2019年08月25日 小金井福音キリスト教会 説教
【聖書箇所】
・イザヤ書 第56章3~8節
・マタイによる福音書 第15章21~28節
・使徒行伝 第8章26~40節
【説教題】
『 全世界に蒔かれる祝福の種 』
19年8月第4主日礼拝説教「全世界にまかれる祝福の種1」 2019.8.25
旧約書:イザヤ書56章3節~8節(旧約聖書p.1025-1026)
福音書:マタイによる福音書15章21節~28節(新約聖書pp.24-25)
使徒書:使徒行伝8章26節から40節(新約聖書pp.281-282)
皆さん、24億4千7百98万8千という数字が何の数字だか分るでしょうか。これは、東京基督教大学国際宣教センター日本宣教リサーチというところが調査した2016年の世界でキリスト教を信じている信者の方の数です。もちろん、これはカトリック、プロテスタント、正教会といったキリスト教の諸宗派を合わせての数字ですが、世界中で24億4千7百98万8千人の人がキリスト教を信じている。
これは、全世界で何らかの宗教を信じている人、つまり宗教人口の約32.9%にあたります。ですから、私は何らかの宗教を信じているという人の3人に一人はキリスト教徒ということになります。もちろん、これは世界の諸宗教の中では一番です。
では、1千4百55万という数字は何を指す数字だと思われますか。1千4百55万、これは世界中でユダヤ教を信じている方々の人口です。世界中に1千4百55万人のユダヤ教の方々がおられる。これは、全世界の宗教人口の0.2%になります。
みなさん、私はこの数字をもってキリスト教が最も優れているとか、世界で一番の宗教だというようなことを言おうとしているのではありません。数字が、その宗教が優れているかどうかを図る指標ではない。むしろ、キリスト教徒が世界の宗教人口の32.9%の24億4千7百98万8千人(訳54億5千万人)の信徒を抱えているのに、ユダヤ教徒が、わずか0.2%の1千4百55万人しかいないというところに着目して欲しいのです。そして、どうして、このような差があるのかということを考えてみたいのです。
なぜならば、キリスト教もユダヤ教も信じている神様は同じだからです。いえ、もともとの起源をたどれば、ユダヤ教の方がキリスト教より古く、キリスト教は約2000年前にユダヤ教を母体とし、ユダヤ教から分かれて生まれた宗教なのです。なのに、2000年が経った今、キリスト教徒ユダヤ教の間には、これほどの大きな数字の開きがある。これはなぜなのか。その理由はどこにあるのか。
それは、ユダヤ教が民族宗教だということです。ユダヤ教は原則、ユダヤ民族として生まれた人だけが信じる宗教なのです。もちろん、今も申しましたように、それは原則であり、日本人でもユダヤ教を信じることはできますが、しかし、基本ユダヤ教はユダヤ人だけのものという理解がありますから、ユダヤ人以外に伝道することもありませんし、伝道しようとも思わない。ユダヤ人の家庭に生まれた人たちだけに受け継がれていく。
それに対して、キリスト教は、国籍や民族と言ったものを問いません。むしろそれを乗り越えて伝え広がってきたのです。まさにキリスト教は世界に向かって宣教の業を繰り広げてきた。だから、全世界の宗教人口の32.9%、24億4千7百98万8千人という数にまで信じる人が広がっていった。いうなればユダヤ教がユダヤ人だけの民族宗教という殻の中に閉じこもっていたのに、キリスト教はその殻を打ち破って、もはや民族宗教ではなく世界宗教となっていったのです。そこに、24億4千7百98万8千人と1千4百55万人という差が生まれてきた。
しかし、ユダヤ教の中にも、その殻を破ることができるようなことは十分にあったのです。例えばそれは、先ほど司式の兄弟にお読みいただいた旧約聖書イザヤ書56章3節から8節です。そこには、こうあります。
3:主に連なっている異邦人は言ってはならない、「主は必ずわたしをその民から分かたれる」と。宦官もまた言ってはならない、「見よ、わたしは枯れ木だ」と。4:主はこう言われる、「わが安息日を守り、わが喜ぶことを選んで、わが契約を堅く守る宦官には、5:わが家のうちで、わが垣のうちで、むすこにも娘にもまさる記念のしるしと名を与え、絶えることのない、とこしえの名を与える。6:また主に連なり、主に仕え、主の名を愛し、そのしもべとなり、すべて安息日を守って、これを汚さず、わが契約を堅く守る異邦人は――
旧約聖書にあるイザヤ書というのは、イエス・キリスト様がお生まれになる大体800年ぐらい前の紀元前8世紀頃の人であったイザヤという人によって書かれたのではないかと言われていますので、当然、その時代にはキリスト教はありません。
ですから、ここで「主に連なっている異邦人は言ってはならない」という言葉は、今日のユダヤ教の原型となるユダヤ民族の宗教を信じている異邦人、つまり、ユダヤ人以外の人に向かって言われている言葉です。
