2018年 12月 09日 小金井福音キリスト教会説教
聖書
旧約書 : イザヤ書40章1節から5節
福音書 : ルカによる福音書1章5節から23節
使徒書 : テモテへの第二の手紙4章1節から5節
説教題「キリストを迎える道備え」
説教題「キリストを迎える道備え」
教会に飾られたクランツに二つ目のローソクが灯され、待降節の第2週の主日礼拝となりました。先週は、クリスマスというものが、紀元2世紀から4世紀ごろの間にローマ帝国で太陽を不滅の神として崇める冬至の祭りに対してキリスト教会が、真の義の太陽であるイエス・キリスト様を祝うことから始まったと言うことをお話しいたしました。
そして、この義の太陽こそが、不正や暴虐がはびこっている時代に、神の王国の王として神の国をもたらしてくれる希望であると言うこともお話ししました。その義の太陽であるイエス・キリスト様がこの世界に来られたということは、それはつまり、この世界の中に神の王国がやって来たということです。つまり、クリスマスとは、イエス・キリスト様がお生まれになったことを記念し、それを祝う日であると同時に、この世界の中に、神の王国がやって来たことを祝う日でもあるのです。
しかし、みなさん、先週の礼拝で旧約聖書のマラキ書をお読みいただき、そのマラキ書の時代背景は、神の民イスラエルの中で信仰が形骸化し暴虐や虐げ、そして不正が蔓延し道徳的にも乱れきっている、そんな時代でした。そして、イスラエルの民の中の神の民としての自覚やほこりが損なわれ、神の民の共同体としての結びつきが崩れてしまいそうな時代であったと言えます。そのような世界に義の太陽がやって来るのです。逆に言うならば、義の太陽であられるイエス・キリスト様が来られる世界は、暴虐や虐げ、そして不正に満ちた世界だと言うことです。
そのような乱れ切った世界に、神の御子が神の王国の油注がれた王として来られた。しかし、そのような乱れ、腐敗した世界の中に、何の前触れもなくイエス・キリスト様は、私こそが油注がれた神の国の王であると言って登場したわけではありませんでした。父なる神は、イエス・キリスト様が王としてこの世界に現れ出るためにちゃんと道備えをしてくださっている。それが、先ほどお読みいただきましたルカによる福音書1章5節から23節にあります、バプテスマのヨハネという人物です。
みなさん、イエス・キリスト様がお生まれなさったという物語、それは、まさに神が人として受肉すると言う奇跡でありますが、神は聖霊によって乙女マリアからイエス・キリスト様をお生まれさせなさったという奇跡の物語でもあります。そしてその奇跡は、イエス・キリスト様と言うお方のお誕生は、神が、不正や暴虐や虐げに満ちた世界にご介入なさると言うことを宣言するものでありました。
同じように、聖書が告げるバプテスマのヨハネの誕生の物語にも、神がそこに介在するという奇跡的な物語が展開する。それは、今、司式の兄弟にお読みいただいたイザヤ書40章3節から5節の言葉から始まります。そこにこうあります。
3:呼ばわる者の声がする、「荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ。 4:もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ、高低のある地は平らになり、険しい所は平地となる。 5:こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る。これは主の口が語られたのである」。
みなさん、イザヤ書の40章は、イザヤ書にあっても特別な章です。イザヤ書は、それでの39章までは、イスラエルの民に対する厳しい神の叱責の言葉と、厳しい歴史的現実がかたられるのですが、この40章からはガラッと変わって、神の慰めの言葉が語られるようになる。この39節から40節までの語り口調や文体があまりにも違いすぎるので、旧約を専門とする学者の中には、イザヤ書は一人の人物が書いたのではなく、39章まで書いた人物と40章以下を欠いた人物は違うのではないかという人が少なからずいます。そして、39章までも第一イザヤ、40章以降を第二イザヤと言う具合に区分する。
私たち福音派と呼ばれるグループの多くの牧師は、このように第一イザヤと第二イザヤと言ったふうに複数の著者がいると言う立場を取らず、イザヤと言う一人の人物の手によるものであると言う立場をとる人が圧倒的に多いのですが、ここではイザヤ書の著者が複数なのか一人なのかと言ったことは問題ではない。大切なのは、神の民に神の慰めと救いの言葉が語れるようになるその冒頭に、荒野に主の道を備え、砂漠にわれわれの神のために大路をまっすぐにする、いうなれば道備えをする者が現れると言うことが語られていると言うことです。
神の慰めの言葉が語られ、救いの言葉が語られる時、その言葉が語られる間に、人々がその言葉に耳を傾けて聴くことができるように道備えをする者がいると言うのです。それは、荒野に呼ばわる声だというのです。
荒野に呼ばわる声と言うのですから、まさに、荒野のような荒廃した世界にいる人々の心を、神に向けさせる働きをする。そして、バプテスマのヨハネ自身が、自分はその荒野に呼ばわる声であるとそう言っている。ヨハネによる福音書1章19節には、人々から「あなたはキリストですか」と聞かれたときに、ヨハネが「私はキリストではない、私は預言者イザヤがいった荒野で呼ばわる者の声だ」といった記事が出ていますが、バプテスマのヨハネ自身が、荒野で呼ばわる者の声であると自覚しているのです。
その自覚は、おそらく先ほどお読みいただいたルカによる福音書の1章にある自分が生まれる際に起こった出来事を、まるで物語のように両親から繰り返し聞かされていたからではないかと思われます。それは、まさに神がバプテスマのヨハネの誕生に際して、奇跡的に関わられた物語です。
みなさん、バプテスマのヨハネの父ゼカリヤと母エリサベツの間には長い間子供が与えられず、二人とも年老いていました。その老夫婦に神は天使をみ使いとして遣わして子供を与えると約束する。そして、その子の名をヨハネとつけなさいと言うのです。その上で、「その子はエリヤの霊と力をもって、みまえに先立っていき、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう」と天使は言う。つまり、人々の心を神に向けさせるというのです、
