2018年7月8日 小金井福音キリスト教会 説教
聖書個所
・創世記書3章1~7節
・ルカによる福音書23章32~38節
・ローマ人への手紙12章17~21節7
説教題「それぞれの正義」
説教題「それぞれの正義」
今日の礼拝説教の中心となる箇所はルカによる福音書23章32節から38節です。この箇所はイエス・キリスト様が十字架に磔になる場面です。イエス・キリスト様がほかのふたりの囚人とともに十字架に磔られた。その様子をルカは淡々と描写するのです。そのとき、イエス・キリスト様は「父よ彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」とそう言われた。ルカはそう綴る。
この言葉は、新約学者の中では議論を生む言葉です。というのも、聖書の原典そのもは失われてありません。あるのは数多く残された写本だけです。その残された多くは聖書全体を網羅しておらず、ただ断片的に書く移されたものが残されているだけです。しかし、それでもいくつかはある程度まとまった形で書き写して一冊にまとめたものがあります。
コーデックスと呼ばれるもので、バチカン写本(B)と呼ばれるものやシナイ写本(ℵ)、ベザ写本(D)といったものです。その中のいくつかの重要な写本(BとD)に、この言葉が記されておらず、この「父よ彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」は「もともと聖書にはなかったのが後から書き加えられた」と言う学者と「いや、もともとあったのが削られたのだ」言う学者の間で議論があるのです。
この議論に結論が出ているわけではないのですが、この箇所で述べられている言葉は新約聖書の思想と深く結びついていますので、初めからあったと考えてもよさそうです。そして何よりも、イエス・キリスト様が、十字架に架けられると言う苦しみの中で、「父よ彼らをおゆるし下さい。彼らは何をしているのか、わからないでいるのです」と祈られた、この執成しのの祈りは、私たちに強い衝撃を与えるのです。
私は、この説教を準備するにあたり、「父よ彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」という言葉を読みあれこれと思い巡らしていました。そのとき、ふとと思ったのです。この「彼らをおゆるし下さい」といわれている「彼ら」が、いったい誰をさして「彼ら」と言っているのだろうかと。そして「彼らは何をしているか、わからずにいるのです」という「彼ら」がしていることとはいったい何なのだろうか、そう思ったのです。
しかし、どんなにこの箇所を読み返しても、また注解書を調べても、「彼」が誰であるか、またどのような行為をさしてイエス・キリスト様が「何をしているのか、わからないでいるのです」と言われたのか、納得のいく明確な答えが見つからないのです。
でもね、みなさん。こういうときこそ、実は聖書を読む醍醐味があるのです。この「彼」が誰であるか。いったいどのような行為を指して「何をしているのか、わからないでいるです」と言っているのか。想像は広がります。考えも広がります。それそこ、そこに聖書を読む面白みがあるのです。
私は考えました。するおまず、考えられるのは、イエス・キリスト様を十字架に磔つけたローマの兵士たちです。だとすれば、「何をしているかわからない」というのは、イエス・キリスト様を十字架に架けると言うことが一体どういうことなのか、彼らは分かっていないと言うことになります。もちろん、彼らはイエス・キリスト様を処刑しているということは分かっている。そして、それがローマの兵士として与えられた任務であり、その任務を全うすることが「彼ら」にとって正しいことなのです。
次に考えられるのは、イエス・キリスト様の着物をくじ引きで分け合った人々です。このくじ引きした人々は、状況から考えますとイエス・キリスト様を十字架につけたローマ兵たちであると思われます。しかし、ここでは聖書が敢えて「人々」と書いてありますので、ローマ兵であるかどうかはさておいて、イエス・キリスト様の着物をくじ引きで掛け合っている人々の、そのイエス・キリスト様の着物を分け合うと言う行為が、「何をしているかわからないでいる」と言われるものなのです。
このイエス・キリスト様の着物をくじ引きで負け合うと言う行為は、一般に詩篇22篇18節(新共同訳19節)にある「彼らは互にわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引にする」の成就であると言われますが、たしかにそれはそうであろうと思います。だとすれば、彼らは分からずに旧約聖書の言葉を成就していると言う意味になります。
