2018年9月10日月曜日

キリストの復活の上に立つ教会


189月第1主日、第2回創立記念聖餐式礼拝    2018.9.2
説教題「キリストの復活の上に立つ教会」

旧約書:ネヘミヤ記81節から8節(旧約聖書pp.6749
福音書:ルカによる福音書2444節から53(新約聖書p.134)
使徒書:コリント人への第一の手紙151節から9節(新約聖書pp.273247

 今日は、私たちの教会が小金井福音キリスト教会として出発して2回目の創立記念礼拝です。201691日に、旧三鷹キリスト教会と旧キリスト信愛会小金井教会が統合され、一つの教会として「再生」された日です。

 その統合されたことを記念し感謝するこの今日の礼拝の説教を、いったいどの聖書個所からすればよいのか、少々迷いました。普段ですと、決められた手順によってあらかじめ決まっている聖書個所から説教の準備をするのですが、今日は逆に創立記念礼拝という説教の枠組み決まっています。いうなれば語るべき説教のお題があらかじめ決まっている。ですからその枠組みに応じてふさわしい聖書個所を選ばなければなりません。
もちろん、選ぶとはいっても勝手に偉くのではなく祈りつつ選んでいくのですが、最終的には、いつもの礼拝と同じように、前の週に説教しました聖書個所に続く箇所からお話しさせていただくようにと導かれました。ですから、ルカによる福音書2444節から53節までの箇所にある神の言葉に耳を傾けたいと思います。だからといって、創立記念の感謝と言うお題を無視したと言うわけではありません。いろいろと考えあぐねていく中で、この箇所こそが今日の創立記念礼拝にふさわしいと思いに導かれていったのです。

そのように導かれたこのルカによる福音書24章全体は、イエス・キリスト様の復活に関する3つの物語が綴られている章であり、この44節から53節は、その締めくくりの章です。
では、なぜそのイエス・キリスト様の復活の物語が、教会の創立記念の礼拝にふさわしいのでしょうか。それは、教会が復活なさった「キリストのからだ」だからです。この「教会はキリストのからだである」ということは、エペソ人への手紙123節でいわれていることです。そこにはこうあります。

   この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。

 このように、「教会はキリストのからだ」であるといっていますが、それは何もお題目的に「教会はキリストのからだ」といっているのでもなく、また神学的概念として、教会というものを比喩的・抽象的に言っているのではありません。教会とは、まさに十字架で死なれたよみがえられたイエス・キリスト様ご自身なのです。

みなさん、先週、私たちは同じルカによる福音書2433節から43節の御言葉から聖書を説き明かす説教の言葉を聞きました。そこで語られたのはイエス・キリスト様は霊だけではなく肉体をもって復活なさったお方だと言うことです。だからイエス・キリスト様は弟子たちが差し上げた魚を食べになった。よみがえられたイエス・キリスト様はこの世界に具体的に体をもってよみがえられたのです。
しかし、そのイエス・キリスト様は、今日の聖書個所の50節から53節のあるように弟子たちから離れていかれたのです。この弟子たちから離れていかれたという言葉は、イエス・キリスト様が天に昇られたという事態を指し示しているのだろうと思われます。ですから、私たちが用いている口語訳聖書では括弧書き(〔〕)ですが、天に昇られたと書かれている。つまりこの地上にはもはや復活のイエス・キリスト様の肉体は残されていないのです。では何が残されたのか。教会です。みなさん教会が、復活のイエス・キリスト様の体として残されたのです。

そうです。教会が復活のイエス・キリスト様の「からだである」。たとえば、みなさん。マタイによる福音書の1820節には「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」とあるでしょう。そのようにイエス・キリスト様と深く結びあわされた一人一人が集うところに、実体としての教会という「キリストのからだ」があるのです。そしてその「キリストのからだなる教会」は、具体的にイエス・キリスト様の業を行うのです。

 みなさん、さきほど「教会はキリストのからだである」と言うお言葉は、エペソ人への手紙123節にあると申しましたが、その同じエペソ人への手紙220節から22節には次のように書かれています。

21またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。21:このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、22:そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである

