2019年4月25日木曜日

2019年4月第3主日復活祭礼拝説教「もはやここにはいない」


※ 今週は機材の不都合のため説教の画像はありません。原稿のみの公開になります。

2019年4月第3主日復活祭記念聖餐式礼拝説教「もはやここにはいない」 2019.4.21
旧約書:イザヤ記4027節~31節(旧約聖書p.998
福音書:マタイによる福音書281節~10(新約聖書pp.49-50)
使徒書:ペテロ第一の手紙56節~11節(新約聖書p.371

 2019年の復活祭の朝を迎えました。私たちは受難週の一週間を主の十字架の苦しみに思いをはせつつ過ごし、この朝、主がよみがえられたことを覚え、喜びをもってこの礼拝を迎えました。その復活祭の記念礼拝の説教の箇所として、マタイによる福音書281節から10節を取り上げたいと思っています。とりわけ、5節、6節で語られたみ使いの言葉

   5:「恐れることはない。あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしにわかっているが、6:もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。

と言う言葉に着目したと思っています。そして、この言葉を私たちの心の中で深く味わいたいと思うのです。

 このマタイによる福音書の28章の1節から10節までは、イエス・キリスト様が十字架に付けられ、墓に葬られた後、安息日の明けた週の初めの日の明け方に起こった出来事が記されています。ユダヤ人にとって安息日は金曜の日没から土曜日の日没までですから、週の初めの明け方というのは、日曜日の朝の早朝と言うことになります。 
 その日曜日の朝まだ早いころ、マグダラのマリヤとほかのマリヤとがイエス・キリスト様の墓を見にやって来ました。マルコによる福音書やルカによる福音書を見ますと、どうやら、この二人のマリヤはただ墓を見に来たというだけでなく、イエス・キリスト様のご遺体に葬りのための香料と香油を塗りに来たようです。

 イエス・キリスト様が十字架に架けられた10時ごろであり、息を引き取られたのが3時ごろですから、おそらく、そのご遺体が下ろされ引き渡されたときにも、日没が近づいた時間ではなかったと思われます。そのようなわけで、葬りの際にご遺体に香料と香油を縫って弔うということができなかったのでしょう安息日が明けた週の初めの早朝に、その弔いをするために、二人のマリヤがイエス・キリスト様の墓のところにやって来た。
 そのとき、大きな地震が起こり、イエス・キリスト様の墓の、ふたをしていた大きな位置が脇に転がされ、墓の口がぱっくりと開いていた。そして、その転がされてた岩の上に純白の衣をまとい稲妻のように輝く神のみ使いが座っていたというのです。

 その出来事に遭遇した人々は、大きな恐れに包まれます。それは、大きな地震の揺れを経験したということもあるでしょう。まらた、天のみ使いが降って来たという出来事を目撃したということもあるでしょう。彼らは、恐れおののき、震えあがって死人のようになっていたというのです。
 そのような状況の中で、天より下ってきたみ使いが、二人のマリヤに向かって「恐れるな、十字架お係になったイエス・キリスト様はここにはもういない。よみがえられたのだ」と言うのです。「ここのはもういない」という「ここ」は、墓です。よみがえられたイエス・キリスト様はもう墓にはとどまっておられない。

 みなさん、私はこの「イエス・キリスト様はもはや墓にはおられない」と宣言するみ使いの言葉は、何と味わい深い言葉なのだろうかと思うのです。「イエス・キリスト様はもはや墓にはおられない」。
 何年も前の話ですが、ある牧師がご自分の教会に掲げられている十字架にイエス・キリスト様の像かかげられていないことを次のように説明していました。それはこのような説明です。「十字架は、私たちの主、イエス・キリスト様が死なれた場所です。イエス・キリスト様は十字架の上で死にそして蘇られました。だから、もはや十字架の上にイエス・キリスト様はいないのです」。
 とても印象的な言葉でした。たしかに、十字架はイエス・キリスト様の死に場所であり、痛みの場所であり苦しみの場所です。しかもその苦しみは、律法学者や祭司長たち、そして民の長老といった人々から加えられた極めて不条理な苦しみなのです。その不条理な苦しみをイエス・キリスト様はご自身の死によって終わらせたのです。

そのイエス・キリスト様がその苦しみの場である十字架の上にはおられない。その通りだ。そして、このイエス・キリスト様はもはや苦しみの場である十字架の上にはおられないというその事実は、イエス・キリスト様がもはやここにはおられない。墓にはおられないということを相通じると思うのです。イエス・キリスト様の墓は、あの不条理な死を人々の心にいつまでも留めます。母マリヤの悲しみと苦しみは、イエス・キリスト様の墓を見るたび、心によみがえってくるでしょう。マグダラのマリヤにとっても、またイエス・キリスト様の弟子たちにとっても、それは同じです。イエス・キリスト様の墓は、イエス・キリスト様を愛する者にとって、彼らをいつまでも悲しみに留め置き、場合によってはイエス・キリスト様を十字架に付けた者たちに対する憎しみを喚起し、持たせ続ける者になるかもしれない場所なのです。

 イエス・キリスト様が死んで葬られたその墓の中で、起き上がり、立ち上がってそこから去って行かれた。そしてそこにはもうおられないのです。もはや、苦しみや悲しみを、そして憎しみを心にとどめ思い起こさせる場にはおられないのです。痛みと苦しみの場から立ち上がり、悲しみの場から立ち上がり、そこを立ち去られたイエス・キリスト様は、もはや苦しみや悲しみや憎しみを思い起こさせる場所にも留まっておられない。そこから立ち去って行かれるのです。イエス・キリスト様の復活の物語は、そのことを私たちに伝えている。

 そして、この痛みと苦しみの場、悲しみと憎しみを心に思い起こさせつの場に最早おられないイエス・キリスト様は、弟子たちをガリラヤの地で待ち、迎えてくださるのです。聖書には、その喜びのメッセージを伝えに行こうとする二人のマリヤは「恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」と伝えています。不思議な表現です。「恐れながらも大喜び」。大喜びなら恐れなどないだろうと思いますし、恐れがあったなら喜べない。けれども聖書は「女たちは恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」と言うのです。

