2019年01月01日 小金井福音キリスト教会 説教
聖書
・旧約書 : 雅歌 第2章 16節 - 17節
・福音書 : マルコによる福音書 第12章 28節 - 34節
・使徒書 : ヨハネの第一の手紙 第3章 28節
説教題 「 神の愛を顕す 」
2019年の元旦を迎えました。昨年年末から、今年の私たちの教会の標語となる聖書の箇所はその聖書個所妥当かと、あれこれ思い巡らしていましたが、ヨハネ第一の手紙3章18節の「子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか」に落ち着きました。このヨハネ3章18節は、愛すると言うことが主題です。しかも、「言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか」と言うのですから、具体的に愛すると言うことが形となって現れてくると言うことです。
実は、私は昨年末、来年はこのヨハネ第一の手紙3章18節のお言葉を、私たちの教会の指針とし、このお言葉に立って一年を歩んでいこうとそう決めた後、F姉に御同行いただきまして、私共夫婦でK姉のお宅を訪問いたしました。K姉は、現在車いすでの生活を余儀なくされておりますが、ほとんど毎日、福祉ボランティアの方が泊まり込みで身の回りのお手伝いをしてくださっています。
私は、そのボランティアの方の働いている姿を見ながら、「言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛する」ということは、「ああこういうことなんだな」とそう思いつつ、その方のなさることを見ておりました。聞くところによりますと、その方が所属しているボランティアの会は、その会でお世話している方が、どこかに行きたいとおっしゃったならば、何とかそれを実現できるように考え、そしてその生きたいと言うところ、例えばそれが海外であっても、それを実現するのだそうです。
その話を聞きつつ、私はそのように、お世話をしてあげる力の源は何だろうかと考えてみましたが、結局、その力は、私たちの内に在る愛から湧き出てくるのだとしか考えられないのです。相手の方を想い、相手の方の気持ちになって、その方が喜んでくれることをしようとする。それは、私たち人間の内に与えられた愛というものからしか出てこない思いであり、行動なのです。
このK姉のお世話をしてくださっている方は、クリスチャンではありません。しかし、神に喜ばれるような愛に満ちた行動をしている。それこそ、言葉や口先で愛するのではなく、行いと真実をもって、愛すると言うことを実践しているのです。それは、私たち人間は、すべからく、心の中に愛というものが与えられているからです。神が、人間を神の像に造られたと聖書は言いますが、それはまさに、私たち人間が愛する者として造ら得ていると言うことだと言ってもいい。
みなさん、神の像というのは、互いに愛し合う心なのです。考えてみますと、聖書は愛すると言う主題が一貫してつらぬかれている書物だと言えます。例えば、先ほど司式の兄弟にお読みいただいたマルコによる福音書12章28節から34節まで言於いて、イエスキリスト様が言われていることは、聖書、この場合は旧約聖書ですが、聖書が言っている内容を要約して言うどのように言い表せるかとかと言うことについてこの場合ように言っておられます。
30:「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。 30:心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 31:第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
このイエス・キリスト様の言葉に対して、イエス・キリスト様とことごとく対立していた律法学者でさえ「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です」と言っています。つまり、旧約聖書が神の民に求めていることは、神を愛し、人を愛するということに尽きると言うことは、明白な事実としてイエス・キリスト様の時代のイスラエルの人々には受け入れられていたことだと言えます。
だからこそ、旧約聖書には、先ほど司式者がお読みくだり、耳を傾けて聴いた。雅歌の様な書物が含まれているのです。雅歌は、男女の赤裸々な愛の告白が綴られている書物です。ですから、イスラエルの民の間では、13歳以下の子供には、この雅歌を読ませないと言うことあったと言う話があるくらいです。
しかし、聖霊なる神は、そのような赤裸々な男女の愛のやり取りを聖書の中に納めら残された。それはまさに、男と女が愛し合うような愛の関係の中に神の像が顕さてくるからです。その雅歌の2章16節には「わが愛する者はわたしのもの、わたしは彼のもの」と言う言葉が記されています。
