2018年12月23日 クリスマス礼拝説教「キリストが住み給う場所」
旧約書:申命記7章6節から11節(旧約聖書pp.256-257)
福音書:ルカによる福音書1章26節から38節(新約聖書pp.83)
使徒書:エペソ人の手紙2章19節から22節(新約聖書p.303)
2018年のクリスマス礼拝をみなさんと共に過ごせることを、心から神に感謝いたします。私、個人のことを申しますと、今年のクリスマスは、二つのことに思いをはせながらアドベントの時を過ごさせていただきました。その二つのこととは、一つがインマヌエルということであり、もう一つが、先ほど司式の兄弟にお読みいただきました、ルカによる福音書の箇所にもある処女降誕と言うことでした。
インマヌエルと言う言葉は、マタイによる福音書18節から25節にある言葉ですが、先週、池田修養生が礼拝説教の中で取り上げてくださいましたように、ヘブル語で「神、われらと共にいます」と言う意味の言葉です。です。だとすれば、いったい「神われらと共にいます」ということはどういうことなのか。いったいどこにおいて、「神われらと共います」というインマヌエルという出来事が起こっているのか。いや、そもそもが、このインマヌエルと言う呼び名はイエス・キリスト様の呼び名として用いられている言葉です。つまり、イエス・キリスト様がインマヌエル取り上げて呼ばれるのふさわしいお方であるということです。
確かに、イエス・キリスト様は全き神であり、全き人であられます。ちょっとお神学的な言い方をするとするならば、神であり人である神人両性のお方だといえますから、確かに、イエス・キリスト様において、神が人と共にいてくださると言うインマヌエルの出来事が起こっている。しかし、そのイエス・キリスト様において起こっているインマヌエルということが、私たちとどう関係するのか。
そのようなことをあれこれ考えていると、あっという間に待降節の時間が過ぎて行く。それほど、このインマヌエルと言う言葉一つをとっても、2000年前にイエス・キリスト様がお生まれになったと言うことは実に奥深い出来事だと言えます。
このインマヌエル(神われらと共にいます)と言うことについては、日本の神学者のhttp://d.hatena.ne.jp/religious/20130414滝沢克己という人が、非常に味わい深い思索を展開しています。滝沢は、イエス・キリスト様が、インマヌエルと呼ばれるのは、まさに人としてお生まれくださったイエス・キリスト様は神であり人であるお方であり、イエス・キリスト様のご人格は、人間性と神性が結びあわされたものであると言います。だからイエス・キリスト様は神の子なのです。そして、それをインマヌエルの原事実と言う。
原事実という言い方をするのは、それはイエス・キリスト様にだけ起こることではなく、実は私たち人間ひとり一人に起こることだからです。つまり、人間はすべからく神によって、このインマヌエルの原事実を与えられているのであって、そのことに気づくことがたいせつだというのです。
そうなると、もはやクリスマスは、2千年前の出来事を記念し感謝すると言う出来事に留まりません。クリスマスは、現代に生きる私たちすべての内に起こる出来事であって、今日、私の内に、そして皆さんの内に起こる出来事になってくる。ああ、何と深い味わいだことだと思う。しかし、そうなると馬小屋はどうなるのか、乙女マリヤより生まれたと言う処女降誕はどうなるのか。
みなさん、こういうことを考え黙想しながら聖書を読み、考え、調べてまいりますと、実に聖書はおもしろい。私も、考え、調べてみました。いろいろと調べていく中で、西谷啓治という人が、マリヤの処女降誕について語っている言葉に出くわしました。
この西谷啓治という人は西田幾多郎と言う哲学者の弟子で、いわゆる京都学派と呼ばれる哲学の流れを汲む人で、西田幾多郎の弟子でおまりますので、どちらかと言うと仏教的な考え方をする哲学者であるといえるでしょう。しかしその西谷が、マリヤの処女降誕について語る。みなさん西谷は、生理的・精神的な事柄は問題ではないというのです。
