2018年10月14日日曜日

18年10月14日 説教「約束の御霊の到来」

2018年10月14日 小金井福音キリスト教会 説教

聖書箇所
・ヨエル書 2章 28節~29節
・ヨハネによる福音書 14章~17節 25節~26節
・使徒行伝 2章 1節~4節
説教題 「 約束の御霊の到来 」


 今日の礼拝説教の箇所は使徒行伝2章1節から4節までです。この箇所は、イエス・キリスト様が約束してくださっていた聖霊なる神が、弟子たちのところに下ってきたという、いわゆるペンテコステの出来事を記している箇所です。ペンテコステは、クリスマスとイースターと並んで三大祝祭の一つに数えられる非常に重要な祝祭ですが、それが五旬節と呼ばれる日に起こった。

 五旬節というのは七週の祭りとも呼ばれ、過ぎ越しの祭りが終わってから50日目に行われるお祭りです。ヘブル語ではシャヴオットという収穫を祝い感謝するいわゆる感謝祭です。私たちの国では、農作物の収穫というとお米の収穫をイメージするからでしょうか、秋を連想しますが、イスラエルの小麦の収穫期は春に向かえますので、5月ごろに収穫を祝うお祭りがあってもイスラルの民にとってはおかしくはないのかもしれません。
 
この五旬節は、収穫感謝祭であると同時に、モーセによってエジプトを脱出したイスラエルの民に、神がシナイ山で律法を与えたことを記念する祭りでもあります。この律法授与の出来事は、イスラエルの民がモーセに率いられてエジプトを脱出した過ぎ越しの出来事から50日目に起こりました。ですから、その出エジプトの出来事を祝う過ぎ越しの祭りから50日目にイスラエルの民に律法が与えられたことを記念するのです。
 そのシャヴオットと呼ばれる五旬節をペンテコステというのは、ギリシャ語で50をペンテコステ(Πεντηκοστή)というからです。そのペンテコステの日に聖霊なる神がイエス・キリスト様の弟子たちのところに下って来たのです。

 この聖霊なる神が弟子たちに与えられるということは、既にイエス・キリスト様によって約束されたことでした。それが、先ほどお読みいただいたヨハネによる福音書の14章16節、17節です。そこにはこう書かれています。15節からお読みします。

         15:もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきであ
     る。16:わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつま
  でもあなたがたと共におらせて下さるであろう。17:それは真理の御霊である。この世
  はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あ
  なたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなた
  がたのうちにいるからである。

 ここでイエス・キリスト様は「父は別に助け主を送って、あなたがたと共におらせるであろう」と言っておられます。「別に助け主を送る」というのは、イエス・キリスト様というお方とは別の助け主である真理の御霊を送ると言われている。

 聖霊が下るという出来事は、みなさんもご存知のように、イエス・キリスト様の洗礼の出来事の時にも起こったことです。ルカによる福音書3章21節から22節までを見てみましょう。

   さて、民衆がみなバプテスマを受けたとき、イエスもバプテスマを受けて祈ってお
      られると、天が開けて、 22:聖霊がはとのような姿をとってイエスの上に下り、そし
      て天から声がした、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。

ここでは、神の御霊である聖霊なる神が鳩のような姿をとってイエス・キリスト様の上に下ったとあります。そしてそのとき、天がから「これはわたしの愛する子、私の心にかなう者である」という声がしたとあります。この天からの声は、イエス・キリスト様の語る言葉や行いはすべて神の御心にかなっているということを宣言する言葉です。それは、まさに神のひとり子なるお方が、受肉し、人となられたからです。だから、このお方の言葉と業は神の御心にかなっているのです。
 ですから、イエス・キリスト様の言葉を聞き、この方のなされることを模範とし、このお方に倣って生きるならば、私たちは決して神の前に誤まることなく歩んでいくことができます。つまり、イエス・キリスト様ご自身が、私たちを教え導く助け主なのです。

しかし、イエス・キリスト様が天に昇られた後の時代は、キリストのからだである教会がその働きをしなければなりません。それは、今も同じです。教会はキリストのからだとして人々に神のお心を語り、神のお心にそった業を行っていかなければなりません。そして、それはイエス・キリスト様が「今、ここで」生きておられたならばなさるであろうことを行うのです。
 そういった意味では、今も私たちはイエス・キリスト様に倣って生きる者でなければなりません。なぜならば、イエス・キリスト様のからだなる教会は、私たちひとり一人によって作り上げられるものだからです。だから、私たちひとり一人はイエス・キリスト様に倣って生きるひとり一人であることが大切なことなのです。
 それは、長い教会の歴史の中で、繰り返し繰り返しかたれてきたことです。今週末、私はある事柄について調べていました。それは、クリスチアニタス(Christianis)ということについてなのですが、このクリスチアニタスというのはラテン語です。英語ではChristendomと訳されますが、日本語ではキリスト教一体化社会といった風に訳されたりしますが、要は「キリスト者の集団」ということです。

 しかしそれは、単なる「キリスト者の集団」ではなく、「真のキリスト者の集団」ということです。そしてこの真のキリスト者のというのは、私たちひとり一人が神の似姿になるように努め生きているクリスチャンのことを指しています。平たくいうならば、イエス・キリスト様のように生きるように努めている人たちのことです。
 このように、イエス・キリスト様のように生きようとする人たちは、古代教会から存在しました。それは「慈悲の業」を通して、イエス・キリスト様の「隣人愛」を行おうとしたり、10世紀から11世紀の中世には「キリストの人性」への信心といって、レクティオ・デヴィナと呼ばれる聖書や霊的な書物を読む習慣を通して、イエス・キリスト様のように生きようとする修道士たちがいたり、中世後期の15世紀には、近代的敬虔と呼ばれる運動において「キリストに倣う」ということが盛んに言われたりしました。

 これらは、みんなイエス・キリスト様が「この世」で生きられたように、神と人の前で、聖く、隣人愛に満ちた生き方をしたいと願い、聖書を学び、自らを修養するといった信仰の霊性を高めようとする運動でした。そして、そのような流れをクリスチアニタスと呼ぶのです。それは、イエス・キリスト様が私たちの教師であり、導き手だからです。

 けれどもみなさん、私たちはイエス・キリスト様と全く時代背景と価値観の中に生きています。そのような中で、イエス・キリスト様なら「今、ここで」なされることを行おう、語られることを語ろうと思っても、それはなかなか大変なことです。
 例えば、私は牧師として教会にずっといます。みなさんは平日の教会のことはあまり知らないだろうと思いますが、実は、平日の教会にはいろんな人が訪ねてきます。そのような中には、食べ物を求めてくる人もいますし、お金が貸して欲しいと言って来られる方もいます。そんな時、どう対応したらよいか本当に迷います。食べ物を求めてくる人には、対応しやすいのですが、お金を貸してほしいという人の対応には本当に悩みます。

と申しますのも、お金を貸してほしいという人の多くが、お酒を飲むためや、遊興に使うためであったりするからです。もちろん、本当に困っている人が全くないというわけではないでしょう。だから、イエス・キリスト様ならどうするだろうか、実に迷うところですし、実際、本当に難しい判断です。
 ですから、常にイエス・キリスト様にあなたならどうなさいますかと問わざるを得ないのです。イエス・キリスト様の「隣人愛」に生きると言っても、求められるままにお金を差し上げることが「隣人愛」なのかどうかも問われます。その中で、きっと正しい判断もあるでしょうし、間違った判断もあったかもしれない。そのように、イエス・キリスト様のように生きると言っても決してそれは簡単なことではないのです。
 だからこそ、私たちの導き手であり、慰め主であり聖霊なる神様が必要なのです。私は、先ほど申しましたように、「お金を貸してください」言ってこられた方に対応した後は、お金を渡したときもお断りしたときも、しばらく、本当にあの対応でよかったのかを考えると、苦しく、心が重くなる。そんな時に、本当に慰め主なる助け主が必要です。主なる神様の前に、判断を誤ったか正しかったかわかりませんが、慰め主である聖霊なる神様の支えが必要です。そして、できるかぎりイエス・キリスト様の生き方に近づきたいのです。

みなさん、受肉して人となり、神の御心にかなうお方として「この世」で生きられたお方はイエス・キリスト様の他にはいません。そして、このイエス・キリスト様というお方を知る術は聖書以外にはないのです。聖書のみがイエス・キリスト様に近づく唯一の道なのです。
 その聖書を学び、聖書を通してイエス・キリスト様のご人格に触れ、このお方が語る言葉を語り、このお方がなされる業を行うためには、私たちを導いてくれる助け主が必要です。みなさん、私たちホーリネス教団がよって立つ信仰の根源を突き詰めていくと、イギリス国教会のジョン・ウェスレーという人に行きつきます。このウェスレーという人は、聖霊は道案内人(ガイド)であると言いました。
 それは、聖書学的な正しさに導くガイドというのではなく、「今、ここで」という時にどうすればよいかを聖書の言葉を用いながら導いてくださる助け主であるということなのです。その聖霊なる神様が下ってこられたのがペンテコステの出来事であり、私たちにも、その聖霊なる神が与えられているのです。

 実は、先日、私どもの息子が、今日の聖書個所における聖霊なる神が弟子たちに下った出来事と先ほどのイエス・キリスト様の洗礼の際にイエス・キリスト様に聖霊なる神が下った出来事を比較して、「なぜ、イエス・キリスト様のところに下った聖霊は鳩の様だったのに、ペンテコステで弟子たちに下った聖霊は舌のようなものだったのか」と聞いてきました。

 そう尋ねられると、なるほどどうしてなのだろうかと考えさせられる問題ですし、実際それまで、そのようなことは考えたこともありませんでした。しかし、考えてみますと、聖書は実に様々な象徴的な表現をします。
 イエス・キリスト様が天に上げられたという昇天の出来事も、天に昇るという行為が、イエス・キリスト様が父なる神の下に帰って行かれたということを示す象徴的な行為でした。また、聖霊なる神様が、イスラエルの民を神の民として教え導く律法がイスラエルの民に与えらたことを記念する五旬節の日が満ちたその日に与えられたというのも、まさにイエス・キリスト様が

   15:もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきであ
  る。16:わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまで
  もあなたがたと共におらせて下さるであろう。

と言われたように、私たちがイエス・キリスト様のいましめを守るために、聖霊なる神が、私たちを教え導く御方であるということの象徴となっています。だとすれば、鳩も舌も何かを象徴しているのかもしれません。だとすれば、鳩は何を象徴するのか。

 聖書には、イエス・キリスト様の「わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ」(マタイ10:16)という言葉がありますが、鳩が素直なものの象徴であるならば、まさにイエス・キリスト様の上に下った聖霊は、イエス・キリスト様が神に対して素直に従い、神の心にかなうお方であることを象徴して鳩の姿として自らを現れたのかもしれません。
 
