2019年8月25日日曜日

2019年08月25日 小金井福音キリスト教会 説教題『全世界に蒔かれる祝福の種』

2019年08月25日 小金井福音キリスト教会 説教

【聖書箇所】
 ・イザヤ書 第56章3~8節
 ・マタイによる福音書 第15章21~28節
 ・使徒行伝 第8章26~40節

【説教題】
 『 全世界に蒔かれる祝福の種 』

198月第4主日礼拝説教「全世界にまかれる祝福の種1」       2019.8.25
旧約書:イザヤ書563節~8節(旧約聖書p.1025-1026
福音書:マタイによる福音書1521節~28節(新約聖書pp.24-25
使徒書:使徒行伝826節から40(新約聖書pp.281-282)

 皆さん、2447988千という数字が何の数字だか分るでしょうか。これは、東京基督教大学国際宣教センター日本宣教リサーチというところが調査した2016年の世界でキリスト教を信じている信者の方の数です。もちろん、これはカトリック、プロテスタント、正教会といったキリスト教の諸宗派を合わせての数字ですが、世界中で2447988千人の人がキリスト教を信じている。

これは、全世界で何らかの宗教を信じている人、つまり宗教人口の約32.9%にあたります。ですから、私は何らかの宗教を信じているという人の3人に一人はキリスト教徒ということになります。もちろん、これは世界の諸宗教の中では一番です。

 では、1455万という数字は何を指す数字だと思われますか。1455万、これは世界中でユダヤ教を信じている方々の人口です。世界中に1455万人のユダヤ教の方々がおられる。これは、全世界の宗教人口の0.2%になります。

 みなさん、私はこの数字をもってキリスト教が最も優れているとか、世界で一番の宗教だというようなことを言おうとしているのではありません。数字が、その宗教が優れているかどうかを図る指標ではない。むしろ、キリスト教徒が世界の宗教人口の32.9%の2447988千人(545千万人)の信徒を抱えているのに、ユダヤ教徒が、わずか0.2%の1455万人しかいないというところに着目して欲しいのです。そして、どうして、このような差があるのかということを考えてみたいのです。

 なぜならば、キリスト教もユダヤ教も信じている神様は同じだからです。いえ、もともとの起源をたどれば、ユダヤ教の方がキリスト教より古く、キリスト教は約2000年前にユダヤ教を母体とし、ユダヤ教から分かれて生まれた宗教なのです。なのに、2000年が経った今、キリスト教徒ユダヤ教の間には、これほどの大きな数字の開きがある。これはなぜなのか。その理由はどこにあるのか。

 それは、ユダヤ教が民族宗教だということです。ユダヤ教は原則、ユダヤ民族として生まれた人だけが信じる宗教なのです。もちろん、今も申しましたように、それは原則であり、日本人でもユダヤ教を信じることはできますが、しかし、基本ユダヤ教はユダヤ人だけのものという理解がありますから、ユダヤ人以外に伝道することもありませんし、伝道しようとも思わない。ユダヤ人の家庭に生まれた人たちだけに受け継がれていく。

 それに対して、キリスト教は、国籍や民族と言ったものを問いません。むしろそれを乗り越えて伝え広がってきたのです。まさにキリスト教は世界に向かって宣教の業を繰り広げてきた。だから、全世界の宗教人口の32.9%、2447988千人という数にまで信じる人が広がっていった。いうなればユダヤ教がユダヤ人だけの民族宗教という殻の中に閉じこもっていたのに、キリスト教はその殻を打ち破って、もはや民族宗教ではなく世界宗教となっていったのです。そこに、2447988千人と1455万人という差が生まれてきた。

 しかし、ユダヤ教の中にも、その殻を破ることができるようなことは十分にあったのです。例えばそれは、先ほど司式の兄弟にお読みいただいた旧約聖書イザヤ書563節から8節です。そこには、こうあります。

3:主に連なっている異邦人は言ってはならない、「主は必ずわたしをその民から分かたれる」と。宦官もまた言ってはならない、「見よ、わたしは枯れ木だ」と。4:主はこう言われる、「わが安息日を守り、わが喜ぶことを選んで、わが契約を堅く守る宦官には、5:わが家のうちで、わが垣のうちで、むすこにも娘にもまさる記念のしるしと名を与え、絶えることのない、とこしえの名を与える。6:また主に連なり、主に仕え、主の名を愛し、そのしもべとなり、すべて安息日を守って、これを汚さず、わが契約を堅く守る異邦人は――

 旧約聖書にあるイザヤ書というのは、イエス・キリスト様がお生まれになる大体800年ぐらい前の紀元前8世紀頃の人であったイザヤという人によって書かれたのではないかと言われていますので、当然、その時代にはキリスト教はありません。

 ですから、ここで「主に連なっている異邦人は言ってはならない」という言葉は、今日のユダヤ教の原型となるユダヤ民族の宗教を信じている異邦人、つまり、ユダヤ人以外の人に向かって言われている言葉です。

