2018年12月4日火曜日

2018年待降節第一主日説教「太陽は輝いている」

 2018年12月02日 待降節第一週主日礼拝説教「太陽は輝いている」

旧約書:マラキ書4章1節から6節
福音書:マタイよる福音書5章43節から48節、6章14節から19節
使徒書:テサロニケ人への第一の手紙5章5節から11節

説教題「 太陽は輝いている 」
 ※ 録画中にトラブルがあり、途中録画が切れている部分があります。



さて、2018年も12月に入り、クリスマスのシーズンになってまいりました。もっとも世間では、11月に入りますと早々にクリスマスの飾りつけなど顕われてまいりますので、今さら、教会でクリスマスシーズンになりましたと申しましても、世の中から一歩の二歩も後れを取った感じがあります。しかしそれは、世間が勇み足なのでありまして、私たちクリスチャンにとっては、当然のことではありますが、クリスマスは、イエス・キリスト様の降誕を祝う教会の大切なお祭りなのであり、そのクリスマスを迎える前の4週間を教会ではアドベント(待降節)と呼びクリスマスの時を祝うのですが、そのアドベントは11月30日に最も近い主日からアドベントから始まります。
 
 そのようなわけで、今日がそのアドベントの第一主日となります。そのアドベントの第一主日の礼拝における聖書個所として、私は旧約書としてマラキ書4章1節から、新約聖書福音書からマタイによる福音書5章43節から48節および6章14節から19節、そして新約聖書の使徒書からはテサロニケ第一の手紙5章5節から11節までを選びました。

 その箇所を、今、司式の兄弟が今お読みくださいましたが、みなさんは、その聖書の言葉を聞きながら、なぜこの箇所がクリスマスを迎える待降節の第一主日に読み上げられるのかと不思議に思われたのではないかと思います。

 確かに、これらの箇所は、イエス・キリスト様がお生まれになったというクリスマスの出来事を思わせるような内容ではありません。しかし、この三つの聖書個所は、ある一つのキーワードを通して、クリスマスの出来事を伝える大切なメッセージを生み出してくるのです。ではそのキーワードとは何か。それは『太陽』と言う言葉です。とりわけマラキ書4章2節にある言葉がクリスマスと言う出来事を考えるときに、重要な意味を持ってくる。そこにはこうあります。 

   1:万軍の主は言われる、見よ、炉のように燃える日が来る。その時すべて高ぶる 
  者と、悪を行う者とは、わらのようになる。その来る日は、彼らを焼き尽して、根
  も枝も残さない。2:しかしわが名を恐れるあなたがたには、義の太陽がのぼり、そ
  の翼には、いやす力を備えている。あなたがたは牛舎から出る子牛のように外に出
  て、とびはねる。3:また、あなたがたは悪人を踏みつけ、わたしが事を行う日に、
  彼らはあなたがたの足の裏の下にあって、灰のようになると、万軍の主は言われる  

 みなさん、このマラキ書というのは、その著者が誰であるかは分かっていません。確かに、マラキ書と言うタイトルはついていますが、このマラキいうのは、人の名前ではなく単に「私がつかわした者」という意味の言葉です。もちろん、モーセと言う名には「引き出す者」という意味や、イザヤと言う名には「主は救い」と言う意味がありますように、ユダヤの人々にとって言葉の意味と名前とが直接的に結びつくことがしばしばあります。 
 しかし聖書の中にマラキと言う名前の前例はなく、実際ユダヤ人の名前の中にそのような名前を見出すことができないのです。つまり、マラキというのは名前ではない。
 その無名の著者によるマラキ書は、イスラエルの民がバビロンに奴隷として捕らえられ、長い捕囚生活から解放され、神殿が再建されたと言う出来事からさらに後の時代、具体的には紀元前5世紀前半のネヘミヤ記が書かれる前の時代に書かれたものであると考えられています。

  その時代においては、イスラエルの民は、既にバビロンから解放され、神殿も再建され、ユダヤ業の宗教儀礼も再開されていました。しかし、現実にはそれまでユダヤの民を支配していたバビロン敵国からペルシャ帝国に代わっただけであり、相変わらず他民族の支配の下におかれていると言う状況はは変わっていません。つまり、自分たちの王を迎え、神の国であるイスラエルの国を再興するというユダヤの民の願いは実現に至っていないのです。言うなれば、イスラエル王国の復興すると言う彼らの夢や希望は、じり貧状態に陥っていたのです。そのようなじり貧の状態が続きますと、いったい神は私達ユダヤの民を本当に愛し下さっているのかと言う思いが沸き上がって来る。 そうなりますと、神を信じる信仰は揺れる葦のように揺らぎ、彼らの信仰は形骸化し、人々の生活は荒廃していきます。そして、彼ら自身の神に選ばれた神の民であると言う意識も薄らいでき、不正や暴虐が起こって来る。

