2019年5月30日木曜日

2019年05月26日 小金井福音キリスト教会 説教題 「 あなたにはかけたところが一つある 」

2019年05月26日 小金井福音キリスト教会 説教

聖書
・マルコによる福音書 第10章 17節 - 27節

説教題 「 あなたにはかけたところが一つある 」


※ 藤本満牧師の説教は、藤本牧師にご了解をいただいきご許可をいただいて公開しています。

2019年5月12日日曜日

2019年05月12日 小金井福音キリスト教会 説教題 「 受け継がれる神の祝福 」

2019年05月12日 小金井福音キリスト教会 説教

聖書
・創世記 第17章 1 - 7 節
・マタイによる福音書 第1章 15 - 17 節
・使徒行伝 第7章 6 - 8 節

説教題 「 受け継がれる神の祝福 」



20195月第2主日礼拝説教「受け継がれていく約束と祝福」 20195.12
旧約書:歴代誌下615節~17
福音書:マタイによる福音書130節~38
使徒書:使徒行伝76節~716

 先週の礼拝説教で、私は使徒行伝612節~78節の御言葉、とりわけ71節から始まるステパノの長い弁明から、イスラエルの民の信仰の原点は、神がアブラハムに「あなたの土地と親族から離れ、私が示す地に行け」と言われた言葉に聞き従ったということにあると申し上げました。

 そして、その際、ステパノは、神がアブラハムに「あなたの土地と親族から離れ、私が示す地に行け」と言われた言葉の後に続く

わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される

と言う祝福の言葉をあえて省略することで、神の言葉に聴き、それに応答し神の言葉に聴き従うということが、信仰なのだということをお話しました。神の言葉に聴き従いと言うことにな、神に対する信頼があるからです。
 しかし、聖書には、神がアブラハムに「あなたの土地と親族から離れ、私が示す地に行け」と語られた後に、祝福の約束をされたのはまぎれもない事実です。そして、その祝福の約束は、アブラハム自身がその繁栄を享受するものではなく、むしろアブラハムの子孫が受ける祝福の約束でした。
 だからこそ、ステパノはアブラハムが神の言葉に聴き従って、神が導き招き入れた約束の地カナンで「遺産となるものは何一つ、一歩の幅の土地すらも、与えられなかった」と言うのです。そして「ただ、その地を所領として授けようとの約束を、彼と、そして彼にはまだ子がなかったのに、その子孫とに与えられたのである」とステパノは言う。

 しかし、そのようにアブラハムの子孫に、神がアブラハムを導き連れてきたカナンの地で土地を与える約束するのですが、しかし、同時に「彼の子孫は他国に身を寄せるであろう。そして、そこで四百年のあいだ、奴隷にされて虐待を受けるであろう」とも言われる。
 まさに、神の約束してくださったカナンという地を所領として与えられるが、しかし、400年間、外国で奴隷生活をおくり、虐待されるとも言う。それが今日の聖書朗読の箇所にある使徒行伝に76節から7節です。
 そこには、アブラハムに与えられた祝福の約束というものは、ただカナンの地で土地が与えられ、財産が増し加えられるという「この世」的な繁栄の約束ではなく、むしろ、奴隷の地から救い出されるという神の救済の業(救いの業)に基づいて、人々が神を礼拝するものとなることが祝福なのだという神の救いの歴史、すなわち救済史的な意味が窺われます。

 「奴隷の地から救い出されるという神の救済の業(救いの業)に基づいて、人々が神を礼拝するものとなることが祝福なのだ」というのは、少しわかりずらい表現かもしれませんね。要は、こういうことなのです。神の祝福は、私たちが「この世」という神に敵対する世界で、罪の奴隷にされている状態から解放されて、神の恵みが支配する神の国の民とされ、神と共に生き、神を礼拝する神の民となることなのだということなのです。 
 そのことを、神は具体的にアブラハムの子孫であるイスラエルの民の歴史を通して私たちに示してくださっているとステパノは言いたいのです。その救いの歴史のはじまりが、今日の聖書朗読の箇所の使徒行伝78節から始まります。そして、その救いの歴史の始まりに、また神は、アブラハムに割礼の契約をお与えになったというのです。

