2019年1月29日火曜日

2019年01月27日 小金井福音キリスト教会 説教題「 キリストの名の外なし 」

小金井福音キリスト教会 説教

聖書
・ゼカリヤ書 第4章 1節 - 10節
・マルコによる福音書 第11章 27節 - 33節
・使徒行伝 第4章 1節 - 12節

説教題「 キリストの名の外なし 」



 今日の聖書個所である使徒行伝41節から12節は、使徒ペテロが役人や、長老、また律法学者や大祭司などを前に行った弁明が記さされている箇所です。

ペテロが、役人や、長老、また律法学者や大祭司といった、いわばイスラエルの民の中の権力者を前に弁明をしなければならなくなったいきさつは、4章の1節から4節に記されている通りです。そこにはこのように記されています。

1:彼らが人々にこのように語っているあいだに、祭司たち、宮守がしら、サドカイ人たちが近寄ってきて、2:彼らが人々に教を説き、イエス自身に起った死人の復活を宣伝しているのに気をいら立て、3:彼らに手をかけて捕え、はや日が暮れていたので、翌朝まで留置しておいた。 4:しかし、彼らの話を聞いた多くの人たちは信じた。そして、その男の数が五千人ほどになった。

この1節にあります「彼が人々にこのよう語っているあいだに」というその「語って」いた内容は使徒行伝の31節から10節において、使徒ペテロと使徒ヨハネがエルサレムにある神殿の「美しの門」呼ばれる場所にいた生まれつき足が利かず、そのため歩けなかった男性を、イエス・キリストの名によって癒し、歩かせるという癒しの業についてです。

ペテロは、「この歩けなかった人を立たせ、歩かせるという癒しの業は、ペテロの信仰や力によってなされたわざではなく、イエス・キリスト様の信仰によるものだ」と言います。そしてこのお方は、「旧約聖書において預言された油注がれた王であり、祭司であり、また預言者であるお方であり、あなたがたイスラエルの民が十字架に磔け殺してしまったお方である。その十字架に磔られたイエス・キリスト様を神は死人の内より蘇らせられたのであり、私たちはその証人である」というのです。

使徒行伝を書いたルカの記述をみますと、どうやら、このようにイスラエルの民が十字架に磔けて殺したイエス・キリスト様が神によって死人の中から蘇らされたと言い広めているペテロとヨハネを、祭司たちや宮守がしら、サドカイ人たちは、快く思っていなかったようです。当然です。イエス・キリスト様を十字架に付けるように民衆を扇動したのは、まさしく、祭司たちや宮守がしら、サドカイ人たちであり、また役人や長老、律法学者や大祭司たちというイスラエルの民の中にあっては、有力者や権力者たちだったからです。

だから、ペテロやヨハネといったイエス・キリスト様の弟子たちが「あなたがたイスラエルの民が十字架に磔けて殺したイエス・キリスト様が神によって死人の中から蘇らされた」と言い広め、しかも男の数にして5千人の人が、そのペテロとヨハネの言う話を信じたというのですから、面白くないのは当り前だと言えます。だから2節にありますように、彼らはイライラと気をいらだたせ、ペテロとヨハネを捕らえて留置したのです。。

 それにしましても、ペテロが語る言葉を聞いて5千人もの男性が、その話を信じたというのは驚きです。ここでは男性で5千人というのですから、女性や子供を含むといったいどれぐらいの人が、ペテロの話を聞いて信じたのでしょうか。実際には万を超えていたのかもしれません。そう考えると、どのような語り方をすれば、それだけ多くの人が信じ受け入れるのだろうかと興味津々になります。

 もちろん、その背景には、彼らがイスラエルの民という神の選びの民であり、幼い時から聖書に親しみ、神を身近に感じることができる環境にあったということも影響しているでしょう。しかし、それ以上に、ペテロが使徒行伝、311節から26節で語った内容は、その直前の31節から10節までの歩くことができなかった人が歩けるようになったという癒しの出来事と結びついているからです。つまり、語る言葉と行いとが密接に結びついている言行一致した説教だったのです。

みなさん、どんなに良いことを語ったとしても行いが伴わなければ、その言葉は説得量を持ちません。それこそ、私たちの教会は今年の標語となるみ言葉として、ヨハネ第一の手紙318節の「子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか」という御言葉を掲げましたが、どんなに「教会が神は愛である」、「イエス・キリスト様は私たちを愛しえ下さっている」といっても、その教会が、たがいに愛し合うということ実践していなければ、その言葉は空しく響くだけなのです。

 しかし、ペテロが使徒行伝311節から26節までで語った説教は、あの歩けなかった人が歩き出すという実践が伴っていた。行いと真実とが伴った説教だったのです。だから、5千人以上の人、それこそ万を数えるであろう人が、そのペテロが語る説教、それは死人がよみがえるという人間の知性には荒唐無稽に聞こえるような話であっても、その話に耳を傾け、受け入れ、信じたのです。

 だから、祭司たちや宮守がしら、サドカイ人たちは苛立ちを隠せず、ペテロとヨハネとを捕らえ留置し、翌日には役人や長老、律法学者や大祭司たちの前にたたえるのです。それは、ペテロやヨハネといったイエス・キリスト様の弟子たちが、祭司たちや宮守がしら、サドカイ人たちをはじめとし、役人や長老、律法学者や大祭司たちに取って代わるかもしれない恐れがあるからです。

そのような恐れは、47節にあるペテロとヨハネを厳しく詰問する役人や長老、律法学者や大祭司たちの「あなたがたは、いったい、なんの権威、また、だれの名によって、このことをしたのか」という言葉の中に読み取れます。

 みなさん、先ほどから申し上げていますように、祭司たちや宮守がしら、サドカイ人たちをはじめとし、役人や長老、律法学者や大祭司たちは、イスラエルの民の間では、いわゆる権力者であり権力の側にいる人たちです。その人たちが、「あなたがたは、いったい、なんの権威、また、だれの名によって、このことをしたのか」と問い詰めるのです。

その背後には、自分たちこそがその権力を持つものだ。なのにいったい誰の断りを得て、勝手のそのようなことを言うのかといった響きを感じるのは私だけでしょうか。なんだか私には、役人や長老、律法学者や大祭司たちが「あなたがたは、いったい、なんの権威、また、だれの名によって、このことをしたのか」とすごんでいるように感じるのですが、みなさんはどう思われるでしょうか。

