2018年8月16日木曜日

キリストを思い起こせ

2018年8月12日 小金井福音キリスト教会 説教

聖書個所
 ・詩篇 第103篇1-5節
 ・ルカによる福音書 第24章1-12節
 ・テモテへの第二の手紙 第2章8-13節

説教題「キリストを思い起こせ」

 今日の礼拝説教の中心箇所でありますルカによる福音書24章1節から12節は、イエス・キリスト様の復活の出来事が記されている箇所です。そして、そこには空になった墓の物語が記されている。この空になった墓の物語は、マタイ、マルコ、ルカ、そしてヨハネによる福音書の四つの福音書すべてに書かれてます。それだけ、イエス・キリスト様が復活なさったと言う出来事は、キリスト教の信仰において重要な事柄なのです。

 実際、パウロはコリント人への第一の手紙15章17節で「もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう」と言います。また、ローマ人への手紙10章9節では「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」とも言っている。

 とりわけ、このローマ人への手紙10章9節は重要です。というのも、パウロはここで、「イエス・キリスト様が私たちの罪を赦すために十字架に架かって死なれたことを信じるならば救われる」と言うのではなく、「神が死人の中からイエス・キリスト様をよみがえらさせたと信じるならば救われる」と言っているからです。

 みなさん、パウロはイエス・キリスト様の十字架の死を軽んじめているわけではありません。たとえば、コリント人への第一の手紙1章22節23節で「ユダヤ人はしるしを請い、ギリシャ人は知恵を求める。しかしわたしたちは十字架に付けられたイエス・キリストを述べ伝える」と言います。更には、2章2節において「なぜなら、わたしはイエス・キリストを、しかも十字架に付けられたイエス・キリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。」とも言っている。

 もちろんこれらの言葉は、「私はパウロにつく」とか「アポロのつく」とか、あるいはペテロにつく」とか言って分派し、教会が分裂しそうな状況の中にあったコリントの教会の人々に対して語られた言葉であるということを無視することはできません。つまり、これらの言葉は、自分たちこそが正しいと自己主張をし合い、分裂状態にあった教会に、神のひとり子であるお方が、人となって十字架の死に至るまで、神に従順に従って生きた謙遜な姿を思い起こさせ、互いに謙遜になり、一致して生きて行くことを示すための言葉だったのです。

とは言え、それでもなお、これらの言葉が、パウロがイエス・キリスト様の十字架の出来事を決して軽んじていないことを示していることに変わりはありません。パウロは、イエス・キリスト様が十字架の上で死なれたと言う事実を大切なことであると認めているのです。しかし、そのようにイエス・キリスト様の十字架を大切なことだと受け止めているパウロが、「十字架の死を信じれば救われる」とは言わず、「神が死人の中からイエス・キリスト様をよみがえらさせたと信じるならば救われる」と言うのです。それほど、イエス・キリスト様が復活させられたと言うことは、私たちキリスト教信仰にとって大切なことなのです。

その復活の出来事が起こった日の事の次第を、今日の聖書個所ルカによる福音書24章は記している。特に、1節から5節には復活なさった日の朝の空っぽになった墓の出来事が記されているのです。

 実は、このイエス・キリスト様の空っぽになった墓の物語は、先ほど申しましたようにマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四つの福音書に記されています。しかし、それぞれの記事を読み比べると、そこには微妙に違いがある。その微妙な違いが何かは、今日は時間の関係がありますのでご紹介することができません。ですから、後でみなさんお一人お一人が読み比べていただければと思います。ただルカによる福音書における空っぽになった墓の物語の特徴な出来事についていうならば、(これはマルコによる福音書の短い結語にも共通することではあるが、しかしマタイとヨハネと異なる違いとして)、ルカによる福音書の空っぽの墓の物語には、よみがえられたイエス・キリスト様ご自身がそのお姿を現していないと言う点です。

