2019年9月26日木曜日

2019年09月22日 小金井福音キリスト教会 説教題『自分の心を省みる』

2019年09月22日 小金井福音キリスト教会 説教

【聖書箇所】
 ・レビ記 第19章17~18節
 ・ルカによる福音書 第10章25~29節
 ・使徒行伝 第9章1~9節

【説教題】
 『 自分の心を省みる 』


199月第4主日礼拝説教「自分自身の心を顧みる」           2019.9.22
旧約書:レビ記917節から18
福音書:ルカによる福音書1025節から29
使徒書:使徒行伝91節から9

使徒行伝91節から19節は、かつてはキリスト教徒を迫害していたサウロが、復活したイエス・キリスト様と出会い回心するという壮大な物語が記されている箇所です。なかでも使徒行伝91節から9節は、ダマスコに行き、そこにいるキリスト者を捉えエルサレムまで引っ張ってこようとしていたサウロが、そのダマスコの途上でイエス・キリスト様と出会い、目が見えなくなってしまったという出来事が記されている箇所です。
 その91節および2節には、こう記されています。「さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司のところに行って、ダマスコの諸会堂あを求めた」。ここにある「なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら」という言葉は、キリスト教徒を迫害するサウロの鬼気迫る意気込みというか修羅のごとき意思を感じさせます。とりわけ、「殺害の生きをはずませながら」というのです。
 人を殺害するなどということは、そうたやすくできることではありません。普通の人であるならば、ためらい躊躇するようなことです。なのにサウロはその殺害という行為を「息をはずませながら」行おうとしているというのです。

 みなさん、サウロは当時の一級の宗教指導者ガマリエルの下で律法を学んだ人です。その律法の根底にあるもっとも基本となる者は十戒です。当然、パウロはこの十戒のことを知らないわけがありません。その十戒は、先ほどみなさんで交読した交読文47番、新聖歌の916頁から917頁に記されていますが、その6番目の戒めに殺してはならないと記されている。
 サウロは、それを知らないわけではない。ユダヤ教にはタルムードという書かれた文書としての律法、これをトーラーと言いますが以外に、口伝、すなわち口伝えに言い伝えられた神の律法であるミシュナーと呼ばれるものがあります。このミシュナーを注解し解説したものが5世紀ごろに編纂されたタルムードと言われる書物なのですが、このタルムードには「律法を破らなければ殺す」(バビロニア・タルムード:サンヘドリン74a)と脅されたなら、命を守るために偶像礼拝と性的不品行と殺人以外の律法なら破っても良いという教えがあります。
逆にいうならば、たとえ命を奪われることになっても、偶像崇拝と性的不品行と殺人はしてはならないということです。時代は遡りますが、熱心なユダヤ教徒であり、律法に関してきちんと学んでいたサウロは、このような「殺人」を徹底的に否定するユダヤ教の精神を知っていたものと思われます。なのに彼は、」「殺害の息をはずませながら」、ダマスコに向かうのです。
                                                                                                              
 「いったいどうして?」。疑問符の造言葉が心に湧き上がります。「殺してはならない」という言葉を心に刻んでいるはずのサウロを、「殺害の息をはずませながら」キリスト者を迫害するのか。

 さきほど、ユダヤ教には口伝えで伝えられた律法、これを口伝律法といいますが、その口伝律法であるミシュナーというものがあり、これを解説した書物としてタルムードという書物があるとお話ししました。そしてそのタルムードにおいて、殺人という行為は偶像礼拝、性的不品行に続く、第3の重罪として厳しく禁じられていることもお話ししました。 そのタルムードに、次のようなことも書かれているのです。「いわれのない憎しみは偶像礼拝、姦通、殺人という三大重罪にも匹敵し、神殿崩壊の原因となった」(バビロニア・タルムード:ヨーマ9b)。ここでは偶像礼拝や、姦通、殺人といった三大重罪に結びつけられているのですが、その内容を精査してみますと、それはとりわけ殺人に結びつけられていると考えられます。つまり、憎しみは殺人を引き起こす原因になりうるというのです。

