2018年8月5日 小金井福音キリスト教会 説教
聖書個所
・列王記上 第19章9-18節
・ルカによる福音書 第23章50-56節
・テモテへの第二の手紙 第4章3-8節
説教題「 主の前に立つ 」
今日の説教の中心となります聖書個所は、ルカによる福音書23章50節から56節です。この箇所は、十字架に磔られて死なれたイエス・キリスト様の埋葬のいきさつが記されている箇所です。ですから、この箇所に何か特別な教えが記されているとか、イエス・キリスト様が何かをなされたと言うことが記されているわけではありません。ただ、イエス・キリスト様がアリマタヤという町の出身のヨセフという人の墓に納められたと言う出来事を淡々と伝えるのです。
そのアリマタヤのヨセフに対して、聖書は「善良で正しい人であり、議会の議決や行動には賛成していなかった」と伝えています。ここで言う議会というのは、これまでも出てまいりましたサンヘドリンというユダヤにおけるユダヤにおける自治の最高の決議機関のことです。その議会の議決や行動に賛成していなかったと言うのですから、このアリマタヤのヨセフはサンヘドリンの議員のひとりであったことがわかります。
そして、そのサンヘドリンの議会は、イエス・キリスト様をローマに反逆するものであるとしてローマの総督であるピラトに訴え出た、いわばイエス・キリスト様を十字架に架けた張本人なのです。ルカによる福音書22章1節を見てみましょう。そこにはこうあります。
「1:さて、過越といわれている除酵祭が近づいた。2:祭司長たちや律法学者たちは、どうかしてイエスを殺そうと計っていた。民衆を恐れていたからである」。ここには、祭司長や律法学者たちのイエス・キリスト様に対する殺意がありますが、その祭司長や律法学者たちの代表者がサンヘドリンの議員たちであると言ってもいい。そしてこの祭司長や律法学者たちの殺意もとづいて、サンヘドリンの議会は、イエス・キリスト様をピラトの下に連れて行き、イエス・キリスト様が、国民を惑わし、税金をカイザルに納めることを禁じ、自分こそ王なるキリストだと言っていると訴えるのです。ルカによる福音書23章1節にそのことが記されています。
そのようなサンヘドリンの議員たちの中にあって、アリマタヤのヨセフは、イエス・キリスト様を殺そうとする企てに賛成しなかったと言うのです。聖書は、このアリマタヤのヨセフ以外にサンヘドリンの議員の中でイエス・キリスト様を殺そうとする企てに賛成しなかった者の名前をあげていません。ただ、ヨハネによる福音書を見ますと、イエス・キリスト様の埋葬の際にはニコデモという人がいますから、おそらく、このアリマタヤのヨセフだとニコデモの二人だけが、イエス・キリスト様を殺す企てに賛成せずまた加わらなかったのでしょう。
けれども、ルカによる福音書は、そのニコデモの存在は記していません。ただアリマタヤのヨセフ一人だけが、イエス・キリスト様を殺そうとする企てに賛成せず、アリマタヤのヨセフ一人が埋葬をしたかのように記している。ですから、この箇所を読むときには、アリマタヤのヨセフ一人だけに目を注ぐべきです。アリマタヤのヨセフ一人が、71人からなるサンヘドリンの議会のなかで、あたかものは、アリマタヤのヨセフただ一人が、イエス・キリスト様を殺す企てに賛成しなかったかのようにルカによる福音書は私たちに語りかけている。
みなさん、「賛成しなかった」ということは、必ずしも反対意見を述べたと言うことではありません。実際、聖書は、アリマタヤのヨセフが議会で反対したとは言ってません。ただ「賛成しなかった」というのです。 けれども、その「賛成しなかった」という行為だけでも、じつは、相当の覚悟と勇気のいる行為ではなかったかと私は思うのですが、どうでしょうか。みなさんはどう思われるでしょうか。
何年か前に、私はある会議に出ていました。そこでは4,50人の人が集まって、ある神学的内容について議論がなされていたのですが、ある方が意見を述べられ、残りのほとんどの人が、その意見に追従し、賛成する意見を述べられていました。その中で私ひとりが、その方の意見に反対の意見を述べたのです。そして、しばらくの間、私が述べたことについて議論の時をもちましたが、それこそ四面楚歌といった感じでした。
