2018年09月23日 小金井福音キリスト教会 説教
聖書個所
・列王記下 第2章 7節~14節
・ヨハネによる福音書 第15章 12節~19節
・使徒行伝 第1章 6~11節
説教題 「キリストの昇天と使命を受け継ぐ教会」
今日の説教の中心となるのは。使徒行伝1章6節から11節です。とりわけ、9節から11節のイエス・キリスト様が天に昇られた昇天の出来事に目を向けたいと思います。
イエス・キリスト様は十字架に架けられ、死んで葬られ、三日目に死人の内からよみがえり、そして天に昇られました。これは、先ほどみなさんと一緒に唱和した使徒信条にもある言葉です。十字架で死なれたイエス・キリスト様が弟子たちの見ている前で天に昇られた。それは、全き神であり、全き人であるイエス・キリストの「この世」での生涯の最後の出来事でした。ところが、このイエス・キリスト様が天に昇られたという出来事を四つの福音書のいずれにも記されていないのです。ただ、ルカによる福音書は24章51節で、わすかにこの昇天の出来事を臭わせている記事が出ているだけです。
私たちの教団では口語訳聖書を公用聖書として使っていますので、口語訳聖書でルカによる福音書24章51節を見てみますと、そこにはカギ括弧で〔天にあげられた〕と書いてあります。これは聖書の写本の中にこのように書かれたものがあるということで括弧がきで書かれているのですが、おそらくこれは、ルカによる福音書と同じ著者によって書かれた使徒行伝に昇天の記事がありますので、聖書の写本をする段階で、このルカより福音書24章21節の「祝福しておられるうちに、彼らを離れて」と言う言葉は、昇天のことを指しているのだろうと考えて書き加えたのではないかと思われます。そもそも、もともとあったのであれば、削除する必要はないわけですから、書き加えらたと考える方が妥当です。
いずれにしても、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネのいずれの福音書も、イエス・キリスト様が天に昇られたということに触れていないのです。ただルカだけが、使徒行伝において、このイエス・キリスト様が弟子たちの目の前で天に昇られたという出来事を記すのです。
人が天に引き上げられ登っていくというようなことは大事件です。なのにルカが使徒行伝の1章9節から11節で取り扱うだけで、福音書はそのことに何も触れないとは一体どういうことかと不思議な気持ちになります。ひょっとしたら、このイエス・キリスト様の昇天の記事はルカが創作した物語ではないかなどと言う思いもしないわけではありません。しかし、だとしたら少なくとも、ルカによる福音書が同じ著者によって書かれているのであるならば、ルカによる福音書でも何らかの形でイエス・キリスト様の昇天に出来事にふれてもよさそうなものです
ですから、ルカは、あえて意図的にルカによる福音書ではこの昇天の物語に触れず、使徒行伝だけに書き記したと思われます。そういったわけで、福音書に全くイエス・キリストの昇天の記事がないからと言って、その史実性を問題にしたり、軽視する必要まったくありません。それは、神の言葉である聖書が書きしている出来事なのです。神様が、ルカを通して、神の言葉としてイエス・キリスト様が使徒行伝の1章9節から1節を通してイエス・キリスト様が天に昇られた記事を書き記したのです。この昇天の出来事を書き記させたのも神様であるなら、この昇天の記事を福音書に書きとどめられなかったのも神様です。ですから、福音書には何の記述もなく使徒行伝だけに書き記されているという現象も、そこには何か神様の深いお考えがあると考えるべきです。
では、その神様のお考えとは一体何か。考えますに、おそらく、福音書において昇天の出来事が取り扱われることがなかったのは、福音書というものの関心が、「この世」にあってイエス・キリストがいかに生きたかということを伝えることにあるためであろうと思われます。そのような視点においては、イエス・キリストがいかに「この世」を去ったかは関心の外の出来事です。
