2019年7月20日土曜日

2019年07月14日 小金井福音キリスト教会 説教題「 神の言葉に向き合い生きる 」

2019年07月14日 小金井福音キリスト教会 説教

【 聖書 】
・エレミヤ書 第26章 20 - 24 節
・マタイによる福音書 第23章 29 - 39 節
・使徒行伝 第7章 51 - 60 節

説教題「 神の言葉に向き合い生きる 」



197月第2主日礼拝説教「神の言葉に向き合い生きる。」         2019.7.14
旧約書:エレミヤ書2620節~24節(旧約聖書p.1091
福音書:マタイによる福音書2329節~39(新約聖書p.38-38)
使徒書:使徒行伝751節~760節(新約聖書pp.192-193

 今日の礼拝説教の中心となります箇所は、7章の13節から60節までです。この箇所は7章の1節から始まったステパノの長い説教の締めくくりの言葉と、そのステパノの締めくくりの言葉を聞いたユダヤ人たちの反応が記されています。

 そのステパノの締めくくりに言葉、それは

51:ああ、強情で、心にも耳にも割礼のない人たちよ。あなたがたは、いつも聖霊に逆 らっている。それは、あなたがたの先祖たちと同じである。52:いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、ひとりでもいたか。彼らは正しいかたの来ることを予告した人たちを殺し、今やあなたがたは、その正しいかたを裏切る者、また殺す者となった。53:あなたがたは、御使たちによって伝えられた律法を受けたのに、それを守ることをしなかった。

という、ユダヤ人たちを厳しく糾弾する言葉でした。とは言え、ステパノとは71節からここに至るまでは、その説教を通して、ユダヤ人、つまりはイスラエルの民に対して、彼らの父祖アブラハムと神との間に結ばれた約束のゆえに、神はイスラエルの民が神に対して不忠実であったのにもかかわらず、イスラエルの民のただ中に住み、彼らと共に歩み、彼らを導いてこられた歴史を語っているのです。言うなれば、神のイスラエルの民に対する愛と慈しみと恵みの歴史を語っていると言える。

 ところが、先ほどお読みしたいただきました51節から53節は、一転して厳しい糾弾の言葉、言葉を変えて言えば裁きの言葉が語られる。

 たとえば、51節においては「ああ、強情で、心にも耳にも割礼のない人たちよ。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっている。それは、あなたがたの先祖たちと同じである」と言う。「こころにも耳にも割礼がない人たち」と言う。割礼というのは、体に刻み込まれたユダヤ人がユダヤ人である証拠です。
 その割礼を引き合いに出して「心にも耳にも割礼のない」というのは、要は、「あなたがたは見た目にはユダヤ人だが、ユダヤ人としての心も行いもない。ただ形だけのユダヤ人だ」と言うのです。そしてそれは聖霊に逆らっているからなのだと言うのです。

 このときのステパノがいう「聖霊に逆らっている」と言う言葉は、いったいどのような意味なのか。それを知るためには、この当時のユダヤ人が聖霊についてどのような理解を持っていたかを知ることが必要です。ところが、旧約聖書には、あまり聖霊、つまり「聖なる霊」について語っていないからです。ある研究者(大澤香『聖霊の系譜』)によれば「聖なる霊」という表現は、旧約聖書においては3回しか使われていないということです。
 しかし、少なくともイエス・キリスト様の時代、そして使徒行伝の時代のユダヤ人たちの間には「聖なる霊」についてのある一定の理解があったようです。それは、あの有名な20世紀最大の発見と言われるクムランの洞窟でみつかった死海文書の中にある。

みなさん、死海文書の「中に頻繁に「聖なる霊」という言葉が使われているそうです。そこでは「聖なる霊」は、神を信じ、律法を重視し、形式的な信仰ではなく、内実の伴った信仰を生きる共同体のメンバーに「聖なる霊」は与えられるものと考えられていたと言うのです。

みなさん、律法というのは、神を信じる神の民がいかに生きていけばよいかということを示す指針です。ですから律法を重視し律法を守って生きようとする生き方は、いうならば、ユダヤ人が真のユダヤ人、真の神の民として生きようとしている言うことです。そのように、神の民が神の民として生きる、あるいは生きようと努力するとき、そこに「聖なる霊」が働いているのです。そのような理解が、イエス・キリスト様の時代、また使徒たちの時代のユダヤ人の間にあった。
 また、ステパノについて考えますと、彼はペンテコステという聖霊が与えられると言う出来事を経験している。そして聖霊が与えられた時、彼らは大胆にイエス・キリスト様と言うお方が語られた教えを人々に伝え始めたのです。つまり、聖霊、すなわち「聖なる霊」が与えられるとき、「聖なる霊」は、イエス・キリスト様こそが私たちの主であることを示し、その私たちの主であるイエス・キリスト様に従って生きる者へと導くのだということを、ステパノは身をもって経験しているのです。

