2019年4月14日日曜日

2019年04月14日 小金井福音キリスト教会 説教題「キリストは罪に勝利された」 

2019年04月14日 小金井福音キリスト教会 説教

聖書
・ヨシュア記 第6章15節~22節
・ヨハネによる福音書 第16章29節~33節
・ピリピ人への手紙 第2章1節~11節

説教題「キリストは罪に勝利された」


‘19年4月第2主日受難週聖餐式礼拝説教「キリストは罪に勝利された」   2019.4.14
旧約書:ヨシュア記6章15節~22節
福音書:ヨハネによる福音書16章29節~33節
使徒書:ピリピ人への手紙2章1節~11節

 今日は受難週を迎える礼拝です。その受難週礼拝をヨハネによる福音書16章29節から33節のお言葉からお取次ぎするようにと導かれています。とりわけ33節の「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」と言うお言葉を中心に、「キリストは罪に勝利された」という説教題で聖書を通して語りかける神の語りかけに耳を傾けたいと思っています。

 ともうしますのも、近年、イエス・キリスト様に十字架の死に対して、それが私たちの罪を償うために私たちに代わって神の裁きを受けたものであるという従来の理解に対して、いや、イエス・キリスト様の十字架の死は、そのような罪の償いということではなく、むしろ罪によって私たちを支配している「この世」に対する勝利なのだということが、いわれているからです。
 もちろん、イエス・キリスト様の十字架の死は、罪に対する裁きでもあります。しかしそれは、罪びとである私たちを裁くものではなく、私たちを支配している罪を裁くものであるというのです。そして、そのように私たちを支配する罪を裁くことで、私たちを罪の支配から解放したのがイエス・キリスト様の十字架の出来事であったと言う。

みなさん、このような理解は、私たち日本の福音派とよばれるグループの中では、まだ少数派です。しかし徐々にではありますが確かに浸透し始めている。そして、今日の聖書個所、ヨハネによる福音書16章33節に目をやりますと、そこには確かに、「イエスキリスト様の十字架の死は『この世』に対する勝利である」と宣言されているのです。

 このイエス・キリスト様の勝利宣言がなされているヨハネによる福音書16章29節から33節は、同じヨハネによる福音書の14章から続くイエス・キリスト様の告別説教と言われる箇所の最後に当たる部分です。
 そのイエス・キリスト様の告別説教は、14章1節の「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい」と言う言葉から始まります。つまり、イエス・キリスト様は、イエス・キリスト様に従って生きる弟子たちが心穏やかでなく心を騒がせるような事態に陥るということを見越して、この告別説教を語るのです。そして心の平安が奪われ心穏やかではいられなくなるであろう弟子たちに、

1:「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。2:わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。3:そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。4:わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている」。

 と言われるのです。つまり、あなたがたには安んじる場所が用意されている。それは父のみもとである。そしてすでにそれがどこであるか、そしてどうやってそこに行くのかをあなたがたは知っているというのです。ところが、弟子たちはそのイエス・キリスト様の言葉を聞いても何を言っておられるのかさっぱり見当がつきません。そこで、12弟子のひとりであるトマスは「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう」と問いかけ、ピリポは「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」といったピント外れにの見当違いなことを言い出すのです。

 そのような弟子たちに対して、イエス・キリスト様は14章から16章に渡る今日、イエス・キリスト様の告別説教と言われる話を話し始めるのです。その告別説教は、もうじき訪れるであろうイエス・キリスト様の死と復活、そして聖霊の降臨から再びイエス・キリスト様が来られる再臨に関してです。そのイエス・キリスト様の説教を聞いて、初めて弟子たちは

29:今はあからさまにお話しになって、少しも比喩ではお話しになりません。30:あなたはすべてのことをご存じであり、だれもあなたにお尋ねする必要のないことが、今わかりました。このことによって、わたしたちはあなたが神からこられたかたであると信じます」。

 と言うのです。でも、本当に分かったのかどうか。正直、私は疑問です。だって彼らは、イエス・キリスト様が捉えられ、十字架に架けられようとすると逃げ出し、ペテロに至っては、3度も私はイエス・キリストと言うお方と関係がないなどと言い、他の弟子たちも自分が捉えられるのではないかと恐れて、ドアを閉め部屋に閉じこもっていたというのです。そんな姿を見せられてならば、何がわかったのかと言いたくなるのです。
 でも、それでもなお、やはり弟子たちは何かがわかったのだろうなと思うのです。変な話だけれども弟子たちは「わかっていないけど分かっている」のです。「わかっていないけど分かっている」と言うのは矛盾した言葉です。でも、そういうことがある。

 みなさんは、小林和夫先生を知っておられるでしょう。その説教を聞いたことがあるという方は、この中に少なからずおられる。小林和夫先生の説教は不思議な説教で、その説教を聞くとなんか「わかった」と言う気になる。でも、実際にはその説教を構成している論理やその他もろもろのも難しいことはわっかったようでわかっていないのです。そして、実際はわかってはいない。しかし、それでも「神が私たちを愛して下さっている」とか「私たちを憐み恵んでくださっている」とは「私たちを清いものと言ってくださっている」と言うことは分かる。