 そこで聖書は、こういうのです。「3:主に連なっている異邦人は言ってはならない、『主は必ずわたしをその民から分かたれる』と。宦官もまた言ってはならない、『見よ、わたしは枯れ木だ』と」。つまり、「私はユダヤ人ではないから、神様を信じることはできないとか、神様を信じることが赦されない」などとか言ってはならないというのです。

また、当時宦官という職についていた人は、神を礼拝することができないといわれてい
たのですがその宦官の人たちにも、「お前たちは枯れ木ではない」というのです。つまり、神にとってあなたがたは決して枯れ木のような役に立たない死んだような存在ではない。というのです。

そのように、神は、神は神を信じる人を特定の民族だけに限定し、特定の人たちを排除するのではなく、すべての人を神は受け入れ、愛し、いつくしむのだと言われている。それが、

 4:主はこう言われる、「わが安息日を守り、わが喜ぶことを選んで、わが契約を堅く守る宦官には、5:わが家のうちで、わが垣のうちで、むすこにも娘にもまさる記念のしるしと名を与え、絶えることのない、とこしえの名を与える。6:また主に連なり、主に仕え、主の名を愛し、そのしもべとなり、すべて安息日を守って、これを汚さず、わが契約を堅く守る異邦人は――

 ということなのです。それなのに、ユダヤの人たちは、異邦人たちをユダヤ教から排除し、自分たちの民族だけの宗教だとしてその殻の中に閉じこもってしまった。そのユダヤ教の堅い殻を打ち破って、あの旧約聖書イザヤ書563節から8節に記されてように、聖書の神を信じる信仰は全ての人に開かれており、すべての人を神は愛しておられるのだとして、全世界のすべての人に神を伝えて行ったのが、キリスト教だったということなのです。

 そのことが端的に表れているのが、新約聖書マタイによる福音書1521節から28節の物語です。

 このマタイによる福音書1521節から28節の物語は、イエス・キリスト様がツロとシドン地方に行かれた時に起こった出来事です。ツロとシドンというのは、フェニキアという国、それは現在のレバノンのあたりですが、そのフェニキアにあった都市の名前です。つまり、イエス・キリスト様がツロとシドン地方に行かれたということは、イエス・キリスト様が、異邦人の地である外国を旅していたということです。

 当然、その異邦人の地に住んでいる人はユダヤ人ではない異邦人です。その異邦人の女性が、イエス・キリスト様のところにやって来手「自分の娘が悪霊に取りつかれて苦しんでいるので、あわれんで下さって、娘からその悪霊を追い出し癒してください。助けてください」と懇願するのです。

 ところが、イエス・キリスト様は、その女性になのもお答えにならないのです。ところが、その女性が決してあきらめずに願い続け付きまといます。そしてあまりにも付きまとうものですから、とうとう弟子たちはイエス・キリスト様に「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。と願い出るのです

イエス・キリスト様の弟子たちは、その女性が異邦人の女性なので、その異邦人の女性がユダヤの人々を救うために来られた救い主であるイエス・キリスト様に助けを求めてこられても困るとでも思ったのでしょうし、また、イエス・キリスト様も相手にしないだろうと思っていた。だか「この女を追い払ってください。」というのです。

 すると、イエス・キリスト様は、その弟子たちの言葉を待っていたかのように、弟子たちの言葉を聞いて、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」と言われるのです。それはまさに、弟子たちの気持ちを代弁する言葉でした。いや、ユダヤ教という堅い殻の中に閉じこもっていた当時のユダヤ人の気持ちを言い表すような言葉です。そしてそれは、ユダヤ人ではない異邦人である女性にはとても冷たい言葉として響いたでしょう。

 しかし、それでもなお、その女性は、イエス・キリスト様に近づき、イエス・キリスト様を拝むようにして「私を助けてください」と願い求めるのです。その女性を「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」と突き放すのです。そしてそれこそが、当時のユダヤの人々が異邦人を犬に譬えながら見下している姿なのです。

 けれども、その女性はなおも、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」といって、イエス・キリスト様の憐れみを求めるのです。それは、神というお方が、ユダヤ人という民族の神を超えて異邦人であっても憐れみを与えてくださるお方であるということを言い表す信仰の告白の言葉です。

 イエス・キリスト様は、その言葉を聴かれて「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」といわれ、その異邦人の女性の娘をお癒しになった。それは悪霊に取りつかれていた娘を悪霊から解放なさったのです。

 みなさん、この物語は、単に異邦人の女性の娘が悪霊から解放されたという話として聞いてはなりません。むしろ、この異邦人の娘を縛り付けていたのは、悪霊以上に、民族主義という硬い殻によって、神は異邦人など憐れむはずがないおいう先入観と偏見から異邦人の女性とその娘を、解放するわざなのです。

 イエス・キリスト様が、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」とか「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」というような冷たい突き放すような言葉を吐かれたのは、当時のユダヤ人の中にある、いえ、私たち人間の中にすべからくある偏見や差別を生み出す冷たい気持ちをあぶりだす言葉です。

