2019年5月12日日曜日

2019年05月12日 小金井福音キリスト教会 説教題 「 受け継がれる神の祝福 」

2019年05月12日 小金井福音キリスト教会 説教

聖書
・創世記 第17章 1 - 7 節
・マタイによる福音書 第1章 15 - 17 節
・使徒行伝 第7章 6 - 8 節

説教題 「 受け継がれる神の祝福 」



20195月第2主日礼拝説教「受け継がれていく約束と祝福」 20195.12
旧約書:歴代誌下615節~17
福音書:マタイによる福音書130節~38
使徒書:使徒行伝76節~716

 先週の礼拝説教で、私は使徒行伝612節~78節の御言葉、とりわけ71節から始まるステパノの長い弁明から、イスラエルの民の信仰の原点は、神がアブラハムに「あなたの土地と親族から離れ、私が示す地に行け」と言われた言葉に聞き従ったということにあると申し上げました。

 そして、その際、ステパノは、神がアブラハムに「あなたの土地と親族から離れ、私が示す地に行け」と言われた言葉の後に続く

わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される

と言う祝福の言葉をあえて省略することで、神の言葉に聴き、それに応答し神の言葉に聴き従うということが、信仰なのだということをお話しました。神の言葉に聴き従いと言うことにな、神に対する信頼があるからです。
 しかし、聖書には、神がアブラハムに「あなたの土地と親族から離れ、私が示す地に行け」と語られた後に、祝福の約束をされたのはまぎれもない事実です。そして、その祝福の約束は、アブラハム自身がその繁栄を享受するものではなく、むしろアブラハムの子孫が受ける祝福の約束でした。
 だからこそ、ステパノはアブラハムが神の言葉に聴き従って、神が導き招き入れた約束の地カナンで「遺産となるものは何一つ、一歩の幅の土地すらも、与えられなかった」と言うのです。そして「ただ、その地を所領として授けようとの約束を、彼と、そして彼にはまだ子がなかったのに、その子孫とに与えられたのである」とステパノは言う。

 しかし、そのようにアブラハムの子孫に、神がアブラハムを導き連れてきたカナンの地で土地を与える約束するのですが、しかし、同時に「彼の子孫は他国に身を寄せるであろう。そして、そこで四百年のあいだ、奴隷にされて虐待を受けるであろう」とも言われる。
 まさに、神の約束してくださったカナンという地を所領として与えられるが、しかし、400年間、外国で奴隷生活をおくり、虐待されるとも言う。それが今日の聖書朗読の箇所にある使徒行伝に76節から7節です。
 そこには、アブラハムに与えられた祝福の約束というものは、ただカナンの地で土地が与えられ、財産が増し加えられるという「この世」的な繁栄の約束ではなく、むしろ、奴隷の地から救い出されるという神の救済の業(救いの業)に基づいて、人々が神を礼拝するものとなることが祝福なのだという神の救いの歴史、すなわち救済史的な意味が窺われます。

 「奴隷の地から救い出されるという神の救済の業(救いの業)に基づいて、人々が神を礼拝するものとなることが祝福なのだ」というのは、少しわかりずらい表現かもしれませんね。要は、こういうことなのです。神の祝福は、私たちが「この世」という神に敵対する世界で、罪の奴隷にされている状態から解放されて、神の恵みが支配する神の国の民とされ、神と共に生き、神を礼拝する神の民となることなのだということなのです。 
 そのことを、神は具体的にアブラハムの子孫であるイスラエルの民の歴史を通して私たちに示してくださっているとステパノは言いたいのです。その救いの歴史のはじまりが、今日の聖書朗読の箇所の使徒行伝78節から始まります。そして、その救いの歴史の始まりに、また神は、アブラハムに割礼の契約をお与えになったというのです。

