2018年11月11日 小金井福音キリスト教会説教 説教題「 悔い改めに生きる 」
2018年11月11日 小金井福音キリスト教会説教
聖書ヶ所
・申命記 第30章1節 ~ 10節
・マタイによる福音書 第16章 13節 ~ 19節
・使徒行伝 第2章 5節 ~ 40節
説教題 「 悔い改めに生きる 」
さて、前回、使徒行伝2章1節から4節までにありますペンテコステに聖霊が天から下ってきてイエス・キリスト様の弟子たちに与えられたというペンテコステの出来事から説教をいたしましてから2週間がたちました。
その2週間前の説教では、ペンテコステの時に聖霊なる神が下った際に、舌のような形をしていたという点に着目し、聖霊なる神が舌のような形をしていたと聖書が記しているのは、聖霊なる神が与えられ注がれた者は、神の言葉を語り、神の御心を伝えるものとなるということの象徴的表現であったのではないかとお話ししました。
実際、今日の聖書個所にルカによる福音書の2章4節にはすると、「一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した」とありますが、この他国の言葉というのは、ギリシャ語で舌を意味する(γλώσσα:グロッサ)という言葉なのです。つまり聖霊を受けた弟子たちは、イエス・キリスト様のことを様々な外国語で証し始めたというのです。その様子が、今日お読みいただいた使徒行伝2章5節から12節までに記されています。
そこを見ますと、弟子たちの言葉を聞いていた人たちは、パルテア人、メディア人、エラム人やメソポタミヤ、ユダヤ、カッパドキアや、ポントとアジア、フルギアとパンフリア、エジプトとクレネに近いリビア地方、またアラビアと言った様々な地方から来た人であったとあります。そのような様々な国から来た人が、自分たちの国の言葉で、イエス・キリスト様のことを聞いたのです。ですから、まさに聖霊なる神が与えられ注がれた者は、全世界に向かって神の言葉を語り、神の御心を伝えるものとなるということが、そこで現実に起こり、宣教の業が始まっていったのがペンテコステの出来事だと言えます。
そのような弟子たちの宣教の業を、驚きをもってしかし冷ややかに見ていた人たちがいました。それはユダヤ人たちでした。ユダヤ人は、神がお選びになった神の民として神の救いの歴史を担ってきた人たちです。その意味では最も神に近く、神に最も愛され続けてきた民です。そのユダヤ人たちが、イエス・キリスト様の弟子たちが外国の言葉でイエス・キリスト様のことを伝えているのを聞いて当惑し、中には「彼らがぶどう酒に酔っているのだ」といって嘲る者さえいたというのです。
彼らの目にペテロをはじめとする人々が「酒に酔っている」ように見えたのは、それこそ、彼らが訳の分からない言葉で、しかも大声で熱心にしゃべっていたからもしれません。それが酒に酔っているように見えたということは十分に考えられることです。
そこで、ペテロは、自分たちが何を語っていたかをそのユダヤの人たちに語り始めます。それが14節から36節に記されているペテロの言葉です。そこでペテロは、自分たちは酒に酔っているのではなく、聖書の預言通り、神から霊を注がれて預言をしていると述べ、イエス・キリスト様の十字架の死と復活の出来事が、神の救いのご計画に基づくものであり、このイエス・キリスト様こそが、イスラエルの油注がれた王であることを旧約聖書の言葉を用いながら述べるのです。
このとき、ペテロの言葉を聞いたユダヤ人の中に、動揺し恐れを感じる人たちが出てきます。それは、ペテロが、イエス・キリスト様は神が主ともキリストともされたお方であるのにもかかわらず、あなた達ユダヤの民が、この方を十字架に殺したのだと指摘したからです。
イエス・キリスト様が十字架に架けられて死なれたということは、ほんの数か月前にエルサレムで起こった出来事ですし、イエス・キリスト様の墓が空っぽいになり弟子たちが、イエス・キリスト様のご遺体を盗んでいったといううわさがユダヤ人の間に広がっていました。ですから、エルサレムにいたユダヤ人たちは、そのことを知っていたでしょうし、同時にイエス・キリスト様の弟子たちの間にイエス・キリスト様がよみがえられたと言っているという話も聞いた居たでしょう。
そのイエス・キリスト様の十字架の死と復活について、今、イエス・キリスト様の弟子であったペテロが、大胆に、しかも彼らも神の言葉として大切にしている聖書の言葉に基づきながら語るのです。