そして、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」と言うわれ、その異邦人の女性の娘を悪霊から解放なさることで、神は、そのような偏見や差別の中で抑圧さえ虐げられているものを憐み、受け入れてくださるお方なのだということお示しになっている。そのことを、このマタイによる福音書1521節から28節の物語は、私たちに物語るのです。

みなさん、私たちは、どんなに人がから偏見の目をもって見られ、差別され、虐げられても、神は私たちを決して見捨てることはありません。確かに私たちは、「この世」にあっては、持っている能力や環境や様々なことで、さらには国籍や肌の色といったようなことで差別されたり、賤しめられたりすることがあります。

けれども、神は、決して私たちを分け隔てることなく、愛し、憐れんで下さるお方なのです。その神の愛と憐みを、皆さん、イエス・キリスト様はこのマタイによる福音書1521節から28節の物語を通して、私たちに示しておられるのです。

そして、このイエス・キリスト様が示された神の愛と憐みが、今日の聖書の箇所、新約聖書使徒行伝826節から40節までの出来事に現れている。その使徒行伝826節から40節は、、キリスト教が世界宗教になっていく過程におけるもっとも古い出来事の一つです。それは、ピリポという一人のクリスチャンによってエチオピア人の女王カンダケという人の高官の人にピリポがキリスト教を伝えたという物語です。

 その使徒行伝の826節の直前には、ピリポがサマリヤで伝道した物語が記されている。サマリヤという地方もユダヤ人からは偏見の目で見られ、蔑まれていた人たちです。その地で、イエス・キリスト様の教えとイエス・キリスト様を信じる信仰を伝える伝道は、大きな成果を収めます。

 しかし、その大成功にピリポは留まっていないのです。そこからピリポはガザ地方に向かっていきます。サマリヤはイスラエルの国の中心であるエルサレムからは北方面にありますが、カザは聖書にもありますように南に下っていく方向、すなわちア古香方面に向かっていく途中にあるのです。

 そのガザの地方に向かって生きのです。そこは、この使徒行伝の時代には荒れ果てた地であったと言われています。みなさん、伝道で大きな成果、つまり多くの回心者を得しようとしたら、荒れ果てた地は、そのような伝道には決して適した場所とは言えません。もし仮に、大きな教会を建てるという成果を上げることが伝道の目的なら、ガザと言った地は伝道の対象にはならない地域でしょう、

 しかし、そのガザの地に、サマリヤで大成功を収めたピリポは出かけていくのです。なぜか。そこには、神を求めている一人のエチオピアの宦官がいたからです。

 皆さん、先ほどイザヤ書56章について少しお話ししましたが、そこでは宦官という職は神を礼拝することを禁じられていたそういう立場であったと申しました。そう言った偏見の中に置かれていた宦官という職にある一人を救うの人のために、神はサマリヤで大成功を納めていたピリポを使わすのです。たった一人のために。

みなさん、それが、神の愛と憐みなのです。民族や、立場や、持っている能力や様々なもので虐げられ差別され、抑圧され、蔑まれるような世界に生きている私たちの、そのたった一人のために、その一人の人をために最も善きものをもって救いと神はなさる。


だから、父なる神は、神の最も愛する、そして大切な独り子であるイエス・キリスト様を、私たちのところに送ってくださったのです。それは、神が、私たちを愛し、憐れみ、受け入れてくださるお方なのです。みなさん。その愛と憐みで、神は私たちを愛して下さっているのです。そして、私たちを神の民として神の王国へ招こうとしてくださっているのです。ですから、その神の招きに答えて行きましょうね。お祈りします。

2019年8月18日日曜日

2019年08月18日 小金井福音キリスト教会 説教題「 sola gratia(ただ恵みによりてのみ)」

2019年08月18日 小金井福音キリスト教会 説教

【聖書箇所】
 ・イザヤ書 第52章1~6節
 ・マルコによる福音書 第3章28~30節
 ・使徒行伝 第8章14~25節

【説教題】
 「 sola gratia(ただ恵みによりてのみ)」


19年 8月第3主日説教「sola(ソラ) gratia(グラティア)(ただ恵みによりてのみ)」       2019.8.18
旧約書:イザヤ書521節~6節(旧約聖書p.1020
福音書:マタイによる福音書41節~11(新約聖書p.)
使徒書:使徒行伝814節から25(新約聖書pp.193-194)

 先週、私は東京キリスト教会で御用をいたしましたので、先々週の使徒行伝89節から13節からお言葉をお取次ぎさせていただいてから、丸2週間が開いてしまいました。その使徒行伝88節から13節には、シモンという魔術師が、様々な不思議な業を行ってサマリヤの人々を驚かしていたという出来事が記されていました。

しかし、聖書には、その魔術師シモンが行ったり不思議な業が何であったかに全く触れていません。私たちはそのことに着目し、同時に人々が、神の国とイエス・キリスト様の名について教えていたピリポの言葉を聞いた人々が続々とバプテスマを受けたという出来事に着目し、そこから、とかく目に映る衝撃的な出来事に目を奪われ、また心を奪われてしまいがちな私たちに、目に映るものではなく、神の言葉に耳を傾け生きることの大切さについて、思いをはせました。