その会議が終わった後、ある方が、私が反対意見を述べたことに対して、「勇気がある人だな」という感想を述べてくださいました。確かに、ほぼ全体が一つの意見にまとまっている中で、ひとりだけ違った意見を言うということは、結構、勇気のいることです。とりわけ、和をもって尊しとする日本社会においては、そうなのかもしれません。実際、私もそれなりのプレッシャーを感じながら自分の意見を述べていました。
それが、ナザレのイエスというひとりの人を抹殺しようと言う意見が取り交わされている場面では、もっと大きなプレッシャーがかかっているであろうと思われます。それこそ一人一人が殺気だっているのです。その中で、自分一人が違う立場に立ち、違う行動をとろうとしている。その違う立場に立って行う違う行動というのは、ローマ総督のピラトにイエス・キリスト様の遺体の引き取りたい願い出て、そのご遺体を引き取り、亜麻布につつみ、まだ誰も葬ったことのない墓に納めたという行為です。
その当時、罪を犯して処刑された人の死体は放置され、野犬やハゲタカの餌食にされるようなことも少なくなく、良くても共同墓地に葬られると言った状況の中で、アリマタヤのヨセフは、ピラトに願い出て、イエス・キリスト様のご遺体を引き取り、敬意をもって亜麻布でくるみ、まだ誰も葬られていない新しい墓に納めたのです。それは、本当に勇気がいる行為であった。というのも、イエス・キリスト様を憎み、このお方を十字架の上で磔にし、処刑させたサンヘドリンの議員たちがいるその中でそれをするからです。
だから、アリマタヤのヨセフという人は勇気がある人だなぁと思うのです。そして、そのようなアリマタヤのヨセフの勇気ある行動に対して、ルカによる福音書の著者は、彼を「善良で正しい人であった」と言うのです。
みなさん、アリマタヤのヨセフがイエス・キリスト様を葬った行為は、このヨセフにとっての信仰告白的な行為であったと言ってもよいでしょう。そしてその行為は、勇気あるものであった。確かに、そのように私には思える。その意味では、このアリマタヤのヨセフは、信仰の勇者のような存在であると言うことができるかもしませんし、確かに「善良で正しい人」だと言えるでしょう。
しかし、そう思うその反面で、私があのイエス・キリスト様の十字架の死の場面に立った時、アリマタヤのヨセフのような勇気ある信仰告白的な行為ができるだろうかと考えると、少々不安な気持ちになります。自信がないのです。あのアリマタヤのヨセフのような勇気があるかどうか自信がない。
さきほど、神学的議論がなされた会議で、私がひとり反対意見を述べたことに対して、「勇気がある人だと思った」と言ってくださった方がいたと申しましたが、それは、アリマタヤのヨセフの勇気とは全く違い性質のものです。神学的な議論は、学問的な立場に立った議論ですから、反対意見を言うことが赦されている場です。そしてどんな反対意見を言っても、それでキリスト教会から排除されることはありません。だから、安心して言える。身の安全が担保されているからです。
けれどもアリマタヤのヨセフの場合は違う。イエス・キリスト様を憎み、十字架に付けて殺させたサンヘドリンの議員たちの前で、彼らを裏切るかのようにして、イエス・キリスト様を敬い葬ると言う信仰告白的な行為をするのです。当然、サンヘドリンの議会から排除されたり、迫害を受けるといった身の危険を伴う。だから彼がイエス・キリスト様を葬った行動は、信仰告白的な勇気を必要とする行動なのです。
身近な例で言いますと、私たち日本ホーリネス教団の前身は、第二次世界大戦中に迫害を受け、多くの牧師が逮捕され投獄されました。厳しい取り調べや拷問のようなものもあったと聞きます。そのような中で殉教なさった牧師もおられる。彼らは、確かに信仰告白的な勇気をもって生きられたのです。そのような中で、私は、自分自身に「お前もその迫害の中で自分の信仰と信念を貫き通せるのか」と問うと、胸を張って「できます」と言い切れる確信がない。そこに自分の弱さを感じるからです。