 いったい「恐れながらも大喜び」すると言った心境や状況はどういったものか。私にはよくわかりません。いや、彼女たちが大喜びしたのはなんとなくわかる。それはイエス・キリスト様がよみがえり、もはや苦しみの場からも、悲しみの場からも解放され、そこにいないからです。しかし、彼女たちはなぜ恐れなければならないるか。それがよくわからない。もちろん、聖書に答えがあるわけでもない。だから、黙想しながら考え想像するしかありません。そしてこの言葉を想い黙想していくと、彼女が依然として恐れの内に在るのは、彼女たちが、未だ「この世」にある苦しみや悲しみや憎しみの場に縛られているからではないか、そのように思えてきたのです。

 イエス・キリスト様は苦しみと悲しみの場から立ち去り、「ここにはもうおられない」ないのに、彼女たちは苦しみと悲しみと憎しみの場である「この世」と言う場に立って「ここにまだいる」のです。つまり、死からのよみがえりである復活の物語は、彼女たちにとってはイエス・キリスト様の見に起こった出来事ではあっても、自分たちの出来事ではなく自分たちの物語ではないのです。

 その二人のマリヤに、イエス・キリスト様は出会って下さり「平安あれ」といって下さるのです。「平安あれ」とは「恐れなくていいよ」と言うことです。そうやって「恐れなくていいよ」と語りかけることで、イエス・キリスト様は、彼女たちもまた「この世」にある悲しみや苦しみや憎しみから立ち上がり、その悲しみの場、苦しみの場、憎しみの場から立ち去っていくことができると語るのです。

 もちろん、私たちは、「この世」という世界の中にあって「ここにまだいる」存在です。ですから、「この世」にある限り、心をかきむしるような苦しみや悲しい出来事に合うこともあるでしょう。昨日も池袋で起こった交通事故のニュースを耳にしました。私はそのニュースを聞いて、心が張りさせそうになり、押しつぶされそうになった。そのような思いの中で、どうやってイエス・キリスト様の復活を祝うイースターの喜びのメッセージを語ればよいのだろうかと、何とも苦しい思いになった。

しかし、あの「あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしにわかっているが、もうここにはおられない」という聖書の言葉が、「イエス・キリスト様がよみがえり、墓から立ち去って行かれたがゆえに、私たちもまた、その悲しみの場、苦しみの場にいつまでも留めておくことなく、そこから再び立ち上がっていくことができるのだ」とそう私たちに語りかけてくる。

 それは、旧約聖書の時代から神が私たちに語りかけているメッセージです。そして、先ほどのイザヤ書4027節から41節の御言葉は、まさにそのようなメッセージがそこに込められていると言えるでしょう。そこにはこう言われている。

あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果の 創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。29:弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。30:年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。31:しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。 

 このイザヤ書40章は、イスラエルの国がバビロニア帝国によって滅ぼされ、その民はバビロニア帝国に奴隷として連れていかれるという絶望的な状況の中置かれることになるが、神がそこから再び立ち上がらせてくださるというメッセージです。そこには、奴隷とされ異国の地に引いて行かれるという悲しみの現実と苦難の現実がある。苦しみ苦悩する生活があり、痛みがある。それは避けて通れない「この世」に生きるイスラエルの民の現実なのです。
 
 けれども、みなさん。預言者イザヤは、イスラエルの民がイスラエルの民、すなわち神の民であるがゆえに、その苦しみや悲しみや苦悩から再び立ち上がる力を神が与えてくださるというのです。力が与えられるということは、与えられるのが力ですから、立ち上がり翼を張ってのぼるのは、イスラエル民のひとり一人です。神は私たちひとり一人をそのようなものにしてくださると約束するのです。
 その主を待ち望む者、つまり新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができるものとなった姿、走っても疲れることなく、歩いても弱ることはないものとなった姿が、イエス・キリスト様の復活の姿の中に現れ出ている。

 みなさん、私たちは本当に苦しみや悲しみや痛み、そして憎しみに満ち溢れた「この世」と言う世界に生きています。だから、心が押しつぶされそうになることが私たちを襲ってくる。悲しみに心が引き裂かれるようなことに出会っていくのです。そのことを想うと、生きて行くことに恐れを感じせずにはいられない、そんな思いになります。 
 けれどもみなさん、聖書はそのような私たちによみがえられた主イエス・キリスト様のお姿を指し示すのです。そして、イエス・キリスト様の立ち去った墓、苦しみと悲しみとが詰まった墓を見せ、「ここには、もう主イエス・キリスト様はおられません」と語りかけてくる。それは、私たちもまた、この悲しみの場、苦しみの場に縛り付けられるのではなく、そこから立ち上がり、「もう、ここのはいません」と言われる者になることができるという神の約束なのです。

 みなさん、先ほど司式者にお読みいただいたペテロ第一の手紙5章において、聖書は「この世」は、神に敵対する悪魔が、ほえたける獅子のようになって私たちを食い尽くそうとしている世界であると言います。思い煩いに心が掻きむしられるような世界だというのです。そして、だからこそ、神の力強い御手のもとに身を置きなさいと言うのです。そして自分自身を神に委ね、神を求めていきなさいと言う。それが、私たちの心を押しつぶし、食い尽くそうとする悪魔に立ち向かうことだというのです。

 みなさん、聖書は、神を信じればすべてがうまくいくよなんて言わない。悲しみも苦しみもなくなるなんて決して言わないのです。苦しみもある、悲しみもある。事実、このペテロの第一の手紙は、「全世界にいるあなたがたの兄弟たちも、同じような苦しみの数々にあっているのです」と言っている。

 けれども、そのような苦しみになかにいるからこそ、「あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れてくださった神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけてくださるであろう」と言うのです。

 この「キリストにある永遠の栄光に招き入れてくださった神」というのは、イエス・キリスト様を復活させてくださった神と読み替えてもよろしいだろうと思います。つまり、このペテロ第一の手紙56節から11節もまた、イザヤ書4027節から31節、マタイによるよる福音書281節から10節と共に、悲しみの場、苦しみの場に置かれた者が、そこから立ち上がり、そこを去り「ここにはもうおられません」と言わることができるように神がそのの力を与えてくださるという約束が繰り替えれているのです。

 みなさん、主イエス・キリスト様の復活の出来事は、そのことに対する神ご自身の、そして主イエス・キリスト様の証です。その主イエス・キリスト様が、弟子たちに、ガリラヤで待っていると言うメッセージを語られたように、私たちのも、「あなたを私の下に招いているよ」と語りかけているのです。お祈りしましょう。