 また、ペンテコステの日に弟子たちに与えられた聖霊なる神が、舌のような形をしていたのは、まさに私たちキリストの弟子は、神の言葉であるイエス・キリスト様に倣い、イエス・キリスト様が語られた教えを語り、福音を伝え、その生き方の中にイエス・キリスト様の隣人愛を生きることで、行いを通してイエス・キリスト様を伝える「キリストの証人」となることの象徴なのかもしれません。聖霊なる神様は、そのために私たちを教え導き支えてくださるお方なのだと、自らを舌という象徴によって示されているのではないか。

 実際、先ほど旧約聖書のヨエル書2章28-29節を司式の方によんでいただきました。その箇所は、ペンテコステの聖霊なる神様が下られるということを預言した箇所だと聖書自身(使徒2:16)によって理解されていますが、そこで言われていることは、

   その後わたしはわが霊を、すべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は
  預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る。29:そ
  の日わたしはまた、わが霊をしもべ、はしために注ぐ。

ということであり、聖霊なる神が与えられ注がれた者は、神の言葉を語り、神の御心を伝えるものとなるということなのです。

 みなさん、イエス・キリスト様は、ヨハネによる福音書の14章16節、17節また25節、26節で、聖霊なる神様を私たちに与えてくださると約束してくださいました。そしてその約束通り聖霊なる神様が私たちのところに来た。イエス・キリスト様を信じ、イエス・キリスト様に代わって私たちによって築き上げあれる神の王国である「キリストのからだなる教会」に来てくださったのです。
 この聖霊なる神様は、真理の御霊として私たちを導き、慰め主なるお方として私たちは支え、励ましながら、私たちひとり一人を「キリストのからだなる教会」につながるものとして、イエス・キリスト様に倣いながら神の似姿に向かって成長していく歩みを共に歩んでくださいます。そうやって、キリスト者となった私たちを、真のキリスト者としてくださるのです。

 これは、聖書の約束であり、イエス・キリスト様の約束なのです。ですから、この約束を信じ信頼して、イエス・キリスト様にように生きる者とさせていただきましょう。それこそが、真のキリスト者となり、真にキリストの証人になるということなのです。
お祈りしましょう。

2018年10月10日水曜日

2017年 11月5日 小金井福音キリスト教会 説教 「 神の義の発見 」

2017年11月05日 小金井福音キリスト教会 説教

聖書箇所
・詩篇 第71篇 1節~3節
・マタイによる福音書 第6章 25節~34節
・ローマ人への手紙 第1章 13節~17節

説教題 「 神の義の発見 」



リクエストがありましたので一年前の宗教改革記念礼拝の説教ですが掲載しました。

旧約書;詩篇7113
福音書;マタイによる福音書6
使徒書;ローマ人への手紙1

 愛する兄弟姉妹のみなさん。今日の礼拝は宗教改革記念礼拝です。今から500年前の15171031日付けで、ドイツの戒律厳守派アウグスティヌス会隠修士黒修道院の修道士であり、当時まだ新設の大学であったウィッテンベルグ大学の旧約聖書の教授であったマルティン・ルターが「贖宥の効力に関する討論」という95ヶ条の提題を発表したことから、当時のキリスト教社会を揺るがす「宗教改革」という歴史的大事件が起こりました。

 この歴史的大事件をきっかけにして、当時の西方ヨーロッパ世界全体に浸透していたカトリック教会教会と別れてプロテスタントとよばれる諸グループが起こってきたのです。そのようなわけで、いわゆるプロテスタントの教会の中で、多くの教団や教派で10月の最後の主日礼拝もしくは11月の第一主日を、宗教改革を記念する宗教改革記念礼拝を行ってきました。

 もちろん、プロテスタントの教会だからと言って、もろ手を挙げて「宗教改革万歳」といって良いというと、必ずしもそうではありません。宗教改革にはさまざまな問題点もありますし、考え直さなければならない点も数多くある。また、その根幹を揺るがすような神学的理解における問題も挙げられています。

 しかし、それでもなお、宗教改革には評価すべき点も多くあり、また大切にしなければならない点も多くあるのです。その中のひとつに、ルターにより「福音的義の発見」というものが挙げられます。

 この「福音的義の発見」というのは、人が神の救いに与り、神の国に招き入れられるのは、人間が行った功徳、つまり善き業に対する神の報酬ではなく、神を信じ、神に寄り縋るものに対して、神が人の行いに寄らす、神の恵みによって与えてくださるというものです。つまり、人間の義なる行い、正しい行いといった人間の義が人間を義とするのではなく、神の恵みによって神の義が私たちに与えられることで、私たちが義と認められるのだということです。

 このようなことは、こんにちのプロテスタントの教会では当たり前のように受け入れられている考えかたですが、ルターの時代は必ずしもそうではありませんでした。とりわけルターを取り囲んでいた環境では、人間は自分が死後、神の国に入るためには、、一生懸命努力して善い業を行い、自分が犯した罪の償いを神に対してしなければならないと考えられていました。そうやって神に対する罪の償いを一生懸命努力していたならば、その努力を見て神の憐れみが発動し、神にふさわしくない者も、神の国に入れてくださるのだと考えられていたのです。

 ですから、ルターは善き業と言われるようなことは一生懸命頑張って行っていました。けれども、どれほど頑張っても、神に赦されている、神の国に受け入れられているという確信が持てなかったのです。むしろ、自分の様々な罪が思い出されて、その償っても償い切れない現実に押しつぶされそうになっていたのです。

 ルターを評する人たちは、ルターの人間の罪深さに対する深い洞察をあげます。確かにその通りかもしれません。ルターほど人間は罪深い存在だと言うことを捕らえていた人はいないと言ってもよいでしょう。ルターが理解した罪深さは、人間が神に受け入れられたいと思って善い業をしたとしても、善い業をして受け入れたいと持っているその思いこそが、善い業をしている自分を正しいこと、義なることをしていると思っている自己義認の罪であり、それこそが人間の罪深さの表れなのだというのです。

 このように言われてしまいますと、身も蓋もありません。神の前に正しいものでありたい、良いことを行いたいと言う思いまでもが罪となるならば、もはや人間は救いようがないのです。だからこそルターは、人間はどのようにしたら自分が救われていると言うことを知り、確信できるのかもしれません。ということがルターの問題意識となり、その問題意識の中で自分の救いの確信を探求していったのです。

そのような中でルターは、人間は人間の行いによって救われるのではない。ただ神の恵みと憐みによって救われるのだと言う結論に至ります。つまり、人間はどんなに頑張っても自分自身を自分自身で救うことなどできないのだから、恵みと憐みを与えてくださる神を信頼し、寄り縋り、自分自身を神にゆだねるしかないのです。

 ルターはそれを医者と病人の関係に譬えて言います。つまり、病気の人が自分の病気を治そうと患者自身が頑張るのではなく、医者が必ず治してあげると言っているのだから、直すと言っている医者の自分自身を委ねなさいと言うようなものだというのです。つまり、自分で何とかしようとしていると、いろいろと心を煩わし気分も重くこことも暗くなるが、医者が「治す」と言っている言葉を信じて希望を持っていたならば心も明るくなって生きていけるだろう。それと同じだと言うわけです。

 もちろん、人間、なかなかこのような境地に行けないわけで、ルターもこのように言えるまでには相当悩み苦しんだだろうと思います。このような悩みの苦しみの中で、光を見出す一つのきっかけとなったのが、先ほど司式の方に読んでいただいた詩篇71篇の1節から3節までです。その箇所をもう一度お読みします。

1.主よ、わたしはあなたに寄り頼む。とこしえにわたしをはずかしめないでください。2.あなたの義をもってわたしを助け、わたしを救い出してください。あなたの耳を傾けて、わたしをお救いください。3.わたしのためにのがれの岩となり、わたしを救う堅固な城となってください。あなたはわが岩、わが城だからです。

 ルターは、この2節の「あなたの義をもってわたしを助け、わたしを救い出してください」という言葉がひっかかった。あなたの義、この場合「あなた」というのは神のことですから、あなたの義とは神の義ということです。つまり、「あなたの義をもってわたしを助け、わたしを救い出してください」ということは「神の義をもってわたしを助け、わたしを救い出してください」ということになります。この「神の義が私を救う」ということにルターは疑問を持ったのです。「それはいったいどういうことだろう」。

というのも、ルターの時代には、「神の義」というものは、人間が正しい行いをしているかどうかを図る尺度だと考えられていたからです。人間がどんなに正しいことを積み重ねてきていても神の前で、神の義という神の正しさと比べて測ってみたら人間の正しさなど取るに足らないものだ。だから神の義という基準にふさわしくなるように頑張らなければならないと教えられていたのです。つまり、ルターの時代、「神の義」は人間の行いを量り裁く基準だったのです。

 その「神の義」が「人間を救うとはいったいどうゆうことなのか」ルターはいろいろと考えあぐねた末に至った結果が、「神の義は、私たちを裁くためあるのではなく、私たちに与えられるものだ。神は、どんなに頑張っても神の前に義となることができない私たちに対して、私たちが神に寄り縋るならば、ご自分の中にある義を神の恵みと憐みの心によってその神の義を与えてくださり、本当ならとうてい義人とはいえない私たちに神の義を与え神の子としてくださり、義人とみなしてくださるのだ」というものだったのです。

 その時ルターは、先ほどお読みいただいたローマ人への手紙617節の「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、『信仰による義人は生きる』と書いてあるとおりである」という言葉が、そのことを言っているのだと受け止めた。

 神が、イエス・キリスト様をこの世に贈り、私たちの罪のために十字架につけて死なせてくださった。それが福音であり、その福音の中に、罪びとの私たちを義人とする神の義がある。だから、それを信頼して生きる者は、神の前に義人として生きることができるのだ」というのです。この箇所に対するルターの理解と福音理解は、今日、聖書の研究が進んでいる中で、神学的には問題を多く含んでいますが、しかし、神は恵み深い方であり、神は神に憐れみを求めるものを憐み慈しんでくださるお方であると言うところに思いがいたっていることにおいて十分に評価してよいと思います。

 実際、イエス・キリスト様ご自身が、マタイによる福音書631節で「だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。」とおっしゃった後、33節で「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」と言っておられるのです。

 この言葉をイエス・キリスト様が語られたのは、食べることや着ることと言った毎日の生活を心配し、思い煩っている人たちに対して、神に寄りすがり、神により頼んで生きるならば、神は憐み深いお方であるから、何も思い煩うことはない」ということを教え諭すためでした。だから、「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」と言われたその言葉に続いて、だから、「あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」と言われるのです。

 みなさん。確かに私たちの周りには、様々な心配事や悩み事があり、心を煩わさせます。その中には、心配し「どうしようか」と思い煩ってもどうしようもないことが多くあります。だからといって心配するなと言っても、それは無理な話かもしれません。しかし、少なくとも、神を信頼し、神により頼んで生きるならば、神は私たちを憐んで下さるお方なのです。それは、ルターが心を悩ませ苦しんだ「私たちの罪」の問題でも同じです。

