2018年9月30日日曜日

18年9月第5主日礼拝説教「御心を祈る祈り」


2018年09月30日 小金井福音キリスト教会 説教

聖書個所
・詩篇 第33篇 8節~15節
・マタイによる福音書 第26章 36節~44節
・使徒行伝 第1章 12節~14節

説教題 「 御心を祈る 」


 さて、今日の礼拝説教は使徒行伝112節から14節までです。イエス・キリスト様が十字架に架けられ死なれ、三日後によみがえった後、40日間にわたって弟子たちに顕われ、神の国について教えられました。それは、イエス・キリスト様がこの世を去って天に上げられた後に、弟子たちがイエス・キリスト様の権威と力を受け継ぎ、世界中にキリスト様のからだなる教会を建て上げる為でした。

 そして、その40日が過ぎたとき、イエス・キリスト様のお体はオリーブ山から天に挙げられ、雲に包まれ見えなくなってしまいました。完全にイエス.キリスト様のお体はこの世界から去ってしまったのです。これからは、弟子たちがキリストのからだなる教会を建てあげて行かなければない。その時がやって来たのです。

 イエス・キリスト様が天の挙げられたあと、弟子たちは、イエス・キリスト様の昇天があった場所であるオリーブ山からエルサレムに帰ってきます。オリーブ山はケデロンの谷を挟んでエルサレムの街の東側にある小高い丘陵地帯です。標高825mとも言われますが、一般に言われるオリーブ山はこの丘陵地帯の南峰のことだそうで、そちらの標高は808mほどだそうです。シオンの丘の上に建てられているエルサレムが標高760mですから、エルサレムより48mほど高いことになります。

 48mはだいたい20階建てのビルぐらい高さですので、オリーブ山からは十分にエルサレムの街を見下ろせただろうと思います。そのオーブ山から弟子たちはケベロンの谷をむかって山を下り、またケベロンの谷からエルサレムに昇っていく。その道々、弟子たちは何を考え、何を思っていたのか。聖書は何も告げていません。ただ淡々と、オリーブ山は、エルサレムから安息日に歩くことが赦されている距離であった伝えるのです。

 この安息日に歩くことが許される距離というのがだいたい900メートルぐらいですから、確かにオリーブ山はエルサレムからそう遠くはないところにあることが分かります。そのオリーブ山か帰ってきた弟子たち、それはイエス・キリスト様の昇天の出来事を見届けた者たちですが、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマスとバルトロマイとマタイ、そして、アルパヨの子ヤコブと熱心党員のシモン、ヤコブの子ユダの11人がそのメンバーでした。

 この11人は、12弟子といわれるイエス・キリスト様の直弟子たちです。もちろん当然といえばとうぜんですが、そこにはイエス・キリスト様をサンヘドリンの議会に売り渡したユダは入っていません。そのユダを欠いた11人は、宿屋の2階の部屋でイエス・キリスト様の母マリヤやイエス・キリスト様の兄弟たちとでひたすら祈りをしていた人達です。

 このひたすら祈りをしていたと言う言葉を原語を直訳すると、彼らは心を一つにしてともに祈る者であることに固執していた。あるいは心を一つにしてともに祈る者であることから離れなかった。という訳になります。つまり彼らは祈り手であることに専念し、祈ることに常に従事していたと言うのです。

 何をそんなに熱心に祈ったのか。聖書は何も語りません。しかし語らなくても伝わって来る。彼らは、これからイエス・キリスト様にかわって教会を建て上げていく使命を与えられた人たちです。だから、これから教会を建てるのだ。神の国をこのイエス・キリスト様のいない世界に広げていくのだと言う思いの中で祈っている。
そこには不安もあるでしょう、恐れもあるでしょう。よしやってやろうと言う思いもあったに違いない。そのような様々な思いが交錯する中で、彼らがとった最初の行動は、心を一つにして祈るということでなのです。

 教会を建て上げていくためにまず最初にしなければならないこと、それは祈ると言うこと。「いや伝道することではないか」、「福音を伝えることではない」か。そう思われるかたもいらっしゃるかもしれませんが、それは教会を大きくすることであって教会を建て上げることではありません。

みなさん、教会と言う言葉はギリシャ語でεκλλησιία;呼び集められた者の集まり、つまり神に呼び集められた神の会衆の集まりだと言います。けれども、クリスチャンがただ呼び集めら、クリスチャンの集まりができただというそれだけで教会が立て上げられるわけではないのです。どんなに多くの人が集まっていても、それだけでキリストのからだなる教会にはなりません。

たとえば、使徒たちが教会を建て上げて行った使徒行伝の時代、εκλλησιίαと言う言葉は様々な人の集団に使われていました。パウロがエペソで伝道をした際に、デメテリオという銀細工で神殿の模型を作って金儲けをしていた職人が、その同業者たちに、パウロが手で作ったものは神ではないといって自分たちの仕事を邪魔しているとけしかけて大騒動が起こったと言う記事がでていますが、この同業者の集まりもεκλλησιίαと呼ばれるものです。

 ですから、単にεκλλησιίαと言うだけでは教会にはならないのです。そこには教会は教会らしくなければなりません。では教会を建て上げるとして、その教会とはどのようなところか、教会とは言った何なのか。
みなさん、教会は神の王国です。神の王国は神の恵みが支配するところです。ですから、教会には慰めがなければなりませんし、安らぎがなければなりません。もちろんそれは、礼拝や礼拝の説教に慰めや癒しは励ましがなければならないと言うこともありますが、しかし礼拝だけのことではなく教会に来ると、教会の交わりの中に何か気が重くなるとか、心が痛むとか、傷つくと言うことは、本来はあってはならないことです。でも実際にはそういうことがある。

 もちろん、そのようなことは乗り越えられていかなければなりません。そのような教会のほころびは修繕され、より善い教会にならなければなりません。そして、そのような教会になりためには、祈ることが必要なのです。あの宿屋の2階で11人になった使徒たちとイエス・キリスト様の家族たちが心を合わせて祈っていたのは、より善い教会を建て上げるためなのです。イスカリオテのユダがいなくなり、12弟子に一人かけた状態の欠けのある11人の弟子たちが、欠けのない教会を気付き上げるために一つに心を合わせて祈っている。

 みなさん。以前にもお話ししたことがありますのでおぼえている方もいらっしゃるかもしれませんが、私の恩師のひとりであるM牧師が、ある教会に招かれていったときにこのような話があったんだと教えてくだいました。M牧師が、招かれてた教会は、ちょうど教会創立何十周年目かの記念の年を迎えて、教会の皆さんが喜んでその何十周年目かを記念する行事を行おうといくつかの計画を立てた。その中に記念誌を作り、教会の歩みをまとめようではないかと言う計画があったのです。

 それで、教会の青年が中心になって教会の歴史を調べていると、その教会が第2次世界大戦のときに戦争に協力をしてたと言うことが分かった。それで、青年たちは、自分たちの教会の戦争責任を明らかにして、そのことを悔い改める必要があるのではないかと言い出した。そのことが教会の中に微妙な空気を生み出してしまったと言うのです。それは、その教会には、その戦争に協力していた時代の教会の人がまだいらっしゃったからです。
だから、戦争を知らない世代の青年のクリスチャンたちと実際に戦争の時代を生きた世代の年配の方々の間に亀裂が入ってしまったと言うのです。

 そこまでお話になると、M牧師は私に「濱君、その時彼らはどうしたと思う」と質問されるのです。「どうしたと思う」と言われても、私には「話し合いをした」とか「青年が一生懸命説得した」と言ったことしか思い浮かびませんでしたが、みなさんはどうでしょうか。

 しばらくしてM牧師は「濱君、彼らはね祈祷会を始めたんだ。そして共に祈ることを始めた。そうすると自然と問題が解決して、共に喜んでその何十周年目かの記念の時を迎えられた」と言うのです。