 ここでは、イエス・キリスト様は隅のかしら石であると言われていますが、隅のかしら石とは、建物の土台の中で最も重要なもので、二つの壁がその隅のかしら石に寄りかかりながら、互いの重さを隅にかしら石によって支え合って立っているのです。ですから、その隅のかしら石をとってしまうと、建物は崩壊してしまうのです。 
 そういった意味では、、隅のかしら石は建物のかなめと言ってもいい。その教会のかなめであるイエス・キリスト様に私たしひとりひとりのクリスチャンが寄りかかっている。そのように、ひとりひとりがイエス・キリスト様に結びつき寄りかかることでイエス・キリスト様と一つに結ばれ、また一つの教会として結ばれているのです。考えてみると、教会の重要な儀礼である礼典は洗礼と聖餐は、イエス・キリスト様と一つということを表す礼典であるといえます。

 昔、私が聖書学院の修養生だったころ、聖書学院の教授だったK先生が洗礼について、洗礼と言うのは、穴の開いた敗れたバケツを水に浸けるようなものだと言っておられました。穴の開いた敗れたバケツは、バケツとしては役に立たない。水をためることができないからだ。しかし、そのんな役立たずのバケツも水につけて浸すと水と一体になってその内側には水が一杯になっている。そんなもんだと言うのです。つまり、私たちひとり一人は、穴の開いたバケツのようなもので神の前には役に立たないものだが、洗礼によってイエス・キリスト様と一つになることで、イエス・キリスト様のとって役立つもの、イエス・キリスト様の業をなすものとなることができるのだと言うことです。
 また、聖餐については、次にようにも言っておられた。それは、古代イスラエルにおいては、何か契約を結ぶときに共に食事をした。それは同じ食べ物を食べ、同じ飲み物を飲むことで、契約を結んだ両者に同じ肉ができ、同じ血が流れようになると考えた。そのように契約を結んだ二人が同じ体同じ血を持つ一つのものとして結ばれている。聖餐式はそのこと土台として、私たちひとり一人がイエス・キリスト様の新しい契約によってイエス・キリスト様と一つに結ばれ、またそのイエス・キリスト様を通して私たちひとり一人も互いに一つに結ばれているということを繰り返し味わい、経験することなのだと言うのです。 
 もちろん、洗礼と聖餐には、K先生が教えられた意味よりもっと多様な意味があります。しかし、まあ修養生の一年生を教えている中で言葉ですので、多くの側面をのでは教え語り聞かせるなく、わかりやすく一つのことだけを教えられたのでしょう。いずれにしても、聖餐と洗礼という礼典は、私たちがイエス・キリスト様と一つに結ばれていると言うことと密接に関わっているのです。そして、それによってまた、私たちひとりひとりもイエス・キリスト様を中心にして、イエス・キリスト様によって教会という「キリストのからだ」を造り上げていくのです。

 みなさん、私は、さきほど実体としての「キリスとのからだ」を造り上げていくと申しました。そして、その「キリストのからだなる教会」は、キリストの業を行っていくと申し上げました。しかし、私たちがキリストの業を行っていくとしても、行う業がキリストの業である以上、イエス・キリスト様のことを知らなければなりません。私たちがイエス・キリスト様と言うお方を知らなければ、イエス・キリスト様のことを伝えられもしなければ、イエス・キリスト様の業も行えないのです。だから知らなければならない。

 先ほど、私たちは、コリント人への第一の手紙151節から9節の御言葉を耳を傾け聞き、そして目を開いて読みました。そこでは、コリント人への第一の手紙の著者であるパウロが、コリントの教会の人たちに、福音の言葉を思い出してほしい訴え、その福音の言葉はパウロ自身も受けたことであった。ということです。
 福音の言葉をパウロ自身も受けたということは、パウロもまた、「これは伝えるべき大切な教会の教えだ」としておしえられ伝えられたものであると言うことです。そしてそれがパウロが153節の後半から4節の福音の言葉の

3b:キリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、4:そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったことなのです。

と言うことなのです。そして、そのことを証拠立ててるかのようにして5節以降の言葉が続くのです。すなわち

5:ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。6:そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。7:そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、8:そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである。 