だから、アリマタヤのヨセフのような勇気ある態度を見ると、「本当にすごいなぁ」と思う反面、その行為をもって「善良で正しい人であった」と言われるとしたら、自分は、何とみじめな人間なのだろうと思わざるを得ないのです。
ところが、このイエス・キリスト様の埋葬の場面には、アリマタヤのヨセフ以外の別の人物も登場します。55節のイエス・キリスト様についてきたガリラヤの女性たちです。彼女たちは、イエス・キリスト様が十字架に付けられた時、遠いところに立って、十字架の場面を見ていました。23章48節です。そこで彼女たちは「すべてイエスを知っていた者や、ガリラヤから従ってきた女たちも、遠いところに立ってこれらのことを見ていた」と言われています。
この女性たちは、イエス・キリスト様が、十字架に磔られた際に遠巻きにそれを見ていただけです。そして、イエス・キリスト様が埋葬されるときも、その様子を見届けるだけであった。その意味では、アリマタヤのヨセフのように勇気を振り絞って、イエス・キリスト様のご遺体を引き取り、葬ると言った行動を起こす勇気のなかった人たちです。ただ見届けるだけしかできなかった人たちです。けれども聖書は決して彼女たちを批判的に扱ってはいません。
確かに、この女性たちには、アリマタヤのヨセフのような勇気ある行動はできなかったもしれません。けれども、彼女たちはイエス・キリスト様が墓に納められたのを見届けた後、帰って、香料と香油を用意したというのです。香料と香油は、葬りの為に用いられるものです。56節にこの女性たちは「おきてに従って安息日を休んだ」とありますから、安息日があけた後に、イエス・キリスト様の墓に行き、用意した香料と香油をもってイエス・キリスト様の葬りをしようとするのです。
それは、彼女たちにできる精一杯のことだったのでしょう。そのことを聖書は記す。それは、アリマタヤのヨセフのような勇気ある信仰告白的な行為ができなくても、彼女たちのできる精一杯のことをやろうとするその姿が、神の前には尊い行為であり、信仰の告白だと受け止められているからです。
みなさん、私たちは、アリマタヤのヨセフのような信仰の勇者になることはできないかもしれません。けれども、だからと言って決して嘆く必要はありません。私たちは、私たちができる精一杯のことをすればいいのです。それが、神の前に尊いことなのです。そして、ひょっとしたら、私は何もできませんという人もいるかもしれません。それでもいい。仮に、私は何もできないということがあったとしても、それでもなお神は、なお、私たちを愛し尊いものと受け入れてくださるお方なのです。
私たちは、先ほど司式者の聖書朗読のもと、列王記上19章9節から18節に記されているエリヤと言う預言者の物語を読みました。エリヤは、イスラエルの国が南ユダ王国と北イスラエル王国の二つに分断されていた時代に、北イスラエル王国で活躍した預言者です。
エリヤが活躍した時代はアハブと言う王様が北イスラエル王国の王でありました。このアハブは、列王記上16章30節で「オムリの子アハブは彼よりも先にいたすべての者にまさって、主の目の前に悪を行った」と言われるように、決して褒められた王様ではありませんでした。
アハブが行った悪政の中で、とりわけ神の前に悪いことだったのは、アハブが北イスラエル王国の首都であるサマリアにバアルの神殿を建て、バアルやアシュタロテといった偶像の神を信じ拝む、いわゆる偶像礼拝を持ち込んだことです。
アハブの偶像礼拝の背後には、彼の妻イゼベルの影響があります。イゼベルはシドンの王エテバアルの娘で、彼女によって偶像礼拝が北イスラエル王国にもたらされたようです。イゼベルはバアルやアシュタロテと言う偶像をもたらしただけではなく、バアルに仕える450人の預言者とアシュタロテに仕える400人の預言者ももたらしました。その反面、聖書の神に仕える預言者たちの多くが殺され、エリヤ以外には、わずかにオバデヤという宮廷長官にかくまわれた100人が洞窟に隠れ住んでいるだけでした。