実際、ペテロは、使徒行伝の214節から36節を通し、また使徒行伝311節以降のペテロの説教において、ペテロはイエス・キリスト様がダビデの王位を継ぐ油注がれた王であり、大祭司であり、モーセに匹敵するモーセのような預言者であるということを、聖書によって論証しています。そこにはペテロの聖書解釈があります。しかし、この時代、聖書を解釈する権威は律法学者にありました。その律法学者の解釈によらず、ペテロはイエス・キリスト様こそ、来るべき王であり、来るべき大祭司であり、来るべき預言者であるキリストだというのです。

また、その説教をペテロが語った場所は神殿です。そしてその神殿を管轄する祭司たちにあって最高の権威を持つものが大祭司です。その大祭司に断りもなくペテロは神殿の中で説教をしている。それが、琴線に触れたのかもしれません。それに、大祭司というのは、原則として世襲であり、だからこそ大祭司の一族がこの場に呼び集められているのでしょうが、世襲制を飛び越えて、イエス・キリスト様こそがイスラエルの民に祝福に与らせる大祭司であるというのです。

もっとも、このイエス・キリスト様が大祭司であるという理解は、使徒行伝2章、3章にあるペテロの説教においては、直接的に言及されているわけではありません。それは、むしろ、このペテロの説教が語られた時よりもは、もっと後のへブル人への手紙に見られるものです。このへブル人への手紙における大祭司としてのイエス・キリスト様はメルキゼデクに等しい祭司であると言われています。

メルキゼデクというのは、サレムという国の王で、アブラハムに神の恵みがあるようにという祝福を与えた大祭司です。聖書はこのメルキゼデクのことを「いと高き神の大祭司」と言っています(創世記1413節から20節、口語訳聖書旧約p.15)。そのメルキゼデクに等しい祭司というへブル人への手紙の中に見られる考え方は、当然、使徒たちの語り伝えた教えを通して熟成されたものであります。

実際、読み込み過ぎと言われるかもしれませんが、使徒行伝326節において、ペテロが「神がまずあなたがたのために、その僕を立てて、おつかわしになったのは、あなたがたひとりびとりを、悪から立ちかえらせて、祝福にあずからせるためなのである」と言っている言葉の背後には、アブラハムに祝福を与えたサレムの王である大祭司メルキゼデクに等しい、神の王国の王であり大祭司であるイエス・キリスト様の姿が垣間見られているようにも思えるのです。

 いずれにせよ、ペテロやヨハネといった弟子たちが、大胆に語った「あなたがたが十字架に架けて殺したイエス・キリスト様というお方こそが、来るべき王であり、預言者であり、大祭司である」というメッセージは、イスラエルの民の秩序を成り立たせていた土台となる権力者構造を揺るがすものであったことは間違いがありません。それは、まさに使徒行伝411節の「このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである」という言葉が端的に示している。

 そのことを、祭司たちや宮守がしら、サドカイ人たちをはじめとし、役人や長老、律法学者や大祭司たちは、気づいているのです。だからこそ、「あなたがたは、いったい、なんの権威、また、だれの名によって、このことをしたのか」とすごむように詰問している。

 そして、それはこの時に始まったことではありませんでした。先ほど司式の兄弟にお読みいただいたマルコによる福音書1127節から33節の出来事においても、同じ問いががイエス・キリスト様に投げかけられているのです。

 このマルコによる福音書1127節では、同じくマルコによる福音書1115節から18節でイエス・キリスト様がエルサレムの神殿の庭で、神に奉げる犠牲の動物を売り買いしている人々や、またその売り買いのために使うお金に両替をする両替商を追い払ったという出来事の後に、祭司長たちや律法学者、長老たちがイエス・キリスト様のところにやって来て「何の権威によってこれらの事をするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか」と問いかけられています。

 神殿で両替をすること、あるいは神殿で捧げる犠牲の動物を売り買いすることは、祭司長たちや律法学者、長老たちが許可している事柄でした。しかし、イエス・キリスト様は、そういった一連の行為を、「『わたしの家は、すべての国民の祈の家ととなえらるべきである』と書いてあるではないか。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」といって、イエス・キリスト様は、それらの行為を咎め辞めさせるのです。

 みなさん、イスラエルの民は、自分たちが神の選び民であるということを、時間や空間を聖別することで示してきました。聖、すなわちきよいということは、神のものであるということです。つまり、自分たちが神の選びの民であるということをイスラエルの民は聖なる場所に集い、聖なる時を過ごすことで表してきました。

 そのために場所を聖別し、時間を聖別してきた。それが神殿という場所であり、安息日という時なのです。みなさん、私たちの教会でも、平日は講壇のある場所にロープを張り、そこを聖なる場所として場所を聖別します。また、聖日の礼拝の時を、聖なる時として重んじ、時の聖別をしています。それは、私たちが、イエス・キリスト様のもたらした新しい契約によって神の民とされたからです。ですから、礼拝の場は、「この世」の全てのものから離れ、神に近づき、神と交わり、神から与えられる恵みに与り、神の与え給う安息の時を喜ぶ聖なる空間であり聖なる時間なのです。

 そのような聖なる場所である神殿のきよさを損なってしまっているといって、イエス・キリスト様はその神殿をきよめる、宮清めの業をなさった。それは、そのように神殿の清さを損なう行為を許している、祭司長たちや律法学者、長老たちの権威を非難・否定し、イエス・キリスト様による新しい秩序をたてる行為です。まさに新しい秩序の土台としておられる。だから、祭司長たちや律法学者、長老たちは、「何の権威によってこれらの事をするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか」と問いかけるのです。

 その問いに対して、イエス・キリスト様は、見事な切り返しで祭司長たちや律法学者、長老たちを黙らせます。そのことを、祭司たちや宮守がしら、サドカイ人たちをはじめとし、役人や長老、律法学者や大祭司たちは経験しているのです。

ですから、「イエス・キリスト様は、イエス・キリスト様がダビデの王位を継ぐ油注がれた王であり、大祭司であり、モーセに匹敵するモーセのような預言者であったのだが、そのイエス・キリスト様をあなたがたが十字架に架けて殺した。しかし、その殺されたイエス・キリスト様を神は蘇らされた」というペテロに、「何の権威によってこれらの事をするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか」と問い、このイスラエルの民を支える権力や権威は私たちにあるのだと主張するのです。

 しかし、神の国の権威は、「この世」の権勢や能力によるのではないのです。それはただ、神の霊によるのです。先ほど私たちは旧約聖書のゼカリヤ書41節から10節の御言葉に耳を傾けました。ゼカリヤ書というのは、バビロンに奴隷として捉えられたイスラエルの民が、その奴隷という身分から解放され国を再建する物語です。

