2019年8月7日水曜日

2019年08月04日 小金井福音キリスト教会 説教題「 指さす先にあるもの 」

2019年08月04日 小金井福音キリスト教会 説教

【聖書箇所】
 申命記 第6章 1 - 9 節
 ヨハネによる福音書 第5章 22 - 25 節
 使徒行伝 第8章 4 - 13節

【説教題】
 「 指さす先にあるもの 」



 先週、私たちはサウロが教会の迫害者であったということを通して、自己の義、自分の正しさを絶対化することの背後に隠れている問題に目を向けました。実際、私たちは、自分が正しい、自分は間違っていないと確信すればするほど、人の意見に耳を傾けられなくなり、自分を主張するものです。

 かくいう私も、私の友人から「君は、自分の考えや自分の説を主張しすぎる」と忠告されてしましました。自分ではそんなつもりはなかったのですが、しかし、友人の目から見ればそのように映っていたのでしょう。だから忠告してくれた。そんなわけで、気を付けなければと反省したのですが、人間は知らず知らずのうちに、自己主張し、自分の意見者考えをしてしまう傾向がある。

 それが行きすぎますと、自分の意見が通らないことや、自分の違った考え方や行動をする人間に対して怒りや憤りを感じるようになる。その怒りや憤りが極みに達すると、迫害や弾劾、抑圧や疎外と言ったものになっていく。使徒行伝81節から3節の迫害者サウロの姿は、まさにそのような姿であったと言えます。

ですから私たちは、そのサウロの姿から、自分自身を自己絶対化することなく、いつも神の前に謙遜生きていくことの必要性を大切です。そして、その謙遜さは、私たちが絶えず神の言葉、こんにちにおいてそれは、聖書の言葉として表されていますが、その聖書の言葉に向き合い、聖書の言葉に耳を傾けて生きていくことが大切になってきます。

 この神の言葉に耳を傾けて生きていくということは、キリスト教の信仰の基本にあります。いえ聖書に記された神を信じる信仰は、神の語る言葉に耳を傾けて聴くというところから始まると言っても良いだろうと思います。

 私たちは、今、旧約聖書の申命記61節から9節の言葉に耳を傾けましたが、その中の4節の言葉は、「イスラエルよ聞け、われわれの神、主は唯一の主である」です。この言葉は、イスラエルの民、ユダヤ人にとっては非常に重要な言葉です。ですから、敬虔なユダヤの人々が朝・夕に祈る祈りにおいては、必ずこの「イスラエルよ聞け、われわれの神、主は唯一の主である」という言葉から、祈りが始ります。

それはただ唯一の主なる神を信じ、その神の言葉に聴き従っていくというイスラエルの民、ユダヤの人々の決意の表明であり、信仰の表明であるといえます。ですから、このユダヤ人が「イスラエルよ聞け、われわれの神、主は唯一の主である」と祈りの言葉の中で祈る時、ユダヤの人々は、私は聖書に記されている唯一の神である主の語る言葉に耳を傾けて聴き、その唯一の神の言葉にのみに従って生きていく者であるという自覚を深め、自分が何者であるかということを確認していくのです。

ユダヤの人々が「イスラエルよ聞け、われわれの神、主は唯一の主である」と祈るとき、「聞け」と言われて耳を傾けて聴く神の言葉は、神の定めた掟である、律法です。それは、すなわち神を信じ生きる人々を罰し裁くためのものではなく、神を信じる神の民が、神の子として整えられ成長していくためのものです。ですから律法として与えられた神の言葉は、神を信じる民に神の子ととしての命を与え、教え、育むのです。

だからこそ、神は、イスラエルの民にこの「イスラエルよ聞け、われわれの神、主は唯一の主である」と言う言葉を「あなたの手につけてしるしとし、あなたの目の間において、覚えとし、またあなたの家の入り口の柱とあなたの門とに書きしるさなければならないというのです。それは神が、ユダヤの人々を神の国に招き入れる宣言の言葉であり、約束の言葉なのです。

神は、「イスラエルよ聞け、われわれの神、主は唯一の主である」といって、荒野で40年間にわたって放浪の旅をしていたイスラエルの民を、神の約束の地であるカナンの地に今まさに招き入れようとておられる。まさに、彼らは、この「イスラエルよ聞け、われわれの神、主は唯一の主である」という言葉をもって、神の国の住人として約束の地に招き入れられるのです。

ですから、神の子となる。神の命である永遠の命をもって神の国に生きる神の民となるということの最初には、神の言葉を聞き、神の言葉に聴き従って生きるということがまず求められるのです。