 戦争を知らない青年たちは、苦しい戦争を経験してきた世代の人たちの心を思いやる思いやりに欠けていました。また戦争を経験した時代の年配の方々は、自分たちの歩みを振り返り、それを神に問うと言う姿勢を欠いていたのです。そこには。欠けのある教会がある。その共に欠けをもったものが、共に集まり、ともに祈っていくときに、そこに和解が起こり、そしてより善い交わりが築き上げられるようになっていった。心を一つにして祈るということは、そこに和解を生み出すのです。みなさん。心を一つにすると言うことは、言葉にして言うことはたやすい言葉です。たった2文節しかない簡単な言葉です。しかし、実際に心を一つにすると言うことはとても難しいことです。

 一人一人が、様々な思いを持っている。一人一人が自分はこれが正しいと言う答えを持っている。こうすればいいと思っている。これが良いことだと思い確信している。ですから、その様々な思いを一つにすることは簡単なことではありません。どちらかを立てれば、どちらかが立たないと言ったことが実際には起こるのです。そのような違いを祈りは一つにする力がある。なぜならば、祈りは神の御心を求めることだからです。誰かの意見や思いを選ぶと言うことではなく、神の御心を求める。それが祈りを通して一つになると言うことなのです。そして、神の御心を真実に祈り求めるとき、自分の痛みを受け止めることができる。

 みなさん、先ほどマタイによる福音書の2636節から44節までを司式者にお読みただましたが、この箇所は、有名なゲツセマネの祈りの箇所です。このゲツセマネの祈りにおいて、イエス・キリスト様は、ご自身の十字架の死を予見して、父なる神に、願わくば十字架の死と言う苦しみを取り去ってくださいと祈ります。しかし、二度、三度と祈る中で、父よ、あなたの御心のままになさって下さいと言う祈りに代わっていく。

 イエス・キリスト様が、自分の願いではなく神の御心のままになることを求めるということは、神の御心の前に自分自身が十字架の死を負うことを引き受けると言うことです。そこには、痛みがあり、苦しみがある。けれども神の御心を求めるときに、その痛みや苦しみをも引き受ける覚悟ができるのです。

 ですから、みなさん。祈りは人を変えていきます。「できることならこの杯を取り除けてください」という自己中心的な自己実現を求める祈りから、「あなたの御心を行ってください」という神の御心を求める神中心の祈りに代わっていく。そこには、自己中心的な生き方から、神中心的な生き方へと変わっていく人間の姿がある。イエス・キリスト様のゲツセマネの祈りは、そのように変わっていく人間の姿を私たちに教えてくださるものなのです。

 みなさん、神の御心を求めるということで心を一つにしてともに祈るとき、その祈りに加わっている一人一人が神の御心がなされるために、自分自身の思いを神の前に差し出します。自分の思いや願いでなく神の御心がなされることを願い、それゆえに自分の思いや願いを取り下げるという痛みを負うことができるのです。

 あのエルサレムの宿屋に2階には十数人の人が集まっていました。それぞれがイエス・キリスト様から託された使命である神の王国であり、キリストのからだである教会を建て上げるために様々な思いや願いを持っていたでしょう。ただ単にそれをぶつけ合っていたならば、彼らは決して一つにはなれなかったでしょうし、教会が建て上がっていたかどうかは疑わしいものです。けれども、神の御心が成ることをもとめ、神の御心を求めていくとき、心を一つにすることができるのです。

 彼らは心を一つにして共に祈る者であることに固執していた。あるいは心を一つにしてともに祈る者であることから離れなかった。と言う聖書の言葉は、彼らが何を祈り求めていたかを私たちに教えます。そうです。彼らは神の御心を求めていた。それを求める覚悟ができていたから、心を一つにしてともに祈る者であることに固執し、共に祈る者であることから離れなかったのです。

 みなさん、私たちが真摯な思いで神の御心を求め、それを実現しようと努め励むならば、神の御心は必ず実現します。神の御心ならばなるから、私たちは神の御心だけを祈っていればいいと言うことではないのです。ああ、ここに神のお心があるんだ言うことを私たちが掴んだならば、そのお心が地にもなるように、私たちもキリストのからだとして、神のお心が地になることのために努力し務め、励むのです。なぜならば、教会はキリストのからだとして、イエス・キリスト様から権限も力も委譲され、この世で神の業を行う存在だからです

みなさん。先ほどのお読みいたし来ました詩篇338節から11節までは、神のお心は必ず地になされると言います。

   8全地は主を恐れ、世に住むすべての者は主を恐れかしこめ。9:主が仰せられると、そのようになり、命じられると、堅く立ったからである。10:主はもろもろの国のはかりごとをむなしくし、もろもろの民の企てをくじかれる。11:主のはかりごとはとこしえに立ち、そのみこころの思いは世々に立つ。

そのように神のお心が実現するところが本来の教会なのです。そして、神のお心は、私たちにとって喜ばしいことなのです。たとえそこに痛みを伴うことがあっても、それは喜びの知らせをもたらすものです。詩篇を記した新人は言葉を続けます。

12:主をおのが神とする国はさいわいである。主がその嗣業として選ばれた民はさいわいである。13:主は天から見おろされ、すべての人の子らを見、14:そのおられる所から地に住むすべての人をながめられる。15:主はすべて彼らの心を造り、そのすべてのわざに心をとめられる。

 みなさん。教会は神を神とて建てられる神の王国です。そこは幸いな場所であり、神を信じ教会に呼び集められ民は幸いな民です。私たちはそのような民として、この教会に呼び集められ、神の御心を求める心をもって神を王とする神の王国、キリストのからだなる教会を気付き上げる業を担っています。神は、その御心を求める心を私たちに造ってくださるのです。

 私たちは神の王国の民であり、ひとつのキリストのからだなる教会を造り上げるひとり一人です。そして、そのような教会を建て上げるには、まず共に心を一つにして祈ることから始まるのです。

 今日の教会を置かれている状況は、共に心を一つにして祈ると言う場を持つことが難しくなってきている時代です。実際、祈祷会に出席する人が著しく減ってきていると言う現実がある。それは私たちの教会でも同じです。だからと言って、私はみなさんに、祈祷会に出席しましょうと発破をかけるつもりはありませいん。もちろん、祈祷会がさかんになることは良いことですし、祈祷会に出ようと言う気持ちが起こってくることは喜ぶべきことです。

しかし、今の私たちが置かれている環境を考えると、祈祷会に出席できないということもやむを得ないと言う気持ちもあります。ただ、幸いなことは、一つにするのは心です。神のみ心を求める心を一つにするのです。祈る場所を一つにすると言うのではない。そして心を一つにすると言うことは、場所や時間が違っても出来ることです。ですからみなさん、今、こうして小金井福音キリスト教会と言う教会を建て上げている私たちは、まず心を一つにし、神の御心を求めるところか始めてまいりましょう。お祈りします。

2018年9月23日日曜日

2018年09月23日 小金井福音キリスト教会 説教

聖書個所
・列王記下 第2章 7節~14節
・ヨハネによる福音書 第15章 12節~19節
・使徒行伝 第1章 6~11節

説教題 「キリストの昇天と使命を受け継ぐ教会」


 
 今日の説教の中心となるのは。使徒行伝1章6節から11節です。とりわけ、9節から11節のイエス・キリスト様が天に昇られた昇天の出来事に目を向けたいと思います。

 イエス・キリスト様は十字架に架けられ、死んで葬られ、三日目に死人の内からよみがえり、そして天に昇られました。これは、先ほどみなさんと一緒に唱和した使徒信条にもある言葉です。十字架で死なれたイエス・キリスト様が弟子たちの見ている前で天に昇られた。それは、全き神であり、全き人であるイエス・キリストの「この世」での生涯の最後の出来事でした。ところが、このイエス・キリスト様が天に昇られたという出来事を四つの福音書のいずれにも記されていないのです。ただ、ルカによる福音書は24章51節で、わすかにこの昇天の出来事を臭わせている記事が出ているだけです。

