2019年02月10日 小金井福音キリスト教会 説教
聖書
・ヨシュア記 第6章 12節 - 21節
・ルカによる福音書 第19章 37節 - 40節
・使徒行伝 第4章 24節- 31節
説教題「 勝利を告げる声 」
さて今日の説教箇所の中心となる使徒行伝4章24節から31節は4章1節から始まるペテロとヨハネの物語の結末の部分となる箇所です。
このペテロとヨハネの物語は、二人がエルサレムにある神殿の中にある「美しの門」と呼ばれる門のところで物乞いをしていた生まれつき歩くことができなかった人をイエス・キリスト様の名によって癒し、歩けるようにしてあげたことから始まります。
ところが、この一連のペテロとヨハネの言動が、当時のイスラエルの民の指導的立場にあった役人や長老、あるいは律法学者や大祭司と言った民の中で権力を握っていた人たちから疎んじられます。それは、ペテロとヨハネが、イエスというお方がキリストであると宣言するだけでなく、そのイエス・キリスト様をあなたがたイスラエルの民は十字架に付けて殺してしまったが、神がそのお方をよみがえらせたと述べ伝えていたからです。
このペテロとヨハネ、あるいはイエス・キリスト様の弟子たちの述べ伝えていた宣教の言葉は、役人や長老、律法学者や大祭司たちの誤りを厳しく糾弾する言葉であったと同時に、それまで、役人や長老、律法学者や大祭司といった権力者たちによって保たれていた秩序を崩壊させ、イエス・キリスト様によってイエス・キリスト様を王とする新しい秩序、すなわち神の国がもたらされたと言うことを述べ伝える言葉だったからです。
だから、役人や長老、律法学者や大祭司といった権力者たちは、それで、ペテロとヨハネを捕らえ、これ以上彼らが述べ伝えていたことが広がらないようにと力ずくで脅してでも彼らを黙らせようとするのですが、ペテロもヨハネも、役人や長老、律法学者や大祭司といった権力者たちの脅しに屈しないのです。
結局、ペテロもヨハネも釈放されることになる。それはすでに、多くの人々がペテロとヨハネの言動によって神を崇めていたからです。だから、もはや彼らを罰するすべがなかったのです。そして、ペテロもヨハネも釈放され、仲間たちのところに戻って来る。そして、役人や長老、律法学者や大祭司に捕らえられ、彼らの前で弁明を求められた一連のいきさつを話すのです。その結果何が起こったのかが、先ほどお読みいただいた今日の説教の中心箇所である使徒行伝4章13節から3節に記されているのです。
みなさん、ペテロとヨハネから、役人や長老、律法学者や大祭司といった権力者たちによって捉えられ、「これ以上イエス・キリスト様の名によってかたってはならない」と脅されました。しかし、それにもかかわらず
神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか判断しもらいたい。わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを語らないわけにはいかない。(使徒4章19節)
といって、権力者たちの脅しを完全に退けたのです。
この、ペテロとヨハネが語らないわけにはいかないといった「自分の見たこと聞いたこと」とは、彼らが目撃したイエス・キリスト様が復活し、天に昇って行かれた(使徒1章6-11節)という出来事であり、また復活したイエス・キリスト様が40日に渡って弟子たちに現れて教え語られた神の国についての事柄(使徒1章3節)であろうと思われます。
このように、ペテロとヨハネは、役人や長老、律法学者や大祭司といった権力者たちが二人を捕らえ、脅すことはできても、その脅しに屈せず、これらから「イエス・キリスト様のよみがえりの出来事とイエス・キリスト様によってもたらされた神の国について語ることを辞めない」と宣言するペテロとヨハネを罰することも出来ず、こうして釈放するしかなかったという出来事を聞いて、神の崇めこう言うのです。使徒行伝4章24節から26節です。そこにはこうあります。
24:天と地と海と、その中のすべてのものとの造りぬしなる主よ。 25:あなたは、わた したちの先祖、あなたの僕ダビデの口をとおして、聖霊によって、こう仰せになりました、「なぜ、異邦人らは、騒ぎ立ち、もろもろの民は、むなしいことを図り、 26:地上の王たちは、立ちかまえ、支配者たちは、党を組んで、主とそのキリストとに逆らったのか」。