 みなさん。聖書は、律法はイエス・キリスト様において完全成就していると言います。そのイエス・キリスト様に置いて成就している律法は、神の民が如何に生きていけば良いかを示す指針です。だとすれば、その律法がイエス・キリスト様において成就しているのですから、私たちもまたイエス・キリスト様の言葉と生き方に倣って生きていくならば、私たちもまた律法を成就することができる。
 しかし、ユダヤ人たちはそのイエス・キリスト様を拒否し、十字架に付けて殺してしまったのです。そのこと自体が、まさに「聖霊に逆らっている」ことなのです。だから、ステパノは、52節で「いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、ひとりでもいたか。彼らは正しいかたの来ることを予告した人たちを殺し、今やあなたがたは、その正しいかたを裏切る者、また殺す者となった」と言う。そして、53節で「あなたがたは、御使たちによって伝えられた律法を受けたのに、それを守ることをしなかった」と結論付けるのです。

 みなさん、ステパノはこの事が語りたいがために、ユダヤ人の歴史を長々と語ったのです。そして、そのユダヤ人の歴史はまさに旧約聖書に記されている。ですから、ステパノがアブラハムから始まるユダヤ人の歴史を語ったのは、今、ステパノの目の前にいるユダヤ人を聖書の言葉、すなわち神の言葉の前に立たせるためであったと言えます。
 なぜならば、旧約聖書には、確かに神の民を憐み、慈しむ神のお姿も指し示されていますが、それ以上に、先々週も申し上げましたがユダヤ教のラビであり、現代を代表する宗教哲学者であるヘッシェルという人が鋭く指摘するように、それ以上に神の目からみた人間の姿が語られているからです。 
だから、聖書神の前に立つは私たちの姿を映し出す鏡のようなものです。ですからその聖書という鏡の前に立つとき、ユダヤ人だけでなく、神の言葉の前に立つすべての人の姿が映し出される。それは私たちにも言えることなのです。
そしてそこに映し出される人間の姿は、うなじの堅い、強情で、決して神の言葉に聴き従わない民の姿なのです。その神の語る人間の姿に向き合わさせようと、ステパノはイエス・キリスト様を拒絶した人々を聖書の言葉の前に立たせるのです。その意味で、ステパノは預言者的な働きをしている。

みなさん、佐藤敏夫という神学者は聖書に示された信仰には祭司的宗教としての側面と預言者的宗教の二つの側面があると言います。祭司的宗教は、神と人との間を執成す機能を持っています。ですから、そこには神の恵みが強調され、ミサや聖餐式といった祭儀的なことが中心になって来ます。

それに対して、預言者的宗教の持つ特徴は、人々の誤りを鋭く指摘して正しい歩みに導こうとする機能を持つところにあるというのです。だから、いかに生きるかという倫理が問題になって来る。実際、旧約聖書に出てくる預言者と呼ばれる人々は、彼らが生きた時代のユダヤの民の王や、宗教的指導や、そしてユダヤの民に、彼らの社会に、また彼ら自身の内にある不正や過ちを、厳しい裁きを告げる神の言葉をもって鋭く糾弾し、彼らに神に立ち帰るようにと促したのです。
 それは、そのような厳しい糾弾の言葉を聞いて、王が、宗教的指導者が、そしてユダヤの民が、神の前に悔い改めて神に立ち帰れることを願っているのです。しかし、そのような厳しい言葉を告げる預言者は、往々にしてユダヤの民から嫌われ、そして命を狙われることもしばしばありました。先ほど、司式の兄弟にお読みいただいた旧約聖書のエレミヤ書2620節から24節に出てくるウリヤという預言者もその一人です。

 この預言者ウリヤはエレミヤと同じ時代の預言者で、エホヤキンという人が南ユダ王国の王の時代に預言者として活動していました。ウリヤはエレミヤと同様に南ユダ王国で「あなたがたは神の言葉に聴き従わず、律法も守らない。だから、あなたがたは悔い改めて、私が使わす預言者の言葉に聴き従い、神の言葉に耳を傾け神の言葉に聴き従って行きなさい。でなければ、あなたがたは神の裁きを受けるようになってします」という言葉を語っていたのです。
その結果、ウリヤはエホヤキン王によって殺され、その遺体は共同墓地にすてらたのです。当然、このウリヤと同じような内容の言葉を語っていたエレミヤも命をねらわれたのですが、シャパンの子アヒカムという人が彼を助けたので、殺されるところまでは行きませんでしたが、しかしそれでも投獄される監視され、穴に投げ入れられると言った苦難に会います。

