2019年9月14日土曜日

2019年09月08日 小金井福音キリスト教会 説教題『神の先行する恩寵』

2019年09月08日 小金井福音キリスト教会 説教

【聖書箇所】
 ・創世記 第22章9~13節
 ・マタイによる福音書 第6章31~34節
 ・使徒行伝 第8章26~40節

【説教題】
 『 神の先行する恩寵 』



199月第2主日礼拝説教「神の先行する恩寵」            2019.9.8
旧約書:創世記229節~14節(旧約聖書pp.25-26
福音書:マタイによる福音書631節~34(新約聖書p.9
使徒書:使徒行伝826節から40(新約聖書pp.281-282)

先週の創立記念礼拝を挟んで、先々週の主日礼拝も使徒行伝826節から40節の言葉を中心に、神の言葉が語り替えてくるメッセージに耳を傾けました。

 そこで開かれていったことは、この使徒行伝826節から40節の出来事は、十字架に架かられ死なれたイエス.キリスト様が、3日目によみがえられた後に弟子たちに「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」と言われた使徒行伝18節で語られた言葉が現実になっていっているさまを示しているということです。

 特に、「地の果てまで、わたしの証人となる」という言葉が、まさに現実になっているさまがそこに現れている。というのも、この使徒行伝826節から40節は、異邦人であるエチオピアの宦官が、ピリポによってイエス・キリスト様を信じ、キリスト者となっていく姿が描かれているからです。

 みなさん、先週のお話ししましたように、イエス・キリスト様の時代のユダヤ人は、異邦人を犬と呼び蔑んでいました。また宦官という職にあるものは神を礼拝することができないとされていました。そう言った意味では、異邦人であり、また宦官という職についていた男が、神を信じ、またイエス・キリスト様を信じてキリスト者になるということは、まさに、地の果てにまでイエス・キリストが伝えられ、証にあるような出来事なのです。
 しかも、そのエチオピアの宦官が居た場所は、当時あれは荒れ果てていると言われておたガザ地方です。その荒れ果てた地に滞在していた神から最も遠いところにいるようなエチオピアの宦官にも神の言葉が伝えられ、福音が語られのです。

それは、まさにその地の果てにまでも福音が届けられ、イエス・キリスト様のことが証されていくのだということを示す出来事であったと言えます。しかも、そのために、神はサマリアの地での伝道に成功していたピリピを送るのです。

この荒れた地にたった一人いる神に最も遠い地の果てのひとであるような異邦人であり宦官であるエチオピア人のために、大成功を収めているピリピを送り出すこの使徒行伝の物語に、私たちは、たったひとりであっても最善の愛を注ぎ込み、どのような場所、どのような状況にあろう人でもお救いになろうとする神の愛と強い意志を読み取ることができます。 
この神の深い愛と強い意志は、別の角度から捉えられることができます。それが、今日の説教題ともなっております。「神の先行する恩寵」ということです。

「神の先行する恩寵」というのは、神の恵みは私たち人間の思いや意志、そして行動に先立って私たちに働きかけ、導いているということです。ですから、私たちが神を信じクリスチャンになることを決断する、その私たちの決断に先駆けて、神は私たちを恵み、憐れんで下さっていて私たちをキリスト教の信仰に招いていてくださっているのです。 
その「神の先行する恩寵」を、私はこの使徒行伝826節から40節は、異邦人であるエチオピアの宦官が、ピリポによってイエス・キリスト様を信じ、キリスト者となっていく姿が描かれている物語の中に感じられるのです。

 では、なぜこのエチオピアの宦官がキリスト者となる物語に、「神の先行する恩寵」を感じるのか、それは、極めて素朴な疑問から始まりました。それは、エチオピアの宦官とピリポとの出会いの場面から始まります。それは使徒行伝826節から30節に記されています。
 この箇所において、ピリポは神から「立って南方に行き、エルサレムからガザへ下る道に出なさい」と語りかけられ、神の言葉に従います。そこにエチオピアの女王カンダケの高官で女王の財産の管理をしている宦官がいた。そのエチオピア人の宦官は、礼拝のためエルサレムに上り、その帰途であったと聖書は記します。
 そのエチオピアの宦官が馬車に乗ってエチオピアに帰ろうとしているその時に、ピリポは、その「宦官が乗っている馬車と並んで聞きなさい」という聖霊の導きを感じます。すると馬車の中からイザヤ書53章を読んでいる人の声が聞こえてきたのです。そこでピリポは、「今あなたがお読みになっているところのことが分かりますか」と話しかける。すると、エチオピア人の宦官は、自分の馬車にピリポを招き入れた。それが、エチオピアの宦官とピリポとの出会いの出来事です。

 私は、この部分を読んだ時、とても不思議な感じがしました。というのも、このエチオピアの女王カンダケに仕えていた宦官は、どうしてエルサレムに礼拝に行ったのだろうかということが疑問に思え、不思議で仕方なかったのです。しかも、彼は旧約聖書のイザヤ書の言葉を読んでいたというからです。
 そもそも、エチオピアの宦官がエルサレムに礼拝に行った問いこと自体が不思議なことではないですか。礼拝のためにエルサレムに上ったというのですから、この礼拝は聖書の神ヤーウェに対する礼拝です。

