2018年8月29日水曜日

魂だけでなく肉体も

2018年8月第4主日礼拝説教「魂だけではなく肉体も」           2018.8.26
旧約書;サムエル記上21章1-6節(旧約聖書p.416)  
福音書;ルカによる福音書24章30-42節(新約聖書p.134)
使徒書;ローマ人への手紙8章18-25節(新約聖書p.243)


 みなさん、今日みなさんと共に、分ち合う説教の中心となる箇所は、ルカによる福音書24章30節から42節です。この箇所は、ルカによる福音書24章を構成するイエス・キリスト様の復活にかかわる三つの物語の最後の物語の前半部分です。

 この三つの物語において、イエス・キリスト様が、かねてから聖書にも続きながら、弟子たちにご自分は十字架に架かられ三日後によみがえると予告しておられました。そしてその言葉通りに、祭司長たちやイスラエルの民の指導者的立場にある人たちの謀略によって、十字架に磔られ、アリマタヤのヨセフの配慮によって墓に葬られました。
 その三日後の朝、イエス・キリスト様にガリラヤからついてきていたマグダラのマリヤやヨハンナ、ヤコブの母マリヤと言った女性たちが、イエス・キリスト様が葬られた墓に行ったところ、墓が空っぽになっており、二人の御使い(ルカ24:23)が彼女たちに現れ、イエス・キリスト様がよみがえられたと言うことを宣告するというのが、最初の物語でした。

 このように、イエス・キリスト様がよみがえられたと言うことを告げ下されても、イエス・キリスト様の弟子たちは、そのことを信じることができませんでした。そのようにイエス・キリスト様の復活を信じることができない弟子たちの中にあって、クレオパという人ともう一人の人が、エルサレムからエマオと言う町に向かっているときに、よみがられたイエス・キリスト様が顕われたというのが、二番目の物語です。
 この二番目の物語において、復活したイエス・キリスト様に出会った弟子たちは、それがイエス・キリスト様とは気づきませんでした。それはおそらく、「死んだ人間がよみがるはずはないと言う常識的な考えが彼らの目を閉ざしていたからだと思われます。しかし、その二人の弟子は、イエス・キリスト様が、パンをとり、それを祝福して、パンを裂き、それを彼らにお渡しになられるうちに、彼らは、今、目の前7パンを裂いている御方がイエス・キリスト様であると言うことに気づくのです。そうすると、イエス・キリスト様のお姿が見えなくなった。

 この二番目の物語を受けて、最後の三番目の物語が始まります。その三番目の物語は、いよいよイエス・キリスト様の弟子たちすべてによみがえられたイエス・キリスト様がお現われになる物語です。そして、今日はその前半部分にスポットを当てたいと思います。
 エマオの途上で復活してイエス・キリスト様と出会った弟子たちは、直ちにエルサレムへと取って帰り、自分たちはよみがえられたイエス・キリスト様に出会ったと告げます。そのときすでに、エルサレムにいるイエス・キリスト様の弟子たちの間では、イエス・キリスト様の一番弟子ともいえるシモン・ペテロによみがえられたイエス・キリスト様が顕われたということが話題になっていました。そこにあのエマオの途上で復活のイエス・キリスト様に出会った二人の弟子たちの証言が加わるのです。

 使徒書のコリント人への第2手紙13章1節には「すべての事がらは、ふたりか三人の証人の証言によって確定する」と言われていますが、この聖書の言葉によれば、イエス・キリスト様がよみがえられたと言うことを3人の人物が証言してるのですから、本当でしたら、このことはもはや確かなことであると他の弟子たちも認めざるを得ないはずです、ところがどうやら、三人の証人がいても、それでもなお他の弟子たちにはイエス・キリスト様がよみがえられたということが信じきれなかったようです。それほど死人がよみがえるという話は信じられない突飛な話に思えたのでしょう。
 そのような中「シモン・ペテロによみがえられたイエス・キリスト様が顕われた」という話とエマオの途上で復活したイエス・キリスト様に出会った」という二人の弟子たちの証言が語られているまさにそのときに、よみがえられたイエス・キリスト様が彼らのところにお立ちになられた。ところが、そのよみがえられたイエス・キリスト様が彼らの前に顕われたにもかかわらず、彼らは、そのイエス・キリスト様を見て恐れ驚いたと聖書は津得ています。そして、彼らはそれは、イエス・キリスト様の霊を見ているのだと思った。

 口語訳聖書では「霊をみているのだ」と思ったとなっていますが、最も新しい新改訳聖書(新改訳2017)では、この霊と言う言葉、ギリシャ語ではπνεῦμαとなっていますが、そのπνεῦμαを幽霊と訳していますし、新共同訳では亡霊と訳しています。
 πνεῦμαと言うギリシャ語は、非常に広い意味と用いられ方がありますが、その中にはたしかにπνεῦμαには、死人の霊といったニュアンスの意味もある。ですから、亡霊や幽霊と訳しても間違がっているわけではありません。もっともここで幽霊とか亡霊と訳されるπνεῦμαが、いわゆる日本的な幽霊であるとか亡霊と同じかというと必ずしもそうではないように思います。日本における幽霊とか亡霊と言うのは、何かしら怨念や恨みというものに結びついているからです。

 そう言った意味で、日本的なニュアンスで幽霊や亡霊に対する恐ろしさの背後には、恨みや憎しみというものに対する恐れと言ったものがあります。しかし、このπνεῦμαを死んだ人の霊と言う意味で、幽霊や亡霊と訳し、そこに恐れを感じるというのは、私たちが幽霊や亡霊に感じる恐れとはちょっと違うかもしれません。
 むしろそれは、本来あるべきものではないもの、理解できないものを見た恐ろしさと言っていいだろうと思います。なぜならば、ここで恐れ驚いているのは、イエス・キリスト様の弟子であり、その弟子の中でも第一世代の弟子だからです。加えて、ユダヤ人でありました。

 みなさん、古く古代から人間というものを理解する際に、人間を霊と肉という二つの要素で考える2元論的な捉え方と、霊と肉と魂という三元論的な捉え方をする見方がありました。たとえば、二元的な見方はギリシャの哲学者プラトンなどに見られますし、3元論的な見方は、オリゲネスと言った神学者などに見られます。聖書におけるパウロなどは、二元論的な表現も三元論てきな表現もどちらも使っていますが、しかし、原則的にユダヤ人は人間を霊と肉の二つの要素で捉える2元論的な見方をします。
 もっとも、ユダヤ人は確かに、人間の中に霊と肉と言う二つの要素を見ますが、決してそれは別々に切り離されてはいません。人間は霊だけでは存在しませんし、肉だけでも人間として存在できないのです。ですから、イエス・キリスト様の弟子たちが、よみられたイエス・キリスト様を見て「幽霊を見たのだと思い、恐れ驚いた」たのは、本来は霊と肉とが一体となった人間であるのに、肉体を伴わない霊というあり得ないものを見た驚きであり、自分の理解を超えたよくわからない存在に出会った恐れなのです。もちろん、彼らの理解は間違っており、イエス・キリスト様は霊と肉とをもってよみがえられたのですが、とにかくその時の弟子たちは、霊だと思った。

 私は昔、中学生のころ読んだある文章が強く心に残っており、それを今でも覚えている。それは、確か国語の授業で読んだ文章であったと思いますが「なぜ、幽霊が怖いのか」と言うタイトルの文章でした。
 その文章でいう幽霊の怖さは、急に蛇に出くわした時に蛇を怖いと感じる感情に似ていると言うのです。その文章を書いた人は、なぜ急にできわしたときに蛇が怖いというと、それは蛇の姿かたちにあるのではないと言います。蛇の姿かたちが怖いのなら、人間は長いもの、例えば縄や水ホースなどを見ても怖いと感じるはずだが、そのようなことはない。また、あの鱗を持った姿が怖いのかというと、蛇を怖いと感じる人でも、同じような鱗を持った魚を怖いとは感じない。だとすれば、蛇の怖さはそのようなところにあるのではないと言うのです。
 そして、蛇が怖いのは、普段、岩陰や草むらに潜んでいて、いそうもないところから突然、現れれる。しかも、蛇が岩陰に潜んで何をしているのかなど私たちは知らないわけで、そのように、何をしているのか、そこにいるのかいないのかわからない日常性が欠如した存在が突然目の前にパッと表れる。だから蛇が怖いのだと言うのです。そして、幽霊が怖いのも同じなのではないかと言う。

 たしかに、幽霊がどこにいて、どのような生活をしているか。それこそ、私たちと同じように、洗濯をしたり、買い物したりすると言う日常性を持っていたならば、仮に突然幽霊に出会うことがったとしても、それこそ、町で突然、十数年あっていなかった友達に出会った時に、驚くことはあったとしても「よっ、ひさしぶり」と挨拶をかわすように、決して怖いと感じることがないでしょう。でも、幽霊は怖いと感じる。それは幽霊には、私たちと同じ日常性がないからです。幽霊と私たちの間にはつながりがない。連続性がないのです。
 それは、私たちには決して理解できない私たち人間の理解を超えた異質の存在なのです。だから恐れを感じる。そのような、私たちの取り巻く世界にはない何か異質なものと出会う時、恐れを感じるということがある。それが幽霊の持つ怖さであると言うのです。
 だとすれば、ここで弟子たちが、蘇られたイエス・キリスト様と出会い、このお方との出会いに、幽霊を見たと思い恐れを感じたというのは、まさに、そのような、私たちの理解を超えた異質な存在との出会いの際に感じる恐れであったと言えます。
 ところが、このような、あり得ない者、自分の理解を超えた存在に出会った時の恐れや驚きというものは、宗教の中核をなす一種の、そして大事な宗教経験なのだという人がいます。例えば、宗教学者のルドルフ・オットーという人は、言葉では言い表せない存在、自分の理解を超えた存在に出会う時、恐れと同時にそれに引き付けられる感情が若き上がると言い、そのような感情をヌミノーゼと名付けました。そして、このヌミノーゼのような感情が、宗教の根幹であると言うのです。
 そう言った意味で、このエルサレムにいた弟子たちの内に起こった恐れと驚きは、イエス・キリスト様を神だとして崇める彼らの宗教性を養うためには有益なものとなったかもしれないのです。ところがイエス・キリスト様は、ご自分が肉体を持たない、幽霊や亡霊であること、つまり死人の霊を否定します。
 そして、ご自分の手足を見せ、魚までも食べられて、ご自分が霊だけの存在ではなく肉体をも持った存在であることをお示しになった。そして、復活したご自分と弟子たちとの間に連続性があることをお示しになる。私たちとイエス・キリスト様が繋がっていることをお示しになるのです。
 みなさん、ここのところが大切です。イエス・キリスト様は霊と肉を持ったまさに生きた人間としてよみがえられたのです。ここにイエス・キリスト様の受肉と復活の意味がある。
 
 確かにイエス・キリスト様は神のひとり子なる神であり、礼拝されるべきお方であり、賛美されるお方であり、崇められる御方です。もし、それだけならば、イエス・キリスト様は、幽霊だと思われるような霊として、弟子たちに現れた方が、弟子たちの中に確固たる宗教経験を受け付けるためにはよかったのかもしれない。
 けれども、キリスト教という宗教は、ただイエス・キリスト様を礼拝し、賛美し、崇めるだけのもので終わってはいけないのです。むしろ、イエス・キリスト様が、肉体をもって生まれ、生き、そして肉体をもって復活なさったように、私たちも神の前に、具体的な日常生活の中で、イエス・キリスト様のように生きて行くことで、キリスト教と言う宗教は完結するのです。
 そして、キリスト教と言う宗教は、私たちの霊だけではない、肉体も聖なるものとして贖ってくれるのです。みなさん、私たちは先ほど使徒書の中のローマ人への手紙8章18節から25節のお言葉に耳を傾けました。そこでは、被造物全体が救われることを願っていると言うことが書かれています。
 この被造物というのは、、神がお造りになったすべてのものです。そして、物質的世界です。その被造物全体が、今の時に贖われ、滅びの縄目から解放され、救われることを願い求めて、うめき苦しんでいるというというのがこのローマ人への手紙8章18節から25節が言わんとしていることです。つまり、イエス・キリスト様がもたらした救いとは、単に私たちの心や霊や魂が救われると言うだけではない、肉体をも救って下さるのだと言うのです。
 ですから、救いとは、単に赦されると言った言葉では言い尽くせない、もっとおおきなもの、言わば霊と肉をもって存在する私たちの存在にすべてを包み込んで救う存在の救いと言ってもよいものです。
 それは、私たち人間の霊と肉とは決して切り離すことができない存在だからです。ですから、救いとは、単に霊だけ救われて天国に行くと言うことではなく、霊と肉とを持った存在として、神が私たちを救って下さる存在の救いなのです。

