2019年6月2日日曜日

2019年06月02日 小金井福音キリスト教会 説教題 「 災いをも益となす神 」

2019年06月02日 小金井福音キリスト教会 説教

聖書
・詩編 第28編 1 - 9 節
・ルカによる福音書 第23章 32 - 43 節
・使徒行伝 第7章 8 - 16 節

説教題 「 災いをも益となす神 」


196月第一主日聖餐式礼拝説教「災いをも益となす神」          2019.6.2
旧約書:詩篇281節~9節(旧約聖書)
福音書:ルカによる福音書2332節~43(新約聖書)
使徒書:使徒行伝78節~716節(新約聖書)

 今日の礼拝の説教の中心となる箇所は、聖書の箇所は、使徒行伝78節から16節です。この箇所は、神がアブラハムに子孫にカナンの地に所有地を与え、繁栄を約束されたその約束にもとづいて、アブラハムの約束を受け継ぐイサクが生まれ、そのイサクにヤコブが生まれ、そのヤコブからの地のイスラエルの国を形成する12の部族の族長となる12人の子供が生まれたことが記されている箇所です。
それだけではない、そのヤコブとヤコブの12人の子供たちが受けた試練と、試練の中で一つの民族が生み出されていくその民族の始まりが記されている箇所です。そしてそれは、先ほど司式の兄弟にお読みいただいた使徒行伝78節から16節に先立つ7節、8節に記されています。その箇所をお読みしますが、このように記されています。

6:神はこう仰せになった、『彼の子孫は他国に身を寄せるであろう。そして、そこで四百年のあいだ、奴隷にされて虐待を受けるであろう』。 7:それから、さらに仰せになった、『彼らを奴隷にする国民を、わたしはさばくであろう。その後、彼らはそこからのがれ出て、この場所でわたしを礼拝するであろう』。

 この神の言葉がいかに現実になっていったかということをこの使徒行伝の78節から16節は記しているのです。その中でも、とりわけこの8節から16節は、イスラエルの民が他国に身を寄せることになったいきさつが記されているところです。
 聖書は、この使徒行伝の8節で、アブラハムの契約がイサクそしてヤコブ、さらにはヤコブの12人の子供たちに受け継がれていったと告げます。9節にある族長とは、そのヤコブの12人の子供たちのことです。

 このヤコブの12人の子供たちの中でも、とりわけヨセフという子供は、父ヤコブからもかわいがられていました。また神は、このヨセフをヤコブの12人の子供たちを束ね導く、いうならばリーダー的存在になさろうと考えていました。ヨセフは、ヤコブの12人の子どもの中では11番目の子供です。そのヨセフが父の寵愛を受け、さらには神からも特別な扱いを受けているということに妬みを感じ、ヨセフを殺そうとするのですが、最終的には殺すのではなくエジプトに奴隷として売り飛ばしてしまうのです。

 このあたりのいきさつは創世記37章に書かれていますのでお読みいただければと思いますが、いずれにせよ、ヨセフにしては兄弟から殺されそうになったり、奴隷として売りとばされたりするのですから、なんとも理不尽なことを経験するのです。

 ところが、ヨセフはその奴隷として売られた先のエジプトで宰相になるまで週セするのです。宰相と言うのは、いわゆる総理大臣のようなものですから、大変な出世です。もちろん、そのような出世をするに至るまでには、様々な苦労がありました。それこそ奴隷として売られた先の女主人から濡れ衣を着せられて投獄されるというような、これまた理不尽な扱いを受けるのです。

 みんさんね。私たちはヨセフがうけたような理不尽な目に合わされますと、正直嫌になっちゃってしまいますよ。ましてや神を信じていながら、理不尽な苦しみに会いますと、神を信じている意味なんてあるのかという思いが心に浮かんでくる。でもね。そんな時聖書は何ていっているかというと、「神は彼(この彼とはヨセフですが)」「神は彼と共にいまして」と言うのです。
神がヨセフと共にいました時、ヨセフは理不尽な苦しみの中にいたときです。ヨセフにしてみれば神なんかいるもんか。神がいるならどうしてこんな苦しみがあるのか、神なんかいるもんか、もしいたとしても神を信じていて何のいいことがあるのか、そんな思いの中にある時、その時にも神はヨセフと共にいたと聖書は言うのです。