しかし、使徒行伝の関心は違います。使徒行伝の関心は、「この世」にあってイエス・キリスト様がいかに生きられたかではありません。イエス・キリスト様が去った後に、どのように教会がこの世界に形成されていったかと言う歴史を記すというところに使徒行伝の関心がある。
このような視点に立つとき、昇天の出来事は極めて重要な意味を持ってきます。というのも、イエス・キリストの肉体が「この世」を去られて天に帰られたがゆえに、この地上には、「キリストのからだなる教会」が建て上げられていくからです。
みなさん、仮にイエス・キリストがこの地上に居られる限り、「キリストのからだ」は、今日のユダヤ地方、それはパレスティナの一地方ですが、その場所に縛られます。そしてその行動の範囲も限定されてくる。それに対して、イエス・キリストが昇天し、天にあげられたイエス・キリストと入れ替わるように聖霊が下り、その聖霊の働きによって、教会が「エルサレム、ユダヤとサマリヤ全土、さらに地の果てまで」(使徒一・八)イエス・キリスト様が証され、「キリストのからだなる教会」が建て上げられ行くとき、イエス・キリスト様の「からだ」は世界中に存在し、神の国が世界中に広がっていく。なぜなら、イエス・キリスト様ご自身が神の国だからです。
使徒業伝はまさにそのことを伝えるのです。そういった意味で、まさにこの昇天の出来事こそが、世界中に広がるキリスト教会設立にとっての重要なターニングポイントとなるのです。
肉体をもって復活したイエス・キリストは、四十日にわたって弟子たちに神の王国について教えられた。それは、まさに使徒行伝が最初に伝えたことです。その神の王国は、神の恵みが支配する国です。そしてその神の恵みの支配は、まずイエス・キリストご自身の内に成就した。
ですから神の王国とは、イエス・キリスト様ご自身であると言えるのです。その神の王国が「キリストのからだなる教会」に受け渡され、受け継がれていった。それが、イエス・キリストの昇天の出来事を機に行われたのです。だから、ルカは使徒行伝で、このイエス・キリスト様の昇天の出来事を伝えずにはいられなかった。いや伝えなければならなかったのです。そうしなければ、教会が教会である根拠を明らかにすることができないのです。
みなさん、聖書において、イエス・キリスト様以外に天に昇ったという表現がなされる人物はほとんどいません。わずかにエノクとエリヤのみなのです。その中でエノクについていえば、創世記5章24節が、アダムの系図を書き記す中で「エノクは神と共に歩み、神が彼を取られたのでいなくなった」と伝えるだけで、聖書それ自身はエノクが天に昇ったということについて何も語っていない。ただ、へブル書11章5節に「エノクは天に移された」といってエノクの天に昇ったという出来事を示唆するのです。このようにへブル書が聖書ん書かれていないエノクの昇天について言及するのは、おそらくそれはエノクについての伝説的物語によるものであると考えられるます。
実際、エノクについての伝説がいくつかのものが伝えらていたようです。その中に確かに、エノクが生きたまま天にあげられたということを伝える伝説がある。しかし、仮にこのへブル書11章5節がエノクに対する伝説的な物語に立って述べられたとしても、へブル書自身が、この11章5節で指し示していることは、使徒行伝にあるイエス・キリスト様の昇天とは、少々意味合いが違っている。と言うのもエノクの昇天を伝えるへブル書の意図は、神に忠実に生きた者に対して与えられる祝福を提示するということであって、その持つ意味は神の国が受け渡されていく転機としてのイエス・キリストの昇天とは性質が異なるものです。
それに対して、先ほど司式の兄弟にお読みいただいた列王記下2章にあるエリヤの昇天の記事は極めて興味深い内容です。と申しますのも。このエリヤの昇天の記事は、単にエリヤが天に昇ったという物語を伝えるだけでなく、むしろエリヤの昇天の物語を用いながら、そこにエリヤの権威と使命がエリヤからエリシャへ受け渡されるという権威と力と使命の委譲の物語が語られているからです。
