2019年07月21日 小金井福音キリスト教会 説教
【聖書】
・創世記 第1章26~27節
・福音書 マタイによる福音書 第5章38~48節
・使徒行伝 第7章54~60節
説教題「 神の子とされ、神の子となる 」
‘19年7月第3主日礼拝説教「神の子とされ、神の子となる」 2019.7.21
旧約書:創世記1章26節~27節(旧約聖書p.2)
福音書:マタイによる福音書5章38節~48節(新約聖書p.7)
使徒書:使徒行伝7章54節~7章60節(新約聖書pp.192-193)
お気付きになった方も多いと思いますが、今日の主日礼拝の説教の中心となります聖書個所の使徒行伝7章54章から60節は、先週の礼拝説教の中心箇所とほとんど重なっています。
先週は、今日の聖書の箇所とほとんど同じ個所から、私たちが聖書の言葉の前に立ち、真摯な姿勢で聖書の言葉に向き合いますと、聖書は私たちの現実の姿、真実の姿を浮き彫りにしていくということをお話ししました。聖書の言葉の前に立ち、真摯な姿勢で聖書の言葉に向き合うということは、イエス・キリスト様の前に立つ、神の前に立つということであると言ってもいい。
そのように、神の言葉である聖書の言葉が、私たちの真実の姿を浮き彫りにしていくとき、その浮き彫りにされた私たちの姿の中には、私たちにとって好ましくない、不都合なものも含まれているともお話ししました。
ステパノという人は、まさに聖書に記されたイスラエルの民、すなわちユダヤ人の歴史を語りながら、神が神を信じるイスラエルの民に対して信実なお方であり続けたのにもかかわらず、繰り返し神に背を向けて来た姿を示しながら、まさにそのような姿が、今のあなた達の姿であるということをイスラエルの民に示したのです。
それは、イスラエルの民にとっては好ましくない不都合な姿でした。そのような好ましく直不都合な姿を示されたユダヤ人の実像を示すステパノに対し、イスラエルの民、すなわちユダヤの人々は激しく怒ったとあります。彼らは、反省するのではなく怒ったのです。そしてステパノに対して激しい敵意を見せた。聖書はその様子を、「歯ぎしりをした」という言葉をもって表現しています。
そのような中で、ステパノは聖霊に満たされたと聖書は告げます。聖霊とは、三位一体なる神の第三位格に当たる存在であり、私たちが神の前に正しく判断し、正しい行動をすることができるように導いてくださるお方です。そのお方がステパノの心の中に働きかけ、ステパノはその聖霊なる神の導きに自らを委ね従おうとした。まさに天を見上げたというのです。
その時に、ステパノは「神の栄光が現れ、イエス・キリスト様が神の右に立っておられるのを見た」と聖書は記す。みなさん、この時、イエス・キリスト様は十字架に付けられて死に、三日目によみがえり、神の国である天に昇られておられますので、到底、イエス・キリスト様のお姿を見るということなどあり得ないことです。
そのあり得ないことをステパノは経験しているのです。そしておそらくその時にステパノの周りにいたユダヤ人には、そのイエス・キリスト様のお姿を見ることができなかったのでしょう。ですからそれは、まさに神秘体験であると言って良いできごとです。そのあり得ない出来事をステパノは語るのです。そしてそのステパノの言葉を聞いたユダヤ人は、大声で叫びながら、耳をおおい、ステパノを目がけて殺到し、彼を市外に引き出して、石で打ったのです
みなさん、石打ちという刑は、レビ記20章をみますと、モレクと呼ばれるその当時の中近東地域で崇められていた神の名です。そのモレクは繁栄をもたらす神であり、その当時は子供をささげる、すなわち子供を殺し焼いて奉げるといったおぞましい習慣があった。そのモレクを崇める者や口寄せや占いをする者に対して、石打ちという科せられた処罰でした。それは、このような行為が、まさに聖書が語り伝える神に背を向け、神ならぬものを神とし、偶像礼拝に陥っているからです。
みなさん、この当時の中近東にはモレクと呼ばれる神以外にもアシュタロテやバアルといった多くの神々が崇められていました。その中で、レビ記20章はただモレクの名をあげ、そのモレクに子供をささげる者は石打ちにされると書かれている。なんだか不思議な感じがする。聖書の神以外にもアシュタロテやバアルと言った神もあるのに、なぜモレクだけなのか。
もちろんこれは私の推測にすぎないのですが、そこにはモレクに子供を犠牲として捧げるという行為が伴っているからではないかと思うのです。みなさん。モレクという神は豊穣をもたらし、モレクを崇め、崇拝し、礼拝する者に多くの利益をもたらす繁栄の神です。その自らにもたらされる繁栄のために自分の子供を犠牲にするといったことが行われていた。
みなさん、子供という存在は、最も力のない存在です。抵抗する力を持たない弱い存在であると言って良い。その力のない弱い存在を、自分の富とか繁栄のためには犠牲にする。それは、自分の欲のためには、力のない弱い者を犠牲にしても、その自分の欲を満たすためには、他者を犠牲にすることをいとわない人間の姿がある。
そしてそのような人間の姿を戒めるかのようにして、聖書は、レビ記20章2節で「だれでもその子供をモレクに奉げる者は、必ず殺さなければならない。すなわち国の民は石で撃たなければならなない」というのです。それは、人間は、本来は最も力のない者、あるいは弱い者のため自らをささげる者として神によって造られているからです。それが人間の本性なのです。
ですから「自分の欲を満たすためには、他者を犠牲にすることをいとわない人間の姿」は人間が人間であるところの人間本性からは逸脱した姿だと言えます。しかしそれは、決して他人ごとではない。それは、現代の私たち取り巻く社会にも見られる現象だと言えます。むしろ、今の社会、現代の社会においても、人間の欲が満たされることが何よりも重んじられてはいないか。それこそすべてが金銭価値によって量られているような、お金や富を神とする拝金主義、マモンという名の富をもたらす神に、知らず知らずに膝をかがめてはいないか。私たちは自分自身を顧みて見る必要があるのかもしれません。
