2019年6月16日日曜日

2019年06月16日 小金井福音キリスト教会 説教題 『 神が人を顧みられるとき 』

2019年06月16日 小金井福音キリスト教会 説教

【聖書箇所】
 旧約書:出エジプト記 第2章23~25節(旧約聖書p.76)
 福音書:マタイによる福音書 第2章13~18節(新約聖書p.2~3)
 使徒書:使徒行伝 第7章11~22節(新約聖書p.190~191)

【説教題】
 『 神が人を顧みられるとき 』



196月第3主日礼拝説教「神が人を顧みられるとき」2019.6.16
旧約書:出エジプト223節~25節(旧約聖書p.76
福音書:マタイによる福音書213節~18(新約聖書pp.2-3)
使徒書:使徒行伝717節~722節(新約聖書pp.190-191

 さて、今日の礼拝説教の中心となる箇所は使徒行伝217節から22節になります。この箇所は同じ使徒行伝の72節から続く、ステパノがサンヘドリンと言われる当時のユダヤ人社会の最高議会で弁明した説教の一部分です。

 ステパノは、当時のエルサレムにあったもっとも古い原初の教会の執事、今日でいえば役員のような働きを負い、教会の集まっている人の食事のお世話や様々なお世話をしていました。つまり、イエス・キリスト様の直弟子である12弟子たちに次ぐ、重要な働きを負っていた人だったのです。そのステパノが、あるとき、リベルテンの会堂に集っていたクレネ人やアレキサンドリア人、そのほかキリキヤ人やアジアから来た様々な人々と議論になりました。

 リベルテンというのは、奴隷から解放され自由人とされた人たちのことです。もちろん、奴隷とされていたユダヤ人が、その奴隷の身分から解放され自由人となって、戻りてきて、この会堂に集っていたと言うこともあるでしょう。またその子孫の人たちであったかもしれない。ともかく、それらの人はリベルテンと呼ばれていたのです。それこそクレネ人やアレキサンドリア人、その他もろもろの人種の人が集っていたと言うのは、その地域に奴隷として連れていかれた人々なのかもしれません。あるいは、それらの地域の異邦人であった人達がユダヤ教に改宗した人々が集っていた可能性もある。そして、そのクレテ人やアレキサンドリア人といった異邦人たちもまた奴隷から解放された異邦人であったとも考えることができるのです。

 そこにはいろいろな解釈の可能性がありますが、いずれにしてもリベルテンと呼ばれる人々の集っていた会堂の人たちが、もっとも原初にエルサレム教会の重要な役職をおっていたステパノと議論していたと言うのです。ですから、その内容については、イエス・キリスト様のことについてでありましょう。それこそ、イエス・キリスト様が救い主であるかどうかについて議論していたものと考えられます。

 この議論は、どうやら圧倒的にステパノが優位であったようです。そこで、ステパノと議論していた人々は、人々を扇動し、先ほど申し上げましたサンヘドリンと呼ばれる議会に訴え出たのです。そこで、そのサンヘドリンにおいてステパノは自らの主張を弁明する説教をするのですが、それが使徒行伝72節以降に納められているステパノの説教です。

 このステパノの説教は、アブラハムから始まるイスラエルの民の歴史を紐解きながら、イスラエルの民の歴史が、神がイスラエルの民を憐み、顧みて下さているにもかかわらず神に背を向け逆らって生きてきた歴史であるかを示しつつ、まさに、今、ステパノを裁こうとしている人々が、彼らの先祖と同じように、神がお遣わしになった神の御子イエス・キリスト様を十字架に付けて殺したのだと厳しく糾弾するものでした。

 そのステパノの説教の中で、今日(きょう)取り上げた箇所は、神がイスラエルの民を憐み、顧みてくださった物語を述べている箇所です。その物語は、神とアブラハムの契約から始まります。神はアブラハム、その時はまだアブラムとよばれていたときですが、そのアブラハムに、神の言葉に聴き従い、私の示す地に行けと言われる。アブラムは、その神の言葉に従って、それまで住んでいた土地を離れ、親族を離れて、どこに行くかもわからずに、ただ神の言葉に従って、カナンの地に移住してきた。

