2019年7月7日 小金井福音キリスト教会 説教
【聖書箇所】
旧約書)出エジプト記 第29章36~46節(旧約聖書p.118)
福音書)ルカによる福音書 第17章20~21節(新約聖書p.119)
使徒書)使徒行伝 第7章44~49節(新約聖書p.192)
【説教題】
「私たちの中に住まわれる神」
19 年7月第一主日聖餐式礼拝説教「私たちの中の住まわれる神」 2019.07.07
旧約書:出エジプト書29章36節~46節(旧約聖書p.118)
福音書:ルカによる福音書17章20節~21節(新約聖書p.119)
使徒書:使徒行伝7章44節~7章49節(新約聖書p.192)
さて、7章1節から始まったステパノの説教は、イスラエルの民の始祖であるアブラハムの物語から始まり、ヨセフの物語、そしてモーセの物語と繋がってきました。これらの人物の物語に一貫してつらぬかれていたものは、どこまでも約束に忠実な神の真実な姿でした。
そのことが、使徒行伝7章1節から43節において語られている。と同時に、そこには、どこまでも約束に忠実で真実な神のお姿とは対照的に、神に背を向け不忠実なイスラエルの民の姿も記されています。
そのイスラエルの民を神の民として整えるために、40年間にわたる放浪の旅を経験させます。荒野は、何もない不毛の地です。水も乏しく食べる者を手に入れるのも一苦労するような場所です。まさに生きていくにはとても厳しい環境なのです。
そのような場所で、神はイスラエルの民に対して神に信頼し、神の寄り縋り、神の言葉に従て生きていくことをお教えになるのですが、その荒野の地を旅するにあたって、神は今日の使徒行伝7章44節にありますように、イスラエルの民に幕屋を造るようにと命じられます。その幕屋を造るようにとお命じなった出来事が旧約聖書の出エジプト記25章8節9節に記されていますが、そこにはこうあります。
8:また、彼らにわたしのために聖所を造らせなさい。わたしが彼らのうちに住むため である。9:すべてあなたに示す幕屋の型および、そのもろもろの器の型に従って、これを造らなければならない。
ここでは、神が、神の指示なさるそのご指示に従って聖所と幕屋を造りなさいと命じておられます。そしてその幕屋は神がイスラエルの民の共に住まわれるためだと言うのです。つまり幕屋というのは、イスラエルの民が荒野で放浪の旅をする間、神がその幕屋を住まいとしてイスラエルの民と共に住まわれるためのものとして造られたのです。
そしてその幕屋において、神はイスラエルの民に語り、イスラエルの民と出会ってくださると言うのです。先ほど司式の兄弟にお読みいただいた出エジプト記29章38節から46節にそのことが記されている。特に42節以降です。そこにはこう書かれている。
42:これはあなたがたが代々会見の幕屋の入口で、主の前に絶やすことなく、ささぐべき燔祭である。わたしはその所であなたに会い、あなたと語るであろう。43:また、その所でわたしはイスラエルの人々に会うであろう。幕屋はわたしの栄光によって聖別されるであろう。44:わたしは会見の幕屋と祭壇とを聖別するであろう。またアロンとその子たちを聖別し、祭司としてわたしに仕えさせるであろう。45:わたしはイスラエルの人々のうちに住んで、彼らの神となるであろう。
このように、幕屋を通して、神は荒野を旅する間をも決してイスラエル民を見捨てず、また見離さず、イスラエルの民と共に住み、共の歩んで下さるお方であるお方であること知らせていくのです。そして、そのようなお方が、あなたがたの神なのだということを示しておられるのです。
みなさん、このように神がイスラエルの民のただ中に住まいを定め、そこからイスラエルの民に語りかけ、出会い、導いてくださるということは、その当時のイスラエルの人々にとってはとてつもない驚きであったろうと思うのです。
というのも、あの奴隷のような苦役をおわされていたエジプトの地から導き出されるという神の救いの業を経験したイスラエルの民ではありましたが、彼らにとって神は決して身近な存在ではありませんでした。むしろ遠い存在であったと言える。
そもそも、エジプトで苦しんでいたイスラエルの民が、神の救いの業にあずかったのははるか昔のアブラハムの時代に神とアブラハムの間に結ばれた契約のゆえなのです。それこそ、自分たちが与り知れない出来事のゆえに、彼らは神の憐れみと慈しみを受けるのです。おまけに、幕屋ができる以前は、モーセが山に登り、そこで神と出会い、律法や神の言葉を戴き、それをもって山を下り、イスラエルの民に伝えていたました。そして、イスラエルの民は、モーセが山から下ってくるのをじっと待っていなければならなかったのです。ですから、イスラエルの民と神との間には精神的には遠い距離があったと言えます。