 イエス・キリスト様も弟子たちも、そんな感じだったのだろうと思うのです。彼らは分かったと思った。でも実際は分かっていない。でも、イエス・キリスト様と一緒にいれば大丈夫、イエス・キリスト様にお任せすれば大丈夫と言うことだけは分かったのでしょう。そしてそれが心に刻まれた。だから、イエス・キリスト様の十字架の死という思いもよらない出来事に遭遇して、あたふたし、じたばたしたけれども、それでも復活の主と出会い、この14章の告別説教で語られた助け主なる聖霊をいただきながら、しっかりと立ち上がって行くことができたのです。それは、彼らがイエス・キリスト様が共にいて下されば大丈だということを、肝に銘じて知っていたからです。わかっていたからなのです。たしかに、彼らはキリスト者として生きて行く中で、様々な試練や苦難に合う。しかし、イエス・キリスト様は、十字架の死によって、すでに「この世」で打ち勝っておられるのです。それを、イエス・キリスト様の弟子たちは、十字架の死を目撃し、復活の出来事を目撃し、聖霊が自分たちのところに下って来るという経験を通して、確認し、確信したのです。

みなさん、イエス・キリスト様の十字架の死は、一見すると人の目には敗北のように見えます。先日、私共の娘の嫁ぎ先に、どこかの宗教団体が勧誘に来たそうです。娘のご主人が、その対応に当たったそうですが、その際とっさに、家はキリスト教ですからと言ったそうです。すると、「キリストは十字架で刑死したひとじゃないですか」と言われたそうです。確かにそうですね。イエス・キリスト様の十字架の死は刑死であり、とてもそれが勝利とは思えない。
ところが、先ほどお読みしたピリピ人への手紙2章1節から11節では、イエス・キリスト様が、神であられるのに、自分自身が空しくし、私たち人間と同じものとなり、一人の人として、十字架の死に至るまで神に従順に従われた、だからイエス・キリスト様は、すべての者の主となられるまでに高められたのだと言っています。つまり、十字架に死に至るまで神に従い抜いたそのイエス・キリスト様の生き方が、「この世」の支配を打ち破り、イエス・キリスト様を主とし、王とする神の国を打ち建てられたのだというのです。

みなさん、「この世」が私たちを支配するのは、罪の力によってです。聖書における罪は神を神としないということであり、神を求め、神に従って生きる生き方ではなく自分の欲に従って生きる生き方です。「この世」は、その私たちの欲に働きかけて、私たちをそのような生き方に導いていくのです。それが罪の力です。

しかし、イエス・キリスト様はそのような罪の力に打ち勝たれ、十字架の死に至るまで、神に従順に従われたのです。イエス・キリスト様の十字架の死は、そのイエス・キリスト様の徹底した、そして完全な従順の表れです。そこにおいては、私たちを神から引き離し、神に従うのではなく、自分の欲に従わせようとする罪の力はもはや打ち破られている。

みなさん、神に従順に従い、神の言葉に従って生きる生き方は、罪の絶大な力に打ち勝つのです。私たちは、そのことを、あの旧約聖書のヨシュア記6章29節から33節に見ることができます。

 この箇所は、イスラエルの民がエリコと言う町を攻め落したいわゆるエリコの戦いの物語です。モーセに率いられてエジプトを脱したイスラエルの民は、40年間荒野を放浪するという試練を通して、神に信頼し、神に従って生きる生き方を学びます。そしていよいよモーセから代替わりしたヨシュアによってヨルダン川を渡り、約束の地カナンで神の国を建て上げていくことになります。しかし、そこにはすでに先住民がいるのです。その先住民が暮らしている土地のただ中に、神の国を建て上げていかなければならないのです。そのためには、すでにカナンの地に住んでいる先住民と戦うという事態も起こって来る。その最初の出来事がエリコの街との戦いです。

 エリコの街は、高い城壁で守られた要塞です。その壁が切り崩されなければ、得るこの街を陥落させることは難しい。そこで神は、一日に一周エリコの街の周りを隊列をつくってぐるりと一周することを6日間つづけなさいと言う。そして7日目には、7週巡り、7周回ったら大声を上げろと言うのです。
 このようなことは、馬鹿げています。そんなことしたって何になるのか。愚かしいことのように思われます。でもイスラエルの民は、それが神が語られた言葉だから、たとえ愚かしいと思われても、その言葉道理にしたのです。すると、城壁が崩れたというのです。
 この物語など、まさに神に従順に従う者たちには、神が勝利をもたらしてくださるということを示す物語であると言えるでしょう。それが、イエス・キリスト様の十字架の死という死に至るまで神に至る従順な生き方が、罪の力を打ち破り、罪によって私たち人間を支配する「この世」に対する勝利の物語として再び繰り返され、完成するのです。

 この、イエス・キリスト様の勝利によって、私たちは「この世」に罪によって支配されるものではなく、イエス・キリスト様を主とする神の国で、神の恵みと愛に支配されて生きる者となったのです。だからこそ、イエス・キリスト様は、あの告別説教で「あなたがたは、私があなたがたを愛したようにあなたがたも互いに愛し合いなさいと言われる。ヨハネによる福音書15章12です。また、パウロはピリピ人への手紙2章1節から4節にかけて、互いに同じ愛の心を持ち、心を一つにしてイエス・キリスト様のようにへりくだり、他者のことを顧みなさいというのです。
 もちろん、私たちがイエス・キリスト様のように、十字架の死に至るまで、罪の力にて抗い抜き、神に従順になれるかと問われると、正直難しいと思います。けれども、難しいからこそ、イエス・キリスト様は人となり、私たちにできないことをしてくださったのです。そして、罪を打ち破り、私たちを罪の力から解放してくださったのです。

 みなさん、私たちは、今、そのイエス・キリスト様の十字架の死による罪の力に対する勝利に与っています。そして、罪の支配から解放されているのです。今日、この受難週を迎える礼拝において、そのことを心に覚え、主に感謝し、このお方こそ私の主であると告白する生涯を、神の国の「この世」での現れであると言われる教会で、共に歩んでいこうではありませんか。お祈りしましょう。

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