それは、ユダヤの民だけに与えられた招きの言葉ではありません。ユダヤの民から始まり、全世界に広がっていく神の招きの言葉なのです。

みなさん、今日の礼拝説教の中心となる使徒行伝84節から9節は、ステパノの殉教を契機としてサウロ達によってなされたエルサレムにある最とも原初に教会に対する大迫害の結果、エルサレムの教会の人々が散りじりに散らされて行き、そこで神の言葉を伝え、宣教がなされていった出来事の中で起こった一つのエピソードです。

それはピリポによってなされたサマリヤ伝道の中で起こりました。聖書をお読みになっている皆さんは、よくご存じのようにサマリヤの人たちとユダヤの人々は仲が悪く、敵対している関係にありました。そこに神の言葉が伝えられていく。

それは、使徒行伝18節でイエス・キリスト様が「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受け、エルサレム、ユダヤ、サマリヤの全土、さらに地の果てにまでわたしの証人になるであろう」という言葉が現実になって、世界中に神の言葉が伝えられていく過程の中のあるのです。その世界宣教の始まりの中で、この使徒行伝84節から9節にあるピリポのサマリヤでの伝道の物語がある。

このサマリヤの伝道においてピリポは人々に御言葉を述べ伝え、イエス・キリスト様のことを述べ伝えていた。その際、ピリポは、汚れた霊につかれた人から、その霊を追い出したり、中風を患っているひとや足のきかない人を癒すと言ったしるしとなる業を行っていたのです。だからサマリヤの町の人々は喜んで、御言葉を伝え、イエス・キリスト様のことを伝えるピリポの言葉に耳を傾けたのです。

ところが聖書は、このサマリヤの伝道において、ピリポが多くのしるしとしての癒しの業を行い、人々が喜んでピリポの言葉を聞いたという物語に、一つのエピソードを加えます。そして、そのエピソードが、このピリポのサマリヤにおける伝道の物語の重要なアクセントとなるのです。

それはシモンという魔術師に関するエピソードです。この魔術師シモンは、サマリヤの人々を驚かしたというのですから、様々な不思議な業を行っていたのでしょう。この魔術師シモンがどのような魔術を行っていたのかは分かりません。ひょっとしたらピリポのような癒しを行っのたかもしれません。しかし、聖書になりも記していない以上、はっきりしたことは分かりません。

でも、聖書が魔術師シモンが行っていた魔術について何も言わないということが物語ることもあるのです。魔術師シモンが行っていた魔術の内容について聖書が何を言わないということは、聖書は魔術シモンのやっている内容はどうでもいいことなのです。むしろ、聖書が着目しているのは、彼が、そのような魔術を行うことで人々を驚かせ、人々に自分がさも偉いものであるかのように思わせていたということです。そして、人々もまた、この魔術師に対して「これこそは『大能』と呼ばれる神の力」であると言っていたというその現象にあるのです。

もちろん、聖書はそのような現象を批判的に見ていることは間違いがありません。それは、12節で「ところが、ピリポが神の国とイエス・キリストについて宣べ伝えるに及んで、男も女も信じて、ぞくぞくとバプテスマを受けた」という言葉の中に現れています。

この12節の冒頭の「ところが」という言葉のギリシャ語は“δε”という言葉で、英語で言うbutという反体の状態や対照の事態を示す意味であると同時に、この“δε”という接続詞は、先立つ事柄を否定し、それとは異なることを述べる場合に使われます。

ですから、聖書はこのδε”という接続詞を用いることで、魔術のような奇跡や不思議な業を行い、自分を権威ある存在のように思わせ、人々の心自分の方にひきつけ、自分を高めようとする在り方を真っ向から否定するのです。そして、むしろ奇跡や癒しの業を行っても、その業を行っている者にも、またその業自体に意味があるのではなく、むしろ、その業が指し示している事柄が重要なのだというのです。

すなわち、ピリポが行った数多くの癒しという奇跡、汚れた霊につかれた人から、汚れた霊を追い出したり、中風を患っているひとや足のきかない人を癒すと言ったしるしとなる業は、神の国の到来を示す出来事であり、その神の国の王として「この世」に来られたお方がイエス・キリスト様というお方が重要なのだというのです。

だから、ピリピがおこなった奇跡の業、癒しの業を見て信じるのではなく、神の国の到来とその神の国に私たちを招き入れてくださるイエス・キリスト様のご生涯とイエス・キリスト様が語られた教えが述べ伝えられられることが大切なのです。