 私たちの教団では口語訳聖書を公用聖書として使っていますので、口語訳聖書でルカによる福音書24章51節を見てみますと、そこにはカギ括弧で〔天にあげられた〕と書いてあります。これは聖書の写本の中にこのように書かれたものがあるということで括弧がきで書かれているのですが、おそらくこれは、ルカによる福音書と同じ著者によって書かれた使徒行伝に昇天の記事がありますので、聖書の写本をする段階で、このルカより福音書24章21節の「祝福しておられるうちに、彼らを離れて」と言う言葉は、昇天のことを指しているのだろうと考えて書き加えたのではないかと思われます。そもそも、もともとあったのであれば、削除する必要はないわけですから、書き加えらたと考える方が妥当です。
 いずれにしても、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネのいずれの福音書も、イエス・キリスト様が天に昇られたということに触れていないのです。ただルカだけが、使徒行伝において、このイエス・キリスト様が弟子たちの目の前で天に昇られたという出来事を記すのです。

 人が天に引き上げられ登っていくというようなことは大事件です。なのにルカが使徒行伝の1章9節から11節で取り扱うだけで、福音書はそのことに何も触れないとは一体どういうことかと不思議な気持ちになります。ひょっとしたら、このイエス・キリスト様の昇天の記事はルカが創作した物語ではないかなどと言う思いもしないわけではありません。しかし、だとしたら少なくとも、ルカによる福音書が同じ著者によって書かれているのであるならば、ルカによる福音書でも何らかの形でイエス・キリスト様の昇天に出来事にふれてもよさそうなものです

 ですから、ルカは、あえて意図的にルカによる福音書ではこの昇天の物語に触れず、使徒行伝だけに書き記したと思われます。そういったわけで、福音書に全くイエス・キリストの昇天の記事がないからと言って、その史実性を問題にしたり、軽視する必要まったくありません。それは、神の言葉である聖書が書きしている出来事なのです。神様が、ルカを通して、神の言葉としてイエス・キリスト様が使徒行伝の1章9節から1節を通してイエス・キリスト様が天に昇られた記事を書き記したのです。この昇天の出来事を書き記させたのも神様であるなら、この昇天の記事を福音書に書きとどめられなかったのも神様です。ですから、福音書には何の記述もなく使徒行伝だけに書き記されているという現象も、そこには何か神様の深いお考えがあると考えるべきです。

 では、その神様のお考えとは一体何か。考えますに、おそらく、福音書において昇天の出来事が取り扱われることがなかったのは、福音書というものの関心が、「この世」にあってイエス・キリストがいかに生きたかということを伝えることにあるためであろうと思われます。そのような視点においては、イエス・キリストがいかに「この世」を去ったかは関心の外の出来事です。
 しかし、使徒行伝の関心は違います。使徒行伝の関心は、「この世」にあってイエス・キリスト様がいかに生きられたかではありません。イエス・キリスト様が去った後に、どのように教会がこの世界に形成されていったかと言う歴史を記すというところに使徒行伝の関心がある。

 このような視点に立つとき、昇天の出来事は極めて重要な意味を持ってきます。というのも、イエス・キリストの肉体が「この世」を去られて天に帰られたがゆえに、この地上には、「キリストのからだなる教会」が建て上げられていくからです。
 みなさん、仮にイエス・キリストがこの地上に居られる限り、「キリストのからだ」は、今日のユダヤ地方、それはパレスティナの一地方ですが、その場所に縛られます。そしてその行動の範囲も限定されてくる。それに対して、イエス・キリストが昇天し、天にあげられたイエス・キリストと入れ替わるように聖霊が下り、その聖霊の働きによって、教会が「エルサレム、ユダヤとサマリヤ全土、さらに地の果てまで」(使徒一・八)イエス・キリスト様が証され、「キリストのからだなる教会」が建て上げられ行くとき、イエス・キリスト様の「からだ」は世界中に存在し、神の国が世界中に広がっていく。なぜなら、イエス・キリスト様ご自身が神の国だからです。 

 使徒業伝はまさにそのことを伝えるのです。そういった意味で、まさにこの昇天の出来事こそが、世界中に広がるキリスト教会設立にとっての重要なターニングポイントとなるのです。

 肉体をもって復活したイエス・キリストは、四十日にわたって弟子たちに神の王国について教えられた。それは、まさに使徒行伝が最初に伝えたことです。その神の王国は、神の恵みが支配する国です。そしてその神の恵みの支配は、まずイエス・キリストご自身の内に成就した。
 ですから神の王国とは、イエス・キリスト様ご自身であると言えるのです。その神の王国が「キリストのからだなる教会」に受け渡され、受け継がれていった。それが、イエス・キリストの昇天の出来事を機に行われたのです。だから、ルカは使徒行伝で、このイエス・キリスト様の昇天の出来事を伝えずにはいられなかった。いや伝えなければならなかったのです。そうしなければ、教会が教会である根拠を明らかにすることができないのです。

 みなさん、聖書において、イエス・キリスト様以外に天に昇ったという表現がなされる人物はほとんどいません。わずかにエノクとエリヤのみなのです。その中でエノクについていえば、創世記5章24節が、アダムの系図を書き記す中で「エノクは神と共に歩み、神が彼を取られたのでいなくなった」と伝えるだけで、聖書それ自身はエノクが天に昇ったということについて何も語っていない。ただ、へブル書11章5節に「エノクは天に移された」といってエノクの天に昇ったという出来事を示唆するのです。このようにへブル書が聖書ん書かれていないエノクの昇天について言及するのは、おそらくそれはエノクについての伝説的物語によるものであると考えられるます。
 
 実際、エノクについての伝説がいくつかのものが伝えらていたようです。その中に確かに、エノクが生きたまま天にあげられたということを伝える伝説がある。しかし、仮にこのへブル書11章5節がエノクに対する伝説的な物語に立って述べられたとしても、へブル書自身が、この11章5節で指し示していることは、使徒行伝にあるイエス・キリスト様の昇天とは、少々意味合いが違っている。と言うのもエノクの昇天を伝えるへブル書の意図は、神に忠実に生きた者に対して与えられる祝福を提示するということであって、その持つ意味は神の国が受け渡されていく転機としてのイエス・キリストの昇天とは性質が異なるものです。

 それに対して、先ほど司式の兄弟にお読みいただいた列王記下2章にあるエリヤの昇天の記事は極めて興味深い内容です。と申しますのも。このエリヤの昇天の記事は、単にエリヤが天に昇ったという物語を伝えるだけでなく、むしろエリヤの昇天の物語を用いながら、そこにエリヤの権威と使命がエリヤからエリシャへ受け渡されるという権威と力と使命の委譲の物語が語られているからです。

 この権威と使命の受け渡しの物語は、エリヤがその弟子エリシャとの別れを告げるところから始まります。エリシャは自分がこの世を離れるということをどうやら薄々感じていたようです。ですからエリヤは自分の愛弟子のエリシャに別れを告げようとする。その別れを告げるエリヤに、エリシャはエリヤの霊を継がせてほしいと求めるのです。
 このエリシャの求めにエリヤは具体的に答えることはありませんでしたが、ただエリヤがつむじ風に乗って天に昇ったあとにエリヤの外套が残される。この外套は、エリヤとエリシャの別れの場面の直前に、エリヤがその外套でヨルダン川の水を打ち、水を二つに割ってヨルダン川を渡った。その外套が残された残されたのです。

 みなさん、エリヤが水を左右二つに分けたという物語はモーセの紅海渡歩やヨシュアのヨルダン渡歩の物語を思わせます。そして、エリヤがヨルダン川を左右に分けたという出来事は、エリヤの預言者としての権威と力が、あのモーセやヨシュアに匹敵するものであることを私たちに教えます。いえ、単に匹敵するという比較の問題ではない、何よりも、この川の水を二つに分けた行為によって、エリヤの預言者としての権威と力、それはモーセからヨシュアに受け継がれた神の人の持つ権威であり、力であると、私たちに語りかけてくる。

