2018年9月16日日曜日

2018年9月16日 小金井福音キリスト教会 説教

聖書個所
・サムエル記上 第12章 7節~18節
・ルカによる福音書 第24章 44節~53節
・使徒行伝 第1章 1節~11節


説教題 「 神の王国の証人 」




 先週は、一週間の夏休みをいただきましたが、先々週の礼拝において、一応ルカによる福音書からの説教は一区切り致しました。一応と申しましたのは、今週から、使徒行伝を中心として連続して御言葉を取り次いでいくからです。

 では、なぜ、ルカによる福音書からの説教が使徒行伝からの説教に移り変わることが一応になるのかと申しますと、この二つの書が同じ著者によって書かれたものであり、使徒行伝はルカによる福音書の続編といった意味合いがあるからです。もちろん、ルカによる福音書も使徒行伝も、それぞれが独立した書物として完結したものです。ですからこの二つの書は、一つの物語が二つに分断されて記されているというわけではありません。しかし、この二つの書は、その主題や歴史観、神学的理解において一貫しており、共通しているのです。 
 その共通性というのは、イエス・キリスト様によって神の国、それはイエス・キリスト様を王とする神の王国がこの世界に到来し、それが、ユダヤから始まり、サマリヤ、そして地の果てまでと言ったふうに世界に広まっていくのだということです。 そして、それぞれが完結しつつも主題や神学、歴史観が一貫し、共通している二つの書物を結び合わせている箇所が、今日の聖書個所である使徒行伝11節から11節までとルカによる福音書244453節なのです。

 この二つの書物における接続部分は、イエス・キリスト様が十字架に架けられ死なれた後に、3日の後に復活なされ、弟子たちに現れ弟子たちを教えられ、天に昇られたということを記しています。それに対して、ルカによる福音書は、イエス・キリスト様がよみがえられたその日の出来事に集中して書かれているのに対して、使徒行伝の方では、40日にわたって、弟子たちに現れた出来事について書かれているという点で違いがあります。また、イエス・キリスト様が天にあげられる様子などが、使徒行伝の記述がより詳細です。
 そして、イエス・キリスト様が弟子たちに教えられた内容は、ルカによる福音書はイエス・キリスト様が「苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえられ、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ということであり、あなたがたはエルサレムから開始して、これらの証人になるというものであったのに対し、使徒行伝は、40日の間にわたって神の国について教えられたとなっています。

 もっとも、先々週の創立記念記念礼拝の説教で、お話ししましたように、イエス・キリスト様が、「苦しまれ、三日目に死人の中からよみがえり、罪の赦しを得させる悔い改めがあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ということは、イエス・キリスト様の十字架の死と復活によって、「キリストのからだなる教会」がこの世界に打ち建てられたということを意味しています。罪の支配に縛り付けられていた私たちが、イエス・キリスト様によってもたらされた神の恵みが支配する「神の王国」に迎え入れらるのです。それが福音の中心にあるメッセージです。

 その神の王国についてイエス・キリスト様は40日間の間にわたって弟子たちに教えられたのです。それは「キリストのからだなる教会」こそが、具体的に「神の王国」を目に見える形で表すものだからです。ところが、弟子たちは「主よ、イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか」という的外れな質問をします。
 この弟子たちの質問は、弟子たちがイエス・キリスト様から神の王国について教えられているのも関わらず、彼らはイスラエル民族によって構成されるイスラエルの国が復興されることだと考えてたことを示しています。つまり、彼らは、イエス・キリスト様のもたらす神の王国というものが何であるかということがわからなかったのです。

 ではみなさん、そもそも神の王国とは、いったいどのようなものなのでしょうか。
 
 聖書において、この地上に具体的に現れる神の王国というもについて最初に言及された箇所は、サムエル記上の記述に見ることができます。中でも先ほど司式の方にお読みいただいたサムエル記上127節から18節、旧約聖書pp.397398になりますが、そこには、神の王国というものの本質が記されていると言ってもよいでしょう。

