2018年10月7日日曜日

2018年10月7日 小金井福音キリスト教会

聖書箇所
・創世記 17章 1節~2節
・ルカによる福音書 15章 1節~10節
・使徒行伝 1章 15節~26節

説教題「 復活の証人として生きる 」


 今日は、10月最初の礼拝です。その今日の礼拝では聖餐式礼拝の説教の箇所は、使徒行伝115節から26節です。この箇所は、12使徒と呼ばれる特別な立場の弟子にマッテヤという人が選ばれたと言うことを伝える箇所です。

 12使徒が特別な立場であったのは、もともと12使徒というのはイエス・キリスト様が直接お選びになった弟子たちだったからです。その12使徒のひとりのイスカリオテのユダがイエス・キリスト様を裏切ってしまい、そのユダの裏切りがきっかけでイエス・キリスト様が十字架にかけられてしまった。
 当然、イスカリオテのユダは他の使徒の仲間の下に戻ってくることはできません。それどころか、そのイスカリオテのユダは良心の呵責からでしょうかマタイによる福音書の275節では、首をつって死んだと言われています。今日の聖書個所の使徒行伝11819節でも括弧書きの中でユダがどのような死に方をしたかがマタイによる福音書のものよりより詳しく、そして詳しいだけにその最後が悲惨なものであったかが刻銘に書かれています。

 それは使徒行伝の著者であるルカが、このようにイスカリオテのユダの悲惨な最期を語る背景には、イエス・キリスト様を敵の手に売り渡したものの最後が如何に悲惨なものに終わってしまったかを記すことで、神の計画を妨げようとするものに待ち受けている恐るべき運命を示しものであり、イスカリオテのユダはその様な運命に陥ったのだと言うことを着てある意図があったのではないかとも言われますが、確かにそのような事だったのかもしれません。そして、それもまた聖書の預言するところであったとルカは言うのです。

 いずれにしても、このイスカリオテのユダがイエス・キリスト様を裏切り死んでしまったことで、12使徒と呼ばれる特別な立場にある弟子たちに欠員がっ出来てしまったので、その欠員を補充するために、新しく12使徒となる一人を選ぼうとしたのです。
 この12弟子が特別な立場であったと言うのは、イエス・キリスト様がルカによる福音書222829節で次のように言われているからです。そこにはこうあります。

それで、わたしの父が国の支配をわたしにゆだねてくださったように、わたしもそれをあなたがたにゆだね、わたしの国で食卓について飲み食いをさせ、また位に座してイスラエルの十二の部族をさばかせるであろう。

ここには、12使徒と呼ばれる弟子たちは、神の国の支配を委ねられ、イスラエルの12部族を治める立場になるのだと言われている。最も新しい訳の新改訳2017ではもっと明快に訳されています。お読みしますと

わたしの父が私に王権をゆだねてくださったように、私もあなたがたに王権をゆだねます。そうしてあなたがたは、私の国でわたしの食卓について食べたり飲んだりし、王座にについて、イスラエルの12部族を治めるのです。

このように、12使徒は教会という神の国の王座に就き、神の民を治めるという特別な使命を負っているのです。もちろん、王権を委ねられ王座について神の民を治めるといっても、この世に君臨してきた王たちのように、偉い人になって受けから仕えられながら治めると言うのではありません。むしろ一番弱い者のようになって、仕えられるものではなく仕える者としての王としての働きに召されているのだと、このルカによる福音書221819節の直前にイエス・キリスト様は言われている。

 この神の民に仕え、支え、支援し、正しい歩みに導く働きのために、12使徒は特別な立場にある者として選ばれているのです。その中のひとりが欠けている。今、まさにもうじき、「キリストのからだなる教会」という12使徒が委ねられた神の王国が始まろうとしているその時に、12使徒のひとりが欠け、完全な状態ではなくなっている。 
 12人がきちっとそろった完全な形の12使徒となって、彼らはイエス・キリスト様から権威と力と使命を全うしようとして新しい使徒を選ぼうとするのです。その時に、彼らは12使徒として選ぶための条件を決めます。それは、122節にありますようにヨハネのバプテスマの時から始まって、イエス・キリスト様が弟子たちの下を離れて天に上げられた日に至るまで、始終イエス・キリスト様とまたほかの12人と行動を共にした人だということです。