 この割礼の契約とは、創世記171節から12節のことが念頭に置かれていると思われます。すなわち、アブラハムが99歳の時の出来事です。 
 神はアブラハムに子供が与えられ、子孫が増え広がっていき、その子孫を通して神の祝福が広がっていくと約束されました。それが創世記12章の約束でした。しかし、アブラハムにはなかなか子供が与えられなかったのです。
そこでアブラハムは、養子を迎えたりとか自分の正妻のサラでなく、側女のハガルによって子供を設けるなど、様々なことをして子孫を残そうとするのですが、アブラハム99歳、妻サラが90歳という、もはやアブラハムとサラの夫妻の間に子供が生まれるということなど考えられない段階になって、神はアブラハムと妻サラの間に子供が生まれるというのです。その時に神は、そのことを単なる約束としてではなく、約束よりもより強い意味合いを持つ契約としてアブラハムに約束なさったのです。

みなさん、契約は必ず履行されなければなりません。アブラハムが99歳で妻のサラが90歳と言うもはや子供は絶対にこの夫婦の間に生まれないという状況の中で、神は必ず契約内容を履行しなければならない契約としてアブラハムとの間に約束を結ぶのです。

みなさん、その際、神はアブラハムに「あなたは私の前に歩み、全き者であれ」と言うことを求めます。考えてみますと、契約というのは一方的に結ばれるものではありません。契約を結ぶ双方が、互いに契約が履行されるようにしなければならない。つまり、アブラハムの側になすべき努力が求められるのです。その努力というのが、あなたは私の前に歩み、全き者であれということなのです。
この「私の前に歩み、全きものであれ」と言うのはどういうことなのでしょうか。そのことを知るためには、創世記15章にまで遡る必要があるように思われます。というのも、実は神がアブラハムと契約を結ぶという出来事は、もともと創世記15章において起こっていた出来事だからです。それは創世記1518節から21節です。そこにはこうあります。

その日、主はアブラムと契約を結んで言われた、「わたしはこの地をあなたの子孫に与える。エジプトの川から、かの大川ユフラテまで。 19:すなわちケニびと、ケニジびと、カドモニびと、 ヘテびと、ペリジびと、レパイムびと、21:アモリびと、カナンびと、ギルガシびと、エブスびとの地を与える」。

 ここにおいて、神はアブラハムと契約を結んだと言われています。しかも、使徒行伝76節でステパノの引用した「彼の子孫は他国に身を寄せるであろう。そして、そこで四百年のあいだ、奴隷にされて虐待を受けるであろう」という言葉は、この創世記1519節から21節で結ばれる契約の際に先駆けて、13節から16節で神がアブラハムに語られた言葉の内容を引用しているのです。お読みします。

時に主はアブラムに言われた、「あなたはよく心にとめておきなさい。あなたの子孫は他の国に旅びととなって、その人々に仕え、その人々は彼らを四百年の間、悩ますでしょう。14:しかし、わたしは彼らが仕えたその国民をさばきます。その後かれらは多くの財産を携えて出て来るでしょう。15:あなたは安らかに先祖のもとに行きます。そして高齢に達して葬られるでしょう。16:四代目になって彼らはここに帰って来るでしょう。アモリびとの悪がまだ満ちないからです」。

このように、まさにステパノが「彼の子孫は他国に身を寄せるであろう。そして、そこで四百年のあいだ、奴隷にされて虐待を受けるであろう」と言って旧約聖書を引証したその内容が記されています。 
つまり、イスラエルの民へに神の祝福と言うのは、イスラエルの民が奴隷と言う経験をし、その奴隷から解放されることを通して実現されるものであるというのです。その創世記15章の契約が17章で更新されるのですが、しかしなぜ、その契約更新がなされなければならなかったのかというと、そこには15章と17章の間にある16章の出来事がある。

みなさん、創世記16章に何が記されているかと言うと、アブラハムとその妻サラが、自分たち夫婦に子供が与えられるのはもはや考えられないから、サラに仕えていた女奴隷のハガルをアブラハムの側女にして、そのハガルによって子供を設け、その子をアブラハムの後継ぎにしようとしたという出来事です。そして、実際にハガルによってイシュマエルと言う子供が生まれる。

