2019年10月21日月曜日

2019年10月20日 小金井福音キリスト教会 説教題『 亀裂を産み出す基(もとい) 』


【聖書箇所】
 ・創世記 第11章1~9節
 ・ルカによる福音書 第9章20~25節
 ・使徒行伝 第9章20~25節

【説教題】
 『 亀裂を産み出す基(もとい) 』

2019年10月13日日曜日

2019年10月13日 小金井福音キリスト教会 説教題『 この世は我々を憎むのだ 』

【聖書箇所】
 ・創世記 第3章22~24節
 ・ヨハネによる福音書 第15章16~20節
 ・ローマ人への手紙 第8章18~22節

【説教題】
『 この世は我々を憎むのだ 』

2019年10月06日 小金井福音キリスト教会 説教題『宣教者のつとめ』

【聖書箇所】
 ・マルコによる福音書 第1章16~39節

【説教題】
 『 宣教者のつとめ 』

2019年10月3日木曜日

2019年09月29日 小金井福音キリスト教会 説教題『さしのべられる神の手』

2019年09月29日 小金井福音キリスト教会 説教

【聖書箇所】
 ・出エジプト記 第2章23~25節
 ・マルコによる福音書 第1章16~20節
 ・使徒行伝 第9章10~19節

【説教題】
 『 さしのべられる神の手 』



199月第5主日礼拝説教「さしのべられる神の手」           2019.9.29
旧約書:出エジプト22325
福音書:マルコ11620
使徒書:使徒91020

 先週は、使徒行伝91節から9節を通してサウロの回心物語の前半部分からお話しさせていただきました。厳格なユダヤ教徒であったサウロは、熱心な迫害者としてイエス・キリスト様の弟子たちを迫害し、それこそ「脅迫し、殺害の息をはずませながら」弾圧しようとしていました。
そのサウロが、まさにイエス・キリスト様の弟子たちを迫害しようとしてダマスコと言う都市に向かって旅をしているその途中で、イエス・キリスト様と出会うという敬虔をすることで、それまで信じていた信仰や信念、あるいは価値観や物の見方や物の見方と言ったものまでも揺るがされていったということをお話しいたしました。そしてその前半部分を受け継ぎながら、今日の礼拝説教の中心となる聖書箇所では、パウロの回心物語の後半部分にあたります。

 サウロは、眩いばかりの光の中でイエス・キリスト様がサウロに語りかける声を聴き、心が揺らされ、自分の信仰や信念までが揺らされていくという敬虔を通して、自分の内にある暗闇に目を向けて行きます。それは、まさに光が映し出したサウロの影の部分でした。
それまでサウロは、神の言葉に従って生きてきたという思い、自分はユダヤ人として神を信じることにおいて正しい生き方をしてきたという思いがある。だから、ユダヤ人として神を信じる信仰に反しているイエス・キリスト様の弟子たちを「殺害の息をはずませる」ほどに憎んでいた。けれども、その神の前に正しい生き方をしている自負していた自分が、実は、神の言葉に聴き従って生きているのではなく、むしろ、神に背を向け、どこかで神に言い訳をしながら生きてきた現実を突きつられたのです。
 そのような中でサウロは、自分自身を問い、自分の在り方を問わざるを得なくなってしまった。そんなサウロの姿を、私たちは使徒行伝99節の「彼(すなわちサウロ)は三日間、目が見えず、また食べることも飲むこともしなかった」という言葉の中に、そして今日の聖書箇所である911節の

そこで主が彼に言われた、「立って、『真すぐ』という名の路地に行き、ユダの家で サウロというタルソ人を尋ねなさい。彼はいま祈っている。

という言葉の中に見ることができます。そのサウロに転機が訪れる。それは、サウロの目からうろこのようなものが落ち、もと通り見えるようになったという表現される出来事です。この「目からうろこのようなものが落ちた」という言葉が、修辞的な比喩的表現なのか、実際に何かそのような物理的な現象が起きたのかは定かではありません。
 しかし、それまで心に抱いていた信念や信仰、あるいは信頼を置いていた考えや価値観と言ったものが崩れ去り、暗闇の中でこれからどう生きていけばよいのか、それが全く何も見えないような状態であったサウロの心に光が差し込んできた経験であったことは間違いがありません。
 そしてそれは、新しいサウロの生き方が開けたという出来事を示す言葉であったということもできるでしょう。なぜならば、この使徒行伝91節から始まるサウロの回心の物語は、20節の「(サウロは)直ちに諸会堂でこのイエスのことを述べ伝え、このイエスこそ神の子であると説き始めた」からです。