 もちろん、なにか行いをするということ自体が悪いということではありません。神の国とイエス・キリスト様の名を伝えていたピリポも、汚れた霊につかれた人からその霊を追い出したり、中風の人を癒したり、歩けなかった人を歩けるようにしたりと、様々な業を行っていたからです。
 しかし、ピリポの行った業は、その業を通して人々がイエス・キリスト様というお方に目を向けさせ、神の言葉に向けさせるためのものでした。そこが、様々な不思議な業を行い、人々の関心を自分自身に向けさせていた魔術師シモンとの決定的な違いなのです。

 聖書はその魔術師シモンもまた、ピリポの語る言葉を聞いてイエス・キリスト様を信じ、ピリポの後をついて行ったと言います。そして、ピリポが数々のしるしやめざましい奇跡をおこなうのを見て驚いたと言うのです。そして今日の聖書箇所の使徒行伝814節から25節もまた、その魔術師シモンについて語ります。言うなれば、魔術師シモンのエピソード2と言ったところです。

 その魔術師シモンエピソード2では、ペテロとヨハネがピリポのサマリヤで伝道をおこない、人々が神の言葉を受け入れていると聞いて、サマリヤにやって来たことから始まります。そして、サマリヤにやって来たペテロとヨハネは、ただイエス・キリスト様の名によってバプテスマを受けただけで聖霊を受けていなかった人々に手を置き、聖霊を授けていったのです。

 魔術師シモンはその様子を見ていた。そして、ペテロとヨハネに金を差し出し、私にも人々に聖霊を授ける力をくださいと願うのです。当然、ペテロもヨハネも魔術師シモンの願いを拒否します。拒否するだけでなく

おまえの心が正しくないから、おまえはとうてい、この事にあずかることができない。だから、この悪事を悔いて、主に祈れ。そうすればあるいそんな思いをこころにいだいたことがゆるされるかもしれない。おまえには、苦い胆汁があり、不義のなわ目がからみついている。

と叱責しているのです。しかも「あるいはそんな思いを心に抱いたことが赦されるか知れないという」といいうようなかなり厳しい叱責です。いったい、なぜ、このような厳しい叱責の言葉を投げかけるのか。

 、おそらくそれは、魔術師シモンが、聖霊を授ける力を求めるという行為、しかも金品をもってそれを買い取ろうとしたことは、神を信じる民にとって極めて重大な問題であっただろうと思われるからです。
 というのも、ペテロとヨハネは、聖霊を授ける際に手を人々の上において聖霊を授けていたからです。キリスト教において手を置くという行為、それは按手と呼ばれ、権威と権限と力が受け渡されることを示す象徴的行為です。

 皆さんも、ご存知のように牧師が正教師として洗礼や聖餐といった聖礼典を執行することができるようになるためには、按手を受けなければなりません。それは、使徒から代々受け継がれてきた祭司としての権威と権限の伝達を示すものだからです。つまり、按手を通して、聖礼典を執行する権威と権限が与えられるのです。それは、その権限のもとで聖礼典を執行し、神の前に立つ人に神の救いの業がなされたこと宣言をし、人に罪の赦しと神の永遠の命が与えられたことを宣告することができるのです。ですから、牧師が按手を受けるということは、極めて重要なことなのです

 ペテロとヨハネは、人々に按手をして聖霊を授けていた。それは、ある意味で、人々に按手をし、祭司としての性質を与えていた行為であったと言ってもいいかもしれません。というのも、神を信じ神の民となった者は、すべからく祭司としての性質を持っているからです。宗教改革以降、プロテスタントの教会では、それを万民祭司性、あるいは全信徒祭司性といい、今日のカトリック教会では、信徒使徒職と呼んだりします。
 いずれにせよ、すべてのキリスト者は、按手をもって祭司としての性質を授けられているのです。そして、そのようにすべてのキリスト者が祭司としての性質をもっているからこそ、神の召しによって牧師の職に召された者は、按手を通して祭司の務めを行うのです。

 しかし、そう言われますと、今日ここに集っている皆さんは、自分はいつ祭司としての性質が与えられる按手をされたのだろうかと思われるのではないかと思われます。実際、信徒の皆さんに対して特別な按手礼といったものはありません。しかし、ここにつっておられるおほとりお一人は洗礼をお受けになっておられる。
 みなさん、ぜひ知っていただきたいのですが、実はこの洗礼のことを第一の按手と呼ぶのです。つまり、洗礼を通してひとりひとりに聖霊が与えられる。それがまさに第一の按手の出来事なのです。だから、洗礼は、父と子と聖霊の名によって授けられるのです。

 ところが、今日の使徒行伝816節を見ますと、サマリヤの人々はただ主イエスの名によってバプテスマ、すなわち洗礼を受けていただけであると記されています。主イエスの名ということの背後には父なる神がある。なぜならば、主イエス・キリスト様は神の独り子であり、この神の独り子は、全き神として父なる神をあらわすからです。