みなさん、ペテロとヨハネに起こった役人や長老、律法学者や大祭司といった権力者たちに捕らえられ、尋問を受け、脅されたにもかかわらずそれを拒んでも罰せられることもなく釈放されたという一連の出来事を聞いた人々は、神に敵対し神を退ける者や王や支配者と言ったこの世の権力者ですら、もはやイエス・キリストを退けることはできないとそう言うのです。そこには、イエス・キリスト様とイエス・キリスト様が十字架の死に至るまで神に従順に従い抜いた信実な信仰によってもたらされた神の国が「この世」に対しえ勝利したのだという確信が見られます。
この確信は、使徒業伝2章に記されているあのペンテコステの出来事によって天から下された聖霊なる神によってもたらされた確信です。そうですみなさん。聖霊なる神は、私たちの内にある神を信じる信仰に確信をもたらしてくれるのです。
その聖霊なる神がもたらす確信が、あの最も原初の教会い集っていたイエス・キリスト様の弟子たちに力を与えたのです。だからこそ彼らは、
29:主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。 30:そしてみ手を伸ばしていやしをなし、聖なる僕イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい
といって、大胆に神の言葉を語り出すのです。そこには、十字架の死に至るまで従順に神に従い抜いたイエス・キリスト様の信実な信仰に倣い、神に聞き従って生きようとするイエス・キリスト様の姿がある。そして、十字架の死に至るまで従順に神に従い抜いたイエス・キリスト様の信実な信仰が、「この世」という罪と悪が支配する世界に勝利したように、神に聞き従って生きる者と、そのように神に従って生きる者が神に呼び集められて築き上げていく「イエス・キリスト様の体なる教会」もまた、「この世」に勝利するのだと信じ生きる教会の姿があります。
そうですみなさん。私たちに神の言葉に耳を傾け、神の言葉に聞き従て生きて行こうとする姿勢があるならば、私たち「キリストの体なる教会」は必ず罪と死とが支配する「この世」の支配に打ち勝つことができるのです。
とは言え、現実の世界に目を向けますと、とても「この世」に勝利したと思えないような出来事があることも否定し難いことです。あの役人や長老、律法学者や大祭司たちが罰しきりれなかったペテロやヨハネも、ペテロはローマ帝国によって殉教の死を遂げ、ヨハネはパトモス島に流刑されると言う苦難に会いますし、「イエス・キリスト様の体なる教会」もまた、「この世」に勝利するのだと信じ生きた教会も多くの試練や迫害に合うのです。
そして、今という時代に目を向けても、多くの苦しみや悲しみや試練と言ったものが神を信じる民の上にも起こって来るのも事実その通りなのです。いったい、イエス・キリスト様による「この世」に対する勝利というものがどこにあるのかと疑いたくなるような出来事がキリスト者ひとり一人に、また教会の中に起こって来る。
しかし、みなさん。私たちがイエス・キリスト様が私たちの人生に、そして「イエス・キリスト様の体なる教会」に罪と死が支配する「この世」に対する勝利をもたらすと言うことを信じ、声を上げて語り続けるならば、必ず、それは訪れる。
さきほど、司式の兄弟に使徒行伝4章23節から3節の御言葉と共に、旧約聖書ヨシュア記6章12節から21節の御言葉をお読みいただきました。
この箇所は、有名なエリコの城壁が崩れ落ちたと言う出来事を記した箇所です。エリコと言う町は、死海の北西部に位置する死海に流れ込むヨルダン川の河口から15kmほどのところにある街で、城壁に囲まれた難攻不落の都市でした。そのエリコの街をイスラエルの民が奴隷として捉えられていたエジプトを脱出して、カナンの地にやって来て最初に攻め落としたのです。
そのとき、イスラエルの民は何か強力な武器や戦略をもってエリコの街を攻め落としたのではありません。ただ、
2:見よ、わたしはエリコと、その王および大勇士を、あなたの手にわたしている。3:あなたがた、いくさびとはみな、町を巡って、町の周囲を一度回らなければならない。六日の間そのようにしなければならない。4:七人の祭司たちは、おのおの雄羊の角のラッパを携えて、箱に先立たなければならない。そして七日目には七度町を巡り、祭司たちはラッパを吹き鳴らさなければならない。5:そして祭司たちが雄羊の角を長く吹き鳴らし、そのラッパの音が、あなたがたに聞える時、民はみな大声に呼ばわり、叫ばなければならない。そうすれば、町の周囲の石がきは、くずれ落ち、民はみなただちに進んで、攻め上ることができる(ヨシュア記6章2-4節)。