2019年4月14日日曜日

2019年04月14日 小金井福音キリスト教会 説教題「キリストは罪に勝利された」 

2019年04月14日 小金井福音キリスト教会 説教

聖書
・ヨシュア記 第6章15節~22節
・ヨハネによる福音書 第16章29節~33節
・ピリピ人への手紙 第2章1節~11節

説教題「キリストは罪に勝利された」


‘19年4月第2主日受難週聖餐式礼拝説教「キリストは罪に勝利された」   2019.4.14
旧約書:ヨシュア記6章15節~22節
福音書:ヨハネによる福音書16章29節~33節
使徒書:ピリピ人への手紙2章1節~11節

 今日は受難週を迎える礼拝です。その受難週礼拝をヨハネによる福音書16章29節から33節のお言葉からお取次ぎするようにと導かれています。とりわけ33節の「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」と言うお言葉を中心に、「キリストは罪に勝利された」という説教題で聖書を通して語りかける神の語りかけに耳を傾けたいと思っています。

 ともうしますのも、近年、イエス・キリスト様に十字架の死に対して、それが私たちの罪を償うために私たちに代わって神の裁きを受けたものであるという従来の理解に対して、いや、イエス・キリスト様の十字架の死は、そのような罪の償いということではなく、むしろ罪によって私たちを支配している「この世」に対する勝利なのだということが、いわれているからです。
 もちろん、イエス・キリスト様の十字架の死は、罪に対する裁きでもあります。しかしそれは、罪びとである私たちを裁くものではなく、私たちを支配している罪を裁くものであるというのです。そして、そのように私たちを支配する罪を裁くことで、私たちを罪の支配から解放したのがイエス・キリスト様の十字架の出来事であったと言う。

みなさん、このような理解は、私たち日本の福音派とよばれるグループの中では、まだ少数派です。しかし徐々にではありますが確かに浸透し始めている。そして、今日の聖書個所、ヨハネによる福音書16章33節に目をやりますと、そこには確かに、「イエスキリスト様の十字架の死は『この世』に対する勝利である」と宣言されているのです。

 このイエス・キリスト様の勝利宣言がなされているヨハネによる福音書16章29節から33節は、同じヨハネによる福音書の14章から続くイエス・キリスト様の告別説教と言われる箇所の最後に当たる部分です。
 そのイエス・キリスト様の告別説教は、14章1節の「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい」と言う言葉から始まります。つまり、イエス・キリスト様は、イエス・キリスト様に従って生きる弟子たちが心穏やかでなく心を騒がせるような事態に陥るということを見越して、この告別説教を語るのです。そして心の平安が奪われ心穏やかではいられなくなるであろう弟子たちに、

1:「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。2:わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。3:そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。4:わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている」。

 と言われるのです。つまり、あなたがたには安んじる場所が用意されている。それは父のみもとである。そしてすでにそれがどこであるか、そしてどうやってそこに行くのかをあなたがたは知っているというのです。ところが、弟子たちはそのイエス・キリスト様の言葉を聞いても何を言っておられるのかさっぱり見当がつきません。そこで、12弟子のひとりであるトマスは「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう」と問いかけ、ピリポは「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」といったピント外れにの見当違いなことを言い出すのです。

 そのような弟子たちに対して、イエス・キリスト様は14章から16章に渡る今日、イエス・キリスト様の告別説教と言われる話を話し始めるのです。その告別説教は、もうじき訪れるであろうイエス・キリスト様の死と復活、そして聖霊の降臨から再びイエス・キリスト様が来られる再臨に関してです。そのイエス・キリスト様の説教を聞いて、初めて弟子たちは

29:今はあからさまにお話しになって、少しも比喩ではお話しになりません。30:あなたはすべてのことをご存じであり、だれもあなたにお尋ねする必要のないことが、今わかりました。このことによって、わたしたちはあなたが神からこられたかたであると信じます」。

 と言うのです。でも、本当に分かったのかどうか。正直、私は疑問です。だって彼らは、イエス・キリスト様が捉えられ、十字架に架けられようとすると逃げ出し、ペテロに至っては、3度も私はイエス・キリストと言うお方と関係がないなどと言い、他の弟子たちも自分が捉えられるのではないかと恐れて、ドアを閉め部屋に閉じこもっていたというのです。そんな姿を見せられてならば、何がわかったのかと言いたくなるのです。
 でも、それでもなお、やはり弟子たちは何かがわかったのだろうなと思うのです。変な話だけれども弟子たちは「わかっていないけど分かっている」のです。「わかっていないけど分かっている」と言うのは矛盾した言葉です。でも、そういうことがある。

 みなさんは、小林和夫先生を知っておられるでしょう。その説教を聞いたことがあるという方は、この中に少なからずおられる。小林和夫先生の説教は不思議な説教で、その説教を聞くとなんか「わかった」と言う気になる。でも、実際にはその説教を構成している論理やその他もろもろのも難しいことはわっかったようでわかっていないのです。そして、実際はわかってはいない。しかし、それでも「神が私たちを愛して下さっている」とか「私たちを憐み恵んでくださっている」とは「私たちを清いものと言ってくださっている」と言うことは分かる。

 イエス・キリスト様も弟子たちも、そんな感じだったのだろうと思うのです。彼らは分かったと思った。でも実際は分かっていない。でも、イエス・キリスト様と一緒にいれば大丈夫、イエス・キリスト様にお任せすれば大丈夫と言うことだけは分かったのでしょう。そしてそれが心に刻まれた。だから、イエス・キリスト様の十字架の死という思いもよらない出来事に遭遇して、あたふたし、じたばたしたけれども、それでも復活の主と出会い、この14章の告別説教で語られた助け主なる聖霊をいただきながら、しっかりと立ち上がって行くことができたのです。それは、彼らがイエス・キリスト様が共にいて下されば大丈だということを、肝に銘じて知っていたからです。わかっていたからなのです。たしかに、彼らはキリスト者として生きて行く中で、様々な試練や苦難に合う。しかし、イエス・キリスト様は、十字架の死によって、すでに「この世」で打ち勝っておられるのです。それを、イエス・キリスト様の弟子たちは、十字架の死を目撃し、復活の出来事を目撃し、聖霊が自分たちのところに下って来るという経験を通して、確認し、確信したのです。

