‘18年8月第3主日礼拝説教「目を閉ざすもの、目を開くもの」 2018.8.19
旧約書;創世記8章13-22節
福音書;ルカによる福音書24章13-32節
使徒書;へブル人への手紙11章1-3節
私たちの教会では、ここ数年、ルカによる福音書を中心に礼拝での説教をしてきましたが、そのルカによる福音書からの説教も、先週から、最後の章である24章に入りました。
このルカによる福音書の24章は、イエス・キリスト様の復活の出来事が記されている箇所です。全体は1節から12節までの空の墓の物語、13節から32節のエマオに向かう二人の弟子たちに復活なさったイエス・キリスト様が顕われた物語、そして、33節から52節までのエルサレムにいた弟子たちによみがえられたイエス・キリスト様が顕われた物語の三つの物語から構成されています。
この一連の復活の物語は、リレーのように話が受け継がれていきます。1節から12節の最初の墓の物語は、我々に、イエス・キリスト様の生涯を振り返り、思い起こさせつつ、あの弟子たちと共に過ごし、旅をし、教えを語られたイエス・キリスト様が、その語られた言葉通りによみがえられたことを示します。しかし、この空っぽの墓の物語は、そのイエス・キリスト様のよみがえりを信じられない弟子たちの姿で締めくくられます。11節です。そこのはこうあります。
「ところが、使徒たちには、それが愚かな話のように思われて、それを信じなかっ
た」。
この愚かな話というのは、イエス・キリスト様が、十字架に磔られて死んだイエス・キリスト様がよみがえられたということです。そしてそれは、イエス・キリスト様の弟子たちは、復活言う出来事を事実として受け止められなかったと言うことを意味します。弟子たちは、イエス・キリスト様の墓がからとなっているという出来事を突きつけられ、イエス・キリスト様が「人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる」と言っておられたことを突きつけられても、それでもなお、復活という出来事を信じられなかった。 しかし、イエス・キリスト様が、十字架につけられ、葬られ、更にはイエス・キリスト様の墓が空っぽになっているのです。
この事をどう考えたらよいのか。弟子たちが戸惑っていたであろうことは、容易に察しできます。 そのような戸惑いの中で、イエス・キリスト様の弟子のクレオパという人と、もう一人の弟子が、エルサレムから6キロほど離れたエマオと言うところに向かって歩いていました。このクレオパという人は、ヨハネによる福音書19章25節で「イエスの十字架のそばには、イエスの母と、母の姉妹と、クロパの妻マリヤと、マグダラのマリヤとが、たたずんでいた」と記されているクロパのことではないかと言われたりしますが、それが確かなことであるという明確な根拠はありません。
しかし、いずれにせよこのクレパともう一人の弟子がエマオに向かって歩いている道々で、彼らがエルサレムで目撃したイエス・キリスト様が十字架の死に至るまでの一連の出来事と、イエス・キリスト様の墓が空っぽになっていたと言う出来事、そしてその空の墓を目撃した女性たちが、イエス・キリスト様が、かねてガリラヤで言われていたようによみがえられたと言っていることについて議論をしていたと言うのです。
こうして、24章1節から12節の空っぽの墓の物語は13節から32節のエマオの途上の物語に引き継がれるのですが、当然、このエマオに向かって歩く二人の弟子もまたイエス・キリスト様がよみがえられたと言うことを信じることはできない。だから道々議論をしているのです。そこによみがえられたイエス・キリスト様が顕われ、この二人の弟子たちに近づき共に歩きはじめます。
ところが、この二人の弟子たちは、それがイエス・キリスト様だと気づかないのです。ここがこの物語の面白いところです。イエス・キリスト様がよみがえられたと言うことができない弟子の目の前に、よみがえられたイエス・キリスト様があらわれた。なのにこの弟子たちは、それがイエス・キリスト様だとは気づかない。これは一体どういうことなのだろうかと、実に興味がそそられるところでありますが、聖書は「二人の目がさえぎられていて、イエスであることがわからなかった」と記しているだけです。
では、二人の目を遮ったものは何か。いろいろなことが考えられるでしょう。しかし、このルカによる福音書の文脈から読み取れるものは、彼らがイエス・キリスト様の復活のっ出来事を信じられないということです。それはあり得ないことだと思っている。もちろんそれは、ある意味止むを得ないことだと言えます。死んだ人間がよみがえると言うことなど、常識的には考えられないことだからです。
実際、使徒行伝17章16節以降にはパウロのアテネ伝道に事が記されていますが、最初はパウロの話に興味をもって耳を傾けていた人たちが、パウロがイエス・キリスト様の復活の出来事を話し出した途端、去って行ったと言う出来事が記されています。これなどは、死人がよみがえることなどありえない馬鹿げた話だと考える、ごく一般的な人、常識的な人の姿であると言ってもよいでしょう。