 私たちが犯した罪や過ちは、どんなほかの善い行いをもってしても償えるものではありません。しかし、その罪を含んで、悩み思い煩う私たちの存在そのものを神は救いとってくださるお方なのです。

 イエス・キリスト様は「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは全て添えて与えられる」と言っておられます。「まず、神の国と神の義をもとめなさい」というのですから、最初に求めるのは「神の国と神の義」です。その「神の国」とは、神の憐れみと恵みが支配する世界です。どんなことがあっても、神は私たちを顧み、憐れみ、恵みをもって私たちを導いてくださる。それが神の国です。

 それは、神を信じ、神を信頼する心を持つものに与えられる神の恵みです。そしてそのように神を信頼し神に寄りすがって来るものに、思い煩いから解放し、苦しみや悩みの中にあっても、希望と平安とを与えてくれる、それが神の義です、

 これが与えられると、私たちが自分の力や頑張りでどうしようもない現実の中にあっても、希望を持ち、慰めと平安を得て生きていくことができるのです。ルターは、その神の義を、自分の罪からの救いという問題の中で見出したのです。

 みなさん。私たちはさまざまなことで、心を痛め、心を悩ませ、心配し、不安を感じます。それは、ルターのように必ずしも自分の罪の問題ということ同じでなく、違っているかもしれません。ですから、神の義というものを単純に「罪の赦し」ということに特化して言うことはできないだろうと思います。神の義は、私たちの罪の問題も含め、私たち人間が、思い煩い苦しんでいる現状の中で、神により頼むものに希望と平安と慰めを与えてくれるものだからです。

 そしてその神の義は、ただ神を信じ、神に寄るものに与えられる神の恵みの業なのです。あの500年前の宗教改革は、そのことが私たちの前に明らかにされていくための一つの神の業であったと言えます。だからこそみなさん、今、私たちは神を信じ、神を信頼し、神に寄り縋って生きることの大切さに目をとどめたいと思うのです。それは、私たちが生きる今という時代は、ルターの時代以上に悩みと苦しみが多い時代だからです。しかも、その悩みはとても深く、複雑だからです。そしてそのような時代だからこそ、より一層、神を信じ、神に信頼することで在られる希望と平安と慰めが必要なのではないでしょうか。

お祈りいたします。





2018年10月7日日曜日

2018年10月7日 小金井福音キリスト教会

聖書箇所
・創世記 17章 1節~2節
・ルカによる福音書 15章 1節~10節
・使徒行伝 1章 15節~26節

説教題「 復活の証人として生きる 」


 今日は、10月最初の礼拝です。その今日の礼拝では聖餐式礼拝の説教の箇所は、使徒行伝115節から26節です。この箇所は、12使徒と呼ばれる特別な立場の弟子にマッテヤという人が選ばれたと言うことを伝える箇所です。

 12使徒が特別な立場であったのは、もともと12使徒というのはイエス・キリスト様が直接お選びになった弟子たちだったからです。その12使徒のひとりのイスカリオテのユダがイエス・キリスト様を裏切ってしまい、そのユダの裏切りがきっかけでイエス・キリスト様が十字架にかけられてしまった。
 当然、イスカリオテのユダは他の使徒の仲間の下に戻ってくることはできません。それどころか、そのイスカリオテのユダは良心の呵責からでしょうかマタイによる福音書の275節では、首をつって死んだと言われています。今日の聖書個所の使徒行伝11819節でも括弧書きの中でユダがどのような死に方をしたかがマタイによる福音書のものよりより詳しく、そして詳しいだけにその最後が悲惨なものであったかが刻銘に書かれています。

 それは使徒行伝の著者であるルカが、このようにイスカリオテのユダの悲惨な最期を語る背景には、イエス・キリスト様を敵の手に売り渡したものの最後が如何に悲惨なものに終わってしまったかを記すことで、神の計画を妨げようとするものに待ち受けている恐るべき運命を示しものであり、イスカリオテのユダはその様な運命に陥ったのだと言うことを着てある意図があったのではないかとも言われますが、確かにそのような事だったのかもしれません。そして、それもまた聖書の預言するところであったとルカは言うのです。

 いずれにしても、このイスカリオテのユダがイエス・キリスト様を裏切り死んでしまったことで、12使徒と呼ばれる特別な立場にある弟子たちに欠員がっ出来てしまったので、その欠員を補充するために、新しく12使徒となる一人を選ぼうとしたのです。
 この12弟子が特別な立場であったと言うのは、イエス・キリスト様がルカによる福音書222829節で次のように言われているからです。そこにはこうあります。

それで、わたしの父が国の支配をわたしにゆだねてくださったように、わたしもそれをあなたがたにゆだね、わたしの国で食卓について飲み食いをさせ、また位に座してイスラエルの十二の部族をさばかせるであろう。

ここには、12使徒と呼ばれる弟子たちは、神の国の支配を委ねられ、イスラエルの12部族を治める立場になるのだと言われている。最も新しい訳の新改訳2017ではもっと明快に訳されています。お読みしますと

わたしの父が私に王権をゆだねてくださったように、私もあなたがたに王権をゆだねます。そうしてあなたがたは、私の国でわたしの食卓について食べたり飲んだりし、王座にについて、イスラエルの12部族を治めるのです。

このように、12使徒は教会という神の国の王座に就き、神の民を治めるという特別な使命を負っているのです。もちろん、王権を委ねられ王座について神の民を治めるといっても、この世に君臨してきた王たちのように、偉い人になって受けから仕えられながら治めると言うのではありません。むしろ一番弱い者のようになって、仕えられるものではなく仕える者としての王としての働きに召されているのだと、このルカによる福音書221819節の直前にイエス・キリスト様は言われている。

 この神の民に仕え、支え、支援し、正しい歩みに導く働きのために、12使徒は特別な立場にある者として選ばれているのです。その中のひとりが欠けている。今、まさにもうじき、「キリストのからだなる教会」という12使徒が委ねられた神の王国が始まろうとしているその時に、12使徒のひとりが欠け、完全な状態ではなくなっている。 
 12人がきちっとそろった完全な形の12使徒となって、彼らはイエス・キリスト様から権威と力と使命を全うしようとして新しい使徒を選ぼうとするのです。その時に、彼らは12使徒として選ぶための条件を決めます。それは、122節にありますようにヨハネのバプテスマの時から始まって、イエス・キリスト様が弟子たちの下を離れて天に上げられた日に至るまで、始終イエス・キリスト様とまたほかの12人と行動を共にした人だということです。

 11人の弟子たちが根是このような条件を出したのかは定かではありません。ただ、イエス・キリスト様が12弟子に王権を委ねると言われたときに、あなたがたは、「わたしの様々な試練の時に、一緒に踏みとどまってくれた人たちです」といって、「あなたがたに王権を委ねます」と言っておられますので、イエス・キリスト様のご生涯のすべてをその目で見ており、またイエス・キリスト様の語られたことを直接その耳で聞いた人が、それをかたり聞かせる為であっとろうと思います。

 それは、人間の人生の中には様々な苦難や試練があり苦しみや悲しみがあるからです。
そのような様々な試練の時に、私たちの主であるイエス・キリスト様も同じような苦しみを味わい生きられたそのお姿を、神の民が心に思い浮かべることができるためです。そのために、イエス・キリスト様のご生涯が語られなければならいのです。
だからこそ、そのイエス・キリスト様のご生涯のすべてをその目で見、イエス・キリスト様の語られた言葉をその耳で聞いた人から使徒を選ぼうとしたと言うことではなかろうかと思うのです。そして、こういうのです「わたしたちに加わって主の復活の証人にならねばならない」

 イエス・キリスト様のご生涯には、様々な試練や苦しみがあった。その試練がもたらす苦しみと痛みの中を生きたご生涯の最後が十字架の死でした。いろいろな試練を経験し、苦しいことや心に痛みを感じることが多くあった生涯の最後が、弟子たちの中のひとりい裏切られて十字架に磔られて死ななければならない。
 そのような人生を思い起こさせても、そこには希望は見いだせません。そのような人生が語られても、そこからは何の慰めも得られませんし、希望もない。ところが、イエス・キリスト様のご生涯は、その十字架の死では終わらなかった。死からよみがえるという復活の出来事があるのです。

 イエス・キリスト様は試練を経験し、苦しみも知っている。死という人間の最大の苦悩をも知っておられる。そのお方がわたしと共にいてくださると思うだけでも、それは大きな慰めなのかもしれません。けれども12弟子たちが語り聞かせなければならないのは、それだけであってはならないのです。
かれらは、イエス・キリスト様が死からよみがえるという復活の出来事を語り聞かせなければならないのです。それは、この復活の出来事は苦悩の中にあっても、試練の中にあっても、そこから必ず立ち上がることができるのだと言うことを私たちに教えてくれる出来事だからです。それが、たとえ死という私たちには決して抗えないような苦しみや悲しみであっても、それを乗り越えていく希望を与え力を与えてくれるからです。

12使徒は「わたしの様々な試練の時に、一緒に踏みとどまってくれた人たちです」と言われる人です。イエス・キリスト様の試練を一部始終見ていた人です。イスカリオテのユダに裏切られ、むち打たれ、十字架の上で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と言われて死んでいったお姿を見てきた人たちです。

 けれども、その12使徒は、その苦しみを経験なさったイエス・キリスト様がよみがえり天に昇られ、神の栄光の座につかれることも見てきているのです。だから彼らは語ることができる。私たちの人と人と間にあって、虐げられたり、侮られたり、裏切られたりする苦しみや悲しみや痛みを知ってくださっているイエス・キリスト様がその悲しみや苦しみを知っていてくださると語ることができる。その苦しみの中にある私たちと共にいてくださると語ることができる。そしてそれだけでなく、そういった悲しみや苦しみや痛みのなかに押しつぶされている私たちが、そこから立ち上がっていく希望を語ることができるのです。

 そのような使命をおった12使徒働きを他の11人と共に負っていくために、

「そういうわけで、主イエスがわたしたちの間にゆききされた期間中、(ゆききした期間中というのは一緒に死活をしたと言うことですが、)すなわち、 ヨハネのバプテスマの時から始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日に至るまで、始終わたしたちと行動を共にした人たちのうち、だれかひとりが、わたしたちに加わって主の復活の証人にならねばならない」

 と言って、その条件に適うユストと呼ばれるバルサバとマッテヤのうちのどちらかを選び、欠けてしまった12弟子の穴を埋めようとするのです。

 その際、彼らが選んだ方法はくじを聞くと言うことです。「なんだくじ引きかよ」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。実際私もそのように思う気持ちがある。けれども、確かに、今の時代にくじ引きに任せるということは、さすがにどうかとは思いますが、っしかし、この当時のユダヤの民の間では、神の御心を求めてくじを引くということは特別なことではありませんでした。くじを引くと言うことで、そこに人間の思惑が入らずに神のみこころにゆだねると言うことなのでしょう。だから