みなさん、イエス・キリスト様の十字架の死は、一見すると人の目には敗北のように見えます。先日、私共の娘の嫁ぎ先に、どこかの宗教団体が勧誘に来たそうです。娘のご主人が、その対応に当たったそうですが、その際とっさに、家はキリスト教ですからと言ったそうです。すると、「キリストは十字架で刑死したひとじゃないですか」と言われたそうです。確かにそうですね。イエス・キリスト様の十字架の死は刑死であり、とてもそれが勝利とは思えない。
ところが、先ほどお読みしたピリピ人への手紙2章1節から11節では、イエス・キリスト様が、神であられるのに、自分自身が空しくし、私たち人間と同じものとなり、一人の人として、十字架の死に至るまで神に従順に従われた、だからイエス・キリスト様は、すべての者の主となられるまでに高められたのだと言っています。つまり、十字架に死に至るまで神に従い抜いたそのイエス・キリスト様の生き方が、「この世」の支配を打ち破り、イエス・キリスト様を主とし、王とする神の国を打ち建てられたのだというのです。

みなさん、「この世」が私たちを支配するのは、罪の力によってです。聖書における罪は神を神としないということであり、神を求め、神に従って生きる生き方ではなく自分の欲に従って生きる生き方です。「この世」は、その私たちの欲に働きかけて、私たちをそのような生き方に導いていくのです。それが罪の力です。

しかし、イエス・キリスト様はそのような罪の力に打ち勝たれ、十字架の死に至るまで、神に従順に従われたのです。イエス・キリスト様の十字架の死は、そのイエス・キリスト様の徹底した、そして完全な従順の表れです。そこにおいては、私たちを神から引き離し、神に従うのではなく、自分の欲に従わせようとする罪の力はもはや打ち破られている。

みなさん、神に従順に従い、神の言葉に従って生きる生き方は、罪の絶大な力に打ち勝つのです。私たちは、そのことを、あの旧約聖書のヨシュア記6章29節から33節に見ることができます。

 この箇所は、イスラエルの民がエリコと言う町を攻め落したいわゆるエリコの戦いの物語です。モーセに率いられてエジプトを脱したイスラエルの民は、40年間荒野を放浪するという試練を通して、神に信頼し、神に従って生きる生き方を学びます。そしていよいよモーセから代替わりしたヨシュアによってヨルダン川を渡り、約束の地カナンで神の国を建て上げていくことになります。しかし、そこにはすでに先住民がいるのです。その先住民が暮らしている土地のただ中に、神の国を建て上げていかなければならないのです。そのためには、すでにカナンの地に住んでいる先住民と戦うという事態も起こって来る。その最初の出来事がエリコの街との戦いです。

 エリコの街は、高い城壁で守られた要塞です。その壁が切り崩されなければ、得るこの街を陥落させることは難しい。そこで神は、一日に一周エリコの街の周りを隊列をつくってぐるりと一周することを6日間つづけなさいと言う。そして7日目には、7週巡り、7周回ったら大声を上げろと言うのです。
 このようなことは、馬鹿げています。そんなことしたって何になるのか。愚かしいことのように思われます。でもイスラエルの民は、それが神が語られた言葉だから、たとえ愚かしいと思われても、その言葉道理にしたのです。すると、城壁が崩れたというのです。
 この物語など、まさに神に従順に従う者たちには、神が勝利をもたらしてくださるということを示す物語であると言えるでしょう。それが、イエス・キリスト様の十字架の死という死に至るまで神に至る従順な生き方が、罪の力を打ち破り、罪によって私たち人間を支配する「この世」に対する勝利の物語として再び繰り返され、完成するのです。

 この、イエス・キリスト様の勝利によって、私たちは「この世」に罪によって支配されるものではなく、イエス・キリスト様を主とする神の国で、神の恵みと愛に支配されて生きる者となったのです。だからこそ、イエス・キリスト様は、あの告別説教で「あなたがたは、私があなたがたを愛したようにあなたがたも互いに愛し合いなさいと言われる。ヨハネによる福音書15章12です。また、パウロはピリピ人への手紙2章1節から4節にかけて、互いに同じ愛の心を持ち、心を一つにしてイエス・キリスト様のようにへりくだり、他者のことを顧みなさいというのです。
 もちろん、私たちがイエス・キリスト様のように、十字架の死に至るまで、罪の力にて抗い抜き、神に従順になれるかと問われると、正直難しいと思います。けれども、難しいからこそ、イエス・キリスト様は人となり、私たちにできないことをしてくださったのです。そして、罪を打ち破り、私たちを罪の力から解放してくださったのです。

 みなさん、私たちは、今、そのイエス・キリスト様の十字架の死による罪の力に対する勝利に与っています。そして、罪の支配から解放されているのです。今日、この受難週を迎える礼拝において、そのことを心に覚え、主に感謝し、このお方こそ私の主であると告白する生涯を、神の国の「この世」での現れであると言われる教会で、共に歩んでいこうではありませんか。お祈りしましょう。

2019年4月12日金曜日

2019年04月07日 小金井福音キリスト教会 説教題 「 教会制度の始まり 」

2019年04月07日 小金井福音キリスト教会 説教

聖書
・民数記 第3章5~10節
・マタイによる福音書 第20章1~16節
・使徒行伝 第6章1~7節

説教題 「 教会制度の始まり 」



19年 4月第一聖餐式礼拝(受難節第5章)説教題「教会制度の始まり」 2019.4.7
旧約書:民数記35節~10
福音書:マタイによる福音書201節~16
使徒書:使徒行伝61節~7

 今日の聖書個所は、エルサレムに建てられたもっとも古い原初の教会の中に、使徒という職制に加えて執事と言う職制が定められたいきさつが記されている箇所です。教会と職制、もう少し広く言うと神の民の群れと職制と言うものは、深く関わっています。
 と申しますのは、先ほど司式の兄弟に旧約聖書の民数記35節から10節をお読みいただきましたように、イスラエルの民が、神の選びの民としてその国家を築き上げようとするその初期の段階において、すでにアロンの家系のものが祭司として勤めに任じられ、レビの部族の者が祭司を支えるための働きに任じられているからです。つまり、旧約聖書新約聖書に関わらず、神によって神の民が選ばれ召し出され、そこに神の民の共同体が築き上げられていくと、神はその共同体のために、職制を設けられるのだというのです。
その職制が、旧約聖書においては、祭司職とレビ人、そしてイスラエルの民という形をとって現れ、新約聖書においては、使徒と7人の執事、そして教会の会衆と言う形となって現れ出ています。そして、それぞれがその職務が担うべき働きが与えられ、その働きをそれぞれが行っていったのです。

