※ 今週は機材の不都合のため説教の画像はありません。原稿のみの公開になります。
2019年4月第3主日復活祭記念聖餐式礼拝説教「もはやここにはいない」 2019.4.21
旧約書:イザヤ記40章27節~31節(旧約聖書p.998)
福音書:マタイによる福音書28章1節~10節(新約聖書pp.49-50)
使徒書:ペテロ第一の手紙5章6節~11節(新約聖書p.371)
2019年の復活祭の朝を迎えました。私たちは受難週の一週間を主の十字架の苦しみに思いをはせつつ過ごし、この朝、主がよみがえられたことを覚え、喜びをもってこの礼拝を迎えました。その復活祭の記念礼拝の説教の箇所として、マタイによる福音書28章1節から10節を取り上げたいと思っています。とりわけ、5節、6節で語られたみ使いの言葉
5:「恐れることはない。あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしにわかっているが、6:もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。
と言う言葉に着目したと思っています。そして、この言葉を私たちの心の中で深く味わいたいと思うのです。
このマタイによる福音書の28章の1節から10節までは、イエス・キリスト様が十字架に付けられ、墓に葬られた後、安息日の明けた週の初めの日の明け方に起こった出来事が記されています。ユダヤ人にとって安息日は金曜の日没から土曜日の日没までですから、週の初めの明け方というのは、日曜日の朝の早朝と言うことになります。
その日曜日の朝まだ早いころ、マグダラのマリヤとほかのマリヤとがイエス・キリスト様の墓を見にやって来ました。マルコによる福音書やルカによる福音書を見ますと、どうやら、この二人のマリヤはただ墓を見に来たというだけでなく、イエス・キリスト様のご遺体に葬りのための香料と香油を塗りに来たようです。
イエス・キリスト様が十字架に架けられた10時ごろであり、息を引き取られたのが3時ごろですから、おそらく、そのご遺体が下ろされ引き渡されたときにも、日没が近づいた時間ではなかったと思われます。そのようなわけで、葬りの際にご遺体に香料と香油を縫って弔うということができなかったのでしょう安息日が明けた週の初めの早朝に、その弔いをするために、二人のマリヤがイエス・キリスト様の墓のところにやって来た。
そのとき、大きな地震が起こり、イエス・キリスト様の墓の、ふたをしていた大きな位置が脇に転がされ、墓の口がぱっくりと開いていた。そして、その転がされてた岩の上に純白の衣をまとい稲妻のように輝く神のみ使いが座っていたというのです。
その出来事に遭遇した人々は、大きな恐れに包まれます。それは、大きな地震の揺れを経験したということもあるでしょう。まらた、天のみ使いが降って来たという出来事を目撃したということもあるでしょう。彼らは、恐れおののき、震えあがって死人のようになっていたというのです。
そのような状況の中で、天より下ってきたみ使いが、二人のマリヤに向かって「恐れるな、十字架お係になったイエス・キリスト様はここにはもういない。よみがえられたのだ」と言うのです。「ここのはもういない」という「ここ」は、墓です。よみがえられたイエス・キリスト様はもう墓にはとどまっておられない。
みなさん、私はこの「イエス・キリスト様はもはや墓にはおられない」と宣言するみ使いの言葉は、何と味わい深い言葉なのだろうかと思うのです。「イエス・キリスト様はもはや墓にはおられない」。
何年も前の話ですが、ある牧師がご自分の教会に掲げられている十字架にイエス・キリスト様の像かかげられていないことを次のように説明していました。それはこのような説明です。「十字架は、私たちの主、イエス・キリスト様が死なれた場所です。イエス・キリスト様は十字架の上で死にそして蘇られました。だから、もはや十字架の上にイエス・キリスト様はいないのです」。
とても印象的な言葉でした。たしかに、十字架はイエス・キリスト様の死に場所であり、痛みの場所であり苦しみの場所です。しかもその苦しみは、律法学者や祭司長たち、そして民の長老といった人々から加えられた極めて不条理な苦しみなのです。その不条理な苦しみをイエス・キリスト様はご自身の死によって終わらせたのです。