 ローマ人への手紙8章18節から25節は、そのことを私たちに示している。そのローマ人への手紙8章18節から25節にあって、23節において聖書は、

   それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめ
  きながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待
  ち望んでいる。 それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、
  心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわ
  れることを待ち望んでいる。

と言うのです。ここでは、私たちの肉体がまだ贖われていない現実が語られています。だから、「体があがなわれることを待ち望んでいる」と聖書は言うのです。たしかに、私たちはイエス・キリスト様のように、復活した人をまだ見ていません。見たことがないのです。だから、体があがなわれると言うことは待ち望まなければならない出来事です。
 けれども、大丈夫です。さきほども申しましたように神は私たちの霊だけではなく、肉体までも心にかけて下さり、救って下さるお方だからです。
 みなさん、先ほど司式の兄弟に旧約聖書のサムエル記上21章1節から6節までをお読みいただきました。この箇所は、ダビデが、サウルに命を狙われて逃亡しているとき、律法では本来は祭司か食べてはならない神にささげられた祭儀用のパンを食べたという出来事が記されています。
 この出来事は、イエス・キリスト様の弟子たちが安息日にしてはならないとされていた麦の穂を摘むという収穫の行為を射たことをパリサイ派の人たちにとがめられた際に、イエス・キリスト様が引用された出来事です。そのことがマルコによる福音書2章23節以降に書かれていますが、この出来事が示していることは、宗教的な祭りごとを通して神を崇めることは重要であるけれども、それ以上に神は私たちの存在を顧み、その肉体のことまで配慮下さっていると言うことです。だからこそ、イエス・キリスト様は、本来祭司しか食べてはならないパンを空腹のダビデに与えたというこのダビデの物語を引用したのではないでしょうか。

 みなさん。私たちは、霊だけの存在ではありません。霊と肉体とを持った存在です。ですから、神を礼拝し、神を賛美し、神を崇めるとき、ただ霊だけでそれをするのではありません。肉体をもってするのです。同様にみなさん、私たちは霊だけが天国に行くのではありません。体もまた贖われ、イエス・キリスト様のように復活し、霊と体をもって神の国である天国へと迎え入れられるのです。そのことを忍耐をもって待ち望むことが大切です。

 このルカによる福音書が書かれた時代、地中海世界にはグノーシス主義という哲学的な考え方がありました。そしてキリスト教にもいろいろと悪い影響を与えていた。というのもグノーシス主義もまた、ユダヤの民のように霊と肉との二元論に立っていたのですが、しかしグノーシス主義はユダヤの民とは異なり、霊と肉とを分断し霊をよきものとして、肉を堕落した汚れた存在として悪だとみていました。そして、霊が肉体から離れるために叡智を手に入れることを重んじていました。ですから、霊である神が肉体をとることなどとはとても考えられなかったのです。
 おそらく、ルカによる福音書の著者であるルカは、このグノーシス主義のことを知っていたでしょう。また、グノーシス主義のことを意識もしていたと思われます。だから、イエス・キリスト様が肉体をもって復活し、魚を食べたと言う出来事を取り上げて福音書に書き記しるした。それは、私たちのからだもまた神が創造されたものであり、聖なるものだからです。
 ですから、私たちは、私たちの聖なる肉体を聖なる神の業のために用いることが大切になりますし、また用いることができる。そして肉体が聖なるものだからこそ、聖なる神に民となり、聖なる神の民とされたもの肉体は、イエス・キリスト様のように、よみがえらされるのです。それは、まだ見ていない、忍耐して待ち望んでいる希望です。その希望は確実に現実になる時がくる。必ずくる。だからこそ、忍耐をもって待ち続けると言うことが、キリスト教の信仰において重要なことです。

みなさん、私はこのルカによる福音書の24章の一連の復活の物語を読み解きつつ、キリスト教の救いは、私たちの人生が書き換えられ、新しい生き方を生きることだと申し上げてきました。それらはいうなれば、私たちの意識の持ち方、あるいは意思にかかわる問題で体があがなわれることではなく、霊の救いであると言えるものです。
 しかし、キリスト教の信仰における救いは、そこだけに留まるものではありません。霊が救われるだけでなく、体もあがなわれ救われるのです。肉体をもって復活すると言うことそれは、まさに体があがなわれることです。この体があがなわれることによる復活の希望、それは空しい希望ではありません。イエス・キリスト様の復活の出来事によって表された信実な神の約束なのですなのです。

そうです皆さん。神は私たちの霊や魂だけを救うお方ではありません。霊も肉体も顧みてくださるお方であり、霊も肉体をも救って下さるお方なのです。そのことを覚え、この聖なる体をもって神に喜ばれる生き方をし、希望をもって一日、一日を大切に過ごそうではありませんか。お祈りします。

 




2018年8月21日火曜日

‘18年8月第3主日礼拝説教「目を閉ざすもの、目を開くもの」 

‘18年8月第3主日礼拝説教「目を閉ざすもの、目を開くもの」      2018.8.19
 旧約書;創世記8章13-22節
 福音書;ルカによる福音書24章13-32節
使徒書;へブル人への手紙11章1-3節




  私たちの教会では、ここ数年、ルカによる福音書を中心に礼拝での説教をしてきましたが、そのルカによる福音書からの説教も、先週から、最後の章である24章に入りました。 このルカによる福音書の24章は、イエス・キリスト様の復活の出来事が記されている箇所です。全体は1節から12節までの空の墓の物語、13節から32節のエマオに向かう二人の弟子たちに復活なさったイエス・キリスト様が顕われた物語、そして、33節から52節までのエルサレムにいた弟子たちによみがえられたイエス・キリスト様が顕われた物語の三つの物語から構成されています。 
 この一連の復活の物語は、リレーのように話が受け継がれていきます。1節から12節の最初の墓の物語は、我々に、イエス・キリスト様の生涯を振り返り、思い起こさせつつ、あの弟子たちと共に過ごし、旅をし、教えを語られたイエス・キリスト様が、その語られた言葉通りによみがえられたことを示します。しかし、この空っぽの墓の物語は、そのイエス・キリスト様のよみがえりを信じられない弟子たちの姿で締めくくられます。11節です。そこのはこうあります。

   「ところが、使徒たちには、それが愚かな話のように思われて、それを信じなかっ
  た」。  

 この愚かな話というのは、イエス・キリスト様が、十字架に磔られて死んだイエス・キリスト様がよみがえられたということです。そしてそれは、イエス・キリスト様の弟子たちは、復活言う出来事を事実として受け止められなかったと言うことを意味します。弟子たちは、イエス・キリスト様の墓がからとなっているという出来事を突きつけられ、イエス・キリスト様が「人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる」と言っておられたことを突きつけられても、それでもなお、復活という出来事を信じられなかった。 しかし、イエス・キリスト様が、十字架につけられ、葬られ、更にはイエス・キリスト様の墓が空っぽになっているのです。

 この事をどう考えたらよいのか。弟子たちが戸惑っていたであろうことは、容易に察しできます。 そのような戸惑いの中で、イエス・キリスト様の弟子のクレオパという人と、もう一人の弟子が、エルサレムから6キロほど離れたエマオと言うところに向かって歩いていました。このクレオパという人は、ヨハネによる福音書19章25節で「イエスの十字架のそばには、イエスの母と、母の姉妹と、クロパの妻マリヤと、マグダラのマリヤとが、たたずんでいた」と記されているクロパのことではないかと言われたりしますが、それが確かなことであるという明確な根拠はありません。
 しかし、いずれにせよこのクレパともう一人の弟子がエマオに向かって歩いている道々で、彼らがエルサレムで目撃したイエス・キリスト様が十字架の死に至るまでの一連の出来事と、イエス・キリスト様の墓が空っぽになっていたと言う出来事、そしてその空の墓を目撃した女性たちが、イエス・キリスト様が、かねてガリラヤで言われていたようによみがえられたと言っていることについて議論をしていたと言うのです。
  こうして、24章1節から12節の空っぽの墓の物語は13節から32節のエマオの途上の物語に引き継がれるのですが、当然、このエマオに向かって歩く二人の弟子もまたイエス・キリスト様がよみがえられたと言うことを信じることはできない。だから道々議論をしているのです。そこによみがえられたイエス・キリスト様が顕われ、この二人の弟子たちに近づき共に歩きはじめます。
  ところが、この二人の弟子たちは、それがイエス・キリスト様だと気づかないのです。ここがこの物語の面白いところです。イエス・キリスト様がよみがえられたと言うことができない弟子の目の前に、よみがえられたイエス・キリスト様があらわれた。なのにこの弟子たちは、それがイエス・キリスト様だとは気づかない。これは一体どういうことなのだろうかと、実に興味がそそられるところでありますが、聖書は「二人の目がさえぎられていて、イエスであることがわからなかった」と記しているだけです。

  では、二人の目を遮ったものは何か。いろいろなことが考えられるでしょう。しかし、このルカによる福音書の文脈から読み取れるものは、彼らがイエス・キリスト様の復活のっ出来事を信じられないということです。それはあり得ないことだと思っている。もちろんそれは、ある意味止むを得ないことだと言えます。死んだ人間がよみがえると言うことなど、常識的には考えられないことだからです。 実際、使徒行伝17章16節以降にはパウロのアテネ伝道に事が記されていますが、最初はパウロの話に興味をもって耳を傾けていた人たちが、パウロがイエス・キリスト様の復活の出来事を話し出した途端、去って行ったと言う出来事が記されています。これなどは、死人がよみがえることなどありえない馬鹿げた話だと考える、ごく一般的な人、常識的な人の姿であると言ってもよいでしょう。
  死んだ人間がよみがえるはずがない。そんな馬鹿なことは考えられない。それは現代に生きる私たちも思うことです。同じようにイエス・キリスト様の時代のユダヤ人も、ギリシャ人も死んだ人間がよみがえるなどとは考えられないのです。だから「そんなことがあり得ようはずがない」と断定する。そしてこの断定は、先入観ともなりますし、偏見、あるいは決めつけといったものにもなる。そして、そういった先入観や偏見、きめつけというものが、目を閉ざしまうと言うことがある。そのようなことがこの場面で起こっていたと言えます。いずれにせよ、死んだ人が生き返ることはないという常識的な考えが、イエス・キリスト様がよみがえられたと言うことを信じることの弊害になっていたことは間違いありません。

 しかし、このルカによる福音書の24章の三つの物語が一貫して私たちに求めていることは、その信じられないことを信じると言うことです。聖書の言葉を信じ、イエス・キリスト様の言葉を信じる。そのことをこのルカによる福音書は復活の物語は私たちに求めている。
  もちろん、聖書の言葉を信じるといっても、闇雲に盲信しなさいと言うことではない。聖書の中には人間の知性によって深く考えなければならないこともある。また、神学と言う営みを積み上げて探求する中で理解しなければならないこともあるでしょう。しかし、少なくとも、イエス・キリスト様が十字架に付けられ三日目によみがえられたと言う出来事は、信じる事によってのみ受け入れることができる信仰のことがらです。そしてその事柄ことなしに、私たちがイエス・キリスト様を知り、このお方とお出会いすると言う経験をすることができないのだとこのルカによる福音書の復活の出来事は語っているのです。
 みなさん。信じると言うことは信仰の中心にある事柄です。それは理解すると言うことでも、わかると言うことでもありません。11世紀の神学者アンセルムス(1033-1103年)は、「信じるために理解するのではなく、理解するために信ぜよ」と言いましたが、このアンセルムスの言葉は信仰というものの本質を非常によく言い表しています。ともうしますのも、理解することができれば、それはもはや信じる必要がないからです。理解できないから信じることが必要になる。信仰とは理解し納得できたから信じると言うのではなく、自分の知性では理解できない事柄ではあるが、そのことを信じ信頼し、そのことに自分の人生を賭けると言うことなのです。そうすると、その理解できない事柄の背後にある信仰の事柄がわかって来るとアンセルムスは言うのです。
  このことは、先ほどお読みした新約聖書へブル人への手紙11章1節から3節の言葉と根底において相通じるものであります。そこにはこうあります。 