 みなさん、それまでのサウロは、イエス・キリスト様の弟子たち、すなわちキリスト教徒を迫害し「脅迫し、殺害に息をはずませる」ほどに苦しめてきた人間です。そのためにサウロはダマスコの諸会堂に赴き、そこに集っている諸会堂の人と人の助けを得て、ダマスコにいるイエス・キリスト様の弟子を弾圧しようとていたのです。
そのサウロが、イエス・キリスト様を「この方こそ神の子です」といって、むしろダマスコにいるイエス・キリスト様を信じるキリスト者と共に、イエス・キリスト様のことを述べ伝える者になっていったのです。そしてこのようなことは、だれもが決して起こるなどということは考えなかったことです。

 みなさん、昨日はラグビー・ワールドカップで日本が勝つことが難しだろうと思われていたアイルランドに勝利した私たち日本人にとっては大変喜ばしい日です。もちろん、アイルランドの方にとっては最悪の日でしょうが、日本人のラグビーファンにとっては飛び上がるような日です。もちろん、私も両手を突き上げて飛び上がった。
 しかし、もっと嬉しい日が4年前のワールドカップであった。それは日本が南アフリカに勝利した日でした。正直なところ私は、私が生きている間にラグビー日本代表が、南半球のチームに勝つ姿を見ることはないだろうと思っていた。だから、日本代表が、しかもワールドカップの試合で、その南アフリカに勝ったシーンを見ると、今でも本当に涙が出てくるのです。
 そのとき、イギリスの小説家でハリー・ポッターを書いたジョアン・ローリングという人は「こんな物語は書けない」とツウィっタ―でつぶやいたそうですが、まさに、そのような誰も考えていなかった物語が起こったのです。

 じっさい、聖書では、イエス・キリスト様がアナニヤという人にサウロのところに行ってサウロの目が開かれ見えるようになるために祈ってやるようにと幻の中で語りかけたとあります。911節、12節です。そのとき、アナニヤは主イエス・キリスト様にこう言うのです。

13:主よ、あの人がエルサレムで、どんなにひどい事をあなたの聖徒たちにしたかについては、多くの人たちから聞いています。14:そして彼はここでも、御名をとなえる者たちをみな捕縛する権を、祭司長たちから得てきているのです。

 サウロは、教会の迫害者であり、これまでさんざん主イエス・キリスト様を信じる弟子たちを苦しめてきた人物です。そんな人間が回心するなんてアナニヤには考えられない。おそらくアナニヤ以外の人々、それはイエス・キリスト様の弟子たちだけでなく当時のユダヤ人にとっても誰もが信じられない出来事だったでしょう。
 けれども、ただ主なる神だけが、それは父なる神・子なる神イエス・キリスト様、そして聖霊なる神である三位一体の神だけが、その物語を信じ、そのサウロの回心の物語を描こうとしていたのです。ですから、主イエス・キリスト様はアナニヤのこう伝えます。15節です。

さあ、行きなさい。あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である

 みなさん、主なる神は、サウロを「私の名を伝える器として選んだ者である」と言われます。この「選んだ者である」は運命論的に捉えることも出来る言葉ですが、しかし、なにかあらかじめ定まっており、変えることの出来ないサウロの運命として捉えるべきではないように思います。

 確かに、主なる神ははサウロを導いておられる。だからこそ、イエス・キリスト様がダマスコの途上でサウロに呼びかけるのです。その主イエス・キリスト様の呼びかける声を聴いたサウロは、心が揺らぎ、葛藤する中で、神の呼びかけに答えていく。そこには、神の働きかけと、それに応答するサウロの姿があります。
  まさに、サウロの回心の物語は神の差し出すてから始まっている。その差し出された手に
サウロが縋り付くとき、神の思い描いたサウロの回心の物語が、神の歴史の中に描き出されていくのです。そして、それがサウロという名の人生を変え、パウロと呼ばれるようになる新しい人生が、イエス・キリスト様のことを教え、述べ伝えていく新しい生き方が開かれていったのです。

 みなさん、私たちは、自分の人生を自分が切り開いて行くのではありません。イエス・キリスト様を信じ、イエス・キリスト様を主として仰ぎ、このお方の弟子となった者は、自分の力で頑張って自分の人生を切り開くのではなく、主なる神が開いてくださった道を歩んでいくのです。