エリヤは、このバアルとアシュタロテに仕える預言者にたった一人で立ち向かいます。そして勝利する。この勝利で、北イスラエル王国に真の神を信じる信仰が復活をする。きっとエリヤはそのように期待したことでしょう。ところが、王妃イゼベルはエリヤを殺そうとする。そして、北イスラエル王国から聖書の神を信じる信仰を一掃しようとするのです。そのことを知ったエリヤは自分のやったことが無駄になったという傷心の思いと自分の命が狙われているという事態のために逃走し疲れ切った体で神の山ホレブにたどり着きます。
そのホレブの山での出来事が、先ほどお読みいただいた列王記上19章9節から18節の出来事なのです。そのホレブの山でエリヤは神と対話します。その対話の中でエリヤは「北イスラエル王国は聖書の神を捨て、背信をし、神の預言者たちを殺し、自分一人だけになってしまった」と嘆き訴えます。 その時、神はエリヤに「わたしはイスラエルのうちに7千人を残すであろう。みなバアルにひざをかがめず、それに口づけしない者である」言われるのです。列王記上19章18節です。口語訳聖書では、「7千人を残すであろう」また「口づけしない者である」となっていますが新改訳2017版では「7千人を残している」また「口づけをしなかった者」となっています。つまり、エリヤは北イスラエルの国には、聖書の神に仕える預言者はみんな殺されていなくなったと思っていたのですが、まだ7千人が残されていると言うのです。
この7千人の存在を、エリヤには知りませんでした。王妃イゼベルも北イスラエル王国民も彼らの存在を知りません。それは、彼らは何の声も挙げず、何もしていないからです。イザベルの迫害の中で、じっと声を潜めているのです。しかし、聖書の神を信じ、その信仰を心の中にじっと秘めている。この7千人はそんなたちなのです。そして神は、彼らの心に内に秘めた信仰に目を留め、その心に秘めた信仰ゆえに彼らを残しておられるのです。
みなさん、ひとり一人、その置かれた状況の中でできることは違っています。アリマタヤのヨセフや、エリヤのように勇敢に戦う信仰を示す人もいるでしょう。ガリラヤから来た女性たちのように、そっと、ひそかに自分たちの出来る範囲の中で、精一杯イエス・キリスト様の葬りをしようとする人たちもいる。そして、あの残された七千人のように迫害の中で、何の声も挙げず、また何もせず、じっと心の中で神を信じる信仰を温めている人たちがいる。
行った行為だけを見れば、そこには歴然とした差があります。しかし、神を信じ、神の前に立つ一人一人の存在は等しく尊いのです。大切なのは、神の前に何をしたかではなく、神を信じ、神の前に立って生きると言うことなのです。doingではなくbeingということです。
さきほど、司式者にテモテへの第二の手紙4章3節から8節を読んでいただきました。そこにおいてパウロは、自分は戦いを戦い抜き、走るべき道のりを走り抜いたと言っています。それは様々な試練や困難があっても、神を信じる信仰を生き抜き、神の御前に立ち続けたパウロが、自分の死を意識しながら胸を張って言った言葉です。
みなさん。私たちは様々な試練や試みを経験します。その時の身の振り方は一人一人違います。けれども大切なのは、神を信じ抜く信仰です。何をしたかではない。何を信じているかが大切なのです。
ひとり一人、神から与えられた役割や務めは違っています。私たちにできることも違っている。けれども、神を信じる信仰は同じなのです。そしてその信仰を生き抜き、神の前に立つことが大切なのです。ですから、私たちは、何を行ったか、何ができたか、また何ができるのかではなく、神に前に立っている一人ひとりの存在を喜びたいのです。
イエス・キリスト様は、ご自分の体をアリマタヤのヨセフにお委ねになり、またガリラヤから来た女性たちにお委ねになりました。それは、神を信じる信仰の中で、自分にできる精一杯のことなそうとする信仰にご自分を委ねになったのです。そのことを思いながら、神の民として、神の前に生きる私たち一人ひとりとして、その存在を喜びながら歩んでいきましょう。お祈りします。
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