 そもそも古代イスラエルの国を構成していた12の部族は、アブラハムの12人の息子につまがる家系につながる人々です。そのイスラエルの12部族が、アブラハムにとって孫にあたるヤコブの時代に飢饉を逃れてエジプトに移り住みました。エジプトでも生活は最初は良かったのですが、そこは移住してきた民族です。やがて子孫が増え広がっていく中で疎んじまれ、奴隷とされ支配されててしまいます。
 その苦しみの中で、神はモーセを遣わしエジプトに支配されていた中から救い出し、ヨシュアがそのイスラエルの民を神の約束の地であるカナンの地、今日のパレスティナ地方に導き入れて下さった。ここに古代イスラエルの国の起源があります。そして、その地で、それぞれの氏族が割り当てられた土地で独立してその地を治めるようになったのです。ここに古代イスラエルの国の起源があります。しかし、その国はまだ王政であありません。
 イスラエルの12部族は、それぞれが独立自治をおこなっていました。そして、何かしらの法律的な問題が起こった際には士師と呼ばれる裁き司がその問題に対処していました。その士師たちの中には、他民族や他の国からイスラエルの民が襲われたときには軍事的なリーダーとなって、他民族や外国との闘いを指導した人たちがいました。ギデオンやサムソンと言った人たちです。そのような士師たちの働きが記されているのが旧約聖書の士師記ですが、イスラエルの民は、そのような士師記の時代から王政へと移っていきます。彼らが、イスラエルの民自身が、12氏族がそれぞれ、独立自治を為すいわば合衆国のような形態ではなく、ひとりの王を建て、その王の権限の下でまとめ上げられた中央集権的な国家形成を求めたからです。

 なぜ、イスラエルの民がそのように王を求めたのかということについてはいろいろな事情があったのだろうと思いますが、士師の時代のイスラエルの国は、周りの民族や国々から攻め入られたとき、そのつど12の氏族から人々が寄せ集まり、言わば民兵のような集団を作り敵に立ち向かっていました。寄せ集めの民兵ですから、決して強くはない。それに対して、イスラエルの国の周辺では、王を建て、軍隊が整備することによって軍事的に強い国家が起こってきたという背景もあったでしょう。
 また、サムエル記8章に見られるように、それまでサムエルやサムエルの預言者としての師であるエリのような預言者がイスラエルの民の裁き司としてイスラエルの国を導いていましたが、その後継者に指名されたエリの息子やサムエルの息子たちが、イスラエルの民を裁く裁き司にふさわしくない言動をしていたこと目撃していましたので、もう預言者に裁き司を任せられないという思いがあったのかもしれません。

 いずれにせよ、彼らはイスラエルの民の上に軍事的に強力な指導者となる王を建て、その王によって導かれる国家形成を目指したのです。つまり、そのように王を立てることは、イスラエルの民の側、いうなれば人間の側から出た求めであり要望でした。それに対して、神は、イスラエルの民に王を建てるということを望んではいなかったのです。
なぜならば、イスラエルの民の王は神ご自身だからです。イスラエルの民、それは神の民と言ってもいいでしょう。神の民は、神ご自身が王となられて、その民を治めるからこそ神の民なのです。ですから、人間の側が求め、その求めによって王を建てるということを神は望んでいなかったのです。 

けれども、イスラエルの民があまりにも強く人間の王を求めるので、神はサウルという人物を王としてお与えになった。そのサウルが王となり、イスラエルの民の上に王を立てて、その人間の王によって治められる王国を築i立つのです。その王国を築くにあたって、新しく築かれる王国が神の王国が神の王国となるために神は預言者サムエルを通して神の王国の本質を語ります。それが、まさにこのサムエル記上127節から18節までに記されている。 
そこでサムエルは、語ったことはイスラエルの民の歴史です。それは神がイスラルの民をお救いになった救いの歴史です。具体的には、奴隷となっていたエジプトの国から導き出し、神がカナンの地をイスラエルに与えたという解放の歴史であり、また、そのような救のわざに与ったのにもかかわらずイスラエルの民が神を忘れててしまいバアルやアシュタロテといった他の神々を崇めるようになり、周りの国から攻め込まれるという苦難を経験する中で、イスラエルの民が神に立ち帰り、神を呼び求めるようになった時、神が士師たちをたててイスラエルの民を救われたという歴史です。サムエルは、そのように神の救いの歴史を示し、神がイスラエルの民を神の恵みの元で導いてこられた歴史を示すながら、次のように言うのです。