と言う神の言葉に従って、イスラエルの民は一日一回、朝早くエリコの街の周囲をぐるっと隊列をつくってラッパを吹き鳴らしながら一周するだけ。それを六日間続けるのです。そして7日目には7度エリコの町の城壁の周りを巡り歩き、7週目にラッパを吹き鳴らし、大声を上げて呼ばわっただけなのです。それだけでエリコの街を難攻不落の城塞としていた城壁が崩れ落ちたのです。
彼らは、「見よ、わたしはエリコと、その王および大勇士を、あなたの手にわたしている」という神の言葉を信じ、神の言葉に従って声を上げただけなのです。彼らは、勝利を約束した神の約束を信じて声を上げた。
みなさん、イスラエルの民が難攻不落と思われるエリコの街を攻め落とすことは、この神の約束に対する信頼、つまり神の約束に対する信仰がもたらしたものです。神が約束した出来事は必ず実現すると言う神の約束に対する信頼があの城壁を崩したのです。
現実を見れば、とてもその周りをぐるぐると歩き廻り大声を上げるだけでは城壁は崩れ落ちそうにはない。とても勝てそうもないのです。しかし、神が約束をし、神がその約束を言葉として発したときに、その約束は出来事となるのです。だから、私たちはその神の約束の言葉を信じ、その言葉に従って生きればいい。そのことを、あのエリコの街を攻め落としたイスラエルの民の物語は私たちに教えている。
あなたも、神の言葉が約束するところのものを信じ、神の言葉に聞き従って生きて行ってごらんなさい。そうすれば、あなたの人生に様々な試練や、難攻不落と思われる困難な出来事があったとしても、神はあなたの人生を必ず勝利の物語へと書き換えてくださるのだと、そう語りかけているのです
みなさん、教会の歴史を振り返ってみますとあの使徒行伝4章1節から31節までの物語に励まされ、イエス・キリスト様の「この世」に対する勝利を信じ、イエス・キリスト様によってもたらされた神の国である「イエス・キリスト様の体なる教会」の勝利を信じて大胆に声を上げ、神の言葉を語り出した教会も、その後さまざまな試練や困難や迫害という苦難に会います。けれども、彼らはキリストにある勝利を告げらせる声を上げることを山ませんでした。声を上げ続けたのです。
その結果、教会は、神を信じイエス・キリスト様を信じる信仰、即ちキリスト教が、313年にはミラノ勅令によりローマ帝国の公認する宗教の一つとなり、さらには392年にテオドシウス帝によってかつてはキリスト教を迫害し苦しめたローマ帝国の国教にまでなると言う出来事を見ることになるのです。
もちろん、今の時代から顧みるとキリスト教がローマ帝国の国教になったと言うことの弊害もあり、その善し悪しが問われる部分もありますが、しかし、ローマ帝国の国教となることで、キリスト教が全世界に広がっていくきっかけになったことも疑いようのないことです。実際、私たち西方教会の伝統の歴史と神学に大きな影響を与えたアウグスティヌスという人は、キリスト教が国教となったローマ帝国が来るべき神の国であると考えたほどです。それは教会が、キリストの勝利、神の国の勝利を告げる声を上げ続けたがゆえのエリコの城壁が崩れ落ちるような出来事だったのです。
ですから、みなさん。私たちは、そして私たち「イエス・キリスト様の体なる教会」は、どんなに苦難や試練が襲ってきても、このキリストの勝利を告げ知らせる声を止めてはなりません。神の国の到来とその勝利を告げ知らせる福音の言葉を語り続けていくのです。
そうですみなさん。お読みいただきましたルカによる福音書19章37節から40節までにおいて、イエス・キリスト様が子ロバにのってエルサレムに入城しようとする際に、大勢の群衆が神を賛美しつつ「主の御名によってきたる王に、祝福あれ。天には平和、いと高きところには栄光あれ」と叫んでいるのをイエス・キリスト様に敵対するパリサイ派の人たちが止めさせようとしたときに「この人達が黙れば、石が叫ぶであろう」といって、イエス・キリスト様が、神の国の油注がれた王であり、イエス・キリスト様によって神の国がもたらされると言う神の約束は必ず実現するものであると言っておられるのです。
だからこそ私たちは、そして私たち「イエス・キリスト様の体なる教会」は、この必ず実現する神の国の到来とこの罪と死の支配する「この世」に対する勝利という神の約束を告げ知らる声を上げ続けていく必要があるのです。
そして、その勝利の声を私たちがあげ続けていくならば、神の国がもたらす勝利は、必ず私たちの人生の物語を神の救いの物語へと書き換えて行ってくれるのです。そのことを、聖霊なる神の助けを借りて、確信し、語り続けていくものとなりましょう。お祈りします。