「すべての人の心をご存じである主よ。このふたりのうちのどちらを選んで、 ユダがこの使徒の職務から落ちて、自分の行くべきところへ行ったそのあとを継がせなさいますか、お示し下さい」。

と祈ってくじを引くのです。その結果、マッテヤという人が選ばれたのです。これで、ようやく欠けていた一人が加えられて12人がそろい、「キリストのからだなる教会」という神の王国を建て上げると言う使命に向かっていくことができる。

 けれども、どうしてくじ引きまでして一人を選んで12人にしなければならなかったのでしょうか。11人ではだめだったのだろうか。二人のうち一人を選ぶと言うようなことをせずに、二人とも加えて13人ではいけなかったのか。いろいろ思うところがりますが、おそらくそこには、イスラエルの12部族ということが意識されているのだろうと思います。だから12使徒という特別な立場に置かれた弟子たちに働きは、12人で構成されると言うのが完全な形だったのでしょう。

 その完全な完成形となって、互いに支え合いながら、それこそ役割を分担しながら、神の王国を、キリストのからだなる教会を建て上げていく働きを共に追っていこうとしているのだと思います。その意味では、12使徒というイエス・キリスト様の直弟子の集まりは、12人で一人の人間のような存在なのです。

 みなさん、イエス・キリスト様の譬え話に次のような話があるじゃないですか。ルカによる福音書158節から10節までにある10枚の銀貨を持っている女性が、そのうちの一枚の銀貨をなくしてしまったら、家中の明かりをつけて家をはいて見つけるまで探す。そしえ見つけたら近所の人や友人を呼んでともに喜ぶと言う話です。

 このたとえ話それ自体は、イエス・キリスト様は一人一人を愛し、その人が神に立ち帰るように探し求めていられると言うことを伝えるたとえ話ですが、10枚の銀貨の内、その一つがどこかに行ってしまったというので、こんなに熱心に探すのは、この10枚の金貨は
当時のパレスチナの既婚女性のしるしとされた銀の鎖に10枚の銀貨を差し通して髪飾りが背景にあるのではないかと言われたりします。

 この髪飾りは10枚の銀貨がそろって初めて完全な形であり完成形です。その中の一枚でも欠けたならば完全ではないのです。もちろん価値もない。だから一生懸命探したというのです。同じように12使徒という働きは12人そろって意味を成す働きだと考えられていたのでしょう。だから完全な者になろうとして祈り、くじを引き、二人のうちのひとりを選ぶのです。

 この完全な者となろうとすること、その努力というものはキリスト教の信仰にとって大切な一面があります。たとえば、先ほどお読みいただいた創世記1712節は、神様がアブラハムに完全であるようにともめられた場面です。もちろん、この場面はアブラハム個人に対して神との契約の中で完全な者となりなさいと言っていることですから、先ほどの12使徒が12人であろうとしたということとは、若干違っています。

けれども、それが個人の事柄であろうと、教会という共同体の事柄であろうと、信仰者が信仰者として生きて行くにあたって神様は、私たちが完全であることを求めておられますし、完全となるということの重要性に目を向けるということおいては同じことです。

そして、完全になると言うことは欠けているものが補われると言うことなのです。私たちには、欠けがある。いろんなところにかけをもって生きているのです。その欠けを補ってくれるものが信仰です。

完全になれと言うわれますと、それはとてもしんどい感じがします。そんなの無理だと正直そう思います。でも、それは自分の力で完全になろうとするからではないか。それこそ、自分の力ではどうしようもないほどの大きな欠けをいくつももって私たちは生きているのです。その欠けを信仰が補ってくれる。そして、その欠けをおぎなってくれる信仰とは、神様に自分自身をお委ねする信仰なのです。

 今、全世界に、イエス・キリスト様の復活の証人である12使徒を中心にして教会が建て上げられて行こうとするとき、その12使徒は、イエス・キリスト様の母マリヤとその兄弟たちと心を一つにして祈りを積み重ねてきていました。そのことが今日の聖書個所の直前の使徒行伝112節から14節に記されています。

 そうやって祈りを積み重ねていく中で、彼らは教会を建て上げていくために、このままではよくない。十分ではない、完全ではないと言うことに気づいて行ったのではないでしょうか。そして、それを決して包み隠そうとはしていない。だから120人ほどの仲間が一つになって集まっているその真ん中で、くじを引いて決めようとするのです。
 自分たちではどうしようもないから、くじを引いて自分たちの神様に欠けを補っていただこうとしたのです。そこには、神を信頼し神にゆだねる信仰がある。イエス・キリスト様から、「あなたがたに王権を委ねます」と言われても、自分たちの主は神様であると言うことを決して忘れずに、神様に自分自身を委ねながら歩もうとしている12使徒たちの姿がある。

みなさん、私はイエス・キリスト様が、ご自分にゆだねられた王権を、12使徒たちにお委ねになられたのは、12使徒たちに、この神にゆだねる信仰の芽生えを見ていたからではないのだろうかを経験して乗り越えていく姿を通して弟子たちの心に巻いて行った種が芽生えてきたものであった。そのように思うのです。
 
イエス・キリスト様の試練と苦しみと悲しみの頂点にある出来事は、イスカリオテのユダに裏切られ、十字架に磔られて死なれると言う出来事でした。その十字架の上でイエス・キリスト様は「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか」という引かい悲しみと沈痛な思いを叫ばれる。その苦しみにあったイエス・キリスト様が「父なる神様、私の霊をあなた委ねます」と言って十字架の上で死んでいかれた。

12弟子たちは、その姿を見ていたのです。そしてその苦しみと「父なる神様、私の霊をあなた委ねます」と言って自分自身を父なる神にゆだねて十字架の上で死んでいかれたイエス・キリスト様のお姿を見た弟子たちは、その死からよみがえり復活したイエス・キリスト様のお姿をも見ている。

12使徒は、神にすべてを委ねて生き、そして死んでいった者がどうなるのかということを12弟子は目撃したのです。だからこそ、イスカリオテのユダが死に、12弟子に欠けが生じ、十分ではない、完全ではない自分たちが、これからキリストのからだなる教会を建て上げつつ、悪魔が支配する「この世」の中で、神の王国を世界中に広めていこうとするその時に、神にその欠けを補っていただき、完全なものへと「再生」していただいて、その委ねられた使命を全うしていこうとするのです。だから、復活の証人でなければならないのです。 
みなさん。私たちひとり一人は欠けの多いものです。私自身、人間として牧師としてどんなに欠けが多い者かと思い知らさらされます。そして教会もまた、そのような欠けがある人間が呼び集められていますから、欠けが一杯ある。でも、信仰があるならば、その欠けは神様が補って下さり、試練の中にあり、苦しみや悲しみや痛みが訪れるようなことがあっても、私たちは、そこから立ち上がり、力をいただき、完全に「再生」されて歩んでいけるのです。だから、私たちが神から求められている完全性とは神を信頼し、神に自分自身を委ねる信仰の完全性なのです。

そして、そのような信仰をもっていきるということ、それが復活の証人となるということでもある。イエス・キリスト様の復活の証人となると言うことは、ただ言葉で伝えると言うことだけではない。試練や苦しみ、悲しみの中で、イエス・キリスト様に自分自身を委ねる信仰によって「再生」され、立ち上がって生きて行く姿をもって証しすると言うことでもあるのです。
みなさん、私たちはそのことを証しする復活の証人なるものとして、「キリストのからだなる教会」に呼び集められたひとり一人です。それは、どんな試練や苦しみがあっても、神にゆだねる信仰があるならば、そこから立ち上がらせていただけると言う約束の中に生かされていると言うことでもあるのです。
 
そのことを心に刻みながら、イエス・キリスト様の復活の証人として歩んでいきたいですね。お祈りしましょう。

2018年9月30日日曜日

18年9月第5主日礼拝説教「御心を祈る祈り」


2018年09月30日 小金井福音キリスト教会 説教

聖書個所
・詩篇 第33篇 8節~15節
・マタイによる福音書 第26章 36節~44節
・使徒行伝 第1章 12節~14節

説教題 「 御心を祈る 」


 さて、今日の礼拝説教は使徒行伝112節から14節までです。イエス・キリスト様が十字架に架けられ死なれ、三日後によみがえった後、40日間にわたって弟子たちに顕われ、神の国について教えられました。それは、イエス・キリスト様がこの世を去って天に上げられた後に、弟子たちがイエス・キリスト様の権威と力を受け継ぎ、世界中にキリスト様のからだなる教会を建て上げる為でした。

 そして、その40日が過ぎたとき、イエス・キリスト様のお体はオリーブ山から天に挙げられ、雲に包まれ見えなくなってしまいました。完全にイエス.キリスト様のお体はこの世界から去ってしまったのです。これからは、弟子たちがキリストのからだなる教会を建てあげて行かなければない。その時がやって来たのです。

 イエス・キリスト様が天の挙げられたあと、弟子たちは、イエス・キリスト様の昇天があった場所であるオリーブ山からエルサレムに帰ってきます。オリーブ山はケデロンの谷を挟んでエルサレムの街の東側にある小高い丘陵地帯です。標高825mとも言われますが、一般に言われるオリーブ山はこの丘陵地帯の南峰のことだそうで、そちらの標高は808mほどだそうです。シオンの丘の上に建てられているエルサレムが標高760mですから、エルサレムより48mほど高いことになります。

 48mはだいたい20階建てのビルぐらい高さですので、オリーブ山からは十分にエルサレムの街を見下ろせただろうと思います。そのオーブ山から弟子たちはケベロンの谷をむかって山を下り、またケベロンの谷からエルサレムに昇っていく。その道々、弟子たちは何を考え、何を思っていたのか。聖書は何も告げていません。ただ淡々と、オリーブ山は、エルサレムから安息日に歩くことが赦されている距離であった伝えるのです。

 この安息日に歩くことが許される距離というのがだいたい900メートルぐらいですから、確かにオリーブ山はエルサレムからそう遠くはないところにあることが分かります。そのオリーブ山か帰ってきた弟子たち、それはイエス・キリスト様の昇天の出来事を見届けた者たちですが、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマスとバルトロマイとマタイ、そして、アルパヨの子ヤコブと熱心党員のシモン、ヤコブの子ユダの11人がそのメンバーでした。

 この11人は、12弟子といわれるイエス・キリスト様の直弟子たちです。もちろん当然といえばとうぜんですが、そこにはイエス・キリスト様をサンヘドリンの議会に売り渡したユダは入っていません。そのユダを欠いた11人は、宿屋の2階の部屋でイエス・キリスト様の母マリヤやイエス・キリスト様の兄弟たちとでひたすら祈りをしていた人達です。