実際、バプテスマのヨハネは荒廃した世界の中に出て行き、人々の罪を厳しく糾弾し、神に立ち帰るようにと人々に語り、そしてイエス・キリスト様を「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」といって人々に紹介した、。みなさん、私たちがここで注意しなければならないのは、罪と言うことが単に、犯罪を犯したとか、道徳的に過ちを犯したとか、社会の規範を犯したと言ったことではないと言うことです。
確かに、犯罪とか、道徳的な過ちとか、社会の規範を犯すと言ったことは悪いことです。そして、それらは罪から生み出されるものです。しかし、それらは悪ではあっても、ここで言う罪ではない。みなさん、聖書が言う罪とは、神から離れ、神を意識せず、また私たちが神を見失なってしまっている状態を指すものです。そのように神から離れ、神を意識せず、神を見失っているからこそ、私たちは悪いことをしてしまうのです。つまり、問題は私たちと神と関係にあります。用は、私たちが誰を見、誰を意識し、誰を目標に生きているかなのです。
そしてその誰かということは、しばしば自分自身であったりする。だから自己中心と言うのは罪だと言うのです。自己中心とは、自分自身の心の鏡に、自分の欲望を映し出すことです。そして、そのような罪は「この世」と言う世界によって私たちにもたらされるのです。
みなさん。そのような世界の中でバプテスマのヨハネは、その見るべき方向を人々に指したのです。誰を見なければならないかを示した。そしてそれが、神が遣わされた油注がれた王であるイエス・キリスト様だったのです。それは、この世界に神の王国が建てら、イスラエルの民が神の王国に招き入れられるれていく道備えであった。
みなさん、義の太陽が昇る世界は、暴虐や虐げや不正に道、道徳的に乱れ、信仰は形骸化してしまった荒廃した世界です。ですから、真の義の太陽であるイエス・キリスト様がお越しになられる世界は、荒廃した世界なのです。そしてその荒廃した「この世」と言う世界は、私たちの心から神を締め出して神から離れさせ、神を意識せず、神に頼ることも、神を必要とさせず、神を見失って、自分の思いや願い、そして欲に従って生きさせる世界です。そのように罪が支配している世界にイエス・キリスト様はお生まれ下さったのです。
みなさん。イエス・キリスト様は、その罪に支配されて荒廃している世界に生きる私たちを、その罪の支配から私たちを解放してくださるためにこの世界に来られた。
だから、誰もがクリスマスと言う出来事を必要としている。神の御子がしみに支配されている世界に来てくださったと言うクリスマスの出来事に無関係な人、無関係でいられる人など一人もいないのです。
それは、この罪が支配する世界の中で、もっとも荒廃し、砂漠のようになっているのは、私たち人間の心だからです。私たちひとり一人の心が、この罪に支配された世界というもの映し出している鏡なのです。ですからみなさん、私たちの心の中にはイエス・キリスト様が必要なのです。
また、だからこそ聖書は、「み言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい」というのです。先ほどお読みいただきましたテモテへの第二手紙4章2節です。
それは、私たちの心が「この世」というこの世界を映し出すのではなく、イエス・キリスト様と言うお方を映し出すためです。私たちの心の鏡が、神と言うお方を映し出してはじめて、私たちは罪の支配から解放されるのです。
みなさん、聖書は、先ほどのテモテ第二の手紙の4章2節に続いて、こう言います。3節、4節です。それは、人間の心と言うのが、如何に自分の願いや思い、そして欲望に従いやすいかと言うことを示している言葉です。そこのはこうあります。
人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳ざわりの良い話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして真理から耳をそむけて、作り話の方にそれていくときが来る。
みなさん、「この世」と言う世界は、私たちの心の鏡が、神と言うお方を映し出させないように私たちの欲望に働きかけながら、私たちの心の鏡に、自分自身の思いや願い、そして欲望を映し出させようとします。
この「この世」と言う世界の私たちを罪に誘う働きかける力、その力に打ち勝ち、私たちの心の中に神の姿を映しだすためには、私たちの心の中にイエス・キリスト様と言うお方がお生まれ下さると言う出来事が必要だ。クリスマスと言う出来事が私たちの内に必要なのです。そのためには、荒野で呼ばわる声となる人が必要です。バプテスマのヨハネが必要なのです。では、誰がその荒野で呼ばわる人となるのか。
それは、こうして教会に集う私たちひとり一人です。私たちひとり一人は、「キリストの証人」となるべく神に呼び集められたひとり一人です。そして、誰かのための「荒野に呼ばわる声」となるものとして神は。私たちを召しておられる。
先ほどのテモテ第二の手紙の第4章は、4節、5節で
人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳ざわりの良い話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして真理から耳をそむけて、作り話の方にそれていくときが来る。
と言った後、それに続いて「しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難をしのび、伝道者の業をなし、自分の務めを 全うしなさい」と言っている。この言葉は確かにテモテと言う一人の伝道者向かって語られた言葉です。しかしテモテと同様に、私たちひとり一人がイエス・キリストの証人であり、伝道者であり、人々の心を神に向けさせる荒野で叫ぶ声なのです。
それは何も、言葉で伝えると言うことだけではない。私たちがイエス・キリスト様を信じ、礼拝し、神の言葉に耳を傾けながら生きて行くというその生き方そのものが、荒野で叫ぶ声となるのです。そのことを覚えながら、神を信じ、イエス・キリスト様を信じる者として、神の前に生きる者でありたいと思います。祈りましょう。
0 件のコメント:
コメントを投稿