2019年03月03日 小金井福音キリスト教会 説教
聖書
・創世記 第12章 1 - 5節
・マタイによる福音書 第10章 5 - 14 節
・使徒行伝 第4章 34節 - 第5章 11節
説教題 「 真の信仰の本質とその形成 」
‘19 3月第1聖餐式礼拝説教題「真の信仰の本質とその形成」 19.3.3
旧約書:創世記12章1節~5節
福音書:マタイによる福音書10章5節~14節
使徒書:使徒行伝4章34節~5章11節
今日の礼拝説教の中心箇所となる使徒行伝の記述は、一読するとギョッとする箇所です。と申しますのも、この使徒行伝4章34節から5章11節に記されている物語には、イエス・キリスト様が十字架に付けられ死なれ、よみがえられて弟子たちに現れ、神の国についての教えを語られた後、エルサレムに建てられたもっとも原初の教会に起こった悲惨な事件を伝えているからです。
その悲惨な事件とは、アナニヤとサッピラいう夫婦が、神を欺いたために死んでしまったという出来事ですが、事の次第は次のようなものでした。
イエス・キリスト様が死からよみがえり、天に昇った後に最初にエルサレムに建て上げられた教会の中には、多くの信徒たちが自分の持っている財産を持ち寄り、共同生活をするそのような群れが見好き上げられていました。もっとも原初のイエス・キリスト様の弟子たちの多くは、ヘブル語でアム・ハー・アーレツと呼ばれるユダヤの民の中では最も貧しい階層の人たちでした。
もちろん、中にはザーカイのような財産を持っていた者やニコデモ、あるいはアリマタヤのヨセフと言われるような身分の高い人もいただろうと思いますが、しかし、その大部分は必ずしも裕福な階級の人たちではありませんでした。そのような中で、地所や家屋を持っている人たちは、その地所や家屋を売い払って、教会に献金をし、教会で共同生活をしていた人々の群れに加わっていったのです。
クプロ生まれのレビ人で、使徒たちにバルナバと呼ばれていたヨセフもそのような人のひとりで、自分の持っていた畑を売り、それを使徒たちの下、つまりできたばかりの教会に持ってきて献金したのです。
ところが、アナニヤとサッピラの夫婦もバルナバと同じように自分の財産を売り払いその一部だけをもってきて、教会に献金したのです。そのようなアナニヤとサッピラの行為が神を欺く行為であったということで、二人は死んでしまったというのです。
みなさん、私たちはこの事の表面だけを見れば、神を欺こうとするならば死んでしまうとのかとか、持っているものを全部奉げなければ死んでしまうのかなど思い、ギョッとする思いになったり、恐ろしく感じられるかもしれません。単に売り払った代金の全部を捧げなかったことで死に至ったというのだとしたならば、それはあまりにも厳しすぎるからです。もちろん、聖書は皆さんに、そのような聖書の読み方を求めてはいません。
むしろ、この物語の背後にある霊的な意味を汲み取って欲しいと願っている。それはまさに、私たちに真の信仰とは何か、そしてその信仰はどのように形成されるのかということを教えてくれるものです。
みなさん、確かに聖書はバルナバが所有していた畑を売り、その代金を使徒たちの足元に置いたと聖書は記しています。しかし聖書は、このとき、バルナバがどれくらいの金額のものを捧げたかについては一言も触れていないないのです。ゲスの勘ぐりをするならば、畑を売ってその代金を捧げたというのですから、それなりの額のものであったろうと思われます。
しかし聖書は、そのようないくら奉げたかという額のことを問題にしていません。むしろ、聖書が関心があるのは、どのような信仰の思いでバルナバが献金をしたのかに目が向けられていると言ってもよろしいかと思います。それは、あの神を欺いたといわれるアナニヤとサッピラの夫婦の態度と比較することで明らかになってきます。そして、その明らかになって来るものこそが、神を信じる真の信仰とは何かを私たちに教え、その真の信仰がどのように形成されるのかということを私たちに教えてくれるのです。
では、その三つとは何か?一つは神を信頼する心であり、二つ目は神に対する真実な心であり、もう一つが遜りの心だと言えます。そしてこの遜った心が、私たちの信仰を形作っていくのです。
そうです。みなさん。信仰というもの、何よりも、神を信頼することです。そのことを、今日の聖書の箇所は私たちに教えています。というのも、自分の持っている財産を売り払い、それを教会に奉げ、共同生活に入るということはそうそうできる簡単なことではないからです。少なくとも、現代に生きる私たちの目にはそのように思えます。
それを、あのエルサレムにあった原初の教会の人たちは行ったのです。そバルナバもその一人でした。当然、そこには神に対する信頼がある。それは、すべてを神の前に差し出しても、神が養ってくれるという信頼であり信仰です。そしてそのような信仰こそ、イエス・キリスト様が弟子たちに教えたことでもありました。