 11人の弟子たちが根是このような条件を出したのかは定かではありません。ただ、イエス・キリスト様が12弟子に王権を委ねると言われたときに、あなたがたは、「わたしの様々な試練の時に、一緒に踏みとどまってくれた人たちです」といって、「あなたがたに王権を委ねます」と言っておられますので、イエス・キリスト様のご生涯のすべてをその目で見ており、またイエス・キリスト様の語られたことを直接その耳で聞いた人が、それをかたり聞かせる為であっとろうと思います。

 それは、人間の人生の中には様々な苦難や試練があり苦しみや悲しみがあるからです。
そのような様々な試練の時に、私たちの主であるイエス・キリスト様も同じような苦しみを味わい生きられたそのお姿を、神の民が心に思い浮かべることができるためです。そのために、イエス・キリスト様のご生涯が語られなければならいのです。
だからこそ、そのイエス・キリスト様のご生涯のすべてをその目で見、イエス・キリスト様の語られた言葉をその耳で聞いた人から使徒を選ぼうとしたと言うことではなかろうかと思うのです。そして、こういうのです「わたしたちに加わって主の復活の証人にならねばならない」

 イエス・キリスト様のご生涯には、様々な試練や苦しみがあった。その試練がもたらす苦しみと痛みの中を生きたご生涯の最後が十字架の死でした。いろいろな試練を経験し、苦しいことや心に痛みを感じることが多くあった生涯の最後が、弟子たちの中のひとりい裏切られて十字架に磔られて死ななければならない。
 そのような人生を思い起こさせても、そこには希望は見いだせません。そのような人生が語られても、そこからは何の慰めも得られませんし、希望もない。ところが、イエス・キリスト様のご生涯は、その十字架の死では終わらなかった。死からよみがえるという復活の出来事があるのです。

 イエス・キリスト様は試練を経験し、苦しみも知っている。死という人間の最大の苦悩をも知っておられる。そのお方がわたしと共にいてくださると思うだけでも、それは大きな慰めなのかもしれません。けれども12弟子たちが語り聞かせなければならないのは、それだけであってはならないのです。
かれらは、イエス・キリスト様が死からよみがえるという復活の出来事を語り聞かせなければならないのです。それは、この復活の出来事は苦悩の中にあっても、試練の中にあっても、そこから必ず立ち上がることができるのだと言うことを私たちに教えてくれる出来事だからです。それが、たとえ死という私たちには決して抗えないような苦しみや悲しみであっても、それを乗り越えていく希望を与え力を与えてくれるからです。

12使徒は「わたしの様々な試練の時に、一緒に踏みとどまってくれた人たちです」と言われる人です。イエス・キリスト様の試練を一部始終見ていた人です。イスカリオテのユダに裏切られ、むち打たれ、十字架の上で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と言われて死んでいったお姿を見てきた人たちです。

 けれども、その12使徒は、その苦しみを経験なさったイエス・キリスト様がよみがえり天に昇られ、神の栄光の座につかれることも見てきているのです。だから彼らは語ることができる。私たちの人と人と間にあって、虐げられたり、侮られたり、裏切られたりする苦しみや悲しみや痛みを知ってくださっているイエス・キリスト様がその悲しみや苦しみを知っていてくださると語ることができる。その苦しみの中にある私たちと共にいてくださると語ることができる。そしてそれだけでなく、そういった悲しみや苦しみや痛みのなかに押しつぶされている私たちが、そこから立ち上がっていく希望を語ることができるのです。

 そのような使命をおった12使徒働きを他の11人と共に負っていくために、

「そういうわけで、主イエスがわたしたちの間にゆききされた期間中、(ゆききした期間中というのは一緒に死活をしたと言うことですが、)すなわち、 ヨハネのバプテスマの時から始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日に至るまで、始終わたしたちと行動を共にした人たちのうち、だれかひとりが、わたしたちに加わって主の復活の証人にならねばならない」