 ですから、主イエスの名によってバプテスマが授けられるとき、そこのは父なる神の名によってもバプテスマが授けられている。そしてそれによって、人々はイエス・キリスト様と一つに結び合わされてイエス・キリスト様の栄光に与ることができる。
 けれども、あのサマリヤでなされた主イエスの名による洗礼には、聖霊なる神の名が出てこないのです。だから、使徒であるペテロとヨハネは按手をし、彼らの聖霊を授け、祭司としての性質を与えて行ったのです。それは、使徒たちに与えられた権威と権限でしたした。

 その、権威と権限を魔術師シモンは得たいと考え、お金を持ってそれを買おうとしたのです。それは、教会にとっては教会を危うくする危険な行為です。というのも権威と権限というのは、ともすれば権力となるからです。なぜなら、権力は権威から発するものであり、権威が力を発することが権力だからです。

 だから、権力は正しい権威から発せられなければなりません。本来、権威を持つべきでないものが、権威を持ち、その権威から発せられる権力を行使することは極めて危ういことです。みなさん、今日は818日ですが、ほんの3日前に私たちは太平洋戦争の終戦記念日を迎えました。太平洋戦争は第二次世界大戦の一環の中にある戦争でしたが、その第2次世界大戦におけるヒットラーなどは、まさにその権威を持つべきでない人が権威を持ち、権力を行使した事例であると言ってもいい。
 しかし、なにもヒットラーを持ち出さなくても、教会の歴史の中にもそのような事例が多くある。たとえば、わたしは宗教改革期のキリスト教について研究し、聖書学院でも教えていますが、一般に宗教改革はカトリック教会の堕落した姿に対する、ルターの講義であると言われています。そして、その象徴として免罪符(贖宥状)の販売が挙げられます。

 しかし、実際はそうではなく、宗教改革はもっと神学的な問題が主題なのですが、しかし、その当時の教会の中に堕落した一面があったことは間違いがなく、それはカトリック教会でも問題になっていました。その堕落した一面というのがニコライズムとシモニアでした。

 ニコライズムというのは聖職者が妻を持つという聖職者妻帯の問題です。プロテスタントの教会では、牧師が家庭を持つ個とは禁じられていませんが、カトリック教会では聖職者は妻を持つことが禁じられていましたので、その聖職者が妻を持つということは大問題でした。それが、宗教改革の時代には横行していた。

 そして、もう一つのシモニアというのは、聖職売買のことで、金銭で聖職を売り買いしていたのです。たとえば、宗教改革期に、マルグベルグの司教であったアルブレヒドという司教は、そのマルグベルグの司教職も金で買い、更には、もっと権威のあるマインツの司教を手に入れるために必要な教皇庁に納める上納金を得るために免罪符を発行してお金を集めたというようなことが行われていたのです。

 みなさん、司教職というのは上級職者であり、いうなれば使徒職にあたるもので、按手をして祭司を任じる権威と権限を持つものです。その死教職がお金で売買されるような状況が生まれてきた時、その行為は確実に教会を腐敗させていきました。先細のアルブレヒドの例などはその一つの事例だといえますが、あの使徒行伝814節以降にある、魔術師シモンが、使徒たちが按手によって聖霊を与えるという使徒たちの権威と権限に基づく力を、お金で買おうとした行為は、まさにシモニア(聖職売買)に通じるものです。
 そしてその力は、聖霊を与える力であり、罪の赦しを当れる力ですから、それを金銭で売買するなどというのは、まさに先ほどお読みいただいたマルコによる福音書328節から30節にあるような「聖霊を汚す罪」に匹敵するような罪と思われても仕方がない行為です。それこそそれは、聖霊を与える力をお金で買うということは、聖霊なる神を売り買いするということであり、また神の恵みをお金で買う行為だからです。だからこそ、あのような厳しい叱責の言葉が出てきただと言える。

 みなさん、言うまでもないことですが、神の恵みはお金でかえるようなものではありません。今日の説教のタイトルは、sola gratiaです。これはラテン語で週報には日本語の訳も載せてありますが、「ただ恵みのみ」という意味です。
 このsola gratiaというのは、宗教改革の標語の一つですが、神の救いの業は、人間の努力や頑張りといった人間の側の働きによって手に入れられるものではなく、ただ神の恵みによってのみ人間が手にすることができるのだということを言い表しています。ただ神が私たち人間をあわれんで下さり、私たちをあわれんで下さるからこそ、私たち人間は神の救いに与ることができるのです。

