2019年02月17日 小金井福音キリスト教会 説教
聖書
・申命記 第14章 28 - 29 節
・マルコによる福音書 第10章 17 - 23 節
・使徒行伝 第4章 32 - 35節
説教題 「 祈り、働け - 支え合う共同体として 」
‘19年2月第3主日礼拝説教「祈り、働け―支え合う共同体として」 2019.2.17
旧約書:申命記14章27-29節
福音書:マルコによる福音書10章17-23節
使徒書:使徒行伝4章32-35節
今朝も、みなさんと共にこの礼拝説教を通して神の言葉である聖書の言葉に耳を傾けて聴きたいと思います。そこで、今日の礼拝説教の中心となります聖書個所である新約聖書使徒行伝4章32節から35節ですが、この箇所はエルサレムに建て上げられたもっとも原初の教会の姿の一断面を私たちに教えてくれている箇所です。
その一断面とは、4章の32節に「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」とあるように、エルサレムにあったもっとも原初の教会に集っていたイエス・キリスト様を信じてキリスト者となった人たちは、ある種の生活共同体を形成し、共同生活をしていたと言うことです。
すなわち彼らは、自分が持っていた土地や家屋と言った財産を売り払い、それを持ち寄り、それそれの必要に応じて誰にでも分け与えた(35節)というのです。そして、そのような共同生活をしながら、使徒と呼ばれるペテロやヨハネと言った12弟子たちは、イエス・キリスト様ことを伝えていったというのです。
私は、この使徒行伝3章32節から35節に見られるエルサレムにあった原初の教会が、どうしてここのような自分の財産を売り払い、それを持ち寄って誰にでも必要に応じて分け与えるというような生活共同体を築き上げていったのだろうかと考えさせられました。いったいその源泉はどこにあるのか。何をよりどころに、このような共同体が築き上げられていったのだろうか。
そのとき、イエス・キリスト様のご生涯をつづった福音書に記されている一つの物語のことを思い出したのです。そして、それがこのような生活共同体を築き上げていったのではないだろうかと思わされたのです。それが、先ほど司式の兄弟にお読みいただいた新約聖書マルコによる福音書10章17節から23節に記されている出来事です。
このマルコによる福音書10章17節から23節において語られる物語は、一人の青年がイエス。キリスト様の下にやって来て「永遠の生命(せいめい)を受けるために何をしたらよいのですか」と尋ねることから始まります。そして、そのように尋ねる青年に、イエス・キリスト様は、旧約聖書に書かれている十の戒め、いわゆる十戒にある「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。欺き取るな。父と母とを敬え」といった戒めを上げながら、要は律法を守り行うようにと教え諭します。
するとその青年は、そういった教えは全て小さいころから守っていますと言うのです。おそらくそれは事実なのでしょう。しかし、その青年に対し、イエス・キリスト様は慈しみの眼差しを向けながら、「あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」と言われるのです。
イエス・キリスト様に「あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」と言われた青年は、その言葉を聞いて顔を曇らせ、悲しみながら立ち去ったのです。その青年が悲しみながら立ち去った姿をみて、イエス・キリスト様は、弟子たちに「財産のある者が神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」と言われたと言うのが、この物語の概要です。
みなさん、この物語の延長線上に、エルサレムにあったもっとも原初の教会において、イエス・キリスト様を信じ、イエス・キリスト様に付き従って生きて行こうと決心し集まったキリスト者たちが、自分の持っている財産を全部売り払い、共同生活をし、それざれの必要に応じて分け与えていたと言う姿があるように思われて仕方がないのです。
もちろん、この使徒行伝4章32節から35節にあるもっとも原初の教会の姿が、あのマルコによる福音書10章17節から23節にあるイエス・キリスト様の下に「永遠の生命を得るためには何をしたらよいですか」と尋ねてきた金持ちの青年の話と結びつくと言う明確な根拠はありません。しかし、私にはこの二つの物語が重なって見えて仕方がないのです。実際、そこで語られている内容は極めて似ている。
みなさん、この二つの物語は、一見すると私有財産を持つことが悪いことであるかのような印象を私たちに与えます。とりわけ、マルコによる福音書にある資産を多く持っていた青年がイエス・キリスト様の言葉を聞いて悲しみながら立ち去って行き、イエス・キリスト様が「財産のある者が神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」と言われたなどと聞かされるとそのような印象を持っても仕方がないように思われます。