 エリヤの外套は、そのモーセからヨシュア、そしてエリヤと受け継がれてきた神の人の権威と力の象徴です。そのエリヤの外套が残され、それをエリシャが受け継いだ。この外套を受け継いだエリシャがエリシャのように水を打つと、エリヤの時と同様に、水が左右に割れたました。この水が左右に分かれたという出来事の後、エリコにいる友人をエリシャが訪ねますと、その友人はエリシャをみて「エリヤの霊がエリシャの上に留まっている」と言う。こうして、神の人エリヤの権威と力はその愛弟子エリシャへと受け渡されていったのです。そして、そこからエリシャが預言者としての使命に立つ。
 
この権威と力の委譲の物語は、イエス・キリスト様の昇天の物語において、再び物語られます。それはイエス・キリスト様の神の子としての権威と力が、キリストの権威が、イエス・キリスト様に従う弟子たちの群れである教会への受け渡されて浮く委譲の物語です。それはイエス・キリストの昇天の物語は、聖霊降臨の物語と相まって、イエス・キリストの霊を覆う外套のごとき肉体が、「キリストのからだなる教会」となって具体的に存在するものとなったことを私たちに伝える物語なのです。

 だからこそみなさん、「キリストのからだなる教会」はイエス・キリストを頭に抱き、全き人となった神の子であるイエス・キリストの権威と力を与える聖霊の力を受けて、「この世」にある神の王国としてキリストの業を行うのです。イエス・キリスト様が天に昇られたという物語は、単にイエス・キリスト様の「この世」というこの地上での働きが終わったという終わりの物語ではありません。

 イエス・キリスト様の権威と力とが教会という「キリストのからだ」に譲渡され、教会が「キリストのからだなる教会」としてキリストの業を行う使命の立つものとなった始まりを伝え、それが今も受け継がれていることを伝える物語なのです。というのも、イエス・キリスト様が天に昇られたその場所には、白い衣を着たふたりの人がおり、弟子たち「イエス・キリスト様が天に昇られたように、再び来られる」というキリストの再臨を思わせる言葉を伝えているからです。

 もちろん、その再臨の時がいつになるかは私たちには分かりません。しかし、イエス・キリスト様ご自身が再び来られる問うのですから、その時が来るまで、教会はイエス・キリスト様から受け継いだキリストの業を行っていかなければなりませんし、行っていくのです。イエス・キリストの昇天の出来事は、教会がイエス・キリスト様の働きを受け継ぎ行うものとなった始まりの出来事であり、イエス・キリスト様が再び「この世」に来られるまで、その働きを続けていくのです。
 そのキリストの業とは、キリストの受肉と十字架と復活において表されたキリストの全生涯であるといえます。そしてそのイエス・キリスト様の全生涯は愛で貫かれていた。

 みなさん、先ほど司式の兄弟にお読みいただいたヨハネによる福音書15章12節から19節の言葉を思い出してほしいのです。みなさん、このヨハネによる福音書の14章、15章、16章は、イエス・キリスト様が十字架に架かって死なれる前に最後に語られた告別説教であると言われる箇所です。そこでイエス・キリスト様は、後にキリストのからだなる教会を築き上げていく弟子たちに向かって語られたのです。

 その告別説教の中で、イエス・キリスト様は弟子たちに戒めとして語られたないようが、15章12節から19節です。そしてその教えの内容が「わたしが愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」です。単に「愛し合いなさい」というのではない、「わたしが愛したように、互いに愛し合いなさい」と言うのです。
 まさに、「愛する」というイエス・キリスト様の業を受け継いで愛し合う。だからこそ、「人がその友のために命を捨てること、これよりも大きな愛はない」と言うのです。それは、イエス・キリスト様が私たちを罪の支配から解放するために十字架の上で命を投げ出した愛です。その愛を模範とし、その愛に倣い、その愛を受け継いで愛しなさいと言われる。そのために、あなたがたを選んだのだとイエス・キリスト様は語るのです。

 その友のために命を捨てる愛、そのような愛をもって愛し合うということは、到底できないと思うほど難しことです。それができるとイエス・キリスト様は言われる。もし、私たちが「この世」のものなら、確かにそのような愛で愛することはできません。でも、神にキリストの弟子として選ばれているのです。そして、選ばれて新しい神の民として生まれ変わっているのです。そして生まれ変わっているからこそ、それができる。また、出来るように権威も力も、そして助け主なる聖霊さえも与えてくださっているのです。

 あの告別説教で、イエス・キリスト様は、「この世」はあなたがたを憎むとと言われます。それは、命を捨てるまでにとも愛するイエス・キリスト様を「この世」が憎むからです。イエス・キリスト様を憎んだ「この世」は、「キリストのからだなる教会」が、そしてその「からだなる教会」に結び合わされた弟子たちにイエス・キリスト様の権威と力を譲渡されたから憎むのです。
 それほど、教会は大きな力と権威を教会は受け継いでいるのです。それはつまり、私たちが受け継いでいるということなのです。それほどまでに、イエス・キリスト様は私たちを信頼して下さり、私たちにご自身の業を委ねてくださっている。

 イエス・キリスト様の十字架の死が、神様とイエス・キリスト様の私たちに対する愛の証であるとするならば、イエス・キリスト様の昇天は、神様とイエス・キリスト様の私たちに対する信頼の証であると言えます。
 
 そのように、互いに愛し合い、支え合い、神をほめたたえつつ、宣教の業に励むというキリストの業を生きる教会、それが使徒行伝全体に貫かれている教会の姿です。そしてその姿は2000年前の教会の姿と言うだけではなく、今日の教会にも求められている姿です。

 みなさん、キリスト教会の歴史は、この使徒行伝の時代から2000年の時が立っています。その間、教会は失敗もしてきましたし、過ちも犯してきた。その都度、教会は自らの在り方を反省し、改革を行ってきました。そのような教会の改革がなされるとき、しばしば、スローガンとしてかかげられる言葉は、「初代教会に帰ろう」ということです。

 初代教会と言う言葉は、今日の厳密さを求められる神学の世界では使い方に注意を必要とする言葉になっていますが、要は、使徒行伝の時代のような教会に帰ろうと言うのです。それは、まさにイエス・キリスト様の権威と力を委譲され、神の愛によって一つに結ばれた、神の愛を実践していた教会です。

 みなさん、私たちは、神の民となり、キリストの愛の業を実践するものとして神に選ばれているのです。キリストの愛を実践する「キリストのからだなる教会」を建て上げる者として召されているのです。そのことを覚え、私たちの信仰に誇りをもって、キリストの愛の業を行い、証しするものとなっていきましょう。それは、互いにいたわりながら、そして思いやりながら歩むあゆみに中に現れてくるものなのです。
お祈りしましょう。

2018年9月16日日曜日

2018年9月16日 小金井福音キリスト教会 説教

聖書個所
・サムエル記上 第12章 7節~18節
・ルカによる福音書 第24章 44節~53節
・使徒行伝 第1章 1節~11節


説教題 「 神の王国の証人 」




 先週は、一週間の夏休みをいただきましたが、先々週の礼拝において、一応ルカによる福音書からの説教は一区切り致しました。一応と申しましたのは、今週から、使徒行伝を中心として連続して御言葉を取り次いでいくからです。

 では、なぜ、ルカによる福音書からの説教が使徒行伝からの説教に移り変わることが一応になるのかと申しますと、この二つの書が同じ著者によって書かれたものであり、使徒行伝はルカによる福音書の続編といった意味合いがあるからです。もちろん、ルカによる福音書も使徒行伝も、それぞれが独立した書物として完結したものです。ですからこの二つの書は、一つの物語が二つに分断されて記されているというわけではありません。しかし、この二つの書は、その主題や歴史観、神学的理解において一貫しており、共通しているのです。 
 その共通性というのは、イエス・キリスト様によって神の国、それはイエス・キリスト様を王とする神の王国がこの世界に到来し、それが、ユダヤから始まり、サマリヤ、そして地の果てまでと言ったふうに世界に広まっていくのだということです。 そして、それぞれが完結しつつも主題や神学、歴史観が一貫し、共通している二つの書物を結び合わせている箇所が、今日の聖書個所である使徒行伝11節から11節までとルカによる福音書244453節なのです。