 さきほど、司式者に旧約聖書イザヤ書521節から6節までをお読みいただきました。この箇所は、預言者イザヤが、神の裁きによって奴隷として捉えられてしまったイスラエルの民が神の恵みによって解放され、神の民としての立場が回復されるのだという歓びの訪れ、まさに福音を語っている箇所です。そしてそれは「あなたがたは、ただで売られた。金も出さずに贖われる」というように、ただ神の恵みとあわれみによって解放されるのです。
 みなさん、私たちはこの事を心に刻んで決して忘れてはいけないのです。でなければ、私たちは人間の力や能力に頼るものになり、力や権力を求めるものになるからです。しかし、私たちが求めなければならないのは、ただ神の恵みと憐れみだけなのです。

 なぜならば、それは決してお金で買うこともできませんし、何物をもっても交換することができるものではない神の賜物だからです。みなさん、私たちはしばしば賜物という言葉を神から与えられた何かの能力にように思ってしまいます。もちろん、確かにそのような使い方がされることがある。
 説教の賜物とか、癒しの賜物とか、教える賜物といった具合です。しかし、本当に賜物というのは、神ご自身です。神ご自身が聖霊なる神としてご自身を私たちに与えて下さり、私たちと日々共にいて下さり、ともに喜び、共に悲しんで下さる。これほど大きな賜物はないのです。そしてその聖霊なる神という賜物が、ただ神の恵みによって私たちに与えられている。


 ですから、みなさん、その神の賜物に対して私たちがすることは、ただ神を喜び神に感謝することです。みなさん、神に感謝しましょう。そして祈りましょう。静思の時を持ちます。

2019年8月13日火曜日

2019年08月11日 小金井福音キリスト教会 説教題「 土の器 」

2019年08月11日 小金井福音キリスト教会 説教

【聖書箇所】
 創世記 第2章 7 節
 コリント人への第二の手紙 第4章 7 - 15節

【説教題】
 「 土の器 」


2019年8月7日水曜日

2019年08月04日 小金井福音キリスト教会 説教題「 指さす先にあるもの 」

2019年08月04日 小金井福音キリスト教会 説教

【聖書箇所】
 申命記 第6章 1 - 9 節
 ヨハネによる福音書 第5章 22 - 25 節
 使徒行伝 第8章 4 - 13節

【説教題】
 「 指さす先にあるもの 」



 先週、私たちはサウロが教会の迫害者であったということを通して、自己の義、自分の正しさを絶対化することの背後に隠れている問題に目を向けました。実際、私たちは、自分が正しい、自分は間違っていないと確信すればするほど、人の意見に耳を傾けられなくなり、自分を主張するものです。

 かくいう私も、私の友人から「君は、自分の考えや自分の説を主張しすぎる」と忠告されてしましました。自分ではそんなつもりはなかったのですが、しかし、友人の目から見ればそのように映っていたのでしょう。だから忠告してくれた。そんなわけで、気を付けなければと反省したのですが、人間は知らず知らずのうちに、自己主張し、自分の意見者考えをしてしまう傾向がある。

 それが行きすぎますと、自分の意見が通らないことや、自分の違った考え方や行動をする人間に対して怒りや憤りを感じるようになる。その怒りや憤りが極みに達すると、迫害や弾劾、抑圧や疎外と言ったものになっていく。使徒行伝81節から3節の迫害者サウロの姿は、まさにそのような姿であったと言えます。

ですから私たちは、そのサウロの姿から、自分自身を自己絶対化することなく、いつも神の前に謙遜生きていくことの必要性を大切です。そして、その謙遜さは、私たちが絶えず神の言葉、こんにちにおいてそれは、聖書の言葉として表されていますが、その聖書の言葉に向き合い、聖書の言葉に耳を傾けて生きていくことが大切になってきます。

 この神の言葉に耳を傾けて生きていくということは、キリスト教の信仰の基本にあります。いえ聖書に記された神を信じる信仰は、神の語る言葉に耳を傾けて聴くというところから始まると言っても良いだろうと思います。

 私たちは、今、旧約聖書の申命記61節から9節の言葉に耳を傾けましたが、その中の4節の言葉は、「イスラエルよ聞け、われわれの神、主は唯一の主である」です。この言葉は、イスラエルの民、ユダヤ人にとっては非常に重要な言葉です。ですから、敬虔なユダヤの人々が朝・夕に祈る祈りにおいては、必ずこの「イスラエルよ聞け、われわれの神、主は唯一の主である」という言葉から、祈りが始ります。

それはただ唯一の主なる神を信じ、その神の言葉に聴き従っていくというイスラエルの民、ユダヤの人々の決意の表明であり、信仰の表明であるといえます。ですから、このユダヤ人が「イスラエルよ聞け、われわれの神、主は唯一の主である」と祈りの言葉の中で祈る時、ユダヤの人々は、私は聖書に記されている唯一の神である主の語る言葉に耳を傾けて聴き、その唯一の神の言葉にのみに従って生きていく者であるという自覚を深め、自分が何者であるかということを確認していくのです。

ユダヤの人々が「イスラエルよ聞け、われわれの神、主は唯一の主である」と祈るとき、「聞け」と言われて耳を傾けて聴く神の言葉は、神の定めた掟である、律法です。それは、すなわち神を信じ生きる人々を罰し裁くためのものではなく、神を信じる神の民が、神の子として整えられ成長していくためのものです。ですから律法として与えられた神の言葉は、神を信じる民に神の子ととしての命を与え、教え、育むのです。

