2019年1月29日火曜日

2019年01月20日 小金井福音キリスト教会 説教題「 さあ帰ろう 」

小金井福音キリスト教会 説教

聖書
・詩篇 第24章 1節 - 10節
・マルコによる福音書 第11章 14節 - 15節
・使徒行伝 第3章 17節 - 26節

説教題「 さあ帰ろう 」


私たちは、新しい年を迎えて以降、使徒行伝の3章から神の言葉に耳を傾けて言います。この使徒行伝の3章は1節から10節までが、ペテロが神殿の門の前にいた生まれつき足の効かない歩けない人をイエス・キリスト様の名によって癒したと言う物語から始まります。それは、ペンテコステと言う聖霊なる神がイエス・キリスト様の弟子たちの上に下って来るという出来事によって教会が建て上げられた後におきた、使徒たちによる最初の奇跡であったと言うことができます。

 この足の歩けなかった人が歩けるようになり、躍り上がり神をさんびしながら、ペテロたちと共に神殿に入って行ったという癒しの業は、神の王国と言う神の恵みが支配する国が、「この世」の中に始まったと言うことを示す出来事でもありました。もちろん、聖書では、しばしば「この世」という世界は、神に敵対し、神を締め出している世界であると言われていますから、神の恵みが支配する神の王国が始まったといっても、「この世」と言う世界がすべて神の王国に取って代わったわけではありません。

 教会と言う、イエス・キリスト様こそが、私たちをこの世の支配から救い出し、私たちを神の王国の民としてくださるお方であると信じ、イエス・キリスト様に寄り縋る者たちの群れの中に神の王国が始まったのです。

 みなさん、先ほど新約聖書マルコによる福音書の114節から15節をお読みいただきました。ここではイエス・キリスト様が宣教を始められた時の第一声が記されていますが、それは次のような言葉でした。すなわちイエス・キリスト様は「時は満ちた、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ」と言う言葉をもって、教えを語り、癒しの業を行い、人々を導く宣教の業を始められたのです。

 みなさん、私たちは福音というと、イエス・キリスト様の十字架の死が私たちの罪を償うための身代わり死であり、そのことを信じる者の罪が赦され救われると言うことであるとそう理解してきました。確かに、イエス・キリスト様の十字架の死が、私たちの罪に赦しをもたらすものであると言うことは間違いではありません。

 しかし、近年の聖書学の研究、とくにジェーム・ダンであるとかN.T.ライトといった学者たちによって、イエス・キリスト様が語られた福音の中心にあるものは、神の王国の到来を告げるものであったということが言われるようになってきました。そして、イエス・キリスト様の十字架の死がもたらす救いというのは、私たちが犯した罪を償い赦すと言うことよりも、むしろ私たちを支配している罪の支配から、私たちを解放し、神の恵みが支配する救いの業であると言うことが強調されるようになってきたのです。
 この私たちの犯した罪を償い赦すということと、私たちを支配する罪から私たちを贖い解放すると言うことは、非常に近い関係にありますが、しかし同じものであるというわけではありません。たしかに、私たちが犯した罪は赦されると言うことがなければ解決しない問題です。ですから、罪の赦しということは必要なことであり大切なことです。

 しかし、どんなに罪の赦しと言うことがあっても、私たちが罪の支配から解放されず、罪の支配の下に奴隷として置かれているならば、私たちは繰り返し罪を犯すのであり、問題は根本的に解決されません。私たちが罪の支配から解放されなければ、問題は根本から解決しません。

 しかし、イエス・キリスト様は、その罪の問題に根本から解決を与えてくださったのです。みなさん、あの使徒行伝の31節から10節までのペテロがイエス・キリスト様の名によって生まれつき歩けなかった人を癒すという癒しの物語をもう一度振り返って欲しいのです。

と申しますのも、先週も申し上げましたが、この生まれる気足の効かない歩けない男は、神殿の「美しの門」と言うところに毎日連れてきてもらい、そこで施しを求め、人々から施してもらったもので生計を立てていたからです。だから、ペテロとヨハネにも施しを求めたのです。

その施しを求めている人にいくらかの金銭を与えても、彼はそれを食い尽くしたならば、繰り返しまた施しを求めなければなりません。毎日毎日施しを乞い、与えてもらうと言うことが彼の目の前の問題でした。だから、この足の効かない生まれつき歩けない人は、自分を人目に付き、人々の注意を惹くように神殿の門のところに置いてもらっていた。