私は、この兄弟たちの妬みのゆえに、殺されそうになり、奴隷に売られてしまうヨセフの人生、そして奴隷に売られた先で女主人の恨みを買い、無実の罪で牢獄に入れられ苦しめられるヨセフの人生を想う時、十字架の上で、人々に「もし神のキリストなら、選ばれた者であるなら、自分自身を救うがよい」と嘲笑され、十字架に付けられた強盗からも「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、また我々を救ってみよ」と悪口を言われているイエス・キリスト様のお姿が、そのヨセフの人生に重なってみえるのです。

そんな、苦しみやあざけりや悪口の中で理不尽な苦しみを味わっておられるイエス・キリスト様のお姿は、まさにヨセフの姿と重なり合ってくる。そして、おなじように私たちの人生にも苦難の中に置かれて苦しみ、嘲られ、悪口を言われるようなときがある。そんな時に「神は彼と共にいまして、あらゆる苦難から彼を救いだし、エジプトの王パロのまえで恵みを与え、知恵をあらわされた」と聖書はそう語るのです。
「神は彼と共にいまし」と言われても、ヨセフにとっては神なんかいないと思われるような状況です。神なんかいないと私たちがそう思ってしまうようなときに、実は神がそこに共にいてくださる。何か言葉をかけてくれるのでもない、ただ黙して、神は悲しみ苦しむ私たちの側にいてきださる。

みなさん、新約聖書のマタイによる福音書の2746節にはイエス・キリスト様が十字架の上でお語りになった7つの言葉の中の一つが記されています。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言う言葉です。日本語に訳すならば「わが神、わが神、どうして私をおみすてになったのですか」と言う言葉です。

それは、まさに祭司長や律法学者たちの恨みを買い、無実の罪で訴えられて死刑宣告を受け、十字架に磔られて死の時を迎えようとしている理不尽な苦しみの中にあるイエス・キリスト様の叫びです。そのイエス・キリスト様の叫びに、神は沈黙を守られる。一言も言葉を発しない。慰めの言葉も励ましの言葉もかけないのです。
けれども、父なる神は、神の御子イエス・キリスト様を見捨てたわけではない。苦しむイエス・キリスト様の傍らに共にいてくださったのです。なぜそれが言えるか。マタイによる福音書の27章の46節の後を読み進んでいくと、十字架に付けられたイエス・キリスト様が死なれた後、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂け、墓が開けて多くの聖徒たちに死体が生き返ったと記されているからです。

神殿の幕は、神殿の中の至聖所と聖所を隔てていた幕です。その幕はいわば神の世界と人の世界を隔てていた隔ての幕だと言えるのでう。その隔ての幕が真っ二つに裂けたのですから、その出来事は、イエス・キリスト様の十字架の死が、神と人とを隔てていたものを取り去り、神に神にとの間の和解をもたらすものであったということを象徴的に見召す出来事であったと言ってよいでしょう。
 また、多くの聖徒たちの肢体が生き返ったというのですから、それはまさに死に対する勝利の出来事がそこに記されている。ですから、イエス・キリスト様の十字架の死は、神に見捨てられたために起こった出来事ではなく、むしろ神と共に働き、罪と死に対して完全な勝利をもたらすものだったのです。
 このイエス・キリスト様の十字架の死における勝利は、私たちすべての人に対する神の救いをもたらしました。まさに一人の人の死が、死を乗り越える命の勝利をもたらしたのです。

 みなさん。イエス・キリスト様の十字架の死は、罪のないお方が、多くの人から嘲笑され、あざけられる理不尽な死でした。しかし、その理不尽な苦しみと理不尽な死が、神と人との間の和解をもたらす契約となり、多くの人に祝福をもたらすものとなったのです。

 みなさん。多くの学者は、ヨセフの生涯にイエス・キリスト様のお姿を重ね合わせて聖書を読み解きます。ヨセフはまさにイエス・キリスト様の予型(モデル)であるというのです。それは、ヨセフが受けたこの理不尽な苦しみの中で、神がヨセフと共にいて下さり、その苦しみを乗り越えて行ったことが、父と兄弟たちが暮らすカナンの地に非常に大きな飢饉がおこるという危機的状況に陥った時に、エジプトにある十分に食べ物を持って父と兄弟を救うという救済の出来事に繋がっていくからです。

