2018年9月30日日曜日

18年9月第5主日礼拝説教「御心を祈る祈り」


2018年09月30日 小金井福音キリスト教会 説教

聖書個所
・詩篇 第33篇 8節~15節
・マタイによる福音書 第26章 36節~44節
・使徒行伝 第1章 12節~14節

説教題 「 御心を祈る 」


 さて、今日の礼拝説教は使徒行伝112節から14節までです。イエス・キリスト様が十字架に架けられ死なれ、三日後によみがえった後、40日間にわたって弟子たちに顕われ、神の国について教えられました。それは、イエス・キリスト様がこの世を去って天に上げられた後に、弟子たちがイエス・キリスト様の権威と力を受け継ぎ、世界中にキリスト様のからだなる教会を建て上げる為でした。

 そして、その40日が過ぎたとき、イエス・キリスト様のお体はオリーブ山から天に挙げられ、雲に包まれ見えなくなってしまいました。完全にイエス.キリスト様のお体はこの世界から去ってしまったのです。これからは、弟子たちがキリストのからだなる教会を建てあげて行かなければない。その時がやって来たのです。

 イエス・キリスト様が天の挙げられたあと、弟子たちは、イエス・キリスト様の昇天があった場所であるオリーブ山からエルサレムに帰ってきます。オリーブ山はケデロンの谷を挟んでエルサレムの街の東側にある小高い丘陵地帯です。標高825mとも言われますが、一般に言われるオリーブ山はこの丘陵地帯の南峰のことだそうで、そちらの標高は808mほどだそうです。シオンの丘の上に建てられているエルサレムが標高760mですから、エルサレムより48mほど高いことになります。

 48mはだいたい20階建てのビルぐらい高さですので、オリーブ山からは十分にエルサレムの街を見下ろせただろうと思います。そのオーブ山から弟子たちはケベロンの谷をむかって山を下り、またケベロンの谷からエルサレムに昇っていく。その道々、弟子たちは何を考え、何を思っていたのか。聖書は何も告げていません。ただ淡々と、オリーブ山は、エルサレムから安息日に歩くことが赦されている距離であった伝えるのです。

 この安息日に歩くことが許される距離というのがだいたい900メートルぐらいですから、確かにオリーブ山はエルサレムからそう遠くはないところにあることが分かります。そのオリーブ山か帰ってきた弟子たち、それはイエス・キリスト様の昇天の出来事を見届けた者たちですが、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマスとバルトロマイとマタイ、そして、アルパヨの子ヤコブと熱心党員のシモン、ヤコブの子ユダの11人がそのメンバーでした。

 この11人は、12弟子といわれるイエス・キリスト様の直弟子たちです。もちろん当然といえばとうぜんですが、そこにはイエス・キリスト様をサンヘドリンの議会に売り渡したユダは入っていません。そのユダを欠いた11人は、宿屋の2階の部屋でイエス・キリスト様の母マリヤやイエス・キリスト様の兄弟たちとでひたすら祈りをしていた人達です。

 このひたすら祈りをしていたと言う言葉を原語を直訳すると、彼らは心を一つにしてともに祈る者であることに固執していた。あるいは心を一つにしてともに祈る者であることから離れなかった。という訳になります。つまり彼らは祈り手であることに専念し、祈ることに常に従事していたと言うのです。

 何をそんなに熱心に祈ったのか。聖書は何も語りません。しかし語らなくても伝わって来る。彼らは、これからイエス・キリスト様にかわって教会を建て上げていく使命を与えられた人たちです。だから、これから教会を建てるのだ。神の国をこのイエス・キリスト様のいない世界に広げていくのだと言う思いの中で祈っている。
そこには不安もあるでしょう、恐れもあるでしょう。よしやってやろうと言う思いもあったに違いない。そのような様々な思いが交錯する中で、彼らがとった最初の行動は、心を一つにして祈るということでなのです。

 教会を建て上げていくためにまず最初にしなければならないこと、それは祈ると言うこと。「いや伝道することではないか」、「福音を伝えることではない」か。そう思われるかたもいらっしゃるかもしれませんが、それは教会を大きくすることであって教会を建て上げることではありません。

みなさん、教会と言う言葉はギリシャ語でεκλλησιία;呼び集められた者の集まり、つまり神に呼び集められた神の会衆の集まりだと言います。けれども、クリスチャンがただ呼び集めら、クリスチャンの集まりができただというそれだけで教会が立て上げられるわけではないのです。どんなに多くの人が集まっていても、それだけでキリストのからだなる教会にはなりません。

たとえば、使徒たちが教会を建て上げて行った使徒行伝の時代、εκλλησιίαと言う言葉は様々な人の集団に使われていました。パウロがエペソで伝道をした際に、デメテリオという銀細工で神殿の模型を作って金儲けをしていた職人が、その同業者たちに、パウロが手で作ったものは神ではないといって自分たちの仕事を邪魔しているとけしかけて大騒動が起こったと言う記事がでていますが、この同業者の集まりもεκλλησιίαと呼ばれるものです。