たとえば、先ほどの民数記35節に倣って言うならば、祭司職というのは幕屋、この幕屋は後に神殿と姿を変えていきますが、その幕屋で捧げられる犠牲を神に奉げ、神とイスラエルの民の狭間に立ってとりなしをするのがその役目でした。そしてレビ人は祭司がその勤めをしっかりとできるように幕屋で用いられる器具や器を管理する仕事を担いました。更にレビ人は、後の時代には、礼拝における賛美、今日(こんにち)で言うならば聖歌隊の役割を担うようになっていきます。つまり、祭司とレビ人がそれぞれの役割を担いながら、イスラエルの民の宗教儀礼が行われていったのです。 
また、今日の説教の中心箇所である使徒行伝61節から7節において、2千年前のエルサレムに建てられたもっとも原初の教会に起こってきた職制は、使徒たちが「もっぱら祈りと御言葉の御用に当たる」ために、教会内に起こって来る様々な事柄に対処する役割を負う人間を選び、その働きを担ってもらうという目的から始まってまいりました。

ここで使徒たちが専念するという「祈りと御言葉の御用」というのは、平たく言えば、礼拝に関する事柄と言ってもいいでしょう。神を礼拝し、神の言葉を語り、延べ詠えていくこと、つまり教会の宗教的な側面、信仰的な側面の仕事を使徒たちが担い、それ以外の仕事を執事と呼ばれる人々が担うと言うのです。 
例えば、このエルサレム教会に執事職が起こってきたきっかけは、ギリシャ語を使うユダヤ人が、ヘブル語を話すユダヤ人に対して、自分たちのやもめらが、日々の配給で、おろそかにされがちだという苦情が寄せられたことから始まっています。

みなさん。既にこれまでにお話ししてきたように、エルサレムに建て上げられたもっとも原初の教会は、皆が財産を持ち寄り、それを差し出して、それぞれの必要に応じて分け与えられると言った共同生活をしている共同体でした。そこで、食事の配分に不公平があるのではないかと言う苦情が起こったのです。

みなさん、このような案件は、今日でいうならば牧会的案件であると言えます。それは一人一人のクリスチャンをお世話するという牧会的な内容の事柄です。同時に、この問題は事務的案件でもあり財務的案件でもあります。それは、みんなが持ち寄り奉げた財産から、どれくらいのものを一日の食事にあて、それを誰にどれくらい配分するかと言うこと、つまり予算とルールを考え、取り決め、実際にそのようになされるように管理運営していくからです。 
けれども、そのようにきちんと予算やルールを決めても、そこに不公平だという苦情が起こってくることがある。だから、執事と言う食味に当たる人は信仰と聖霊とに満ちた人でなければならないと言うのです。

みなさん、私はここでちょっと不思議に思った。執事の仕事が事務的・財務的案件であるとするならば、むしろ問われるのは事務的な能力ではないか。しかし、このエルサレムに建てられた原初の教会は、事務的な能力に関わるような資質は一切問わず、信仰と聖霊に満ちた評判の良い人を条件に執事を選び、任職しているのです。この場合の信仰は、先の3節で「そこで、兄弟たちよ、あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判のよい人たち七人を捜し出してほしい」とありますから、信仰的知恵に満ちた人と言うことでしょう。信仰的な知恵と聖霊に満ちた人を選び執事とすると言うのです。 
なぜか。それは教会内に起こってくる事柄は、「この世」の在り方や考え方、また価値観で判断し解決されるのではなく、信仰的視点に立ち、聖霊なる神の導きに委ねながら解決していくものだからです。

例えば、ここで問題にされているのは、ギリシャ語を使うユダヤ人が、ヘブル語を話すユダヤ人に対して、自分たちのやもめらが、日々の配給でおろそかにされがちだという不公平が起こっているという苦情です。普通ならば、一人当たりの食事を配給する量を決めて、それに従って分けていけば問題は解決するように思いますが、おそらくそれでは問題が解決しないのでしょう。
 逆に、一人当たりの障子の配分を決め、それを等しく分配したならば、一日の食事にあてられる費用が増えてしまい財政的な問題が起こってくるという問題があるかもしれませんし、逆に一日の食事にあてられる費用が限られているために、今まで自分に配給されていた量が減るという不満が生まれてくるようなこともあるかもしれません。もし、教会が「この世」のものであったならば、そのような不満も押さえ込むことができ、それで解決するのかもしれません。 
しかし、教会は、「この世」とは異なる存在であり、「この世」の在り方での問題の解決の方法は、ふさわしいとは言い難いものなのです。ですから、教会内に起こって来る問題に対する教会的な解決の方法は、「この世」の一般的な知恵ではなく、信仰的なもの見方によらなければ解決しない問題であり、まら、それが現実になされるためには聖霊なる神の助けが必要なです。

私は、そのことを思い巡らしているとき、先ほど司式の兄弟にお読みいただきましたマタイによる福音書201節から16節でイエス・キリスト様が語られたたとえ話が心に浮かんできました。 
この箇所は、ぶどう園の主人が、収穫のために一日1デナリで人を雇っってブドウの収穫にあたらせたという物語です。最初は朝早く数人の人を雇った。それでも人手が足りなくて、御昼どきにまた何人かを雇い、さらに3時頃、更には夕方と人数を増やしていって、収穫を終えた。そして、賃金の支払いの時に、朝早く来た人にも、夕方来た人にも同じように1デナリ支払ったという話です。

実は、私が以前PBAでラジオ牧師をしているとき、この箇所からショートメッセージをしたことがあります。その時の放送原稿は次のようなものでした。タイトルは「みんな同じ」というタイトルですが、つぎのような話をしたのです。