先ほど司式の兄弟にお読みいただきました新約聖書のマタイによる福音書10章5節から14節は、イエス・キリスト様が弟子たちを伝道旅行に送り出す場面を描いたものです。イエス・キリスト様は弟子たちを送り出すにあたってなんの報酬も求めず、また「財布の中に金、銀または銭を入れて行くな。旅行のための袋も、二枚の下着も、くつも、つえも持って行くな」と言われるのです。
ここで言われている財布とは、私たちが持っているような財布ではなく、胴巻きのような腰帯であり、旅行のための袋には食料や生活必需品が入った袋です。また、下着も靴も杖も乗っていくなというのは、旅のために新しいものを用意する必要がないということで、要は、伝道旅行に出かけていこうとする弟子たちに、何の備えも準備もいらないというのです。そしてそれは、「働き人がその食物を得るのは当然」だからだというのです。
この言葉の背景には、当時のユダヤの社会では、神の言葉について教えさとすラビと呼ばれる人に対して、人々は、そのラビを家に迎え入れお世話をすると言うことが、ごく普通に行われていたという背景があると思われます。それは、神の言葉を扱うものは、神の言葉に専念し、この世のことに心を配るべきではないと考えられていたからです。
しかし、確かにイエス・キリスト様の時代のユダヤの民の間ではそのようなことが行われていたにせよ、何の備えも準備もなしに出かけていくということは、大変なことです。ましてや、イエス・キリスト様の弟子たちを民衆がラビたちと同等に扱ってくれるという保証もありません。ですから、そこには不安や心配もあったでしょう。しかし、それをイエス・キリスト様は弟子たちに何も持たないで出ていきなさいと言われるのです。そこには、イエス・キリスト様の言葉に対する信頼と、旅に出た弟子たちを導き養ってくださる神への信頼が求められている。
みなさん、そのような神に対スル信頼は、旧約聖書12章1節から5節にあるアブラムの姿が模範となっていると言えるでしょう。この旧約聖書創世記12章1節から5節において、アブラムは神から
あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。 わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される。
と語りかけられ、その言葉に従って出ていきます。
「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」と言われても、どこに行くかは知らされていません。けれどもアブラムは「 わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう」という神の言葉を信頼し、旅立っていくのです。
このように、聖書は一貫して神に信頼することを求めている。それは神を信頼するということが神を信じる信仰だからです。その意味では、バルナバは神を信頼し、アナニヤとサッピラは神を信頼しきれなかった。その対照的な存在が、ここに描かれている。
みなさん、アナニヤとサッピラは神を信頼しきれず、人の生活と人性を神に完全に委ね切れなったのです。だからこそ、自分の資産を売ったけれども、共謀してその代金をごまかし、一部だけを持って来たのです。もちろん彼らは、神を全く信頼していなかったというわけではありません。全く信頼していなかったら、初めから資産を売るなんてことはしなかったでしょう。けれども彼らは資産を売り払ったのです。ですから、神を信頼する気持ちはあった。あるいは信頼したいと思っていた。でも、信頼しきることはできなかった。
そこには完全に神を信頼し、神に明け渡すことができない人の姿があります。神にすべてを明け渡し、自分の生活や人生を神にゆだね切れないでいるからこそ、彼らは資産を売った財産の一部を手元に残しておいたのではないか。そこには、彼らの不安や心配が見え隠れしているように、私には思えて仕方がないのです。
けれども、みなさん。私たちはこのアナニヤとサッピラの姿を笑うことも蔑むこともできません。なぜならば、私たちだって、神を完全に信頼しているかと問われると、「はい、信頼しきっています」と胸を張って言えないような弱さがあるからです。少なくとも、私は牧師でありますが、しかしその私にもそういう部分がある。
みなさんはどうでしょうか。胸を張って「信頼しきっています」と言い切れるでしょうか。言い切れるとすれば、それはとても素晴らしいことです。でも、どこかに不安を感じたならば、このアナニヤとサッピラの物語は私たちの物語となってしまいます。
ところが、みなさん。たとえそうであっても聖書には希望があります。神の言葉である聖書をしっかりと読んで見ますと、聖書は神を信じきれない、信頼しきれないものを責めてはいないのです。使徒行伝の5章3節4節には次のように書いてあります。
アナニヤよ、どうしてあなたは、自分の心をサタンに奪われて、聖霊を欺き、地所の代金をごまかしたのか。売らずに残しておけば、あなたのものであり、売ってしまっても、あなたの自由になったはずではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人を欺いたのではなくて、神を欺いたのだ。