だからこそ、神は、イスラエルの民にこの「イスラエルよ聞け、われわれの神、主は唯一の主である」と言う言葉を「あなたの手につけてしるしとし、あなたの目の間において、覚えとし、またあなたの家の入り口の柱とあなたの門とに書きしるさなければならないというのです。それは神が、ユダヤの人々を神の国に招き入れる宣言の言葉であり、約束の言葉なのです。

神は、「イスラエルよ聞け、われわれの神、主は唯一の主である」といって、荒野で40年間にわたって放浪の旅をしていたイスラエルの民を、神の約束の地であるカナンの地に今まさに招き入れようとておられる。まさに、彼らは、この「イスラエルよ聞け、われわれの神、主は唯一の主である」という言葉をもって、神の国の住人として約束の地に招き入れられるのです。

ですから、神の子となる。神の命である永遠の命をもって神の国に生きる神の民となるということの最初には、神の言葉を聞き、神の言葉に聴き従って生きるということがまず求められるのです。

それは、ユダヤの民だけに与えられた招きの言葉ではありません。ユダヤの民から始まり、全世界に広がっていく神の招きの言葉なのです。

みなさん、今日の礼拝説教の中心となる使徒行伝84節から9節は、ステパノの殉教を契機としてサウロ達によってなされたエルサレムにある最とも原初に教会に対する大迫害の結果、エルサレムの教会の人々が散りじりに散らされて行き、そこで神の言葉を伝え、宣教がなされていった出来事の中で起こった一つのエピソードです。

それはピリポによってなされたサマリヤ伝道の中で起こりました。聖書をお読みになっている皆さんは、よくご存じのようにサマリヤの人たちとユダヤの人々は仲が悪く、敵対している関係にありました。そこに神の言葉が伝えられていく。

それは、使徒行伝18節でイエス・キリスト様が「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受け、エルサレム、ユダヤ、サマリヤの全土、さらに地の果てにまでわたしの証人になるであろう」という言葉が現実になって、世界中に神の言葉が伝えられていく過程の中のあるのです。その世界宣教の始まりの中で、この使徒行伝84節から9節にあるピリポのサマリヤでの伝道の物語がある。

このサマリヤの伝道においてピリポは人々に御言葉を述べ伝え、イエス・キリスト様のことを述べ伝えていた。その際、ピリポは、汚れた霊につかれた人から、その霊を追い出したり、中風を患っているひとや足のきかない人を癒すと言ったしるしとなる業を行っていたのです。だからサマリヤの町の人々は喜んで、御言葉を伝え、イエス・キリスト様のことを伝えるピリポの言葉に耳を傾けたのです。

ところが聖書は、このサマリヤの伝道において、ピリポが多くのしるしとしての癒しの業を行い、人々が喜んでピリポの言葉を聞いたという物語に、一つのエピソードを加えます。そして、そのエピソードが、このピリポのサマリヤにおける伝道の物語の重要なアクセントとなるのです。

それはシモンという魔術師に関するエピソードです。この魔術師シモンは、サマリヤの人々を驚かしたというのですから、様々な不思議な業を行っていたのでしょう。この魔術師シモンがどのような魔術を行っていたのかは分かりません。ひょっとしたらピリポのような癒しを行っのたかもしれません。しかし、聖書になりも記していない以上、はっきりしたことは分かりません。

でも、聖書が魔術師シモンが行っていた魔術について何も言わないということが物語ることもあるのです。魔術師シモンが行っていた魔術の内容について聖書が何を言わないということは、聖書は魔術シモンのやっている内容はどうでもいいことなのです。むしろ、聖書が着目しているのは、彼が、そのような魔術を行うことで人々を驚かせ、人々に自分がさも偉いものであるかのように思わせていたということです。そして、人々もまた、この魔術師に対して「これこそは『大能』と呼ばれる神の力」であると言っていたというその現象にあるのです。

もちろん、聖書はそのような現象を批判的に見ていることは間違いがありません。それは、12節で「ところが、ピリポが神の国とイエス・キリストについて宣べ伝えるに及んで、男も女も信じて、ぞくぞくとバプテスマを受けた」という言葉の中に現れています。

この12節の冒頭の「ところが」という言葉のギリシャ語は“δε”という言葉で、英語で言うbutという反体の状態や対照の事態を示す意味であると同時に、この“δε”という接続詞は、先立つ事柄を否定し、それとは異なることを述べる場合に使われます。

ですから、聖書はこのδε”という接続詞を用いることで、魔術のような奇跡や不思議な業を行い、自分を権威ある存在のように思わせ、人々の心自分の方にひきつけ、自分を高めようとする在り方を真っ向から否定するのです。そして、むしろ奇跡や癒しの業を行っても、その業を行っている者にも、またその業自体に意味があるのではなく、むしろ、その業が指し示している事柄が重要なのだというのです。