この「わが愛する者はわたしのもの、わたしは彼のもの」と言う言葉は、この言葉祖通りに受け止めるとするならば、互いが互いに与え合うところの麗しい愛し合う者の姿を現しています。つまり、愛とは、自分の持てる者を与える行為であると言うことです。時間を与え、労力を与え、自分の持てる者のすべてを相手に与える。そのような愛で愛し合う姿がそこにある。
人間とは、そのような愛で愛し合うものだ。そのような愛で愛し合うものとして神が人間をお造りになって下さっている。だからこそ、先ほどおはなししたように、K姉をお世話くださっている方のお姿に、愛が顕れ出ていると感じるのです。それはクリスチャンであるないに関わらず、人間の本性に神が神の像として与えてくださった愛があるからです。
しかし、同時に、神はイエス・キリスト様と言うお方のご生涯を通して、その私たち人間に与えられてるより深い可能性を私たちに見せてくださっている。そしてそれは、敵をも愛し、迫害する者のために祈る、そんな愛です。マタイによる福音書5章43せつ44節には次のようなイエス・キリス様の言葉があります。
43:『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 44:しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
みなさん、本来なら、敵は憎むべき相手です。そして迫害し危害を与える相手は、愛するどころか顔も見たくない存在です。呪うことはあったとしても、その人のために祈るということなど考えられないことです。けれども、イエス・キリスト様は、そのような敵や、迫害する者でも愛しなさいと言われる。そして言われるだけではない。それこそ、ご自分を十字架に架けて張り付けた人々に対して、「父よ彼らをおゆるし下さい。彼らは何をしているのかわからないでいるのです」といって、執成しの祈りをささげる。ルカによる福音書23章34節に記されている出来事です。
そこには、まさに言葉や口先で愛するのではなく、「わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛する」イエス・キリスト様のお姿がある。そのお姿を、弟子たちは後の時代の人に語り伝え、そして書き記していったのです。
今日の聖書の箇所の「子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。」と言う言葉を書き記しているのは、イエス・キリスト様弟子であるヨハネです。
ヨハネは、本当に行いと真実をもって敵を、そして迫害し、危害を加え、ご自分の命を奪おうとする者までをも愛されたイエス・キリスト様のお姿を、すぐそばで見ていた人です。そのヨハネが、彼の周りにいた多くのクリスチャンに「子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか」と言う。
このヨハネという人は、かつてはボアネルゲ、すなわち雷の子と言われるぐらい怒りやすい人でした。それこそイエス・キリスト様を受け入れない人たちを、天から火を呼び寄せて焼き払ってしまいましょう(ルカ9:54)なんてことを平気で言うような人でした。
そのヨハネが、行いと真実をもって敵をも愛し抜かれたイエス・キリスト様のご生涯を、すぐそばで見ていく中で「愛の使徒」と呼ばれるように変わっていた。そして、こんどはヨハネ自身が、自分の弟子たちに「子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか」と教え諭すものとなっていったのです。
みなさん、伝説では、ヨハネはイエス・キリスト様を信じる者たちの集まりに顔を出した時に、最初に口を開く言葉は「兄弟たちよ、互いに愛し合いましょう」と言う言葉であったと言われます。それは、互いに愛し合うところに神の愛が顕われ出てくるからであり、イエス・キリスト様のお姿が顕われ出るからです。
みなさん、私たち小金井福音キリスト教会は、昨年は「証人となる」ということが教会の一年のテーマでした。この「証人となる」というテーマは、何も昨日の大みそかで終わったわけではありません。それは、今年にも引き継がれるものです。それは、「言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって、愛し合う」ことで、それこそ言葉をもってイエス・キリスト様を証しするのではなく、行いをもってイエス・キリスト様を証しするものとして引き継がれていくのです。そのことを覚え、この2019年と言う新しい年の出発したいと思います。
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