考えてみますと、私たちはマリヤの処女降誕と言う奇跡が本当に歴史的事実であったのか、なかったのかと言ったことを問題にして議論しがちですが、西谷はそのようなことは問題ではないというのです。むしろ、そのようなことを問題にしていると、この処女降誕という物語の本質は見えてこないというのです。そして、この乙女マリヤが身ごもったという物語の核にある根本的な事柄は、物事に染まってしまうか染まってしまわないかの問題というのです。
どういうことか。みなさん、私たちは、知らず知らずのうちに「この世」の価値観に染まってしまって、「この世」の価値観やものの考え方で物事を考えてしまいがちです。けれども、聖書はしばしば「この世」は神に敵対し、イエス・キリスト様を憎み、そして神を信じる者を迫害するものだと言います。その「この世」に染まってしまっては、とても神の民として神の民らしく生きることができません。
けれども、西谷は、人間の心の奥底には「この世」に染まっていない部分が誰にでもあるのだというのです。そして、その心の奥底にある染まっていない部分から、いかに生きるべきかと言う人間の在り方が現れ出てくる。マリヤが乙女であったと言うことは、まさにその「この世」にあって絶対に汚れを知らない、この世に染まっていないということを象徴的に示す出来事なのだと言うのです。
西谷のマリヤの処女降誕の解釈は、その聖書解釈の方法論や聖書学的な面から言うとそのまま鵜呑みにしてよいかどうかは十分な検討が必要ですが、しかし聖書の在祝いとしては実に奥深い味わい深い魅力的なものです。「この世」という汚れに染まっていないマリヤに、人間の本来あるべき姿、人間の模範であり、インマヌエルの原事実であるイエス・キリスト様がお宿りになった。
しかも、そのお方がお生まれになったのは、薄汚く汚れた馬小屋であった。その汚く汚れた家畜小屋の中で、イエス・キリストを宿したマリヤが置かれる。そしてそこでイエス・キリスト様がお生まれになるのです。そのマリヤに象徴されるイエス・キリスト様を宿しす場所である「この世」の如何なる汚れにも、また何ものにも染まっていない、粋な聖い部分は、私たちの心の奥底に「絶対的に何ものにも染まっていない純粋な聖い部分」としてある。
そのことを想い、私たちの内に在る「純粋で聖い部分」に、イエス・キリスト様が宿りお生まれ下さるのだと思い巡らしますと、この乙女が救い主イエス・キリスト様を身ごもり、家畜小屋で救い主をお産みになられたと言う処女降誕の物語は、なんとも恵み深く味わい深い物語として私たちの心に迫って来る。それは、この乙女が身ごもると言うマリヤの物語が、私の内に在るイエス・キリストと言うお方の存在に目覚める私の物語となるからです。
みなさん、私たちは「この世」の中で生きています。それはあたかも、あの家畜小屋の中にいるようなものであります。そして家畜小屋の匂いが染み込むように、私たちは、否応なしにどこかで「この世」の在り方に染まって生きている。だから「この世」が神に敵対し、イエス・キリスト様を憎み、私たちキリストにあるクリスチャンを迫害するものであるとわかっていても、どこかで、「この世」的なものの見方や、考え方をし、「この世」的な価値判断をし、行動してしまいます。
しかし、そのような私たちであっても、イエス・キリスト様は私たちの内に宿り、神は私たちと共にいてくださっている。そう考えると、みなさん、なんともありがたいことではありませんか。それは本当にありがたいことだ。だからこそ、みなさん、私たちは、少しでもイエス・キリスト様に近づき、イエス・キリスト様の倣い、イエス・キリスト様のように生きたいと思うのです。
もちろん、先ほども申しましたように、このような理解は黙想的であり、神学的には厳密な検討が必要ですが、しかし、私は結構いい線を言っているように思うのです。と申しますのも、先ほど司式の方にお読みいただいたエペソ人への手紙において使徒パウロは
19:そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍
の者であり、神の家族なのである。 20:またあなたがたは、使徒たちや預言者たちと
いう土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石で