みなさん、この創世記16章の出来事は、神の契約において、神がなすべき業をアブラハムとサラが行おうとしているということを私たちに示している出来事です。神が、アブラハムに1518節から21節で契約を結んだのは、同じ156節にありますように、「アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた」からです。では何を信じたか。
それはアブラハムが、自分の奴隷であるエリエゼルを養子にし、その子供に自分の跡取りにしようとした際に、神が、「あなたに子供が生まれる。そして、その子に後を継がせなさい」と言う神の言葉を信じたのです。そこにはアブラハムの信仰がある。その信仰よって神はアブラハムと契約をなさるのです。それが創世記156節の「アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた」と言う言葉に集約されている。

しかし、アブラムは、その神の「あなたの子供が生まれる」と言う言葉を、自分たちなりに受け止め、そして、自分たちの計画と自分たちの業によってなそうとしたのです。しかし、神の言葉の下で子供が生まれる、子供が与えられるということは神がなされる業だということです。それを、アブラハムとサラは自分たちでやろうとした。神を全く信頼する信仰に翳りが起こったのです。 
そのことを受けて、神は「あなたは私の前に歩み、全き者であれ」といって契約の更新なされる。つまり、神がアブラハムに「あなたは私の前に歩み、全き者であれ」と言われたのは、アブラハムに神を信じる信仰、神を信頼する信仰において全き者であれ」と言われたのです。その全き信頼があってはじめて、神は神の業をなされることができる。そこに人間の業が入り込まないからです。

ですから、みなさん。神の祝福を得ようとしたら、人間は、じたばた自分で何かをしようとしてはだめだってことでしょうね。祝福は神がなされる業ですから、自分で神の祝福が何であるかを決め、その祝福を実現しようとしてはだめなんだ。祝福は神の業なのだから神を信頼し神に委ねてこそ初めて実現するものなんだということでしょう。 
もちろん、だからといって私たちは良い加減であったり、神が喜ばれないような生活や生き方をしていいわけではありません。それは神の民、神の子らしい生き方をするものとなって生き必要があります。しかし、それは祝福を得るためではなく、祝福をもたらすためでもありません。むしろ、神の祝福の中を生きる者とされているからこそ、聖なる生き方、聖い生き方を生きるのです。

そのような聖なる生き方へと私たちを導き入れてくださる神の祝福は、神を信じる信仰によって与えられる契約によるのです。その契約は、神の救いの歴史を通して私たちに受け継がれています。それは、アブラハム・イサク・ヤコブとして受け継がれ、ヤコブの12人の子を族長として増え広がったイスラエルの民として受け継がれ、そして、先ほど司式の兄弟にお読みいただいた新約聖書マタイによる福音書115節から17節にありますように、ヨセフを夫つするマリヤによってイエス・キリスト様に繋がっている。 
そして、このイエス・キリスト様によってあのアブラハムによって結ばれた契約が受け継がれ、さらに新しい契約として更新されたのです。それは、エジプトの地で奴隷となっていたイスラエルの民がその奴隷の地から解放させ、神の約束の地であるカナンの地に帰ってきて神を礼拝し、神と共に生きる祝福を約束した契約が、イエス・キリスト様を信じ、イエス・キリスト様を信じ「イエスは主なり」と告白する者は、罪と死の支配する「この世」から解放され、神の国の民とされるという祝福をもたらす新しい契約への更新なのです。

みさん、私たちはこの新しい契約に基づく神の祝福を受け継ぐ者です。そしてその契約によって神の子とされているのです。だからこそ私たちは、神を見上げ、契約の基となったイエス・キリスト様を見上げながら、神の民、神の子とさえたものとしてふさわしく神の前で歩む者でありたいと思うのです。お祈りしましょう。

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