みなさん、ペテロは言うのです。イエスというお方は十字架の死は、神が聖書であらかじめ預言なさっていたことであり、神のご計画と予知によるものである。そのイエス・キリスト様は、神がお立てになった主でありキリストである。私たちは神から注がれた聖霊によってそのことを証ししているのであるが、あなたがたは、その主でありキリストを異邦人の手に渡して殺したのだと。
この言葉がユダヤ人の心を揺さぶり、恐れさせるのです。なぜなら、イエス・キリスト様が、神がつかわした主でありキリストであったとするならば、そのイエス・キリスト様を異邦人の手に渡し、十字架に仮付けさせて殺させたユダヤの民は、神に反逆したことになるからです。しかも、その反逆が神の予知とご計画によるものであるとするならば、彼らはもはや神から捨てられ、もはや神の選びの民でも何でもない異邦人と同じ存在になっていることになる。
ユダヤの民にとって、自分たちは神の選びの民であるということが、彼らのよって立つところであり、彼らの自尊心の根拠であり、彼らを支えているものです。ユダヤの民から彼らば神の選びの民であるということが奪い去られたとするならば、彼らには、もはや依って立つところも依り縋るところもなくなるのです。だからこそ、動揺もすれば恐れもする。そしてペテロに「わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」とたずねるのです。
人間っていうのものは、何か依って立つところのもの、寄り縋る何かがあるならば、それが最後の砦となって何とかやっていけるのです。また自尊心やプライドがあれば頑張りも踏ん張りも効く。でもそれらがすべて奪われてしまったならば、もはや途方に暮れるしかありません。それはユダヤの民であろうと、日本人であろうと、古代人であろうと現代人であろうと変わらない。実際、私たちもそうじゃありませんか。
そしてそうなったら、もうどうしていいかわからないのです。ユダヤの民にとっては、その最後の砦は、彼らが神の選びの民であるということでした。それが、ローマ帝国の植民地にされ支配され、蔑まれても、それでも私たちは神の選びの民であり、異邦人とは違うのだという思いが、虐げられていたとしてもユダヤ人をユダヤ人として立たせていたのです。
ところが、ペテロに、神の予知とご計画の中で、神に反逆するものとされたのだと言われると、もはや彼らはどうしていいのかわからない。自分たちがよって立つ土台が揺るがされているからです。だからペテロに「わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」とたずねるのです。そのように「わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」とたずねられたペテロは、次のように答えます。使徒行伝2章38節から39節です。そこにはこうあります。
38:悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。 39:この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである。
ペテロは、「どうしたらよいのですか」と問われて「悔い改めなさい」と答える。「悔い改めて、罪の赦しを得るためにバプテスマ(つまり洗礼)を受けなさい」というのです。新改訳聖書2017では「それぞれに罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストのなによってバプテスマを受けなさい」となっているようですが、もともとの原語であるギリシャ語を見ますと、口語訳聖書のように「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとり一人が罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい」と訳す方が良いように思われます。
いずれにしましても、ペテロに「わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」とたずねたユダヤ人たちは、ペテロの「悔い改めなさい。そしてイエス・キリスト様の名によるバプテスマ(洗礼)を受けなさい」と言われ、さらに40節で「この曲がった時代から救われよ」と言われ、ペテロの言葉通りに洗礼を受け、弟子たちの仲間に加わっていったというのですが、その数が三千人もあったというのです。