そこで聖書は、こういうのです。「3:主に連なっている異邦人は言ってはならない、『主は必ずわたしをその民から分かたれる』と。宦官もまた言ってはならない、『見よ、わたしは枯れ木だ』と」。つまり、「私はユダヤ人ではないから、神様を信じることはできないとか、神様を信じることが赦されない」などとか言ってはならないというのです。
また、当時宦官という職についていた人は、神を礼拝することができないといわれてい
たのですがその宦官の人たちにも、「お前たちは枯れ木ではない」というのです。つまり、神にとってあなたがたは決して枯れ木のような役に立たない死んだような存在ではない。というのです。
そのように、神は、神は神を信じる人を特定の民族だけに限定し、特定の人たちを排除するのではなく、すべての人を神は受け入れ、愛し、いつくしむのだと言われている。それが、
4:主はこう言われる、「わが安息日を守り、わが喜ぶことを選んで、わが契約を堅く守る宦官には、5:わが家のうちで、わが垣のうちで、むすこにも娘にもまさる記念のしるしと名を与え、絶えることのない、とこしえの名を与える。6:また主に連なり、主に仕え、主の名を愛し、そのしもべとなり、すべて安息日を守って、これを汚さず、わが契約を堅く守る異邦人は――
ということなのです。それなのに、ユダヤの人たちは、異邦人たちをユダヤ教から排除し、自分たちの民族だけの宗教だとしてその殻の中に閉じこもってしまった。そのユダヤ教の堅い殻を打ち破って、あの旧約聖書イザヤ書56章3節から8節に記されてように、聖書の神を信じる信仰は全ての人に開かれており、すべての人を神は愛しておられるのだとして、全世界のすべての人に神を伝えて行ったのが、キリスト教だったということなのです。
そのことが端的に表れているのが、新約聖書マタイによる福音書15章21節から28節の物語です。
このマタイによる福音書15章21節から28節の物語は、イエス・キリスト様がツロとシドン地方に行かれた時に起こった出来事です。ツロとシドンというのは、フェニキアという国、それは現在のレバノンのあたりですが、そのフェニキアにあった都市の名前です。つまり、イエス・キリスト様がツロとシドン地方に行かれたということは、イエス・キリスト様が、異邦人の地である外国を旅していたということです。
当然、その異邦人の地に住んでいる人はユダヤ人ではない異邦人です。その異邦人の女性が、イエス・キリスト様のところにやって来手「自分の娘が悪霊に取りつかれて苦しんでいるので、あわれんで下さって、娘からその悪霊を追い出し癒してください。助けてください」と懇願するのです。
ところが、イエス・キリスト様は、その女性になのもお答えにならないのです。ところが、その女性が決してあきらめずに願い続け付きまといます。そしてあまりにも付きまとうものですから、とうとう弟子たちはイエス・キリスト様に「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。と願い出るのです
イエス・キリスト様の弟子たちは、その女性が異邦人の女性なので、その異邦人の女性がユダヤの人々を救うために来られた救い主であるイエス・キリスト様に助けを求めてこられても困るとでも思ったのでしょうし、また、イエス・キリスト様も相手にしないだろうと思っていた。だか「この女を追い払ってください。」というのです。
すると、イエス・キリスト様は、その弟子たちの言葉を待っていたかのように、弟子たちの言葉を聞いて、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」と言われるのです。それはまさに、弟子たちの気持ちを代弁する言葉でした。いや、ユダヤ教という堅い殻の中に閉じこもっていた当時のユダヤ人の気持ちを言い表すような言葉です。そしてそれは、ユダヤ人ではない異邦人である女性にはとても冷たい言葉として響いたでしょう。
しかし、それでもなお、その女性は、イエス・キリスト様に近づき、イエス・キリスト様を拝むようにして「私を助けてください」と願い求めるのです。その女性を「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」と突き放すのです。そしてそれこそが、当時のユダヤの人々が異邦人を犬に譬えながら見下している姿なのです。
けれども、その女性はなおも、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」といって、イエス・キリスト様の憐れみを求めるのです。それは、神というお方が、ユダヤ人という民族の神を超えて異邦人であっても憐れみを与えてくださるお方であるということを言い表す信仰の告白の言葉です。