 その物語の最中にあって、この41節から10節は、そのイスラエルの国の再興、神殿の再建は人間の能力や力によって成し遂げられるのではなく、神によってもたらされる力によって成し遂げられるということを告げ知らせる天のみ使いの言葉です。まさに、神の国の土台となるかしら石は、人間の力や能力によって据えられるものではなく、ただ神の恵みとして据えられるのです。

 だからこそ、ペテロは、神「何の権威によってこれらの事をするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか」と問いながら、神の民の土台、イスラエルという神の国のを建て上げる土台は、私たち祭司たちや宮守がしら、サドカイ人たちをはじめとし、役人や長老、律法学者や大祭司たちの権威にあるのではないかと言う人々に、聖霊に満たされ、その聖霊の力に突き動かされて

11:このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである12:この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである

 というのです。それは、まさに神の救いの業である神の王国は、いかなる人の知恵や能力によるのでもなく、神が恵みとして私たちに与えてくださったイエス・キリスト様の信仰によってのみ打ち建てられるものであるということです。

 みなさん。私たちは今、この場所において神の王国の表れである教会を建て上げようとしています。この神の王国の表れである教会は、誰かの力や能力で建て上げられるものではありません。だから、そこに権威者などいないのです。誰かが中心となり、土台となって教会が建て上げられるのではない。当然、牧師だって権威者ではありません。

もし、私が牧師の権威というものを振りかざすようになったら、それは牧師としておしまいです。牧師は教会の権威でもなければ権力者ではない。それは、信徒の皆さんも同じです。教会を建て上げる土台となる権威は、ただイエス・キリスト様の名のほかにはないのです。

そして、私たちがこのイエス・キリスト様を見上げ、イエス・キリスト様に倣いつつ、言葉や口先でなく、真実とまことをもって愛し合うということが実践されていくとき、はじめて、教会は教会として、キリストの体なる教会として建て上げられていくのです。


そのことを、心に刻み込みながら、みなさん、イエス・キリスト様を土台とし、ただこのお方のみを教会の中心に置き、このお方に倣いながら歩もうではありませんか。お祈りします。

2019年01月20日 小金井福音キリスト教会 説教題「 さあ帰ろう 」

小金井福音キリスト教会 説教

聖書
・詩篇 第24章 1節 - 10節
・マルコによる福音書 第11章 14節 - 15節
・使徒行伝 第3章 17節 - 26節

説教題「 さあ帰ろう 」


私たちは、新しい年を迎えて以降、使徒行伝の3章から神の言葉に耳を傾けて言います。この使徒行伝の3章は1節から10節までが、ペテロが神殿の門の前にいた生まれつき足の効かない歩けない人をイエス・キリスト様の名によって癒したと言う物語から始まります。それは、ペンテコステと言う聖霊なる神がイエス・キリスト様の弟子たちの上に下って来るという出来事によって教会が建て上げられた後におきた、使徒たちによる最初の奇跡であったと言うことができます。

 この足の歩けなかった人が歩けるようになり、躍り上がり神をさんびしながら、ペテロたちと共に神殿に入って行ったという癒しの業は、神の王国と言う神の恵みが支配する国が、「この世」の中に始まったと言うことを示す出来事でもありました。もちろん、聖書では、しばしば「この世」という世界は、神に敵対し、神を締め出している世界であると言われていますから、神の恵みが支配する神の王国が始まったといっても、「この世」と言う世界がすべて神の王国に取って代わったわけではありません。

 教会と言う、イエス・キリスト様こそが、私たちをこの世の支配から救い出し、私たちを神の王国の民としてくださるお方であると信じ、イエス・キリスト様に寄り縋る者たちの群れの中に神の王国が始まったのです。

 みなさん、先ほど新約聖書マルコによる福音書の114節から15節をお読みいただきました。ここではイエス・キリスト様が宣教を始められた時の第一声が記されていますが、それは次のような言葉でした。すなわちイエス・キリスト様は「時は満ちた、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ」と言う言葉をもって、教えを語り、癒しの業を行い、人々を導く宣教の業を始められたのです。

 みなさん、私たちは福音というと、イエス・キリスト様の十字架の死が私たちの罪を償うための身代わり死であり、そのことを信じる者の罪が赦され救われると言うことであるとそう理解してきました。確かに、イエス・キリスト様の十字架の死が、私たちの罪に赦しをもたらすものであると言うことは間違いではありません。

 しかし、近年の聖書学の研究、とくにジェーム・ダンであるとかN.T.ライトといった学者たちによって、イエス・キリスト様が語られた福音の中心にあるものは、神の王国の到来を告げるものであったということが言われるようになってきました。そして、イエス・キリスト様の十字架の死がもたらす救いというのは、私たちが犯した罪を償い赦すと言うことよりも、むしろ私たちを支配している罪の支配から、私たちを解放し、神の恵みが支配する救いの業であると言うことが強調されるようになってきたのです。
 この私たちの犯した罪を償い赦すということと、私たちを支配する罪から私たちを贖い解放すると言うことは、非常に近い関係にありますが、しかし同じものであるというわけではありません。たしかに、私たちが犯した罪は赦されると言うことがなければ解決しない問題です。ですから、罪の赦しということは必要なことであり大切なことです。

 しかし、どんなに罪の赦しと言うことがあっても、私たちが罪の支配から解放されず、罪の支配の下に奴隷として置かれているならば、私たちは繰り返し罪を犯すのであり、問題は根本的に解決されません。私たちが罪の支配から解放されなければ、問題は根本から解決しません。

 しかし、イエス・キリスト様は、その罪の問題に根本から解決を与えてくださったのです。みなさん、あの使徒行伝の31節から10節までのペテロがイエス・キリスト様の名によって生まれつき歩けなかった人を癒すという癒しの物語をもう一度振り返って欲しいのです。

と申しますのも、先週も申し上げましたが、この生まれる気足の効かない歩けない男は、神殿の「美しの門」と言うところに毎日連れてきてもらい、そこで施しを求め、人々から施してもらったもので生計を立てていたからです。だから、ペテロとヨハネにも施しを求めたのです。

その施しを求めている人にいくらかの金銭を与えても、彼はそれを食い尽くしたならば、繰り返しまた施しを求めなければなりません。毎日毎日施しを乞い、与えてもらうと言うことが彼の目の前の問題でした。だから、この足の効かない生まれつき歩けない人は、自分を人目に付き、人々の注意を惹くように神殿の門のところに置いてもらっていた。

