聖書
・民数記 第3章5~10節
・マタイによる福音書 第20章1~16節
・使徒行伝 第6章1~7節
説教題 「 教会制度の始まり 」
‘19年 4月第一聖餐式礼拝(受難節第5章)説教題「教会制度の始まり」 2019.4.7
旧約書:民数記3章5節~10節
福音書:マタイによる福音書20章1節~16節
使徒書:使徒行伝6章1節~7節
今日の聖書個所は、エルサレムに建てられたもっとも古い原初の教会の中に、使徒という職制に加えて執事と言う職制が定められたいきさつが記されている箇所です。教会と職制、もう少し広く言うと神の民の群れと職制と言うものは、深く関わっています。
その職制が、旧約聖書においては、祭司職とレビ人、そしてイスラエルの民という形をとって現れ、新約聖書においては、使徒と7人の執事、そして教会の会衆と言う形となって現れ出ています。そして、それぞれがその職務が担うべき働きが与えられ、その働きをそれぞれが行っていったのです。
たとえば、先ほどの民数記3章5節に倣って言うならば、祭司職というのは幕屋、この幕屋は後に神殿と姿を変えていきますが、その幕屋で捧げられる犠牲を神に奉げ、神とイスラエルの民の狭間に立ってとりなしをするのがその役目でした。そしてレビ人は祭司がその勤めをしっかりとできるように幕屋で用いられる器具や器を管理する仕事を担いました。更にレビ人は、後の時代には、礼拝における賛美、今日(こんにち)で言うならば聖歌隊の役割を担うようになっていきます。つまり、祭司とレビ人がそれぞれの役割を担いながら、イスラエルの民の宗教儀礼が行われていったのです。
また、今日の説教の中心箇所である使徒行伝6章1節から7節において、2千年前のエルサレムに建てられたもっとも原初の教会に起こってきた職制は、使徒たちが「もっぱら祈りと御言葉の御用に当たる」ために、教会内に起こって来る様々な事柄に対処する役割を負う人間を選び、その働きを担ってもらうという目的から始まってまいりました。
ここで使徒たちが専念するという「祈りと御言葉の御用」というのは、平たく言えば、礼拝に関する事柄と言ってもいいでしょう。神を礼拝し、神の言葉を語り、延べ詠えていくこと、つまり教会の宗教的な側面、信仰的な側面の仕事を使徒たちが担い、それ以外の仕事を執事と呼ばれる人々が担うと言うのです。
例えば、このエルサレム教会に執事職が起こってきたきっかけは、ギリシャ語を使うユダヤ人が、ヘブル語を話すユダヤ人に対して、自分たちのやもめらが、日々の配給で、おろそかにされがちだという苦情が寄せられたことから始まっています。
みなさん。既にこれまでにお話ししてきたように、エルサレムに建て上げられたもっとも原初の教会は、皆が財産を持ち寄り、それを差し出して、それぞれの必要に応じて分け与えられると言った共同生活をしている共同体でした。そこで、食事の配分に不公平があるのではないかと言う苦情が起こったのです。
みなさん、このような案件は、今日でいうならば牧会的案件であると言えます。それは一人一人のクリスチャンをお世話するという牧会的な内容の事柄です。同時に、この問題は事務的案件でもあり財務的案件でもあります。それは、みんなが持ち寄り奉げた財産から、どれくらいのものを一日の食事にあて、それを誰にどれくらい配分するかと言うこと、つまり予算とルールを考え、取り決め、実際にそのようになされるように管理運営していくからです。
けれども、そのようにきちんと予算やルールを決めても、そこに不公平だという苦情が起こってくることがある。だから、執事と言う食味に当たる人は信仰と聖霊とに満ちた人でなければならないと言うのです。