 と言って、その条件に適うユストと呼ばれるバルサバとマッテヤのうちのどちらかを選び、欠けてしまった12弟子の穴を埋めようとするのです。

 その際、彼らが選んだ方法はくじを聞くと言うことです。「なんだくじ引きかよ」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。実際私もそのように思う気持ちがある。けれども、確かに、今の時代にくじ引きに任せるということは、さすがにどうかとは思いますが、っしかし、この当時のユダヤの民の間では、神の御心を求めてくじを引くということは特別なことではありませんでした。くじを引くと言うことで、そこに人間の思惑が入らずに神のみこころにゆだねると言うことなのでしょう。だから

「すべての人の心をご存じである主よ。このふたりのうちのどちらを選んで、 ユダがこの使徒の職務から落ちて、自分の行くべきところへ行ったそのあとを継がせなさいますか、お示し下さい」。

と祈ってくじを引くのです。その結果、マッテヤという人が選ばれたのです。これで、ようやく欠けていた一人が加えられて12人がそろい、「キリストのからだなる教会」という神の王国を建て上げると言う使命に向かっていくことができる。

 けれども、どうしてくじ引きまでして一人を選んで12人にしなければならなかったのでしょうか。11人ではだめだったのだろうか。二人のうち一人を選ぶと言うようなことをせずに、二人とも加えて13人ではいけなかったのか。いろいろ思うところがりますが、おそらくそこには、イスラエルの12部族ということが意識されているのだろうと思います。だから12使徒という特別な立場に置かれた弟子たちに働きは、12人で構成されると言うのが完全な形だったのでしょう。

 その完全な完成形となって、互いに支え合いながら、それこそ役割を分担しながら、神の王国を、キリストのからだなる教会を建て上げていく働きを共に追っていこうとしているのだと思います。その意味では、12使徒というイエス・キリスト様の直弟子の集まりは、12人で一人の人間のような存在なのです。

 みなさん、イエス・キリスト様の譬え話に次のような話があるじゃないですか。ルカによる福音書158節から10節までにある10枚の銀貨を持っている女性が、そのうちの一枚の銀貨をなくしてしまったら、家中の明かりをつけて家をはいて見つけるまで探す。そしえ見つけたら近所の人や友人を呼んでともに喜ぶと言う話です。

 このたとえ話それ自体は、イエス・キリスト様は一人一人を愛し、その人が神に立ち帰るように探し求めていられると言うことを伝えるたとえ話ですが、10枚の銀貨の内、その一つがどこかに行ってしまったというので、こんなに熱心に探すのは、この10枚の金貨は
当時のパレスチナの既婚女性のしるしとされた銀の鎖に10枚の銀貨を差し通して髪飾りが背景にあるのではないかと言われたりします。

 この髪飾りは10枚の銀貨がそろって初めて完全な形であり完成形です。その中の一枚でも欠けたならば完全ではないのです。もちろん価値もない。だから一生懸命探したというのです。同じように12使徒という働きは12人そろって意味を成す働きだと考えられていたのでしょう。だから完全な者になろうとして祈り、くじを引き、二人のうちのひとりを選ぶのです。

 この完全な者となろうとすること、その努力というものはキリスト教の信仰にとって大切な一面があります。たとえば、先ほどお読みいただいた創世記1712節は、神様がアブラハムに完全であるようにともめられた場面です。もちろん、この場面はアブラハム個人に対して神との契約の中で完全な者となりなさいと言っていることですから、先ほどの12使徒が12人であろうとしたということとは、若干違っています。

けれども、それが個人の事柄であろうと、教会という共同体の事柄であろうと、信仰者が信仰者として生きて行くにあたって神様は、私たちが完全であることを求めておられますし、完全となるということの重要性に目を向けるということおいては同じことです。

そして、完全になると言うことは欠けているものが補われると言うことなのです。私たちには、欠けがある。いろんなところにかけをもって生きているのです。その欠けを補ってくれるものが信仰です。

完全になれと言うわれますと、それはとてもしんどい感じがします。そんなの無理だと正直そう思います。でも、それは自分の力で完全になろうとするからではないか。それこそ、自分の力ではどうしようもないほどの大きな欠けをいくつももって私たちは生きているのです。その欠けを信仰が補ってくれる。そして、その欠けをおぎなってくれる信仰とは、神様に自分自身をお委ねする信仰なのです。