しかし、みなさん。聖書がこの使徒行伝とマルコによる福音書にある二つの物語を通して言わんとしていたことは、私有財産を持つことがいいか悪いかという点にあるのではありません。むしろ聖書が言わんとしていることは、「あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」というイエス・キリスト様の言葉に集約されています。
それは、イエス・キリスト様に従っていくもの、神の国の民となるものは、神を信頼し、神により頼みながら、自分のことばかりを考えるのではなく、自分の周りにいる人のことも顧みながら生きて行くのだということを教え諭す言葉なのです。
みなさん、私は毎週の礼拝説教の準備をし、説教原稿を書き上げていく際に、その週にお話しする箇所についていろいろと調べます。もちろん、注解書やいろいろな参考資料を見たり、最近ではありがたいことにインターネットでほかの牧師が行った説教の原稿等を含めいろいろと見たりすることもできます。
今回もこのマルコによる福音書の10章17節から23節にある資産持ちの青年の物語についても、いろいろと調べました。その中で、ある牧師が持っているものをすべて売り払ってということは、ただ神のみに頼れということだと述べている文章に出会いました。私は、その文章を読んで、本当にそうだよなと思った。
でも、インターネットに出ている情報は玉石混交ですから、私が本当にそうだよなとおもっても、それを鵜呑みにしてはいけません。とりわけ聖書を理解し説教をするわけですから、きちんと調べなければならない。ですので、ネットに書かれていたとしても、やはりそれなりに信頼のおける注解書や文献を見たり、原語であるギリシャ語を調べたりといろいろとするわけですが、「持っているものをみな売り払って」という言葉の背後に、「ただ神の御により頼む」ということを読み込んでいく理解は、そのような文献等を調べてみても決して無理な理解ではないようです。
そして、そのように、「持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施す」ということは、まさに自分の命までも投げ出して、私たちに救いをもたらそうとするイエス・キリスト様の生き方、それは単に行為だけでなく、その根底にある愛の精神に倣う行為と言えるのです。
みなさん、私は、何度も「教会はイエス・キリスト様のからだである」とみなさんにお伝えしてきました。それは聖書が語ることであり、キリスト教会2000年の歴史の中で培ってきた教会観なのです。いや、それは教会観という単なる理念ではない、まさに実体として教会はイエス・キリスト様のからだなのです。だからこそ、教会はキリストと一つにつながるのだと言うことを示す洗礼を行い、キリストの体であるパンとキリストの血であるぶどう酒、あるいはぶどうジュースを食する聖餐を通して、神を信じる私たちひとりがキリストの体なる教会の一員であることを確認していくのです。
そして教会は、そのようなイエス・キリスト様のからだなる教会であるからこそ、イエス・キリスト様が父なる神を信頼し、ご自分の全てを神にゆだね神に従って生きられたように、教会は、そして教会に集う私たちひとり一人は神を信頼し、自分自身を神にゆだねて生きて行くのです。そして、イエス・キリスト様が、自分のことだけを顧みるのではなく自分の全て、それこそ命までも十字架の上で投げ出して、私たちを愛してくださったように、教会は、そして教会に集うキリスト者である私たちひとり一人もまた他者を顧み、愛することを実践する者となっていく。
あの使徒行伝4章32節において、「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」と言われるもっとも原初の教会の姿、同じく34節34節にある「土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、 使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである」という姿は、まさに教会がイエス・キリスト様のからだなる教会として、神を信頼し、イエス・キリスト様の生き方に倣って生きようとしていたその姿を現しているのです。
そうなのですみなさん。それは、イエス・キリスト様に従っていくもの、神の国の民となるものは、神を信頼し、神により頼みながら、自分のことばかりを考えるのではなく、自分の周りにいる人のことも顧みながら生きていく者となっていくのです。それは、神の国が神の恵みと愛に支配されているところだからです。
ですから、神の国というものが顕されるところでは、必ず、神を信頼し、神により頼みながら自分のことばかりを考えるのではなく、自分の周りにいる人のことも顧みながら生きていく生き方を求めてくる。
例えば先ほど司式の兄弟にお読みいただいた申命記14章27節から29節もそうです。そこにおいて、神から嗣業の地として土地を与えられ農業を営むことで生活の糧を得ていたイスラエルの民が、
三年の終りごとに、その年の産物の十分の一を、ことごとく持ち出して、町の内
にたくわえ、 あなたがたのうちに分け前がなく、嗣業を持たないレビびと、および町
の内におる寄留の他国人と、孤児と、寡婦を呼んで、それを食べさせ、満足させなけ
ればならない。そうすれば、あなたの神、主はあなたが手で行うすべての事にあなた