死んだ人間がよみがえるはずがない。そんな馬鹿なことは考えられない。それは現代に生きる私たちも思うことです。同じようにイエス・キリスト様の時代のユダヤ人も、ギリシャ人も死んだ人間がよみがえるなどとは考えられないのです。だから「そんなことがあり得ようはずがない」と断定する。そしてこの断定は、先入観ともなりますし、偏見、あるいは決めつけといったものにもなる。そして、そういった先入観や偏見、きめつけというものが、目を閉ざしまうと言うことがある。そのようなことがこの場面で起こっていたと言えます。いずれにせよ、死んだ人が生き返ることはないという常識的な考えが、イエス・キリスト様がよみがえられたと言うことを信じることの弊害になっていたことは間違いありません。
しかし、このルカによる福音書の24章の三つの物語が一貫して私たちに求めていることは、その信じられないことを信じると言うことです。聖書の言葉を信じ、イエス・キリスト様の言葉を信じる。そのことをこのルカによる福音書は復活の物語は私たちに求めている。
もちろん、聖書の言葉を信じるといっても、闇雲に盲信しなさいと言うことではない。聖書の中には人間の知性によって深く考えなければならないこともある。また、神学と言う営みを積み上げて探求する中で理解しなければならないこともあるでしょう。しかし、少なくとも、イエス・キリスト様が十字架に付けられ三日目によみがえられたと言う出来事は、信じる事によってのみ受け入れることができる信仰のことがらです。そしてその事柄ことなしに、私たちがイエス・キリスト様を知り、このお方とお出会いすると言う経験をすることができないのだとこのルカによる福音書の復活の出来事は語っているのです。
みなさん。信じると言うことは信仰の中心にある事柄です。それは理解すると言うことでも、わかると言うことでもありません。11世紀の神学者アンセルムス(1033-1103年)は、「信じるために理解するのではなく、理解するために信ぜよ」と言いましたが、このアンセルムスの言葉は信仰というものの本質を非常によく言い表しています。ともうしますのも、理解することができれば、それはもはや信じる必要がないからです。理解できないから信じることが必要になる。信仰とは理解し納得できたから信じると言うのではなく、自分の知性では理解できない事柄ではあるが、そのことを信じ信頼し、そのことに自分の人生を賭けると言うことなのです。そうすると、その理解できない事柄の背後にある信仰の事柄がわかって来るとアンセルムスは言うのです。
このことは、先ほどお読みした新約聖書へブル人への手紙11章1節から3節の言葉と根底において相通じるものであります。そこにはこうあります。
「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認するこ
とである。昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。信仰によって、わたしたち
は、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れている
ものから出てきたのでないことを、悟るのである 」
ここで言われている「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することである」と言う事柄は、3節にある「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである 」と言う言葉が指し示す神の創造の業だけではなく、3節以降に述べられている。神の約束や神の言葉を信じる信仰、神に喜んでいただける歩みをしようとする信仰、等々も含みます。
もちろん、 これらは、復活という理解できないこと、不条理なことを信じる信仰と言うこととは、少し違ったものかもしれません。しかし、ルカによる福音書が求める復活を信じる信仰は、聖書に記されている神の約束としてのイエス・キリスト様の復活を信じる信仰であり、イエス・キリストの言葉に基づくよみがえりのイエス・キリスト様を信じる信仰です。ですから、へブル人への手紙11章で言う信仰とルカによる福音書24章で求める信仰は、その本質において根底で相通じているのです。その信仰が、このエマオの途上にある二人の弟子には欠けていた。
この二人の弟子たちは、この都でこの時にイエス・キリスト様に起こった出来事については十分に知っていました。それこそ、空っぽの墓のことも、そこでマグダラのマリヤをはじめとするガリラヤからイエス・キリスト様に従ってきた女性たちがみ使いから語りかけられたことも、それらすべてのことを知っていた。けれども、彼らには、彼らの理解を超えた聖書の言葉とイエス・キリスト様の言葉を信じる信仰にかけていたのです。だからこそ、イエス・キリスト様は、彼らのこのように言われ嘆かれる。
25:「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられな
い者たちよ。 26:キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずでは
なかったのか」。
25節、26節です。このように、「預言者たちが説いたすべての事を信じられない」弟子たちに、それはつまり、自分たちの知性では理解できない聖書の言葉に対して信じきれない弟子たち対して、イエス・キリスト様はもう一度、「モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた」のです。
このとき、イエス・キリスト様が、この二人の弟子たちにどのように説き明かしをされたのだろうかと言うことは、説教者である私には大変興味のあることですが、残念ながら聖書はそのことについては何も記していませんので知りようがありません。けれども、このイエス・キリスト様が聖書を説き明かすことばが、この二人の弟子の心を揺り動かしたことは確かです。32節で、彼らは互いに、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」と語り合っているからです。
しかし、それでもなお、彼らは自分と一緒に歩き、聖書を説き明かしておられる方がイエス・キリスト様だとは気が付かないのです。そこには、変化がある。ここが内に燃えると言う変化がある。けれどもなお信じ切れない弟子の姿もそこにある。
彼らはイエス・キリスト様の弟子です。いうなればクリスチャンです。それでも自分の知性では理解できない神の言葉に信頼しきれないでいる。心は既に動き、変化し始めている。けれどもまだ開けかれない。わからない。でも彼らはその理解できないことを知りたいのです。わかりたいのです。だから、この二人の弟子たちは、あえてイエス・キリスト様を引き留めて、一緒の泊まろうとする。28節、29節です。
28:それから、彼らは行こうとしていた村に近づいたが、イエスがなお先へ進み行か
れる様子であった。29:そこで、しいて引き止めて言った、「わたしたちと一緒にお泊
まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。イエスは、彼らと共
に泊まるために、家にはいられた。」。
この二人の弟子たちとイエス・キリスト様が泊まれたその家で、ついにこの弟子たちのの目が開かれ、そこによみがえられたイエス・キリスト様がおられると言うことが分かるのです。それは、何かを論理的に説明する言葉によってではありませんでした。イエス・キリスト様が食事の際にパンを取り、神をほめたたえそれを裂いて弟子たちに手渡した時に起こったのです。イエス・キリスト様が聖書の言葉を説き明かされるその説きあかしによって揺り動かされた心が、パンを取り、神をほめたたえそれを手渡すその行為によって、決定的に変えられたのです。
しかし、なにゆえこのパンを取り、神をほめたたえそれを手渡すと言う行為が、二人の弟子たちの目を開く決定的なものとなったのか。おそらくそれは、このパンを取り、神をほめたたえそれを手渡すと言う行為が、あの最後の御晩餐と言われる過ぎ越しの食事を、この弟子たちに想起させたからだと思われます。実際、この箇所を読む私たちにでさえ、イエス・キリスト様のこのパンを裂く行為が聖餐式を思い起こさせ、最後の晩餐の出来事を思い起こさせるからです。
イエス・キリスト様は、過ぎ越しの夜、パンを裂きこのように言われました。ルカによる福音書22章19節から20節です。
19:またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これ
は、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、この
ように行いなさい」。 20:食事ののち、杯も同じ様にして言われた、「この杯は、あ
なたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である。21:しかし、そこ
に、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に食卓に手を置いている。22:人の子は定めら
れたとおりに、去って行く。しかし人の子を裏切るその人は、わざわいである」。
この過ぎ越しの食事の場面を思い起こす時、イエス・キリスト様は、この言葉通りに十字架に付けられ、十字架の上で死んでいかれたのです。まさに、イエス・キリスト様の言葉が現実となった。その現実を彼らは自分の目で見ていた。パンを取り、神をほめたたえそれを手渡すその行為は、そのことを弟子たちに、そして私たちに突き付けてくる。
その時に、その時にです。みなさん、二人の弟子たちの目が開かれたと聖書は言うのです。聖書の説き明かしでは、心揺り動かされても決定的に目を開かれるところにまでは行かなかった心が、イエス・キリスト様の最後の晩餐を想起させる行為によって目を開かれるのです。