けれども、ペテロがこの男に与えたものは、「イエス・キリストの名によって歩きなさい」ということでした。つまり、この歩けない人の目のあえにある生きる糧を手に入れるというではなく、この人の苦しみや悲しみの大元にある生まれつき歩けないという、存在の根源にある問題の本質に分け入って、その問題の本質に解決を与えたのです。

みなさん、イエス・キリスト様の名による救いの業は、問題の本質を解決するであり、私たちの存在そのものを救う救いの業です。それは、私たちが犯した罪を償い赦すと言うこと以上に、私たちを罪に誘い、罪を犯させる罪の支配から解放し、神に立ち帰り、神に目を向けて生きる神の恵みが支配する神の王国に招き入れ、神の子として創造された私たちの命を回復し与えるという、私たちの存在そのものを救う救いの業なのです。まさに、イエス・キリスト様というお方は、神に背を向け、神との関係が立たれ神との関係において断絶し死んだものであったような人を神の前に再びよみがえらせ生すお方なのです。

みなさん、そのイエス・キリスト様が、十字架に磔られて死んだと言うことは、イエス・キリスト様のご生涯の中でとても大きな出来事です。その人生の歩みの頂点であると言ってもいいだろうことです。しかし、その十字架の死は、十字架の死として死に放しであったとしたら、無意味なものであったかもしれません。その十字架の死が、復活と言う出来事に結びついているからこそ、十字架の死がイエス・キリスト様の人性の歩みと頂点であると言うことができるのです。どうしてでしょう。

みなさん、私たちはしばしばイエス・キリスト様の十字架に死が私たちの罪の身代わりとなり私たちの罪を償うためであったと教えられてきましたし、そう考えてきました。たしかに、キリスト教の歴史の中で、とりわけカトリックおよびプロテスタントにおいてイエス・キリスト様の十字架の死をそのように捕らえてきた歴史があります。

しかし、同時に、イエス・キリスト様の十字架の死は、罪を償うと事以上に、「この世」を支配する悪魔に対する勝利であると言うとらえ方が、キリスト教会の中に古代からずっと受け継がれているのもまた事実です。まさに、イエス・キリスト様の十字架の死は、神に背き、神に背を向けさせようとする罪に対して、十字架の死にまで従順に従い生きると言うイエス・キリスト様の信実のゆえに、罪に対する勝利をもたらし、罪がもたらす死という結末にも勝利をもたらしたのなのです。

みなさん、この罪と死に対する勝利、それは神と人間の間にとげの様に刺さっていた問題に対する根本的な解決をもたらすものです。それは、断絶してしまっている神と人との関係を、和解の契約を基づいて再び結び合わせるものだからです。だから、この使徒行伝311節以降のパテロの説教においてペテロは、この足の効かない生まれつき歩けなかった人が歩けるようになったのは、あなたがたが殺してしまったあのイエス・キリスト様ではあるけれども、神が死人の中からよみがえらせたイエス・キリスト様の信実な信仰の故なのだということを強調して言うのです。

それは、まさに神の前に死んでしまっているものをよみがえらせ、神の民として癒し、立たしめる救いの業が、イエス・キリスト様によってもたらされたということです。そしてそれは、あの「時は満ちた、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ」と言うイエス・キリスト様の宣教の開始を告げる言葉が、この生まれつき歩かなかった人が癒やされ、躍り上がり賛美しながら神殿に入って行ったと言う物語を通して証されていると言えます。

ペテロは、そのことが実はイスラエルの歴史の中で繰り返し示されていたのだと言います。だから、悔い改めて本心に立ち帰りなさいというのです。この悔い改める(μετανοια)ということは、単に罪を後悔すると言うことではありません。自分自身の生き方の方向性を神向け、神を見上げながら生きて行く生き方への方向転換を意味しています。それが人間の本来あるべき姿なのです。

みなさん、聖書は私たち人間は神によって神の像が与えられ神に似るものとなるため創造されている。聖書の最初にある創世記1章にはそう書かれている。そう言った意味で私たちは神の子となるために、神によって造られているのです。その私たち人間が、神の前に死んだものとなっているのは、罪と言ったものが私たちにからみつき、私たちを支配しているからです。この罪に絡めとられて、私たちの神の子としての命は神の前に死んだものとなっているのです。肉は生きていても霊が死んでいる。

みなさん、私は昔、村上宣道牧師がへブル人への手紙121節の「いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか」という御言葉を用いながら、私たちに死をもたらす罪について語った言葉が実に印象深く残っています。

このとき村上宣道牧師は、この「からみつく罪」という言葉を、水にぬれた浴衣に譬えました。つまり、浴衣を着て水の中に入ると浴衣が体に、ぴたっとまつわりつき、からみついてくるようなものだというのです。みなさん、このように浴衣がからみついた状態で、仮に泳ごうとしても、とても泳げないません。ですから、どんなに泳ぎが上手な人でも、浴衣を着て泳ごうものなら、本当なら泳げる人も十分に泳げない。だから溺れ死ぬしかなくなってくる。なるほど罪とはそのように私たちにからみつき、いかに私たちが神のあえで生きようとしても、生かさせてくれないのです。そうやって私たちにからみつき、神の前で死んだもののようにするもの、それが罪というものだと言えます。

だからこそ私たちは罪の支配から解放されてなければならない。罪から解放されて神の王国の民とならなければ神の命、永遠の命に生きることができないのです。その私たちが、神の前に生き罪をぬぐい去っていただくために本心に立ち帰りなさいとペテロは言うのです。この言葉は重要です。なぜならば、ペテロは、自分自身で罪をぬぐい去れ(ξαλεφω)とは言ってません。むしろぬぐい去っていただきなさい(ξαλειφθναι)と言っている。

つまり、「からみつく罪」は、自分では脱ぎされないのです。だから、罪に勝利したイエス・キリスト様によってぬぐい去っていただければならないのです。そのために、私たちが本来あるべき神の王国に身を置く必要がある。神の王国に身を置く神の民となって、その私たちにからみつく罪に打ち勝たれた神の王国の王であるイエス・キリストに「からみつく罪」をぬぐい去っていただくこと、私たちもまた罪に打ち勝つものとなっていくことができるのです。

そのことを、神は旧約聖書の預言者を通し、またイスラエルの民の歴史を通してあなたがたに示してきたのだとペテロは語る。そしてその罪に打ち勝つ油注がれた王であり、大祭司であり、預言者であるイエス・キリスト様が、まさに「時が満ちた」といって「この世」に来られたのです。