 ですから、単にεκλλησιίαと言うだけでは教会にはならないのです。そこには教会は教会らしくなければなりません。では教会を建て上げるとして、その教会とはどのようなところか、教会とは言った何なのか。
みなさん、教会は神の王国です。神の王国は神の恵みが支配するところです。ですから、教会には慰めがなければなりませんし、安らぎがなければなりません。もちろんそれは、礼拝や礼拝の説教に慰めや癒しは励ましがなければならないと言うこともありますが、しかし礼拝だけのことではなく教会に来ると、教会の交わりの中に何か気が重くなるとか、心が痛むとか、傷つくと言うことは、本来はあってはならないことです。でも実際にはそういうことがある。

 もちろん、そのようなことは乗り越えられていかなければなりません。そのような教会のほころびは修繕され、より善い教会にならなければなりません。そして、そのような教会になりためには、祈ることが必要なのです。あの宿屋の2階で11人になった使徒たちとイエス・キリスト様の家族たちが心を合わせて祈っていたのは、より善い教会を建て上げるためなのです。イスカリオテのユダがいなくなり、12弟子に一人かけた状態の欠けのある11人の弟子たちが、欠けのない教会を気付き上げるために一つに心を合わせて祈っている。

 みなさん。以前にもお話ししたことがありますのでおぼえている方もいらっしゃるかもしれませんが、私の恩師のひとりであるM牧師が、ある教会に招かれていったときにこのような話があったんだと教えてくだいました。M牧師が、招かれてた教会は、ちょうど教会創立何十周年目かの記念の年を迎えて、教会の皆さんが喜んでその何十周年目かを記念する行事を行おうといくつかの計画を立てた。その中に記念誌を作り、教会の歩みをまとめようではないかと言う計画があったのです。

 それで、教会の青年が中心になって教会の歴史を調べていると、その教会が第2次世界大戦のときに戦争に協力をしてたと言うことが分かった。それで、青年たちは、自分たちの教会の戦争責任を明らかにして、そのことを悔い改める必要があるのではないかと言い出した。そのことが教会の中に微妙な空気を生み出してしまったと言うのです。それは、その教会には、その戦争に協力していた時代の教会の人がまだいらっしゃったからです。
だから、戦争を知らない世代の青年のクリスチャンたちと実際に戦争の時代を生きた世代の年配の方々の間に亀裂が入ってしまったと言うのです。

 そこまでお話になると、M牧師は私に「濱君、その時彼らはどうしたと思う」と質問されるのです。「どうしたと思う」と言われても、私には「話し合いをした」とか「青年が一生懸命説得した」と言ったことしか思い浮かびませんでしたが、みなさんはどうでしょうか。

 しばらくしてM牧師は「濱君、彼らはね祈祷会を始めたんだ。そして共に祈ることを始めた。そうすると自然と問題が解決して、共に喜んでその何十周年目かの記念の時を迎えられた」と言うのです。

 戦争を知らない青年たちは、苦しい戦争を経験してきた世代の人たちの心を思いやる思いやりに欠けていました。また戦争を経験した時代の年配の方々は、自分たちの歩みを振り返り、それを神に問うと言う姿勢を欠いていたのです。そこには。欠けのある教会がある。その共に欠けをもったものが、共に集まり、ともに祈っていくときに、そこに和解が起こり、そしてより善い交わりが築き上げられるようになっていった。心を一つにして祈るということは、そこに和解を生み出すのです。みなさん。心を一つにすると言うことは、言葉にして言うことはたやすい言葉です。たった2文節しかない簡単な言葉です。しかし、実際に心を一つにすると言うことはとても難しいことです。

 一人一人が、様々な思いを持っている。一人一人が自分はこれが正しいと言う答えを持っている。こうすればいいと思っている。これが良いことだと思い確信している。ですから、その様々な思いを一つにすることは簡単なことではありません。どちらかを立てれば、どちらかが立たないと言ったことが実際には起こるのです。そのような違いを祈りは一つにする力がある。なぜならば、祈りは神の御心を求めることだからです。誰かの意見や思いを選ぶと言うことではなく、神の御心を求める。それが祈りを通して一つになると言うことなのです。そして、神の御心を真実に祈り求めるとき、自分の痛みを受け止めることができる。

 みなさん、先ほどマタイによる福音書の2636節から44節までを司式者にお読みただましたが、この箇所は、有名なゲツセマネの祈りの箇所です。このゲツセマネの祈りにおいて、イエス・キリスト様は、ご自身の十字架の死を予見して、父なる神に、願わくば十字架の死と言う苦しみを取り去ってくださいと祈ります。しかし、二度、三度と祈る中で、父よ、あなたの御心のままになさって下さいと言う祈りに代わっていく。

 イエス・キリスト様が、自分の願いではなく神の御心のままになることを求めるということは、神の御心の前に自分自身が十字架の死を負うことを引き受けると言うことです。そこには、痛みがあり、苦しみがある。けれども神の御心を求めるときに、その痛みや苦しみをも引き受ける覚悟ができるのです。