この言葉は、ペテロが語った言葉ですが、ペテロはここでアナニヤに「あなたの資産あなたのものであり、売ってしまっても、あなたの自由になった」と言っています。つまり、不安だったら、資産を手元に残しおいてもいい、心配ならば使徒たちに差し出さず、自分の自由にしていいのだとペテロは言うのです。
では、どこに問題あったのか。それは、聖霊を欺き、共謀して代金をごまかしたという点です。おそらく、アナニヤとサッピラは、私たちは資産を全部売り払いました。これが、その全ての代金です。これを教会に献げますといって持って来たのでしょう。そのことが神を欺く行為であると言われている。それは、神の前に真実な姿ではないからです。
みなさん。神の前に真実な心を持つということは、自分のありのままの姿で神の前に立つということです。先ほども申しましたように、私たちは、必ずしも神に信頼しきれないでいるときがある。不信仰になることもある。時には、神に顔を向けられないようなことをしてしまうこともあるのです。そんな弱さが私たちの中にある。
そんな時、私たちはそのありのままの自分の姿で神の前に出ていくことが大切なのです。神の前に取り繕うことなく、ありのままの姿で、弱さや不信仰を持ったそのままの姿をさらけ出すことが神に対して信実な姿なのです。そもそも、神の前に私たちがどんなに取り繕っても、神は私たちのありのままの姿を知っておられるのです。ですから、私たちは人の前では取り繕うことはできたとしても、神の前に取り繕うことはできないのです。
むしろ、神の前に取り繕い、何か良い者であるかのように見せようとすることは、神に対して不誠実で不真実なことなのです。
みなさん、確かに信仰とは、神の前を信頼し自分自身を神に委ね生きる者となることです。しかし、現実の私たちは神に、神を信頼しきり、ゆだね切ることができないものです。ですから、どこかで自分の力や能力に頼ってしまう。そして、自分自身の弱さや不信仰で神につぶやいてしまうようなものです。けれども、私たちが、そのありのままの姿で神の前に立つ時、神は、そのような私たちを受け入れ、神の愛の中に包み込んで下さるのです。だから、真の信仰は、神の前にありのままで立つ神に対する真実さを求めるのです。
みなさん、ギリシャ語の信仰という言葉ピスティス(πιστις)は、「信仰」という意味と同時に「真実」という意味をも持つ言葉です。つまり、真の信仰とは、神に真実であることなのです。なのに、私たちはどうして神の前に真実でいられないのでしょう。アナニヤとサッピラのように、これがわたしの全ての資産を売り払った代金ですといってごまかし取り繕うのでしょうか。
そこには良い者と見られたいという思いが私たちの心のどこかにあるからです。人によく見られ、神にもよく見られたいと思う。だから、ありのままの姿で神の前に立てなくなってくる。それは私たちの傲慢さのゆえなのかもしれません。みなさん、傲慢というのは、自分の真実の姿以上に自分を大きく見せよう、良く見せようとする心の誘惑です。その誘惑が、私たちと神との関係を壊してしまうのです。みなさん、私たちの傲慢な心は自分自身を尊大な存在にしてしまいます。そして、その尊大になった傲慢な心が、神と人との信実な結びつき断ち切り、神と人と関係を壊してしまうのです、そして、その神との関係が壊れてしまったところに死というものがある。
みなさん、このアナニヤのサッピラの死の出来事を見ますと、そこには、神の怒りや裁きという言葉が記されていません。ただ人々が恐れたとだけ記されている。それは、神との関係が壊れてしまったところに死が入り込んでくるからです。もともと、聖書において死は断絶を意味します。そういった意味ではアナニヤとサッピラは、神に対して真実さを欠き、自分自身を神の前により良い存在であるかのようにふるまった傲慢な心によって、自ら、神との関係を断ってしまった。そこに神との関係において死という断絶が起こり、自らの死という出来事を招いてしまったということもできます。
みなさん、このことは、私たちの信仰形成のために大きな教訓を与えます。すなわち、私たちが、神の前に真の信仰を形成していくためには、私たち自身が、ありのままの姿で神の前に立つことが大切だということです。そのためには本当の私たちの姿を、自分自身が認め、それを受け入れる謙虚なことが必要です。決して傲慢にならず、ありのままの姿を認め、神の前にそのありのままの姿で進み出るのです。
神に対する信頼が弱く神にゆだね切れないものであっても良い。信仰者として足らないものであってもいい。何もできないものであってもいいのです。大切なことは、その弱い、至らない、何もできないありのままの姿で、「神様、私はこのような弱い至らないもので、何もできないものです。どうぞお憐れみ下さい」と祈り、神の前に立つこごです。そのとき、私たちは、私たちを愛し受け入れて下さる愛を知っていくようになる。そして、この愛を知っていくようになる中で、私たちは神を信頼する信仰が養い育てられていくのです。お祈りしましょう。