それは、先ほど詩篇247節から8節でお読みいただいた

7:門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。8:栄光の王とはだれか。強く勇ましい主、戦いに勇ましい主である。 9:門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。 10:この栄光の王とはだれか。万軍の主、これこそ栄光の王である。

と歌われているさまであります。この詩篇24篇は、栄光の王、光輝く王が城門を通って城に入る様を謳い描いています。この王は、正しくお方で、神が造られた世界を秩序正しく治める王として描かれています。この王は、10節で「この栄光の王とはだれか。万軍の主、これこそ栄光の王であると言われていますから、神ご自身が王として神の王国を治めるために城の門をくぐられるという物語がそこにあります。それは、神の王国が築き上げられる物語なのです。

 その神の国が、イエス・キリスト様によってもたらされる。その時が満ち、神の国が到来したのです。それは、イエス・キリスト様が十字架の死に至るまで神に従順に従い抜いた生き方の中に築き上げられたものです。そのお方が、王として私たちを守り、祭司として私たちと神との間にあって執成しをしてくださり、預言者として私の歩みを導き祝福をもたらしてくださるとペテロは、この使徒行伝311節から始まる説教を通して語り、彼の言葉に耳を傾ける人、あなたがたは本来は神の契約の民なのだから、その本来あるべき神の契約の中で、契約の子、すなわち神の民として生きるものなのだと訴えている。

 みなさん、私たちは今、このペテロの説教が語る言葉の前に立たされています。イエス・キリストというお方は、十字架の死によってすべての人に新しい契約をもたらしてくださった。そして、神の創造の業において、神の像が与えられ神に似た神の似姿となる生き方へ私たちを招いてくださっているのです。

 だからこそ、私たちは本来あるべき姿に立ち帰ろうではないですか。神が私たちを、創造の秩序の中で、正しいものとしてくださっている。清いものとしてくださっている。神を愛し、人を愛し、神のお造りになった自然を愛するものとしてくださっているのです。


お祈りましょう。

2019年1月13日日曜日

2019年01月13日 小金井福音キリスト教会 説教題 「 キリストの信実のゆえの 」

2019年01月13日 小金井福音キリスト教会 説教

聖書
・出エジプト記 第2章 23節 - 25節
・マルコによる福音書 第14章 22節 - 25節
・使徒行伝 第3章 11節 - 16節

説教題 「 キリストの信実のゆえの 」


 今日の礼拝説教の中心箇所は使徒行伝311節から16節です。この箇所は、同じ使徒行伝の3110節にあるペテロが足の効かない人を癒し、歩けるようにしたと言うことを受けて、ペテロがその出来事を見た人々に向かって語った説教の一部分です。

このペテロの説教は、神がモーセを用いて、エジプトに奴隷になっていたイスラエルの民をお救いになったと言う神とアブラハムの間に結ばれた契約や、出エジプトの出来事といったイスラエルの民の歴史が下敷きにあると考えられます。後程詳しくお話ししますが、13節の「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました」と言う表現や、22節の「モーセは言いました。『あなたがたの神である主は、あなたがたの同胞の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。彼が語りかけることには、何でも聞き従え』」と言った表現は、このペテロの説教の背後に、イスラエルの民の歴史の中に表された神の救いの物語があることをうかがわせる表現であると言えます。

ペテロは、ペテロの説教を聞くイスラエルの民に、イスラエルの民の歴史の中に語り伝えられた神の救いの物語を思い起こさ出ながら、あなたがたが十字架に架けて死なせたイエス・キリスト様こそが、神の救いの歴史を完成するお方であると言う語っているのです。 
ですから、本当なら説教全体を取り上げるべきなのでしょうが、私は今日の説教に当たるにあたって、二つの理由から、11節から16節までからお話しすることにしました。その二つの理由というのは、一つは、個人的に、今年からできるだけ説教を短くしたいという私の思いです。私の説教は時間に大体40分から50分ぐらいです。ですから、他の人と比べても決して短くはない。そんなわけで、今年は少し短くしたいという思いもあり、説教で取り扱う聖書範囲を短くしました。

 しかし、それ以上に大きな理由、それが二つ目の理由ですが、この箇所には、キリスト教の信仰にとって、とりわけプロテスタントの教会にとって、極めて重要なことが語られているからです。じゃあ、その極めて重要なことはなにかというと、それは信仰と恩寵の関係です。ことが、12節の

   これを見たペトロは、民衆に言った。「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか。

と言う言葉や、16節の

   あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。

と言う言葉の中にあらわれている。

 みなさん、ペテロが「なぜこのことに驚くのですか」というこの驚くことは、1節から10節にある、足の効かない男性にペテロが「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」といって、その男性の手を取り、立たせて歩くことができるようにしたと言う出来事です。この出来事を見た人は卒倒しそうになるぐらい驚いた。

 実際、口語訳聖書には驚き怪しんだと10節に書いてありますが、最も新しい日本聖書協会共同訳では「驚いて、卒倒しそうになった」と訳していますし、新改訳2017では「ものも言えないほど驚いた」とありますから、その驚きがどんなに大きなものかわかります。

 そのように、卒倒しそうなほど驚いている人々に向かって、ペテロは「イスラエルの人たちよ、なぜこの事を不思議に思うのか。また、わたしたちが自分の力や信心で、あの人を歩かせたかのように、なぜわたしたちを見つめているのか」と問いかけます。

 この問いかけは大切です。なぜならば、私たちは私たちが出会う様々なことの原因を私たち人間の側に求めるからです。それは信仰の一緒です。私たちはしばしば断食や真剣な祈りが、祈りの答えを生み出すかのように思う。また、熱心な伝道が実りを生み出すかのように語ったりすることがある。それは因果応報のように、ことの結果は私たちの側の態度や信仰にあると言う態度と実は同じことなのです。

 みなさん、この時ペテロは、二つの「なぜ」と言う言葉をペテロの周囲にいて、この足の効かず歩けなかった人が「イエス・キリストの名によって」歩き始めお踊り出した癒しの奇跡を見ていた人々に投げかけています。

 一つは、「なぜ驚くのか」という問いであり、もう一つは、「なぜ、私たちをみているのか」かという問いです。しかし、「なぜ驚くのか」と言われてもこまります。卒倒しそうなほどのことを目の当たりにしたのですから、驚くのは当たり前です。「なぜ、わたしたちが自分の力や信心で、あの人を歩かせたかのように、わたしたちをみつめているのか」と言われたって、足の効かない男性の手を取り立ち上がらせ、歩き躍らせたのはペテロです。ペテロを凄い人だと思い注目するのは、当然のことです。いずれも、ごく自然なことであり、当たり前に思えることです。