もちろん、この着物をくじで分け合っている人々は、旧約聖書の言葉を成就しようと思って、くじで分けあっているのではありません。私の存じ上げているある牧師は、このイエス・キリスト様の着物をくじで分け合っていた人々は、その着物を打ってお金を得ようとしていたのではないかとおっしゃっておられましたが、確かにそうなのかもしれません。だとすれば、彼らにとってお金を得ると言う良いことのために着物をくじで分け合っていたのです。少なくとも彼らはそう思っていた。
最後に考えられるのは、「彼は他人を救った。もし彼がキリスト、選ばれたものであるなら、自分自身を救うがよい」とイエス・キリスト様を侮った役人たちです。口語訳聖書は役人となっていますが、ギリシャ語の本文をみますと、指導者たちという意味の言葉(ἐξεμυκτήριζον)がつかわれいますので、この役人たちというのはイエス・キリスト様を十字架に磔るように仕向けたサンヘドリンの議員たちであろうと思われます。
彼らは、イエス・キリスト様を十字架に付けて処刑するように図った人たちです。それは、彼らがイエス・キリスト様をイスラエルを救う油注がれた王であると認めない人たちです。「もし彼が神のキリスト、選ばれた者であるなら、自分自身を救うが良い」という言葉にそのことが如実に表れていると言えます。そこには、ローマ帝国に処刑され殺されようとしている自分自身を救えない者が、どうして油注がれた王としてユダヤの国を救い、ローマ帝国から解放できるのか」といった皮肉めいた思いが見られる。だから嘲笑うのです。
そのような思いは、ローマに兵士たちの共通するものです。だからローマの兵士たちも「あなたがユダヤ人の王なら、自分を救いなさい」というのです。それは普通に考えれば誰しもが思いそうなことなのです。つまり、私たちが考える知性における正しさからすると、「もし彼が神のキリスト、選ばれた者であるなら、自分自身を救うが良い」とあざ笑うことは決して間違っていないのです。誰もがそう思うのです。
こうしてみますと、ローマの兵士たちは、自分の職務に忠実なことにおいて正しいことをしていますし、くじを引いて衣服を分け合っていた人々は金もうけをすると言うことにおいては間違っていませんし、イエス・キリスト様を油注がれた王と認めず、イエス・キリスト様を十字架に付けさせ「もし彼が神のキリスト、選ばれた者であるなら、自分自身を救うが良い」と言ってあざ笑ったサンヘドリンの議員たちも、それぞれが、自分の正しいと思うことをしているのですで、それぞれがそれぞれの正義を全うしている。
しかし、イエス・キリスト様は「彼らは何をしているか、わからないでいるのです」と言われる。今あげた人々、イエス・キリスト様の十字架の周りにいた人々は、それぞれが自分の正義を行っている。しかし、それはそれぞれの正義、自分にとっての正義であって、神の前ではそれは正義ではないのです。それが彼らにはわかっていない。
さきほど、司式の兄弟に旧約聖書の創世記3章1節から7節を読んでいただきました。この箇所は、アダムとエヴァが神から食べてはならないと言われていた善悪を知る木の実をとって食べる物語が記されている箇所です。神はアダムとエヴァに、創世記2章15節から17節でこのように言われている。
主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」
ところが、ヘビがやって来て「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」といって、エヴァをそそのかすのです。エヴァは蛇の言葉を聞いて、「その木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので」 アダムもまたその実を食べたのです。
彼らは、自分にとって善いと思われることをしたのです。だから地分は間違ったことをしたとは思っていない。正しいことをしたと思っているのです。しかし、それは神の前では正しいことではなかった。聖書は人間は罪びとだという。そして、その罪びとである人間の姿が、このアダムとエヴァの姿の中に現れている。それは、自分自身が正しいと思うこと、自分の正義を貫いて生きる生き方なのです。
私たちの生きている世界では、自分の信念を貫いて生きる生き方は、しばしば賞賛されます。しかし、自分の信念を貫き、自分の正義を貫くとき、それは、周囲に大きな迷惑をかけてしまうことがある。
それに対してイエス・キリスト様は「彼らは何をしているのか、わかっていないのです」といって、神に祈り、「彼ら」を執成すのです。「わかっている。正義を全うしているのだ」という人に、「なにをしているのかわからない」といってイエス・キリスト様は、神に執成して赦しを祈る。そうです。イエス・キリスト様の言葉は、私たちの心にむかって、あなたの内にある正しさはあなたの正義であって、それが本当の正義であるとは限らないといって私たちの心に切り込んでくる。