バーゲンとか、セールって言葉は、なんか魅力的ですよね。なんか聞くだけでなんだか得した気持ちになっちゃうでしょ。それでね、ある店が開店記念セールで、抽選会をやっていたんですよ。そのセールって言うのは、2000円以上の買うと一回だけ抽選できるっていうんです。 
そうするとね、「2000円だけ買っても一回、でも、私、4万円も買ったのに、一回だけしか抽選できないなんて、なんか不公平よね・・・。」って声が聞こえてきました。確かに、「2000円だけ」でも、「4万円も」であっても、同じ1回しか抽選できないなんて、不公平な感じもしますよね。ところが、これと同じような不公平な話が聖書の中にもあるんです。 
ある時、ぶどう園の主人が、その日働く労働者を雇いに、朝早く町に出かけていきました。そして、ひとりの人に「1デナリで今日一日働かないか」と声をかけたんです。1デナリというのは、2000年前のユダヤでは、一日の生活費に相当するんですね。当然、その人は、喜んでその仕事を引き受け、一生懸命働きました。でも、まだまだ人手が足りないものだから、その主人は、お昼頃にも、さらに夕方近くにも、別の人達を雇ってきたんです。 
やがて、夜になり、働いていた人達に日当を払う時間がきました。主人は、後から雇った人から順番に、それぞれ1デナリづつを支払ってやったんです。すると、朝から働いていた人が、不満を言うわけですよ。「朝から働いた私と、ほんの数時間しか働ないあの人が、同じ給料なんて納得いかない。」ってね。ほら、あの「2000円以上で一回」の抽選に対する不平と同じですよ。ですから、彼らが不満を言う気持ちもわかります。働く者の側にしてみれば、とても不公平極なことですもん。
でも、考えてみるとね。「2000円以上で一回の抽選」という開店セールを考えた店の主人は、おそらく、2000円のお客さんにも、4万円のお客さんにも同じように感謝の気持ちを表したかったんでしょうね。だから同じにしたんだと思います。
同様にぶどう園の主人は、朝早く雇った人も夕方の人も、生活する為には一日1デナリが必要だって、同じように彼らの生活に気を配ってあげたんです。買い手や労働者が自分の損得を考えれば不公平に見えることも、売り手や雇い主の思いやりや心づかいから考えれば、みんなが同じだったんです。

実はね、このぶどう園の主人は、神様のことなんです。神様は、自分に役に立つかどうかで、差別するお方ではありません。むしろ、すべての人に、心づかいをしてくださるお方なんです。そして、その中のひとりに、あなたちゃんと入っている。
開店セールの抽選会も、抽選に参加しなければ、賞品を手に入れるチャンスすら得られませんよね。同じように、せっかくの神様のお心使いも、「いらない」と拒否してしまえば自分のものにはなりません。そして、神様はこの1デナリの祝福をあなたに与えたいと願っておられます。ですから、ぜひ、この祝福を、あなたのものにしていただきたいんですね。

みなさん、これが神の知恵です。葡萄畑での労働、それは肉体を使う労働ですから、年齢や体力によって働ける量はおのずと違ってくる。屈強な若者は力も体力もありますから炎天下のもとでの長い時間でもその労働に耐えらえるでしょう。だから、朝早くから雇われ仕事にありつける。しかし、年を取って体力が落ちてきたもの、あるいあ若くてもか細い弱々しいものは一日中働けないかもしれない。そういったいろいろな人を全部ひっくるめて、神は一日1デナリという必要なものを与えてくださるのです。

教会にはいろいろな立場や考え方の人がいます。いて当然ですし、そのような色々な立場や考え方の違う人がいるということはその教会が健全な教会だということです。しかし、同時にいろいろな立場や考え方の違いがあれば、そこにいろいろな問題が起こって来るということも当然起こって来る。
 そのような問題を解決するのは、あの11デナリの賃金を支払ってやった農夫に譬えられる神の憐れみと愛に満ちた知恵なのです。教会は、そのような信仰的な知恵で運営され、この世の知恵がそんなことはできないと思われるような問題も、聖霊に導かれて乗り越えていくところなのです。

 みなさん。そのような教会と言う場所に、みなさんは選ばれ、呼び集められ、そしてみなさんお一人お一人が信徒職という職務に召されている。私は私で牧師職と言う職に召され、「御言葉と祈り」に携わる職に任を受けています。

 みなさん、私はもう20数年前、牧師になった時に一つの牧師としてのポリシー建てました。それは、依頼された仕事は、特別な理由がない限り断らず引き受けるということです。そのようなわけで、今年、二つの職務を教団から依頼されました。そのかわり、期限付きで一つの職務がお休みになった。ですから、教団の仕事が一つ増えました。またその枝牧師は、教団と教区の仕事で三つも新しい職務が増えました。

 私たちは、これらの職務を引き受けるだけの能力も才能もないものです。しかし、ただ神にお従いし、神に知恵に委ね、聖霊なる神の導きに従いたいという信仰だけはある。その信仰に従って、それらの新しく増える仕事をお引き受けしました。それは、ホーリネス教団と言う神の教会、キリストの体なる教会を建て上げるためです。そのために、少しでもお役に立ちたいと願っているのです。
 同じように、みなさんお一人お一人が、この小金井福音キリスト教会というホーリネス教団と言うキリストの体なる教会の肢体となる教会の信徒職に召されているのです。そのことをどうぞ心に覚えて下さって、共にこの小金井福音キリスト教会を築き上げる仕事を担っていた代替と願います。お祈りしましょう。

2019年4月6日土曜日

2019年03月31日 小金井福音キリスト教会 説教題 「 最後に神は勝つ 」

2019年03月31日 小金井福音キリスト教会 説教

聖書
・エステル記  第 6 章 1 節 - 11 節
・ヨハネによる福音書 第 1 章 1 節 - 5 節
・使徒行伝 第 5 章 29 節 - 42 節

説教題 「 最後に神は勝つ 」



193月第5主日受難節第4週礼拝説教「最後に神は勝つ」       2019.3.31
旧約書:エステル記6111節 
福音書:ヨハネによる福音書115
使徒書:使徒行伝52942

 今日の礼拝説教の中心箇所は使徒行伝533節から42節です。この箇所は、同じく使徒行伝521節から32節までに記されている。使徒と呼ばれるイエス・キリスト様の弟子たちの中心となっていた人々が、大祭司やサドカイ人、あるいはイスラエルの長老と言われるイスラエルの宗教的・政治的指導者たちの前で語った弁明を受けて、その指導者たちの中に何が起こったかが記されている箇所です。

イスラエルの民の指導者たちは、イエス・キリスト様の弟子たちが、イエス・キリスト様の教えを語り、またイエス・キリスト様の名によって様々な不思議な業を行っていることを快く思っていませんでした。聖書は、その感情を「嫉妬の念に満たされていた」と述べています。使徒行伝517節です。 
それは、イスラエルの民の多くの人たちが、イエス・キリスト様の弟子たちのところに集まり、その教えに耳を傾け、癒しの業に与っていたからです。つまり、人々の心がイエス・キリスト様の弟子たちを通してイエス・キリスト様に向かっていた。だから彼らは嫉妬の念に駆られたというのです。 
そのような中で、とりわけ、大祭司やサドカイ人、そして長老たちと言った人たちが、気にかけたのは、弟子たちが、まさにそのイスラエルの指導者層の人間が、イスラエルの民の救い主であったイエス・キリスト様を十字架に付けて殺したのだと言っていることです。それが気に食わなかったようです。