とパウロは言う。この5節以降の言葉は、ケパ、すなわちペテロの経験であり、十二人と呼ばれていた使徒たちの経験であり、また五百人以上の弟子たちやパウロの経験がかたられていますが、その経験はあくまでも3節後半と4節の「3b:キリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、4:そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと」の確かさを伝えるためのものなのです。ですから、パウロが教えられ、そして、パウロも教え伝えた教会の大切な教えとは3節後半と4節の言葉なのです。そして、みなさん、その3節後半から4節の教えこそが、今日の聖書個所であるルカによる福音書244647節で言われている言葉と重なり合うのです。4647節をお読みします。

45そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて 46:言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。47:そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。

 このように、復活なさったイエス・キリスト様が弟子たちに現れ、弟子たちにおしえられたことが、教会の教えとして重要視され、ほぼ誤りなくパウロに伝えられ、そのパウロからコリントの教会に人々に伝えられたのです。しかも、大切なことは、イエス・キリスト様は聖書を説き明かしながら、この事を伝えたと言うことです。
 この時にイエス・キリスト様やパウロが言っている聖書とは旧約聖書のことです。新約聖書が新約聖書としてまとめられ意識されるのは、イエス・キリスト様やパウロの時代よりずっと後ですので、ここで言う聖書とは旧約聖書を指しているのです。そして、その旧約聖書を解き明かしながら、イエス・キリスト様は

   「キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。47:そして、その  
  名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの 
  国民に宣べ伝えられる」という教会の大切な教えとなる事柄をおしられたのは44節の
  後半にあるように「モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてある  
  とは、必ずことごとく成就する」

と言うのです。
モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」ということは、旧約聖書全体にイエス・キリスト様のことが書いてあると言うことでもあります。旧約聖書の記述は、すべてイエス・キリスト様というお方に既決していくのです。

 みなさん、先ほど司式の兄弟に旧約聖書ネヘミヤ記81節から6節を読んでいただきました。ネヘミヤ記というのは、その前にあるエズラ紀と共に、エルサレムの再建物語であり、いうなればイスラエルの民の復活の物語なのです。イスラエルの国はバビロン帝国に敗れ、神殿や城壁は壊され、神の都エルサレムは破壊しつくされました。そしてイスラエルの民の多くは。捕囚の民としてバビロンに連れていかれました。そして最初の捕囚から始まって70年あまりバビロンに奴隷としてとらわれていたのです。そのイスラエルの民が、バビロン帝国がペルシャに敗北し、ペルシャ帝国が、イスラエルの民を支配する時代になった際に、ペルシャの王キュロスによって、奴隷の身分から解放されることになります。そしてエルサレムに戻り、神殿を再建し、エルサレルの城壁を作り直したのです。のいきさつがエズラ記、ネヘミヤ記として書き記されている。

 そのように、エルサレムが復活すると言う出来事の最中(さなか)に、エズラが律法を読み聞かせ、それを聞き解き明かしの出来る人がエズラが読み上げる律法の言葉を聞き、イスラエルの民に説き明かして聞かせたのです。そうやって、律法の言葉の意味するところを悟らせた。それが、このネヘミヤ記8章の1節から8節の要旨です。
 このとき、エズラが読み上げた律法がとは、おそらくはモーセ5書であったと思われます。モーセ5書には、イスラエルの民の歴史と共に、神がイスラエルに与えた律法と、その神の律法に従って生きて行きますと言うイスラエルの民の誓約が記されている。つまり、律法とは、イスラルの民の誓約を伴う神とイスラエルの民との契約なのです。
 エズラはその神というラエルの民の計釈を延々と読み上げるのです。そして、7節以下に名前が記されている人々が、それを説き明かす。このように、エズラが律法を読み聞かたのは、単に神殿が再建されるという外的な復興だけでなく、イスラエルの民に神を信じ、神の言葉である律法が示す教えに従って生きる信仰の復興を願ってのことであろうと思われます。そこには、イスラエルの国が本当復興するために、ただ、神殿が再建され城壁がしゅうるくされると言った外面的な復興だけでなく、その背後に信仰の復興がない限りイスラエルの国の復興はないという強いエズラの確信・信念といったものが感じられます。