 この割礼の契約とは、創世記171節から12節のことが念頭に置かれていると思われます。すなわち、アブラハムが99歳の時の出来事です。 
 神はアブラハムに子供が与えられ、子孫が増え広がっていき、その子孫を通して神の祝福が広がっていくと約束されました。それが創世記12章の約束でした。しかし、アブラハムにはなかなか子供が与えられなかったのです。
そこでアブラハムは、養子を迎えたりとか自分の正妻のサラでなく、側女のハガルによって子供を設けるなど、様々なことをして子孫を残そうとするのですが、アブラハム99歳、妻サラが90歳という、もはやアブラハムとサラの夫妻の間に子供が生まれるということなど考えられない段階になって、神はアブラハムと妻サラの間に子供が生まれるというのです。その時に神は、そのことを単なる約束としてではなく、約束よりもより強い意味合いを持つ契約としてアブラハムに約束なさったのです。

みなさん、契約は必ず履行されなければなりません。アブラハムが99歳で妻のサラが90歳と言うもはや子供は絶対にこの夫婦の間に生まれないという状況の中で、神は必ず契約内容を履行しなければならない契約としてアブラハムとの間に約束を結ぶのです。

みなさん、その際、神はアブラハムに「あなたは私の前に歩み、全き者であれ」と言うことを求めます。考えてみますと、契約というのは一方的に結ばれるものではありません。契約を結ぶ双方が、互いに契約が履行されるようにしなければならない。つまり、アブラハムの側になすべき努力が求められるのです。その努力というのが、あなたは私の前に歩み、全き者であれということなのです。
この「私の前に歩み、全きものであれ」と言うのはどういうことなのでしょうか。そのことを知るためには、創世記15章にまで遡る必要があるように思われます。というのも、実は神がアブラハムと契約を結ぶという出来事は、もともと創世記15章において起こっていた出来事だからです。それは創世記1518節から21節です。そこにはこうあります。

その日、主はアブラムと契約を結んで言われた、「わたしはこの地をあなたの子孫に与える。エジプトの川から、かの大川ユフラテまで。 19:すなわちケニびと、ケニジびと、カドモニびと、 ヘテびと、ペリジびと、レパイムびと、21:アモリびと、カナンびと、ギルガシびと、エブスびとの地を与える」。

 ここにおいて、神はアブラハムと契約を結んだと言われています。しかも、使徒行伝76節でステパノの引用した「彼の子孫は他国に身を寄せるであろう。そして、そこで四百年のあいだ、奴隷にされて虐待を受けるであろう」という言葉は、この創世記1519節から21節で結ばれる契約の際に先駆けて、13節から16節で神がアブラハムに語られた言葉の内容を引用しているのです。お読みします。

時に主はアブラムに言われた、「あなたはよく心にとめておきなさい。あなたの子孫は他の国に旅びととなって、その人々に仕え、その人々は彼らを四百年の間、悩ますでしょう。14:しかし、わたしは彼らが仕えたその国民をさばきます。その後かれらは多くの財産を携えて出て来るでしょう。15:あなたは安らかに先祖のもとに行きます。そして高齢に達して葬られるでしょう。16:四代目になって彼らはここに帰って来るでしょう。アモリびとの悪がまだ満ちないからです」。

このように、まさにステパノが「彼の子孫は他国に身を寄せるであろう。そして、そこで四百年のあいだ、奴隷にされて虐待を受けるであろう」と言って旧約聖書を引証したその内容が記されています。 
つまり、イスラエルの民へに神の祝福と言うのは、イスラエルの民が奴隷と言う経験をし、その奴隷から解放されることを通して実現されるものであるというのです。その創世記15章の契約が17章で更新されるのですが、しかしなぜ、その契約更新がなされなければならなかったのかというと、そこには15章と17章の間にある16章の出来事がある。

みなさん、創世記16章に何が記されているかと言うと、アブラハムとその妻サラが、自分たち夫婦に子供が与えられるのはもはや考えられないから、サラに仕えていた女奴隷のハガルをアブラハムの側女にして、そのハガルによって子供を設け、その子をアブラハムの後継ぎにしようとしたという出来事です。そして、実際にハガルによってイシュマエルと言う子供が生まれる。

