2019年2月16日土曜日

2019年02月03日 小金井福音キリスト教会 説教題「 書き換えられる物語 」

2019年02月03日 小金井福音キリスト教会 説教


聖書
・士師記 第6章 11節 - 16節
・ヨハネによる福音書 第9章 1節 - 7節
・使徒行伝 第4章 13節 - 22節

説教題「 書き換えられる物語 」



今日の礼拝説教の中心となる聖書個所は、使徒行伝413節から22節までです。この箇所は、お読みいただいたようにイエス・キリスト様の弟子であるペテロとヨハネが、役人や、長老、また律法学者や大祭司といった、いわばイスラエルの民の中の権力者を前でおこなった弁明に対して、その場に居合わせた人々の反応を記した箇所です。
 この弁明は、エルサレムにある神殿の中にある「美しの門」の前で物乞いをしていた生まれつき足が利かず歩けなかった人を「イエス・キリストの名によって」癒し、歩けるようにして挙げた出来事について語った説教の内容に関するものです。そして、誰もその弁明に対してかえす言葉がなく、役人や長老、また律法学者や大祭司は、ふたりに議会から退場するように命じてから、互に協議を続けた(15節)と聖書は言うのです。そしてて16節にありますように、

16あの人たちを、どうしたらよかろうか。彼らによって著しいしるしが行われたことは、エルサレムの住民全体に知れわたっているので、否定しようもない。 17:ただ、これ以上このことが民衆の間にひろまらないように、今後はこの名によって、いっさいだれにも語ってはいけないと、おどしてやろうではないか」。

と言うのです。みなさん、脅すというのは尋常ではありません。脅してでも黙らせとうとするのは、よっぽど、ペテロやヨハネが語り伝えていたことが、役人や、長老、また律法学者や大祭司といったイスラエルの民の中の権力者たちにとって都合の悪い事だったということです。

ところがペテロとヨハネとは、ひるむことなく、逆に「19神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。20:わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」と言って、その脅しを敢然と退けるのです。
 みなさん、この使徒行伝の413節から22節の記述には、いくつかの物語の書き換えということがあります。物語の書き換えと言っても聖書の出来事が書き換えられたということではありません。むしろ物語の意味というものが、新しく語り直されているという意味で、物語が書き換えられているというのです。 
 それは、第一に罪びとの物語が聖なる者の物語となる書き換えです。そして第二には、弱い人の物語が強者の物語へと書き換えられる物語の書き換え。そして、第三には、過去の物語の書き換えです。
 そこで、第一の罪びとの物語が聖なる者の物語となる書き換えですが、それは、まさにペテロの弁明の中に見ることができます。それは、10節、11節の言葉の中に現れている事柄です。そこのはこう書かれています。

 10:あなたがたご一同も、またイスラエルの人々全体も、知っていてもらいたい。この人が元気になってみんなの前に立っているのは、ひとえに、あなたがたが十字架につけて殺したのを、神が死人の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのである。 11:このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。

「生まれつきあることができない人が歩くことができるようになったのは、人へにあなたがたが神に反逆する罪びとだと言って退けたイエス・キリスト様の信仰と権威によるものだ。このおかたこそ、神の民イスラエルの王国がよって立つ土台、つまり油注がれた王であり、大祭司であり、預言者なのである」。ペテロは、11節の「このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである」という言葉を通して、そのように主張する。
 みなさん、イエス・キリスト様はローマ帝国に謀反を企てる政治的大犯罪人であるというのが、役人や、長老、また律法学者や大祭司がローマ帝国に対して描いたイエス・キリスト様の罪びととしての物語です。そして、同じように彼らは、イエス・キリスト様は神を冒涜する宗教的罪びとであるとして、イスラエルの民に罪びととしての物語を描いて見せた。