ところが、幕屋ができてからは、その神が、幕屋という彼らのただ中にあり、彼らの目に見えるところに住まわれるのです。そして、そこで燔祭や酬恩祭といった祭儀(祭りごと)が行われるのです。当然、彼らは神というお方を身近に感じたであろうと思われますし、また、神というお方を意識して生きざるを得ない状況であったと思います。
そして、そのような中で彼らは荒野の40年という試練の旅を、神と共に旅するのです。その荒野を旅していたイスラエルの民が、いよいよ神の約束の地にたどり着き、そこで国を造ります。国を造ってそこに住み着くということは、定住生活が始まるということです。しかし、その試練の旅が終わり、定住生活が始まっても、幕屋は受け継がれてていきダビデの時代にまで至ったと今日の聖書箇所で7章45節は伝えます。それは、イスラエルの民が神の民だからです。
まさに、神の民というのは、神を中心にし、神の臨在を絶えず身近に感じながら生きていく民なのです。そのイスラエルの民は、ダビデ王の時代になって神殿を建てようと考えます。実際にはイスラエルの民というよりも、ダビデ王が神殿を建てたいと願ったわけですが、ダビデ王の背後にはイスラエルの民があり、ダビデ王はイスラエルの民の代表として、このような一人の人が全体を代償するような事象を集合人格と呼びますが、その民の代表として神殿を建てようと志すのです。
ダビデという王様は、40年間の荒野での放浪の旅を終え、イスラエルの民がカナンの地に帰りつき、そこに国を建て、士師とよばれる指導者によってイスラエルの国が導かれた後に、イスラエルの民が周辺の諸国に倣って王を立て、その国の繁栄が最高潮になったときの王様です。そのダビデ王がどうして受け継いできた幕屋ではなく神殿を建てようとしたのかは定かではありません。
国が繁栄したので神の住まいとなるところも、その繁栄にふさわしく立派なものにしようと考えたのかもしれませんし、周辺の諸国は、彼らが信じる神々にたいして神殿を建て、その神々、例えばバアルであるとかアシュタロテと言った神々を礼拝しているのを見て、それに倣って、自分たちの神のためにも神殿を建て、そこで神を礼拝しようと考えたのかもしれません。
いずれにせよ、ダビデは神のために神の契約の箱を安置する神殿を建てようとしたのであり、そのこと自体は神を中心にし、神の臨在の下で神と共に生きる神の民であるイスラエルの民にとって決して悪いことではありません。そして、その事業はソロモンの時代に実現する。
ところがステパノは、そのダビデが志を立て、ソロモンがそのダビデの志を実現して建て上げた神殿に対して、イザヤ書66章1節の言葉を引用しながら、神は人間の手で作った家の内にお住にならないと言うのです。これは何とも不思議な言葉です。
ダビデ・ソロモンが建てた神殿は、神ご自身がそこにお住みになると宣言して建てられた幕屋の延長です。そして、実際にソロモンによって建て上げられた神殿が奉納されたときには主の栄光が神殿に満ち、主の栄光が現れたと歴代誌下7章2節3節には記されているのです。なにに、ステパノは、「いと高きものは、手で作った家の内にはお住にならない」そのことを真っ向から否定するようなことを言うのです。
もちろん、神はこの世界の創造者であり、この世界を超えた超越者でありますから、小人間の手で作った家にお住にならないと言うのはその通りでありましょうし、神殿を造り建立したソロモン自身も歴代誌下6章18節で「しかし神は、はたして人と共に地上に住まわれるでしょうか。見よ、天も、いと高き天もあなたをいれることはできません。わたしの建てたこの家などなおさらです」とそのことは分かっているのです。
しかし、それでもなお、神は幕屋を通し、神殿を通してご自身のご臨在を表し、神がイスラエルの民のただ中でイスラエルの民と共におり、イスラエルの民と共に歩み、イスラエルの民を導く御方であることを示されるのです。ですから、そのことを考えると、このステパノの言葉は、いかがなものかと思わされるものです。
もちろんこのステパノの言葉は、聖霊に導かれた言葉であり、聖書に残された言葉です。ですから、聖書のこの箇所に、このように記されているにはそれなりに意味がある。では、どのような意味があるのか。そこで思いつくのが、イエス・キリスト様がヨハネによる福音書2章19節にあるイエス・キリスト様の言葉です、