みなさん、この創世記16章の出来事は、神の契約において、神がなすべき業をアブラハムとサラが行おうとしているということを私たちに示している出来事です。神が、アブラハムに1518節から21節で契約を結んだのは、同じ156節にありますように、「アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた」からです。では何を信じたか。
それはアブラハムが、自分の奴隷であるエリエゼルを養子にし、その子供に自分の跡取りにしようとした際に、神が、「あなたに子供が生まれる。そして、その子に後を継がせなさい」と言う神の言葉を信じたのです。そこにはアブラハムの信仰がある。その信仰よって神はアブラハムと契約をなさるのです。それが創世記156節の「アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた」と言う言葉に集約されている。

しかし、アブラムは、その神の「あなたの子供が生まれる」と言う言葉を、自分たちなりに受け止め、そして、自分たちの計画と自分たちの業によってなそうとしたのです。しかし、神の言葉の下で子供が生まれる、子供が与えられるということは神がなされる業だということです。それを、アブラハムとサラは自分たちでやろうとした。神を全く信頼する信仰に翳りが起こったのです。 
そのことを受けて、神は「あなたは私の前に歩み、全き者であれ」といって契約の更新なされる。つまり、神がアブラハムに「あなたは私の前に歩み、全き者であれ」と言われたのは、アブラハムに神を信じる信仰、神を信頼する信仰において全き者であれ」と言われたのです。その全き信頼があってはじめて、神は神の業をなされることができる。そこに人間の業が入り込まないからです。

ですから、みなさん。神の祝福を得ようとしたら、人間は、じたばた自分で何かをしようとしてはだめだってことでしょうね。祝福は神がなされる業ですから、自分で神の祝福が何であるかを決め、その祝福を実現しようとしてはだめなんだ。祝福は神の業なのだから神を信頼し神に委ねてこそ初めて実現するものなんだということでしょう。 
もちろん、だからといって私たちは良い加減であったり、神が喜ばれないような生活や生き方をしていいわけではありません。それは神の民、神の子らしい生き方をするものとなって生き必要があります。しかし、それは祝福を得るためではなく、祝福をもたらすためでもありません。むしろ、神の祝福の中を生きる者とされているからこそ、聖なる生き方、聖い生き方を生きるのです。

そのような聖なる生き方へと私たちを導き入れてくださる神の祝福は、神を信じる信仰によって与えられる契約によるのです。その契約は、神の救いの歴史を通して私たちに受け継がれています。それは、アブラハム・イサク・ヤコブとして受け継がれ、ヤコブの12人の子を族長として増え広がったイスラエルの民として受け継がれ、そして、先ほど司式の兄弟にお読みいただいた新約聖書マタイによる福音書115節から17節にありますように、ヨセフを夫つするマリヤによってイエス・キリスト様に繋がっている。 
そして、このイエス・キリスト様によってあのアブラハムによって結ばれた契約が受け継がれ、さらに新しい契約として更新されたのです。それは、エジプトの地で奴隷となっていたイスラエルの民がその奴隷の地から解放させ、神の約束の地であるカナンの地に帰ってきて神を礼拝し、神と共に生きる祝福を約束した契約が、イエス・キリスト様を信じ、イエス・キリスト様を信じ「イエスは主なり」と告白する者は、罪と死の支配する「この世」から解放され、神の国の民とされるという祝福をもたらす新しい契約への更新なのです。

みさん、私たちはこの新しい契約に基づく神の祝福を受け継ぐ者です。そしてその契約によって神の子とされているのです。だからこそ私たちは、神を見上げ、契約の基となったイエス・キリスト様を見上げながら、神の民、神の子とさえたものとしてふさわしく神の前で歩む者でありたいと思うのです。お祈りしましょう。

2019年5月10日金曜日

2019年05月05日 説教 小金井福音キリスト教会 説教題 「 神の民の始まり 」

2019年05月05日 説教 小金井福音キリスト教会 説教

聖書
・創世記 第12章 1 - 4 節
・ルカによる福音書 第1章 30 - 38 節
・使徒行伝 第6章 12 節 - 第7章 1節

説教題 「 神の民の始まり 」



0195月第一主日聖餐式礼拝説教題「神の民の始まり」     2019.5.5
旧約書:創世記121節~4節(旧約聖書p.
福音書:ルカによる福音書130節~38(新約聖書pp.)
使徒書:使徒行伝612節~71節(新約聖書p.