 この二つの書物における接続部分は、イエス・キリスト様が十字架に架けられ死なれた後に、3日の後に復活なされ、弟子たちに現れ弟子たちを教えられ、天に昇られたということを記しています。それに対して、ルカによる福音書は、イエス・キリスト様がよみがえられたその日の出来事に集中して書かれているのに対して、使徒行伝の方では、40日にわたって、弟子たちに現れた出来事について書かれているという点で違いがあります。また、イエス・キリスト様が天にあげられる様子などが、使徒行伝の記述がより詳細です。
 そして、イエス・キリスト様が弟子たちに教えられた内容は、ルカによる福音書はイエス・キリスト様が「苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえられ、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ということであり、あなたがたはエルサレムから開始して、これらの証人になるというものであったのに対し、使徒行伝は、40日の間にわたって神の国について教えられたとなっています。

 もっとも、先々週の創立記念記念礼拝の説教で、お話ししましたように、イエス・キリスト様が、「苦しまれ、三日目に死人の中からよみがえり、罪の赦しを得させる悔い改めがあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ということは、イエス・キリスト様の十字架の死と復活によって、「キリストのからだなる教会」がこの世界に打ち建てられたということを意味しています。罪の支配に縛り付けられていた私たちが、イエス・キリスト様によってもたらされた神の恵みが支配する「神の王国」に迎え入れらるのです。それが福音の中心にあるメッセージです。

 その神の王国についてイエス・キリスト様は40日間の間にわたって弟子たちに教えられたのです。それは「キリストのからだなる教会」こそが、具体的に「神の王国」を目に見える形で表すものだからです。ところが、弟子たちは「主よ、イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか」という的外れな質問をします。
 この弟子たちの質問は、弟子たちがイエス・キリスト様から神の王国について教えられているのも関わらず、彼らはイスラエル民族によって構成されるイスラエルの国が復興されることだと考えてたことを示しています。つまり、彼らは、イエス・キリスト様のもたらす神の王国というものが何であるかということがわからなかったのです。

 ではみなさん、そもそも神の王国とは、いったいどのようなものなのでしょうか。
 
 聖書において、この地上に具体的に現れる神の王国というもについて最初に言及された箇所は、サムエル記上の記述に見ることができます。中でも先ほど司式の方にお読みいただいたサムエル記上127節から18節、旧約聖書pp.397398になりますが、そこには、神の王国というものの本質が記されていると言ってもよいでしょう。

 そもそも古代イスラエルの国を構成していた12の部族は、アブラハムの12人の息子につまがる家系につながる人々です。そのイスラエルの12部族が、アブラハムにとって孫にあたるヤコブの時代に飢饉を逃れてエジプトに移り住みました。エジプトでも生活は最初は良かったのですが、そこは移住してきた民族です。やがて子孫が増え広がっていく中で疎んじまれ、奴隷とされ支配されててしまいます。
 その苦しみの中で、神はモーセを遣わしエジプトに支配されていた中から救い出し、ヨシュアがそのイスラエルの民を神の約束の地であるカナンの地、今日のパレスティナ地方に導き入れて下さった。ここに古代イスラエルの国の起源があります。そして、その地で、それぞれの氏族が割り当てられた土地で独立してその地を治めるようになったのです。ここに古代イスラエルの国の起源があります。しかし、その国はまだ王政であありません。
 イスラエルの12部族は、それぞれが独立自治をおこなっていました。そして、何かしらの法律的な問題が起こった際には士師と呼ばれる裁き司がその問題に対処していました。その士師たちの中には、他民族や他の国からイスラエルの民が襲われたときには軍事的なリーダーとなって、他民族や外国との闘いを指導した人たちがいました。ギデオンやサムソンと言った人たちです。そのような士師たちの働きが記されているのが旧約聖書の士師記ですが、イスラエルの民は、そのような士師記の時代から王政へと移っていきます。彼らが、イスラエルの民自身が、12氏族がそれぞれ、独立自治を為すいわば合衆国のような形態ではなく、ひとりの王を建て、その王の権限の下でまとめ上げられた中央集権的な国家形成を求めたからです。

 なぜ、イスラエルの民がそのように王を求めたのかということについてはいろいろな事情があったのだろうと思いますが、士師の時代のイスラエルの国は、周りの民族や国々から攻め入られたとき、そのつど12の氏族から人々が寄せ集まり、言わば民兵のような集団を作り敵に立ち向かっていました。寄せ集めの民兵ですから、決して強くはない。それに対して、イスラエルの国の周辺では、王を建て、軍隊が整備することによって軍事的に強い国家が起こってきたという背景もあったでしょう。
 また、サムエル記8章に見られるように、それまでサムエルやサムエルの預言者としての師であるエリのような預言者がイスラエルの民の裁き司としてイスラエルの国を導いていましたが、その後継者に指名されたエリの息子やサムエルの息子たちが、イスラエルの民を裁く裁き司にふさわしくない言動をしていたこと目撃していましたので、もう預言者に裁き司を任せられないという思いがあったのかもしれません。

 いずれにせよ、彼らはイスラエルの民の上に軍事的に強力な指導者となる王を建て、その王によって導かれる国家形成を目指したのです。つまり、そのように王を立てることは、イスラエルの民の側、いうなれば人間の側から出た求めであり要望でした。それに対して、神は、イスラエルの民に王を建てるということを望んではいなかったのです。
なぜならば、イスラエルの民の王は神ご自身だからです。イスラエルの民、それは神の民と言ってもいいでしょう。神の民は、神ご自身が王となられて、その民を治めるからこそ神の民なのです。ですから、人間の側が求め、その求めによって王を建てるということを神は望んでいなかったのです。 

けれども、イスラエルの民があまりにも強く人間の王を求めるので、神はサウルという人物を王としてお与えになった。そのサウルが王となり、イスラエルの民の上に王を立てて、その人間の王によって治められる王国を築i立つのです。その王国を築くにあたって、新しく築かれる王国が神の王国が神の王国となるために神は預言者サムエルを通して神の王国の本質を語ります。それが、まさにこのサムエル記上127節から18節までに記されている。 
そこでサムエルは、語ったことはイスラエルの民の歴史です。それは神がイスラルの民をお救いになった救いの歴史です。具体的には、奴隷となっていたエジプトの国から導き出し、神がカナンの地をイスラエルに与えたという解放の歴史であり、また、そのような救のわざに与ったのにもかかわらずイスラエルの民が神を忘れててしまいバアルやアシュタロテといった他の神々を崇めるようになり、周りの国から攻め込まれるという苦難を経験する中で、イスラエルの民が神に立ち帰り、神を呼び求めるようになった時、神が士師たちをたててイスラエルの民を救われたという歴史です。サムエルは、そのように神の救いの歴史を示し、神がイスラエルの民を神の恵みの元で導いてこられた歴史を示すながら、次のように言うのです。

13:それゆえ、今あなたがたの選んだ王、あなたがたが求めた王を見なさい。主はあなたがたの上に王を立てられた。14:もし、あなたがたが主を恐れ、主に仕えて、その声に聞き従い、主の戒めにそむかず、あなたがたも、あなたがたを治める王も共に、あなたがたの神、主に従うならば、それで良い。15:しかし、もしあなたがたが主の声に聞き従わず、主の戒めにそむくならば、主の手は、あなたがたとあなたがたの王を攻めるであろう。