この言葉は、イエス・キリスト様が神殿で商売をしている人たちを追い払ったいわゆる「宮清め」という出来事をなさったときに言われた言葉ですが、イエス・キリスト様はこう言われた。すなわち、「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」と言われたのです。
この言葉は、イエス・キリスト様がご自分の体を神殿に譬えて、「わたしを殺すなら殺してごらんなさい。わたしは三日でよみがえるでしょう」という十字架の死と三日目によみがえるその復活の出来事を指しているのだと聖書は言いますが、当時にユダヤ人達は、エルサレムにある神殿のことを指していると思った。
そして、そのエルサレムにある神殿は当時のユダヤ人の心のより何処であり、この神殿がる限り彼らには、神が彼らと共にあると言う希望があったのです。しかし、ステパノの言葉はそのような神殿に寄せる彼らの期待や希望を打ち砕くものです。なぜならば、問題は神殿そのものにあるのではなく、神殿が持つ本来の意味が重要だからです。つまり、神殿そのものが重要なのではなく、重要なのは神がイスラエルの民のただ中に住み、イスラエルの民と共に歩み、イスラエルの民を導いておられるということなのです。
だからこそ、この民にただ中に住まれる神の臨在を人々は感じ、意識し、そこから発せられる神の言葉に聴き従って生きること、努力して生きることが大切なのです。ステパノが、神殿に対して、「いと高きものは、手で作った家の内にはお住にならない」と否定的な言葉を述べたのは、その本質を見落として、神殿があると言うことに希望を見出している人々に対する厳しい糾弾の言葉であったと言えます。
そして、そのような厳しい言葉を述べる背景には、私たちのただ中にあって共に住み、私たちと共に生き、私たちを導く神の神殿はイエス・キリスト様なのだと言うステパノの確信があると言って良いでしょう。ですから、ステパノは、もはや、イスラエルの民と共に住み、共に生き、導かれる神は神殿の中におられるのではない、神のひとり子イエス・キリスト様の中におられ、イエス・キリスト様を通してあわされているのだと言いたいのです。
みなさん、私たちは先ほど司式の兄弟に新約聖書ルカによる福音書17章20節、21節の言葉をお読みいただき、その言葉に耳を傾けました。。
この箇所は、パリサイ人に神の国はいつ来るのかと問われたイエス・キリスト様が「神の国は、見られるかたちで来るものではない。 また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」と答えられた箇所です、
実は、この「あなたがたのただ中にあるのだ」という言葉をどう理解するかについてはいろいろと意見が分かれるところです。神の国というものを精神化して、「あなたの心の中に神の国はくるのだ」という人もいますし、「あなたの手の届くところに神の国はあるのだ」という人もいますし「イエス・キリスト様の人格と宣教に置いて神の国はすでにきているのだ」と理解する人もいる。それは、単衣にこの「ただ中」にと訳されたギリシャ語ἐντὸςと言う言葉をどう理解するかにかかっているのですが、実はこのἐντὸςと言う言葉には間という意味もある。
つまり、今、イエス・キリスト様に「神の国はそこにあるのか」と尋ねているパリサイ派の人々や、それを取りまく群衆の間に神の国はある。つまりイエス・キリスト様ご自身が神の国の表れであると言う意味にもとれるのです。
実際、イエス・キリスト様は全き神であり全き人です。ですから、イエス・キリスト様にあっては、神の恵みがイエス・キリスト様を支配し、神がイエス・キリスト様と共に在り、またイエス・キリスト様と共に在る。だからこそ、イエス・キリスト様はご自身を神殿に譬えられたのです。
そう、イエス・キリスト様は、私たちのただ中に住まわれた神なのです。そのイエス・キリスト様というお方が、今日も私たちと共に住み、私たちと共に生き、私たちを導いてくださるのです。そして、そのお方を表す存在としてキリストの体なる教会がある。だから、私たち教会に集い礼拝をし、交わりを持ち、神の言葉に耳を傾けるのです。
みなさん。神は教会を通して私たちの間に共に住んで下さり、私たちを教え導いて下さています。神は、教会に集う私たちの間に住まわれておられるのです。皆さん、私たちは、この私たちと共に在る神の恵みのもと、神の言葉に教え導かれながら、神と共に生きていけるのです。そのことを覚えながら、神に民として共に神に前に歩んでいきましょう。お祈りします。
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