聖書
・申命記 第31章 23節
・マタイによる福音書 第28章 16節 - 20節
・使徒行伝 第5章 17節 - 32節
説教題 「 神が共にいてくださるのだから 」
‘19年 3月第4主日(受難節第3主日)
礼拝説教「神が共にいてくださるのだから」
2019.3.24
旧約書:申命記31章17‐24節
福音書:マタイによる福音書28章16-20節
使徒書:使徒行伝5章17-32節
受難節第3主日の礼拝を迎えました。今日の礼拝説教の中心となる箇所は使徒行伝5章17節から32節です。この箇所は、ペテロをはじめとする使徒と呼ばれるイエス・キリスト様の弟子たちが、イエス・キリスト様が十字架に磔られ、死なれ、葬られた後、三日目に死人の内から蘇られたあと、弟子たちに現れ、神の国のことを教えられた後、天に昇られ、聖霊が天から下ってきて弟子たちに下った後、弟子たちが互いに愛し合い尊ぶことをしながら教会を建て上げ、そしてイエス・キリスト様のことを述べ伝えていく中で起こった迫害の出来事について語られています。
みなさん、お気づきになられた方もおられるかと思いますが、今申し上げましたこと、すなわち「イエス・キリスト様が十字架に磔られ、死なれ、葬られた後、三日目に死人の内から蘇られたあと、弟子たちに現れ、神の国のことを教えられた後、天に昇られ、聖霊が天から下ってきて弟子たちに下った後、弟子たちが教会を建て上げていったこと」というのは、すべて先ほどみなさんと一緒にご唱和しました使徒信条に書かれている内容です。
この使徒信条は、私たちの信仰告白です。私たちクリスチャンが、神と人の前に何を信じ、何を述べ伝え、そしてどのような信仰に基づいて生きているかを告白する、それが使徒信条であると言って良いでしょう。つまり、彼らが神を信じ、イエス・キリスト様に対する信仰を告白していくとき、そこに迫害が起こって来る。
その現れが、この使徒行伝5章17節以降にしるされてます。それはまず、使徒行伝5章17節の「大祭司とその仲間の者、すなわち、サドカイ派の人たちが、みな嫉妬の念に満たされて立ちあがり、 使徒たちに手をかけて捕え、公共の留置場に入れた」と言う出来事から始まります。
大祭司やサドカイ派と言われる人たちは、いわゆる祭司階級であり、イスラエルの民の中にあっては政治的にも宗教的に指導的立場にある人たちで、言わば権力者です。その権力者たちから迫害を受け、公共の留置場に入れられ身柄が拘束されたのです。
しかし、神は、使徒たちが留置場に拘束されることを善しとはなさいませんでした。それは、神の言葉が語られ、イエス・キリスト様のことが述べ伝えられなければならないからです。人々にイエス・キリスト様のことが述べ伝えられ、人々が教会に加えられていくことを神は願っておられるのです。だから、夜になると、み使いをつかわしひそやかに弟子たちを牢から解放する。
みなさん、このイエス・キリスト様の弟子たちを牢から解き放つ解放劇はひそやかに行われた者ですから、彼らをとらえ留置場に入れた大祭司とその仲間の者であるサドカイ派の人々のあずかり知らないところで起こっています。それだけではない、留置場の戸口の立っていた門番さえも知らなかったと聖書は記しています。ですから、本当に誰も気づかれないように、ひそやかに弟子たちは解放されたのです。
しかし、そのようにひそやかに解放されても、彼らはイエス・キリスト様を述べ伝えることを止めて、身を隠し潜伏するようなことはしませんでした。それは、彼らが自分が何をしなければならないかがわかっていたからです。彼らは自分の使命が何であるかをちゃんと知っていた。それは、イエス・キリスト様の言葉を証しし、神の言葉を述べ伝えることでした。
みなさん、神の言葉は繋ぎ止められるべきものではありません。それは伝えられるべきものです。そして、イエス・キリスト様の弟子たち、とりわけ使徒と呼ばれる働きに召し出された者にとって神の言葉を伝えるということが第一の使命だったのです。
そもそも、使徒と言う言葉、ギリシャ語ではアポストロス(απόστολς)と言う言葉は、派遣されたもの、使者という意味を持つ言葉です。つまり、イエス・キリスト様を証しし、神の言葉を述べ伝える使命を負ってこの世に派遣されていくのが使徒と言う職務なのです。だから、かれらは神の御業によって解放されたあとも、エルサレムにあった神殿に出向いて行って、彼らに与えられた使命を全うする。