その役人や、長老、また律法学者や大祭司が描きだす罪人としてのイエスの物語を、ペテロは、「このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである」という言葉をもって、聖なる神の子・聖なる油注がれた王であるキリストの物語に書き換えるのです。 
そして、この罪びとの物語を聖なる者の物語へと書き換える書き換えは、イエス・キリスト様の物語です。しかし同時に、このイエス・キリスト様の物語は、イエス・キリスト様につながり、洗礼によってイエス・キリスト様と一つに結ばれ、イエス・キリスト様を頭(かした)とし、そのかしらなるキリストの手足として体なる教会の一員となり、教会を築き上げているキリスト者の物語ともなって、罪びとである私たちを聖なる神の民とする物語の書き換えともなるのです。 
みなさん、この物語の書き換えは、十字架の死に至るまで神に従順であられたイエス・キリスト様の信実な信仰によって起こるものです。だからこそ、洗礼を受け、キリストの体なる教会に繋がるということは、私たちにとって大切なことであり、大きな意味ある価値あるものなのです。

 第二の点です。弱い人の物語が強者の物語へと書き換えられる物語の書き換えということです。

 みなさん、今日の聖書朗読箇所の使徒書の箇所である使徒行伝413節には、「人々はペテロとヨハネとの大胆な話しぶりを見、また同時に、ふたりが無学な、ただの人たちであることを知って、不思議に思った」とあります。
 ペテロとヨハネとが無学なものであるというのは、ある意味当然です。彼らは、漁師ですから、律法学者や大祭司たちのような信仰や旧約聖書に関する専門的な知識を持っていようはずがない。そのペテロとヨハネが大胆に(最も新しい翻訳の新共同訳聖書では「堂々と」)旧約聖書を解き開きながらイエス・キリスト様が旧約聖書に預言された油注がれた王であり、モーセに匹敵する預言者であるというのです。そして、そのイエス・キリスト様の御名、つまり権威によって、足の悪い人を癒しているのです。そこには、無学な者の物語が知恵ある者の物語に書き換えが起こっている。

 しかも、それがペテロとヨハネによって、堂々とイスラエルの民の信仰と聖書に関する権威者たちでもある役人や、長老、また律法学者や大祭司の前で語られるのです。 
昔、ダクラス・グラマン事件という汚職事件で国会に証人喚問された海部八郎(かいふはちろう)という人が緊張と恐れで手が震えて証人の署名が書けなかったということがありましたが、権威者たちの前で、自らの弁明をするということは、それほど緊張することなのです。

 ところがみなさん。ペテロとヨハネは、イスラエルの民の中の権威者たちの前で、
緊張することなく、むしろ大胆に「あなたがたが十字架に架けて殺したイエスというお方こそが、神が旧約聖書で予言していたキリストなのだ」と堂々とその論を展開する。そして、「イエスの名によって語ることも説くことも、いっさい相成らぬ」と脅されても、いっさいひるむことなく、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。 わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」と言って一歩も引かないのです。

 みなさん、あのペテロとヨハネとがですよ。イエス・キリスト様が裁判にかけられとする時、三度も「私はイエスなどという人は知らない」と言ってイエス・キリスト様を裏切ったペテロ。またマルコによる福音書14章では、イエス・キリスト様が捉えられそうになった時、裸で逃げ出したのはこのヨハネであると言われる。そのような弱々しいペテロとヨハネが、ここでは力強い者として描きなおされているのです。
 それは、彼らが聖霊に満たされていたからだと聖書は使徒行伝の48節で言っている。そこにはこうあります。

 その時、ペテロが聖霊に満たされて言った、「民の役人たち、ならびに長老たち 
よ」。

 そうです皆さん。ペテロは聖霊なる神に満たされることで、大胆に、堂々と語ることができたのです。聖霊なる神がペテロの内に在ってペテロと共にいる。このことが弱々しいペテロの物語を大胆で力あるペテロの物語へと書き替えて行くのです。

 同じような事例は、旧約聖書の中にも見られる。それが先ほどお読みいただいた士師記6章にあるギデオンの物語です。ギデオンは、神からイスラエルの民のリーダーとなって、イスラエルの民を襲い虐げているミディアン人から救い出せという使命を受けます。 
 ところが、ギデオンは「ああ主よ、わたしはどうしてイスラエルを救うことができましょうか。わたしの氏族はマナセのうちで最も弱いものです。わたしはまたわたしの父の家族のうちで最も小さいものです」と言ってしり込みするのです。いわばギデオンもまた一人の弱い存在なのです。
 そのギデオンが、「神が共にいてくださる」という確証を得ると、しり込みしていたイスラエルのリーダーである士師となり、弱小であったイスラエルの民を率い、強者であるミディアン人に勝利する。ここには、弱者の物語が強者の物語に書き換える物語の書き換えがある。そして、そのカギになるのが、神が共にいるということなのです。