そのアブラハムに、神はあなたの子孫を祝福すると言う契約を結ぶのです。そのアブラハムにイサクと言う子供が与えられ、ヤコブと言う孫も与えられる。そして子孫の反映を約束した神の契約もまた、イサク、ヤコブと受け継がれていく。そのアブラハムの子孫であるヤコブの一族は、そのカナンの地で激しい飢饉に出会います。そのとき、そこには、まぁいろいろといきさつがあったわけですが、ヤコブの12人の子供の11番目であるヨセフエジプトで宰相という言わば総理大臣のような地位に上り詰めていた。そのヨセフを頼って移住してきたのです。

ヨセフはエジプトにおいて多大な貢献をなした宰相でした。ですからカナンの地から移住してきたヤコブの一族は最初は厚遇をもって迎え入れられた。そしてそこで民はどんどんと増えて行ったのです。ところが、それから約400年たって、ヨセフがエジプトにもたらした功績を知らない王の時代になると、イスラエルの民の待遇は全く悪くなり、むしろ奴隷のような扱いを受け様々な苦しみに出会うのです。そのような中で神の救いの業がおこる。

その救いの物語の冒頭が、今日の聖書の箇所なのです。そこには、奴隷のように扱われていたイスラエルの民をエジプトから救い出し、もともと住んでいたカナンの地へと連れ帰る導き手となったモーセが生まれたという出来事が記されています。

 この奴隷のように扱われたというのは、旧約聖書の出エジプト記11112節の記述によります。そこにはこうあります。

11: そこでエジプトびとは彼らの上に監督をおき、重い労役をもって彼らを苦しめた。彼らはパロのために倉庫の町ピトムとラメセスを建てた。12:しかしイスラエルの人々が苦しめられるにしたがって、いよいよふえひろがるので、彼らはイスラエルの人々のゆえに恐れをなした。

ここに出てくるパロ、つまり王がだれかについては、ラムセス2世であるとかラムセスの息子のメルエンプタハであるとか言われており、定かなことは言えませんが、メルエンプタハは、戦勝の記念碑を残しているのですが、そこには、エジプトの古代文書の中で唯一の、そして世界最古のイスラエルの民に関する言及が記されてます。それで、このメルエンプタハの碑文は、イスラエル碑文ともいわれるのですが、そこにはこう記されています。すなわち

カナンはあらゆる災いをもって征服され、アシュケロンは連れ去られた。 ゲゼルは捕らわれの身となり、ヤノアムは無に帰した。イスラエルは子孫(ないし種)を断たれ、フルはエジプトにために寡婦とされた。」

と記されているのです。この「イスラエルの子孫(ないし種)は断たれ」ということが、エジプトからイスラエルの民が去っていなくなった出エジプトのことを語っているのではないかと言われたりもするのですが、いずれにせよ、ラムセス2世の時代からメルエンプタハの時代に、大規模な建設事業が行われ、イスラエルの民は、そこで思い労役を負わされたようであります。

 またそれだけではなく、イスラエルの民がエジプトの国内で生み広がり、多くに人数になったのことを王が恐れて、イスラエルの民の間に子供が生まれた場合、女の子なら生かしておいていいが、男の子はナイル川に投げ捨てて殺しなさいと命じるのです。

 まさに、そのような苦役と試練の中にイスラエルの民は置かれていたのです。これらのことは旧約聖書出エジプト記の1章に記されていますが、今日の聖書箇所の使徒行伝218節・19節で、

18:やがて、ヨセフのことを知らない別な王が、エジプトに起った。19:この王は、わたしたちの同族に対し策略をめぐらして、先祖たちを虐待し、その幼な子らを生かしておかないように捨てさせた。

 と言われているのは、まさにこの出エジプト記1章の出来事を指しているのです。そのような中、モーセが生まれるのですが、モーセの母ヨケベドと父アムラムは生まればかりのモーセを3ヵ月間、守り隠し育てるのですが、いよいよ隠しきれなくなり、パピルスというエジプトに自生するカヤツリグサ科の植物の1種で編んだかごに防水のためのアスファルトと樹脂を塗って、ナイル川の岸の葦の中に置いたのです。

 そこには、誰か心ある人が拾い上げてくれないだろうかという両親の期待と願いが感じられますが、その両親の願いがこもったかごは、たまたま身を洗おうと川にやって来たエジプトの王の娘に拾い上げられるのです。このとき、川に置かれたかごがどうなるかを知ろうと、見守っていたモーセの姉が機転を利かせます。そしてモーセを拾い上げた王の娘に、モーセの実の母ヨケベドを乳母として紹介するのです。