 このひたすら祈りをしていたと言う言葉を原語を直訳すると、彼らは心を一つにしてともに祈る者であることに固執していた。あるいは心を一つにしてともに祈る者であることから離れなかった。という訳になります。つまり彼らは祈り手であることに専念し、祈ることに常に従事していたと言うのです。

 何をそんなに熱心に祈ったのか。聖書は何も語りません。しかし語らなくても伝わって来る。彼らは、これからイエス・キリスト様にかわって教会を建て上げていく使命を与えられた人たちです。だから、これから教会を建てるのだ。神の国をこのイエス・キリスト様のいない世界に広げていくのだと言う思いの中で祈っている。
そこには不安もあるでしょう、恐れもあるでしょう。よしやってやろうと言う思いもあったに違いない。そのような様々な思いが交錯する中で、彼らがとった最初の行動は、心を一つにして祈るということでなのです。

 教会を建て上げていくためにまず最初にしなければならないこと、それは祈ると言うこと。「いや伝道することではないか」、「福音を伝えることではない」か。そう思われるかたもいらっしゃるかもしれませんが、それは教会を大きくすることであって教会を建て上げることではありません。

みなさん、教会と言う言葉はギリシャ語でεκλλησιία;呼び集められた者の集まり、つまり神に呼び集められた神の会衆の集まりだと言います。けれども、クリスチャンがただ呼び集めら、クリスチャンの集まりができただというそれだけで教会が立て上げられるわけではないのです。どんなに多くの人が集まっていても、それだけでキリストのからだなる教会にはなりません。

たとえば、使徒たちが教会を建て上げて行った使徒行伝の時代、εκλλησιίαと言う言葉は様々な人の集団に使われていました。パウロがエペソで伝道をした際に、デメテリオという銀細工で神殿の模型を作って金儲けをしていた職人が、その同業者たちに、パウロが手で作ったものは神ではないといって自分たちの仕事を邪魔しているとけしかけて大騒動が起こったと言う記事がでていますが、この同業者の集まりもεκλλησιίαと呼ばれるものです。

 ですから、単にεκλλησιίαと言うだけでは教会にはならないのです。そこには教会は教会らしくなければなりません。では教会を建て上げるとして、その教会とはどのようなところか、教会とは言った何なのか。
みなさん、教会は神の王国です。神の王国は神の恵みが支配するところです。ですから、教会には慰めがなければなりませんし、安らぎがなければなりません。もちろんそれは、礼拝や礼拝の説教に慰めや癒しは励ましがなければならないと言うこともありますが、しかし礼拝だけのことではなく教会に来ると、教会の交わりの中に何か気が重くなるとか、心が痛むとか、傷つくと言うことは、本来はあってはならないことです。でも実際にはそういうことがある。

 もちろん、そのようなことは乗り越えられていかなければなりません。そのような教会のほころびは修繕され、より善い教会にならなければなりません。そして、そのような教会になりためには、祈ることが必要なのです。あの宿屋の2階で11人になった使徒たちとイエス・キリスト様の家族たちが心を合わせて祈っていたのは、より善い教会を建て上げるためなのです。イスカリオテのユダがいなくなり、12弟子に一人かけた状態の欠けのある11人の弟子たちが、欠けのない教会を気付き上げるために一つに心を合わせて祈っている。

 みなさん。以前にもお話ししたことがありますのでおぼえている方もいらっしゃるかもしれませんが、私の恩師のひとりであるM牧師が、ある教会に招かれていったときにこのような話があったんだと教えてくだいました。M牧師が、招かれてた教会は、ちょうど教会創立何十周年目かの記念の年を迎えて、教会の皆さんが喜んでその何十周年目かを記念する行事を行おうといくつかの計画を立てた。その中に記念誌を作り、教会の歩みをまとめようではないかと言う計画があったのです。

 それで、教会の青年が中心になって教会の歴史を調べていると、その教会が第2次世界大戦のときに戦争に協力をしてたと言うことが分かった。それで、青年たちは、自分たちの教会の戦争責任を明らかにして、そのことを悔い改める必要があるのではないかと言い出した。そのことが教会の中に微妙な空気を生み出してしまったと言うのです。それは、その教会には、その戦争に協力していた時代の教会の人がまだいらっしゃったからです。
だから、戦争を知らない世代の青年のクリスチャンたちと実際に戦争の時代を生きた世代の年配の方々の間に亀裂が入ってしまったと言うのです。

 そこまでお話になると、M牧師は私に「濱君、その時彼らはどうしたと思う」と質問されるのです。「どうしたと思う」と言われても、私には「話し合いをした」とか「青年が一生懸命説得した」と言ったことしか思い浮かびませんでしたが、みなさんはどうでしょうか。

 しばらくしてM牧師は「濱君、彼らはね祈祷会を始めたんだ。そして共に祈ることを始めた。そうすると自然と問題が解決して、共に喜んでその何十周年目かの記念の時を迎えられた」と言うのです。

 戦争を知らない青年たちは、苦しい戦争を経験してきた世代の人たちの心を思いやる思いやりに欠けていました。また戦争を経験した時代の年配の方々は、自分たちの歩みを振り返り、それを神に問うと言う姿勢を欠いていたのです。そこには。欠けのある教会がある。その共に欠けをもったものが、共に集まり、ともに祈っていくときに、そこに和解が起こり、そしてより善い交わりが築き上げられるようになっていった。心を一つにして祈るということは、そこに和解を生み出すのです。みなさん。心を一つにすると言うことは、言葉にして言うことはたやすい言葉です。たった2文節しかない簡単な言葉です。しかし、実際に心を一つにすると言うことはとても難しいことです。

 一人一人が、様々な思いを持っている。一人一人が自分はこれが正しいと言う答えを持っている。こうすればいいと思っている。これが良いことだと思い確信している。ですから、その様々な思いを一つにすることは簡単なことではありません。どちらかを立てれば、どちらかが立たないと言ったことが実際には起こるのです。そのような違いを祈りは一つにする力がある。なぜならば、祈りは神の御心を求めることだからです。誰かの意見や思いを選ぶと言うことではなく、神の御心を求める。それが祈りを通して一つになると言うことなのです。そして、神の御心を真実に祈り求めるとき、自分の痛みを受け止めることができる。

 みなさん、先ほどマタイによる福音書の2636節から44節までを司式者にお読みただましたが、この箇所は、有名なゲツセマネの祈りの箇所です。このゲツセマネの祈りにおいて、イエス・キリスト様は、ご自身の十字架の死を予見して、父なる神に、願わくば十字架の死と言う苦しみを取り去ってくださいと祈ります。しかし、二度、三度と祈る中で、父よ、あなたの御心のままになさって下さいと言う祈りに代わっていく。

 イエス・キリスト様が、自分の願いではなく神の御心のままになることを求めるということは、神の御心の前に自分自身が十字架の死を負うことを引き受けると言うことです。そこには、痛みがあり、苦しみがある。けれども神の御心を求めるときに、その痛みや苦しみをも引き受ける覚悟ができるのです。

 ですから、みなさん。祈りは人を変えていきます。「できることならこの杯を取り除けてください」という自己中心的な自己実現を求める祈りから、「あなたの御心を行ってください」という神の御心を求める神中心の祈りに代わっていく。そこには、自己中心的な生き方から、神中心的な生き方へと変わっていく人間の姿がある。イエス・キリスト様のゲツセマネの祈りは、そのように変わっていく人間の姿を私たちに教えてくださるものなのです。

 みなさん、神の御心を求めるということで心を一つにしてともに祈るとき、その祈りに加わっている一人一人が神の御心がなされるために、自分自身の思いを神の前に差し出します。自分の思いや願いでなく神の御心がなされることを願い、それゆえに自分の思いや願いを取り下げるという痛みを負うことができるのです。

 あのエルサレムの宿屋に2階には十数人の人が集まっていました。それぞれがイエス・キリスト様から託された使命である神の王国であり、キリストのからだである教会を建て上げるために様々な思いや願いを持っていたでしょう。ただ単にそれをぶつけ合っていたならば、彼らは決して一つにはなれなかったでしょうし、教会が建て上がっていたかどうかは疑わしいものです。けれども、神の御心が成ることをもとめ、神の御心を求めていくとき、心を一つにすることができるのです。

 彼らは心を一つにして共に祈る者であることに固執していた。あるいは心を一つにしてともに祈る者であることから離れなかった。と言う聖書の言葉は、彼らが何を祈り求めていたかを私たちに教えます。そうです。彼らは神の御心を求めていた。それを求める覚悟ができていたから、心を一つにしてともに祈る者であることに固執し、共に祈る者であることから離れなかったのです。

 みなさん、私たちが真摯な思いで神の御心を求め、それを実現しようと努め励むならば、神の御心は必ず実現します。神の御心ならばなるから、私たちは神の御心だけを祈っていればいいと言うことではないのです。ああ、ここに神のお心があるんだ言うことを私たちが掴んだならば、そのお心が地にもなるように、私たちもキリストのからだとして、神のお心が地になることのために努力し務め、励むのです。なぜならば、教会はキリストのからだとして、イエス・キリスト様から権限も力も委譲され、この世で神の業を行う存在だからです

みなさん。先ほどのお読みいたし来ました詩篇338節から11節までは、神のお心は必ず地になされると言います。

   8全地は主を恐れ、世に住むすべての者は主を恐れかしこめ。9:主が仰せられると、そのようになり、命じられると、堅く立ったからである。10:主はもろもろの国のはかりごとをむなしくし、もろもろの民の企てをくじかれる。11:主のはかりごとはとこしえに立ち、そのみこころの思いは世々に立つ。

そのように神のお心が実現するところが本来の教会なのです。そして、神のお心は、私たちにとって喜ばしいことなのです。たとえそこに痛みを伴うことがあっても、それは喜びの知らせをもたらすものです。詩篇を記した新人は言葉を続けます。

12:主をおのが神とする国はさいわいである。主がその嗣業として選ばれた民はさいわいである。13:主は天から見おろされ、すべての人の子らを見、14:そのおられる所から地に住むすべての人をながめられる。15:主はすべて彼らの心を造り、そのすべてのわざに心をとめられる。

 みなさん。教会は神を神とて建てられる神の王国です。そこは幸いな場所であり、神を信じ教会に呼び集められ民は幸いな民です。私たちはそのような民として、この教会に呼び集められ、神の御心を求める心をもって神を王とする神の王国、キリストのからだなる教会を気付き上げる業を担っています。神は、その御心を求める心を私たちに造ってくださるのです。

 私たちは神の王国の民であり、ひとつのキリストのからだなる教会を造り上げるひとり一人です。そして、そのような教会を建て上げるには、まず共に心を一つにして祈ることから始まるのです。