この権威と使命の受け渡しの物語は、エリヤがその弟子エリシャとの別れを告げるところから始まります。エリシャは自分がこの世を離れるということをどうやら薄々感じていたようです。ですからエリヤは自分の愛弟子のエリシャに別れを告げようとする。その別れを告げるエリヤに、エリシャはエリヤの霊を継がせてほしいと求めるのです。
このエリシャの求めにエリヤは具体的に答えることはありませんでしたが、ただエリヤがつむじ風に乗って天に昇ったあとにエリヤの外套が残される。この外套は、エリヤとエリシャの別れの場面の直前に、エリヤがその外套でヨルダン川の水を打ち、水を二つに割ってヨルダン川を渡った。その外套が残された残されたのです。
みなさん、エリヤが水を左右二つに分けたという物語はモーセの紅海渡歩やヨシュアのヨルダン渡歩の物語を思わせます。そして、エリヤがヨルダン川を左右に分けたという出来事は、エリヤの預言者としての権威と力が、あのモーセやヨシュアに匹敵するものであることを私たちに教えます。いえ、単に匹敵するという比較の問題ではない、何よりも、この川の水を二つに分けた行為によって、エリヤの預言者としての権威と力、それはモーセからヨシュアに受け継がれた神の人の持つ権威であり、力であると、私たちに語りかけてくる。
エリヤの外套は、そのモーセからヨシュア、そしてエリヤと受け継がれてきた神の人の権威と力の象徴です。そのエリヤの外套が残され、それをエリシャが受け継いだ。この外套を受け継いだエリシャがエリシャのように水を打つと、エリヤの時と同様に、水が左右に割れたました。この水が左右に分かれたという出来事の後、エリコにいる友人をエリシャが訪ねますと、その友人はエリシャをみて「エリヤの霊がエリシャの上に留まっている」と言う。こうして、神の人エリヤの権威と力はその愛弟子エリシャへと受け渡されていったのです。そして、そこからエリシャが預言者としての使命に立つ。
この権威と力の委譲の物語は、イエス・キリスト様の昇天の物語において、再び物語られます。それはイエス・キリスト様の神の子としての権威と力が、キリストの権威が、イエス・キリスト様に従う弟子たちの群れである教会への受け渡されて浮く委譲の物語です。それはイエス・キリストの昇天の物語は、聖霊降臨の物語と相まって、イエス・キリストの霊を覆う外套のごとき肉体が、「キリストのからだなる教会」となって具体的に存在するものとなったことを私たちに伝える物語なのです。
だからこそみなさん、「キリストのからだなる教会」はイエス・キリストを頭に抱き、全き人となった神の子であるイエス・キリストの権威と力を与える聖霊の力を受けて、「この世」にある神の王国としてキリストの業を行うのです。イエス・キリスト様が天に昇られたという物語は、単にイエス・キリスト様の「この世」というこの地上での働きが終わったという終わりの物語ではありません。
イエス・キリスト様の権威と力とが教会という「キリストのからだ」に譲渡され、教会が「キリストのからだなる教会」としてキリストの業を行う使命の立つものとなった始まりを伝え、それが今も受け継がれていることを伝える物語なのです。というのも、イエス・キリスト様が天に昇られたその場所には、白い衣を着たふたりの人がおり、弟子たち「イエス・キリスト様が天に昇られたように、再び来られる」というキリストの再臨を思わせる言葉を伝えているからです。
もちろん、その再臨の時がいつになるかは私たちには分かりません。しかし、イエス・キリスト様ご自身が再び来られる問うのですから、その時が来るまで、教会はイエス・キリスト様から受け継いだキリストの業を行っていかなければなりませんし、行っていくのです。イエス・キリストの昇天の出来事は、教会がイエス・キリスト様の働きを受け継ぎ行うものとなった始まりの出来事であり、イエス・キリスト様が再び「この世」に来られるまで、その働きを続けていくのです。
そのキリストの業とは、キリストの受肉と十字架と復活において表されたキリストの全生涯であるといえます。そしてそのイエス・キリスト様の全生涯は愛で貫かれていた。
