小金井福音キリスト教会 説教
聖書
・ゼカリヤ書 第4章 1節 - 10節
・マルコによる福音書 第11章 27節 - 33節
・使徒行伝 第4章 1節 - 12節
説教題「 キリストの名の外なし 」
今日の聖書個所である使徒行伝4章1節から12節は、使徒ペテロが役人や、長老、また律法学者や大祭司などを前に行った弁明が記さされている箇所です。
ペテロが、役人や、長老、また律法学者や大祭司といった、いわばイスラエルの民の中の権力者を前に弁明をしなければならなくなったいきさつは、4章の1節から4節に記されている通りです。そこにはこのように記されています。
1:彼らが人々にこのように語っているあいだに、祭司たち、宮守がしら、サドカイ人たちが近寄ってきて、2:彼らが人々に教を説き、イエス自身に起った死人の復活を宣伝しているのに気をいら立て、3:彼らに手をかけて捕え、はや日が暮れていたので、翌朝まで留置しておいた。 4:しかし、彼らの話を聞いた多くの人たちは信じた。そして、その男の数が五千人ほどになった。
この1節にあります「彼が人々にこのよう語っているあいだに」というその「語って」いた内容は使徒行伝の3章1節から10節において、使徒ペテロと使徒ヨハネがエルサレムにある神殿の「美しの門」呼ばれる場所にいた生まれつき足が利かず、そのため歩けなかった男性を、イエス・キリストの名によって癒し、歩かせるという癒しの業についてです。
ペテロは、「この歩けなかった人を立たせ、歩かせるという癒しの業は、ペテロの信仰や力によってなされたわざではなく、イエス・キリスト様の信仰によるものだ」と言います。そしてこのお方は、「旧約聖書において預言された油注がれた王であり、祭司であり、また預言者であるお方であり、あなたがたイスラエルの民が十字架に磔け殺してしまったお方である。その十字架に磔られたイエス・キリスト様を神は死人の内より蘇らせられたのであり、私たちはその証人である」というのです。
使徒行伝を書いたルカの記述をみますと、どうやら、このようにイスラエルの民が十字架に磔けて殺したイエス・キリスト様が神によって死人の中から蘇らされたと言い広めているペテロとヨハネを、祭司たちや宮守がしら、サドカイ人たちは、快く思っていなかったようです。当然です。イエス・キリスト様を十字架に付けるように民衆を扇動したのは、まさしく、祭司たちや宮守がしら、サドカイ人たちであり、また役人や長老、律法学者や大祭司たちというイスラエルの民の中にあっては、有力者や権力者たちだったからです。
だから、ペテロやヨハネといったイエス・キリスト様の弟子たちが「あなたがたイスラエルの民が十字架に磔けて殺したイエス・キリスト様が神によって死人の中から蘇らされた」と言い広め、しかも男の数にして5千人の人が、そのペテロとヨハネの言う話を信じたというのですから、面白くないのは当り前だと言えます。だから2節にありますように、彼らはイライラと気をいらだたせ、ペテロとヨハネを捕らえて留置したのです。。
それにしましても、ペテロが語る言葉を聞いて5千人もの男性が、その話を信じたというのは驚きです。ここでは男性で5千人というのですから、女性や子供を含むといったいどれぐらいの人が、ペテロの話を聞いて信じたのでしょうか。実際には万を超えていたのかもしれません。そう考えると、どのような語り方をすれば、それだけ多くの人が信じ受け入れるのだろうかと興味津々になります。
もちろん、その背景には、彼らがイスラエルの民という神の選びの民であり、幼い時から聖書に親しみ、神を身近に感じることができる環境にあったということも影響しているでしょう。しかし、それ以上に、ペテロが使徒行伝、3章11節から26節で語った内容は、その直前の3章1節から10節までの歩くことができなかった人が歩けるようになったという癒しの出来事と結びついているからです。つまり、語る言葉と行いとが密接に結びついている言行一致した説教だったのです。
みなさん、どんなに良いことを語ったとしても行いが伴わなければ、その言葉は説得量を持ちません。それこそ、私たちの教会は今年の標語となるみ言葉として、ヨハネ第一の手紙3章18節の「子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか」という御言葉を掲げましたが、どんなに「教会が神は愛である」、「イエス・キリスト様は私たちを愛しえ下さっている」といっても、その教会が、たがいに愛し合うということ実践していなければ、その言葉は空しく響くだけなのです。
しかし、ペテロが使徒行伝3章11節から26節までで語った説教は、あの歩けなかった人が歩き出すという実践が伴っていた。行いと真実とが伴った説教だったのです。だから、5千人以上の人、それこそ万を数えるであろう人が、そのペテロが語る説教、それは死人がよみがえるという人間の知性には荒唐無稽に聞こえるような話であっても、その話に耳を傾け、受け入れ、信じたのです。
だから、祭司たちや宮守がしら、サドカイ人たちは苛立ちを隠せず、ペテロとヨハネとを捕らえ留置し、翌日には役人や長老、律法学者や大祭司たちの前にたたえるのです。それは、ペテロやヨハネといったイエス・キリスト様の弟子たちが、祭司たちや宮守がしら、サドカイ人たちをはじめとし、役人や長老、律法学者や大祭司たちに取って代わるかもしれない恐れがあるからです。
そのような恐れは、4章7節にあるペテロとヨハネを厳しく詰問する役人や長老、律法学者や大祭司たちの「あなたがたは、いったい、なんの権威、また、だれの名によって、このことをしたのか」という言葉の中に読み取れます。