 使徒行伝52728節では、その彼らの気持ちが次のように記されています。

あの名を使って教えてはならないと、きびしく命じておいたではないか。それだのに、なんという事だ。エルサレム中にあなたがたの教を、はんらんさせている。あなたがたは確かに、あの人の血の責任をわたしたちに負わせようと、たくらんでいるのだ。

「あの人の血の責任をわたしたちに負わせようと、たくらんでいる」とイスラエルの民の指導者たちはそう考えた。それは、彼ら自身がイエス・キリスト様を陥れ、人々を扇動して、十字架に付けて死なせるように仕向けたということを自覚しているからです。そして、事実そうであったのです。だから、「あの名を使って教えてはならない」と、きびしく命るのです。 
それに対するイエス・キリスト様の弟子たちの弁明が、先ほど司式の兄弟にお読みいただいた中の、使徒行伝529節から32節なのですが、彼らは、イスラエルの民の指導者たちの恫喝のような詰問に対して「人間に従うよりは、神に従うべきである」と言って、イエス・キリスト様の教えを語り、イエス・キリスト様のことを伝えることを止めないと、はっきりと意思表示をするのです。
 このような弟子たちの態度は、イスラエルの民の指導者たちの怒りに油を注ぎます。ですから、大祭司やサドカイ派の人々、また長老たちといったイスラエルの民の指導者たちは、イエス・キリスト様の弟子である使徒たちを殺そうと思ったと33節に書いてある。

 ところが、そのような殺伐とした雰囲気の中で、ガマリエルという人が立ち上がり、弟子たちをその場から外に出させて、語り始めます。このガマリエルという人は律法学者のひとりでした。律法学者というのはと呼ばれる旧約聖書に書かれている内容について詳しく学び、研究し、イスラエルの民に教え聞かせる働きをしていた言うなれば、旧約聖書の専門家です。そのガマリエルが、怒りに燃え上がっているイスラエルの民の指導者たちに、少し落ち着いて冷静に考えようというのです
 その内容が535節から40節に書かれていますが、要は「自分たちが、あのイエス・キリスト様の弟子たちを殺さなくても、もし彼らが言っていることが誤っているのならば、神が彼らを滅ぼしてしまうのだから、彼らのことはもう放っておこう」というのです。ガマリエルは、そのような彼の主張を、そのころ起こったチゥダとユダいう人の事例を上げながら述べる。

 このチゥダという人は、ヨセフスという1世紀の歴史家が記した『古代史』と言う書によりますと、どうやら自分のことをモーセかヨシュアと言った偉大な預言者に匹敵する存在であるかのように言っていたようです。そのチゥダの言葉を信じて多くの人たちが集まった。また、ユダという人物についてもヨセフスは書き記していますが、このユダは、イスラエルの民を奴隷化するローマ帝国に反乱を起こそうと人々を扇動していたようです。 
 この二人の人物は、神の名を掲げながら、その行動を起こした。しかし、そのチゥダもユダの試みも、結局ローマ帝国によってつぶされ、チゥダもユダの処刑されてしまった。ガマリエルは、それはチゥウがしたことも、ユダがしたことも神の名を使って行ったことであるが、実際は神から出てきたことではない。それは人間から出てきたことなのである。だから自滅した。同様に、使徒と呼ばれるナザレのイエスの弟子たちもまた「人間に従うよりは、神に従うべきである」と言って、イエス・キリスト様の教えを語り、イエス・キリスト様のことを伝えているが、それが神から出たものではなく人間からでたものであるならば必ず自滅する。

 逆に、もし使徒たちがいま行っていることが神から出たものだとしたら、それを阻止しようとする私たちが神を敵に回すことになる。そんなことをしたら滅ぼされるのは私たちだ。だから、ここは使徒たちがしていることを静観していようとガマリエルは言うのです。
それは、神が神であるならば、神がなさろうとすることは必ず実現するからです。なんだかんだといろいろあっても、最後の最後には神の御心がなる。結局最後に勝つのは神なのだ。それは極めて冷静な意見であり、ものの見方です。それは、極めて信仰的なものの見方であり、考え方であって間違っていない。そういって良いだろうと思います。

けれどもみなさん、私は、このガマリエルの言葉を読んだ時なんとも不思議な感じがした。そうでしょ、みなさん。だって、このガマリエルは、あのイスラエルの指導者たちがイエス・キリスト様を捕らえ殺そうとしてサンヘドリンの議会に引き出し裁判にかけ、更には民衆を扇動して、実際の十字架に磔にして殺させたとき、そのイスラエルの指導者たちのただ中にいたのです。だったらなぜ、その時に、同じことを言わなかったのか。私は不思議に思った。
 おそらくガマリエルは、イエス・キリスト様の裁判の時には、他の指導者たちと同じようにイエス・キリスト様を殺すことに同意していたのでしょう。けれども、今、ここで、そのイエス・キリスト様の弟子である使徒たちを裁き殺そうと議会がしている中で、ガマリエルはかつての時とは同じではないのです。冷静に、落ち着いて信仰的に物事を判断しようとしている。いったい何が彼を変えたのか。

 みなさん。あのイエス・キリスト様がイスラエルの民の指導者たちによって裁判にかけられた時から、この使徒たちが裁判にかけられる間に起こった出来事は、イエス・キリスト様の十字架の死です。それはイスラエルの指導者たちにとっては、一見、権力の勝利と思われるような出来事です。しかし、イエス・キリスト様の弟子たちは、その十字架で死んでイエス・キリスト様が復活し、天に昇ったと言って人々に語り聞かせ、イエス・キリスト様の名によって人々を癒し、不思議な業を行い、人々の心を再びイエス・キリスト様に向けている。
ガマリエルは、そのことを見ているのです。「父よ彼らをおゆるし下さい、彼らは何をしているのかわからないでいるのです」といって死んでいかれたイエス・キリスト様のお姿を見た。そして、そのように死んでいったイエス・キリスト様の語った教えは、弟子たちに受け継がれ、決して滅んでいない。またイエス・キリスト様の業も滅んではいない。確かにイエス・キリスト様は十字架に架かって死んだのですが、決して滅んではいないのです。その事実を。彼はイエス・キリスト様の証人となった弟子たちの姿を通して見ている。そしておそらく彼は考えたのでしょう。いったいこれは何事かと。そして、自分たちがしてきたことを振り返り、顧み、反省していたのではないか。私はそう思うのです。

みなさん、私は先日、アジア神学大学院の牧開学博士課程の学びを終え、論文を提出し、受け入れられました。この論文を書き始めた当初は、徳善義和と言うルター研究の日本における第一人者の方から指導を受けていたのですが、その徳善先生が、神学と言うことについて次のように述べておられました。