 今日の教会を置かれている状況は、共に心を一つにして祈ると言う場を持つことが難しくなってきている時代です。実際、祈祷会に出席する人が著しく減ってきていると言う現実がある。それは私たちの教会でも同じです。だからと言って、私はみなさんに、祈祷会に出席しましょうと発破をかけるつもりはありませいん。もちろん、祈祷会がさかんになることは良いことですし、祈祷会に出ようと言う気持ちが起こってくることは喜ぶべきことです。

しかし、今の私たちが置かれている環境を考えると、祈祷会に出席できないということもやむを得ないと言う気持ちもあります。ただ、幸いなことは、一つにするのは心です。神のみ心を求める心を一つにするのです。祈る場所を一つにすると言うのではない。そして心を一つにすると言うことは、場所や時間が違っても出来ることです。ですからみなさん、今、こうして小金井福音キリスト教会と言う教会を建て上げている私たちは、まず心を一つにし、神の御心を求めるところか始めてまいりましょう。お祈りします。

2018年9月23日日曜日

2018年09月23日 小金井福音キリスト教会 説教

聖書個所
・列王記下 第2章 7節~14節
・ヨハネによる福音書 第15章 12節~19節
・使徒行伝 第1章 6~11節

説教題 「キリストの昇天と使命を受け継ぐ教会」


 
 今日の説教の中心となるのは。使徒行伝1章6節から11節です。とりわけ、9節から11節のイエス・キリスト様が天に昇られた昇天の出来事に目を向けたいと思います。

 イエス・キリスト様は十字架に架けられ、死んで葬られ、三日目に死人の内からよみがえり、そして天に昇られました。これは、先ほどみなさんと一緒に唱和した使徒信条にもある言葉です。十字架で死なれたイエス・キリスト様が弟子たちの見ている前で天に昇られた。それは、全き神であり、全き人であるイエス・キリストの「この世」での生涯の最後の出来事でした。ところが、このイエス・キリスト様が天に昇られたという出来事を四つの福音書のいずれにも記されていないのです。ただ、ルカによる福音書は24章51節で、わすかにこの昇天の出来事を臭わせている記事が出ているだけです。

 私たちの教団では口語訳聖書を公用聖書として使っていますので、口語訳聖書でルカによる福音書24章51節を見てみますと、そこにはカギ括弧で〔天にあげられた〕と書いてあります。これは聖書の写本の中にこのように書かれたものがあるということで括弧がきで書かれているのですが、おそらくこれは、ルカによる福音書と同じ著者によって書かれた使徒行伝に昇天の記事がありますので、聖書の写本をする段階で、このルカより福音書24章21節の「祝福しておられるうちに、彼らを離れて」と言う言葉は、昇天のことを指しているのだろうと考えて書き加えたのではないかと思われます。そもそも、もともとあったのであれば、削除する必要はないわけですから、書き加えらたと考える方が妥当です。
 いずれにしても、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネのいずれの福音書も、イエス・キリスト様が天に昇られたということに触れていないのです。ただルカだけが、使徒行伝において、このイエス・キリスト様が弟子たちの目の前で天に昇られたという出来事を記すのです。

 人が天に引き上げられ登っていくというようなことは大事件です。なのにルカが使徒行伝の1章9節から11節で取り扱うだけで、福音書はそのことに何も触れないとは一体どういうことかと不思議な気持ちになります。ひょっとしたら、このイエス・キリスト様の昇天の記事はルカが創作した物語ではないかなどと言う思いもしないわけではありません。しかし、だとしたら少なくとも、ルカによる福音書が同じ著者によって書かれているのであるならば、ルカによる福音書でも何らかの形でイエス・キリスト様の昇天に出来事にふれてもよさそうなものです

 ですから、ルカは、あえて意図的にルカによる福音書ではこの昇天の物語に触れず、使徒行伝だけに書き記したと思われます。そういったわけで、福音書に全くイエス・キリストの昇天の記事がないからと言って、その史実性を問題にしたり、軽視する必要まったくありません。それは、神の言葉である聖書が書きしている出来事なのです。神様が、ルカを通して、神の言葉としてイエス・キリスト様が使徒行伝の1章9節から1節を通してイエス・キリスト様が天に昇られた記事を書き記したのです。この昇天の出来事を書き記させたのも神様であるなら、この昇天の記事を福音書に書きとどめられなかったのも神様です。ですから、福音書には何の記述もなく使徒行伝だけに書き記されているという現象も、そこには何か神様の深いお考えがあると考えるべきです。

 では、その神様のお考えとは一体何か。考えますに、おそらく、福音書において昇天の出来事が取り扱われることがなかったのは、福音書というものの関心が、「この世」にあってイエス・キリストがいかに生きたかということを伝えることにあるためであろうと思われます。そのような視点においては、イエス・キリストがいかに「この世」を去ったかは関心の外の出来事です。
 しかし、使徒行伝の関心は違います。使徒行伝の関心は、「この世」にあってイエス・キリスト様がいかに生きられたかではありません。イエス・キリスト様が去った後に、どのように教会がこの世界に形成されていったかと言う歴史を記すというところに使徒行伝の関心がある。

 このような視点に立つとき、昇天の出来事は極めて重要な意味を持ってきます。というのも、イエス・キリストの肉体が「この世」を去られて天に帰られたがゆえに、この地上には、「キリストのからだなる教会」が建て上げられていくからです。
 みなさん、仮にイエス・キリストがこの地上に居られる限り、「キリストのからだ」は、今日のユダヤ地方、それはパレスティナの一地方ですが、その場所に縛られます。そしてその行動の範囲も限定されてくる。それに対して、イエス・キリストが昇天し、天にあげられたイエス・キリストと入れ替わるように聖霊が下り、その聖霊の働きによって、教会が「エルサレム、ユダヤとサマリヤ全土、さらに地の果てまで」(使徒一・八)イエス・キリスト様が証され、「キリストのからだなる教会」が建て上げられ行くとき、イエス・キリスト様の「からだ」は世界中に存在し、神の国が世界中に広がっていく。なぜなら、イエス・キリスト様ご自身が神の国だからです。 

 使徒業伝はまさにそのことを伝えるのです。そういった意味で、まさにこの昇天の出来事こそが、世界中に広がるキリスト教会設立にとっての重要なターニングポイントとなるのです。

 肉体をもって復活したイエス・キリストは、四十日にわたって弟子たちに神の王国について教えられた。それは、まさに使徒行伝が最初に伝えたことです。その神の王国は、神の恵みが支配する国です。そしてその神の恵みの支配は、まずイエス・キリストご自身の内に成就した。
 ですから神の王国とは、イエス・キリスト様ご自身であると言えるのです。その神の王国が「キリストのからだなる教会」に受け渡され、受け継がれていった。それが、イエス・キリストの昇天の出来事を機に行われたのです。だから、ルカは使徒行伝で、このイエス・キリスト様の昇天の出来事を伝えずにはいられなかった。いや伝えなければならなかったのです。そうしなければ、教会が教会である根拠を明らかにすることができないのです。

 みなさん、聖書において、イエス・キリスト様以外に天に昇ったという表現がなされる人物はほとんどいません。わずかにエノクとエリヤのみなのです。その中でエノクについていえば、創世記5章24節が、アダムの系図を書き記す中で「エノクは神と共に歩み、神が彼を取られたのでいなくなった」と伝えるだけで、聖書それ自身はエノクが天に昇ったということについて何も語っていない。ただ、へブル書11章5節に「エノクは天に移された」といってエノクの天に昇ったという出来事を示唆するのです。このようにへブル書が聖書ん書かれていないエノクの昇天について言及するのは、おそらくそれはエノクについての伝説的物語によるものであると考えられるます。
 
 実際、エノクについての伝説がいくつかのものが伝えらていたようです。その中に確かに、エノクが生きたまま天にあげられたということを伝える伝説がある。しかし、仮にこのへブル書11章5節がエノクに対する伝説的な物語に立って述べられたとしても、へブル書自身が、この11章5節で指し示していることは、使徒行伝にあるイエス・キリスト様の昇天とは、少々意味合いが違っている。と言うのもエノクの昇天を伝えるへブル書の意図は、神に忠実に生きた者に対して与えられる祝福を提示するということであって、その持つ意味は神の国が受け渡されていく転機としてのイエス・キリストの昇天とは性質が異なるものです。

 それに対して、先ほど司式の兄弟にお読みいただいた列王記下2章にあるエリヤの昇天の記事は極めて興味深い内容です。と申しますのも。このエリヤの昇天の記事は、単にエリヤが天に昇ったという物語を伝えるだけでなく、むしろエリヤの昇天の物語を用いながら、そこにエリヤの権威と使命がエリヤからエリシャへ受け渡されるという権威と力と使命の委譲の物語が語られているからです。

 この権威と使命の受け渡しの物語は、エリヤがその弟子エリシャとの別れを告げるところから始まります。エリシャは自分がこの世を離れるということをどうやら薄々感じていたようです。ですからエリヤは自分の愛弟子のエリシャに別れを告げようとする。その別れを告げるエリヤに、エリシャはエリヤの霊を継がせてほしいと求めるのです。
 このエリシャの求めにエリヤは具体的に答えることはありませんでしたが、ただエリヤがつむじ風に乗って天に昇ったあとにエリヤの外套が残される。この外套は、エリヤとエリシャの別れの場面の直前に、エリヤがその外套でヨルダン川の水を打ち、水を二つに割ってヨルダン川を渡った。その外套が残された残されたのです。

 みなさん、エリヤが水を左右二つに分けたという物語はモーセの紅海渡歩やヨシュアのヨルダン渡歩の物語を思わせます。そして、エリヤがヨルダン川を左右に分けたという出来事は、エリヤの預言者としての権威と力が、あのモーセやヨシュアに匹敵するものであることを私たちに教えます。いえ、単に匹敵するという比較の問題ではない、何よりも、この川の水を二つに分けた行為によって、エリヤの預言者としての権威と力、それはモーセからヨシュアに受け継がれた神の人の持つ権威であり、力であると、私たちに語りかけてくる。

 エリヤの外套は、そのモーセからヨシュア、そしてエリヤと受け継がれてきた神の人の権威と力の象徴です。そのエリヤの外套が残され、それをエリシャが受け継いだ。この外套を受け継いだエリシャがエリシャのように水を打つと、エリヤの時と同様に、水が左右に割れたました。この水が左右に分かれたという出来事の後、エリコにいる友人をエリシャが訪ねますと、その友人はエリシャをみて「エリヤの霊がエリシャの上に留まっている」と言う。こうして、神の人エリヤの権威と力はその愛弟子エリシャへと受け渡されていったのです。そして、そこからエリシャが預言者としての使命に立つ。
 
この権威と力の委譲の物語は、イエス・キリスト様の昇天の物語において、再び物語られます。それはイエス・キリスト様の神の子としての権威と力が、キリストの権威が、イエス・キリスト様に従う弟子たちの群れである教会への受け渡されて浮く委譲の物語です。それはイエス・キリストの昇天の物語は、聖霊降臨の物語と相まって、イエス・キリストの霊を覆う外套のごとき肉体が、「キリストのからだなる教会」となって具体的に存在するものとなったことを私たちに伝える物語なのです。