 マタイのよる福音書とヨハネによる福音書には、この空っぽになった墓の物語と結びあわされて、よみがえられたイエス・キリスト様がペテロやマグダラのマリヤに現れたと言ういわゆる顕現の出来事が記されています。しかし、ルカによる福音書には、そのことがぬけ落ちているのです。代わりにあるのが、「思い出してみなさい」と言う言葉です。これは、ルカによる福音書だけにある言葉であり、6節7節の文脈で語られています。そこにはこうあります。

   5:女たちは驚き恐れて、顔を地に伏せていると、このふたりの者が言った、「あな
  たがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。6:そのかたは、ここにはお
  られない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話し
  になったことを思い出しなさい。7:すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十
  字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか」。

 マタイによる福音書でもマルコによる福音書でも、イエス・キリスト様があらかじめよみがえられることを予告していたということを、「かつて、あなたがたに言われていた通りよみがえられた」と一方的に宣告する形で伝えています。それに対して、ルカによる福音書では、空っぽの墓にやってきた女性たちに「思い出しなさい」と呼びかけている。一方的に宣告するのでなく、自分自身の心の中に、かつてガリラヤで彼ら自身が経験したこと、すなわち彼らに語りかけられたイエス・キリスト様のお姿と言葉を思い起こさせているのです。そして、その女性たち、それはマグダラのマリヤやヨハンナと呼ばれる女性やヤコブの母マリヤ達ですが、その女性たちは「思い出せ」と言う言葉に促されて「人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる」と仰せられたイエス・キリスト様のことを思い出す。

 このことが、このルカによる福音書がもつ特徴であり、また極めて重要なことの一つのように思われるのです。それはつまり、ルカによる福音書のからの墓の物語は、イエス・キリストの様の生涯を思い起こすようにと想起を促していると言うことです。

 みなさん、このルカによる福音書は、ローマの高官テオピロという人あてに書かれた者です。もちろんそれは、なにもテオピロと言う個人だけでなく、その周囲にいた人たちにも読まれることを期待されて書かれていると言ってもいいでしょう。そして、テオピロがローマの高官である以上、彼に周りにいた人々もほとんどがローマ人であると考えられます。当然、そのような人々はイエス・キリスト様のことを知っているわけではありません。

 そのようなルカによる福音書の読者が、イエス・キリスト様が、「あなたがたにお話しなさったことを思い出しなさい」と言う言葉に触れたとき、当然、彼らは、このルカによる福音書に記されたイエス・キリスト様のご生涯を思い起こし、その行動と言葉を思い出す。

 もちろん、このルカによる福音書の著者であるルカ自身は、そのように想起を促す意図をもって、「思い出しなさい」と言う言葉をここに書き記したわけではないでしょう。ルカが手にしている復活の物語に関する資料にそのようなことが記されているからルカは「思い出しなさい」と記している。しかし、このルカによる福音書を記すように導き、記すための資料や言葉の選択の一つ一つを導かれたのは聖霊なる神です。その聖霊なる神が、ルカに働きかけ、「思い起こすように」と言う言葉を選ばせた。その結果、ルカよる福音書の読者が、その福音書に記されたイエス・キリスト様のご生涯とその言葉を、この空っぽの墓の物語を通して思い起こすのです。しかも、その読者たちは一度もイエス・キリスト様にお出会いしたことのない読者なのです。

まだ、復活したイエス・キリスト様にお会いしていなマグダラのマリヤやヨハンナやヤコブの母マリヤに対して語られた「思い出しなさい」と言う言葉が、まだ一度もイエス・キリスト様にお出会いしていない異邦人のテオピロとその周囲にいた人たちに、ルカによる福音書という聖書の言葉を通して、イエス・キリスト様のご生涯とイエス・キリスト様の語られた言葉を思い出させるのです。そしてみなさん、それがイエス・キリスト様の復活と言う出来事に結びつけられていく。