みなさん、先ほどから申し上げていますように、祭司たちや宮守がしら、サドカイ人たちをはじめとし、役人や長老、律法学者や大祭司たちは、イスラエルの民の間では、いわゆる権力者であり権力の側にいる人たちです。その人たちが、「あなたがたは、いったい、なんの権威、また、だれの名によって、このことをしたのか」と問い詰めるのです。
その背後には、自分たちこそがその権力を持つものだ。なのにいったい誰の断りを得て、勝手のそのようなことを言うのかといった響きを感じるのは私だけでしょうか。なんだか私には、役人や長老、律法学者や大祭司たちが「あなたがたは、いったい、なんの権威、また、だれの名によって、このことをしたのか」とすごんでいるように感じるのですが、みなさんはどう思われるでしょうか。
実際、ペテロは、使徒行伝の2章14節から36節を通し、また使徒行伝3章11節以降のペテロの説教において、ペテロはイエス・キリスト様がダビデの王位を継ぐ油注がれた王であり、大祭司であり、モーセに匹敵するモーセのような預言者であるということを、聖書によって論証しています。そこにはペテロの聖書解釈があります。しかし、この時代、聖書を解釈する権威は律法学者にありました。その律法学者の解釈によらず、ペテロはイエス・キリスト様こそ、来るべき王であり、来るべき大祭司であり、来るべき預言者であるキリストだというのです。
また、その説教をペテロが語った場所は神殿です。そしてその神殿を管轄する祭司たちにあって最高の権威を持つものが大祭司です。その大祭司に断りもなくペテロは神殿の中で説教をしている。それが、琴線に触れたのかもしれません。それに、大祭司というのは、原則として世襲であり、だからこそ大祭司の一族がこの場に呼び集められているのでしょうが、世襲制を飛び越えて、イエス・キリスト様こそがイスラエルの民に祝福に与らせる大祭司であるというのです。
もっとも、このイエス・キリスト様が大祭司であるという理解は、使徒行伝2章、3章にあるペテロの説教においては、直接的に言及されているわけではありません。それは、むしろ、このペテロの説教が語られた時よりもは、もっと後のへブル人への手紙に見られるものです。このへブル人への手紙における大祭司としてのイエス・キリスト様はメルキゼデクに等しい祭司であると言われています。
メルキゼデクというのは、サレムという国の王で、アブラハムに神の恵みがあるようにという祝福を与えた大祭司です。聖書はこのメルキゼデクのことを「いと高き神の大祭司」と言っています(創世記14章13節から20節、口語訳聖書旧約p.15)。そのメルキゼデクに等しい祭司というへブル人への手紙の中に見られる考え方は、当然、使徒たちの語り伝えた教えを通して熟成されたものであります。
実際、読み込み過ぎと言われるかもしれませんが、使徒行伝3章26節において、ペテロが「神がまずあなたがたのために、その僕を立てて、おつかわしになったのは、あなたがたひとりびとりを、悪から立ちかえらせて、祝福にあずからせるためなのである」と言っている言葉の背後には、アブラハムに祝福を与えたサレムの王である大祭司メルキゼデクに等しい、神の王国の王であり大祭司であるイエス・キリスト様の姿が垣間見られているようにも思えるのです。
いずれにせよ、ペテロやヨハネといった弟子たちが、大胆に語った「あなたがたが十字架に架けて殺したイエス・キリスト様というお方こそが、来るべき王であり、預言者であり、大祭司である」というメッセージは、イスラエルの民の秩序を成り立たせていた土台となる権力者構造を揺るがすものであったことは間違いがありません。それは、まさに使徒行伝4章11節の「このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである」という言葉が端的に示している。
そのことを、祭司たちや宮守がしら、サドカイ人たちをはじめとし、役人や長老、律法学者や大祭司たちは、気づいているのです。だからこそ、「あなたがたは、いったい、なんの権威、また、だれの名によって、このことをしたのか」とすごむように詰問している。
そして、それはこの時に始まったことではありませんでした。先ほど司式の兄弟にお読みいただいたマルコによる福音書11章27節から33節の出来事においても、同じ問いががイエス・キリスト様に投げかけられているのです。
このマルコによる福音書11章27節では、同じくマルコによる福音書11章15節から18節でイエス・キリスト様がエルサレムの神殿の庭で、神に奉げる犠牲の動物を売り買いしている人々や、またその売り買いのために使うお金に両替をする両替商を追い払ったという出来事の後に、祭司長たちや律法学者、長老たちがイエス・キリスト様のところにやって来て「何の権威によってこれらの事をするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか」と問いかけられています。
神殿で両替をすること、あるいは神殿で捧げる犠牲の動物を売り買いすることは、祭司長たちや律法学者、長老たちが許可している事柄でした。しかし、イエス・キリスト様は、そういった一連の行為を、「『わたしの家は、すべての国民の祈の家ととなえらるべきである』と書いてあるではないか。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」といって、イエス・キリスト様は、それらの行為を咎め辞めさせるのです。