そのような、自分の欲を満たすためには人を犠牲にするような人間を戒める石打ちという刑もって、ユダヤの人々はステパノを殺そうとするのです。それは使徒行伝7章56節の「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」という言葉が、神を冒涜する言葉と思ったからです。
しかも、「人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」ということは、イエス・キリスト様が神であるということを証しする言葉です。と言うのも、神の右の座というのは神の力と権力を示す座であり、そこに人の子、つまりイエス・キリスト様が立っておられるというのは、イエス・キリスト様が父なる神と一体のまさに子なる神であるということに墓ならないからです。
ですから、このステパノの言葉を認めれば、ユダヤの人々は神の子を拒絶し殺したことになる。もちろん、そのようなことは決して認められないし認めたくない。そんな思いがここに描かれているユダヤの人々にはあったのでしょうし、またステパノは神を冒涜しているという思いもあったのでしょう。「人々が大声で叫びながら、耳をおおった」という5節にあるようなユダヤの人々の姿にはそのような様々な思いが複雑に混ざり合ったものであると考えられます。
そのような中で、ただステパノ一人が「天が開けて、人の子(イエス・キリスト様)が神の右に立っておいでになる」姿を見ているのです。そして、その神の右の立っておられるイエス・キリスト様は見ているステパノは、祈り続けている。いったい彼は何を祈っていたのか。聖書は、ステパノが何を祈り続けていたのかその祈りの内容は記してはいません。
ただ、彼がの祈りの結果が「主よ私の霊をお受け下さい」という言葉になってあらわれている。それは死を覚悟する言葉であったのでしょう。なぜなら、イエス・キリスト様もまた「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」(ルカ23:46)と言って十字架の上死んでいかれたからです。
そして、その自分もまたイエス・キリスト様と同じようにユダヤの人々によって殺されようとするその死を覚悟したとき、ステパノは「主よ、どうぞこの罪を彼らに負わせないでください」と言って死んでいくのです。この言葉もまたイエス・キリスト様が十字架の上で語られた「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23:34)という言葉に重なり合います。
この「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」という言葉も、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」という言葉も、いずれもルカによる福音書に記されている言葉です。そして「主よ私の霊をお受け下さい」というステパノの言葉と「主よ、どうぞこの罪を彼らに負わせないでください」というステパノの言葉を記す使徒行伝を書いたのもまたルカによる福音書を記したルカの手によって書かれているのです。
そのことを考えますと、ルカはあえてこのステパノの二つの言葉をピックアップしてここに記したのにはそれなりの意図があったと思われます。すなわち、イエス・キリスト様を信じる者となり、イエス・キリスト様の弟子たちが築き上げられたイエス・キリスト様の弟子の群れである共同体、つまり教会に加えられイエス・キリスト様の弟子となったステパノは、イエス・キリスト様の弟子であるがゆえに、イエス・キリスト様の弟子として、イエス・キリスト様に倣って死んでいったのだと告げたかったからなのだと言って良いだろうと思います。そしてそれは、まさに神の子とされたものが、神の子となって死んでいったのだということなのです。
みなさん、先ほど司式の方に創世記1章26節、27節を読んでいただきました。そこにしるされていることは、私たち人間には神の像が与えられているということです。すなわち、聖書はこう言うのです。
26:神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。27:神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
みなさん、この箇所は聖書がどのような意図をもって書かれているか、つまり聖書がどのような意味をもって書かれているかということ、それを釈義といいますが、その釈義に置いて意見が分かれるところであります。
27節の人間は神の像に造られたということは意見が分かれるところではありません。確かに聖書は人間は神の像が与えられている。問題は26節です。26節には二つの問題がある。一つは、神がご自分のことを「われわれ」と複数で語られている点です。唯一の神がご自分のことを「われわれ」と呼んでいる。これには諸説がある。一つは「われわれ」ということで三位一体を表すという説です。また天使という霊的存在を含めて「我々と呼び」人間は霊的存在であると言っているという説。あるいはヘブル語には尊厳の複数という文法があり、単数の個人を複数で表すことで、その存在の威厳と尊厳をあらわすのであって、ここでは神が威厳ある存在としてご自分を表しているという説です。
しかし、今日考えたい問題はもう一つの問題です。ですから、一つ目の問題は、私個人としては尊厳の複数と考えるべきであろうと思うとだけ述べて、もう一つの問題に目をむけたいのですが、それは「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り」とある点です。