私は、この事を思う時、信仰における儀式の大切さを思わされます。それは、アメリカの宗教学者ヨアキム・ワッハという人の言葉の中にも現れている。ワッハは、宗教を構成する要素には、教えと儀式と教団だと言います。私たちキリスト教会に当てはめれば、教えとしての聖書とそれに基づく教理、儀式としての洗礼や聖餐、そして礼拝、教団としての教会と言ったところでしょう。そして、それらの根底に何らかの宗教経験があると言うのです。
ワッハの言わんとしていることは、こういうことです。人間は何かの宗教経験を持つ。それが信仰の根幹にある。そしてその宗教経験を言葉として伝え表す時、そこに宗教的な教えが生まれてくる。私たちで言えば、聖書です。しかし、宗教経験は一種の神秘的敬虔ですから言葉で十分に表しきれないものがある。だから、その言葉で表しきれないものを表現する儀礼が生まれてくる。洗礼や聖餐です。そして、そのような教えと儀礼を共に分かち合う群れが生まれるそれが教団だというのです。
考えてみますと、旧約聖書には様々な儀礼が出てきます。燔祭や罪際や酬恩祭などの様々な儀礼がありますが、それらは祭壇で行われますが、イスラエルの民がその祭壇を築いたと言う出来事が、私がざっと数えた限り旧約聖書に43回ある。中には、アロンが金の子牛を神として、その神のために祭壇を築いたと言う出エジプト記32章5節や、列王記上16章32節にあるアハブ王がサマリアにバアルと言う偶像の神のために祭壇を築いたという失敗例もいくつかありますが、基本的にイスラエルの民が祭壇を築いたのは聖書の神を礼拝するためです。
そのイスラエルの民が祭壇を築いた最初の例が、先ほどお読みいただいた旧約聖書の創世記8章13節から22節の記述にある。これは、あの有名なノアの箱舟の物語、つまり、神が地上の人間に悪がはびこっているのを見て、神の裁きとして洪水で悪に染まっている人間を滅ぼし去られたけれども、ただ一人神の前に正しい人であったノアとその家族を救うために箱舟を作らせ、ノアとすべての生き物のつがいをその箱舟に乗せ、お救いになったと言う物語の結末がつづられている箇所です。
その結末とは、箱舟に乗って神の裁きから救われたノアの家族が、洪水の水が引いた地に降り立った時に、祭壇を築き全焼のいけにえを献げたと言うことです。つまり、祭壇を築き、全勝のいけにえを捧げて神を礼拝すると言う行為は、神が罪が支配した世界から贖い出してくださり救って下さったという救いの経験を覚え、感謝する行為として行われているのです。
そのように、旧約聖書において、イスラエルの民は、神の救いの業を神を礼拝と言う行為を通して表してきた。そこには、神がイスラエルの民を神に民としてくださったという共同の経験があるのです。逆を言えば、イスラエルの民が祭壇で行われる宗教儀式に与るたびに神の救いの業を思い起こし、その救いの業が自分の内にも起こり、イスラエルと言う神の民の共同体の一員とされていることを確認するのです。
それと同じように、あのエマオの途上にあった二人の弟子は、イエス・キリスト様がこのパンを取り、神をほめたたえそれを手渡すと言う行為を通して、あの最後の晩餐の時のことを思い出し、過ぎ越しのパンとぶどう酒に与った自分たちは、イエス・キリスト様の十字架の死によってもたらされた新しい契約に与り、神の救いに与り、イエス・キリスト様がもたらした神の国の民とされたのだと言うことを受け止めたのではないかと思うのです。それは、まさに彼らの宗教経験だと言えます。その宗教経験を思い起こしたその時に、彼らの目が開かれた。
みなさん、信仰の言葉、聖書の言葉は、理解できないことが一杯あります。イエス・キリスト様が私たちを罪から救って下さるために十字架に磔られて死なれたのだ。そして、それを信じる者は、イエス・キリスト様と結ばれて新しく神の子として生まれ、人生の物語が新しく書く変えられるのだと言われても、なかなか実感をもってそれを受け止めることが難しいかもしれません。
けれども、洗礼や聖餐はそのことを私たちに知らせる行いを通して示される神の言葉
です。聖書の言葉や信仰の言葉を知性でできなくとも、神の恵みを伝えてくれるものです。
洗礼を受け、聖餐に与るとき、これらの礼典が、私たちがイエス・キリスト様を信じ、この御方の弟子となったことを証しし、思い起こさせます。そして、この洗礼を受け聖餐に与っている事実が、私たちの目を開いて行くのです。
何かの時にはっと目が開かれ、神の救いの業、恵みの業に気が付く、聖書の言葉がわたしに語りかけ私を導いていると言うことに気づくのです。ですから、みなさん。私たちが、洗礼を受けてクリスチャンなったということ、そして聖餐に与るものとされているということをは、まさに、私たちが救われ、イエス・キリスト様と一つに結ばれて神の民とされたということを私たちに想起させ、確認させる神の言葉なのです。
そのことを覚えながら、神の言葉である聖書の言葉を信じ、その言葉が指し示すように神の民、神の子とされたと言うことを信じて生きて行きたいと思います。その信仰が、私たちの目を開き、「信じるがゆえに理解する」という信仰者の知性を生み出して行くのです。
お祈りします。
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