 だからこそみなさん、「キリストのからだなる教会」はイエス・キリストを頭に抱き、全き人となった神の子であるイエス・キリストの権威と力を与える聖霊の力を受けて、「この世」にある神の王国としてキリストの業を行うのです。イエス・キリスト様が天に昇られたという物語は、単にイエス・キリスト様の「この世」というこの地上での働きが終わったという終わりの物語ではありません。

 イエス・キリスト様の権威と力とが教会という「キリストのからだ」に譲渡され、教会が「キリストのからだなる教会」としてキリストの業を行う使命の立つものとなった始まりを伝え、それが今も受け継がれていることを伝える物語なのです。というのも、イエス・キリスト様が天に昇られたその場所には、白い衣を着たふたりの人がおり、弟子たち「イエス・キリスト様が天に昇られたように、再び来られる」というキリストの再臨を思わせる言葉を伝えているからです。

 もちろん、その再臨の時がいつになるかは私たちには分かりません。しかし、イエス・キリスト様ご自身が再び来られる問うのですから、その時が来るまで、教会はイエス・キリスト様から受け継いだキリストの業を行っていかなければなりませんし、行っていくのです。イエス・キリストの昇天の出来事は、教会がイエス・キリスト様の働きを受け継ぎ行うものとなった始まりの出来事であり、イエス・キリスト様が再び「この世」に来られるまで、その働きを続けていくのです。
 そのキリストの業とは、キリストの受肉と十字架と復活において表されたキリストの全生涯であるといえます。そしてそのイエス・キリスト様の全生涯は愛で貫かれていた。

 みなさん、先ほど司式の兄弟にお読みいただいたヨハネによる福音書15章12節から19節の言葉を思い出してほしいのです。みなさん、このヨハネによる福音書の14章、15章、16章は、イエス・キリスト様が十字架に架かって死なれる前に最後に語られた告別説教であると言われる箇所です。そこでイエス・キリスト様は、後にキリストのからだなる教会を築き上げていく弟子たちに向かって語られたのです。

 その告別説教の中で、イエス・キリスト様は弟子たちに戒めとして語られたないようが、15章12節から19節です。そしてその教えの内容が「わたしが愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」です。単に「愛し合いなさい」というのではない、「わたしが愛したように、互いに愛し合いなさい」と言うのです。
 まさに、「愛する」というイエス・キリスト様の業を受け継いで愛し合う。だからこそ、「人がその友のために命を捨てること、これよりも大きな愛はない」と言うのです。それは、イエス・キリスト様が私たちを罪の支配から解放するために十字架の上で命を投げ出した愛です。その愛を模範とし、その愛に倣い、その愛を受け継いで愛しなさいと言われる。そのために、あなたがたを選んだのだとイエス・キリスト様は語るのです。

 その友のために命を捨てる愛、そのような愛をもって愛し合うということは、到底できないと思うほど難しことです。それができるとイエス・キリスト様は言われる。もし、私たちが「この世」のものなら、確かにそのような愛で愛することはできません。でも、神にキリストの弟子として選ばれているのです。そして、選ばれて新しい神の民として生まれ変わっているのです。そして生まれ変わっているからこそ、それができる。また、出来るように権威も力も、そして助け主なる聖霊さえも与えてくださっているのです。

 あの告別説教で、イエス・キリスト様は、「この世」はあなたがたを憎むとと言われます。それは、命を捨てるまでにとも愛するイエス・キリスト様を「この世」が憎むからです。イエス・キリスト様を憎んだ「この世」は、「キリストのからだなる教会」が、そしてその「からだなる教会」に結び合わされた弟子たちにイエス・キリスト様の権威と力を譲渡されたから憎むのです。
 それほど、教会は大きな力と権威を教会は受け継いでいるのです。それはつまり、私たちが受け継いでいるということなのです。それほどまでに、イエス・キリスト様は私たちを信頼して下さり、私たちにご自身の業を委ねてくださっている。

 イエス・キリスト様の十字架の死が、神様とイエス・キリスト様の私たちに対する愛の証であるとするならば、イエス・キリスト様の昇天は、神様とイエス・キリスト様の私たちに対する信頼の証であると言えます。
 
 そのように、互いに愛し合い、支え合い、神をほめたたえつつ、宣教の業に励むというキリストの業を生きる教会、それが使徒行伝全体に貫かれている教会の姿です。そしてその姿は2000年前の教会の姿と言うだけではなく、今日の教会にも求められている姿です。

 みなさん、キリスト教会の歴史は、この使徒行伝の時代から2000年の時が立っています。その間、教会は失敗もしてきましたし、過ちも犯してきた。その都度、教会は自らの在り方を反省し、改革を行ってきました。そのような教会の改革がなされるとき、しばしば、スローガンとしてかかげられる言葉は、「初代教会に帰ろう」ということです。

 初代教会と言う言葉は、今日の厳密さを求められる神学の世界では使い方に注意を必要とする言葉になっていますが、要は、使徒行伝の時代のような教会に帰ろうと言うのです。それは、まさにイエス・キリスト様の権威と力を委譲され、神の愛によって一つに結ばれた、神の愛を実践していた教会です。

 みなさん、私たちは、神の民となり、キリストの愛の業を実践するものとして神に選ばれているのです。キリストの愛を実践する「キリストのからだなる教会」を建て上げる者として召されているのです。そのことを覚え、私たちの信仰に誇りをもって、キリストの愛の業を行い、証しするものとなっていきましょう。それは、互いにいたわりながら、そして思いやりながら歩むあゆみに中に現れてくるものなのです。
お祈りしましょう。

2018年9月16日日曜日

2018年9月16日 小金井福音キリスト教会 説教

聖書個所
・サムエル記上 第12章 7節~18節
・ルカによる福音書 第24章 44節~53節
・使徒行伝 第1章 1節~11節


説教題 「 神の王国の証人 」




 先週は、一週間の夏休みをいただきましたが、先々週の礼拝において、一応ルカによる福音書からの説教は一区切り致しました。一応と申しましたのは、今週から、使徒行伝を中心として連続して御言葉を取り次いでいくからです。

 では、なぜ、ルカによる福音書からの説教が使徒行伝からの説教に移り変わることが一応になるのかと申しますと、この二つの書が同じ著者によって書かれたものであり、使徒行伝はルカによる福音書の続編といった意味合いがあるからです。もちろん、ルカによる福音書も使徒行伝も、それぞれが独立した書物として完結したものです。ですからこの二つの書は、一つの物語が二つに分断されて記されているというわけではありません。しかし、この二つの書は、その主題や歴史観、神学的理解において一貫しており、共通しているのです。 
 その共通性というのは、イエス・キリスト様によって神の国、それはイエス・キリスト様を王とする神の王国がこの世界に到来し、それが、ユダヤから始まり、サマリヤ、そして地の果てまでと言ったふうに世界に広まっていくのだということです。 そして、それぞれが完結しつつも主題や神学、歴史観が一貫し、共通している二つの書物を結び合わせている箇所が、今日の聖書個所である使徒行伝11節から11節までとルカによる福音書244453節なのです。

 この二つの書物における接続部分は、イエス・キリスト様が十字架に架けられ死なれた後に、3日の後に復活なされ、弟子たちに現れ弟子たちを教えられ、天に昇られたということを記しています。それに対して、ルカによる福音書は、イエス・キリスト様がよみがえられたその日の出来事に集中して書かれているのに対して、使徒行伝の方では、40日にわたって、弟子たちに現れた出来事について書かれているという点で違いがあります。また、イエス・キリスト様が天にあげられる様子などが、使徒行伝の記述がより詳細です。
 そして、イエス・キリスト様が弟子たちに教えられた内容は、ルカによる福音書はイエス・キリスト様が「苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえられ、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ということであり、あなたがたはエルサレムから開始して、これらの証人になるというものであったのに対し、使徒行伝は、40日の間にわたって神の国について教えられたとなっています。

 もっとも、先々週の創立記念記念礼拝の説教で、お話ししましたように、イエス・キリスト様が、「苦しまれ、三日目に死人の中からよみがえり、罪の赦しを得させる悔い改めがあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ということは、イエス・キリスト様の十字架の死と復活によって、「キリストのからだなる教会」がこの世界に打ち建てられたということを意味しています。罪の支配に縛り付けられていた私たちが、イエス・キリスト様によってもたらされた神の恵みが支配する「神の王国」に迎え入れらるのです。それが福音の中心にあるメッセージです。

 その神の王国についてイエス・キリスト様は40日間の間にわたって弟子たちに教えられたのです。それは「キリストのからだなる教会」こそが、具体的に「神の王国」を目に見える形で表すものだからです。ところが、弟子たちは「主よ、イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか」という的外れな質問をします。
 この弟子たちの質問は、弟子たちがイエス・キリスト様から神の王国について教えられているのも関わらず、彼らはイスラエル民族によって構成されるイスラエルの国が復興されることだと考えてたことを示しています。つまり、彼らは、イエス・キリスト様のもたらす神の王国というものが何であるかということがわからなかったのです。

 ではみなさん、そもそも神の王国とは、いったいどのようなものなのでしょうか。
 
 聖書において、この地上に具体的に現れる神の王国というもについて最初に言及された箇所は、サムエル記上の記述に見ることができます。中でも先ほど司式の方にお読みいただいたサムエル記上127節から18節、旧約聖書pp.397398になりますが、そこには、神の王国というものの本質が記されていると言ってもよいでしょう。

 そもそも古代イスラエルの国を構成していた12の部族は、アブラハムの12人の息子につまがる家系につながる人々です。そのイスラエルの12部族が、アブラハムにとって孫にあたるヤコブの時代に飢饉を逃れてエジプトに移り住みました。エジプトでも生活は最初は良かったのですが、そこは移住してきた民族です。やがて子孫が増え広がっていく中で疎んじまれ、奴隷とされ支配されててしまいます。
 その苦しみの中で、神はモーセを遣わしエジプトに支配されていた中から救い出し、ヨシュアがそのイスラエルの民を神の約束の地であるカナンの地、今日のパレスティナ地方に導き入れて下さった。ここに古代イスラエルの国の起源があります。そして、その地で、それぞれの氏族が割り当てられた土地で独立してその地を治めるようになったのです。ここに古代イスラエルの国の起源があります。しかし、その国はまだ王政であありません。
 イスラエルの12部族は、それぞれが独立自治をおこなっていました。そして、何かしらの法律的な問題が起こった際には士師と呼ばれる裁き司がその問題に対処していました。その士師たちの中には、他民族や他の国からイスラエルの民が襲われたときには軍事的なリーダーとなって、他民族や外国との闘いを指導した人たちがいました。ギデオンやサムソンと言った人たちです。そのような士師たちの働きが記されているのが旧約聖書の士師記ですが、イスラエルの民は、そのような士師記の時代から王政へと移っていきます。彼らが、イスラエルの民自身が、12氏族がそれぞれ、独立自治を為すいわば合衆国のような形態ではなく、ひとりの王を建て、その王の権限の下でまとめ上げられた中央集権的な国家形成を求めたからです。