 今日の聖書箇所は、いわゆるステパノの説教と呼ばれるものの最初の部分です。ステパノの説教と言っても、いわゆる礼拝における説教とは違います。それは、ユダヤ人の最高議会、最高法院と言ってもいいかもしれませんが、その最高議会であるサンヘドリンと呼ばれる議会でステパノが、自らの信仰の正当性を述べた極めて優れた弁舌です。

 ステパノは、もっとも原初の教会で執事という役割を負った人でした。執事と言うのは、教会に集っている人々の食事や、その他もろもろのお世話をする役割を負った人たちです。そのような執事と呼ばれる働きをする人が原初のエルサエムの教会には7人いました。ステパノはその7人の執事の中のひとりです。
 そのステパノがユダヤ人の最高議会であるサンヘドリンで自分の信仰の正当性について弁明しなければならなくなったのは、ステパノが、リベルテンと言われるいわゆる奴隷身分から自由人とされ、ユダヤ教に改宗した人たちから訴えられたからです。

 そのいきさつが、先週の説教で取り上げた使徒行伝68節から14節の箇所に記されていますが、要は、ステパノとリベルテンの会堂に集っていたクレテ人やアレキサンドリア人等々の諸外国から来た人々、ですからおそらくはユダヤ教に改宗した改宗者であろうと思われますが、そのような人々と議論になった。

 この議論では、どうやらステパノの方が圧倒的に優勢で、相手はステパノに対抗できなかったようです。そこで議論に敗れた人たちが、サンヘドリンの議会に、偽りの証人たちに偽証をさせ、ステパノを訴え出たのです。
 そこでステパノは、その偽証に対して、弁明をしければならなくなったというわけです。そのステパノの弁明は71節から53節に渡る長いものですが、弁明と言うよりも、むしろ聖書を説き明かす説教のような内容になっています。今日の71節から7節までは、その長い弁明の最初の部分です。

 このステパノの説教の内容を一言で言うと、神の民の歴史を説き明かすものであると言えます。そして、そのようにステパノが神の民の歴史を説き明かしながら、みずからの信仰、それはイエス・キリスト様を救い主であり、私たちの主であると告白する信仰ですが、その信仰が、聖書の歴史に繋がるものであることを論証するのです。それは、今日、キリスト教と呼ばれるようになった信仰は、聖書の語る神の救いの歴史、神学的な言葉で言うならば救済史といいますが、その救済史につながり、それを担う信仰であるということを論証するものでした。

 みなさん、今日キリスト教と呼ばれれる私たちの信仰は、歴史を無視する宗教ではありません。歴史を大切にし、歴史を担い、歴史を形成する歴史的信仰です。それはもうすでに、このステパノの説教の中に現れ出ている。その信仰の歴史を語る説教を、ステパノは、まずアブラハムから始める。使徒行伝72節から4節の冒頭までに記された出来事です。

   弟たち、父たちよ、お聞き下さい。わたしたちの父祖アブラハムが、カランに住む前、まだメソポタミヤにいたとき、栄光の神が彼に現れて3:仰せになった、『あなたの土地と親族から離れて、あなたにさし示す地に行きなさい』。4:そこで、アブラハムはカルデヤ人の地を出て、カランに住んだ。そして、彼の父が死んだのち、神は彼をそこから、今あなたがたの住んでいるこの地に移住させた。