そして、そのエジプトの地で、アブラハムの子孫、イサク、ヤコブ、そして12人の族長へと受け継がれていった多くの国民となるという約束が実現するために、民が生み広がっていったのです。

 みなさん、ここにまさに、ヨセフと言う一人の人に起こった苦難が、災いの出来事が、災い転じて神の祝福がもたらされるという神の救いの業が顕われ出ている。そしてその救いの業が、ヨセフと同様に、理不尽な苦しみと悲しみであるイエス・キリスト様の十字架の死として実を結ぶのです。そして、私たちは、今、そのイエス・キリスト様のもたらした神の祝福に与るものとされている。また与ることができるものとされているのです。

 みなさん、私たちの人生には、苦しみや悲しみが全くないと言うことではない。それは神を信じているものであっても経験することです。例えばアブラハムに対する神の祝福の約束を受け継いだイスラエルの民は、その祝福の約束通り、神の民として古代イスラエルの国を建国します。しかし、そのような神の祝福の約束を受け継いでも、不条理な苦しみや悲しみは襲ってくるのです。

 私たちは、先ほど司式の兄弟がお読みくださいました旧約聖書の詩篇28篇の言葉に耳を傾け聞きました。この詩篇28篇は、まさにそのような神を信じる神の民にもたらされた苦しみの中から生み出された詩篇です。苦しみの中にある神の民が、苦しみの中で神に呼ばわっても神が答えられない神の沈黙の中に置かれている中で、なおも神を求め、神に祈る中で、必ず神がその苦しみから救って下さることを確信し、神を信頼し、賛美し神の恵みを確信にたったことを詠った詩が、この詩篇28篇なのです。

 しかも、この詩篇28篇は、3節を見ますと「悪しき者および悪を行う者らと共にわたしを引き行かないでください。彼らはその隣り人とむつまじく語るけれども、その心には害悪をいだく者です」とありますから、自分自身の悪や過ちによって苦しんでいるのではない、人からもたらされた虐げや災いの中で苦しんでいるのです。

 そして、その苦しみの中で神に叫びの声を上げるのですが、しかし、神はその叫びに沈黙なさる。だから、1節、2節で

1: 主よ、わたしはあなたにむかって呼ばわります。わが岩よ、わたしにむかって耳の聞こえないものとならないでください。もしあなたが黙っておられるならば、おそらく、わたしは墓に下る者と等しくなるでしょう。2:わたしがあなたにむかって助けを求め、あなたの至聖所にむかって手をあげるとき、わたしの願いの声を聞いてください。

と祈るのです。しかし、この詩人は、そのような祈りの中で、神が彼の祈りの声に耳を傾けてくださったという確信を得るのです。それは、彼が神を本当に心の底から信頼したと言い換えても良い出来事です。そのことをこの詩人は、こう言います。67節です。

6:主はほむべきかな。主はわたしの願いの声を聞かれた。7:主はわが力、わが盾。わたしの心は主に寄り頼む。わたしは助けを得たので、わたしの心は大いに喜び、歌をもって主をほめたたえる。

 みなさん。この信頼です。この確信です。この詩人には、今日の聖書箇所である使徒行伝79節、10節で言われている「神が彼と共にいまして、あらゆる苦難から彼を救いだし」と言う出来事が、彼の内に起こっていることを確信しているのです。そして神を信頼している。その時に、この詩人は、苦しみの中に置かれているにも関わらず、「私は助けを得たので、私の心は大いに喜び、歌をもって主をほめたたえる」と言うことができるようになった。

 みなさん。私たちは主イエス・キリスト様のもたらした契約に基づいて神の祝福を約束された神の民です。またその神の民となりように召されたひとり一人です。けれども、その祝福の約束の中に召されてはいても、理不尽な苦しみの中で生きなければならないものです。確かに、私たちは理不尽な苦しみを経験することがある。ヨセフのように、またイエス・キリスト様のように理不尽な苦しみや試練を通ることがあるのです
 しかし、その理不尽な苦しみの中で、私たちが神が共にいてくださることを信じ、神を信じることを決してやめず、神を信じる生涯を生きて行くならば、その私たちの歩みが、私たちに、そして私たちに繋がる者に、災いをも益と変えて神の民に与えられる祝福と恵みをもたらしてくれるのです。そのことを信じ、神を信じ、神を信頼して生きる生涯をしっかりと歩んでいきましょう。お祈りします。

0 件のコメント:

コメントを投稿