みなさん、私はここでちょっと不思議に思った。執事の仕事が事務的・財務的案件であるとするならば、むしろ問われるのは事務的な能力ではないか。しかし、このエルサレムに建てられた原初の教会は、事務的な能力に関わるような資質は一切問わず、信仰と聖霊に満ちた評判の良い人を条件に執事を選び、任職しているのです。この場合の信仰は、先の3節で「そこで、兄弟たちよ、あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判のよい人たち七人を捜し出してほしい」とありますから、信仰的知恵に満ちた人と言うことでしょう。信仰的な知恵と聖霊に満ちた人を選び執事とすると言うのです。
なぜか。それは教会内に起こってくる事柄は、「この世」の在り方や考え方、また価値観で判断し解決されるのではなく、信仰的視点に立ち、聖霊なる神の導きに委ねながら解決していくものだからです。
例えば、ここで問題にされているのは、ギリシャ語を使うユダヤ人が、ヘブル語を話すユダヤ人に対して、自分たちのやもめらが、日々の配給でおろそかにされがちだという不公平が起こっているという苦情です。普通ならば、一人当たりの食事を配給する量を決めて、それに従って分けていけば問題は解決するように思いますが、おそらくそれでは問題が解決しないのでしょう。
しかし、教会は、「この世」とは異なる存在であり、「この世」の在り方での問題の解決の方法は、ふさわしいとは言い難いものなのです。ですから、教会内に起こって来る問題に対する教会的な解決の方法は、「この世」の一般的な知恵ではなく、信仰的なもの見方によらなければ解決しない問題であり、まら、それが現実になされるためには聖霊なる神の助けが必要なです。
私は、そのことを思い巡らしているとき、先ほど司式の兄弟にお読みいただきましたマタイによる福音書20章1節から16節でイエス・キリスト様が語られたたとえ話が心に浮かんできました。
この箇所は、ぶどう園の主人が、収穫のために一日1デナリで人を雇っってブドウの収穫にあたらせたという物語です。最初は朝早く数人の人を雇った。それでも人手が足りなくて、御昼どきにまた何人かを雇い、さらに3時頃、更には夕方と人数を増やしていって、収穫を終えた。そして、賃金の支払いの時に、朝早く来た人にも、夕方来た人にも同じように1デナリ支払ったという話です。
実は、私が以前PBAでラジオ牧師をしているとき、この箇所からショートメッセージをしたことがあります。その時の放送原稿は次のようなものでした。タイトルは「みんな同じ」というタイトルですが、つぎのような話をしたのです。
バーゲンとか、セールって言葉は、なんか魅力的ですよね。なんか聞くだけでなんだか得した気持ちになっちゃうでしょ。それでね、ある店が開店記念セールで、抽選会をやっていたんですよ。そのセールって言うのは、2000円以上の買うと一回だけ抽選できるっていうんです。
そうするとね、「2000円だけ買っても一回、でも、私、4万円も買ったのに、一回だけしか抽選できないなんて、なんか不公平よね・・・。」って声が聞こえてきました。確かに、「2000円だけ」でも、「4万円も」であっても、同じ1回しか抽選できないなんて、不公平な感じもしますよね。ところが、これと同じような不公平な話が聖書の中にもあるんです。
ある時、ぶどう園の主人が、その日働く労働者を雇いに、朝早く町に出かけていきました。そして、ひとりの人に「1デナリで今日一日働かないか」と声をかけたんです。1デナリというのは、2000年前のユダヤでは、一日の生活費に相当するんですね。当然、その人は、喜んでその仕事を引き受け、一生懸命働きました。でも、まだまだ人手が足りないものだから、その主人は、お昼頃にも、さらに夕方近くにも、別の人達を雇ってきたんです。
やがて、夜になり、働いていた人達に日当を払う時間がきました。主人は、後から雇った人から順番に、それぞれ1デナリづつを支払ってやったんです。すると、朝から働いていた人が、不満を言うわけですよ。「朝から働いた私と、ほんの数時間しか働ないあの人が、同じ給料なんて納得いかない。」ってね。ほら、あの「2000円以上で一回」の抽選に対する不平と同じですよ。ですから、彼らが不満を言う気持ちもわかります。働く者の側にしてみれば、とても不公平極なことですもん。