ある。 21:このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成
長し、 22:そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとな
るのである。
と言ってもいるからです。
みなさん。パウロはここでエペソの人たちに向かって、「あなたがたはもはや異国人でもなく、宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍のものであり、神の家族なのである」と言います。いうまでもなく、エペソの人たちは、民族的には異国人であり異邦人です。そしてユダヤの民にとっては、ユダヤ人こそが聖なる民であり、異邦人は汚れた者たちなのです。しかし、パウロは、その汚れた民である異邦人がイエス・キリストによって一つに結ばれ、同じ国籍となって神の家族となると言うのです。そして、イエス・キリストによって、聖なる宮として成長し、聖なる神がそのうちに住んで下さると言う。
それは、まさに、インマヌエルと言う出来事が、ユダヤの民の出来事として起こるだけでなく、ユダヤ人にも異邦人にも起こることであり、そして私たちにも起こる出来事だと言うことです。それは、私たちが聖なる存在として聖なる生き方をするものとなったからではありません。「この世」に染まった汚れた者のままで、しかし、その汚れた者であったとしても、私たちの心の奥深いところにある「純粋でなにものにも染まっていない聖い部分」があるからこそ、そこにキリストは宿ってくださる。
クリスマスは、そのことを私たちに教え、私たちの内にキリストがいてくださり、神が私たちの内に住まわっていてくださることを私たち気付かせ、私たちが聖なる民であることを目覚めさせてくれる出来事なのです。そして、私たちの内にキリストがおられ、神が私たちの内に住み、私たちと共にいてくださると言うことに目覚めるときに、私たちは聖なる生き方をするものとなっていく。
先ほど私たちは、申命記の7章6節から11節の言葉に耳を傾けました。この箇所は、神がイスラエルの民を聖なる民としてお選びになり宝の民としてくださったと言う出来事とその選びの根拠が記されています。それは「あなたがたがどの国民よりも数が多かったから」ではなく、「ただ主があなたがたを愛し、またあなたがたの先祖に誓われた誓いを守ろうとして」である。というのです。
あなたがたの先祖に誓われた誓いとは、アブラハムと神との間に結ばれた契約のことを指すと思われます。つまり神がイラエルの民を選び、愛し、宝の民としたのは、あなたがた自身の中にその理由があるのではなく、ただ、あなたがたの先祖であるアブラハムとの約束の故だというのです。
しかし、一度(ひとたび)約束が結ばれますと、そのアブラハムとの約束ゆえに神は、イスラエルの民を愛するとお決めになると、とことん、イスラエルの民を愛し、宝の民としてくださる。だから、聖なる民として聖なる民らしく生きて行くのだと、そういって聖なる民となるための指針として神は律法をお与えになったと言うのです。
みなさん、イスラエルの民、それはアブラハムの子孫としてアブラハムの契約の内に在る民です。その民の中に生まれた子供は、生まれたときからアブラハムの契約に基づく聖なる民の性質を内側に宿している。だからこそ、アブラハムの子孫は、アブラハムが神の言葉に従順であったように律法に従って生きて行くことが求められた。まさに神に民として神の民らしく生きて行くために律法があり、律法が養育係だったのです。
このアブラハムの契約は、イエス・キリスト様の新しい契約へと発展していきます。そして、このイエス・キリスト様による新しい契約の下に置かれた者は、イエス・キリスト様が生きられたように生きる者となっていく。それは、私たちのキリスト者の心の奥底の「何ものにも染まっていない「純粋で聖い部分」にイエス・キリスト様が宿り、そこおいて、神われらと共にいますと言うインマヌエルであられるイエス・キリスト様が生きておられるからです。
みなさん、クリスマスはそのことに私たちに繰り返し目覚めさせ、私たちがイエス・キリスト様に似たものとなるようにと導いてくれる神の恵みの時なのです。そのことを想いつつ、しばらく静まり静思の時を持ちましょう。