この出来事は、先ほど司式の方にお読みいただいた旧約聖書の創世記121節から4節にしるされていますが、実際の旧約聖書の記述と、ステパノが語った言葉とを読み比べますと、両者の間には微妙な違いがあります。と言うのも、ステパノは神が、アブラハムに、『あなたの土地と親族から離れて、あなたにさし示す地に行きなさい』。と述べたのちに、アブラハムはカルデヤ人の地を出てカランに住み、そこで彼の父が死んだと述べていますが、旧約聖書の記述をみますと、アブラハムが父と甥のロトと共にカルデヤ人の地を離れてカランの地に住み、そこで父が死んだのは、創世記1131節、32節に記されており、12章でアブラハムが神からの語りかけを聞く前の出来事になっています。
 つまり、ステパノの旧約聖書の引用は誤まっているのです。ステパノがわざと誤って引用したのか、それともステパノの勘違いだったのかわかりませんが、しかし、旧約聖書の記述の内容と異なっていることは間違いがありません。

 しかし、この異なる二つの歴史に関する記述を読み比べると、そこに新たな発見が生まれてきます。そしてそこに神がこのようなステパノの誤りをもお用いになっておられるその意図が見えてくるような気がするのです。というのも、創世記1131節を見ますと、アブラハムの父テラは、カナンの地に行こうとしてカルデヤのウルから出たとあるからです。つまりアブラハムたちは、最初からカナンの地、すなわち今のイスラエルの国があるパレスチナ地方に行こうとしていたのです。

 だとすれば、まさに、神がアブラハムを「今あなたがたの住んでいるこの地」と言われるカナンの地に移住させたのは、最初から神のご計画の中にあった出来事だったということです。まさに、『あなたの土地と親族から離れて、あなたにさし示す地に行きなさい』と命じになった神の御意志とご計画は、アブラハムの父テラがカルデヤの地ウルを出たときから始まっていたということなのです。

 その神の御意思とご計画は、彼らがカランの地に住み着いたことで頓挫しそうになった。そのような中で、神はアブラハムに語りかけ、再びカナンの地へと導いて行かれるのです。そのことを思います時に、確かにステパノは旧約聖書の記述とは異なる誤った引用をしていますが、しかし、神の導きとご計画と言う視点から見てまいりますと、その誤りがかえって神のご計画と導きというものを伝えていると言えます。まさに、神はアブラハムと言う一人の人の人生に関わり、そしてその人生を最初から最後に至るまで導いておられるのです。

 それは、なにもアブラハムという特定の人物だけではない、すべての人の人生にかかわりを持ち、導こうとしているのです。もちろん、すべての人ですから皆さんもその一人であることは間違いがありません。同時に、その神の導きが頓挫しそうになることもあるのです。そういったことが、これから皆さんの人生に起こってくるかもしれない。

しかし皆さん、そのようなときにも神はあきらめることなく、アブラハムに『あなたの土地と親族から離れて、あなたにさし示す地に行きなさい』と呼びかけられたように、私たちに声をかけてくださるのです。大切なのは、その神の呼びかけに応答するか否かです。
 アブラハムはその神の呼びかけに答えたのです。ステパノは、そのことを「栄光の神が彼に現れて3:仰せになった、『あなたの土地と親族から離れて、あなたにさし示す地に行きなさい』。4:そこで、アブラハムはカルデヤ人の地を出て、カランに住んだ」と短く伝えています。

ここでは、先に旧約聖書に引用に置いて事の成り行きの後先を誤って伝えたステパノは、創世記12章にあるアブラハムの物語の重要な部分を削除しています。これも、意図的な削除なのか、ステパノがきちんと覚えていなかったのか定かではありませんが、ステパノが重要な部分を削除したことによって、神の呼びかけに応答するということとはどういうことかと言うことがより鮮明に浮き上がってくるのですから、聖書と言うのは本当に不思議な書物だと思います。

そのステパノが削除した部分が創世記12章の2節、3節の部分です。そこにはこうあります。

わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。3:あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される。

 皆さん、この言葉は、神がアブラハムに『あなたの土地と親族から離れて、あなたにさし示す地に行きなさい』と語ったすぐそのあとに言われた言葉です。つまり、創世記12章では神は、私があなたを導き、連れていく地で祝福をする。だから、あなたはあなたの土地と親族から離れて私の示す地に行きなさいというのです。