みなさん、先ほど司式の兄弟にお読みいただいたヨハネによる福音書15章12節から19節の言葉を思い出してほしいのです。みなさん、このヨハネによる福音書の14章、15章、16章は、イエス・キリスト様が十字架に架かって死なれる前に最後に語られた告別説教であると言われる箇所です。そこでイエス・キリスト様は、後にキリストのからだなる教会を築き上げていく弟子たちに向かって語られたのです。
その告別説教の中で、イエス・キリスト様は弟子たちに戒めとして語られたないようが、15章12節から19節です。そしてその教えの内容が「わたしが愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」です。単に「愛し合いなさい」というのではない、「わたしが愛したように、互いに愛し合いなさい」と言うのです。
まさに、「愛する」というイエス・キリスト様の業を受け継いで愛し合う。だからこそ、「人がその友のために命を捨てること、これよりも大きな愛はない」と言うのです。それは、イエス・キリスト様が私たちを罪の支配から解放するために十字架の上で命を投げ出した愛です。その愛を模範とし、その愛に倣い、その愛を受け継いで愛しなさいと言われる。そのために、あなたがたを選んだのだとイエス・キリスト様は語るのです。
その友のために命を捨てる愛、そのような愛をもって愛し合うということは、到底できないと思うほど難しことです。それができるとイエス・キリスト様は言われる。もし、私たちが「この世」のものなら、確かにそのような愛で愛することはできません。でも、神にキリストの弟子として選ばれているのです。そして、選ばれて新しい神の民として生まれ変わっているのです。そして生まれ変わっているからこそ、それができる。また、出来るように権威も力も、そして助け主なる聖霊さえも与えてくださっているのです。
あの告別説教で、イエス・キリスト様は、「この世」はあなたがたを憎むとと言われます。それは、命を捨てるまでにとも愛するイエス・キリスト様を「この世」が憎むからです。イエス・キリスト様を憎んだ「この世」は、「キリストのからだなる教会」が、そしてその「からだなる教会」に結び合わされた弟子たちにイエス・キリスト様の権威と力を譲渡されたから憎むのです。
それほど、教会は大きな力と権威を教会は受け継いでいるのです。それはつまり、私たちが受け継いでいるということなのです。それほどまでに、イエス・キリスト様は私たちを信頼して下さり、私たちにご自身の業を委ねてくださっている。
イエス・キリスト様の十字架の死が、神様とイエス・キリスト様の私たちに対する愛の証であるとするならば、イエス・キリスト様の昇天は、神様とイエス・キリスト様の私たちに対する信頼の証であると言えます。
そのように、互いに愛し合い、支え合い、神をほめたたえつつ、宣教の業に励むというキリストの業を生きる教会、それが使徒行伝全体に貫かれている教会の姿です。そしてその姿は2000年前の教会の姿と言うだけではなく、今日の教会にも求められている姿です。
みなさん、キリスト教会の歴史は、この使徒行伝の時代から2000年の時が立っています。その間、教会は失敗もしてきましたし、過ちも犯してきた。その都度、教会は自らの在り方を反省し、改革を行ってきました。そのような教会の改革がなされるとき、しばしば、スローガンとしてかかげられる言葉は、「初代教会に帰ろう」ということです。
初代教会と言う言葉は、今日の厳密さを求められる神学の世界では使い方に注意を必要とする言葉になっていますが、要は、使徒行伝の時代のような教会に帰ろうと言うのです。それは、まさにイエス・キリスト様の権威と力を委譲され、神の愛によって一つに結ばれた、神の愛を実践していた教会です。
みなさん、私たちは、神の民となり、キリストの愛の業を実践するものとして神に選ばれているのです。キリストの愛を実践する「キリストのからだなる教会」を建て上げる者として召されているのです。そのことを覚え、私たちの信仰に誇りをもって、キリストの愛の業を行い、証しするものとなっていきましょう。それは、互いにいたわりながら、そして思いやりながら歩むあゆみに中に現れてくるものなのです。
お祈りしましょう。
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