13:それゆえ、今あなたがたの選んだ王、あなたがたが求めた王を見なさい。主はあなたがたの上に王を立てられた。14:もし、あなたがたが主を恐れ、主に仕えて、その声に聞き従い、主の戒めにそむかず、あなたがたも、あなたがたを治める王も共に、あなたがたの神、主に従うならば、それで良い。15:しかし、もしあなたがたが主の声に聞き従わず、主の戒めにそむくならば、主の手は、あなたがたとあなたがたの王を攻めるであろう。

 ここで言われていることは、一言でいえば、イスラエルの民も、また王となった者も神の言葉に従うのであれば、人を王として立て王国をた築くということも良いであろうということです。しかし、神の言葉に聞き従わないというようなことになるならば、その王国は神に撃たれ、神の子らしめを受けることになるということです。つまり、神がお建てになった王国は、たとえ人が王となっていようと神の王国なのであって、その神の王国は、人々が、神に従う道から外れず、心を尽くして主に従う(1220)者たちの国なのだということなのです。その神の王国では王であろうと一般の民衆であろうと、神に聞き従う者となる。そのような者たちが集っているところに神の王国が築き上げられるのです。

 それは、イエス・キリスト様が「この世」にもたらした神の王国においても同じです。ところが、イエス・キリスト様の弟子たちは、そのことがわからなかった。だから、ローマ帝国の支配のもとにおかれ、実質は失われてしまったイスラエル民族の王国がイエス・キリスト様が王となることで復興することを願い、「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」とたずねるのです。

 この問いは、これからその弟子たちによって、エルサレムから始まって、ユダヤとサマリヤの全土、更に地の果てにまで、イエス・キリスト様によってもたらされた神の王国である「キリストのからだなる教会」をお建てになろうとなさっているイエス・キリスト様にとっては、なんともがっかりするような質問だった妥当と思います。けれども、そのようにイエス・キリスト様が語られる神の国の教えを理解することができずに的外れの質問をする弟子たちに、イエス・キリスト様は、こう言われるのです。

7:時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。8:ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう

 確かに、弟子たちはイエス・キリスト様の言うことが理解できないでいる。けれどもみなさん。そのような弟子たちなのではありますが、その弟子たちに聖霊なる神様が下り、彼らが聖霊を受けるとき、力を受けて、「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたし(すなわちイエス・キリスト様)の証人となる」というのです。
 「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで」というのは、地域や民族を超えてすべての国のすべての人にということです。それこそ、すべての国、すべての人にイエス・キリスト様のもたらした神の王国の到来という善い知らせ告げ知らせ、そしてその神の王国が、「この世」という世界に目に見える形で現れ出た「キリストのからだなる教会」を建て上げていくというのです。

 当然その時には、イエス・キリスト様の弟子たちは、もはやイエス・キリスト様が語られた神の国の教えについて理解できないも者たちではありません。ちゃんと理解してわかっているのです。わかっているからこそ、伝え、教え、「キリストのからだなる教会」を建て上げて行ったのです。つまり、弟子たちが、聖霊を受けるとき、力を受けるというのは、宣教する力を受けると言うだけでなく、イエス・キリスト様の語られたこと、聖書が語っていることを理解する力を得るということでもあるのです。