 なぜ、イスラエルの民がそのように王を求めたのかということについてはいろいろな事情があったのだろうと思いますが、士師の時代のイスラエルの国は、周りの民族や国々から攻め入られたとき、そのつど12の氏族から人々が寄せ集まり、言わば民兵のような集団を作り敵に立ち向かっていました。寄せ集めの民兵ですから、決して強くはない。それに対して、イスラエルの国の周辺では、王を建て、軍隊が整備することによって軍事的に強い国家が起こってきたという背景もあったでしょう。
 また、サムエル記8章に見られるように、それまでサムエルやサムエルの預言者としての師であるエリのような預言者がイスラエルの民の裁き司としてイスラエルの国を導いていましたが、その後継者に指名されたエリの息子やサムエルの息子たちが、イスラエルの民を裁く裁き司にふさわしくない言動をしていたこと目撃していましたので、もう預言者に裁き司を任せられないという思いがあったのかもしれません。

 いずれにせよ、彼らはイスラエルの民の上に軍事的に強力な指導者となる王を建て、その王によって導かれる国家形成を目指したのです。つまり、そのように王を立てることは、イスラエルの民の側、いうなれば人間の側から出た求めであり要望でした。それに対して、神は、イスラエルの民に王を建てるということを望んではいなかったのです。
なぜならば、イスラエルの民の王は神ご自身だからです。イスラエルの民、それは神の民と言ってもいいでしょう。神の民は、神ご自身が王となられて、その民を治めるからこそ神の民なのです。ですから、人間の側が求め、その求めによって王を建てるということを神は望んでいなかったのです。 

けれども、イスラエルの民があまりにも強く人間の王を求めるので、神はサウルという人物を王としてお与えになった。そのサウルが王となり、イスラエルの民の上に王を立てて、その人間の王によって治められる王国を築i立つのです。その王国を築くにあたって、新しく築かれる王国が神の王国が神の王国となるために神は預言者サムエルを通して神の王国の本質を語ります。それが、まさにこのサムエル記上127節から18節までに記されている。 
そこでサムエルは、語ったことはイスラエルの民の歴史です。それは神がイスラルの民をお救いになった救いの歴史です。具体的には、奴隷となっていたエジプトの国から導き出し、神がカナンの地をイスラエルに与えたという解放の歴史であり、また、そのような救のわざに与ったのにもかかわらずイスラエルの民が神を忘れててしまいバアルやアシュタロテといった他の神々を崇めるようになり、周りの国から攻め込まれるという苦難を経験する中で、イスラエルの民が神に立ち帰り、神を呼び求めるようになった時、神が士師たちをたててイスラエルの民を救われたという歴史です。サムエルは、そのように神の救いの歴史を示し、神がイスラエルの民を神の恵みの元で導いてこられた歴史を示すながら、次のように言うのです。

13:それゆえ、今あなたがたの選んだ王、あなたがたが求めた王を見なさい。主はあなたがたの上に王を立てられた。14:もし、あなたがたが主を恐れ、主に仕えて、その声に聞き従い、主の戒めにそむかず、あなたがたも、あなたがたを治める王も共に、あなたがたの神、主に従うならば、それで良い。15:しかし、もしあなたがたが主の声に聞き従わず、主の戒めにそむくならば、主の手は、あなたがたとあなたがたの王を攻めるであろう。

 ここで言われていることは、一言でいえば、イスラエルの民も、また王となった者も神の言葉に従うのであれば、人を王として立て王国をた築くということも良いであろうということです。しかし、神の言葉に聞き従わないというようなことになるならば、その王国は神に撃たれ、神の子らしめを受けることになるということです。つまり、神がお建てになった王国は、たとえ人が王となっていようと神の王国なのであって、その神の王国は、人々が、神に従う道から外れず、心を尽くして主に従う(1220)者たちの国なのだということなのです。その神の王国では王であろうと一般の民衆であろうと、神に聞き従う者となる。そのような者たちが集っているところに神の王国が築き上げられるのです。

 それは、イエス・キリスト様が「この世」にもたらした神の王国においても同じです。ところが、イエス・キリスト様の弟子たちは、そのことがわからなかった。だから、ローマ帝国の支配のもとにおかれ、実質は失われてしまったイスラエル民族の王国がイエス・キリスト様が王となることで復興することを願い、「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」とたずねるのです。

 この問いは、これからその弟子たちによって、エルサレムから始まって、ユダヤとサマリヤの全土、更に地の果てにまで、イエス・キリスト様によってもたらされた神の王国である「キリストのからだなる教会」をお建てになろうとなさっているイエス・キリスト様にとっては、なんともがっかりするような質問だった妥当と思います。けれども、そのようにイエス・キリスト様が語られる神の国の教えを理解することができずに的外れの質問をする弟子たちに、イエス・キリスト様は、こう言われるのです。

7:時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。8:ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう

 確かに、弟子たちはイエス・キリスト様の言うことが理解できないでいる。けれどもみなさん。そのような弟子たちなのではありますが、その弟子たちに聖霊なる神様が下り、彼らが聖霊を受けるとき、力を受けて、「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたし(すなわちイエス・キリスト様)の証人となる」というのです。
 「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで」というのは、地域や民族を超えてすべての国のすべての人にということです。それこそ、すべての国、すべての人にイエス・キリスト様のもたらした神の王国の到来という善い知らせ告げ知らせ、そしてその神の王国が、「この世」という世界に目に見える形で現れ出た「キリストのからだなる教会」を建て上げていくというのです。

 当然その時には、イエス・キリスト様の弟子たちは、もはやイエス・キリスト様が語られた神の国の教えについて理解できないも者たちではありません。ちゃんと理解してわかっているのです。わかっているからこそ、伝え、教え、「キリストのからだなる教会」を建て上げて行ったのです。つまり、弟子たちが、聖霊を受けるとき、力を受けるというのは、宣教する力を受けると言うだけでなく、イエス・キリスト様の語られたこと、聖書が語っていることを理解する力を得るということでもあるのです。

 みなさん。お恥ずかしいことなのですが、末席ではありますが、私も牧師という職務に与っている。牧師という仕事は何をするかというと、それは様々なことがある。それこそ牧会という名の下でなさる様々なことがあります。説教をすること、礼典を執行すること、伝道をすることと様々です。
 そう言ったわけで、私自身、ときどき自分は何をやっているのだろうかと自分のやっていることが分からなくなってしまうようになってしまう一瞬があります。しかし、そのような中、様々な働きの根底にあってもっと大事なことは、神の言葉である聖書の言葉を学び、信仰というもの向き合い、考えるということではないかと思っています。ちょっとカッコよく言うならば、神学をするということです。ですから私のモット―は「牧師は神学者たれ」ということです。
 そんなわけで、自分なりに一所懸命、聖書を学び、キリスト教の歴史を学び、教理を学ぶということを続けているのですが、こと聖書を学び信仰について考えていくと、本当に信仰とは奥深いな、聖書の言葉は本当に奥が深いなと思わされます。それこそ、聖書の言葉を解釈し理解して、それをもって信仰ということを語るということはとても大変なことです。

 ところが、その聖書の言葉が、すっと心の中に入ってきて腑に落ちるということがある。本当なら、まずは聖書を解釈をする、釈義をすしてから、聖書に書かれていることを理解するという作業をしていきます。それこそギリシャ語やヘブル語を調べたり、歴史的背景をしらべたりするといった、極めて時間と手間暇がかかるようなことを積み重ねて聖書の言葉を理解していくのです。ところが、そんな作業をすっ飛ばして、聖書の言葉がすっと心のに入る混んできて、聖書が私に何を語ろうとしているかがわかる一瞬がある。
 みなさん、そんなことはないですか。それまでなかなか理解できなかった聖書の言葉がふっと心に開かれて分かったと思うようなことがないでしょうか。私は、そのようなときに、ああ、聖霊なる神様がおしえてくださったんだな、わからせてくださったんだなと聖霊なる神様の働きを感じるのです。そしてそれが、クリスチャンとして生きて行く力になる。問題や試練を乗り越えていく力になる。

 当たり前のことですが、それが、普遍的真理であるとか聖書の解釈・釈義として妥当であるかどうかといったことは別の話です。私個人に聖書が語りかけてくださったということと、聖書を釈義し解釈するということは別のも代です。そのような私個人に関わることだけでなく、他の人や教会にもおよぶ問題について、聖書が何を語っているかという問題は、、最終的には聖書の解釈や釈義と言った学問的手続きをもって検証されなければなりません。しかし、聖書が「私」という一人の人間にがいかに生きてくかという問題においては、神は聖霊なる神をお持ち稲荷、「私」という一人の人間に語りかけ、慰め、力を与え、この「私はどう生きるべきか」ということに決断をする力を与える。これは、学問的手続きや神学を超えた聖霊なる神様の豊かな働きなのです。
 みなさん、聖霊を受けるとき、力を受けるということはそういうことなんだと私は思う。そして、そのようにして神の前に生きている一人一人が、私に語りかける神の言葉に従い生きるとき、それがキリストを証しするということです。そして、そうやって一人一人が神の言葉に聞き従っいながら寄り添って生きていくところに「キリストのからだなる教会」が建て上げられていき、神の王国が著されていくのです。

 もちろん、聖書の言葉が私に語りかけたという経験は、私という一人の人の主観の中で起こること、平たく言えば私の心の中で起こることですから、私のも思い込みや、自が願っていることを聖書の中に読み込んでしまっているという危険性もあります。そういった時こそ牧師に頼っていただければと思います。牧師はそういった時のために、「この世」にある仕事から離れ、聖書を学ぶことに専念し、「神学者たれ」という生き方をしているのですから。だから、そのようなときは頼って下ればと思う。

 けれども、だからと言って、恐れることはないのです。聖霊なる神は、私たしに大胆に働きかけ、大胆に聖書の言葉分からせてくださり、私たちを慰め、励ましてくださいます。そして、私たちをキリストの証人として用いて下さり、「キリストのからだなる教会」を通して神の王国を伝え示すものとしてくださるのです。
 使徒行伝は、そのようにしながら宣教の業が広がり、教会が建て上げられていき、神の王国が「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで」という、地域や民族を超えてすべての国、すべての人伝えられていった宣教の報告書なのです。そして、その宣教の報告書はまだ完結していません。私たちがその未完の宣教報告書に書き加えていくのです。ですから、私たちはその未完の宣教報告書を完成させていくためにキリストの証人として生きて行こうではありませんか。お祈りします。