でも、考えてみるとね。「2000円以上で一回の抽選」という開店セールを考えた店の主人は、おそらく、2000円のお客さんにも、4万円のお客さんにも同じように感謝の気持ちを表したかったんでしょうね。だから同じにしたんだと思います。
同様にぶどう園の主人は、朝早く雇った人も夕方の人も、生活する為には一日1デナリが必要だって、同じように彼らの生活に気を配ってあげたんです。買い手や労働者が自分の損得を考えれば不公平に見えることも、売り手や雇い主の思いやりや心づかいから考えれば、みんなが同じだったんです。
実はね、このぶどう園の主人は、神様のことなんです。神様は、自分に役に立つかどうかで、差別するお方ではありません。むしろ、すべての人に、心づかいをしてくださるお方なんです。そして、その中のひとりに、あなたちゃんと入っている。
開店セールの抽選会も、抽選に参加しなければ、賞品を手に入れるチャンスすら得られませんよね。同じように、せっかくの神様のお心使いも、「いらない」と拒否してしまえば自分のものにはなりません。そして、神様はこの1デナリの祝福をあなたに与えたいと願っておられます。ですから、ぜひ、この祝福を、あなたのものにしていただきたいんですね。
みなさん、これが神の知恵です。葡萄畑での労働、それは肉体を使う労働ですから、年齢や体力によって働ける量はおのずと違ってくる。屈強な若者は力も体力もありますから炎天下のもとでの長い時間でもその労働に耐えらえるでしょう。だから、朝早くから雇われ仕事にありつける。しかし、年を取って体力が落ちてきたもの、あるいあ若くてもか細い弱々しいものは一日中働けないかもしれない。そういったいろいろな人を全部ひっくるめて、神は一日1デナリという必要なものを与えてくださるのです。
教会にはいろいろな立場や考え方の人がいます。いて当然ですし、そのような色々な立場や考え方の違う人がいるということはその教会が健全な教会だということです。しかし、同時にいろいろな立場や考え方の違いがあれば、そこにいろいろな問題が起こって来るということも当然起こって来る。
そのような問題を解決するのは、あの1日1デナリの賃金を支払ってやった農夫に譬えられる神の憐れみと愛に満ちた知恵なのです。教会は、そのような信仰的な知恵で運営され、この世の知恵がそんなことはできないと思われるような問題も、聖霊に導かれて乗り越えていくところなのです。
みなさん。そのような教会と言う場所に、みなさんは選ばれ、呼び集められ、そしてみなさんお一人お一人が信徒職という職務に召されている。私は私で牧師職と言う職に召され、「御言葉と祈り」に携わる職に任を受けています。
みなさん、私はもう20数年前、牧師になった時に一つの牧師としてのポリシー建てました。それは、依頼された仕事は、特別な理由がない限り断らず引き受けるということです。そのようなわけで、今年、二つの職務を教団から依頼されました。そのかわり、期限付きで一つの職務がお休みになった。ですから、教団の仕事が一つ増えました。またその枝牧師は、教団と教区の仕事で三つも新しい職務が増えました。
私たちは、これらの職務を引き受けるだけの能力も才能もないものです。しかし、ただ神にお従いし、神に知恵に委ね、聖霊なる神の導きに従いたいという信仰だけはある。その信仰に従って、それらの新しく増える仕事をお引き受けしました。それは、ホーリネス教団と言う神の教会、キリストの体なる教会を建て上げるためです。そのために、少しでもお役に立ちたいと願っているのです。
同じように、みなさんお一人お一人が、この小金井福音キリスト教会というホーリネス教団と言うキリストの体なる教会の肢体となる教会の信徒職に召されているのです。そのことをどうぞ心に覚えて下さって、共にこの小金井福音キリスト教会を築き上げる仕事を担っていた代替と願います。お祈りしましょう。
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