 ここで言われていることは、一言でいえば、イスラエルの民も、また王となった者も神の言葉に従うのであれば、人を王として立て王国をた築くということも良いであろうということです。しかし、神の言葉に聞き従わないというようなことになるならば、その王国は神に撃たれ、神の子らしめを受けることになるということです。つまり、神がお建てになった王国は、たとえ人が王となっていようと神の王国なのであって、その神の王国は、人々が、神に従う道から外れず、心を尽くして主に従う(1220)者たちの国なのだということなのです。その神の王国では王であろうと一般の民衆であろうと、神に聞き従う者となる。そのような者たちが集っているところに神の王国が築き上げられるのです。

 それは、イエス・キリスト様が「この世」にもたらした神の王国においても同じです。ところが、イエス・キリスト様の弟子たちは、そのことがわからなかった。だから、ローマ帝国の支配のもとにおかれ、実質は失われてしまったイスラエル民族の王国がイエス・キリスト様が王となることで復興することを願い、「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」とたずねるのです。

 この問いは、これからその弟子たちによって、エルサレムから始まって、ユダヤとサマリヤの全土、更に地の果てにまで、イエス・キリスト様によってもたらされた神の王国である「キリストのからだなる教会」をお建てになろうとなさっているイエス・キリスト様にとっては、なんともがっかりするような質問だった妥当と思います。けれども、そのようにイエス・キリスト様が語られる神の国の教えを理解することができずに的外れの質問をする弟子たちに、イエス・キリスト様は、こう言われるのです。

7:時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。8:ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう

 確かに、弟子たちはイエス・キリスト様の言うことが理解できないでいる。けれどもみなさん。そのような弟子たちなのではありますが、その弟子たちに聖霊なる神様が下り、彼らが聖霊を受けるとき、力を受けて、「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたし(すなわちイエス・キリスト様)の証人となる」というのです。
 「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで」というのは、地域や民族を超えてすべての国のすべての人にということです。それこそ、すべての国、すべての人にイエス・キリスト様のもたらした神の王国の到来という善い知らせ告げ知らせ、そしてその神の王国が、「この世」という世界に目に見える形で現れ出た「キリストのからだなる教会」を建て上げていくというのです。

 当然その時には、イエス・キリスト様の弟子たちは、もはやイエス・キリスト様が語られた神の国の教えについて理解できないも者たちではありません。ちゃんと理解してわかっているのです。わかっているからこそ、伝え、教え、「キリストのからだなる教会」を建て上げて行ったのです。つまり、弟子たちが、聖霊を受けるとき、力を受けるというのは、宣教する力を受けると言うだけでなく、イエス・キリスト様の語られたこと、聖書が語っていることを理解する力を得るということでもあるのです。

 みなさん。お恥ずかしいことなのですが、末席ではありますが、私も牧師という職務に与っている。牧師という仕事は何をするかというと、それは様々なことがある。それこそ牧会という名の下でなさる様々なことがあります。説教をすること、礼典を執行すること、伝道をすることと様々です。
 そう言ったわけで、私自身、ときどき自分は何をやっているのだろうかと自分のやっていることが分からなくなってしまうようになってしまう一瞬があります。しかし、そのような中、様々な働きの根底にあってもっと大事なことは、神の言葉である聖書の言葉を学び、信仰というもの向き合い、考えるということではないかと思っています。ちょっとカッコよく言うならば、神学をするということです。ですから私のモット―は「牧師は神学者たれ」ということです。
 そんなわけで、自分なりに一所懸命、聖書を学び、キリスト教の歴史を学び、教理を学ぶということを続けているのですが、こと聖書を学び信仰について考えていくと、本当に信仰とは奥深いな、聖書の言葉は本当に奥が深いなと思わされます。それこそ、聖書の言葉を解釈し理解して、それをもって信仰ということを語るということはとても大変なことです。

 ところが、その聖書の言葉が、すっと心の中に入ってきて腑に落ちるということがある。本当なら、まずは聖書を解釈をする、釈義をすしてから、聖書に書かれていることを理解するという作業をしていきます。それこそギリシャ語やヘブル語を調べたり、歴史的背景をしらべたりするといった、極めて時間と手間暇がかかるようなことを積み重ねて聖書の言葉を理解していくのです。ところが、そんな作業をすっ飛ばして、聖書の言葉がすっと心のに入る混んできて、聖書が私に何を語ろうとしているかがわかる一瞬がある。
 みなさん、そんなことはないですか。それまでなかなか理解できなかった聖書の言葉がふっと心に開かれて分かったと思うようなことがないでしょうか。私は、そのようなときに、ああ、聖霊なる神様がおしえてくださったんだな、わからせてくださったんだなと聖霊なる神様の働きを感じるのです。そしてそれが、クリスチャンとして生きて行く力になる。問題や試練を乗り越えていく力になる。

 当たり前のことですが、それが、普遍的真理であるとか聖書の解釈・釈義として妥当であるかどうかといったことは別の話です。私個人に聖書が語りかけてくださったということと、聖書を釈義し解釈するということは別のも代です。そのような私個人に関わることだけでなく、他の人や教会にもおよぶ問題について、聖書が何を語っているかという問題は、、最終的には聖書の解釈や釈義と言った学問的手続きをもって検証されなければなりません。しかし、聖書が「私」という一人の人間にがいかに生きてくかという問題においては、神は聖霊なる神をお持ち稲荷、「私」という一人の人間に語りかけ、慰め、力を与え、この「私はどう生きるべきか」ということに決断をする力を与える。これは、学問的手続きや神学を超えた聖霊なる神様の豊かな働きなのです。
 みなさん、聖霊を受けるとき、力を受けるということはそういうことなんだと私は思う。そして、そのようにして神の前に生きている一人一人が、私に語りかける神の言葉に従い生きるとき、それがキリストを証しするということです。そして、そうやって一人一人が神の言葉に聞き従っいながら寄り添って生きていくところに「キリストのからだなる教会」が建て上げられていき、神の王国が著されていくのです。

 もちろん、聖書の言葉が私に語りかけたという経験は、私という一人の人の主観の中で起こること、平たく言えば私の心の中で起こることですから、私のも思い込みや、自が願っていることを聖書の中に読み込んでしまっているという危険性もあります。そういった時こそ牧師に頼っていただければと思います。牧師はそういった時のために、「この世」にある仕事から離れ、聖書を学ぶことに専念し、「神学者たれ」という生き方をしているのですから。だから、そのようなときは頼って下ればと思う。

 けれども、だからと言って、恐れることはないのです。聖霊なる神は、私たしに大胆に働きかけ、大胆に聖書の言葉分からせてくださり、私たちを慰め、励ましてくださいます。そして、私たちをキリストの証人として用いて下さり、「キリストのからだなる教会」を通して神の王国を伝え示すものとしてくださるのです。
 使徒行伝は、そのようにしながら宣教の業が広がり、教会が建て上げられていき、神の王国が「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで」という、地域や民族を超えてすべての国、すべての人伝えられていった宣教の報告書なのです。そして、その宣教の報告書はまだ完結していません。私たちがその未完の宣教報告書に書き加えていくのです。ですから、私たちはその未完の宣教報告書を完成させていくためにキリストの証人として生きて行こうではありませんか。お祈りします。

2018年9月10日月曜日

キリストの復活の上に立つ教会


189月第1主日、第2回創立記念聖餐式礼拝    2018.9.2
説教題「キリストの復活の上に立つ教会」

旧約書:ネヘミヤ記81節から8節(旧約聖書pp.6749
福音書:ルカによる福音書2444節から53(新約聖書p.134)
使徒書:コリント人への第一の手紙151節から9節(新約聖書pp.273247

 今日は、私たちの教会が小金井福音キリスト教会として出発して2回目の創立記念礼拝です。201691日に、旧三鷹キリスト教会と旧キリスト信愛会小金井教会が統合され、一つの教会として「再生」された日です。

