもしれないのです。ところがイエス・キリスト様は、ご自分が肉体を持たない、幽霊や亡霊であること、つまり死人の霊を否定します。
そして、ご自分の手足を見せ、魚までも食べられて、ご自分が霊だけの存在ではなく肉体をも持った存在であることをお示しになった。そして、復活したご自分と弟子たちとの間に連続性があることをお示しになる。私たちとイエス・キリスト様が繋がっていることをお示しになるのです。
みなさん、ここのところが大切です。イエス・キリスト様は霊と肉を持ったまさに生きた人間としてよみがえられたのです。ここにイエス・キリスト様の受肉と復活の意味がある。
確かにイエス・キリスト様は神のひとり子なる神であり、礼拝されるべきお方であり、賛美されるお方であり、崇められる御方です。もし、それだけならば、イエス・キリスト様は、幽霊だと思われるような霊として、弟子たちに現れた方が、弟子たちの中に確固たる宗教経験を受け付けるためにはよかったのかもしれない。
けれども、キリスト教という宗教は、ただイエス・キリスト様を礼拝し、賛美し、崇めるだけのもので終わってはいけないのです。むしろ、イエス・キリスト様が、肉体をもって生まれ、生き、そして肉体をもって復活なさったように、私たちも神の前に、具体的な日常生活の中で、イエス・キリスト様のように生きて行くことで、キリスト教と言う宗教は完結するのです。
そして、キリスト教と言う宗教は、私たちの霊だけではない、肉体も聖なるものとして贖ってくれるのです。みなさん、私たちは先ほど使徒書の中のローマ人への手紙8章18節から25節のお言葉に耳を傾けました。そこでは、被造物全体が救われることを願っていると言うことが書かれています。
この被造物というのは、、神がお造りになったすべてのものです。そして、物質的世界です。その被造物全体が、今の時に贖われ、滅びの縄目から解放され、救われることを願い求めて、うめき苦しんでいるというというのがこのローマ人への手紙8章18節から25節が言わんとしていることです。つまり、イエス・キリスト様がもたらした救いとは、単に私たちの心や霊や魂が救われると言うだけではない、肉体をも救って下さるのだと言うのです。
ですから、救いとは、単に赦されると言った言葉では言い尽くせない、もっとおおきなもの、言わば霊と肉をもって存在する私たちの存在にすべてを包み込んで救う存在の救いと言ってもよいものです。
それは、私たち人間の霊と肉とは決して切り離すことができない存在だからです。ですから、救いとは、単に霊だけ救われて天国に行くと言うことではなく、霊と肉とを持った存在として、神が私たちを救って下さる存在の救いなのです。
ローマ人への手紙8章18節から25節は、そのことを私たちに示している。そのローマ人への手紙8章18節から25節にあって、23節において聖書は、
それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめ
きながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待
ち望んでいる。 それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、
心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわ
れることを待ち望んでいる。
と言うのです。ここでは、私たちの肉体がまだ贖われていない現実が語られています。だから、「体があがなわれることを待ち望んでいる」と聖書は言うのです。たしかに、私たちはイエス・キリスト様のように、復活した人をまだ見ていません。見たことがないのです。だから、体があがなわれると言うことは待ち望まなければならない出来事です。
けれども、大丈夫です。さきほども申しましたように神は私たちの霊だけではなく、肉体までも心にかけて下さり、救って下さるお方だからです。
みなさん、先ほど司式の兄弟に旧約聖書のサムエル記上21章1節から6節までをお読みいただきました。この箇所は、ダビデが、サウルに命を狙われて逃亡しているとき、律法では本来は祭司か食べてはならない神にささげられた祭儀用のパンを食べたという出来事が記されています。
この出来事は、イエス・キリスト様の弟子たちが安息日にしてはならないとされていた麦の穂を摘むという収穫の行為を射たことをパリサイ派の人たちにとがめられた際に、イエス・キリスト様が引用された出来事です。そのことがマルコによる福音書2章23節以降に書かれていますが、この出来事が示していることは、宗教的な祭りごとを通して神を崇めることは重要であるけれども、それ以上に神は私たちの存在を顧み、その肉体のことまで配慮下さっていると言うことです。だからこそ、イエス・キリスト様は、本来祭司しか食べてはならないパンを空腹のダビデに与えたというこのダビデの物語を引用したのではないでしょうか。
みなさん。私たちは、霊だけの存在ではありません。霊と肉体とを持った存在です。ですから、神を礼拝し、神を賛美し、神を崇めるとき、ただ霊だけでそれをするのではありません。肉体をもってするのです。同様にみなさん、私たちは霊だけが天国に行くのではありません。体もまた贖われ、イエス・キリスト様のように復活し、霊と体をもって神の国である天国へと迎え入れられるのです。そのことを忍耐をもって待ち望むことが大切です。
このルカによる福音書が書かれた時代、地中海世界にはグノーシス主義という哲学的な考え方がありました。そしてキリスト教にもいろいろと悪い影響を与えていた。というのもグノーシス主義もまた、ユダヤの民のように霊と肉との二元論に立っていたのですが、しかしグノーシス主義はユダヤの民とは異なり、霊と肉とを分断し霊をよきものとして、肉を堕落した汚れた存在として悪だとみていました。そして、霊が肉体から離れるために叡智を手に入れることを重んじていました。ですから、霊である神が肉体をとることなどとはとても考えられなかったのです。
おそらく、ルカによる福音書の著者であるルカは、このグノーシス主義のことを知っていたでしょう。また、グノーシス主義のことを意識もしていたと思われます。だから、イエス・キリスト様が肉体をもって復活し、魚を食べたと言う出来事を取り上げて福音書に書き記しるした。それは、私たちのからだもまた神が創造されたものであり、聖なるものだからです。
ですから、私たちは、私たちの聖なる肉体を聖なる神の業のために用いることが大切になりますし、また用いることができる。そして肉体が聖なるものだからこそ、聖なる神に民となり、聖なる神の民とされたもの肉体は、イエス・キリスト様のように、よみがえらされるのです。それは、まだ見ていない、忍耐して待ち望んでいる希望です。その希望は確実に現実になる時がくる。必ずくる。だからこそ、忍耐をもって待ち続けると言うことが、キリスト教の信仰において重要なことです。
みなさん、私はこのルカによる福音書の24章の一連の復活の物語を読み解きつつ、キリスト教の救いは、私たちの人生が書き換えられ、新しい生き方を生きることだと申し上げてきました。それらはいうなれば、私たちの意識の持ち方、あるいは意思にかかわる問題で体があがなわれることではなく、霊の救いであると言えるものです。
しかし、キリスト教の信仰における救いは、そこだけに留まるものではありません。霊が救われるだけでなく、体もあがなわれ救われるのです。肉体をもって復活すると言うことそれは、まさに体があがなわれることです。この体があがなわれることによる復活の希望、それは空しい希望ではありません。イエス・キリスト様の復活の出来事によって表された信実な神の約束なのですなのです。
そうです皆さん。神は私たちの霊や魂だけを救うお方ではありません。霊も肉体も顧みてくださるお方であり、霊も肉体をも救って下さるお方なのです。そのことを覚え、この聖なる体をもって神に喜ばれる生き方をし、希望をもって一日、一日を大切に過ごそうではありませんか。お祈りします。
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