 みなさん。お恥ずかしいことなのですが、末席ではありますが、私も牧師という職務に与っている。牧師という仕事は何をするかというと、それは様々なことがある。それこそ牧会という名の下でなさる様々なことがあります。説教をすること、礼典を執行すること、伝道をすることと様々です。
 そう言ったわけで、私自身、ときどき自分は何をやっているのだろうかと自分のやっていることが分からなくなってしまうようになってしまう一瞬があります。しかし、そのような中、様々な働きの根底にあってもっと大事なことは、神の言葉である聖書の言葉を学び、信仰というもの向き合い、考えるということではないかと思っています。ちょっとカッコよく言うならば、神学をするということです。ですから私のモット―は「牧師は神学者たれ」ということです。
 そんなわけで、自分なりに一所懸命、聖書を学び、キリスト教の歴史を学び、教理を学ぶということを続けているのですが、こと聖書を学び信仰について考えていくと、本当に信仰とは奥深いな、聖書の言葉は本当に奥が深いなと思わされます。それこそ、聖書の言葉を解釈し理解して、それをもって信仰ということを語るということはとても大変なことです。

 ところが、その聖書の言葉が、すっと心の中に入ってきて腑に落ちるということがある。本当なら、まずは聖書を解釈をする、釈義をすしてから、聖書に書かれていることを理解するという作業をしていきます。それこそギリシャ語やヘブル語を調べたり、歴史的背景をしらべたりするといった、極めて時間と手間暇がかかるようなことを積み重ねて聖書の言葉を理解していくのです。ところが、そんな作業をすっ飛ばして、聖書の言葉がすっと心のに入る混んできて、聖書が私に何を語ろうとしているかがわかる一瞬がある。
 みなさん、そんなことはないですか。それまでなかなか理解できなかった聖書の言葉がふっと心に開かれて分かったと思うようなことがないでしょうか。私は、そのようなときに、ああ、聖霊なる神様がおしえてくださったんだな、わからせてくださったんだなと聖霊なる神様の働きを感じるのです。そしてそれが、クリスチャンとして生きて行く力になる。問題や試練を乗り越えていく力になる。

 当たり前のことですが、それが、普遍的真理であるとか聖書の解釈・釈義として妥当であるかどうかといったことは別の話です。私個人に聖書が語りかけてくださったということと、聖書を釈義し解釈するということは別のも代です。そのような私個人に関わることだけでなく、他の人や教会にもおよぶ問題について、聖書が何を語っているかという問題は、、最終的には聖書の解釈や釈義と言った学問的手続きをもって検証されなければなりません。しかし、聖書が「私」という一人の人間にがいかに生きてくかという問題においては、神は聖霊なる神をお持ち稲荷、「私」という一人の人間に語りかけ、慰め、力を与え、この「私はどう生きるべきか」ということに決断をする力を与える。これは、学問的手続きや神学を超えた聖霊なる神様の豊かな働きなのです。
 みなさん、聖霊を受けるとき、力を受けるということはそういうことなんだと私は思う。そして、そのようにして神の前に生きている一人一人が、私に語りかける神の言葉に従い生きるとき、それがキリストを証しするということです。そして、そうやって一人一人が神の言葉に聞き従っいながら寄り添って生きていくところに「キリストのからだなる教会」が建て上げられていき、神の王国が著されていくのです。

 もちろん、聖書の言葉が私に語りかけたという経験は、私という一人の人の主観の中で起こること、平たく言えば私の心の中で起こることですから、私のも思い込みや、自が願っていることを聖書の中に読み込んでしまっているという危険性もあります。そういった時こそ牧師に頼っていただければと思います。牧師はそういった時のために、「この世」にある仕事から離れ、聖書を学ぶことに専念し、「神学者たれ」という生き方をしているのですから。だから、そのようなときは頼って下ればと思う。

 けれども、だからと言って、恐れることはないのです。聖霊なる神は、私たしに大胆に働きかけ、大胆に聖書の言葉分からせてくださり、私たちを慰め、励ましてくださいます。そして、私たちをキリストの証人として用いて下さり、「キリストのからだなる教会」を通して神の王国を伝え示すものとしてくださるのです。
 使徒行伝は、そのようにしながら宣教の業が広がり、教会が建て上げられていき、神の王国が「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで」という、地域や民族を超えてすべての国、すべての人伝えられていった宣教の報告書なのです。そして、その宣教の報告書はまだ完結していません。私たちがその未完の宣教報告書に書き加えていくのです。ですから、私たちはその未完の宣教報告書を完成させていくためにキリストの証人として生きて行こうではありませんか。お祈りします。

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