 そのごく自然で当たり前のことを、あえて「なぜ」と問うたのは、それが当たり前のことではなく、みんなが考えているようなことではないからです。おそらく、この時に周りにいた人々はペテロの、ペテロが、この足の効かない男性の癒しが、神の恵みの業であったとしても、それを引き起こしたのは、ペテロの信仰であり、神の熱心な信仰のゆえにやみがめぐんでくださったのだと考えたのでしょう。ペテロは、この癒しの業が人間の側の信仰にあるのではなく、イエス・キリストの信仰にあるのだということを明らかにするために、あえて「なぜ」と言う問いかけを投げかけ、あなたがたが十字架に架けたイエス・キリスト様の信仰が、この足の効かない男性を癒したのだと言うのです。

 私たちがイエス・キリスト様を信じる信仰ではなく、イエス・キリスト様が神に対して持っておられた信仰が、神の恵みを引き起こすのだというのです。つまり、神が私たちを恵み、あわれんで下さる原因は、私たちの側・私たちの内にはなく、ただイエス・キリスト様の内に在るのだと言うのです。 
 それは、あたかも出エジプトという神の救いの業、神の恵みの業の出来事と同じようです。さきほど司式の兄弟にお読みいただいた出エジプト記223節から25節(旧約聖書76頁)は、神がイスラエルの民を彼らを奴隷として支配し治めていたエジプトから救い出し、彼らの故郷であるカナンの地へ連れ帰ろうと思われた動機が記されています。そこにはこうあります。

神は彼らのうめきを聞き、神はアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を覚え、 神はイスラエルの人々を顧み、神は彼らをしろしめされた。

ここでいわれていることは、神がイスラエルの民をエジプトから救い出されるのは、イスラエルの民が、自分の罪を神に言い表し、罪を悔い、熱心に救いを祈り求めたからではありません。神が、アブラハム、イサク、ヤコブと結ばれた契約のゆえに、神はイスラエルの民を顧み、知ろしめられたと聖書は言うのです。

アブラハム、イサク、ヤコブと結ばれた契約というのは、創世記174節の神とアブラハムに結ばれた契約が基となっています。その契約とはアブラハムが神の約束の言葉を信じ、神の言葉に従うことによって結ばれた契約で、神はアブラハムの子孫を与え、その子孫が多く増え、神はアブラハムと彼の子孫の神となるという契約です。そのアブラハムの契約が、イサク、ヤコブと受け継がれ、その子孫であるエジプトに奴隷としているイスラエルの民にも及んでいるのです。それは、神は約束に信実な方だからです。 
だから、アブラハムの子孫であり、アブラハムの契約を受け継ぐイスラエルの民を神は顧み城しめられるのです。つまり、アブラハムの神に対する信実、それを聖書では信仰と言うのですが、そのアブラハムの信仰が、彼の子孫のイスラエルの民を救うのです。それと同じように、イエス・キリスト様の信実が、この足の効かない男性を、彼の苦しみと苦悩から救い、私たちを救うのです。

みなさん、奇しくもペテロは、この使徒行伝311節からの説教で、イエス・キリスト様について「アブラハム、イサク、ヤコブの神、私たちの先祖の神は、その僕イエスに栄光を賜ったのであるが」と言っています。それは、アブラハムの信仰による契約の基づく祝福が、その子イサクへ、そしてイサクの子ヤコブへと受け継がれイスラエルの民を造り上げて行ったようにイエス・キリスト様の信実によってもたらされた契約が、イエス・キリスト様につながるものに祝福をもたらすのです。 
その意味でみなさん、イエス・キリスト様の信仰、それは十字架の死に至るまで神に従順であられたイエス・キリスト様の信実が、新しい契約を私たちにもたらします。そうです。私たちは先ほど新約聖書のマルコによる福音書1422節から25節(新約聖書口語訳.76から77頁)の言葉に耳を傾けました。それは最後の晩餐の席での言葉ですが、そこにおいてイエス・キリスト様は、パンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えてこう言われたのです。

「取れ、これはわたしのからだである」。 23また杯を取り、感謝して彼らに与えられると、一同はその杯から飲んだ。 イエスはまた言われた、「これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である。

 この裂かれたパンと杯に注がれたぶどう酒がイエス・キリスト様の十字架の死を示していることは間違いありません。そして、その十字架の死は、イエス・キリスト様が死に至るまで神に従い抜いて生きた証であり、イエス・キリスト様の神に対する信実です。その真実が、新しい契約をもたらしたのです。その契約は、イエス・キリスト様の名を信じる者を新しい神の民として迎え入れるます。神の恵みの支配の中で私たちを生かすのです。
 そのイエス・キリスト様の信実に基づく契約がもたらす恵みと祝福は、まさにイエス・キリスト様の信実の故です。私たちの信仰の内に、私たちの熱心さの内にその祝福をもたらす原因があるのではない。ただイエス・キリスト様の信実が私たちを救うのです。
 そのことが、、足の効かない男性にペテロが「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」といって、その男性の手を取り、立たせて歩くことができるようにしたと言う人々が卒倒しそうになるほど驚いた出来事の背後にあるものです。だからこそ、ペテロは、16節で

あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その 名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。

と言うのです。

 みなさん、神の恵みと祝福は、私たちの熱心な信仰がもたらすのではありません。私たちの熱心な祈りや奉仕によって、神は私たちを顧み、憐れみ、恵みを与えてくださるのではない。神の恵みと憐みとは、ただイエス・キリスト様の信実がそれを私たちにもたらされるのです。 
もちろんだからと言って、私は熱心な信仰を否定しているのではないのです。私が否定しているもの、そして聖書が否定しているものは、自分自身の願いや求めのための熱心になる信仰は、神の恵みも祝福ももたらさないといっているのです。 
そうでしょ。あの足の効かない男性が神殿の「美しの門」のところで求めたいたのは施しです。おそらく熱心に施しを求めて乞うていたのでしょう。しかし、ペテロはその男性に「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」と言って、その男明日性が求めた金銭ではなく、しかし、その男性にとって本当に必要なものを与えたのです。 
しかも、それは男性の熱心さでもなく、ペテロの信仰の強さ、信仰の深さの故でもなく、イエス・キリストの信実がもたらす神の恵みであり、祝福であり、あわれみがもたらすものだったのです。