 それはあたかも、イエス・キリスト様のご生涯の全てが、この復活と言う出来事に集中し、焦点を合わせているかのようです。そうです、みなさん。この「思い起こしなさい」と言う言葉は、神に従い、神の言葉に忠実に生きられたイエス・キリスト様のご商顔を思い起こさせる。そしてイエス・キリスト様の復活は、死と言う出来事に勝利をし、死をも乗り越えらえたイエス・キリスト様と私たちを出合わせ、そのイエス・キリスト様の勝利を私たちに与えると言う希望を示し、私たちに教えてくれるのです。

 みなさん、私たちは先ほど詩篇103篇1節から5節までの言葉を読みました。この詩篇103篇が書かれた背景については、よくわかっていませんが、イスラエルの民がバビロン捕囚から解放されて自分たちの国に帰還した出来事やあるいはエルサレムが再建された出来事が背景にあるのではないかと言われています。そのよう中で喜びの出来事の中で、神を誉め称え、「神の恵み」を心にとめよと言うのです。

 この神の恵みを心にとめよという言葉は(詩篇103篇)2節にありますが、新改訳聖書では、「主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな」、新共同訳聖書では「主の御計らいを何一つ忘れるな」となっています。どちらも良い訳だなと思う。神が私たちにしてくださったこと、それは神の御計らいによるものであり、私たちにとって素晴らしく良いものです。そして、その神の御計らいの業のもっとも頂点にあるものが、イエス・キリスト様と言うお方のご生涯であり、イエス・キリスト様語られた言葉、語られた教え、そして「この世」にあって生きられた生き方そのものなのです。それが、私たちに死に打ち勝つ勝利を与え、私たちに永遠の命という神の命を与え、私たちを救うのです。

 だから、イエス・キリスト様と言うお方は、この神の恵みそのものであり、神が私たちになしてくださった最も善きことなのです。ですから、このイエス・キリスト様と言うお方のご生涯とその言葉を、何一つ私たちは忘れることなく、思い起こすことが大切なことととなる。それこそ、誰かから、「イエス・キリスト様がこういっただからこうだ」と一方的に教えられるではなく、私たち自身が、聖書に記されたイエス・キリスト様のご生涯を思い起こし、イエス・キリスト様の言葉を思い起こしながら生きて行くことが大切なのです。

 それは、イエス・キリスト様が死人の中にたずねられるおかたではなく、生きておられるお方だからです。このルカによる福音書で、マグダラのマリヤをはじめとするガリラヤから来た女性たちが墓の中でであった輝くころを着た二人の人は「あなたがたは、なぜ生きたかを死人の中にたずねているのですか」と問います。それは、イエス・キリスト様が蘇られたことを告げる言葉ですが、イエス・キリスト様の死にイエス・キリスト様のご生涯の意味を見出すのではなく、イエス・キリスト様の生に目を向けるようにと私たちを誘う言葉です。それはイエス・キリスト様の復活を信じ、イエス・キリスト様と結びあわされた私たちもまた、もはや死人の中にいるのではなく、新しい命の中に生きる者となったことを告げる言葉でもあります。

 ローマ人への手紙10章9節で「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」と言うパウロは、先ほどみなさんと共にお読みしました、テモテへの第2の手紙で、「ダビデの子孫として生まれ、死人の内からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音です」と言います。

みなさん、福音とは良き知らせです。神が私たちのもたらす恵みの知らせが福音です。そしてその福音とはイエス・キリスト様が死人の中からよみがえった復活の出来事なのだとパウロは言うのです。そしてその上でパウロは「11:次の言葉は確実である。「もしわたしたちが、彼と共に死んだなら、また彼と共に生きるであろう。」とも言う。

 このパウロのいう、イエス・キリスト様と共に死んだら、イエス・キリスト様と共に生きると言うことは、何も、やがてくる最後の審判という「この世」の終わりの時に救われて神の国に迎え入れられるという将来の希望のことだけを言っているのではありません。もちろんそのような将来の希望も含んではいるでしょう。