みなさん、イエス・キリスト様のご生涯をつづった福音書を丹念に見てまいりますと、ピリポがおこなったしるし、すなわち、汚れた霊につかれた人から、汚れた霊を追い出したり(ルカ436etc.)、中風を患っているひと(ルカ518-24)や足のきかない人を癒す(ルカ722、マタイ2114)と言ったしるしは、すべて、イエス・キリスト様がなされた業なのです。つまり、ピリポが行った癒しの業はすべてイエス・キリスト様を指し示すものなのです。

そのイエス・キリスト様が伝えたメッセージは「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」というものです。神の国は手の届くところにある。それは、神を見上げ、その神がおつかわしになった神のひとり子であるイエス・キリスト様を主とし、イエス・キリスト様のご生涯と語られた教えに倣い、神の国の民として生きるということなのです。

この神の遣わされた神のひとり子であるイエス・キリスト様のご生涯と、語られた教えに倣い生きるということが、神の言葉に耳を傾け、それに従って生きる「「イスラエルよ聞け、われわれの神、主は唯一の主である」ということなのです。それは、イエス・キリスト様が、先ほどのお読みした新約聖書ヨハネによる福音書522節から25節にあるように、私たちに神を示し、イエス・キリスト様の言葉を信じる者に、神の子としての命を与えるお方だからです。

このヨハネによる福音書を記したヨハネという人は、同じヨハネによる福音書の1章の冒頭において、「始めに言があった、言は神と共に合った。言は神であった。この言葉は始めに神と共に在った」といい、イエス・キリストと言うお方が神の言葉である言っています。またさらに、ヨハネによる118節において「神を見たものはまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが神をあらわしたのである」とのべ、イエス・キリスト様の生き方とその語られた教え、その言葉の中に神のお心が現れているというのです。

だから、「ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが神をあらわしたのである」ということができる。

みなさん、今日の私たちには神の言葉である聖書があり、その聖書の中、特に新約聖書の福音書の中にイエス・キリスト様のご生涯が記されていますから、その聖書を通して、イエス・キリスト様の生き方や教えを学び、それを通して神の言葉に耳を傾けることができます。

しかし、あの使徒行伝8章にあるピリポがサマリヤに伝道した時代には、まだ新約聖書は存在していないのです。ですから、その時はピリポがその癒しの業を通して指し示すイエス・キリスト様というお方を通し、またピリポが語るイエス・キリスト様の教えを通してでしか、イエス・キリスト様を通して示された神の言葉を聞くことができないのです。

けれども、聖書はそのピリポが伝え、指示したイエス・キリスト様とイエス・キリスト様が伝えた神の国の教えを信じ受け入れた人々が続々とバプテスマを受けたというのです。
バプテスマというのは、いわゆる洗礼という礼典ですが、それは神を信じたものが、それまでの生き方や在り方をすて、イエス・キリスト様と一つに結ばれて、神の国に新しく生まれたものとして生きる者となったということを表す礼典です。まさに、神も言葉を聞き、「イスラエルよ聞け、われわれの神、主は唯一の主である」という神の招きに応じて、神の民、神の子としての命を生き始めたことを神と人との前に証しする礼典なのです。

 イエス・キリスト様によってもたらされた神の国の到来と私たちに神の子として生きる命を与える福音が全世界に伝えられていこうとするその時におこった、ピリポのサマリヤ伝道に伴う魔術師シモンの物語は、とかく目に映る衝撃的なでき事に目を奪われ、心を奪われてしまう私たちに、目に映るものではなく、神の言葉に耳を傾け生きることの大切さを教えている物語であるということができます。

 今、私たち日本において神の言葉を伝えようとするとき、そこに大きな困難があることを認めざるを得ません。確かに、日本の伝道は行き詰っている。そんな時、大きな成果を収めている教会や伝道方法があると、私たちはついついそれに目を奪われてしまいます。

 もちろん、それらに学ぶことは多くありますから、無視する必要はありませんし、学ぶことは大切です。しかし、方法ややり方を学ぶ以上に大切なのは、何よりも私たちが。神の言葉の前に立ち、神の言葉に耳を傾け、神の言葉に従ってイエス・キリスト様のように生きることなのです。そのことを、心に刻みながらイエス・キリスト様に倣い、神の子としての歩みを、共にイエス・キリスト様を頭とするこの教会で共に歩んでいきたいと思います。祈りましょう。

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