 考えてみますと、先ほど司式の兄弟にお読みいただきましたレビ記1917節から18節におきまして、聖書は

17:あなたは心に兄弟を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろにいさめて、彼のゆえに罪を身に負ってはならない。18:あなたはあだを返してはならない。あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない。あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である。

とあります。このレビ記19章は、1節、2節で

1: 主はモーセに言われた、2:「イスラエルの人々の全会衆に言いなさい、『あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたも聖でなければならない。

と述べられています。それは、イスラエルの民は神の民であるというの神の宣言です。イスラエルの民は、神に属する神の民である。だから神の民として聖なる生き方をしなければならない。では、その聖なる民として聖なる生き方はどのようなものかということが、3節以降にしるされているのですが、17節、18節ものの聖なる民はどのようなものかが記されている中にある。

 今日のこの礼拝説教では、このレビ記193節以降にある聖なる民の生き方を一つ取り上げてお話しすることは致しませんが、その聖なる民の生き方の一つ一つの根底にあるものは隣人愛と言ってもよろしいかと思います。そうしますと、憎しみや恨みは、この隣人愛の真逆にある感情と言ってもいい。だからこそ、聖書は「あなたは心に兄弟を憎んではならない」と言い、「あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない」というのです。そして、「あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない」と言う。

 みなさん、この言葉は先ほどお読みいただきました。ルカによる福音書1025節から29節にあるイエス・キリスト様の言葉にそのまま反映されている。そこには、神の戒めの中で最も大切なもの神を愛し、あなたの隣人を愛することだと言われている。そしてそれは、神の民が神の民らしく生きていくための根本にある精神なのだというのです。
 そのルカによる福音書の10章の記事で、イエス・キリスト様に「何をしたら永遠の命を得られるでしょうか」と尋ねた律法学者に、イエス・キリスト様は、聖書には何と書いてあるかと尋ねます。するとその律法学者は、心をつくして神を愛し隣人を愛することだと答えます。すると、イエス・キリスト様は、「その答えは正しい、だからあなたもそうしなさい、つまり心を突きして神を愛し隣人愛に行きなさい」というのです。

問題はここからです。神を愛し隣人を愛せと言われて、この律法学者は「自分の立場を弁護しよう思った」(29節)というのです。そして「わたしの隣人は誰かと」と問いかえしたのです。
 「隣人を愛しなさい」と言われても、愛せない人間がいる。愛そうと思っても愛せない人間がいる。むしろ愛せないどころか憎んでしまう相手がいる。だから自分の立場を弁護しようとするのです。そのような姿を聖書は見事にイエス・キリストさまが描き出している箇所があります。マタイによる福音書の543節です。そこにおいて、イエス・キリスト様は「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている」とそう言っておられます。

 つまり、「殺してはならない」「憎んではならない」と律法に命じられているユダヤの人々であっても、「敵は憎め」と教えられていた。この言葉の中に、愛することの出来ない存在がいる事への言い訳がある。「あいつは敵だから、愛せない。むしろ憎んで当然だ。だから殺したって仕方がない」。そう言った言い訳がある。

 しかし、この「隣人を愛し、敵を憎め」と言われている言葉の「敵を憎め」という言葉は文章として著された律法、すなわち旧約聖書に言い出すことができません。ですから、当時にユダヤ人たちが「隣人を愛せ」と言う聖書の教えの言葉に対して、そうすることの出来ない自分に揺らぎ、その揺らぎが「隣人を愛し、敵を憎め」という言葉になって、言い伝えられていたのでしょう。
 
そして、サウロもその言葉の中に、キリスト教徒を「殺害の息をはずませ」るほどの憤りを感じる自分の気持ちのよりどころを求めたとしてもおかしくはありません。つまり、サウロにとってキリスト教徒は敵なのです。それは「憎め」と言われている相手である。だからこそサウロは、「主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませるのです。
 そのサウロが、主の弟子たちを苦しめるために向かったその途上で、天に昇られたイエス・キリスト様と出会うのです。正確に言うならば、突然、彼らを地に倒れさせるほどの光が天からさし、彼らを巡り照らし、その光の中でサウロは目を開けることも出来ず、声だけは聞こえるが姿は見えなかったという経験をするのです。