そのイエス・キリスト様がその苦しみの場である十字架の上にはおられない。その通りだ。そして、このイエス・キリスト様はもはや苦しみの場である十字架の上にはおられないというその事実は、イエス・キリスト様がもはやここにはおられない。墓にはおられないということを相通じると思うのです。イエス・キリスト様の墓は、あの不条理な死を人々の心にいつまでも留めます。母マリヤの悲しみと苦しみは、イエス・キリスト様の墓を見るたび、心によみがえってくるでしょう。マグダラのマリヤにとっても、またイエス・キリスト様の弟子たちにとっても、それは同じです。イエス・キリスト様の墓は、イエス・キリスト様を愛する者にとって、彼らをいつまでも悲しみに留め置き、場合によってはイエス・キリスト様を十字架に付けた者たちに対する憎しみを喚起し、持たせ続ける者になるかもしれない場所なのです。
イエス・キリスト様が死んで葬られたその墓の中で、起き上がり、立ち上がってそこから去って行かれた。そしてそこにはもうおられないのです。もはや、苦しみや悲しみを、そして憎しみを心にとどめ思い起こさせる場にはおられないのです。痛みと苦しみの場から立ち上がり、悲しみの場から立ち上がり、そこを立ち去られたイエス・キリスト様は、もはや苦しみや悲しみや憎しみを思い起こさせる場所にも留まっておられない。そこから立ち去って行かれるのです。イエス・キリスト様の復活の物語は、そのことを私たちに伝えている。
そして、この痛みと苦しみの場、悲しみと憎しみを心に思い起こさせつの場に最早おられないイエス・キリスト様は、弟子たちをガリラヤの地で待ち、迎えてくださるのです。聖書には、その喜びのメッセージを伝えに行こうとする二人のマリヤは「恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」と伝えています。不思議な表現です。「恐れながらも大喜び」。大喜びなら恐れなどないだろうと思いますし、恐れがあったなら喜べない。けれども聖書は「女たちは恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」と言うのです。
いったい「恐れながらも大喜び」すると言った心境や状況はどういったものか。私にはよくわかりません。いや、彼女たちが大喜びしたのはなんとなくわかる。それはイエス・キリスト様がよみがえり、もはや苦しみの場からも、悲しみの場からも解放され、そこにいないからです。しかし、彼女たちはなぜ恐れなければならないるか。それがよくわからない。もちろん、聖書に答えがあるわけでもない。だから、黙想しながら考え想像するしかありません。そしてこの言葉を想い黙想していくと、彼女が依然として恐れの内に在るのは、彼女たちが、未だ「この世」にある苦しみや悲しみや憎しみの場に縛られているからではないか、そのように思えてきたのです。
イエス・キリスト様は苦しみと悲しみの場から立ち去り、「ここにはもうおられない」ないのに、彼女たちは苦しみと悲しみと憎しみの場である「この世」と言う場に立って「ここにまだいる」のです。つまり、死からのよみがえりである復活の物語は、彼女たちにとってはイエス・キリスト様の見に起こった出来事ではあっても、自分たちの出来事ではなく自分たちの物語ではないのです。
その二人のマリヤに、イエス・キリスト様は出会って下さり「平安あれ」といって下さるのです。「平安あれ」とは「恐れなくていいよ」と言うことです。そうやって「恐れなくていいよ」と語りかけることで、イエス・キリスト様は、彼女たちもまた「この世」にある悲しみや苦しみや憎しみから立ち上がり、その悲しみの場、苦しみの場、憎しみの場から立ち去っていくことができると語るのです。
もちろん、私たちは、「この世」という世界の中にあって「ここにまだいる」存在です。ですから、「この世」にある限り、心をかきむしるような苦しみや悲しい出来事に合うこともあるでしょう。昨日も池袋で起こった交通事故のニュースを耳にしました。私はそのニュースを聞いて、心が張りさせそうになり、押しつぶされそうになった。そのような思いの中で、どうやってイエス・キリスト様の復活を祝うイースターの喜びのメッセージを語ればよいのだろうかと、何とも苦しい思いになった。
しかし、あの「あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしにわかっているが、もうここにはおられない」という聖書の言葉が、「イエス・キリスト様がよみがえり、墓から立ち去って行かれたがゆえに、私たちもまた、その悲しみの場、苦しみの場にいつまでも留めておくことなく、そこから再び立ち上がっていくことができるのだ」とそう私たちに語りかけてくる。
それは、旧約聖書の時代から神が私たちに語りかけているメッセージです。そして、先ほどのイザヤ書40章27節から41節の御言葉は、まさにそのようなメッセージがそこに込められていると言えるでしょう。そこにはこう言われている。
あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果の 創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。29:弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。30:年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。31:しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。
このイザヤ書40章は、イスラエルの国がバビロニア帝国によって滅ぼされ、その民はバビロニア帝国に奴隷として連れていかれるという絶望的な状況の中置かれることになるが、神がそこから再び立ち上がらせてくださるというメッセージです。そこには、奴隷とされ異国の地に引いて行かれるという悲しみの現実と苦難の現実がある。苦しみ苦悩する生活があり、痛みがある。それは避けて通れない「この世」に生きるイスラエルの民の現実なのです。
けれども、みなさん。預言者イザヤは、イスラエルの民がイスラエルの民、すなわち神の民であるがゆえに、その苦しみや悲しみや苦悩から再び立ち上がる力を神が与えてくださるというのです。力が与えられるということは、与えられるのが力ですから、立ち上がり翼を張ってのぼるのは、イスラエル民のひとり一人です。神は私たちひとり一人をそのようなものにしてくださると約束するのです。
その主を待ち望む者、つまり新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができるものとなった姿、走っても疲れることなく、歩いても弱ることはないものとなった姿が、イエス・キリスト様の復活の姿の中に現れ出ている。
みなさん、私たちは本当に苦しみや悲しみや痛み、そして憎しみに満ち溢れた「この世」と言う世界に生きています。だから、心が押しつぶされそうになることが私たちを襲ってくる。悲しみに心が引き裂かれるようなことに出会っていくのです。そのことを想うと、生きて行くことに恐れを感じせずにはいられない、そんな思いになります。
けれどもみなさん、聖書はそのような私たちによみがえられた主イエス・キリスト様のお姿を指し示すのです。そして、イエス・キリスト様の立ち去った墓、苦しみと悲しみとが詰まった墓を見せ、「ここには、もう主イエス・キリスト様はおられません」と語りかけてくる。それは、私たちもまた、この悲しみの場、苦しみの場に縛り付けられるのではなく、そこから立ち上がり、「もう、ここのはいません」と言われる者になることができるという神の約束なのです。
みなさん、先ほど司式者にお読みいただいたペテロ第一の手紙5章において、聖書は「この世」は、神に敵対する悪魔が、ほえたける獅子のようになって私たちを食い尽くそうとしている世界であると言います。思い煩いに心が掻きむしられるような世界だというのです。そして、だからこそ、神の力強い御手のもとに身を置きなさいと言うのです。そして自分自身を神に委ね、神を求めていきなさいと言う。それが、私たちの心を押しつぶし、食い尽くそうとする悪魔に立ち向かうことだというのです。
みなさん、聖書は、神を信じればすべてがうまくいくよなんて言わない。悲しみも苦しみもなくなるなんて決して言わないのです。苦しみもある、悲しみもある。事実、このペテロの第一の手紙は、「全世界にいるあなたがたの兄弟たちも、同じような苦しみの数々にあっているのです」と言っている。
けれども、そのような苦しみになかにいるからこそ、「あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れてくださった神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけてくださるであろう」と言うのです。
この「キリストにある永遠の栄光に招き入れてくださった神」というのは、イエス・キリスト様を復活させてくださった神と読み替えてもよろしいだろうと思います。つまり、このペテロ第一の手紙5章6節から11節もまた、イザヤ書40章27節から31節、マタイによるよる福音書28章1節から10節と共に、悲しみの場、苦しみの場に置かれた者が、そこから立ち上がり、そこを去り「ここにはもうおられません」と言わることができるように神がそのの力を与えてくださるという約束が繰り替えれているのです。
みなさん、主イエス・キリスト様の復活の出来事は、そのことに対する神ご自身の、そして主イエス・キリスト様の証です。その主イエス・キリスト様が、弟子たちに、ガリラヤで待っていると言うメッセージを語られたように、私たちのも、「あなたを私の下に招いているよ」と語りかけているのです。お祈りしましょう。