   「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認するこ
  とである。昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。信仰によって、わたしたち
  は、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れている
  ものから出てきたのでないことを、悟るのである 」

 ここで言われている「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することである」と言う事柄は、3節にある「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである 」と言う言葉が指し示す神の創造の業だけではなく、3節以降に述べられている。神の約束や神の言葉を信じる信仰、神に喜んでいただける歩みをしようとする信仰、等々も含みます。
 もちろん、 これらは、復活という理解できないこと、不条理なことを信じる信仰と言うこととは、少し違ったものかもしれません。しかし、ルカによる福音書が求める復活を信じる信仰は、聖書に記されている神の約束としてのイエス・キリスト様の復活を信じる信仰であり、イエス・キリストの言葉に基づくよみがえりのイエス・キリスト様を信じる信仰です。ですから、へブル人への手紙11章で言う信仰とルカによる福音書24章で求める信仰は、その本質において根底で相通じているのです。その信仰が、このエマオの途上にある二人の弟子には欠けていた。

  この二人の弟子たちは、この都でこの時にイエス・キリスト様に起こった出来事については十分に知っていました。それこそ、空っぽの墓のことも、そこでマグダラのマリヤをはじめとするガリラヤからイエス・キリスト様に従ってきた女性たちがみ使いから語りかけられたことも、それらすべてのことを知っていた。けれども、彼らには、彼らの理解を超えた聖書の言葉とイエス・キリスト様の言葉を信じる信仰にかけていたのです。だからこそ、イエス・キリスト様は、彼らのこのように言われ嘆かれる。

    25:「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられな
  い者たちよ。 26:キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずでは
  なかったのか」。

 25節、26節です。このように、「預言者たちが説いたすべての事を信じられない」弟子たちに、それはつまり、自分たちの知性では理解できない聖書の言葉に対して信じきれない弟子たち対して、イエス・キリスト様はもう一度、「モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた」のです。
  このとき、イエス・キリスト様が、この二人の弟子たちにどのように説き明かしをされたのだろうかと言うことは、説教者である私には大変興味のあることですが、残念ながら聖書はそのことについては何も記していませんので知りようがありません。けれども、このイエス・キリスト様が聖書を説き明かすことばが、この二人の弟子の心を揺り動かしたことは確かです。32節で、彼らは互いに、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」と語り合っているからです。   しかし、それでもなお、彼らは自分と一緒に歩き、聖書を説き明かしておられる方がイエス・キリスト様だとは気が付かないのです。そこには、変化がある。ここが内に燃えると言う変化がある。けれどもなお信じ切れない弟子の姿もそこにある。

 彼らはイエス・キリスト様の弟子です。いうなればクリスチャンです。それでも自分の知性では理解できない神の言葉に信頼しきれないでいる。心は既に動き、変化し始めている。けれどもまだ開けかれない。わからない。でも彼らはその理解できないことを知りたいのです。わかりたいのです。だから、この二人の弟子たちは、あえてイエス・キリスト様を引き留めて、一緒の泊まろうとする。28節、29節です。
   
   28:それから、彼らは行こうとしていた村に近づいたが、イエスがなお先へ進み行か
  れる様子であった。29:そこで、しいて引き止めて言った、「わたしたちと一緒にお泊
  まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。イエスは、彼らと共
  に泊まるために、家にはいられた。」。

 この二人の弟子たちとイエス・キリスト様が泊まれたその家で、ついにこの弟子たちのの目が開かれ、そこによみがえられたイエス・キリスト様がおられると言うことが分かるのです。それは、何かを論理的に説明する言葉によってではありませんでした。イエス・キリスト様が食事の際にパンを取り、神をほめたたえそれを裂いて弟子たちに手渡した時に起こったのです。イエス・キリスト様が聖書の言葉を説き明かされるその説きあかしによって揺り動かされた心が、パンを取り、神をほめたたえそれを手渡すその行為によって、決定的に変えられたのです。
  しかし、なにゆえこのパンを取り、神をほめたたえそれを手渡すと言う行為が、二人の弟子たちの目を開く決定的なものとなったのか。おそらくそれは、このパンを取り、神をほめたたえそれを手渡すと言う行為が、あの最後の御晩餐と言われる過ぎ越しの食事を、この弟子たちに想起させたからだと思われます。実際、この箇所を読む私たちにでさえ、イエス・キリスト様のこのパンを裂く行為が聖餐式を思い起こさせ、最後の晩餐の出来事を思い起こさせるからです。
  イエス・キリスト様は、過ぎ越しの夜、パンを裂きこのように言われました。ルカによる福音書22章19節から20節です。

    19:またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これ
  は、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、この
  ように行いなさい」。 20:食事ののち、杯も同じ様にして言われた、「この杯は、あ
  なたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である。21:しかし、そこ
  に、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に食卓に手を置いている。22:人の子は定めら
  れたとおりに、去って行く。しかし人の子を裏切るその人は、わざわいである」。

  この過ぎ越しの食事の場面を思い起こす時、イエス・キリスト様は、この言葉通りに十字架に付けられ、十字架の上で死んでいかれたのです。まさに、イエス・キリスト様の言葉が現実となった。その現実を彼らは自分の目で見ていた。パンを取り、神をほめたたえそれを手渡すその行為は、そのことを弟子たちに、そして私たちに突き付けてくる。 その時に、その時にです。みなさん、二人の弟子たちの目が開かれたと聖書は言うのです。聖書の説き明かしでは、心揺り動かされても決定的に目を開かれるところにまでは行かなかった心が、イエス・キリスト様の最後の晩餐を想起させる行為によって目を開かれるのです。
 
  私は、この事を思う時、信仰における儀式の大切さを思わされます。それは、アメリカの宗教学者ヨアキム・ワッハという人の言葉の中にも現れている。ワッハは、宗教を構成する要素には、教えと儀式と教団だと言います。私たちキリスト教会に当てはめれば、教えとしての聖書とそれに基づく教理、儀式としての洗礼や聖餐、そして礼拝、教団としての教会と言ったところでしょう。そして、それらの根底に何らかの宗教経験があると言うのです。 ワッハの言わんとしていることは、こういうことです。人間は何かの宗教経験を持つ。それが信仰の根幹にある。そしてその宗教経験を言葉として伝え表す時、そこに宗教的な教えが生まれてくる。私たちで言えば、聖書です。しかし、宗教経験は一種の神秘的敬虔ですから言葉で十分に表しきれないものがある。だから、その言葉で表しきれないものを表現する儀礼が生まれてくる。洗礼や聖餐です。そして、そのような教えと儀礼を共に分かち合う群れが生まれるそれが教団だというのです。
  考えてみますと、旧約聖書には様々な儀礼が出てきます。燔祭や罪際や酬恩祭などの様々な儀礼がありますが、それらは祭壇で行われますが、イスラエルの民がその祭壇を築いたと言う出来事が、私がざっと数えた限り旧約聖書に43回ある。中には、アロンが金の子牛を神として、その神のために祭壇を築いたと言う出エジプト記32章5節や、列王記上16章32節にあるアハブ王がサマリアにバアルと言う偶像の神のために祭壇を築いたという失敗例もいくつかありますが、基本的にイスラエルの民が祭壇を築いたのは聖書の神を礼拝するためです。
  そのイスラエルの民が祭壇を築いた最初の例が、先ほどお読みいただいた旧約聖書の創世記8章13節から22節の記述にある。これは、あの有名なノアの箱舟の物語、つまり、神が地上の人間に悪がはびこっているのを見て、神の裁きとして洪水で悪に染まっている人間を滅ぼし去られたけれども、ただ一人神の前に正しい人であったノアとその家族を救うために箱舟を作らせ、ノアとすべての生き物のつがいをその箱舟に乗せ、お救いになったと言う物語の結末がつづられている箇所です。
  その結末とは、箱舟に乗って神の裁きから救われたノアの家族が、洪水の水が引いた地に降り立った時に、祭壇を築き全焼のいけにえを献げたと言うことです。つまり、祭壇を築き、全勝のいけにえを捧げて神を礼拝すると言う行為は、神が罪が支配した世界から贖い出してくださり救って下さったという救いの経験を覚え、感謝する行為として行われているのです。 そのように、旧約聖書において、イスラエルの民は、神の救いの業を神を礼拝と言う行為を通して表してきた。そこには、神がイスラエルの民を神に民としてくださったという共同の経験があるのです。逆を言えば、イスラエルの民が祭壇で行われる宗教儀式に与るたびに神の救いの業を思い起こし、その救いの業が自分の内にも起こり、イスラエルと言う神の民の共同体の一員とされていることを確認するのです。 それと同じように、あのエマオの途上にあった二人の弟子は、イエス・キリスト様がこのパンを取り、神をほめたたえそれを手渡すと言う行為を通して、あの最後の晩餐の時のことを思い出し、過ぎ越しのパンとぶどう酒に与った自分たちは、イエス・キリスト様の十字架の死によってもたらされた新しい契約に与り、神の救いに与り、イエス・キリスト様がもたらした神の国の民とされたのだと言うことを受け止めたのではないかと思うのです。それは、まさに彼らの宗教経験だと言えます。その宗教経験を思い起こしたその時に、彼らの目が開かれた。

  みなさん、信仰の言葉、聖書の言葉は、理解できないことが一杯あります。イエス・キリスト様が私たちを罪から救って下さるために十字架に磔られて死なれたのだ。そして、それを信じる者は、イエス・キリスト様と結ばれて新しく神の子として生まれ、人生の物語が新しく書く変えられるのだと言われても、なかなか実感をもってそれを受け止めることが難しいかもしれません。
  けれども、洗礼や聖餐はそのことを私たちに知らせる行いを通して示される神の言葉
です。聖書の言葉や信仰の言葉を知性でできなくとも、神の恵みを伝えてくれるものです。 洗礼を受け、聖餐に与るとき、これらの礼典が、私たちがイエス・キリスト様を信じ、この御方の弟子となったことを証しし、思い起こさせます。そして、この洗礼を受け聖餐に与っている事実が、私たちの目を開いて行くのです。
  何かの時にはっと目が開かれ、神の救いの業、恵みの業に気が付く、聖書の言葉がわたしに語りかけ私を導いていると言うことに気づくのです。ですから、みなさん。私たちが、洗礼を受けてクリスチャンなったということ、そして聖餐に与るものとされているということをは、まさに、私たちが救われ、イエス・キリスト様と一つに結ばれて神の民とされたということを私たちに想起させ、確認させる神の言葉なのです。 そのことを覚えながら、神の言葉である聖書の言葉を信じ、その言葉が指し示すように神の民、神の子とされたと言うことを信じて生きて行きたいと思います。その信仰が、私たちの目を開き、「信じるがゆえに理解する」という信仰者の知性を生み出して行くのです。
お祈りします。

2018年8月16日木曜日

キリストを思い起こせ

2018年8月12日 小金井福音キリスト教会 説教

聖書個所
 ・詩篇 第103篇1-5節
 ・ルカによる福音書 第24章1-12節
 ・テモテへの第二の手紙 第2章8-13節

説教題「キリストを思い起こせ」

 今日の礼拝説教の中心箇所でありますルカによる福音書24章1節から12節は、イエス・キリスト様の復活の出来事が記されている箇所です。そして、そこには空になった墓の物語が記されている。この空になった墓の物語は、マタイ、マルコ、ルカ、そしてヨハネによる福音書の四つの福音書すべてに書かれてます。それだけ、イエス・キリスト様が復活なさったと言う出来事は、キリスト教の信仰において重要な事柄なのです。