みなさん、イスラエルの民は、自分たちが神の選び民であるということを、時間や空間を聖別することで示してきました。聖、すなわちきよいということは、神のものであるということです。つまり、自分たちが神の選びの民であるということをイスラエルの民は聖なる場所に集い、聖なる時を過ごすことで表してきました。
そのために場所を聖別し、時間を聖別してきた。それが神殿という場所であり、安息日という時なのです。みなさん、私たちの教会でも、平日は講壇のある場所にロープを張り、そこを聖なる場所として場所を聖別します。また、聖日の礼拝の時を、聖なる時として重んじ、時の聖別をしています。それは、私たちが、イエス・キリスト様のもたらした新しい契約によって神の民とされたからです。ですから、礼拝の場は、「この世」の全てのものから離れ、神に近づき、神と交わり、神から与えられる恵みに与り、神の与え給う安息の時を喜ぶ聖なる空間であり聖なる時間なのです。
そのような聖なる場所である神殿のきよさを損なってしまっているといって、イエス・キリスト様はその神殿をきよめる、宮清めの業をなさった。それは、そのように神殿の清さを損なう行為を許している、祭司長たちや律法学者、長老たちの権威を非難・否定し、イエス・キリスト様による新しい秩序をたてる行為です。まさに新しい秩序の土台としておられる。だから、祭司長たちや律法学者、長老たちは、「何の権威によってこれらの事をするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか」と問いかけるのです。
その問いに対して、イエス・キリスト様は、見事な切り返しで祭司長たちや律法学者、長老たちを黙らせます。そのことを、祭司たちや宮守がしら、サドカイ人たちをはじめとし、役人や長老、律法学者や大祭司たちは経験しているのです。
ですから、「イエス・キリスト様は、イエス・キリスト様がダビデの王位を継ぐ油注がれた王であり、大祭司であり、モーセに匹敵するモーセのような預言者であったのだが、そのイエス・キリスト様をあなたがたが十字架に架けて殺した。しかし、その殺されたイエス・キリスト様を神は蘇らされた」というペテロに、「何の権威によってこれらの事をするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか」と問い、このイスラエルの民を支える権力や権威は私たちにあるのだと主張するのです。
しかし、神の国の権威は、「この世」の権勢や能力によるのではないのです。それはただ、神の霊によるのです。先ほど私たちは旧約聖書のゼカリヤ書4章1節から10節の御言葉に耳を傾けました。ゼカリヤ書というのは、バビロンに奴隷として捉えられたイスラエルの民が、その奴隷という身分から解放され国を再建する物語です。
その物語の最中にあって、この4章1節から10節は、そのイスラエルの国の再興、神殿の再建は人間の能力や力によって成し遂げられるのではなく、神によってもたらされる力によって成し遂げられるということを告げ知らせる天のみ使いの言葉です。まさに、神の国の土台となるかしら石は、人間の力や能力によって据えられるものではなく、ただ神の恵みとして据えられるのです。
だからこそ、ペテロは、神「何の権威によってこれらの事をするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか」と問いながら、神の民の土台、イスラエルという神の国のを建て上げる土台は、私たち祭司たちや宮守がしら、サドカイ人たちをはじめとし、役人や長老、律法学者や大祭司たちの権威にあるのではないかと言う人々に、聖霊に満たされ、その聖霊の力に突き動かされて
11:このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。12:この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである
というのです。それは、まさに神の救いの業である神の王国は、いかなる人の知恵や能力によるのでもなく、神が恵みとして私たちに与えてくださったイエス・キリスト様の信仰によってのみ打ち建てられるものであるということです。
みなさん。私たちは今、この場所において神の王国の表れである教会を建て上げようとしています。この神の王国の表れである教会は、誰かの力や能力で建て上げられるものではありません。だから、そこに権威者などいないのです。誰かが中心となり、土台となって教会が建て上げられるのではない。当然、牧師だって権威者ではありません。
もし、私が牧師の権威というものを振りかざすようになったら、それは牧師としておしまいです。牧師は教会の権威でもなければ権力者ではない。それは、信徒の皆さんも同じです。教会を建て上げる土台となる権威は、ただイエス・キリスト様の名のほかにはないのです。
そして、私たちがこのイエス・キリスト様を見上げ、イエス・キリスト様に倣いつつ、言葉や口先でなく、真実とまことをもって愛し合うということが実践されていくとき、はじめて、教会は教会として、キリストの体なる教会として建て上げられていくのです。
そのことを、心に刻み込みながら、みなさん、イエス・キリスト様を土台とし、ただこのお方のみを教会の中心に置き、このお方に倣いながら歩もうではありませんか。お祈りします。
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