を祝福されるであろう。
と言われている。レビ人、それはイスラエルの民が神を賛美し礼拝するために仕える奉仕者であり、そのため、イスラエルの国の中においては土地を持たず、神を礼拝する勤めに専念するために選ばれた部族の人々です。また、寡婦や孤児もまた寄留の外国人も、イスラエルの国の中で、土地を持たず生きる術を持たない人たちです。神はそのようなの人々のことを顧み、あなたがたが神から与えられた地で得てものを、その人たちがちゃんと生きて行けるように分け与えてあげなさいと言うのです。それは、神がそのような人を顧みておられるからです。つまり神が王として治める神の国というのはそのようなところなのです。
そしてその神の国は、あのエルサレムに建て上げられた原初の教会の在り方の中に受け継がれいき、中世においては修道院の姿の中に現れだされます。
みなさん今日の説教題は「祈り、働け―支え合う共同体となるために」でした。「祈り、働け」とは、なんとも妙な説教題ですし、いったい「祈れ、働け」という説教題が、どう今日の説教に結ぶ付くのかといぶかんだ方もおられるだろうと思いますが、この「祈り、働け」というのは、中世の修道院、中でも最も模範とされるベネディクト会の修道院が掲げたモット―なのです。
みなさん修道院というのは、本来は修道士たちが「この世」との関係を立って、ただ神を礼拝し、神と人とを執成すために共同生活をする場所です、ですから、それこそ人がいない、人が行かないまさに人里離れたところに建てられました。そしてそこで自給自足で生活したのです。だから、自給自足するための「働け」であり、また同時に、自給自足は生きて行くための術であり、修道士の本来の働きは神を礼拝し、神と人とを執成すことですから「祈れ」が修道士本来の使命です。だから「祈り、働け」なのです。
もちろん、自給自足が原則ですから、「働け」といわれる修道院には様々な働きがある。それこそ、農作業もありますし、ワインを作るような仕事もある。また「祈れ」と言われる修道士の本来の働きをするために聖書の写本をすると言った仕事もある。そういった様々な働きの成果が修道士ひとり一人に平等に与えられていったのです。それが「祈り、働け」の精神であり、神の国にあって神の民として生きる生き方として捉えられていたのです。そして、そのような生き方こそが人となられた神であるイエス・キリスト様に倣う生き方だと考えられていた。
ですから、中世の修道院の中では、キリストの人性、つまり人として生きられたイエス・キリスト様に生き方とその精神に倣い生きようと言う「キリストの人性への信心」という信仰の在り方が生まれてくるのです。神を崇め、ただ神の御に信頼を置き、隣人愛に生きると言う生き方を求める信仰の在り方が熟成していくのです。
さらに後にはこの神のみに信頼を置き、神により頼んで生きて行くと言う生き方がより先鋭化されて托鉢だけによって生活に必要なものをえていくという托鉢修道会が顕われてきまし、中世から近代へ移行しようかという時代には、修道士として修道院の中だけで生きるのではなく、信徒として「この世」の職業に就いて働きつつも、その収入を持ち寄って共同生活をする生活協同兄弟団と言ったものが起こされて来ます。
これらはまさに、時代時代の状況の中で神を信頼し、神により頼みつつ、自分自身のことだけでなく、他者をも顧みて互いに支え合いながら生きて行く神の国を、「この世」という世界の中で表していこうとする教会の在り方に対する試みであったと言えます。
その神の国は、今日(こんにち)の私たちの時代にも教会の在り方の中に表されていくべきものです。なぜならば、教会はイエス・キリスト様の体であり、教会の在り方が、復活のイエス・キリスト様を証しするものだからです。
みなさん、私たちはそのようなイエス・キリスト様のからだなる教会に召し出されているのです。それは、私たちひとり一人が教会にあって教会を支える存在であると同時に、教会を通して支えられる存在だと言うことです。
もちろん時代は、あのもっとも原初の教会と比べると複雑で産業構造や社会の様々な構成は変わってきています。ですから、私たちが使徒行伝4章32節から35節にみたような、「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」と言われ「土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、 使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである」と言う在り方を現代の教会がそのまま再現することはできません。
しかし、その精神はしっかりと受け継ぎながら、私たちの出来る「共に支え支えられつつ生きる共同体」を「愛し愛される共同体」を築き上げていこうではありませんか。みんさん、私たちは今年の標語として「子たちよ、わたしたちは言葉や口先で愛するのではなく、行いと真実とをもってあいしあおうではないか」というヨハネ第一の手紙3章18節を今年の標語としてかかげ、「愛を表す」ということを今年のテーマとしました。それはまさに「共に支え支えられつつ生きる共同体」を「愛し愛される共同体」を目指すものなのです。
0 件のコメント:
コメントを投稿