 みなさん、先々週もお話ししましたが、ユダヤ教は、極めて民族的傾向が強い宗教です。その様な中で、エチオピア人のしかも女王に仕える宦官が礼拝のために
エルサレムに向かっていくということは一体どういうことなのか。
 一説には、旧約聖書において、列王記上101節から10節にソロモンの知恵を聞きにシバの女王がやって来たという記述があり、紀元1世紀のヨセフスという歴史が、彼の著書「ユダヤ古代誌」で、このシバの女王がエチオピアの女王であったと記されていることから、ソロモンの時代にエチオピアに聖書の神を信じる信仰が伝えられており、それで、この宦官はエルサレムに礼拝に上ったなどと言われることもあるようですが、それはちょっと信ぴょう性に欠ける説だと言わざるを得ないように思われます。
 しかし、いずれにせよ。このエチオピア人の宦官がエルサレムに神を礼拝するために
やって来たというのは、誰かが聖書の神ヤーウェのことをこのエチオピア人に伝えたからです。その意味において、このエチオピアの宦官がイエス・キリスト様のことを信じ受け入れる土壌は、ピリポと出会う前の備えとして、もうすでにできていたと言えます。
 そして、そのエチオピア人の宦官が馬車の中でイザヤ書を読んでいたというのです。この時、この宦官がヘブライ語でイザヤ書53章を読んでいたのかギリシャ語で読んでいたのかは分かりません。しかし、彼は確かにイザヤ書を持っていたのです。

 みなさん、いまの時代の日本においては、私たちは容易に聖書を手に入れることができます。しかし、2000年前のこの使徒行伝の時代には、個人が旧約聖書を持っているということ自体、そうそうあることではありませんでした。その様な中で、このエチオピアの宦官は、預言者イザヤの書を持ち、それを読んでいた。しかも、その読んでいた箇所が53章だというのです。

 みなさんもご存知のように、このイザヤ書53章は、苦難のしもべの歌と言われ、イエス・キリスト様の十字架の出来事を預言している場所であると言われている箇所です。まさに、使徒行伝832節、33節にある言葉は、現代に生きるクリスチャンにイエス・キリスト様を思い出させるような言葉になっています。すなわち

32:彼は、ほふり場に引かれて行く羊のように、また、黙々として、毛を刈る者の前に立つ小羊のように、口を開かない。 33:彼は、いやしめられて、そのさばきも行われなかった。だれが、彼の子孫のことを語ることができようか、彼の命が地上から取り去られているからには。

と預言者イザヤは言うのです。

 もちろん、極めて当然のことですが、預言者イザヤが生きた時代、このイザヤ書が記された時代には、イエス・キリスト様という存在はこの世にお生まれになっておられるわけではありませんから、イザヤ書53章が書かれた時代には、誰もイエス・キリスト様のことなど知りません。ですから、このイザヤ53章に出てくる人がイエス・キリスト様であるというのは、今日の私たちによるイザヤ書の読みであって、イザヤ書の書かれた時代も、またエチオピアの宦官も、このイザヤ書53章に預言された人が誰であるかはわからないのです。 
 ですから、このエチオピアの宦官はこの箇所を読みながら、それをどう読み解いていくか困惑の最中にあるのです。その時に、まさにそのタイミングで神は、ピリポをエチオピアの宦官のもとに送るのです。

 みなさん。私はこのピリポとエチオピアの宦官が出会う物語に、神は、私たちの思いに先立って全てを備えてくださるお方なのだということを感じぜずにはいられないのです。それはまさに、先ほど司式の兄弟にお読みいただいた旧約聖書創世記229節から14節に「主の山に備えあり」と言われているような、あるいは、新約聖書の福音書マタイによる福音書631節から34節のあるように、その時に私たちにとって何が必要かを御存知であり、本当に必要なことを神は、あらかじめ備えてくださるお方である、。

 創世記229節から14節においては、アブラハムが神の言葉に従って、自分の息子イサクを神に奉げようとする行動において、神に対する信仰を表そうとしたその時に、その神に対する従順な信仰を示すために、彼の息子ではなく、その代わりとなる犠牲の動物があらかじめ神によって備えられていたように、私たちの信仰にとって、その時々に必要なものを神はあらかじめ備えてくださっている。だからこそ、私たちは明日のことを思い煩うことはないのです。

 みなさん、時間というものは、日々、刻々と生起してきます。ほんの数分先に何が起こるかということを私たちは確証をもって知ることはできません。もちろん、私たちの経験が、どのようなことが起こるかを予測させることはできますが、その結果がどこに行きつくかという最終的なことは分かりません。だから、明日のことを心配して備えるのです。 
それは、ひょっとしたら起こるかもしれないことに対して最善の対処ができるようにと準備をするのです。しかし、聖書は、明日のことは想い煩うなという。実際、どんなに思い煩っても、明日に何が起こるかは誰も分からないのです。それは神様でも知りえないことかもしれません。明日という時間そのものが、そこに生起していないからです 
 しかし、すべてのことを知りたもう神様は、そこで何が起ころうと、私たちが神を信じる信仰にとって、最も大切で、最も有益な最善のことを私たちにしてくださいます。神は、私たちに何が起こってきても、その出来事に対してどのようにすれば、どのような結末に至るかを知っておられます。その神の全知が、私たちに最善がもたらされるために、すべての備えをもって、私たちを導いて行ってくださるのです。

 まさに、あのエチオピアの宦官がイエス・キリスト様を信じるというもっとも大切な事柄のために、あらかじめ聖書の神を伝え、心を耕してくれた人が備えられていた。そして、預言者イザヤの書が与えられていた。そこには、神の先行する恩寵が働いているのです。その聖書の箇所、すなわちイザヤ書をエジプトの宦官に向かい読み解き語るピリポまでもが、あらかじめ備えられており、あのエチオピアの宦官をイエス・キリスト様の名による洗礼へと導いていくのです。
 まさに、そこに「神の先行する恩寵」があったのです。その私たちの思いや、意志や行動に先立つ神の恵みが、今日も私たちに注がれ続けています。だからこそ私たちは、決して思い煩うことなく、神を信頼し、神に従っていく者となりたいのです。お祈りしましょう。

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