けれども、ペテロがこの男に与えたものは、「イエス・キリストの名によって歩きなさい」ということでした。つまり、この歩けない人の目のあえにある生きる糧を手に入れるというではなく、この人の苦しみや悲しみの大元にある生まれつき歩けないという、存在の根源にある問題の本質に分け入って、その問題の本質に解決を与えたのです。

みなさん、イエス・キリスト様の名による救いの業は、問題の本質を解決するであり、私たちの存在そのものを救う救いの業です。それは、私たちが犯した罪を償い赦すと言うこと以上に、私たちを罪に誘い、罪を犯させる罪の支配から解放し、神に立ち帰り、神に目を向けて生きる神の恵みが支配する神の王国に招き入れ、神の子として創造された私たちの命を回復し与えるという、私たちの存在そのものを救う救いの業なのです。まさに、イエス・キリスト様というお方は、神に背を向け、神との関係が立たれ神との関係において断絶し死んだものであったような人を神の前に再びよみがえらせ生すお方なのです。

みなさん、そのイエス・キリスト様が、十字架に磔られて死んだと言うことは、イエス・キリスト様のご生涯の中でとても大きな出来事です。その人生の歩みの頂点であると言ってもいいだろうことです。しかし、その十字架の死は、十字架の死として死に放しであったとしたら、無意味なものであったかもしれません。その十字架の死が、復活と言う出来事に結びついているからこそ、十字架の死がイエス・キリスト様の人性の歩みと頂点であると言うことができるのです。どうしてでしょう。

みなさん、私たちはしばしばイエス・キリスト様の十字架に死が私たちの罪の身代わりとなり私たちの罪を償うためであったと教えられてきましたし、そう考えてきました。たしかに、キリスト教の歴史の中で、とりわけカトリックおよびプロテスタントにおいてイエス・キリスト様の十字架の死をそのように捕らえてきた歴史があります。

しかし、同時に、イエス・キリスト様の十字架の死は、罪を償うと事以上に、「この世」を支配する悪魔に対する勝利であると言うとらえ方が、キリスト教会の中に古代からずっと受け継がれているのもまた事実です。まさに、イエス・キリスト様の十字架の死は、神に背き、神に背を向けさせようとする罪に対して、十字架の死にまで従順に従い生きると言うイエス・キリスト様の信実のゆえに、罪に対する勝利をもたらし、罪がもたらす死という結末にも勝利をもたらしたのなのです。

みなさん、この罪と死に対する勝利、それは神と人間の間にとげの様に刺さっていた問題に対する根本的な解決をもたらすものです。それは、断絶してしまっている神と人との関係を、和解の契約を基づいて再び結び合わせるものだからです。だから、この使徒行伝311節以降のパテロの説教においてペテロは、この足の効かない生まれつき歩けなかった人が歩けるようになったのは、あなたがたが殺してしまったあのイエス・キリスト様ではあるけれども、神が死人の中からよみがえらせたイエス・キリスト様の信実な信仰の故なのだということを強調して言うのです。

それは、まさに神の前に死んでしまっているものをよみがえらせ、神の民として癒し、立たしめる救いの業が、イエス・キリスト様によってもたらされたということです。そしてそれは、あの「時は満ちた、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ」と言うイエス・キリスト様の宣教の開始を告げる言葉が、この生まれつき歩かなかった人が癒やされ、躍り上がり賛美しながら神殿に入って行ったと言う物語を通して証されていると言えます。

ペテロは、そのことが実はイスラエルの歴史の中で繰り返し示されていたのだと言います。だから、悔い改めて本心に立ち帰りなさいというのです。この悔い改める(μετανοια)ということは、単に罪を後悔すると言うことではありません。自分自身の生き方の方向性を神向け、神を見上げながら生きて行く生き方への方向転換を意味しています。それが人間の本来あるべき姿なのです。

みなさん、聖書は私たち人間は神によって神の像が与えられ神に似るものとなるため創造されている。聖書の最初にある創世記1章にはそう書かれている。そう言った意味で私たちは神の子となるために、神によって造られているのです。その私たち人間が、神の前に死んだものとなっているのは、罪と言ったものが私たちにからみつき、私たちを支配しているからです。この罪に絡めとられて、私たちの神の子としての命は神の前に死んだものとなっているのです。肉は生きていても霊が死んでいる。