 その律法が語られ、それが解き明かさるという出来事があった時、先ほどお読みいただいた箇所の少し後の9節を見ますと、律法の言葉と読み聞かされ、それを説き明かされた民は涙を流し泣いたとあります。イスラエルの民が涙を流して泣いた理由は記されていません。ある聖書注解者(鈴木昌:実用聖書注解、いのちのことば社)は、律法を読み聞かされ、説き明かされることで、自分自身の内面を探られ悔い改めの涙を流したのではないかと言います。確かにそういったこともあったでしょう。あるいは、イスラエルと神の民との間の歴史を顧みながら、自分たちがバビロンに捕らわれの身となった出来事にイスラエルの民という共同体が神に背いていた結果であることを覚え、涙を流したのかもしれません。
 ところが、イスラエルの民を治める提督であるネヘミヤと祭司であり学者であるエズラは、涙を流して泣いているイスラエルの民に「泣くな」というのです。それは、主の聖なる日だからだと言うのです。だから「涙を流さず憂うな」というのです。
 それは、律法が読み上げられ、イスラエルの民が名実ともに神の民として回復されたからです。もはやバビロンの奴隷としてではなく、解放された神の民としての歩みが始まったのです。だからこそ、かつてエジプトで奴隷となっていた民が、解放され、神の律法が与えられたように、バビロンから解放された民にも律法のが与えられ、その教えが解き明かされていったのです。そういった意味では、律法は罪に縛られていた神の民が、その罪の支配から解放された神の民として生きる証であると言ってもよいかもしれません、したしかに生きる証なのです。

 そのような、イスラエルの民の歴史を紐解くかのようにして、よみがえられたイエス・キリスト様は、「モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」といって、教会と言う新しい神の民の群れに、その罪のゆえに奴隷とされて苦しんでいたイスラエルの民を繰り返し解放なさる旧約聖書の物語を紐解きながら、イエス・キリスト様が、「苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。47:そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる」という大切な教えを、イエス・キリスト様が天に帰られた後に、この地上の世界に残された新しい神の民の群れであるキリストのからだなる教会に、教え聴かせ、悟らせたのです。そして、弟子たちは、それを福音の言葉として伝えて行った。。
 それは、私たちを罪と死が支配する世界から解放する教えであり福音です。この口語訳聖書では、罪の赦しを得させる悔い改めとなっていますが、この赦しと言う言葉のギリシャ語(φεσιν)は解き放つと言う意味を持つ言葉です。ですから、それは、私たちひとり一人が犯した罪を赦すというよりも、むしろ罪の支配からの解放と言う意味として捉えられるものです。
 そして、そのようにイエス・キリスト様が十字架の上で苦しまれ、三日目に死人の内から蘇られたと言うことは、まさにイエス・キリスト様が、私たちを支配している罪と死に打ち勝たれたお方となったということです。その勝利者としてのイエス・キリスト様の「からだなる教会」をたてられたのです

 みなさん、私は今年の聖書学院の入学式に出席したのですが、その際、聖書学院の院長N
先生がメッセージをなさった。その時N先生は、福音と言う言葉の意味についてこう言われた。すなわち「福音とは善い知らせということですが、そのもとの原語でギリシャ語エヴァンゲリオンと言う言葉は、戦いにおいて王が勝利をしたというその勝利の知らせをエヴァンゲンリオンというのです」と言われたのです。
 そうなのです。イエス・キリスト様は「この世」に来られ、「この世」を支配している罪と死に打ち勝たれ、教会と言う神の王国をお建てになったのです。ですから、イエス・キリスト様が、「苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえられた」のですから、イエス・キリスト様の弟子となり、イエス・キリスト様を信じる者の群れは、罪と死の支配から解放され、自由にされた民として、たとえ苦しみや試練が襲ってきたとしてもその苦しみから解放されるように互いに愛し合いながら、また支え合いながらイエス・キリスト様によって一つに結ばれた教会と言う「キリストのからだ」をつくり上げていくのです。

 みなさん、私たちもそのような教会を造り上げるために、三鷹キリスト教会から、またキリスト信愛会小金井教会からここに呼び集められ小金井福音キリスト教会という教会に「再生」され、新しい教会を創立し、歩んできているのです。そして私たちは、復活のイエス・キリスト様に結ばれ一つとなって、小金井福音キリスト教会と言う「キリストのからだ」において、復活の主を証しつつ、この罪から解放する言葉を語り伝えていくのです。お祈りしましょう。

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