こうして、モーセはある程度の年齢、おそらく乳離れするくらいまでの年齢だと思いますが、ともかくある程度成長するまで実の父母に育てられるのです。そして、ある程度にまで育ったあとは、パロの娘に引き取られ、王家の子供として育てられるのです。そのことが使徒行伝720節以降に書かれている内容です。

 みなさん、この出来事を出来事を読むとき、私にはこのモーセの誕生の物語が、私たちの主イエス・キリスト様の誕生の物語と重りあってくるように思えるのです。とりわけ、先ほど司式の兄弟にお読みいただいた新約聖書マタイによる福音書213節から18節の出来事が重なり合ってくる。

 みなさん、モーセが生まれたとき、イスラエルの民はエジプトにあってエジプトの王の下で支配され抑圧されていました。同様に、イエス・キリスト様がお生まれになった時代も、イスラエルの民はローマ帝国の支配下の下に置かれていました。加えて、その当時、ローマ帝国の支配の下で、一応ユダヤの王とされていたのは、ヘロデ王でした。このヘロデという王様は猜疑心が強く、残忍な一面をもった人であったようです。

ですから、マタイによる福音書23節において、「ヘロデ王はこのこと(つまりイスラエルの民の王となるイエス・キリスト様の誕生の知らせ)を聞いて不安を感じた。エルサレムの人々も同様であった」と言う。つまり、エルサレムの人々が、新しい王が生まれたと言うことを聞いたヘロデが、自分の地位を奪われると不安になり、どんな残忍なことを始めるかわからないと不安になったというのです。

実際、それが、先ほどお読みいただいた213節から18節の出来事の中で、16節以降にあるイエス・キリスト様が生まれた場所であるベツレヘムとその周辺に生まれた2歳以下の男の子をすべて殺すと言う残忍な事件に繋がっていくのです。それは、まさにエジプトに生まれた男の子はナイル川に投げ捨ててころしていまいなさいというあのエジプトの王の命令に重なり合う出来事です。

そのような、残忍な出来事の中にあって、神は、イエス・キリスト様をその両親と共にエジプトに逃れさせるのです。それを聖書は「『エジプトからわが子を呼び出した』と言われたことが成就するためである」というのです。

この「エジプトからわが子を呼び出した」という言葉は、旧約聖書ホセヤ書の111節にある言葉ですが、そのホセヤ書31節を読みますと、それは明らかに出エジプトの出来事を指す言葉なのです。ですから、神がエジプトの王がイスラエルの民にしたようなベツレヘムとその周辺の男の子を殺すと言う蛮行からイエス・キリスト様を逃れさせたのは、イエス・キリスト様によって、もう一度、あの出エジプトのような支配と抑圧からの解放という救いの出来事を起こさせるためなのです。

実際、マタイによる福音書は、旧約聖書にあるイスラエルの民の歴史をイエス・キリスト様が踏みなおしていくことで、神の救いが完全に全うされていくという意図をもって書かれていると言われますから、ある意味、出エジプト記のモーセの誕生の出来事と、マタイによる福音書のイエス・キリスト様の誕生の出来事が重なり合ってもおかしくはないのです。

 おそらく、ステパノもまた、モーセとイエス・キリスト様を重ね合わせながら、サンヘドリンの議会において、この弁明の説教を語っていただろうと思います。そして、確かに、神から遣わされてくる救い主は、私たちが支配され、抑圧され、様々な試練の中に置かれているときに、その苦しみや悲しみや痛みの中から救い出してくさるお方なのです。

 けれども、その中で私が特に皆さんに知って欲しいことは、あの出エジプト記における救いの出来事が、神がアブラハムになさった約束に基づく契約によって起こっていると言うことです。それが、先ほど司式の兄弟に読んでいただいた出エジプト記223節から25節にあるのです。

 実は、みなさん。私はある時、神の救いと言う問題に向き合わざるを得ないことがありました。神の救いとは何なのか。私は、そのことに真剣に向き合わざるを得なくなった。それまで私は、救いとは私の罪が赦されることだと思っていた。そう教えられてきたからです。そして、その教えは間違ってはいないでしょう。確かに、聖書は罪の赦しを語っている。