 そのような状況のただ中で、この無名の預言者はユダヤの民に希望を語ります。それが、「しかしわが名を恐れるあなたがたには、義の太陽がのぼり、その翼には、いやす力を備えている。あなたがたは牛舎から出る子牛のように外に出て、とびはねる」と言うことです。 この義の太陽こそが神の王国の油注がれた王であり、神の王国が到来すると言う希望なのです。もちろん、その神の王国の油注がれた王としてこの世界に来られたお方は、イエス・キリストさまであり、イエス・キリスト様こそが義の太陽なるお方である。

  この希望が具体的なクリスマスと言う祝いの祭りとして出来事となっていく。それは、このマラキ書の時代のずっと後の2世紀から4世紀前半頃のローマ時代になってです。そのころの古代ローマ帝国では、「冬至の祭り」という祭りが盛大に行われていました。これは、冬至は一年で日の長さが一番短くなり、そこからまた日の長さがだんだんと長くなっていくところから、太陽の死と復活を読み取り不滅の太陽を祝う祭りでした。それが12月25日に行われていた。 その冬至の祭りに対して、その時代のキリスト者たちが、マラキ書にある義の太陽であるイエス・キリスト様のご降誕を祝おうと始めたのが、今日のクリスマスの起源であると言われます。

 つまり、クリスマスとは、イエス・キリスト様がお生まれになったと言うことを祝う出来事であると同時に、イエス・キリスト様と言う神の王国の王の到来を祝う祭りだと言ってもよい。 この神の王国の油注がれた王であるメシアは、不正や暴虐が支配している世の中を正すお方ですから、そこには義があり公正があり慈しみがある。つまり義の太陽であるメシアは、公正なお方であり、正義のお方であり慈しみ深く愛に豊かなお方なのです。そのお方、イエス・キリスト様が王として支配する国がクリスマスと共にすでに始まっている。 

 みなさん、先ほどマタイによる福音書5章43節から48節の言葉を、私たちは耳を傾けて聴きました。マタイによる福音書の第5章は、いわゆる山上の垂訓と言われるイエス・キリスト様によって示された神の王国に生きる神の民の生き方です。その中で、イエス・キリスト様は、「隣人を愛し、敵を憎め」と言うのはごくごく当たり前のことで、誰もがそう考えることであるが、神の王国の民であるキリスト者は、隣人を愛するようにあなたの敵を愛し、迫害する者のために祈るものとなりなさいと、そう言っておられます。 またマタイによる福音書の6章14節では、人の過ちを赦せとも言われている。
 みなさん、赦すと言う出来事が起こる場面では、赦す者は、赦されるものによって何らかなの損害や危害を受けている。ですから赦す者にとって、許しを受けるものは、本来ならば憎むべき相手です。それを赦せという。
 「この人々の過ちを赦せ」という言葉のすぐ後を見ますと、断食しているのを人に見せるためにする名と言うことが書かれている。そこには、信仰に熱心だと言われるような人が、その実、信仰が形骸化してしまっていると言うことがあった塔ことをうかがわせる言葉です。そのような信仰が形骸化してしまっている中で、イエス・キリスト様は、敵を愛し、迫害する者のために祈り、過ちを犯すものを許してやれと言われる。
 そしてそれは、天の父は、悪い者の上にも、善い者の上にも太陽を登らせ、正しい者に上にも正しくない者の上にも雨を降らしてくださる方だからだと言うのです。

 もちろん、このマタイによる福音書でいう太陽と言うのがイエス・キリスト様のこと直接的に言っていると言うわけではありません。このイエス・キリスト様の言葉は、あくまでも自然現象を比喩として、良い物も悪い者も分け隔てなく愛する神の慈愛を指すためのものです。 その意味で、太陽が良い者の上でも悪い者の上でも輝いているように、神の恵みは全ての人に等しく注がれている。それはつまり、神の御子であり、神の王国の王である救い主イエス・キリスト様がもたらす救いの業もまたすべての人に等しく与えられていると言うことでもあるのです。

 しかし、みなさん。よく考えてみてください。太陽が良い者の上でも悪い者の上でも輝いているように、神の恵みは全ての人に公平に等しく注がれている、あるいは、救い主イエス・キリスト様がもたらす救いの業もまたすべての人に等しく公平に与えられているということは、本当に公正なことであり、公平なことなのでしょうか。悪い者は裁かれ、良い者が救われるというというなら納得もできますが、良い者も悪い者も等しく神の恵みが注がれている、イエス・キリスト様がもたらす救いの業が与えられているといわれると、それはむしろ不公平なことのように、私には思われるのですがどうでしょうか。