 この表現は、極めて重要です。人を地に打ち倒すほどの光が、サウロを巡り照らしたというのです。この光は神の栄光を表す光だと考えてよいでしょう。と申しますのも、この使徒行伝9章を記したルカが記したルカによる福音書28節で、神のみ使いである天使が、野宿をしていた羊飼いに、救い主がお生まれになったということを知らせるために現れたときに「主の栄光が彼らをめぐり照らした」と記しているからです。
 ですから、「彼らをめぐり照らす光」は主の栄光を表す光であると言えます。その同じ表現をもって、ルカはイエス・キリスト様の「「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声や「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねるサウロに「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と答えるイエス・キリスト様の言葉を伝えるのです。

 しかも、ルカによる福音書の2章において、み使いの姿を見ていますが、この使徒行伝9章においては、誰もイエス・キリスト様のお姿を見ていないのです。それは、彼らが目を開いていることができなかったからです。使徒行伝98節には、「サウロは血から起き上がって目を開いてみたが、何も見えなかった」書かれています。目を開くことができないほどの神の栄光、その中でイエス・キリスト様が語られる。それはイエス・キリスト様が神の人であり、神の御子であることを示しています。

 その神の前に立たされ、神の人であり神の御子であるイエス・キリスト様から「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」という呼びかけを受けたとき、それまで「キリスト教徒を敵とし、「敵を憎め」と言い伝えられている言葉を支えに、彼らを脅迫し、殺害するほどに息づいていたサウロの心は揺り動かされたのです。そのサウロの心の揺らぎは、9節の「彼は三日間、目が見えず、また食べることも飲むこともしなかった」という言葉に現れ出ています。

 目が見えないという状況、それはサウロを暗闇の中に陥れます。周りのものが何も見えない。それは、それまでサウロが見ていた世界、サウロの目に映っていた世界といっさい断たれてしまっている状況です。それは物質的なものが見えなくなったというだけではなく、信じていたものさえも見失ってしまった状況でもあります。それは、様に暗闇の中にいるようなものです。サウロは、主の栄光の光に照らされて、初めて自分の内にある暗闇に気が付いたと言って良いでしょう。
 そのような中で、サウロの心が迷い揺らされている。それこそ、食事をすることもできない状況なのです。おそらく、そのような中で、サウロはじっと自分のこれまでの歩み、考え方を見つめ直していたのでしょう。

 そこには、それまで信じていたサウロのユダヤ教徒としての信念や、信仰における確信もあったでしょう。しかし、神の栄光の中から呼びかけてくるイエス・キリストの言葉の前に立たされた時、サウロはそれまで自分がよって立っていたところの信念や確信が崩れ落ち、それまで見ていた世界や目に映っていた世界から離れて、一人、神を想い、神を見上げるところに立たされた。

 みなさん、それが悔い改めということなのです。それまでのものの見方や価値観から離れ、神の言葉の前に立ち、神を見上げるそれが悔い改めるということなのです。11節で神がアナニヤの「彼(すなわちパウロ)は祈っている)といっておられるでしょう。この「彼は祈っている」言葉が、そのすべてをあらわしている。
サウロは、まさに、ダマスコの途上で、イエス・キリスト様と出会い。自分のそれまでの自分の在り方が全て問い直され、それまでの自分の在り方やものの見方や価値観から離れ、神を見上げましたのです。そしてそれが、サウロを回心へと導いていった。みなさん、そこから神の民としてのサウロの生き方が始まったのです。

 みなさん、今日も神は、サウロと同様に皆さんの名を呼び掛けています。それは皆さんが、神の言葉の前に立ち、神に目を向け、聖なる神の聖なる民として生きる生き方生きるためです。その神の民としての聖なる生き方、それは隣人愛を実践していく生き方に、今日、神は皆さんを招いておられるのです。


静まって、声を出さず、沈黙のうちに祈り、神に応答しましょう。

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