この「「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り」とある言葉は、最初の「われわれのかたち」というのは、2節で言われている神の像であり、次に「我々にかたどって造り」と言われているのは、その神の像に基づいて神の似姿に造られたことなのだといって、最初の「神のかたち」と「神の似姿」とを分けて捉える理解と、いや最初の「われわれのかたち」と次のわれわれかたどって」というのは同じことだと理解とに分かれるのです。
おそらくみなさんは、後者の「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り」と理解しておられたでしょうし、多くの方もそのように理解しているのではないかと思います。私もそうでありました。しかし、よく考えてみると、最初の理解もかなり味わい深いのです。
ともうしますのも、聖書が言う神の像はラテン語ではimago Deiといいます、imagoとは英語でいうならばイメージです。 みなさん、イメージというのは実態ではなく頭に思い描く姿、画像です。つまり、私が神の像がに造られたというのは、私たちは神の頭の中に思い描かれる神の自画像ともいえる神の像があり、その神の像にしたがって造られたということです。
しかし、それは神のイメージですから、実体としてはまだ現れていない。そのイメージが実体があらわれて初めて私たちは神に似た神の似像になる。そう考えますと先に述べた「最初の『われわれのかたち』というのは、2節で言われている神の像であり、次に『我々にかたどって造り』言われているのは、その神の像に基づいて神の似姿に造られたことなのだ」という理解は実に味わい深い、むしろそちらの方が正しい理解なのではないかとさえ思えてくるのです。
そう考えますと、私たちがイエス・キリスト様の救いの業によって神の子とされたということは、単に理念的・観念的に神の子とされたということだけではなく、まさに神の子とされたがゆえに具体的に神の子として生きる者とされたのだということです。そしてその神の子として生きるということは神の子となる歩みを生きることなのです。
みなさん、先ほど私たちは新約聖書のマタイによる福音書5章38節から48節の言葉に耳を傾けました。みなさん、このマタイによる福音書38節から48節は、5章1節から始まるイエス・キリスト様の山上の垂訓の中にある言葉です。
そこのある、「右のほほを撃たれるならば左のほほも打たれるために差し出しなさい」とか「下着を取ろうとするものには、上着を与えてやりなさい」とか「1マイル強いて行かせようとする者がいたら2マイル一緒に行ってやなさい」といったことは、すべて44節の「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」ということに集約されます。そしてそれは、5章9節にある八つの幸福に至る押して八福の押しと言われるその教えの中にある「平和を作り出す人たちは、幸いである、彼らは神の子と呼ばれるであろう」と言われる教えの、具体的な実践のある方を示すものなのです。
平和を生み出すためには、和解が必要です。しかし、現実には平和をもたらすことは極めて難しい、この世界に私たちが知る歴史には平和な時代などなかった言ってもいい。聖書が記す人間の歴史だって、あの創世記の記述依頼、いつでも争いがある。最アダムとエバでさえ、善悪を知る木を食べてしまったのはお前のせいだと争っている。そのアダムとエバの子であるアベルとカインの間にも憎しみが生まれ兄が弟を殺すという出来事が起こっている。
ですから、和解を生み出すには、憎しみを乗り越える力が必要であり、憎しみではない愛による生き方が必要になって来る。それが、マタイによる福音書5章38節から48節に記されている生き方であり、ステパノは、まさに今殺されようとする中、死を覚悟したときに「主よ、どうぞこの罪を彼らに負わせないでください」といって、イエス・キリスト様に倣い、イエス・キリスト様の教えに従った生き方を生き、神の子とされた者が神の子となる生き方の証人となったのです。
みなさん、私たちは、イエス・キリスト様の十字架の救いの業によって神の子とされました。それはまさに神の恵みの業です。そして、その神の恵みの中で私たちは今を生きているのです。ですから、神の子とされたのですから神の子となるように生きようではありませんか。
私たちはステパノのように殉教することはないでしょうし、殉教する必要もありません。しかし、自分の繁栄と利益にためにモレクを崇め、礼拝したようなこの世に在り方ではなく、そのような「この世」の在り方に死んで、キリストに倣う生き方を歩んでいくものとなりましょう。
聖書は『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。」と言います。敵を憎む、それはまさにこの世においては当り前のこと、この世の在り方です。しかし、聖書は、そのようなこの世の在り方を突き抜けて「敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」というのです。そしてあなたがたにはそれができるというのです。なざならば、私たちは、本来は神の像に造られ、神の似姿となるように造られた神の子だからです。
その神の子としての生き方、神の子としての命から逸脱してしまっていたのを、イエス・キリスト様は、本来あるべき姿に呼び戻し回復し、もう一度神の子として立たせて下ったのです。だから、神の子とされた私たちは神の子となることができるのです。そのことを覚え、私たちを神の子として下さったイエス・キリスト様の生き方を模範とし、共に神の子となる歩みを歩んでいきましょう。お祈りします。
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