 私たちは、先ほど司式の兄弟に新約聖書マルコによる福音書116節から20節を読んでいただき、そこに記されている神の言葉に耳を傾けました。そして、そこに記されていたことは、後にペテロと呼ばれるようになるシモンとその兄弟アンデレに「私についてきなさい。人間を獲る漁師にしてあげよう」と呼びかけられ、シモン・ペテロとアンデレはそれに従ったということが記されていました。また、同じようにゼベタイの子ヤコブとその兄弟ヨハネにも同じように呼びかけられ、彼らもまた主イエス・キリスト様の呼びかけに従ったということが書かれています。
 シモン・ペテロもアンデレもヤコブもヨハネも、みんなガリラヤ湖のほとりに住み、漁師をしていました。そのシモン・ペテロやアンデレ、またヤコブもヨハネもイエス・キリスト様が呼びかける言葉に答え、イエス・キリスト様に従っていったことによって、その人生が大きく変わり、新しい生き方に変って行ったのです。

 その新しい生き方が開かれていくとき、必ず先行するのは神の意志です。新しい生活、新しい生き方は、神の意志によって開かれていく。

 たとえば、先ほど旧約聖書の出エジプト記223節から25節をお読みいただきましたが、そこで言い表されていることは神の御意志です。そこにはこう記されている。

23:多くの日を経て、エジプトの王は死んだ。イスラエルの人々は、その苦役の務のゆえにうめき、また叫んだが、その苦役のゆえの叫びは神に届いた。24:神は彼らのうめきを聞き、神はアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を覚え、25:神はイスラエルの人々を顧み、神は彼らをしろしめされた。

ここにはエジプトの地で奴隷となり、苦しんでいるイスラエルの人々の姿がある。彼らは奴隷となっていましたから、自分の力でその苦しみをどうすることもできない。だからただ呻き、誰に聴かせるともなく叫ぶのです。
まさに「しかし、その叫びが神の届いたとき、神は、その叫ぶイスラエルの民を救おうと意志されるのです。神はアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を覚え、25:神はイスラエルの人々を顧み、神は彼らをしろしめされた」という言葉は、その神の意志が顕われ出た言葉です。つまり、イスラエルの民の救いの物語は神の意志から始まり、この神の意志によって、奴隷として苦しんでいたイスラエルの民に新しい生き方が開かれていくという出エジプト記の壮大な物語が神によって描かれていくのです。そして彼らは、ただその開かれた道を歩き、描かれた物語を生きて行けばよかった。

 みなさん、繰り返して申し上げますが、私たちは、自分の人生を自分が切り開いて行くのではありません。イエス・キリスト様を信じ、イエス・キリスト様を主として仰ぎ、このお方の弟子となった者は、主なる神が開いてくださった道を歩んでいくのです。それは、イエス・キリスト様が人となり、この世で生きられた道です。
神が、神の独り子を人としてこの世界に与え送り出してくださった。そのイエス・キリスト様が生きた生き方そのものが、それまでの人間の在り方、生き方とは異なり全く新しい者なのです。だから、私たちは、私たちの人生に転機的なことが起こっていた時、イエス・キリスト様にならって生きることが大切になる。

みなさん、それはつまり、本当に人生の転機というものは、神の差し出す手として私たちに訪れるということです。

みなさん、サウロがパウロと名前まで変わってしまうような人生の転機を迎えたとき、サウロは暗闇の中にいました。食事もとれないほどの悩みの中にいた。いや食事をとることも忘れるほどに新しい生き方を求めていたとも言える。 
 そのよう中、サウロにパウロという名の新しい道、新しい生き方を切り開いたのは、主なる神なのです。そして、その新しい生き方は、919節、20節にありますように、それまでサウロが迫害し、苦しめてきたイエス・キリスト様の弟子たちとの間に和解を生み出し、生きる力を与えるものでした。まさに、

19:また食事をとって元気を取りもどした。サウロは、ダマスコにいる弟子たちと共に数日間を過ごしてから、20:ただちに諸会堂でイエスのことを宣べ伝え、このイエスこそ神の子であると説きはじめた。

 という言葉は、そのことを言い表していると言って良いでしょう。

 みなさん。この使徒行伝91節から始まり2節に至るサウロの回心の物語は、人生の転機の物語であり、神を信じクリスチャンとなる回心は、私たちの人生に新しい道、新しい生き方をもたらすものであるということを告げ知らしていると言っても良いでしょう。
 しかし、人生の転機は何も、回心しクリスチャンになる時だけのことではありません。クリスチャンになっても、様々な転機的な出来事はあり、その都度、悩み苦しみ、心がゆる動かされることがある。
 けれどもみなさん。そのような時、いや確かに自分で何とかしなければと思うでしょうし、そう思っても仕方がないと思う。でも、どうぞ心に覚えておいていただきたのです。それが、本当に人生の転機ならば、必ず神は手を差し伸べて下さり、私たちに誰も思いつかないような新し道を切り開いてくださる。主なる神は「誰もかけないような物語」を私たちの人生に書き込んできださるのです。

お祈りしましょう。