 みなさん。新約聖書ローマ人への手紙831節には「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」という言葉がありますが、神は私たちと共にいてくださるお方です。そして、その神と共に私たちが生きて行くならば、私たちの人生の物語は弱者の物語から強者の物語に書き換えられている。聖書はそう私たちに語るかけているのです。第三の点に行きましょう。過去の物語の書き換えということです。

 今日の聖書個所は使徒行伝31節から10節までにある、ペテロが神殿の門の前で物乞いをしていた歩けなかった人に「金銀は私にはない。私にあるものを上げよう。イエス・キリストの御名によって歩きなさい」と言って歩けるようになったというの出来事を起点として展開した物語の一部です。

 このような癒しの物語は、聖書の中に数多く出てきますが、この使徒行伝31節から10節にあるイエス・キリストの御名に基づく癒やしに非常によく似ているのが、先ほどお読みいただいたヨハネによる福音書91節から7節にあるイエス・キリスト様の癒しに記事です。
 この記事では、イエス・キリスト様が生まれつき目の見えなかった人を癒すという出来事ですが、この癒しの出来事を通して、イエス・キリスト様はこの癒しについて短く語り、そののちこの癒しの出来事に関して当時の宗教的権威の一つであったパリサイ派の人々から尋問を受けるという構造的にも類似した癒しの出来事です。

 この目の見えない人の癒しの出来事においてイエス・キリスト様が語られた言葉は、弟子たち「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」という問いに答える形でなされます。
 「目が見えない」。このことは、罪の結果起こることである。というのがこの当時のイスラエルの民の発想です。だから、弟子たちは「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」と問うのです。死土居質問です。でも、誰もがそう思っている。だから聞くのです。そしておそらく、周囲も、そしてこの「生まれつき目の見えなかった人」も、この「目が見えない」という現実は誰かの罪の結果であると思っていた。
 そのような中で、ただ一人、イエス・キリスト様のみが、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」といって、この「生まれつき目の見えない人」を癒すのです。そこに喜びの出来事が起こる。

 みなさん、この時、イエス・キリスト様は、この人の目が見えないという、「今、ここで」の現実を癒すと同時に、この人の過去の物語を書き換え、この人の過去をも癒すのです。
この人は、確かに癒されました。しかし「目が見えなかった」という過去の事実は変わらない。それが、本人の罪、あるいは両親の罪であると思い続けるならば、その過去は悲しい歴史です。そして、確かに「目が見えなかった」という過去は悲しい過去なのです。
 しかし、イエス・キリスト様は、この人の目が見えなかったことは「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」といって、罪のためと考え思い描いていた悲しい物語を、神の栄光のためという喜びの物語の一部へと書き換えていくのです。
 それは、この「美しの門」の前で物乞いをしていた人も同じです。生まれつき足が悪く歩けない。だから物乞いをして生活を成り立たせている。それは彼にとって悲しい、そしてみじめで切ない物語でした。しかし、その物語も今や喜びの物語となり、神の栄光を表す物語となっている。そして、この歩けなかった人は、その物語を人々の前で証し、役人や、長老、また律法学者や大祭司の前で自らの存在を通して証しているのです。

 みなさん。人間の人生、私たちの人生には、何らかの悲しい物語、苦しみの物語があったりするものです。誰もがそのような物語を持っているのかもしれない。あなたにあるかもしれない。でも、その過去の物語も、イエス・キリスト様につながり生きるならば、もはや悲しい物語としてではなく、喜ぶ物語の一部として書き換えられるのです。
 それは、イエス・キリスト様の十字架の死という悲しく、辛く、苦しい物語が、神によって蘇らされるという出来事に結びつくことで、悲しみと苦しみと辛い物語が、よみがえりという喜びの物語の一部となり書き換えられるからです。
 みなさん。どうか知ってください。イエス・キリスト様に結び付けれた者、洗礼を受けイエス・キリスト様と一つとなり、キリストの体なる教会の一員となり、キリストの体なる教会を築き上げている私たちは、私たちの人生の物語の全てを、神によって神の聖なる物語、イエス・キリスト様の聖なる物語として書き換えられるのだということを。お祈りしましょう。

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