 実際、パウロはコリント人への第一の手紙15章17節で「もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう」と言います。また、ローマ人への手紙10章9節では「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」とも言っている。

 とりわけ、このローマ人への手紙10章9節は重要です。というのも、パウロはここで、「イエス・キリスト様が私たちの罪を赦すために十字架に架かって死なれたことを信じるならば救われる」と言うのではなく、「神が死人の中からイエス・キリスト様をよみがえらさせたと信じるならば救われる」と言っているからです。

 みなさん、パウロはイエス・キリスト様の十字架の死を軽んじめているわけではありません。たとえば、コリント人への第一の手紙1章22節23節で「ユダヤ人はしるしを請い、ギリシャ人は知恵を求める。しかしわたしたちは十字架に付けられたイエス・キリストを述べ伝える」と言います。更には、2章2節において「なぜなら、わたしはイエス・キリストを、しかも十字架に付けられたイエス・キリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。」とも言っている。

 もちろんこれらの言葉は、「私はパウロにつく」とか「アポロのつく」とか、あるいはペテロにつく」とか言って分派し、教会が分裂しそうな状況の中にあったコリントの教会の人々に対して語られた言葉であるということを無視することはできません。つまり、これらの言葉は、自分たちこそが正しいと自己主張をし合い、分裂状態にあった教会に、神のひとり子であるお方が、人となって十字架の死に至るまで、神に従順に従って生きた謙遜な姿を思い起こさせ、互いに謙遜になり、一致して生きて行くことを示すための言葉だったのです。

とは言え、それでもなお、これらの言葉が、パウロがイエス・キリスト様の十字架の出来事を決して軽んじていないことを示していることに変わりはありません。パウロは、イエス・キリスト様が十字架の上で死なれたと言う事実を大切なことであると認めているのです。しかし、そのようにイエス・キリスト様の十字架を大切なことだと受け止めているパウロが、「十字架の死を信じれば救われる」とは言わず、「神が死人の中からイエス・キリスト様をよみがえらさせたと信じるならば救われる」と言うのです。それほど、イエス・キリスト様が復活させられたと言うことは、私たちキリスト教信仰にとって大切なことなのです。

その復活の出来事が起こった日の事の次第を、今日の聖書個所ルカによる福音書24章は記している。特に、1節から5節には復活なさった日の朝の空っぽになった墓の出来事が記されているのです。

 実は、このイエス・キリスト様の空っぽになった墓の物語は、先ほど申しましたようにマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四つの福音書に記されています。しかし、それぞれの記事を読み比べると、そこには微妙に違いがある。その微妙な違いが何かは、今日は時間の関係がありますのでご紹介することができません。ですから、後でみなさんお一人お一人が読み比べていただければと思います。ただルカによる福音書における空っぽになった墓の物語の特徴な出来事についていうならば、(これはマルコによる福音書の短い結語にも共通することではあるが、しかしマタイとヨハネと異なる違いとして)、ルカによる福音書の空っぽの墓の物語には、よみがえられたイエス・キリスト様ご自身がそのお姿を現していないと言う点です。

 マタイのよる福音書とヨハネによる福音書には、この空っぽになった墓の物語と結びあわされて、よみがえられたイエス・キリスト様がペテロやマグダラのマリヤに現れたと言ういわゆる顕現の出来事が記されています。しかし、ルカによる福音書には、そのことがぬけ落ちているのです。代わりにあるのが、「思い出してみなさい」と言う言葉です。これは、ルカによる福音書だけにある言葉であり、6節7節の文脈で語られています。そこにはこうあります。

   5:女たちは驚き恐れて、顔を地に伏せていると、このふたりの者が言った、「あな
  たがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。6:そのかたは、ここにはお
  られない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話し
  になったことを思い出しなさい。7:すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十
  字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか」。

 マタイによる福音書でもマルコによる福音書でも、イエス・キリスト様があらかじめよみがえられることを予告していたということを、「かつて、あなたがたに言われていた通りよみがえられた」と一方的に宣告する形で伝えています。それに対して、ルカによる福音書では、空っぽの墓にやってきた女性たちに「思い出しなさい」と呼びかけている。一方的に宣告するのでなく、自分自身の心の中に、かつてガリラヤで彼ら自身が経験したこと、すなわち彼らに語りかけられたイエス・キリスト様のお姿と言葉を思い起こさせているのです。そして、その女性たち、それはマグダラのマリヤやヨハンナと呼ばれる女性やヤコブの母マリヤ達ですが、その女性たちは「思い出せ」と言う言葉に促されて「人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる」と仰せられたイエス・キリスト様のことを思い出す。

 このことが、このルカによる福音書がもつ特徴であり、また極めて重要なことの一つのように思われるのです。それはつまり、ルカによる福音書のからの墓の物語は、イエス・キリストの様の生涯を思い起こすようにと想起を促していると言うことです。

 みなさん、このルカによる福音書は、ローマの高官テオピロという人あてに書かれた者です。もちろんそれは、なにもテオピロと言う個人だけでなく、その周囲にいた人たちにも読まれることを期待されて書かれていると言ってもいいでしょう。そして、テオピロがローマの高官である以上、彼に周りにいた人々もほとんどがローマ人であると考えられます。当然、そのような人々はイエス・キリスト様のことを知っているわけではありません。

 そのようなルカによる福音書の読者が、イエス・キリスト様が、「あなたがたにお話しなさったことを思い出しなさい」と言う言葉に触れたとき、当然、彼らは、このルカによる福音書に記されたイエス・キリスト様のご生涯を思い起こし、その行動と言葉を思い出す。

 もちろん、このルカによる福音書の著者であるルカ自身は、そのように想起を促す意図をもって、「思い出しなさい」と言う言葉をここに書き記したわけではないでしょう。ルカが手にしている復活の物語に関する資料にそのようなことが記されているからルカは「思い出しなさい」と記している。しかし、このルカによる福音書を記すように導き、記すための資料や言葉の選択の一つ一つを導かれたのは聖霊なる神です。その聖霊なる神が、ルカに働きかけ、「思い起こすように」と言う言葉を選ばせた。その結果、ルカよる福音書の読者が、その福音書に記されたイエス・キリスト様のご生涯とその言葉を、この空っぽの墓の物語を通して思い起こすのです。しかも、その読者たちは一度もイエス・キリスト様にお出会いしたことのない読者なのです。

まだ、復活したイエス・キリスト様にお会いしていなマグダラのマリヤやヨハンナやヤコブの母マリヤに対して語られた「思い出しなさい」と言う言葉が、まだ一度もイエス・キリスト様にお出会いしていない異邦人のテオピロとその周囲にいた人たちに、ルカによる福音書という聖書の言葉を通して、イエス・キリスト様のご生涯とイエス・キリスト様の語られた言葉を思い出させるのです。そしてみなさん、それがイエス・キリスト様の復活と言う出来事に結びつけられていく。

 それはあたかも、イエス・キリスト様のご生涯の全てが、この復活と言う出来事に集中し、焦点を合わせているかのようです。そうです、みなさん。この「思い起こしなさい」と言う言葉は、神に従い、神の言葉に忠実に生きられたイエス・キリスト様のご商顔を思い起こさせる。そしてイエス・キリスト様の復活は、死と言う出来事に勝利をし、死をも乗り越えらえたイエス・キリスト様と私たちを出合わせ、そのイエス・キリスト様の勝利を私たちに与えると言う希望を示し、私たちに教えてくれるのです。

 みなさん、私たちは先ほど詩篇103篇1節から5節までの言葉を読みました。この詩篇103篇が書かれた背景については、よくわかっていませんが、イスラエルの民がバビロン捕囚から解放されて自分たちの国に帰還した出来事やあるいはエルサレムが再建された出来事が背景にあるのではないかと言われています。そのよう中で喜びの出来事の中で、神を誉め称え、「神の恵み」を心にとめよと言うのです。

 この神の恵みを心にとめよという言葉は(詩篇103篇)2節にありますが、新改訳聖書では、「主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな」、新共同訳聖書では「主の御計らいを何一つ忘れるな」となっています。どちらも良い訳だなと思う。神が私たちにしてくださったこと、それは神の御計らいによるものであり、私たちにとって素晴らしく良いものです。そして、その神の御計らいの業のもっとも頂点にあるものが、イエス・キリスト様と言うお方のご生涯であり、イエス・キリスト様語られた言葉、語られた教え、そして「この世」にあって生きられた生き方そのものなのです。それが、私たちに死に打ち勝つ勝利を与え、私たちに永遠の命という神の命を与え、私たちを救うのです。

 だから、イエス・キリスト様と言うお方は、この神の恵みそのものであり、神が私たちになしてくださった最も善きことなのです。ですから、このイエス・キリスト様と言うお方のご生涯とその言葉を、何一つ私たちは忘れることなく、思い起こすことが大切なことととなる。それこそ、誰かから、「イエス・キリスト様がこういっただからこうだ」と一方的に教えられるではなく、私たち自身が、聖書に記されたイエス・キリスト様のご生涯を思い起こし、イエス・キリスト様の言葉を思い起こしながら生きて行くことが大切なのです。

 それは、イエス・キリスト様が死人の中にたずねられるおかたではなく、生きておられるお方だからです。このルカによる福音書で、マグダラのマリヤをはじめとするガリラヤから来た女性たちが墓の中でであった輝くころを着た二人の人は「あなたがたは、なぜ生きたかを死人の中にたずねているのですか」と問います。それは、イエス・キリスト様が蘇られたことを告げる言葉ですが、イエス・キリスト様の死にイエス・キリスト様のご生涯の意味を見出すのではなく、イエス・キリスト様の生に目を向けるようにと私たちを誘う言葉です。それはイエス・キリスト様の復活を信じ、イエス・キリスト様と結びあわされた私たちもまた、もはや死人の中にいるのではなく、新しい命の中に生きる者となったことを告げる言葉でもあります。

 ローマ人への手紙10章9節で「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」と言うパウロは、先ほどみなさんと共にお読みしました、テモテへの第2の手紙で、「ダビデの子孫として生まれ、死人の内からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音です」と言います。

みなさん、福音とは良き知らせです。神が私たちのもたらす恵みの知らせが福音です。そしてその福音とはイエス・キリスト様が死人の中からよみがえった復活の出来事なのだとパウロは言うのです。そしてその上でパウロは「11:次の言葉は確実である。「もしわたしたちが、彼と共に死んだなら、また彼と共に生きるであろう。」とも言う。

 このパウロのいう、イエス・キリスト様と共に死んだら、イエス・キリスト様と共に生きると言うことは、何も、やがてくる最後の審判という「この世」の終わりの時に救われて神の国に迎え入れられるという将来の希望のことだけを言っているのではありません。もちろんそのような将来の希望も含んではいるでしょう。

けれども、同時に、そしてそれ以上に「もしわたしたちが、彼と共に死んだなら、また彼と共に生きるであろう」と言う言葉は、イエス・キリストと共に死んだ人間は、イエス・キリスト様を模範にし、イエス・キリスト様のように生きる人間となるのだと言うことを私たちに語っている。それは、自分自身の人生の物語が変わる、書き換えらえると言ってもいいことなのです。

先日、私はある勉強会で「あなたにとっての救いとは何ですか」と問われると言うことがありました。以前の私でしたら「救いとは罪が赦されることです」と即答していたでしょう。でも、そのとき「あなたにとって救いとは何ですか」と問われて「罪が赦されることです」と簡単には言えなかった。もちろん、それもあるだろう。でも「私にとって」の「救い」とは、「罪がゆるされる」ということだけなのか。そう考えると、オウム返しのように「罪が赦されることです」とは言えないのです。というのも「罪がゆるされることである」という救いの理解は、私自身が深く考え、神の前に問い、そこから得られた答えではなく、ただ単にそのように教えられて来たことだからです。

そのようなわけで、一週間時間をもらい、聖書全体を思いめぐらし、またイエス・キリスト様のご生涯を思い起こしながら考えた。その結果、「私にとって救われると言うことは、私の人生の物語が書き換えられることだ」とそうお答えしました。それは、福音とはイエス・キリスト様がよみがえられたことにあるからです。