 しかし、本当にそれだけだろうか。私たちは実際に生きているとき、自分の罪深さに苦しむだけではありません。人から加えられる様々な中傷や、人間関係の難しさで苦しんだり、それこそお金が支配する世界の中で、労働する苦しみや経済的な苦しみもある。

 もちろん、神を信じる信仰があったら、お金が与えられ金銭問題が解決したり、人間関係が突然よくなるといったことではないにしろ、この試練や試みの中にある苦しみから救われ、私たちの心に傷や痛みが癒やされなければ、本当に救わると言えないのではないか。

 そんな思いになって、信仰に向き合い、聖書に向き合ったのです。そんな時、この出エジプト記23節から25節に出くわした。衝撃でした。25節には「神はイスラエルの人々を顧み、神は彼らをしろしめられた」とある。「このイスラエルの人々を顧み、知ろしめられた」と言う出来事は、具体的には救いに導くモーセをお建てになったと言うことです。

 モーセによって、イスラエルの民をエジプトの支配と抑圧、苦役の苦しみから救い出すと言うのです。そして、そのように神が、イスラエルの人々を顧みられるのは、彼らが、自分の罪を悔い改めたからではありません。また神に何かをした、何かを捧げたからでもありません。かれらはただ、苦役のゆえにうめき、叫んだだけです。それも神向かって叫んだと聖書は書いていない。ただ、「苦役の務めのゆえにうめき叫んだ」としか書かれていない。しかし、その叫びが神に届いたというのです。

 そのとき、「神は、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を覚え、神はイスラエルの潤び徒を顧み、神は彼らをしろしめされた」とある。みなさん、このアブラハム、イサク、ヤコブとの契約は、ヤコブから400年もたっている、この出エジプト記の時代のイスラエルの民とは直接的に関係ありません。彼らが、神の前に悔い改めて神との契約を結んだと言うのではない。400年も前に神が先祖と結んだ契約のゆえに、苦役に苦しむあなたがたを神は救うと言うのです。

 それは、アブラハムが神の言葉に聴き従って、行先も分からずに故郷を離れ親族を離れて旅立ったというアブラハムの神への信頼と従順というアブラハムの信仰によって結ばれた契約です。その契約の内にアブラハムの子孫は置かれている。だから、神は伊豆アエルの民を顧みられると言う。顧みられてモーセによって彼らを、支配と抑圧と苦しみから救い出してくれると言うのです。

 この聖書の言葉に出会った時、私は本当に私と言う存在がすくい取られたと思いました。いや、もちろん、それまでも救われていたのでしょう。だから、神は私を牧師と言う職務に召し出されたのだと思う。でも、その時に、単に私の罪が赦されたと言うだけではなく、私と言う存在そのものがすくい取られたとそう思ったのです。いえ、長い思索を通してそこに至ったと言った方が正確ですが、いずれにしても、本当に全てから解放されたのです。

 それは、私たちがイエス・キリスト様が十字架に架かられることでもたらされた新しい契約に与っているからです。そこには十字架の死に至るまで、神を信頼し、神にすべてを委ね、神に従順に従われたイエス・キリスト様の信仰がある。このイエス・キリスト様の信仰が新しい契約を神と人との間に結ばれたのです。

 だから、私たちが苦しみの中でうめき、叫びをあげるとき、神が私たちを顧みられないなどといったことは決してあり得ない。神は、私たちが苦しみうめくとき、私たちを顧みて下さり、私たちを支配し、苦しめ、うめき声を上げさせているところから、救い出してくださるお方なのです。

 そのために、イエス・キリスト様と言うお方をお立て下さり、この方によって新しい契約を私たちに結んでくださったのです。ステパノはモーセの誕生の出来事を語りながら、そこに救い主の誕生の物語を語っている。まさに、民をエジプトの王の支配と抑圧から救い出す働きを担うモーセの誕生を語りながら、「この世」の中で苦しみうめく私たちを神は顧みてくださり、イエス・キリスト様による救いの出来事を語るのです。

 その救いをもたらす、新しい契約の下に私たちも置かれている。そのことを覚えながら、みなさん、私たちは神の民として、イエス・キリスト様の新しい契約の内にあるもとして、神を見上げ、イエス・キリスト様を信じ仰ぎながら歩んでいきたいと思います。お祈りしましょう。

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