イエス・キリスト様は、その言葉を聴かれて「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」といわれ、その異邦人の女性の娘をお癒しになった。それは悪霊に取りつかれていた娘を悪霊から解放なさったのです。
みなさん、この物語は、単に異邦人の女性の娘が悪霊から解放されたという話として聞いてはなりません。むしろ、この異邦人の娘を縛り付けていたのは、悪霊以上に、民族主義という硬い殻によって、神は異邦人など憐れむはずがないおいう先入観と偏見から異邦人の女性とその娘を、解放するわざなのです。
イエス・キリスト様が、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」とか「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」というような冷たい突き放すような言葉を吐かれたのは、当時のユダヤ人の中にある、いえ、私たち人間の中にすべからくある偏見や差別を生み出す冷たい気持ちをあぶりだす言葉です。
そして、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」と言うわれ、その異邦人の女性の娘を悪霊から解放なさることで、神は、そのような偏見や差別の中で抑圧さえ虐げられているものを憐み、受け入れてくださるお方なのだということお示しになっている。そのことを、このマタイによる福音書15章21節から28節の物語は、私たちに物語るのです。
みなさん、私たちは、どんなに人がから偏見の目をもって見られ、差別され、虐げられても、神は私たちを決して見捨てることはありません。確かに私たちは、「この世」にあっては、持っている能力や環境や様々なことで、さらには国籍や肌の色といったようなことで差別されたり、賤しめられたりすることがあります。
けれども、神は、決して私たちを分け隔てることなく、愛し、憐れんで下さるお方なのです。その神の愛と憐みを、皆さん、イエス・キリスト様はこのマタイによる福音書15章21節から28節の物語を通して、私たちに示しておられるのです。
そして、このイエス・キリスト様が示された神の愛と憐みが、今日の聖書の箇所、新約聖書使徒行伝8章26節から40節までの出来事に現れている。その使徒行伝8章26節から40節は、、キリスト教が世界宗教になっていく過程におけるもっとも古い出来事の一つです。それは、ピリポという一人のクリスチャンによってエチオピア人の女王カンダケという人の高官の人にピリポがキリスト教を伝えたという物語です。
その使徒行伝の8章26節の直前には、ピリポがサマリヤで伝道した物語が記されている。サマリヤという地方もユダヤ人からは偏見の目で見られ、蔑まれていた人たちです。その地で、イエス・キリスト様の教えとイエス・キリスト様を信じる信仰を伝える伝道は、大きな成果を収めます。
しかし、その大成功にピリポは留まっていないのです。そこからピリポはガザ地方に向かっていきます。サマリヤはイスラエルの国の中心であるエルサレムからは北方面にありますが、カザは聖書にもありますように南に下っていく方向、すなわちア古香方面に向かっていく途中にあるのです。
そのガザの地方に向かって生きのです。そこは、この使徒行伝の時代には荒れ果てた地であったと言われています。みなさん、伝道で大きな成果、つまり多くの回心者を得しようとしたら、荒れ果てた地は、そのような伝道には決して適した場所とは言えません。もし仮に、大きな教会を建てるという成果を上げることが伝道の目的なら、ガザと言った地は伝道の対象にはならない地域でしょう、
しかし、そのガザの地に、サマリヤで大成功を収めたピリポは出かけていくのです。なぜか。そこには、神を求めている一人のエチオピアの宦官がいたからです。
皆さん、先ほどイザヤ書56章について少しお話ししましたが、そこでは宦官という職は神を礼拝することを禁じられていたそういう立場であったと申しました。そう言った偏見の中に置かれていた宦官という職にある一人を救うの人のために、神はサマリヤで大成功を納めていたピリポを使わすのです。たった一人のために。
みなさん、それが、神の愛と憐みなのです。民族や、立場や、持っている能力や様々なもので虐げられ差別され、抑圧され、蔑まれるような世界に生きている私たちの、そのたった一人のために、その一人の人をために最も善きものをもって救いと神はなさる。
だから、父なる神は、神の最も愛する、そして大切な独り子であるイエス・キリスト様を、私たちのところに送ってくださったのです。それは、神が、私たちを愛し、憐れみ、受け入れてくださるお方なのです。みなさん。その愛と憐みで、神は私たちを愛して下さっているのです。そして、私たちを神の民として神の王国へ招こうとしてくださっているのです。ですから、その神の招きに答えて行きましょうね。お祈りします。