みなさん。私たちの人生は様々なことに絡み取られています。苦しみや痛み、そして悩み。あるいは、様々な心の傷、そして私たちを高慢にする栄誉や欲望、そして実現しなかった夢や願望。私たちはそういった様々なものに縛り付けられ、そこに感情が生まれ、悲しんだり、憎んだり、自分自身哀れに思ったりする。そんな人生の物語が、イエス・キリスト様と出会い変わっていく。それまでの悲しみや憎しみや自己憐憫でつづられた人生の物語が書き換えら、新しい意味が与えられ、イエス・キリスト様のように変えられていく人生を生きることができるように変わっていく。

みなさん、そこに救いがあるのです。今、ここでの救がある。そうですみなさん。今、私たちは救われ、今、私たちは、新しい生き方に招き入れられ、今、私たちは新しい人生を、新しい生き方を生きてている。そこにイエス。キリストと共に生きる救いの物語があるのです。だからこそ、イエス・キリストを「思い起す」ことが大事なのであり、「復活を信じることによって救われる」のです。

 マグダラのマリヤやヨハンナ、ヤコブの母マリヤは、、空っぽの墓の出来事によって、かつてイエス・キリスト様と共にすごし、その教えを聞いたときのことを思い起こさせられながらまだ出会っていない復活のイエス・キリスト様のことを知らされます。そして、私たちもまた、イエス・キリスト様の復活の出来事を通して、聖書を通して知ることの出来るイエス・キリスト様のご生涯を思い起こさせられながら、イエス・キリスト様にように生きる私たちに新しい人生の物語が与えられることを知らされるのです。

 そのようなことは信じがたいことかもしれません。イエス・キリスト様の復活の物語を聞いても、なかなか信じられなかった弟子たちのように、私の人生が新しく書き換えられていくと言われても、それは信じがたいことかもしれません。しかし、パウロが「もしわたしたちが、彼と共に死んだなら、また彼と共に生きるであろう」という言葉に対して「この言葉は確実です」と言ったように、それは確かなことなのです。

 なぜならば、イエス・キリスト様は確かによみがえられたお方だからです。そして私たちに与えられた福音とは、このイエス・キリスト様の復活の出来事だからです。ですから、私たちは、自分の口で、「イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じ」て生きて行こうではありませんか。そこに、「私」の救いの物語が描かれていくのです。お祈りしましょう。

2018年8月5日日曜日

主の前に立つ

2018年8月5日 小金井福音キリスト教会 説教

聖書個所
 ・列王記上 第19章9-18節
 ・ルカによる福音書 第23章50-56節
 ・テモテへの第二の手紙 第4章3-8節

説教題「 主の前に立つ 」





 今日の説教の中心となります聖書個所は、ルカによる福音書23章50節から56節です。この箇所は、十字架に磔られて死なれたイエス・キリスト様の埋葬のいきさつが記されている箇所です。ですから、この箇所に何か特別な教えが記されているとか、イエス・キリスト様が何かをなされたと言うことが記されているわけではありません。ただ、イエス・キリスト様がアリマタヤという町の出身のヨセフという人の墓に納められたと言う出来事を淡々と伝えるのです。


 そのアリマタヤのヨセフに対して、聖書は「善良で正しい人であり、議会の議決や行動には賛成していなかった」と伝えています。ここで言う議会というのは、これまでも出てまいりましたサンヘドリンというユダヤにおけるユダヤにおける自治の最高の決議機関のことです。その議会の議決や行動に賛成していなかったと言うのですから、このアリマタヤのヨセフはサンヘドリンの議員のひとりであったことがわかります。
 そして、そのサンヘドリンの議会は、イエス・キリスト様をローマに反逆するものであるとしてローマの総督であるピラトに訴え出た、いわばイエス・キリスト様を十字架に架けた張本人なのです。ルカによる福音書22章1節を見てみましょう。そこにはこうあります。

「1:さて、過越といわれている除酵祭が近づいた。2:祭司長たちや律法学者たちは、どうかしてイエスを殺そうと計っていた。民衆を恐れていたからである」。ここには、祭司長や律法学者たちのイエス・キリスト様に対する殺意がありますが、その祭司長や律法学者たちの代表者がサンヘドリンの議員たちであると言ってもいい。そしてこの祭司長や律法学者たちの殺意もとづいて、サンヘドリンの議会は、イエス・キリスト様をピラトの下に連れて行き、イエス・キリスト様が、国民を惑わし、税金をカイザルに納めることを禁じ、自分こそ王なるキリストだと言っていると訴えるのです。ルカによる福音書23章1節にそのことが記されています。

 そのようなサンヘドリンの議員たちの中にあって、アリマタヤのヨセフは、イエス・キリスト様を殺そうとする企てに賛成しなかったと言うのです。聖書は、このアリマタヤのヨセフ以外にサンヘドリンの議員の中でイエス・キリスト様を殺そうとする企てに賛成しなかった者の名前をあげていません。ただ、ヨハネによる福音書を見ますと、イエス・キリスト様の埋葬の際にはニコデモという人がいますから、おそらく、このアリマタヤのヨセフだとニコデモの二人だけが、イエス・キリスト様を殺す企てに賛成せずまた加わらなかったのでしょう。
 けれども、ルカによる福音書は、そのニコデモの存在は記していません。ただアリマタヤのヨセフ一人だけが、イエス・キリスト様を殺そうとする企てに賛成せず、アリマタヤのヨセフ一人が埋葬をしたかのように記している。ですから、この箇所を読むときには、アリマタヤのヨセフ一人だけに目を注ぐべきです。アリマタヤのヨセフ一人が、71人からなるサンヘドリンの議会のなかで、あたかものは、アリマタヤのヨセフただ一人が、イエス・キリスト様を殺す企てに賛成しなかったかのようにルカによる福音書は私たちに語りかけている。

 みなさん、「賛成しなかった」ということは、必ずしも反対意見を述べたと言うことではありません。実際、聖書は、アリマタヤのヨセフが議会で反対したとは言ってません。ただ「賛成しなかった」というのです。 けれども、その「賛成しなかった」という行為だけでも、じつは、相当の覚悟と勇気のいる行為ではなかったかと私は思うのですが、どうでしょうか。みなさんはどう思われるでしょうか。

 何年か前に、私はある会議に出ていました。そこでは4,50人の人が集まって、ある神学的内容について議論がなされていたのですが、ある方が意見を述べられ、残りのほとんどの人が、その意見に追従し、賛成する意見を述べられていました。その中で私ひとりが、その方の意見に反対の意見を述べたのです。そして、しばらくの間、私が述べたことについて議論の時をもちましたが、それこそ四面楚歌といった感じでした。 
 その会議が終わった後、ある方が、私が反対意見を述べたことに対して、「勇気がある人だな」という感想を述べてくださいました。確かに、ほぼ全体が一つの意見にまとまっている中で、ひとりだけ違った意見を言うということは、結構、勇気のいることです。とりわけ、和をもって尊しとする日本社会においては、そうなのかもしれません。実際、私もそれなりのプレッシャーを感じながら自分の意見を述べていました。

 それが、ナザレのイエスというひとりの人を抹殺しようと言う意見が取り交わされている場面では、もっと大きなプレッシャーがかかっているであろうと思われます。それこそ一人一人が殺気だっているのです。その中で、自分一人が違う立場に立ち、違う行動をとろうとしている。その違う立場に立って行う違う行動というのは、ローマ総督のピラトにイエス・キリスト様の遺体の引き取りたい願い出て、そのご遺体を引き取り、亜麻布につつみ、まだ誰も葬ったことのない墓に納めたという行為です。

 その当時、罪を犯して処刑された人の死体は放置され、野犬やハゲタカの餌食にされるようなことも少なくなく、良くても共同墓地に葬られると言った状況の中で、アリマタヤのヨセフは、ピラトに願い出て、イエス・キリスト様のご遺体を引き取り、敬意をもって亜麻布でくるみ、まだ誰も葬られていない新しい墓に納めたのです。それは、本当に勇気がいる行為であった。というのも、イエス・キリスト様を憎み、このお方を十字架の上で磔にし、処刑させたサンヘドリンの議員たちがいるその中でそれをするからです。 

だから、アリマタヤのヨセフという人は勇気がある人だなぁと思うのです。そして、そのようなアリマタヤのヨセフの勇気ある行動に対して、ルカによる福音書の著者は、彼を「善良で正しい人であった」と言うのです。

 みなさん、アリマタヤのヨセフがイエス・キリスト様を葬った行為は、このヨセフにとっての信仰告白的な行為であったと言ってもよいでしょう。そしてその行為は、勇気あるものであった。確かに、そのように私には思える。その意味では、このアリマタヤのヨセフは、信仰の勇者のような存在であると言うことができるかもしませんし、確かに「善良で正しい人」だと言えるでしょう。 
 しかし、そう思うその反面で、私があのイエス・キリスト様の十字架の死の場面に立った時、アリマタヤのヨセフのような勇気ある信仰告白的な行為ができるだろうかと考えると、少々不安な気持ちになります。自信がないのです。あのアリマタヤのヨセフのような勇気があるかどうか自信がない。

 さきほど、神学的議論がなされた会議で、私がひとり反対意見を述べたことに対して、「勇気がある人だと思った」と言ってくださった方がいたと申しましたが、それは、アリマタヤのヨセフの勇気とは全く違い性質のものです。神学的な議論は、学問的な立場に立った議論ですから、反対意見を言うことが赦されている場です。そしてどんな反対意見を言っても、それでキリスト教会から排除されることはありません。だから、安心して言える。身の安全が担保されているからです。 
 けれどもアリマタヤのヨセフの場合は違う。イエス・キリスト様を憎み、十字架に付けて殺させたサンヘドリンの議員たちの前で、彼らを裏切るかのようにして、イエス・キリスト様を敬い葬ると言う信仰告白的な行為をするのです。当然、サンヘドリンの議会から排除されたり、迫害を受けるといった身の危険を伴う。だから彼がイエス・キリスト様を葬った行動は、信仰告白的な勇気を必要とする行動なのです。

 身近な例で言いますと、私たち日本ホーリネス教団の前身は、第二次世界大戦中に迫害を受け、多くの牧師が逮捕され投獄されました。厳しい取り調べや拷問のようなものもあったと聞きます。そのような中で殉教なさった牧師もおられる。彼らは、確かに信仰告白的な勇気をもって生きられたのです。そのような中で、私は、自分自身に「お前もその迫害の中で自分の信仰と信念を貫き通せるのか」と問うと、胸を張って「できます」と言い切れる確信がない。そこに自分の弱さを感じるからです。
 だから、アリマタヤのヨセフのような勇気ある態度を見ると、「本当にすごいなぁ」と思う反面、その行為をもって「善良で正しい人であった」と言われるとしたら、自分は、何とみじめな人間なのだろうと思わざるを得ないのです。

 ところが、このイエス・キリスト様の埋葬の場面には、アリマタヤのヨセフ以外の別の人物も登場します。55節のイエス・キリスト様についてきたガリラヤの女性たちです。彼女たちは、イエス・キリスト様が十字架に付けられた時、遠いところに立って、十字架の場面を見ていました。23章48節です。そこで彼女たちは「すべてイエスを知っていた者や、ガリラヤから従ってきた女たちも、遠いところに立ってこれらのことを見ていた」と言われています。

 この女性たちは、イエス・キリスト様が、十字架に磔られた際に遠巻きにそれを見ていただけです。そして、イエス・キリスト様が埋葬されるときも、その様子を見届けるだけであった。その意味では、アリマタヤのヨセフのように勇気を振り絞って、イエス・キリスト様のご遺体を引き取り、葬ると言った行動を起こす勇気のなかった人たちです。ただ見届けるだけしかできなかった人たちです。けれども聖書は決して彼女たちを批判的に扱ってはいません。
 確かに、この女性たちには、アリマタヤのヨセフのような勇気ある行動はできなかったもしれません。けれども、彼女たちはイエス・キリスト様が墓に納められたのを見届けた後、帰って、香料と香油を用意したというのです。香料と香油は、葬りの為に用いられるものです。56節にこの女性たちは「おきてに従って安息日を休んだ」とありますから、安息日があけた後に、イエス・キリスト様の墓に行き、用意した香料と香油をもってイエス・キリスト様の葬りをしようとするのです。