ここで私たちは、「悔い改めよ」という言葉に注意したいと思います。ともうしますのも、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとり一人が罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい」と聖書に書かれていますと、何か、悔い改めとは罪を赦していただくために、自分の罪を反省し、それを神にお詫びし、神の赦しを請うことのように思われるかもしれないからです。しかし、悔い改めるということは、必ずしもそうではない。
実は、たまたま昨日、インターネットでFEBCというキリスト教のラジオ局が放送している番組を聞いていました。本当に偶然でしたが、カトリックの司祭で上智大学の名誉教授をしておられる雨宮慧という神父様が悔い改めについて語っておられる番組をやってました。この番組は来年の1月10日までFEBCのホームページ(http://netradio.febcjp.com/2018/11/09/root181109/)で聞くことができるということですのでお時間がある方はぜひ聞かれるとよいと思うのですが、とても良い内容でした。そしていろいろと教えられることがあった。
その番組の中で、雨宮神父は、旧約聖書を見ていくと、旧約聖書には悔い改めるという言葉が6回しかないということに気が付いたというのです。そんなわけないだろうと思っていろいろと調べてみると悔い改めという言葉を表すヘブル語はシューブ(שָׁ
ב)という言葉であり、立ち帰る、あるいは回復するという言葉であり、実際、旧約聖書のあちらこちらで使われているというのです。
先ほどお読みいただいた旧約聖書申命記30章1節から10節、この箇所は雨宮神父もその番組の中で引用なさっていたのですが、そこにも2節から3節にかけて
2:あなたもあなたの子供も共にあなたの神、主に立ち帰り、わたしが、きょう、命じるすべてのことにおいて、心をつくし、精神をつくして、主の声に聞き従うならば、3:あなたの神、主はあなたを再び栄えさせ、あなたをあわれみ、あなたの神、主はあなたを散らされた国々から再び集められるであろう。
と言われていますし、10節には「これはあなたが、あなたの神、主の声に聞きしたがい、この律法の書にしるされた戒めと定めとを守り、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に帰するからである」と、神に帰するという表現でありますが立ち帰るというシューブ(שָׁ
ב)という言葉が記されています。
雨宮神父は、ほかにも3節にある「再び栄えさせ」や「再び集められる」という「再び」、また8節の「再び主の言葉に聞き従い」という「再び」、そして、9節の「あなたの先祖たちを喜んだように再びあなたを喜んでという再び」という言葉は、立ち帰るという意味のシューブ(שָׁ
ב)という言葉が使われているというのです。そう言われますと確かに、新共同訳聖書は、口語訳聖書では「再び主の言葉に聞き従い」と訳されているところを「あなたは立ち帰って主の御声に聞き従い」と訳している。
また雨宮神父は、他にも1節にある「心に考えて」の「考える」という言葉もまたシューブ(שָׁ
ב)という言葉であるというのです。そこで私もヘブル語の旧約聖書で調べてみましたが、確かにそうなっていました。
そして、雨宮神父は、悔い改めるという言葉は、ユダヤ人にとって本来ある場所に立ち帰ることであるというのです。そう言われてみますと、この申命記は、イスラエルの民が奴隷となっていた異邦人の国であるエジプト地を脱出して、彼らの先祖がもともと住んでいたカナンの地に再び帰っていくその直前に語られたモーセの説教が記されているところです。
まさに、本来あるべき地に戻ろうとするユダヤの民の物語が語られているのが申命記です。そのもともと住んでいた地で、神を主として崇め、礼拝し神の言葉に聞き従いながら生きて行くのだよと導き教えるのが申命記です。それが、ユダヤの民の本来の姿なのです。