みなさん、信仰の熱心さや、信仰深さや信仰の強さというものは、自分自身のために向けられるものではありません。むしろそれは、私たちに必要なものを与えてくださるイエス・キリスト様の信実を信じることに熱心になり、神のお心に生きることに向けられるべきものです。 

そうです、みなさん私たちが神と共に生き、神に喜ばれるものとしてい生きることに熱心である信仰の熱心さは決して否定さえるものではありません。それは本当に貴いものです。ですから、私たちに本当に必要な恵みや祝福や憐みを与えるイエス・キリスト様の信実を信じ、神と共に生き、イエス・キリスト様と共に生きる者になろうではありませんか。お祈りしましょう。

2019年01月06日 小金井福音キリスト教会 説教題 「 思いやる心 」

2019年01月06日 小金井福音キリスト教会 説教

聖書
・申命記 第15章 7節 - 11節
・マタイによる福音書 第11章 2節 -  6節
・使徒行伝 第3章 1節 - 10節

説教題 「 思いやる心 」




 アドベントからクリスマスまでの4週間の時期を終え、年末年始を迎え、今日は2019年の最初の礼拝です。今日から、レントの時に入るまでの約3か月間は、今まで通り、使徒行伝からの連続説教に戻ります。

 今日の説教の中心となる箇所は、使徒行伝31節から9節までですが、一か月以上間が空いてしましました。そこで、もう一度ここまでの流れをサクッと振り返っておきますと、使徒行伝は、十字架に架かって死なれたイエス・キリスト様が三日目によみがえった後、40日にわたって、たびたび弟子たちに現れて神の国について語られたと言うことから始まります。

 40日間にわたって神の王国について語られたと言うことは、イエス・キリスト様が本当に弟子たちに伝えたかった内容は神の王国についてであり、イエス・キリスト様がこの世にもたらそうとしたものは、まさにイエス・キリスト様を油注がれた王とする神の王国であったと言うことができるでしょう。そのイエス・キリスト様のもたらそうとした神の王国は、神の恵みが支配するところであり、イエス・キリスト様が天に昇られた後に、イエス・キリスト様の体なる教会として、世界中に広がっていくものです。

 このイエス・キリスト様が天に昇られると言うことは、その行為自体がイエス・キリスト様が神であり穂とであるお方であると言うことを象徴的に示すものであると同時に、「この世」にもはや肉体をもって存在していないと言うことを私たちに示すものでありました。そのイエス・キリスト様の昇天と言う出来事に後にキリストの体なる教会が世界中に建て上げられていくのですが、そのためには、イエス・キリスト様のことが伝えられ、証される必要がある。その意味では、使徒行伝全体は、キリストお体なる教会が建て上げられていく大きな物語であると言えます。

その働きのために弟子たちは召し出され、その働きに遣わされていくのですが、主なる神も、また主イエスキリスト様もただ「行け」といって号令をかけ、弟子たちを駆り立て、押し出していくのではありません。ちゃんと助け主であり真理の御霊である聖霊なる神を遣わして下さり、何を語り、以下に教会を建て上げていくのかを導き支えてくださるのです。

その聖霊なる神が、天から下り神を信じる民に与えられたと言う出来事が、ペンテコステと言う出来事でした。それが、イエス・キリスト様が昇天なさった後に起こった。そして、その聖霊なる神様を受け取った弟子たちは、大胆にイエス・キリスト様のことを語り始めたと言うのが、使徒行伝1.2章のサクッとした流れでした。まさに、このペンテコステの出来事から、この世界に神の王国のこの世の表れである教会が建て上げられ始めたのです。

その中で、今日の聖書個所の使徒行伝31節から10節までの出来事が起こるのです。それはまさに、これからキリストのからだなる教会が世界に広がっていこうとする矢先の出来事ですが、事の次第は、概ね次のような出来事です。

あるとき、ペテロとヨハネが祈ろうとして神殿に向かっていました。聖書はそれは午後の3時の祈りのためであったと告げています。みなさん、敬虔なユダヤ人たちは、一日に3度特別な祈りの時を持っていました。最初は午前9時ごろ、次が昼の12時、そして最後が午後3時です。ですから、ペテロとヨハネはこのユダヤ人のしきたりに従って祈るために神殿に向かっていたのです。

こうして見ますと、教会が建て上げられ始めた当初、イエス・キリスト様の弟子たちは、当時のユダヤ教と決別していたわけではなかったことが分かります。むしろ、キリスト教徒ユダヤ教が分かれるきっかけとなったのは、当時のユダヤ教のラビや律法学者と言った人々の方が、イエス・キリスト様の弟子たちを阻害し迫害していく中で起こったと言えます。そのような中で、生まれながら足のきかない男性をペテロが癒やすという出来事が起こるのです。

 この生れながらに足のきかない男性は、美しの門と言うところに置かれて毎日施しを求めていたようです。「美しの門」と言うのは、神殿の中で、ユダヤ人だけが入ることの出来る場所に入るためのある三つの門の中で正面の門に当たる東側の門です。そこにこの足の聞かない男性は置かれていたというのです。

 置かれる(τιθημι)と言う言葉は、いかにも物を置くがごとき響きがあり衝撃的ですが、いろいろと調べてみますと、この置くと言う意味を持つギリシャ語のτιθημι言葉を、ユダヤ人たちにとって「人の注意をひく」とか「心にとどめる」と言うニュアンスがあるようですので、それこそ、祈りために来ていた人々の注意を惹き、そして施しを受けるために、「美しの門」のところに連れてきてもらっていたようです。

 その男性が、ペテロよヨハネに施しを乞うたのです。もちろん、この男性が期待していたのは、いくらかの金銭が施されることだったのでしょう。そのような期待をもって、この足の聞かない男性は、ペテロとヨハネをじっと見ていたと言うのです。

 しかし、その時ペテロは、施しを乞う男性に向かって「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう、ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」といって、この足のきかない男性の手を取り、立ちあがらせると、それまで歩けなかった足が癒やされ歩けるようになったと言うのです。そして、大喜びで神を賛美し、ペテロとヨハネと共に神殿に入っていたというのです。当然、その出来事を見た人たちに、大きな驚きをもたらします。そしてこの出来事を見た人は驚き怪しんだと言うのです、これが、この使徒行伝31節から10節に記された出来事の大まかな流れです。