 ですから、みなさん。祈りは人を変えていきます。「できることならこの杯を取り除けてください」という自己中心的な自己実現を求める祈りから、「あなたの御心を行ってください」という神の御心を求める神中心の祈りに代わっていく。そこには、自己中心的な生き方から、神中心的な生き方へと変わっていく人間の姿がある。イエス・キリスト様のゲツセマネの祈りは、そのように変わっていく人間の姿を私たちに教えてくださるものなのです。

 みなさん、神の御心を求めるということで心を一つにしてともに祈るとき、その祈りに加わっている一人一人が神の御心がなされるために、自分自身の思いを神の前に差し出します。自分の思いや願いでなく神の御心がなされることを願い、それゆえに自分の思いや願いを取り下げるという痛みを負うことができるのです。

 あのエルサレムの宿屋に2階には十数人の人が集まっていました。それぞれがイエス・キリスト様から託された使命である神の王国であり、キリストのからだである教会を建て上げるために様々な思いや願いを持っていたでしょう。ただ単にそれをぶつけ合っていたならば、彼らは決して一つにはなれなかったでしょうし、教会が建て上がっていたかどうかは疑わしいものです。けれども、神の御心が成ることをもとめ、神の御心を求めていくとき、心を一つにすることができるのです。

 彼らは心を一つにして共に祈る者であることに固執していた。あるいは心を一つにしてともに祈る者であることから離れなかった。と言う聖書の言葉は、彼らが何を祈り求めていたかを私たちに教えます。そうです。彼らは神の御心を求めていた。それを求める覚悟ができていたから、心を一つにしてともに祈る者であることに固執し、共に祈る者であることから離れなかったのです。

 みなさん、私たちが真摯な思いで神の御心を求め、それを実現しようと努め励むならば、神の御心は必ず実現します。神の御心ならばなるから、私たちは神の御心だけを祈っていればいいと言うことではないのです。ああ、ここに神のお心があるんだ言うことを私たちが掴んだならば、そのお心が地にもなるように、私たちもキリストのからだとして、神のお心が地になることのために努力し務め、励むのです。なぜならば、教会はキリストのからだとして、イエス・キリスト様から権限も力も委譲され、この世で神の業を行う存在だからです

みなさん。先ほどのお読みいたし来ました詩篇338節から11節までは、神のお心は必ず地になされると言います。

   8全地は主を恐れ、世に住むすべての者は主を恐れかしこめ。9:主が仰せられると、そのようになり、命じられると、堅く立ったからである。10:主はもろもろの国のはかりごとをむなしくし、もろもろの民の企てをくじかれる。11:主のはかりごとはとこしえに立ち、そのみこころの思いは世々に立つ。

そのように神のお心が実現するところが本来の教会なのです。そして、神のお心は、私たちにとって喜ばしいことなのです。たとえそこに痛みを伴うことがあっても、それは喜びの知らせをもたらすものです。詩篇を記した新人は言葉を続けます。

12:主をおのが神とする国はさいわいである。主がその嗣業として選ばれた民はさいわいである。13:主は天から見おろされ、すべての人の子らを見、14:そのおられる所から地に住むすべての人をながめられる。15:主はすべて彼らの心を造り、そのすべてのわざに心をとめられる。

 みなさん。教会は神を神とて建てられる神の王国です。そこは幸いな場所であり、神を信じ教会に呼び集められ民は幸いな民です。私たちはそのような民として、この教会に呼び集められ、神の御心を求める心をもって神を王とする神の王国、キリストのからだなる教会を気付き上げる業を担っています。神は、その御心を求める心を私たちに造ってくださるのです。

 私たちは神の王国の民であり、ひとつのキリストのからだなる教会を造り上げるひとり一人です。そして、そのような教会を建て上げるには、まず共に心を一つにして祈ることから始まるのです。

 今日の教会を置かれている状況は、共に心を一つにして祈ると言う場を持つことが難しくなってきている時代です。実際、祈祷会に出席する人が著しく減ってきていると言う現実がある。それは私たちの教会でも同じです。だからと言って、私はみなさんに、祈祷会に出席しましょうと発破をかけるつもりはありませいん。もちろん、祈祷会がさかんになることは良いことですし、祈祷会に出ようと言う気持ちが起こってくることは喜ぶべきことです。

しかし、今の私たちが置かれている環境を考えると、祈祷会に出席できないということもやむを得ないと言う気持ちもあります。ただ、幸いなことは、一つにするのは心です。神のみ心を求める心を一つにするのです。祈る場所を一つにすると言うのではない。そして心を一つにすると言うことは、場所や時間が違っても出来ることです。ですからみなさん、今、こうして小金井福音キリスト教会と言う教会を建て上げている私たちは、まず心を一つにし、神の御心を求めるところか始めてまいりましょう。お祈りします。

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