 その統合されたことを記念し感謝するこの今日の礼拝の説教を、いったいどの聖書個所からすればよいのか、少々迷いました。普段ですと、決められた手順によってあらかじめ決まっている聖書個所から説教の準備をするのですが、今日は逆に創立記念礼拝という説教の枠組み決まっています。いうなれば語るべき説教のお題があらかじめ決まっている。ですからその枠組みに応じてふさわしい聖書個所を選ばなければなりません。
もちろん、選ぶとはいっても勝手に偉くのではなく祈りつつ選んでいくのですが、最終的には、いつもの礼拝と同じように、前の週に説教しました聖書個所に続く箇所からお話しさせていただくようにと導かれました。ですから、ルカによる福音書2444節から53節までの箇所にある神の言葉に耳を傾けたいと思います。だからといって、創立記念の感謝と言うお題を無視したと言うわけではありません。いろいろと考えあぐねていく中で、この箇所こそが今日の創立記念礼拝にふさわしいと思いに導かれていったのです。

そのように導かれたこのルカによる福音書24章全体は、イエス・キリスト様の復活に関する3つの物語が綴られている章であり、この44節から53節は、その締めくくりの章です。
では、なぜそのイエス・キリスト様の復活の物語が、教会の創立記念の礼拝にふさわしいのでしょうか。それは、教会が復活なさった「キリストのからだ」だからです。この「教会はキリストのからだである」ということは、エペソ人への手紙123節でいわれていることです。そこにはこうあります。

   この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。

 このように、「教会はキリストのからだ」であるといっていますが、それは何もお題目的に「教会はキリストのからだ」といっているのでもなく、また神学的概念として、教会というものを比喩的・抽象的に言っているのではありません。教会とは、まさに十字架で死なれたよみがえられたイエス・キリスト様ご自身なのです。

みなさん、先週、私たちは同じルカによる福音書2433節から43節の御言葉から聖書を説き明かす説教の言葉を聞きました。そこで語られたのはイエス・キリスト様は霊だけではなく肉体をもって復活なさったお方だと言うことです。だからイエス・キリスト様は弟子たちが差し上げた魚を食べになった。よみがえられたイエス・キリスト様はこの世界に具体的に体をもってよみがえられたのです。
しかし、そのイエス・キリスト様は、今日の聖書個所の50節から53節のあるように弟子たちから離れていかれたのです。この弟子たちから離れていかれたという言葉は、イエス・キリスト様が天に昇られたという事態を指し示しているのだろうと思われます。ですから、私たちが用いている口語訳聖書では括弧書き(〔〕)ですが、天に昇られたと書かれている。つまりこの地上にはもはや復活のイエス・キリスト様の肉体は残されていないのです。では何が残されたのか。教会です。みなさん教会が、復活のイエス・キリスト様の体として残されたのです。

そうです。教会が復活のイエス・キリスト様の「からだである」。たとえば、みなさん。マタイによる福音書の1820節には「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」とあるでしょう。そのようにイエス・キリスト様と深く結びあわされた一人一人が集うところに、実体としての教会という「キリストのからだ」があるのです。そしてその「キリストのからだなる教会」は、具体的にイエス・キリスト様の業を行うのです。

 みなさん、さきほど「教会はキリストのからだである」と言うお言葉は、エペソ人への手紙123節にあると申しましたが、その同じエペソ人への手紙220節から22節には次のように書かれています。

21またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。21:このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、22:そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである

 ここでは、イエス・キリスト様は隅のかしら石であると言われていますが、隅のかしら石とは、建物の土台の中で最も重要なもので、二つの壁がその隅のかしら石に寄りかかりながら、互いの重さを隅にかしら石によって支え合って立っているのです。ですから、その隅のかしら石をとってしまうと、建物は崩壊してしまうのです。 
 そういった意味では、、隅のかしら石は建物のかなめと言ってもいい。その教会のかなめであるイエス・キリスト様に私たしひとりひとりのクリスチャンが寄りかかっている。そのように、ひとりひとりがイエス・キリスト様に結びつき寄りかかることでイエス・キリスト様と一つに結ばれ、また一つの教会として結ばれているのです。考えてみると、教会の重要な儀礼である礼典は洗礼と聖餐は、イエス・キリスト様と一つということを表す礼典であるといえます。

 昔、私が聖書学院の修養生だったころ、聖書学院の教授だったK先生が洗礼について、洗礼と言うのは、穴の開いた敗れたバケツを水に浸けるようなものだと言っておられました。穴の開いた敗れたバケツは、バケツとしては役に立たない。水をためることができないからだ。しかし、そのんな役立たずのバケツも水につけて浸すと水と一体になってその内側には水が一杯になっている。そんなもんだと言うのです。つまり、私たちひとり一人は、穴の開いたバケツのようなもので神の前には役に立たないものだが、洗礼によってイエス・キリスト様と一つになることで、イエス・キリスト様のとって役立つもの、イエス・キリスト様の業をなすものとなることができるのだと言うことです。
 また、聖餐については、次にようにも言っておられた。それは、古代イスラエルにおいては、何か契約を結ぶときに共に食事をした。それは同じ食べ物を食べ、同じ飲み物を飲むことで、契約を結んだ両者に同じ肉ができ、同じ血が流れようになると考えた。そのように契約を結んだ二人が同じ体同じ血を持つ一つのものとして結ばれている。聖餐式はそのこと土台として、私たちひとり一人がイエス・キリスト様の新しい契約によってイエス・キリスト様と一つに結ばれ、またそのイエス・キリスト様を通して私たちひとり一人も互いに一つに結ばれているということを繰り返し味わい、経験することなのだと言うのです。 
 もちろん、洗礼と聖餐には、K先生が教えられた意味よりもっと多様な意味があります。しかし、まあ修養生の一年生を教えている中で言葉ですので、多くの側面をのでは教え語り聞かせるなく、わかりやすく一つのことだけを教えられたのでしょう。いずれにしても、聖餐と洗礼という礼典は、私たちがイエス・キリスト様と一つに結ばれていると言うことと密接に関わっているのです。そして、それによってまた、私たちひとりひとりもイエス・キリスト様を中心にして、イエス・キリスト様によって教会という「キリストのからだ」を造り上げていくのです。

 みなさん、私は、さきほど実体としての「キリスとのからだ」を造り上げていくと申しました。そして、その「キリストのからだなる教会」は、キリストの業を行っていくと申し上げました。しかし、私たちがキリストの業を行っていくとしても、行う業がキリストの業である以上、イエス・キリスト様のことを知らなければなりません。私たちがイエス・キリスト様と言うお方を知らなければ、イエス・キリスト様のことを伝えられもしなければ、イエス・キリスト様の業も行えないのです。だから知らなければならない。

 先ほど、私たちは、コリント人への第一の手紙151節から9節の御言葉を耳を傾け聞き、そして目を開いて読みました。そこでは、コリント人への第一の手紙の著者であるパウロが、コリントの教会の人たちに、福音の言葉を思い出してほしい訴え、その福音の言葉はパウロ自身も受けたことであった。ということです。
 福音の言葉をパウロ自身も受けたということは、パウロもまた、「これは伝えるべき大切な教会の教えだ」としておしえられ伝えられたものであると言うことです。そしてそれがパウロが153節の後半から4節の福音の言葉の

3b:キリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、4:そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったことなのです。

と言うことなのです。そして、そのことを証拠立ててるかのようにして5節以降の言葉が続くのです。すなわち

5:ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。6:そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。7:そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、8:そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである。 

とパウロは言う。この5節以降の言葉は、ケパ、すなわちペテロの経験であり、十二人と呼ばれていた使徒たちの経験であり、また五百人以上の弟子たちやパウロの経験がかたられていますが、その経験はあくまでも3節後半と4節の「3b:キリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、4:そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと」の確かさを伝えるためのものなのです。ですから、パウロが教えられ、そして、パウロも教え伝えた教会の大切な教えとは3節後半と4節の言葉なのです。そして、みなさん、その3節後半から4節の教えこそが、今日の聖書個所であるルカによる福音書244647節で言われている言葉と重なり合うのです。4647節をお読みします。

45そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて 46:言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。47:そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。

 このように、復活なさったイエス・キリスト様が弟子たちに現れ、弟子たちにおしえられたことが、教会の教えとして重要視され、ほぼ誤りなくパウロに伝えられ、そのパウロからコリントの教会に人々に伝えられたのです。しかも、大切なことは、イエス・キリスト様は聖書を説き明かしながら、この事を伝えたと言うことです。
 この時にイエス・キリスト様やパウロが言っている聖書とは旧約聖書のことです。新約聖書が新約聖書としてまとめられ意識されるのは、イエス・キリスト様やパウロの時代よりずっと後ですので、ここで言う聖書とは旧約聖書を指しているのです。そして、その旧約聖書を解き明かしながら、イエス・キリスト様は

   「キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。47:そして、その  
  名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの 
  国民に宣べ伝えられる」という教会の大切な教えとなる事柄をおしられたのは44節の
  後半にあるように「モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてある  
  とは、必ずことごとく成就する」

と言うのです。
モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」ということは、旧約聖書全体にイエス・キリスト様のことが書いてあると言うことでもあります。旧約聖書の記述は、すべてイエス・キリスト様というお方に既決していくのです。

 みなさん、先ほど司式の兄弟に旧約聖書ネヘミヤ記81節から6節を読んでいただきました。ネヘミヤ記というのは、その前にあるエズラ紀と共に、エルサレムの再建物語であり、いうなればイスラエルの民の復活の物語なのです。イスラエルの国はバビロン帝国に敗れ、神殿や城壁は壊され、神の都エルサレムは破壊しつくされました。そしてイスラエルの民の多くは。捕囚の民としてバビロンに連れていかれました。そして最初の捕囚から始まって70年あまりバビロンに奴隷としてとらわれていたのです。そのイスラエルの民が、バビロン帝国がペルシャに敗北し、ペルシャ帝国が、イスラエルの民を支配する時代になった際に、ペルシャの王キュロスによって、奴隷の身分から解放されることになります。そしてエルサレムに戻り、神殿を再建し、エルサレルの城壁を作り直したのです。のいきさつがエズラ記、ネヘミヤ記として書き記されている。

 そのように、エルサレムが復活すると言う出来事の最中(さなか)に、エズラが律法を読み聞かせ、それを聞き解き明かしの出来る人がエズラが読み上げる律法の言葉を聞き、イスラエルの民に説き明かして聞かせたのです。そうやって、律法の言葉の意味するところを悟らせた。それが、このネヘミヤ記8章の1節から8節の要旨です。
 このとき、エズラが読み上げた律法がとは、おそらくはモーセ5書であったと思われます。モーセ5書には、イスラエルの民の歴史と共に、神がイスラエルに与えた律法と、その神の律法に従って生きて行きますと言うイスラエルの民の誓約が記されている。つまり、律法とは、イスラルの民の誓約を伴う神とイスラエルの民との契約なのです。
 エズラはその神というラエルの民の計釈を延々と読み上げるのです。そして、7節以下に名前が記されている人々が、それを説き明かす。このように、エズラが律法を読み聞かたのは、単に神殿が再建されるという外的な復興だけでなく、イスラエルの民に神を信じ、神の言葉である律法が示す教えに従って生きる信仰の復興を願ってのことであろうと思われます。そこには、イスラエルの国が本当復興するために、ただ、神殿が再建され城壁がしゅうるくされると言った外面的な復興だけでなく、その背後に信仰の復興がない限りイスラエルの国の復興はないという強いエズラの確信・信念といったものが感じられます。

 その律法が語られ、それが解き明かさるという出来事があった時、先ほどお読みいただいた箇所の少し後の9節を見ますと、律法の言葉と読み聞かされ、それを説き明かされた民は涙を流し泣いたとあります。イスラエルの民が涙を流して泣いた理由は記されていません。ある聖書注解者(鈴木昌:実用聖書注解、いのちのことば社)は、律法を読み聞かされ、説き明かされることで、自分自身の内面を探られ悔い改めの涙を流したのではないかと言います。確かにそういったこともあったでしょう。あるいは、イスラエルと神の民との間の歴史を顧みながら、自分たちがバビロンに捕らわれの身となった出来事にイスラエルの民という共同体が神に背いていた結果であることを覚え、涙を流したのかもしれません。
 ところが、イスラエルの民を治める提督であるネヘミヤと祭司であり学者であるエズラは、涙を流して泣いているイスラエルの民に「泣くな」というのです。それは、主の聖なる日だからだと言うのです。だから「涙を流さず憂うな」というのです。
 それは、律法が読み上げられ、イスラエルの民が名実ともに神の民として回復されたからです。もはやバビロンの奴隷としてではなく、解放された神の民としての歩みが始まったのです。だからこそ、かつてエジプトで奴隷となっていた民が、解放され、神の律法が与えられたように、バビロンから解放された民にも律法のが与えられ、その教えが解き明かされていったのです。そういった意味では、律法は罪に縛られていた神の民が、その罪の支配から解放された神の民として生きる証であると言ってもよいかもしれません、したしかに生きる証なのです。

 そのような、イスラエルの民の歴史を紐解くかのようにして、よみがえられたイエス・キリスト様は、「モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」といって、教会と言う新しい神の民の群れに、その罪のゆえに奴隷とされて苦しんでいたイスラエルの民を繰り返し解放なさる旧約聖書の物語を紐解きながら、イエス・キリスト様が、「苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。47:そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる」という大切な教えを、イエス・キリスト様が天に帰られた後に、この地上の世界に残された新しい神の民の群れであるキリストのからだなる教会に、教え聴かせ、悟らせたのです。そして、弟子たちは、それを福音の言葉として伝えて行った。。
 それは、私たちを罪と死が支配する世界から解放する教えであり福音です。この口語訳聖書では、罪の赦しを得させる悔い改めとなっていますが、この赦しと言う言葉のギリシャ語(φεσιν)は解き放つと言う意味を持つ言葉です。ですから、それは、私たちひとり一人が犯した罪を赦すというよりも、むしろ罪の支配からの解放と言う意味として捉えられるものです。
 そして、そのようにイエス・キリスト様が十字架の上で苦しまれ、三日目に死人の内から蘇られたと言うことは、まさにイエス・キリスト様が、私たちを支配している罪と死に打ち勝たれたお方となったということです。その勝利者としてのイエス・キリスト様の「からだなる教会」をたてられたのです

 みなさん、私は今年の聖書学院の入学式に出席したのですが、その際、聖書学院の院長N
先生がメッセージをなさった。その時N先生は、福音と言う言葉の意味についてこう言われた。すなわち「福音とは善い知らせということですが、そのもとの原語でギリシャ語エヴァンゲリオンと言う言葉は、戦いにおいて王が勝利をしたというその勝利の知らせをエヴァンゲンリオンというのです」と言われたのです。
 そうなのです。イエス・キリスト様は「この世」に来られ、「この世」を支配している罪と死に打ち勝たれ、教会と言う神の王国をお建てになったのです。ですから、イエス・キリスト様が、「苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえられた」のですから、イエス・キリスト様の弟子となり、イエス・キリスト様を信じる者の群れは、罪と死の支配から解放され、自由にされた民として、たとえ苦しみや試練が襲ってきたとしてもその苦しみから解放されるように互いに愛し合いながら、また支え合いながらイエス・キリスト様によって一つに結ばれた教会と言う「キリストのからだ」をつくり上げていくのです。

 みなさん、私たちもそのような教会を造り上げるために、三鷹キリスト教会から、またキリスト信愛会小金井教会からここに呼び集められ小金井福音キリスト教会という教会に「再生」され、新しい教会を創立し、歩んできているのです。そして私たちは、復活のイエス・キリスト様に結ばれ一つとなって、小金井福音キリスト教会と言う「キリストのからだ」において、復活の主を証しつつ、この罪から解放する言葉を語り伝えていくのです。お祈りしましょう。