 この物語は、確かにペテロによる癒しの物語です。しかし、使徒行伝が、イエス・キリスト様が「この世」にもたらした神の王国であるキリストの体なる教会が建て上げられていくありさまが記されていると言うことを考えますと、このぺテロの癒しの物語は、単に病が癒やされたと言う問題に留まりません。

 むしろ、神の王国がこの世にもたらされ、ペテロたちによって、それが広がっていくのだと言うことを示す物語であると言って良い。というのも、ペテロは、この足のきかない男性を癒す時、「ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」と言ってウやしているからです。

 みなさん、私はここ最近、繰り返し言っていますので、このキリストと言う言葉が、当時のユダヤ人にどんな響きを持っていたかについては、耳にたこができているかもしれませんが、今日も繰り返し言いますが、キリストと言う言葉は「油注がれた王」と言う意味を指しています。つまり「あなたが神の王国の民であるならば、その神の王国の王であられるイエス様が、あなたに立って歩きなさいと言っておられるのだから、さあ立って歩いて御ごらんなさい」とペテロは言っているのです。

 つまり、この癒しの出来事は、神の王国に生きる神の民にもたらされる恵みが示されているのです。実際、先ほど司式の兄弟にお読みいただいたマタイによる福音書112節から6節において、イエス・キリスト様自身が、バプテスマのヨハネから「あなたは来るべき方(キリスト)ですか、」とたずねられた時、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」とそうお答えになり、これらのことが実際に起こっている。それこそが、私がキリスト、来るべき神の王国が到来したことの徴であることの証であるというとお示しになっておられるのです。

 みなさん、ここであげられている「目が見えない人」や「足の不自由な人」、あるいは「重い皮膚病を患っている人」というのは、私たち人間が負う苦悩です。それこそ、自分ではどうしようもない肉体に負った病や障害です。死というものも、私たちには抗えない悲しい現実です。それらは、私たちの存在の根底を揺るがすような苦悩です。そう言った苦悩にある人々をイエス・キリスト様はお癒しになって行かれた。まさにそれは、神の王国の到来は、私たちの存在の根底を揺るがす苦悩に救いをもたらし、その苦しみから私たちを解放するのです。

 人間が人間として阻害され、人間が人間として扱われないような苦しみをもたらす苦悩から、イエス・キリスト様は私たちを救い、この悲しみや苦悩を癒してくださるお方なのです。それは、父なる神のお心です。

 私たちは先ほど申命記151節から6節は7年ごとに訪れる安息年で行われる解放の業が記されています。そこに記されていることは、この7年ごとに訪れる安息年には、隣人に貸した貸主はその借金をゆるさなければならないと言うことです。逆に言えば、金を借りた借り手は、その借金を介さなくていいと言うことです。つまり借金から解放されるのです。

 それは、お金の借り貸しの問題だけではない、奴隷として売られてきた人も、6年間働いたら、7年目には自由にして解放してやりなさい、また手ぶらで去らせてはならない、家畜の群れから、また穀物の内場から、そしてぶどう酒の酒ぶねから、相応のものを分け与えなければならないということが、同じ1512節以降に書いてあります。

 それは、神の民は、神によって「この世」から解放され、罪の支配から解放され、神の恵みの支配の中に置かれているからです。だからその恵みを分け合いなさいという。お金や支配と言ったものから人を縛り付けている悲しみや苦悩ものから解放し、人間が人間らしく生きるようにと神は私たちのことを思いやって下さっている。その神の思いやりが、この申命記に記された安息年の規定の根底に流れ、人々を解放し本来のあるべき姿へと導いていくているのです。そして、そのような神の思いやりに支えられた世界には、もはや貧しい者はいないとさえ神は言われる。

 みなさん、イエ・キリスト様が「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」と言われたとき、まさにそのような神の思いやりに満ちた世界が、イエス・キリスト様によってもたらされているのだというのです。
 そのイエス・キリスト様の言葉を思い出させるかのように、ペテロは「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう、ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」といって、施しを求めてきた足の聞かない男性を立たせ歩かせるのです。

 彼は、金銭を求めてきた。生活しなければならないからです。しかし、この人の抱えていた問題本質、苦悩の本質は足が利かないことにありました。今、ここでペテロとヨハネからいくばくかの金銭をほどこされてこの男性の問題と苦悩は解放されません。それは、何日かの生活をしのがせるかもしれません。しかし、この男は、その何日かがすぎれば、また再びあの「美しの門」の前で、自分自身の姿をさらして人目を惹き、施しを受けなければならないのです。だから、彼は毎日、「美しの門」の前に置かれていたのです。

 みなさん、この足の利かない男性の問題の本質は、まるで見世物のようにして人目を聴くことで施しを乞うと言う、人間の尊厳性を欠くような非人間的な扱いの中で生きていることであり、本当の問題の解決は、その人間としての尊厳性を回復するところにある。イエス・キリスト様が、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」と言われたその言葉は、まさに人が人としての尊厳性が回復され、一人の人として大切にされる神の王国がイエス・キリスト様によってもたらされているのだということであり、単に癒しの業が起こっていると言うことを述べているのではないのです。

 確かに、イエス・キリスト様は力あるお方です。だから癒しの業も起こって来るし、奇跡だって起こる。そしてその力ある業に人々は驚きます。しかし、大切なのは、嫌仕業それ自体にあるのではない。イエス・キリスト様が「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」と言う言葉の真意は、まさに神の王国が始まったのだと言うことを宣言する言葉であり、ペテロがキリストの体なる教会という神の王国の「この世」での表れである教会が世界中に建て上げられていく物語を語る使徒行伝で「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう、ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」といって、施しを求めてきた足の聞かない男性を立たせ歩かせた出来事もまた、神の王国の表れを伝える出来事として聖書に記されているのです。

 みなさん。私たちの教会は、今年の指針となる御言葉としてヨハネ第一の手紙318節の「子たちよ。わたしたちは言葉や口先で愛するのではなく、行いと真実をもって愛しあおうではないか」と言う言葉を掲げました。

 それは、私たちが具体的に行いと真実をもって愛し合う具体的な教会の歩みをしていくことで、ペテロが「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう、ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」といって、施しを求めてきた足の聞かない男性を立たせ歩かせたように、教会の中で、一人一人が尊厳ある大切な一人として扱われることで、私たちを愛し、私たちを人間として人間らしく生かしてくださる神の愛と思いやりを、「この世」と言う世界に向かって示していくことなのです。

 そのことを覚えながら、みなさんと共に、この一年間を共に歩んでいきたいと思います。お祈りしましょう。