  みなさん、確かに私たちが良い者にも悪い者にも救いの恵みが等しく与えられていると言う一点、言うならば救いの入り口だけに目を注いでいたならば、確かにそれは不公平なことかもしれません。しかし、イエス・キリスト様のもたらす救いとは、私たちを神の王国の民とすると言うことです。つまり、救いは入り口だけの問題ではない。神の王国の入り口を入りキリスト者となった者が、マタイによる福音書5章48節にありますね、「あなたがたの父が完全であられるようにあなたがたも完全な者になる」という救いのゴールに至ることによってイエス・キリスト様の救いの業が完成するのです。

 みなさん、興味深いことに、 マタイによる福音書13章43節には「そのとき、義人たちは彼らの父の御国で、太陽のように輝きわたるであろう。耳のある者は聞くがよい」と書かれている。そこで言われていることは、イエス・キリスト様が義の太陽として輝いておられるように、私たちもイエス・キリスト様のように太陽として輝く者なるのだということです。 それは、私たちが神の救いの業により、この罪が支配する世界から解放され救われると言うことは、単に罪が赦されると言う消極的なことだけではなく、もっと積極的に、偽の太陽であるイエス・キリスト様のように、輝くものとなるのだと聖書はいうのです。

 みなさん、確かに、私たちひとり一人は良い者と悪い者と言うわけではないにしろ、スタートラインが違います。ひとり一人が個性ある、差異あるひとり一人です。しかし、神が私たちを導いて行かれようとするゴールは同じです。だれもが、完全な者となる。イエス・キリスト様のようなものとなることができるのです。

  それは、私たちが神の子とされているからです。義の太陽の光が輝く光の下に置かれているからです。先ほど使徒書テサロニケ人への第一の手紙5章4節から6節には、このように書かれています。 4:しかし兄弟たちよ。あなたがたは暗やみの中にいないのだから、その日が、盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはないであろう。5:あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない。6:だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう。

  義の太陽であるイエス・キリスト様が、闇のようなこの世界に来てくださり神の王国をもたらしてくださった。それは私たちがもはや夜のものでも闇のものでもなく、明るく輝く昼の日差しの中で、私たちまた、イエス・キリスト様のように太陽として輝くためなのです。  みなさん。神の言葉である聖書は、私たちに完全な者となりなさいとか、敵を愛しなさいとか、互いに赦しあいなさいとか、結構、無理難題と思われることを私たちに要求してきます。とてもそのような聖書が求めてくる生き方などできないように思います。けれども、聖書は、私たちがイエス・キリスト様のようになるというのです。大切なのは。その聖書の言葉を信じてイエス・キリスト様のようになろうとして生きることなのです。それじゃぁ、イエス・キリスト様のようになるとはどういうことか。 

 イエス・キリスト様のようになると言っても、イエス・キリスト様がどのようなお方かがわからなければ、なりようがありません。みなさんイエス・キリスト様とはどのようなお方なのか。  聖書は、イエス・キリスト様がお生まれになる時に、マリヤにあなたは神の子を身ごもりますよ。その子はインマヌエルと呼ばれますよと伝えている。インマヌエルとは「神、われら共にいます」と言う意味です。そう、いつも神と共にあり、神と共に生き、神の御旨を生きたお方がイエス・キリスト様と言うお方です。

  確かに、イエス・キリスト様は愛のお方でした。赦しのお方でした。慈愛にあふれた方であり、恵みと憐みに富んだお方でした。義なるお方であり、公平で公正なお方でした。しかしこれらは、イエス・キリスト様が神と共に在られたお方であると言いことの結果として現れ出たものです。ですから、神我らと共にいますというインマヌエルということを意識し、神、共に生きると言う生き方ぬきで、イエス・キリスト様のように愛ある者、赦す者、慈愛にあふれた者、恵みと憐みに富む者、正しい者、公平で公正な者になろうとしてもそれは土台無理なことです。

  けれども、私たちがいつも神と共にあり、神と共に生きようと意識するならば、私たちは、義の太陽であるイエス・キリスト様のように、太陽のようになって輝くことができるのです。  みなさん、クリスマスは義の太陽であるイエス・キリスト様がお生まれ下さったことを記念し祝う日でありますが、それは神の王国がこの世界にもたらされたことを祝う日です。そして、私たちが、イエス・キリスト様がインマヌエルなるお方であったように、神が私たちと共にいて下さり、神が私たちと共に歩んで下さる新しい人生がもたらされた日でもあるのです。そのことを覚えながら、今日から始まるアドベントの期間を、神を想い、イエス・キリスト様を思いながら過ごしていきたいですね。みなさん、義の太陽は今日も分け隔てなく、私たちの上で輝き、私たちを導いておられるのです。お祈りしましょう。

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