 ところが、ステパノはその祝福の約束を削り落とすのです。もちろん、ステパノの弁明を聞いているのはサンヘドリンの議員でありユダヤ人の思想社階級の人たちですから、聖書には通じている人たちです。ですから、ステパノが祝福の約束を削り取ってかたっていても、そこに神の祝福の約束がありことは無条件にわかるでしょう。
 しかし、それでもなお、あの神のアブラハムへの祝福の約束を削り取取られていることによって、神の言葉は神の言葉ゆえに従うことが大切なのだということが浮き彫りになって来る。神が言われることを聞けば、何かいいことがある。だから聞き従うというのではなく、神の言われる言葉だから従う。神の言葉は神の言葉だから従う。

ステパノが、あえて神の祝福の約束を削り、「『あなたの土地と親族から離れて、あなたにさし示す地に行きなさい』。そこで、アブラハムはカルデヤ人の地を出て、カランに住んだ」と言ったその言葉は、神の言葉に聞き従うことが信仰だと言うかように私には思えるのですが、みなさんはどうでしょうか。

と申しますのも、ステパノは、神の言葉に聞き従いカナンの地にやって来たアブラハムは、そのカナンの地では「遺産となるものは何一つ、一歩の幅の土地すらも、与えられなかった」と言っているからです。この表現は、かなり誇張された表現です。創世記24章を2節を見ますと、「アブラハムは自分の全財産を管理している家の最年長のしもべに、こう言った」と言う記述があるありますから、アブラハムはそれなりの財産を持っていたようです。

にも関わらず、ステパノは敢えて、「遺産となるものは何一つ、一歩の幅の土地すらも、与えられなかった」と言うのです。そしてその上で「ただ、その地を所領として授けようとの約束を、彼と、そして彼にはまだ子がなかったのに、その子孫とに与えられたのである」というのです。

皆さん、こうして考えてみまてすと、ステパノは、「神を信じる信仰の原点にあるのは神の言葉に聞き従う信仰だ」とでもいうかのようにして、あえて祝福の約束を削り、神の言葉に従って神が導いてこられた地にやって来ても、何も得られなかった。得られたのはただ子孫が反省するという約束だけであったと言っているかのようです。そして、そのようなアブラハムの物語を神の民であるイスラエルの民の信仰の歴史の始まりに持って来た。

ステパノは、そのようにして、「神の言葉に聞き従う信仰から神の民の歴史の始まったのだから、信仰の原点は、神の言葉に聞き従うことなのだ」と言うことを私たちに語っている。そしてそれは確かにそうなのだろうと思うのです 
そしてそれは旧約聖書に歴史に繋がる新約聖書の歴史も、まさに神の言葉に聞き従う信仰から始まるからです。それが、先ほど司式の兄弟にお読みいただきました。ルカによる福音書130節から38節にある受胎告知の物語です。

このルカによる福音書30節から38節で、イエス・キリスト様の母マリヤは、まだ主所であり結婚もしていないのに男の子を生むと告げられます。その時マリヤは、「そんなことは起こりえない」と思いますし、そのように言います。

しかし、み使いの「神には、なんでもできないことはありません」と言う言葉に「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」といって、み使いが告げる神のご計画と神のご意志を受け入れるのです。そして、そこからイエス・キリスト様がお生まれになる。まさに神の言葉に聞き従うマリヤの信仰から、旧約聖書の歴史に繋がり新しい神の民の歴史が始まったのです。

みなさん。このように神の民の歴史の始まりには、神の言葉、神の約束に聞き従うという信仰の原点があります。みなさんの信仰に原点はどこにあるのでしょうか。少なくとも、ステパノの説教は、神の民である私たちの信仰の原点が何であるかを示している。それは、私たちが神の言葉を信じ、神の約束を信じるところにある。

みなさん。私たちはキリストの体なる教会に繋がり、神の民とされた者です。このキリストの体なる教会のかしらであるイエス・キリスト様は十字架の死に至るまで、神に従い抜いたお方です。そのキリストの体なる教会に繋がる私たち一人ひとりは、あのアブラハムのように、またマリヤのように、神の言葉に聞き従う者となりたいと思います。お祈りしましょう。