 それは、彼女たちにできる精一杯のことだったのでしょう。そのことを聖書は記す。それは、アリマタヤのヨセフのような勇気ある信仰告白的な行為ができなくても、彼女たちのできる精一杯のことをやろうとするその姿が、神の前には尊い行為であり、信仰の告白だと受け止められているからです。

 みなさん、私たちは、アリマタヤのヨセフのような信仰の勇者になることはできないかもしれません。けれども、だからと言って決して嘆く必要はありません。私たちは、私たちができる精一杯のことをすればいいのです。それが、神の前に尊いことなのです。そして、ひょっとしたら、私は何もできませんという人もいるかもしれません。それでもいい。仮に、私は何もできないということがあったとしても、それでもなお神は、なお、私たちを愛し尊いものと受け入れてくださるお方なのです。

 私たちは、先ほど司式者の聖書朗読のもと、列王記上19章9節から18節に記されているエリヤと言う預言者の物語を読みました。エリヤは、イスラエルの国が南ユダ王国と北イスラエル王国の二つに分断されていた時代に、北イスラエル王国で活躍した預言者です。
 エリヤが活躍した時代はアハブと言う王様が北イスラエル王国の王でありました。このアハブは、列王記上16章30節で「オムリの子アハブは彼よりも先にいたすべての者にまさって、主の目の前に悪を行った」と言われるように、決して褒められた王様ではありませんでした。 

アハブが行った悪政の中で、とりわけ神の前に悪いことだったのは、アハブが北イスラエル王国の首都であるサマリアにバアルの神殿を建て、バアルやアシュタロテといった偶像の神を信じ拝む、いわゆる偶像礼拝を持ち込んだことです。 
 アハブの偶像礼拝の背後には、彼の妻イゼベルの影響があります。イゼベルはシドンの王エテバアルの娘で、彼女によって偶像礼拝が北イスラエル王国にもたらされたようです。イゼベルはバアルやアシュタロテと言う偶像をもたらしただけではなく、バアルに仕える450人の預言者とアシュタロテに仕える400人の預言者ももたらしました。その反面、聖書の神に仕える預言者たちの多くが殺され、エリヤ以外には、わずかにオバデヤという宮廷長官にかくまわれた100人が洞窟に隠れ住んでいるだけでした。

 エリヤは、このバアルとアシュタロテに仕える預言者にたった一人で立ち向かいます。そして勝利する。この勝利で、北イスラエル王国に真の神を信じる信仰が復活をする。きっとエリヤはそのように期待したことでしょう。ところが、王妃イゼベルはエリヤを殺そうとする。そして、北イスラエル王国から聖書の神を信じる信仰を一掃しようとするのです。そのことを知ったエリヤは自分のやったことが無駄になったという傷心の思いと自分の命が狙われているという事態のために逃走し疲れ切った体で神の山ホレブにたどり着きます。 
 そのホレブの山での出来事が、先ほどお読みいただいた列王記上19章9節から18節の出来事なのです。そのホレブの山でエリヤは神と対話します。その対話の中でエリヤは「北イスラエル王国は聖書の神を捨て、背信をし、神の預言者たちを殺し、自分一人だけになってしまった」と嘆き訴えます。 その時、神はエリヤに「わたしはイスラエルのうちに7千人を残すであろう。みなバアルにひざをかがめず、それに口づけしない者である」言われるのです。列王記上19章18節です。口語訳聖書では、「7千人を残すであろう」また「口づけしない者である」となっていますが新改訳2017版では「7千人を残している」また「口づけをしなかった者」となっています。つまり、エリヤは北イスラエルの国には、聖書の神に仕える預言者はみんな殺されていなくなったと思っていたのですが、まだ7千人が残されていると言うのです。 

 この7千人の存在を、エリヤには知りませんでした。王妃イゼベルも北イスラエル王国民も彼らの存在を知りません。それは、彼らは何の声も挙げず、何もしていないからです。イザベルの迫害の中で、じっと声を潜めているのです。しかし、聖書の神を信じ、その信仰を心の中にじっと秘めている。この7千人はそんなたちなのです。そして神は、彼らの心に内に秘めた信仰に目を留め、その心に秘めた信仰ゆえに彼らを残しておられるのです。

 みなさん、ひとり一人、その置かれた状況の中でできることは違っています。アリマタヤのヨセフや、エリヤのように勇敢に戦う信仰を示す人もいるでしょう。ガリラヤから来た女性たちのように、そっと、ひそかに自分たちの出来る範囲の中で、精一杯イエス・キリスト様の葬りをしようとする人たちもいる。そして、あの残された七千人のように迫害の中で、何の声も挙げず、また何もせず、じっと心の中で神を信じる信仰を温めている人たちがいる。 
 行った行為だけを見れば、そこには歴然とした差があります。しかし、神を信じ、神の前に立つ一人一人の存在は等しく尊いのです。大切なのは、神の前に何をしたかではなく、神を信じ、神の前に立って生きると言うことなのです。doingではなくbeingということです。

 さきほど、司式者にテモテへの第二の手紙4章3節から8節を読んでいただきました。そこにおいてパウロは、自分は戦いを戦い抜き、走るべき道のりを走り抜いたと言っています。それは様々な試練や困難があっても、神を信じる信仰を生き抜き、神の御前に立ち続けたパウロが、自分の死を意識しながら胸を張って言った言葉です。 

みなさん。私たちは様々な試練や試みを経験します。その時の身の振り方は一人一人違います。けれども大切なのは、神を信じ抜く信仰です。何をしたかではない。何を信じているかが大切なのです。
 ひとり一人、神から与えられた役割や務めは違っています。私たちにできることも違っている。けれども、神を信じる信仰は同じなのです。そしてその信仰を生き抜き、神の前に立つことが大切なのです。ですから、私たちは、何を行ったか、何ができたか、また何ができるのかではなく、神に前に立っている一人ひとりの存在を喜びたいのです。 

イエス・キリスト様は、ご自分の体をアリマタヤのヨセフにお委ねになり、またガリラヤから来た女性たちにお委ねになりました。それは、神を信じる信仰の中で、自分にできる精一杯のことなそうとする信仰にご自分を委ねになったのです。そのことを思いながら、神の民として、神の前に生きる私たち一人ひとりとして、その存在を喜びながら歩んでいきましょう。お祈りします。

2018年8月3日金曜日

危機の中で寄り縋る信仰

2018年 7月15日 小金井福音キリスト教会

聖書個所
 ・創世記 第15章1-6節
 ・ルカによる福音書 第23章39-43節
 ・ローマ人への手紙 第8章18-25節

説教題「危機の中で寄り縋る信仰」




 ※  動画の中で、強盗と言う単語が意味がよくわからない単語であると述べていま 
  すが、正確には、その意味をどのように訳すべきかようわからない、意味を限定し 
  難い単語であるということです。表現上分かりにくい言い方をしています。強盗と言
  うスペルのギリシャ語には、似たような複数の意味があり、どれを選択するかによっ
  てニュアンスが違ってくると言うことをいいたかったのですが、言葉たらずの表現に
  なっています。謹んでお詫び申し上げます。

さて、2012年の1月28日から始まったルカによる福音書の連続説教も、6年かかっていよいよ十字架と復活というクライマックスの記事にかかってまいりました。今日は、その中で、イエス・キリスト様と共に十字架に付けられた二人の犯罪人の記事です。聖書個所はルカによる福音書23章39節から43節です。

 イエス・キリスト様が十字架に磔られた時、二人の犯罪人も一緒に十字架刑にあっていました。ルカによる福音書23章33節を見ますと、この二人の犯罪人はイエス・キリスト様を挟むようにして右側と左側に磔られたことがわかります。このとき、この二人の犯罪人がイエス・キリスト様を挟んで向き合うように右側と左側に磔られたのか、あるいはイエス・キリスト様と横並びになって横一線に磔られたのかは分かりません。しかし、いずれにせよ、イエス・キリスト様を中止にして3本の十字架がゴルゴダの丘に立てられたのです。
 このときイエス・キリスト様と一緒に十字架に付けられた二人の犯罪がどのようなことをしでかしたについては、ルカは明らかにしていませんが、マタイによる福音書の27章38節や44節、マルコによる福音書15章27節では、この二人は強盗となっています。もっとも、この強盗と訳されている言葉は、強盗と訳す以外にも、略奪者や強奪者とも訳せますし、革命家というふうに訳すことも可能な言葉であって、実際にどう訳すかは定かではありません。

 しかし、十字架刑というのは、一般にローマ帝国に反逆する政治犯に対して課せられる刑罰です。実際、一緒に受持化に磔られているイエス・キリスト様の頭の上には「これはユダヤ人の王」と書いた札が掲げられていました。それは、ユダヤ人の王としてローマに反逆をした人間であるとして十字架に架けられているのです。そして、イエス・キリスト様と共に十字架に架けられている犯罪人の一人が、40節で「お前も同じ刑罰を受けているではないか」と言っていますことを考えると、彼らは、今日でいうローマ帝国に反逆する一種の政治犯ではなかったかと思われますが、いわゆるテロリストとして暴動をおこし、その暴動の際に略奪をするような者たちだったのかもしれません。
 もっとも、この「お前も同じ刑罰を受けているではないか」と言う言葉も、「お前も(イエス・キリスト様と)同じ刑罰を受けているのではないか」ということなのか、「お前も私も同じ刑罰を受けているのではないか」ということなのか、ここのところも定かではありませんので、断定するわけにはいきませんが、いずれにせよ、この二人の囚人は、自分自身の中に非があるどこかやましい思いをもって十字架に磔られているのです。

 しかし、このルカによる福音書は、その冒頭にローマの高官であるテオピロ宛てに書かれたものであると記されています。つまり、ローマ人たちがこの手紙の主たる読者として考えられているのです。そのルカによる福音書が、あえてただ犯罪者としてだけ書き記しるしているのは、読者であるローマ人たちに、ローマに反逆した政治犯が十字架に架けられていると言う印象を強く与えたかったのかもしれません。いずれにせよ、二人の犯罪者がイエス・キリスト様と共に、十字架に架けられたのです。
 そのとき、この二人の犯罪者のひとりが、イエス・キリスト様に「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と声をかけます。この言葉は、一見しますと、同じルカによる福音書23章35節でイエス・キリスト様を陥れ十字架に架けたユダヤ人の指導者たちが言った「彼は他人を救った。もし彼が神のキリスト、選ばれた者であるなら、自分自身を救うがよい」という言葉や、ローマの兵士たちが言った「あなたがユダヤ人の王なら、自分を救いなさい」という嘲笑の言葉と同じように見えます。

 しかし、先ほど申し上げましたように、このイエス・キリスト様と一緒に十字架に磔られた二人の犯罪人は、単なる強盗というのではなく、ローマに反逆し、ユダヤの民をローマから解放しようとした政治犯の可能性が十分に考えられる人たちです。その人が「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」という言葉は、あのユダヤ人指導者たちやローマの兵士たちの嘲笑の言葉とは本質に違います。それは、今、自分の命が失われ、自分が目指してイスラエルの国をローマ帝国の支配から解放しようとする夢が潰えようとする絶望の最中(さなか)から、絞り出す「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」という言葉だからです。

 みなさん、ここまで私は、キリストという言葉の意味は「油注がれた王」という意味であると申し上げてきました。ですから、ここで「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」といってイエス・キリスト様をののしる犯罪人の言葉は、「お前は神から油注がれた王であるのならば、自分とおれたちの命を救い、共にローマと戦い、ローマ帝国を打ち破ってユダヤの民をローマ帝国から解放すればよいではないか。なぜそれをしないのか」というそんな絶望的な響きを持つ叫びのように私には聞こえてくるのです。