けれども、同時に、そしてそれ以上に「もしわたしたちが、彼と共に死んだなら、また彼と共に生きるであろう」と言う言葉は、イエス・キリストと共に死んだ人間は、イエス・キリスト様を模範にし、イエス・キリスト様のように生きる人間となるのだと言うことを私たちに語っている。それは、自分自身の人生の物語が変わる、書き換えらえると言ってもいいことなのです。

先日、私はある勉強会で「あなたにとっての救いとは何ですか」と問われると言うことがありました。以前の私でしたら「救いとは罪が赦されることです」と即答していたでしょう。でも、そのとき「あなたにとって救いとは何ですか」と問われて「罪が赦されることです」と簡単には言えなかった。もちろん、それもあるだろう。でも「私にとって」の「救い」とは、「罪がゆるされる」ということだけなのか。そう考えると、オウム返しのように「罪が赦されることです」とは言えないのです。というのも「罪がゆるされることである」という救いの理解は、私自身が深く考え、神の前に問い、そこから得られた答えではなく、ただ単にそのように教えられて来たことだからです。

そのようなわけで、一週間時間をもらい、聖書全体を思いめぐらし、またイエス・キリスト様のご生涯を思い起こしながら考えた。その結果、「私にとって救われると言うことは、私の人生の物語が書き換えられることだ」とそうお答えしました。それは、福音とはイエス・キリスト様がよみがえられたことにあるからです。

みなさん。私たちの人生は様々なことに絡み取られています。苦しみや痛み、そして悩み。あるいは、様々な心の傷、そして私たちを高慢にする栄誉や欲望、そして実現しなかった夢や願望。私たちはそういった様々なものに縛り付けられ、そこに感情が生まれ、悲しんだり、憎んだり、自分自身哀れに思ったりする。そんな人生の物語が、イエス・キリスト様と出会い変わっていく。それまでの悲しみや憎しみや自己憐憫でつづられた人生の物語が書き換えら、新しい意味が与えられ、イエス・キリスト様のように変えられていく人生を生きることができるように変わっていく。

みなさん、そこに救いがあるのです。今、ここでの救がある。そうですみなさん。今、私たちは救われ、今、私たちは、新しい生き方に招き入れられ、今、私たちは新しい人生を、新しい生き方を生きてている。そこにイエス。キリストと共に生きる救いの物語があるのです。だからこそ、イエス・キリストを「思い起す」ことが大事なのであり、「復活を信じることによって救われる」のです。

 マグダラのマリヤやヨハンナ、ヤコブの母マリヤは、、空っぽの墓の出来事によって、かつてイエス・キリスト様と共にすごし、その教えを聞いたときのことを思い起こさせられながらまだ出会っていない復活のイエス・キリスト様のことを知らされます。そして、私たちもまた、イエス・キリスト様の復活の出来事を通して、聖書を通して知ることの出来るイエス・キリスト様のご生涯を思い起こさせられながら、イエス・キリスト様にように生きる私たちに新しい人生の物語が与えられることを知らされるのです。

 そのようなことは信じがたいことかもしれません。イエス・キリスト様の復活の物語を聞いても、なかなか信じられなかった弟子たちのように、私の人生が新しく書き換えられていくと言われても、それは信じがたいことかもしれません。しかし、パウロが「もしわたしたちが、彼と共に死んだなら、また彼と共に生きるであろう」という言葉に対して「この言葉は確実です」と言ったように、それは確かなことなのです。

 なぜならば、イエス・キリスト様は確かによみがえられたお方だからです。そして私たちに与えられた福音とは、このイエス・キリスト様の復活の出来事だからです。ですから、私たちは、自分の口で、「イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じ」て生きて行こうではありませんか。そこに、「私」の救いの物語が描かれていくのです。お祈りしましょう。

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