 今、全世界に、イエス・キリスト様の復活の証人である12使徒を中心にして教会が建て上げられて行こうとするとき、その12使徒は、イエス・キリスト様の母マリヤとその兄弟たちと心を一つにして祈りを積み重ねてきていました。そのことが今日の聖書個所の直前の使徒行伝112節から14節に記されています。

 そうやって祈りを積み重ねていく中で、彼らは教会を建て上げていくために、このままではよくない。十分ではない、完全ではないと言うことに気づいて行ったのではないでしょうか。そして、それを決して包み隠そうとはしていない。だから120人ほどの仲間が一つになって集まっているその真ん中で、くじを引いて決めようとするのです。
 自分たちではどうしようもないから、くじを引いて自分たちの神様に欠けを補っていただこうとしたのです。そこには、神を信頼し神にゆだねる信仰がある。イエス・キリスト様から、「あなたがたに王権を委ねます」と言われても、自分たちの主は神様であると言うことを決して忘れずに、神様に自分自身を委ねながら歩もうとしている12使徒たちの姿がある。

みなさん、私はイエス・キリスト様が、ご自分にゆだねられた王権を、12使徒たちにお委ねになられたのは、12使徒たちに、この神にゆだねる信仰の芽生えを見ていたからではないのだろうかを経験して乗り越えていく姿を通して弟子たちの心に巻いて行った種が芽生えてきたものであった。そのように思うのです。
 
イエス・キリスト様の試練と苦しみと悲しみの頂点にある出来事は、イスカリオテのユダに裏切られ、十字架に磔られて死なれると言う出来事でした。その十字架の上でイエス・キリスト様は「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか」という引かい悲しみと沈痛な思いを叫ばれる。その苦しみにあったイエス・キリスト様が「父なる神様、私の霊をあなた委ねます」と言って十字架の上で死んでいかれた。

12弟子たちは、その姿を見ていたのです。そしてその苦しみと「父なる神様、私の霊をあなた委ねます」と言って自分自身を父なる神にゆだねて十字架の上で死んでいかれたイエス・キリスト様のお姿を見た弟子たちは、その死からよみがえり復活したイエス・キリスト様のお姿をも見ている。

12使徒は、神にすべてを委ねて生き、そして死んでいった者がどうなるのかということを12弟子は目撃したのです。だからこそ、イスカリオテのユダが死に、12弟子に欠けが生じ、十分ではない、完全ではない自分たちが、これからキリストのからだなる教会を建て上げつつ、悪魔が支配する「この世」の中で、神の王国を世界中に広めていこうとするその時に、神にその欠けを補っていただき、完全なものへと「再生」していただいて、その委ねられた使命を全うしていこうとするのです。だから、復活の証人でなければならないのです。 
みなさん。私たちひとり一人は欠けの多いものです。私自身、人間として牧師としてどんなに欠けが多い者かと思い知らさらされます。そして教会もまた、そのような欠けがある人間が呼び集められていますから、欠けが一杯ある。でも、信仰があるならば、その欠けは神様が補って下さり、試練の中にあり、苦しみや悲しみや痛みが訪れるようなことがあっても、私たちは、そこから立ち上がり、力をいただき、完全に「再生」されて歩んでいけるのです。だから、私たちが神から求められている完全性とは神を信頼し、神に自分自身を委ねる信仰の完全性なのです。

そして、そのような信仰をもっていきるということ、それが復活の証人となるということでもある。イエス・キリスト様の復活の証人となると言うことは、ただ言葉で伝えると言うことだけではない。試練や苦しみ、悲しみの中で、イエス・キリスト様に自分自身を委ねる信仰によって「再生」され、立ち上がって生きて行く姿をもって証しすると言うことでもあるのです。
みなさん、私たちはそのことを証しする復活の証人なるものとして、「キリストのからだなる教会」に呼び集められたひとり一人です。それは、どんな試練や苦しみがあっても、神にゆだねる信仰があるならば、そこから立ち上がらせていただけると言う約束の中に生かされていると言うことでもあるのです。
 
そのことを心に刻みながら、イエス・キリスト様の復活の証人として歩んでいきたいですね。お祈りしましょう。

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