すなわち、ピリポが行った数多くの癒しという奇跡、汚れた霊につかれた人から、汚れた霊を追い出したり、中風を患っているひとや足のきかない人を癒すと言ったしるしとなる業は、神の国の到来を示す出来事であり、その神の国の王として「この世」に来られたお方がイエス・キリスト様というお方が重要なのだというのです。

だから、ピリピがおこなった奇跡の業、癒しの業を見て信じるのではなく、神の国の到来とその神の国に私たちを招き入れてくださるイエス・キリスト様のご生涯とイエス・キリスト様が語られた教えが述べ伝えられられることが大切なのです。

みなさん、イエス・キリスト様のご生涯をつづった福音書を丹念に見てまいりますと、ピリポがおこなったしるし、すなわち、汚れた霊につかれた人から、汚れた霊を追い出したり(ルカ436etc.)、中風を患っているひと(ルカ518-24)や足のきかない人を癒す(ルカ722、マタイ2114)と言ったしるしは、すべて、イエス・キリスト様がなされた業なのです。つまり、ピリポが行った癒しの業はすべてイエス・キリスト様を指し示すものなのです。

そのイエス・キリスト様が伝えたメッセージは「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」というものです。神の国は手の届くところにある。それは、神を見上げ、その神がおつかわしになった神のひとり子であるイエス・キリスト様を主とし、イエス・キリスト様のご生涯と語られた教えに倣い、神の国の民として生きるということなのです。

この神の遣わされた神のひとり子であるイエス・キリスト様のご生涯と、語られた教えに倣い生きるということが、神の言葉に耳を傾け、それに従って生きる「「イスラエルよ聞け、われわれの神、主は唯一の主である」ということなのです。それは、イエス・キリスト様が、先ほどのお読みした新約聖書ヨハネによる福音書522節から25節にあるように、私たちに神を示し、イエス・キリスト様の言葉を信じる者に、神の子としての命を与えるお方だからです。

このヨハネによる福音書を記したヨハネという人は、同じヨハネによる福音書の1章の冒頭において、「始めに言があった、言は神と共に合った。言は神であった。この言葉は始めに神と共に在った」といい、イエス・キリストと言うお方が神の言葉である言っています。またさらに、ヨハネによる118節において「神を見たものはまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが神をあらわしたのである」とのべ、イエス・キリスト様の生き方とその語られた教え、その言葉の中に神のお心が現れているというのです。

だから、「ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが神をあらわしたのである」ということができる。

みなさん、今日の私たちには神の言葉である聖書があり、その聖書の中、特に新約聖書の福音書の中にイエス・キリスト様のご生涯が記されていますから、その聖書を通して、イエス・キリスト様の生き方や教えを学び、それを通して神の言葉に耳を傾けることができます。

しかし、あの使徒行伝8章にあるピリポがサマリヤに伝道した時代には、まだ新約聖書は存在していないのです。ですから、その時はピリポがその癒しの業を通して指し示すイエス・キリスト様というお方を通し、またピリポが語るイエス・キリスト様の教えを通してでしか、イエス・キリスト様を通して示された神の言葉を聞くことができないのです。

けれども、聖書はそのピリポが伝え、指示したイエス・キリスト様とイエス・キリスト様が伝えた神の国の教えを信じ受け入れた人々が続々とバプテスマを受けたというのです。
バプテスマというのは、いわゆる洗礼という礼典ですが、それは神を信じたものが、それまでの生き方や在り方をすて、イエス・キリスト様と一つに結ばれて、神の国に新しく生まれたものとして生きる者となったということを表す礼典です。まさに、神も言葉を聞き、「イスラエルよ聞け、われわれの神、主は唯一の主である」という神の招きに応じて、神の民、神の子としての命を生き始めたことを神と人との前に証しする礼典なのです。

 イエス・キリスト様によってもたらされた神の国の到来と私たちに神の子として生きる命を与える福音が全世界に伝えられていこうとするその時におこった、ピリポのサマリヤ伝道に伴う魔術師シモンの物語は、とかく目に映る衝撃的なでき事に目を奪われ、心を奪われてしまう私たちに、目に映るものではなく、神の言葉に耳を傾け生きることの大切さを教えている物語であるということができます。

 今、私たち日本において神の言葉を伝えようとするとき、そこに大きな困難があることを認めざるを得ません。確かに、日本の伝道は行き詰っている。そんな時、大きな成果を収めている教会や伝道方法があると、私たちはついついそれに目を奪われてしまいます。

 もちろん、それらに学ぶことは多くありますから、無視する必要はありませんし、学ぶことは大切です。しかし、方法ややり方を学ぶ以上に大切なのは、何よりも私たちが。神の言葉の前に立ち、神の言葉に耳を傾け、神の言葉に従ってイエス・キリスト様のように生きることなのです。そのことを、心に刻みながらイエス・キリスト様に倣い、神の子としての歩みを、共にイエス・キリスト様を頭とするこの教会で共に歩んでいきたいと思います。祈りましょう。