もちろん、そのような行為には危険を伴います。なにせ、彼らが公共の留置場に入れられたのは、イスラエルの民の指導者たちが、彼らが語りなすことの全てが癇に障り、嫌いだったからですから、当然、彼らが再び語り出したなら、同じように彼らをとらえ留置場に入れるであろうことは、十分に予測できるからです。
実際、彼らは再び捉えられて議会の場に引き出されています。この議会と言うのは、イエス・キリスト様を断罪した場です。その議会の場で大祭司は弟子たちに次のような言葉を投げかけています。5章28節です。そこにはこうあります。
あの名を使って教えてはならないと、きびしく命じておいたではないか。それだのに、なんという事だ。エルサレム中にあなたがたの教を、はんらんさせている。あなたがたは確かに、あの人の血の責任をわたしたちに負わせようと、たくらんでいるのだ。
「あの名を使って教えてはならないときびしく命じておいたではないか」というのは、
同じ使徒行伝の4章の出来事です。そこにおいても、祭司や、宮守がしら、そしてサドカイ人といった今回と同じ顔触れの面々が、神殿でイエス・キリスト様のことを伝えるペテロや他の弟子たちにいらだち、弟子たちのリーダー的存在であったペテロとヨハネをとらえ牢獄に入れたという出来事が記されています。そして、その際に二人に向かって「イエスの名によって語ることも説くことも、いっさい相成らぬ」と言って脅しているのです。
にもかかわらず、ペテロもヨハネも、そして他の弟子たちも誰一人としてイエス・キリスト様の名によってかたることを止めず、再び牢に入れられることになっても、なお語り続けるのです。それだけではありません。再び議会に引き出されて、「あの名を使って教えてはならないときびしく命じておいたではないか」と詰め寄られても、一歩も引くことなく、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい」と言い「わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」といって、イエス・キリスト様の証人として語り続けるというのです。
みなさん、この「わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」と言う言葉は重要です。それは、彼らがイエス・キリスト様のご生涯、とりわけイエス・キリスト様の十字架の死と復活の出来事の目撃者であるということを述べているからです。
そして、その目撃した出来事の中には、イエス・キリスト様が、まさに自分たちが立っているサンヘドリンの議会の場で、自分たちの目の前にいる大祭司やサドカイ派の人たちによって陥れられ、それがきっかけで十字架で殺されることになった出来事も含まれているのです。ペテロなどは、まさにその出来事の目撃者であった。
つまり、イエス・キリスト様と同じことが弟子たち起こってもおかしくないような状況がそこにある。そういった意味では、この使徒行伝5章26節から32節までに記されているイエス・キリスト様の弟子たちが置かれている状況は、かつてイエス・キリスト様が経験された状況と重なり合い、そのことを思い起こさせるような状況なのです。まさに命の危険を感じさせる場なのです。
けれどもみなさん、彼らはそのような状況にあっても、一歩も引くことなく、イエス・キリスト様の証人として、自分たちが目撃したことをつぶさに語るというのです。それは、彼らだけではなく、彼らと共に聖霊なる神が共にいて、彼らと一緒にイエス・キリスト様の証言をしてくれるからです。
聖霊なる神は、父から派遣された神の霊です。神ご自身である。その聖霊なる神が共にいてくださるということは、まさに神ご自身が彼らと共におられるということでもある。だから彼らは権力者の力も恐れないのです。神が共にいてくださるから、困難や試練があって怖くないのです。
いや、怖くないといったら語弊があるかもしれませんね。怖さは感じたかもしれない。むしろ感じてひて欲しいとさえ思う。なぜなら、私自身はその場に立たされたなら、きっと怖いと感じるだろうなと思からです。怖いと思っても、恐れずにいられる。恐れずに怖いともうことに向き合い、神が私に与えてくださった使命を全うする生を生きたいと思うからです。そしてそれは、神が共にいてくださるならば、わたしにも起こりうることなのです。