今週の金曜日、私はR大学院の授業に出ていました。その日、その授業を担当する教授がいつもより少し遅れてこられました。聞きますと、前の授業は大学1年生の授業で、その日の授業が取り扱ったテーマが死刑制度についてであり、とても議論が白熱して遅くなってしまったというのです。おりしも、ちょうどその日は、オウム真理教事件の主犯格の7人に死刑が執行された日でした。そんな背景もあったのでしょう、その日は学生が少し興奮気味に死刑制度の善悪について熱い議論をしたと言うのです。
オウム真理教事件の犯人に対する死刑執行は、法治国家の日本国としては法に基づいて、正義を貫いて死刑を執行しました。それに対して、学生たちの議論だけでなくヨーロッパの多くの国から批判の言葉が沸き上がっています。日本の政府は、法に基づき正しいこと、正義を貫いたと思っているでしょう。しかし、周りにはそのように考えない国も、また人も多くいる。そして彼らの正義で日本の司法当局を裁き批判するのです。そこには異なる正義がぶつかり合っている。
また、そもそものオウム事件をかんがえてみると、この事件の犯人たち自身は、自分たちの信念や自分たちの正義に基づいて、教祖の麻原彰晃に付き従って27人の人の命を奪い、6千人以上とも言われる被害者の人を生み出してしまったのです。事件後、ふと我にかえって、どうしてあのようなことをしたのだろうと後悔する人もいたと聞きます。自分の信念や正義をいったん脇においてみると、自分の正義や信念がいかに間違っていたかに気付いたのです。
みなさん、私たちは誰もが自分自身の正義を持っている。それが多くの人と共有されるとき、それは共同体における社会正義と呼ばれるものになる。その自分自身の正義が、そそして私も認める共同体の正義が揺るがされると、怒り、場合によっては報復や復讐になったりする。そこまで行かなくても人間関係を壊してしまうことがあるのです。
でもそれは、それこそが自分の内にある正義で必ずしも、本当の正義とは限らない。だとしたら、いったいどこに本当の正義があるのか。少なくともそれは私たちの内にある者ではないことは確かです。だとすればそれはどこにあるのか。もう、私が何か言わなくてもみなさんは十分にわかっておられると思うのですが、本当の正義は神の内にある。だからこそ聖書は、あの新約聖書の使徒書ローマ人への手紙12章19節で
愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。 むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」
というのです。あのオウム事件の犯人たちは、自分たちの中の正しさと正義を、国家が、世間がそれを脅かすと教祖のそそのかされて、あのような悲惨な犯罪を繰り返してしまいました。それはある意味、国家や世間に対する復讐でした。同じように、イエス・キリスト様が、ユダヤ人の指導者たちでありサンヘドリンの議員たちの正しさと正義を揺るがしたとき、彼らはイエス・キリスト様を謀略にかけ十字架の上で処刑する。そして、ローマ兵も自らの職務に忠実であれという彼らの正義によってその処刑に加わるのです。
しかし、彼らは「わかっていなかった」のです。彼らの正義は本当の正義ではなく、本当の正しさではないと言うことを。
みなさん。私たちはそれぞれに正義を持っている。だから、物事の善し悪しを判断することが出来る。だから、私たちの正義が何から何まで悪いと言うわけではありません。けれども、たとえそうであっても、それは絶対的な正義ではありません。だからこそ私たちは、何か重大なな判断をしなければならないとき、何か大切な決断をする時、自分の善し悪しの判断だけで行うのではなく、その時、一歩立ち止まって、一度大きく深呼吸をして、この判断は、神の御心に沿うものであるか。この行動は、愛の神が、真実の神が喜ばれるかを考えることが大切です。
とりわけ、怒りの中で、たとえそれが義憤であったとしても、その怒りによって行動しようとするときは、一歩も二歩も立ち止まって、一度も二度も深呼吸をして、愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。というローマ人への手紙12章19節のお言葉を思い出し、また「父よ彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」というイエス・キリスト様の赦しを祈る執成しの祈りを思い起してほしいのです。
そうすれば、私たちは神の前に判断を誤ることなく、神の民として、神を証する生き方に導かれていくはずです。お祈りましょう。
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