神学とは、神の自己啓示としての神の言葉に聞き従って、『我信ず』という信仰の立場で、キリスト教信仰を学問的に研究する、教会の学である。神学は、教会の宣教のために存在し、これに奉仕するまた神学は、教会の宣教を、聖書と信仰告白とに立って、批判的に検証する

 ちょっと難しい言い回しですが、みなさん、この神学を定義する徳善先生の言葉が私の心の琴線に触れた。とりわけ「『我信ず』という信仰の立場でキリスト教信仰を学問的に研究し、聖書と信仰告白に立って批判的に検証する」と言う言葉に引きつけられたのです。「避難的に検証する」とは、自分自身の持つ信仰を信仰者として問いなおすという姿勢です。つまり、神学とは、絶えず自分自身の信仰を振り返り、顧みて反省することだというのです。

 みなさん、神学は教会の宣教をただしく導くためにあると言われます。それは、神を信じる民が、キリストを証しするものとして正しく生きるためにあるということです。

 みなさん、私たちは過ちも多く、失敗も多くある。間違えることなんてしょっちゅうです。だからいつも、自分の在り方や行動、考え方を振り返り、それを反省する。それが信仰が健全に守られるために必要なことなのです。それはそうですよね。みなさん、反省の内信仰なんて怖いと思いませんか。
 間違ってもいい、失敗してもいい、そこでいったん立ち止まって、自分自身の信仰を顧み、問い直していく。それが反省するということです。だとすれば、反省しない信仰なんていやですし、反省の内信仰はとても怖い。

 ガマリエルは、イエス・キリスト様を裁判にかけ、十字架で死なせた日から、この日まで、イエス・キリスト様の証人として、イエス・キリスト様を証しし伝えているの弟子たちの姿を見ながら、自分のしたこと、考えてきたことを顧み、問うていたのだろうと思うのです。しかも、彼は旧約聖書に精通した律法学者です。ですから旧約聖書を思い巡らしながら、神からでた業と人間から出た業と言うことについて考えていたのでないかと思う のです。だとしたら、彼はいったい旧約聖書のどの個所を思い起こしていたのだろうか。
 そんなことを考えていますと、私はふと、先ほど司式者に読んだいただいたエステル記を思い起こしていたのではないかとそんな思いがしました。

 みなさん。このエステル記と言うのは、ユダヤ民族が滅ぼしつくされてしまうかもしれないという民族絶滅の危機の出来事が記されている物語です。それは紀元前盛期半ばから後半にかけて今の中近東を支配していたペルシャ帝国の王であったクセルクセス王の時代におこりました。
そこには、クセルクセス王の一番の側近であるハマンという人物が出てきます。このハマンが、モルデカイと言うユダヤ人が自分に敬意を払わなかったというので怒り、その怒りが高じてモルデカイはもちろん、ユダヤ民族すべてまでをも絶滅しよう計画が企てられるのです。まさにユダヤ民族抹殺計画が進められていく。

実は、私はこのエステル記を読むとき、いつも心が痛むのです。エステル記には、極悪人はハマンが出てくる。そう思うと、似たような名前である「濱」という名字をもつものとして、自分が攻められるような気がして心が重くなると同時に、自分は本当に罪びとなのだと、自分自身の信仰を顧み反省するのにもこのエルテル期は大変役立っているのですが、ともかく、この極悪人は万によって、ユダヤ民族の命は風前の灯となるのです。そのとき当時クセルクセス王の王妃のひとりとなっていたのが、あのユダヤ人抹殺計画の原因となったユダヤ人モルデカイの娘エステルです。
そのエステルによって、この民族絶滅の危機を逃れることが出来事のですが、先ほど司式の兄弟にお読みいただいたエステル記61節から11節は、まさにその危機的状況を脱することができた場面が書かれている箇所です。

 みなさん、エステル記と言う箇所は聖書の中にあって、唯一神と言う名が出てこない書です。しかし、神と言う名前は出てきませんが、この物語全体を通して、神は隠れた神としてイスラエルの民を守り、支えておられるのです。そして、ハマンと言う一人の人間の計画として出たユダヤ人抹殺計画をつぶし、その計画を立てた張本人のハマンを滅ぼされたという神の勝利の物語がこのエステル記と言う物語なのです。
 そういったわけで、あの使徒行伝5章に登場するガマリエルはこのエルテル期の物語を読み、思い巡らしながら、自らの信仰の在り方を問い直し反省したかのではないかと思ったわけなのですが、それがあっているかどうかは別にして、ガマリエル、それまでもの自らの在り方を顧み、問い直すという反戦を通して、人間から出た業は滅んでいき、最後には神の御心がなされるのだから、ここは、イエス・キリスト様の弟子たちを殺してしまうという過激な行動に出るのではなく、神がどうなさるのかを見守っていこうという冷静な、そして信仰的な判断ができたのです。

 その結果どうなったのか。聖書は、使徒たちは、御名のために恥を加えられるに足る者とされたことを喜びながら、議会から出てきて、毎日、宮や家で、イエスがキリストであることを、引きつづき教えたり、宣べ伝えたりしたと伝えています。イエス・キリスト様の教えと業は決して滅びなかったのです。それだけではありません。今日では何十億という人がクリスチャンとして神の言葉に耳を傾け、イエス・キリスト様を信じ生きているのです。
まさに、先ほどの新約聖書ヨハネによる福音書15節に「闇は光に打ち勝たなかった」とあるように、イエス・キリスト様は、「この世」という人の世に打ち勝たれたのです。だからこそ、イエス・キリスト様の教えは、人々の心を捉え、人々を神の国へ招いてきたのです。
ガマリエルは、最後に神の御心が成るということを自らの信仰を顧み、聖書に問うことで知りました。自分の信仰を反省することで最後に神は勝つという信仰の姿勢に至ったのです。それによって彼は、彼の言葉通り神に敵対するものとならずに済んだのです。

みなさん、信仰を顧み、反省する。それは、私たちが神の近づくための大切な営みです。私たちは失敗するし、過ちも貸します。間違うことも多々あるのです。しかし、私たちが、絶えず聖書の言葉に立ちながら自分の信仰の在り方、ものの見方、考え方を検証していくならば、私たちは神へと近づいて行くのです。神の子として神の子らしくなっていく。ですから、反省ある信仰生きて行きたいと思うのです。お祈りしましょう。