みなさん。聖書の中には、神を信じる者に対して「恐れるな」あるいは「おそれてはならない」と語りかける神の言葉が何度も出てきます。今回は、聖書のもともとの言葉であるへブル語とギリシャ語までは調べられませんでしたが、日本語に訳された聖書、例えば口語訳聖書で神が神を信じる者たちに向かって「恐れるな」あるいは「恐れてはならない」と言われている箇所をざっと数えてみますと68箇所ほどありました。
今日の礼拝の最初で招きの言葉として語られたイザヤ書41章10節の「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる」という御言葉もその一つです。
また、先ほど司式の兄弟にお読みいただいた旧約聖書申命記31章23節では、主なる神様が、イスラエルの民をエジプおトから救出したモーセにかわって新しいリーダーとなって、イスラエルの民を神が示す地であるカナンに導き入れ国を建設しようとするヨシュアに向かって「あなたはイスラエルの人々をわたしが彼らに誓った地に導き入れなければならない。それゆえ強くかつ勇ましくあれ。わたしはあなたと共にいるであろう」と言っています。
「強くかつ勇ましくあれ」と神が言われる言葉の背後には「恐れるな」という思いがある。そして神が、そのように「おそれるな、強く勇ましくあれ」とあえて言われるのは、そこに恐れがあるからです。
モーセと言う偉大な指導者の後継者に指名されたヨシュアにとっては、自分はちゃんとやれるだろうかと言う恐れもあったでしょう。また、これから新しい地に入って行き、そこでイスラエルの民のために国を興すとしても、そこには先住民がおり、その先住民と戦って土地を勝ち取らなければなりません。しかも、その敵となる先住民は、非常に強そうで勝てそうもないような相手なのです。その敵に立ち向かっていかなければならない恐れというものあったでしょう。
しかし、神は、そのヨシュアに「おそれるな、強く勇ましくあれ」と言われるのです。そしてそれは、神ご自身がヨシュアと共にていてくださるからだというのです。神ご自身が私たちと共にいてくださる。たとえ私たちが弱くても、神は何ものにも去って強いお方です。その神が私たちと共似てくださる。だから「恐れなくてもいい。強く勇ましくありなさい」と言われるのです。
そして、おなじことをイエス・キリスト様も言われる。新約聖書のマタイによる福音書28章16節から20節において、これからイエス・キリスト様を証しし、その教えを伝え、宣教していく弟子たちに、「見よ、私は世の終わりまで、いつまでもあなたと共にいるのである」と言われているのです。
この言葉、ペテロやヨハネをはじめとするイエス・キリスト様の生涯を目撃した弟子たちの心に深く刻み込まれたのではないかと思います。確かに、イエス・キリスト様は十字架に付けられて死に、葬られ、三日目に死人の中から蘇り、天に昇り全能の父なる神の右の座にお座りになりました。ですから、「見よ、私は世の終わりまで、いつまでもあなたと共にいるのである」と言われても、実際にイエス・キリスト様のお体が私たちと共に在るのではありません。
けれども、イエス・キリスト様は聖霊なる神を私たちのところに送って下さると約束してくださいましたそして、その約束通り、聖霊なる神が、私たちと共にいてくださるのです。この聖霊なる神が共にいてくださるということのゆえに、イエス・キリスト様の弟子たちは、迫害の中にあって怖さを感じることがあっても、それを乗り越えて行くことができたのです。
みなさん。あの旧約聖書のヨシュアのように、新しい世界、新しい状況に出ていくとき、不安や恐れが私たちの心に浮かんできます。また、迫害の中置かれたイエス・キリスト様の弟子たちのように、試みや試練が訪れたときにも、同じように恐れや不安が私たちの心を支配するでしょう。
でも、神は、そのような中にある私たちと共にいてくださるのです。みなさん。神は決して私たちを見捨てるようなお方ではありません。いつでも、どんな時でも私たちと共にて下さり、私たちを慰め、支え、「強く、勇ましくありなさい」といって、私たちに生きて行く力を与えてくださるお方なのです。そのことを心に覚えて、神と共に生きる者であって欲しいと願います。お祈りしましょう。
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