 そして、その叫びは、イエス・キリスト様の力を借りてではありますが、しかし自分自身の崇高な目的を自分自身で成し遂げる夢をあきらめきれない人の叫びのように私は思えるのです。だから「自分とおれたちを救え」と言う。そして、それをなされないユダヤの王に絶望しののしっている。自分自身にはあきらめきれず、イエス・キリスト様には絶望している、そんな人の姿がそこにあるように私にはそのように思えるのですが、みなさんはどう思われるでしょうか…。
 このとき、この「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」とののしる犯罪人と一緒に十字架に付けられていたもう一人の犯罪人が口を開きます。それは「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」という言葉を諫め、たしなめます。そして次のように言うのです。おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。 お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない

 この二人の犯罪者はイエス・キリスト様と同じようにローマ抵抗に対する反逆者として十字架刑を受けている。でも、この二人はイエス・キリスト様とは決定的に違うのです。彼は「お互いは自分のやったことの報いを受けているのだから、こうなったのは当然だ」と言います。つまり、自分たちのしてきたことをちゃんとわかっている。その上で、「しかし、このかた(つまりイエス・キリスト様)は何も悪いことをしたのではない」と言っているのです。それは、自分たちがしてきたことがたとえローマに反逆するという大義名分と正義をもって行ったことであっても、そこには神と人との前に誇ることができない悪い行為も、あるいは悪い動機と言ったものがあったと言うことをちゃんと理解していると言うことなのです。

 確かに、彼らの目指してきたものはユダヤの民をローマ帝国の支配から解放すると言う崇高な目的だったかもしれません。しかし、その目的を自分たちが達成するために悪いことをしてきた。目的が達成されれば、その手段において悪を行ってもよいわけではありません。目的が正しく崇高なものであればあるほど、それを達成する手段も正しく崇高な者でなければなりません。結果オーライではないのです。
 この犯罪人は、イエス・キリスト様と同じように十字架刑に処され、十字架の上にあげられ、そしてイエス・キリスト様を目の前に見ながらそのことに気づいたのかもしれません。そして、おそらくは自分たちの行い振り返りつつ発せられた言葉が42節の「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と言う言葉です。
 この「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と言う言葉は、最近出されました新改訳2017聖書では「あなたが御国に入られるとき私を思い出してください」となっています。これは現存する写本の間にある違いによるものですが、いずれにせよ、イエス・キリスト様によって神の国が完全に完成する時を指し示していると考えてもよいでしょう。その時に、「私を思い出してください」と言うのです。

 この「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と言う言葉には、この地上での命に対するある種のあきらめがあります。それは、40節の「お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ」と言う言葉にもにじみ出ているものです。そういった意味では、この犯罪者も絶望の中にいるのです。しかし、この犯罪者はもう一人の犯罪者のようにイエス・キリスト様をののしることはしていません。むしろ、絶望の中でイエス・キリスト様の中に希望を見ています。それがと言うあきらめと絶望の言葉の背後に隠れている。というのも、この男は、神の国がイエス・キリスト様によって打ち建てられると期待しているのです。

 たしかに、この二人の犯罪者はローマ帝国に反逆し、ユダヤの人々をローマ帝国から解放し、イスラエルの国を再興しようとしていた。そのために、おそらく暴動を起こしたりテロ行為のようなこともしていたのでしょう。だからローマ帝国によって捉えられ十字架に架けられてしまった。でも、十字架の上で死のうとしている自分は、もはや自分の目でイスラエルの国がローマ帝国から解放されイスラエルの国が再興すると言うことを見ることも、それに参加することもできない。
 しかし、神の御国はイエス・キリスト様によって実現するのです。この犯罪者には、その神の御国がどのような形でもたらされかは分からなかったでしょう。しかし、自分がそれを見ることも、またもたらすこともできないけれども、神がお遣わしになった油注がれた王ならばそれができる。そのような期待と希望が、あの絶望とあきらめの言葉の背後にある。
 それは、今、死なんとする自分自身に目を向けるならば、そこにはあきらめや絶望しかありません。だから、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と言う。そうですみなさん、この犯罪者は「私を思い出してください」と言うのです。決して、「私も一緒に神の御国に入れてください」とは言っていない。ただ「思い出してください」とだけ言う。

 死にゆく自分に対してはあきらめつつも、キリストに対して目を向けるならば、そこには希望があり、そして期待するのです。だから、イエス・キリスト様が御国に入る時には、手段は誤まり、間違った悪い方法ではあったかもしれないけれども、イスラエルの民が解放され救われることを願っていたものがいたことを思い出してほしい。そんな思いが、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と言う言葉の背後にあるように、私には思えるのです。そして、それはもう一人の自分自身に対してはあきらめきれず、イエス・キリスト様に対しては絶望しているもう一人の犯罪人とは真逆な人の姿がある。
 
その人に、イエス・キリスト様は「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」と言われるのです。パラダイスというのは、よく言われますが、囲いのある庭と言うペルシャ語ですが、ペルシャの王が、その国の民に特別な名誉を与えるときに、その名善い与る者を王の庭であるパラダイスに招き、王と共にその庭を散歩する名誉を与えたと言われます。イエス・キリスト様が、あえてペルシャ語のパラダイスと言う言葉を用いたのは、そのようなことをイメージしていたのかもしれません。あるいはそこに、かつてバビロンに捕囚としてとらわれていたイスラエルの民が、ペルシャの王キュロスに解放されたできごとをおもいおこさせるためだったかもしれません。
 いずれにせよ、イエス・キリスト様は、自分自身に対しては、あきらめと絶望を感じている者に、希望の言葉を語るのです。しかも、「きょう、わたしと一緒にパラダイスにいる」と言われる。この犯罪人にとって、今日というその日は、十字架に付けられ、死にゆくときである今日です。しかし、その時に、その人はイエス・キリスト様と共にパラダイスにいる。それは肉体の死と言う試練を超えた希望を語る言葉です。

 みなさん、週報の報告欄にも書きましたが、先週の水曜日に三田泉教会と箕面泉教会の牧師をなさっておられたO.K牧師が急逝なさいました。近畿教区のキャンプ場の整備をなさっているときに誤って転落し、頭蓋骨骨折と硬膜血種のために亡くなられたのです。
 本当にまじめに牧会をし、伝道をし、三つの教会を開拓なされ、主に使えられた牧師でした。私も献身前にはお世話になりましたし、聖書学院に在学中はいろいろと支えていただきました。このように真摯に主に使えてこられた方が、事故と言う出来事で召されると言う出来事に出会いますと、「主よどうしてですか」と問いたくなる。この教会の前身の三鷹教会のK.Y牧師が交通事故で召されたときも、そう思いました。
 そのようなときは、本当にこの世界には、試練や苦難ばかりがあるような気持がして、どこに希望や望みがあるのかと思わされるような感じです。それは、このような突然の不慮の事故による親しい人の死だけに限らす、例えば、阪神淡路大震災や東日本大震災、そして今回の西日本を襲った豪雨のような出来事、このような出来事の最中(さなか)に置かれるとき、とても希望を持つような気持にはなれませんし、何を期待していいのかも分からない。
 しかし、その現実の苦しみの中にも聖書は希望を語るのです。それが、先ほど司式者にお読みいただきました。ローマ人への手紙8章18節から25節です。そこにはこうあります。

   18:現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足り 
  ないとわたしは思います。19:被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいま
  す。20:被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服
  従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。21:つまり、被造物
  も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれ
  るからです。22:被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わって
  いることを、わたしたちは知っています。23:被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただ
  いているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中
  でうめきながら待ち望んでいます。24:わたしたちは、このような希望によって救われ
  ているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものを
  だれがなお望むでしょうか。25:わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、
  忍耐して待ち望むのです。

 ここでは、この世界全体が苦しみと苦悩の中にあると言っています。被造物全体が虚無に服し、被造物すべてが今日まで、共に受け貴、共に産みの苦しみを味わっているということはそういうことです。しかし、その苦しみの中に希望がある。しかし、その希望は、心の呻き(うめき)の中で待ち望む希望であり、目に見えないものを待ち望む希望です。もはや自分自身ではどうしたらいいのかわからないような状況、自分自身に何かができるとは到底思えない希望や期待が持てないような状況の中にあって、神様にあって、イエス・キリスト様にあって希望を持つそれが、神に寄り縋る信仰によってもたらされる希望なのです。

 O.K牧師が亡くなられたと言う報を聞いたとき、K.Y牧師が自己で亡くなられたとき、私の心には、深い悲しみとやるせなさと、脱力感に満ちていました。それでも、その中に、やがて神の国が完成し、神の創造の業が関せする時には再び会えるという希望だけはありました。そしてその希望が今日まで支えてきたのです。
 みなさん、人間の力ではどうしようもないこと、解決がつかないことは数多くある。そして自分の力ではどうしようもない現実の前に立つとき、私たちは自分自身に対して絶望するのです。けれどもみなさん、神には解決がある。イエス・キリスト様には希望があると聖書は言うのです。

 先ほどお読みしました旧約書の創世記15章1節から6節までに書かれているアブラハムの物語などは、まさにそのような希望の中に生きた人の物語であると言えるでしょう。このアブラハムの物語は、創世記12章7節において、神がアブラムに子孫を与えると言う約束を与えたことから始まります。そしてその約束をアブラムは信じたのです。
 ところが、神が子孫を与えてくださると約束し下さったのにもかかわらず、アブラムとサライの夫婦の間には子供が生まれず、希望を失ってしまうように状況になった。もはや人間的な視点から見れば、絶対に子供など与えられないと誰しもが思うほど、アブラムもサライも高齢になった。そのように、自分自身ではもうどうしようもないと言う、自分自身に絶望したときに、神は「アブラムにサライによって跡取りを得る」と言う約束を成就してくださったのです。それはひとえに、創世記15章6節でアブラムが神の約束を信じたというその信仰の故なのです。

 みなさん、私たちは、今日の聖書個所のルカよる福音書27章38節から43節に出てくる二人の犯罪には、自分自の死に直面しつつも自分自身にあきらめきれずキリストに絶望する人と、同じように自分自身の死に直面して自分自身に絶望しあきらめ、キリストに希望を持つ人とを見ました。そして、自分に絶望しあきらめながらも、イエス・キリスト様の中に希望を見出し、イエス・キリスト様に期待する者に、神はイエス・キリスト様と共にある恵みを約束し自分自身に絶望したものに希望を与えて下さった出来事を見てきました。それは、かつてはアブラムが経験した希望であり、苦難と苦しみの中にある被造物全体に与えられる希望であり、そして皆さんにも与えられる希望です。

 みなさん。ここに集っているお一人お一人が、生きて行き中で何らかの苦悩や苦しみや、苦難、試練と言うことを経験してきたことでしょうし、これからもそのようなことはあるでしょう。自分自身の力ではどうしようもない現実を突き付けられることもある。しかし、それでもなお、聖書は、神の下には希望がある、イエス・キリスト様の下には希望があると言っている。それが神の約束です。
 みなさん、私たちは、その希望を信じる者となろうではありませんか。神の約束を信じて、自分自身に絶望するようなことがあっても、イエス・キリスト様の下にはあることを信じて生きて行こうではありませんか。お祈りします。

2018年8月2日木曜日

それぞれの正義

2018年7月8日 小金井福音キリスト教会 説教



聖書個所
 ・創世記書317
 ・ルカによる福音書2332~38節
 ・ローマ人への手紙121721節7

説教題「それぞれの正義」 



 今日の礼拝説教の中心となる箇所はルカによる福音書2332節から38節です。この箇所はイエス・キリスト様が十字架に磔になる場面です。イエス・キリスト様がほかのふたりの囚人とともに十字架に磔られた。その様子をルカは淡々と描写するのです。そのとき、イエス・キリスト様は「父よ彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」とそう言われた。ルカはそう綴る。

 この言葉は、新約学者の中では議論を生む言葉です。というのも、聖書の原典そのもは失われてありません。あるのは数多く残された写本だけです。その残された多くは聖書全体を網羅しておらず、ただ断片的に書く移されたものが残されているだけです。しかし、それでもいくつかはある程度まとまった形で書き写して一冊にまとめたものがあります。
コーデックスと呼ばれるもので、バチカン写本(B)と呼ばれるものやシナイ写本(ℵ)、ベザ写本(D)といったものです。その中のいくつかの重要な写本(BとD)に、この言葉が記されておらず、この「父よ彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」は「もともと聖書にはなかったのが後から書き加えられた」と言う学者と「いや、もともとあったのが削られたのだ」言う学者の間で議論があるのです。