みなさん、私は昔、村上宣道牧師がへブル人への手紙121節の「いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか」という御言葉を用いながら、私たちに死をもたらす罪について語った言葉が実に印象深く残っています。

このとき村上宣道牧師は、この「からみつく罪」という言葉を、水にぬれた浴衣に譬えました。つまり、浴衣を着て水の中に入ると浴衣が体に、ぴたっとまつわりつき、からみついてくるようなものだというのです。みなさん、このように浴衣がからみついた状態で、仮に泳ごうとしても、とても泳げないません。ですから、どんなに泳ぎが上手な人でも、浴衣を着て泳ごうものなら、本当なら泳げる人も十分に泳げない。だから溺れ死ぬしかなくなってくる。なるほど罪とはそのように私たちにからみつき、いかに私たちが神のあえで生きようとしても、生かさせてくれないのです。そうやって私たちにからみつき、神の前で死んだもののようにするもの、それが罪というものだと言えます。

だからこそ私たちは罪の支配から解放されてなければならない。罪から解放されて神の王国の民とならなければ神の命、永遠の命に生きることができないのです。その私たちが、神の前に生き罪をぬぐい去っていただくために本心に立ち帰りなさいとペテロは言うのです。この言葉は重要です。なぜならば、ペテロは、自分自身で罪をぬぐい去れ(ξαλεφω)とは言ってません。むしろぬぐい去っていただきなさい(ξαλειφθναι)と言っている。

つまり、「からみつく罪」は、自分では脱ぎされないのです。だから、罪に勝利したイエス・キリスト様によってぬぐい去っていただければならないのです。そのために、私たちが本来あるべき神の王国に身を置く必要がある。神の王国に身を置く神の民となって、その私たちにからみつく罪に打ち勝たれた神の王国の王であるイエス・キリストに「からみつく罪」をぬぐい去っていただくこと、私たちもまた罪に打ち勝つものとなっていくことができるのです。

そのことを、神は旧約聖書の預言者を通し、またイスラエルの民の歴史を通してあなたがたに示してきたのだとペテロは語る。そしてその罪に打ち勝つ油注がれた王であり、大祭司であり、預言者であるイエス・キリスト様が、まさに「時が満ちた」といって「この世」に来られたのです。

それは、先ほど詩篇247節から8節でお読みいただいた

7:門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。8:栄光の王とはだれか。強く勇ましい主、戦いに勇ましい主である。 9:門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。 10:この栄光の王とはだれか。万軍の主、これこそ栄光の王である。

と歌われているさまであります。この詩篇24篇は、栄光の王、光輝く王が城門を通って城に入る様を謳い描いています。この王は、正しくお方で、神が造られた世界を秩序正しく治める王として描かれています。この王は、10節で「この栄光の王とはだれか。万軍の主、これこそ栄光の王であると言われていますから、神ご自身が王として神の王国を治めるために城の門をくぐられるという物語がそこにあります。それは、神の王国が築き上げられる物語なのです。

 その神の国が、イエス・キリスト様によってもたらされる。その時が満ち、神の国が到来したのです。それは、イエス・キリスト様が十字架の死に至るまで神に従順に従い抜いた生き方の中に築き上げられたものです。そのお方が、王として私たちを守り、祭司として私たちと神との間にあって執成しをしてくださり、預言者として私の歩みを導き祝福をもたらしてくださるとペテロは、この使徒行伝311節から始まる説教を通して語り、彼の言葉に耳を傾ける人、あなたがたは本来は神の契約の民なのだから、その本来あるべき神の契約の中で、契約の子、すなわち神の民として生きるものなのだと訴えている。

 みなさん、私たちは今、このペテロの説教が語る言葉の前に立たされています。イエス・キリストというお方は、十字架の死によってすべての人に新しい契約をもたらしてくださった。そして、神の創造の業において、神の像が与えられ神に似た神の似姿となる生き方へ私たちを招いてくださっているのです。

 だからこそ、私たちは本来あるべき姿に立ち帰ろうではないですか。神が私たちを、創造の秩序の中で、正しいものとしてくださっている。清いものとしてくださっている。神を愛し、人を愛し、神のお造りになった自然を愛するものとしてくださっているのです。


お祈りましょう。

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