ステパノが、使徒行伝752節で「いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、ひとりでもいたか」と言ったのは、このような事々が背景にあったのです。そしてその先祖たちの迫害の頂点に置かれたのがイエス・キリスト様だったのです。そのイエス・キリスト様も、ウリヤやエレミヤのように、律法学者やパリサイ人あるいは祭司長と呼ばれるユダヤ人の宗教的・社会的指導者たちを厳しく糾弾しました。

先ほどのマタイによる福音書2329(実際にはその球団は13節から始まるのですが)から39節は、その様子がしるされているのですが、そこにおいて、イエス・キリスト様は、「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ」といって、厳しい言葉を彼らに投げかけます。そして、その結果、彼らによってイエス・キリスト様につき従う弟子たちが迫害を受けることになるだろうとも言われている。 
そしてその言葉は、ステパノの身に成就するのです。それが今日の説教の中心箇所となる使徒行伝751節から60節の部分の後半54節以降に記されている出来事です。ここでは、ステパノによって厳しく糾弾された人々が心の底から怒って、ステパノを殺してしまった様子が記されています。

みなさん、あの預言者ウリヤにしろ、エレミヤにしろ、そしてイエス・キリスト様にしろ、人々を厳しく糾弾するときに語った姿は、彼らの現実の姿です。そこでは、神の言葉に向き合い、神の言葉に聴き従って生きる信仰は形骸化し、自己中心的で自己欺瞞に満ち、形骸化しているか、あるいは自己中心的で自己実現的な信仰、それは自分自身を神とする偶像礼拝と言ってもいいような信仰に生きている偽善的な姿がある。 
でもね、みなさん。人間と言うのは不思議なもので、自分自身の正直な姿をいわれると怒り出してしまう者の様です。私が非常に尊敬する牧師方々は多くいらっしゃいますが、その方が修養生(神学生)でいらした時のことだそうです。

東京聖書学院では、二人一部屋が基本なのですが、毎日夜に、その二人で祈るのです。この話は三鷹教会出身の方は来たことがあると思いますが、その祈りの時に、私の尊敬する先生のお一人が、自分の問題点や割る点を一つ一つ上げながら祈っていた。それこそ「私は〇〇〇が至らないもので云々~」「わたしにはこういう悪いところがあって云々」と祈る。そうすると「〇〇〇が至らない」というと、同室の人が「アーメン」と相槌を入れる、「こういう悪いところがある」というと「アーメン」とまた相槌をいれる。そういうことを繰り返していると、だんだん腹が立ってきたと言うのです。

自分の至らないところ、悪いところは分かっている。けれども、それを人から指摘されると腹が立ってきて怒りが沸き上がって来るのが人間の実像なのかもしれません。そして神の言葉は、その私たちの実像を浮かび上がらせ、「あなたはこのようなものなのだよ」と鋭く私たちの心に切り込んでくるのです。 
それは、確かに私たちの至らなさや悪いところを指摘します。糾弾してきます。けれどもそれは、私たちを怒らせるためでもなく、また裁くためではない。ただ私たちに自分たちの実像を見せ、悔い改めて神に目を向け、神の言葉に耳を傾け生きる者とするためなのです。

ウリヤもエレミヤも預言者として厳しい神の裁きを告げました。しかしそれは、神の民であるイスラエルの民が、神の言葉にしっかりと向き合い、神の言葉に従って生きる真の神の民となるためなのです。律法学者やパリサイ人を「偽善者」と言ったイエス・キリスト様も、彼らが偽善者であることを望んでおられるわけではありません。彼らば本当に神の前に善き者となることを願っておられるのです。
そしてステパノもまた、彼の目の前にいる人々に厳しい糾弾の言葉を投げかけるのは、神の民が神の民であるがゆえに、変わらぬ真実な愛で不忠実な者たちを導く続けた神の前に立たせ、自らの問題点を知り、神の言葉に聴き従って生きる者となって欲しいと願ってのことなのです。そして、それこそが神が預言者をおつかわしになったお心である。

みなさん。私たちが神の言葉である聖書に正面から向き合うとき、聖書は私たちの不都合な姿を浮き彫りにし、それを私たちに見せつけます。けれども、それは私たちを裁くためではありません。そのような私たちが聖書の言葉に取り組み、イエス・キリスト様に倣って生きる者なるように導くためなのです。 
ですから、聖書の言葉に向き合い、信仰に向き合って生きるときに、どんなに自分がダメだと思うことがあっても、ひたすら神の言葉の前に立ち、イエス・キリスト様を私たちのもとし、イエス・キリスト様に倣う生き方となるよう努力することが大切です。そしてその努力は必ず報われます。なぜならば、私たちは神の像を与えられ、神の似姿になる者として神によって創造されているからです。

だからこそ、神を信じ、イエス・キリスト様を信じる者は神の子とされるのです。お祈りしましょう。

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