そのようなユダヤの民に、ペテロが「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい」と言う。このペテロの言葉を聞いたユダヤ人は、悔い改めと言う言葉を聞いて、「罪を反省しお詫びしなければ」と考える以上に、「本来あるべき場所に帰らなければならない」と考えただろうと思うのです。
では、その本来帰らなければならない場所とはどこか。それは神が王として、主として治めておられる神の国であり、イエス・キリスト様の名によってバプテスマを受け、仲間とされていった教会と言う場所なのです。
みなさん。私たちは先ほど司式の兄弟にマタイよる福音書16章13-19節を読んでいただきました。そこには「わたしを誰だと思うか」と問われた、イエス・キリスト様に対して、ペテロが弟子たちを代表して「イエス・キリスト様を行ける神の子キリストです」と答えたことに対して、イエス・キリスト様が「ペテロ、よく言った。私はこの岩の上に教会を建てる」と言った箇所です。
実は、イエス・キリスト様のご生涯を綴った福音書には、この箇所以外に教会と言う言葉は出てきません。そして、このイエス・キリスト様が、この岩の上に教会を建てると言われた岩とは何であるかについては、いろいろと解釈が分かれるところでもあるのです。
カトリック教会は、この岩とはペテロのことであると言い、ペテロが初代の教皇であるとして教皇を中心とした組織の上に教会が成り立つと言いますし、プロテスタントのある教派では、これはペテロが「イエス・キリスト様を行ける神の子キリストです」と答えた信仰告白であると言って、信仰告白が教会の基盤だと言う。また、別の人々は、この岩とはイエス・キリスト様ご自身のことであると捉えます。
では、どの解釈が正しいのか。私は、おそらくこの岩と言うのはイエス・キリスト様ご自身であると理解するのが妥当であろうと考えています。なぜならば、教会はキリストの体であると聖書が言っているからです。
そのキリストの体なる教会と言う場所に立ち換えていくこと。それがまさに、ペテロがあの使徒行伝2章36節で言った本来ある場所に立ち帰ると言う意味を持つ「悔い改め」と言うことであろうと思うのです。
そして、そこでイエス・キリスト様と一つに結ばれるバプテスマ(すなわち洗礼)を受け、罪が赦されていく。みなさん、この罪の赦しという言葉はギリシャ語でハフェーシン(ἄφεσιν)と言いますが、罪が赦される(forgive)という意味と同時に罪から解放される(release)というニュアンスも持つ言葉です。つまり、罪の赦しとは、罪にしばりつけららている縄目から解き放たれると言うことでもあるのです。
みなさん、罪は様々なものを打ち壊していきます。神と人との関係を打ち壊し、人と人との関係も打ち壊していく。そのように、すべての本来あるべき関係を打ち壊す働きをするのが罪というものであり、私たちはこの罪の支配する世界の中で生きている。だから私たちは様々な人間関係で苦しみ、傷を負い、心を痛めます。
ある人は、親子関係で苦しみ、傷を負う。ある人は友人関係で悩み、ある人は仕事関係で苦しんでいる。あるいは自分自身が自分自身の問題で苦しみ傷ついていると言うこともある。これは私たち人間が、罪の支配するこの世界で生きている限り逃れえない現実です。そして、それは本来私たちのあるべき姿ではありません。なぜならば、私たちは互いに愛し合うものとして神から作られているからです。私たちは、本来は傷つけあうために造られた者ではないのです。
しかし、罪が支配する世界は、私たちの間にある交わりや結びつきを傷つけ壊していく。そのような中にあって、ただ神のみが、神の恵みが支配する神の王国に立ち帰れ、神の恵みと愛が支配するキリストの体である教会に立ち帰れというのです。そして、私たちはそのキリストの体なる教会に呼び集められたものとして、今日ここで共に礼拝を守っているのです。これは聖霊なる神の御業です。
そして、その聖霊なる神は、今日も私たちに、そして私たちの周りにいる人たちに、神に立ち帰れ、キリストの体なる教会に立ち換えて、互いに愛し合いなさいと言う神の戒めに生きる者になろうと呼び掛けているのです。みなさん、聖霊なる神が心に注がれた者は、そのことを語り伝えていくものとなるのです。そして、今日、個々に集っている私たちひとり一人はその聖霊なる神が、わたしたちの心に注がれているのです。
お祈りしましょう。
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