 この議論に結論が出ているわけではないのですが、この箇所で述べられている言葉は新約聖書の思想と深く結びついていますので、初めからあったと考えてもよさそうです。そして何よりも、イエス・キリスト様が、十字架に架けられると言う苦しみの中で、「父よ彼らをおゆるし下さい。彼らは何をしているのか、わからないでいるのです」と祈られた、この執成しのの祈りは、私たちに強い衝撃を与えるのです。

私は、この説教を準備するにあたり、「父よ彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」という言葉を読みあれこれと思い巡らしていました。そのとき、ふとと思ったのです。この「彼らをおゆるし下さい」といわれている「彼ら」が、いったい誰をさして「彼ら」と言っているのだろうかと。そして「彼らは何をしているか、わからずにいるのです」という「彼ら」がしていることとはいったい何なのだろうか、そう思ったのです。

しかし、どんなにこの箇所を読み返しても、また注解書を調べても、「彼」が誰であるか、またどのような行為をさしてイエス・キリスト様が「何をしているのか、わからないでいるのです」と言われたのか、納得のいく明確な答えが見つからないのです。

でもね、みなさん。こういうときこそ、実は聖書を読む醍醐味があるのです。この「彼」が誰であるか。いったいどのような行為を指して「何をしているのか、わからないでいるです」と言っているのか。想像は広がります。考えも広がります。それそこ、そこに聖書を読む面白みがあるのです。

私は考えました。するおまず、考えられるのは、イエス・キリスト様を十字架に磔つけたローマの兵士たちです。だとすれば、「何をしているかわからない」というのは、イエス・キリスト様を十字架に架けると言うことが一体どういうことなのか、彼らは分かっていないと言うことになります。もちろん、彼らはイエス・キリスト様を処刑しているということは分かっている。そして、それがローマの兵士として与えられた任務であり、その任務を全うすることが「彼ら」にとって正しいことなのです。

 次に考えられるのは、イエス・キリスト様の着物をくじ引きで分け合った人々です。このくじ引きした人々は、状況から考えますとイエス・キリスト様を十字架につけたローマ兵たちであると思われます。しかし、ここでは聖書が敢えて「人々」と書いてありますので、ローマ兵であるかどうかはさておいて、イエス・キリスト様の着物をくじ引きで掛け合っている人々の、そのイエス・キリスト様の着物を分け合うと言う行為が、「何をしているかわからないでいる」と言われるものなのです。

 このイエス・キリスト様の着物をくじ引きで負け合うと言う行為は、一般に詩篇2218節(新共同訳19節)にある「彼らは互にわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引にする」の成就であると言われますが、たしかにそれはそうであろうと思います。だとすれば、彼らは分からずに旧約聖書の言葉を成就していると言う意味になります。
 もちろん、この着物をくじで分け合っている人々は、旧約聖書の言葉を成就しようと思って、くじで分けあっているのではありません。私の存じ上げているある牧師は、このイエス・キリスト様の着物をくじで分け合っていた人々は、その着物を打ってお金を得ようとしていたのではないかとおっしゃっておられましたが、確かにそうなのかもしれません。だとすれば、彼らにとってお金を得ると言う良いことのために着物をくじで分け合っていたのです。少なくとも彼らはそう思っていた。

 最後に考えられるのは、「彼は他人を救った。もし彼がキリスト、選ばれたものであるなら、自分自身を救うがよい」とイエス・キリスト様を侮った役人たちです。口語訳聖書は役人となっていますが、ギリシャ語の本文をみますと、指導者たちという意味の言葉ξεμυκτριζον)がつかわれいますので、この役人たちというのはイエス・キリスト様を十字架に磔るように仕向けたサンヘドリンの議員たちであろうと思われます。

 彼らは、イエス・キリスト様を十字架に付けて処刑するように図った人たちです。それは、彼らがイエス・キリスト様をイスラエルを救う油注がれた王であると認めない人たちです。「もし彼が神のキリスト、選ばれた者であるなら、自分自身を救うが良い」という言葉にそのことが如実に表れていると言えます。そこには、ローマ帝国に処刑され殺されようとしている自分自身を救えない者が、どうして油注がれた王としてユダヤの国を救い、ローマ帝国から解放できるのか」といった皮肉めいた思いが見られる。だから嘲笑うのです。 
 そのような思いは、ローマに兵士たちの共通するものです。だからローマの兵士たちも「あなたがユダヤ人の王なら、自分を救いなさい」というのです。それは普通に考えれば誰しもが思いそうなことなのです。つまり、私たちが考える知性における正しさからすると、「もし彼が神のキリスト、選ばれた者であるなら、自分自身を救うが良い」とあざ笑うことは決して間違っていないのです。誰もがそう思うのです。

 こうしてみますと、ローマの兵士たちは、自分の職務に忠実なことにおいて正しいことをしていますし、くじを引いて衣服を分け合っていた人々は金もうけをすると言うことにおいては間違っていませんし、イエス・キリスト様を油注がれた王と認めず、イエス・キリスト様を十字架に付けさせ「もし彼が神のキリスト、選ばれた者であるなら、自分自身を救うが良い」と言ってあざ笑ったサンヘドリンの議員たちも、それぞれが、自分の正しいと思うことをしているのですで、それぞれがそれぞれの正義を全うしている。 
 しかし、イエス・キリスト様は「彼らは何をしているか、わからないでいるのです」と言われる。今あげた人々、イエス・キリスト様の十字架の周りにいた人々は、それぞれが自分の正義を行っている。しかし、それはそれぞれの正義、自分にとっての正義であって、神の前ではそれは正義ではないのです。それが彼らにはわかっていない。

 さきほど、司式の兄弟に旧約聖書の創世記31節から7節を読んでいただきました。この箇所は、アダムとエヴァが神から食べてはならないと言われていた善悪を知る木の実をとって食べる物語が記されている箇所です。神はアダムとエヴァに、創世記215節から17節でこのように言われている。

主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」

 ところが、ヘビがやって来て「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」といって、エヴァをそそのかすのです。エヴァは蛇の言葉を聞いて、「その木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので」 アダムもまたその実を食べたのです。

 彼らは、自分にとって善いと思われることをしたのです。だから地分は間違ったことをしたとは思っていない。正しいことをしたと思っているのです。しかし、それは神の前では正しいことではなかった。聖書は人間は罪びとだという。そして、その罪びとである人間の姿が、このアダムとエヴァの姿の中に現れている。それは、自分自身が正しいと思うこと、自分の正義を貫いて生きる生き方なのです。

 私たちの生きている世界では、自分の信念を貫いて生きる生き方は、しばしば賞賛されます。しかし、自分の信念を貫き、自分の正義を貫くとき、それは、周囲に大きな迷惑をかけてしまうことがある。
  しかし、みなさん、自分の正義、正しさは自分の正義であり正しさであって、それぞれに正しさがあり正義がある。ローマ兵にはローマ兵の職務を忠実に行うと言う正しさ、正義がある。お金を儲けたいと思い、イエス・キリスト様の衣類をくじで分け合うものにはお金儲けをする人の論理があり正しさ、正義がある。イエス・キリスト様を陥れ十字架に付けて殺そうとした人々にも、彼らなりの正しさと正義がある。そして、そのそれそれの正義に基づいてそれぞれが行動しているのです。

 それに対してイエス・キリスト様は「彼らは何をしているのか、わかっていないのです」といって、神に祈り、「彼ら」を執成すのです。「わかっている。正義を全うしているのだ」という人に、「なにをしているのかわからない」といってイエス・キリスト様は、神に執成して赦しを祈る。そうです。イエス・キリスト様の言葉は、私たちの心にむかって、あなたの内にある正しさはあなたの正義であって、それが本当の正義であるとは限らないといって私たちの心に切り込んでくる。

 今週の金曜日、私はR大学院の授業に出ていました。その日、その授業を担当する教授がいつもより少し遅れてこられました。聞きますと、前の授業は大学1年生の授業で、その日の授業が取り扱ったテーマが死刑制度についてであり、とても議論が白熱して遅くなってしまったというのです。おりしも、ちょうどその日は、オウム真理教事件の主犯格の7人に死刑が執行された日でした。そんな背景もあったのでしょう、その日は学生が少し興奮気味に死刑制度の善悪について熱い議論をしたと言うのです。

 オウム真理教事件の犯人に対する死刑執行は、法治国家の日本国としては法に基づいて、正義を貫いて死刑を執行しました。それに対して、学生たちの議論だけでなくヨーロッパの多くの国から批判の言葉が沸き上がっています。日本の政府は、法に基づき正しいこと、正義を貫いたと思っているでしょう。しかし、周りにはそのように考えない国も、また人も多くいる。そして彼らの正義で日本の司法当局を裁き批判するのです。そこには異なる正義がぶつかり合っている。

 また、そもそものオウム事件をかんがえてみると、この事件の犯人たち自身は、自分たちの信念や自分たちの正義に基づいて、教祖の麻原彰晃に付き従って27人の人の命を奪い、6千人以上とも言われる被害者の人を生み出してしまったのです。事件後、ふと我にかえって、どうしてあのようなことをしたのだろうと後悔する人もいたと聞きます。自分の信念や正義をいったん脇においてみると、自分の正義や信念がいかに間違っていたかに気付いたのです。 
 みなさん、私たちは誰もが自分自身の正義を持っている。それが多くの人と共有されるとき、それは共同体における社会正義と呼ばれるものになる。その自分自身の正義が、そそして私も認める共同体の正義が揺るがされると、怒り、場合によっては報復や復讐になったりする。そこまで行かなくても人間関係を壊してしまうことがあるのです。

 でもそれは、それこそが自分の内にある正義で必ずしも、本当の正義とは限らない。だとしたら、いったいどこに本当の正義があるのか。少なくともそれは私たちの内にある者ではないことは確かです。だとすればそれはどこにあるのか。もう、私が何か言わなくてもみなさんは十分にわかっておられると思うのですが、本当の正義は神の内にある。だからこそ聖書は、あの新約聖書の使徒書ローマ人への手紙1219節で

    愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。 むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」

というのです。あのオウム事件の犯人たちは、自分たちの中の正しさと正義を、国家が、世間がそれを脅かすと教祖のそそのかされて、あのような悲惨な犯罪を繰り返してしまいました。それはある意味、国家や世間に対する復讐でした。同じように、イエス・キリスト様が、ユダヤ人の指導者たちでありサンヘドリンの議員たちの正しさと正義を揺るがしたとき、彼らはイエス・キリスト様を謀略にかけ十字架の上で処刑する。そして、ローマ兵も自らの職務に忠実であれという彼らの正義によってその処刑に加わるのです。 
しかし、彼らは「わかっていなかった」のです。彼らの正義は本当の正義ではなく、本当の正しさではないと言うことを。

みなさん。私たちはそれぞれに正義を持っている。だから、物事の善し悪しを判断することが出来る。だから、私たちの正義が何から何まで悪いと言うわけではありません。けれども、たとえそうであっても、それは絶対的な正義ではありません。だからこそ私たちは、何か重大なな判断をしなければならないとき、何か大切な決断をする時、自分の善し悪しの判断だけで行うのではなく、その時、一歩立ち止まって、一度大きく深呼吸をして、この判断は、神の御心に沿うものであるか。この行動は、愛の神が、真実の神が喜ばれるかを考えることが大切です。

とりわけ、怒りの中で、たとえそれが義憤であったとしても、その怒りによって行動しようとするときは、一歩も二歩も立ち止まって、一度も二度も深呼吸をして、愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。というローマ人への手紙1219節のお言葉を思い出し、また「父よ彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」というイエス・キリスト様の赦しを祈る執成しの祈りを思い起してほしいのです。 
 そうすれば、私たちは神の前に判断を誤ることなく、神の民として、神を証する生き方に導かれていくはずです。お祈りましょう。