2018年11月25日日曜日

2018年 11月25日 小金井福音キリスト教会 説教題「 キリストの体なる教会の在り方 」


2018年 11月25日 小金井福音キリスト教会 説教

聖書
旧訳書 : レビ記
福音書 : マタイによる福音書
使徒書 : 使徒業伝
説教題 「 キリストの体なる教会の在り方」




今日の礼拝説教の中心となる聖書個所は使徒行伝240節から47節ですが、この箇所はもっとも最初期の教会がどのようなものであったかを私たちに教えてくれる箇所です。イエス・キリスト様は十字架に架けられ死なれ蘇られることによって、私たちを罪の支配から解放して下さり、神との新しい契約で結ばれた神の国の神の民としてくださいました。

 そのよみがえられたイエス・キリスト様は、そのことを弟子たちに教え、そして天に昇られると言う象徴的な行為によって、ご自分がまさに神のひとり子であられることをお示しになりつつ、父なる神の御元へとお戻りになられたのです。それと引き換えに、イエスキリスト様は聖霊なる神がこの世界にお下しになった。それが使徒行伝21節から40節にあるペンテコステの出来事でした。

 このペンテコステの出来事を通して、具体的な形として見ることはできませんが、この世界に唯一普遍の、世界中のすべての教会を包む神の国であるキリストの体なる教会が始まった。私たちは、そのキリストの体なる教会が、具体的に目に見える形で結実した一つの教会である小金井福音井リスト教会に結びつけられ、今日、こうして神を礼拝しているのです。ですから、この小金井福音キリスト教会という具体的な教会は、神の国であり、キリストの体なる教会の、「この世」での表れの一つなのです。

 この神の国の表れである教会とはどのようなところであるか。それがこの使徒行伝240節から47節に表されている。逆に言いますと、この使徒行伝240節から47節をみますと、神の国である教会とはどういうところであるかがわかる。また神の国である教会は、どのような教会を目指し教会形成をして行けばよいかということがわかるのです。

 では、その原初の教会の姿とはどのようなものであったのかと言うと、まず第一に彼らは使徒たちの教えを固く守っていたと言うことです。

 ここでいう使徒たちの教えがどのようなものであったのかについて、これが使徒たちの教えだよと言ってまとまった形で示して箇所は聖書の中にはありません。しかし、聖書以外の歴史的資料の中にそれらしいものがある。それが使徒たちの遺訓と呼ばれる書物、ギリシャ語ではディダケ―(διδαχη)と呼ばれる書物です。

 この12使徒の遺訓は1世紀から2世紀、おそらくは紀元100年前後に書かれたものだと考えられています。ですから、12使徒たちが生きた時代に非常に近い時代に書かれたものですので、この使徒行伝242節で書かれている使徒たちの教えというものの内容は、おそらくはこの12使徒に遺訓に反映されているものと考えてもいいだろうと思います。

 実際、今日の聖書個所の使徒行伝244節、45節には「44:信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし 45:資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた」と記されていますが、これなどは、12使徒の遺訓第4章「人を敬うこと」の5節から8節にある言葉が実践されていた一つの事例だと言える出来事です。すなわちそこには、こう書かれているのです。

5:なんじ、もらうときには手を伸ばし、与えるときには手を引っ込める人のようで
あってはならぬ。6:自分の労働で獲得した何かを持っているときには、罪の贖いとしてそれを人に与えよ。7:与えることをためらってはならぬし、与えるときにつぶやいてもならぬ。やがてなんじへの報い主がだれであるかがわかるであろう。8:日々の生活に事欠く人を退けず、持てる物はすべて分ちあい、何物をも自分だけの物としてはならぬ。なぜなら、なんじら不死性に一緒にあずかるから、むろん、はかないものを分ちあわなければならない。

 この12使徒の遺訓は、肉の欲と悪事から離れて、神の民として神の民らしく生きなさいと言う倫理的な教えと教会の洗礼や聖餐、あるいは断食や祈り、そして教職制度などの教会制度や礼典に関する教えが記されていますが、特に神の民がいかに生きるべきかと言う倫理的な面では、主に十戒と山上の垂訓に立脚して書かれています。

 この十戒や山上の垂訓は、歴史的には聖書解釈上いろいろと意見や主張が分かれてきた箇所です。例えば、宗教改革の時期に山上の垂訓を巡っては、ルターとエラスムスの間でその解釈が分かれました。どのようにわかれたかと言いますと、宗教改革者のルターは、山上の垂訓は罪びとである人間には行えない神の道徳基準であって、人間が神の道徳基準を行うことができない罪びとであることを教えるものであると言う。そして、この罪びとである自覚が起こることからこそ、行いではなく信仰によって救われる神の恵みを求めさせるためにあるのだと言うのです。それに対して人文主義者であるエラスムスは、いや山上の垂訓は人間に決してできない道徳基準といったものではない。人間にはそれを行うことが可能である。そもそも聖書は人間にできないことを要求などしないと主張したのです。

 どちらの言い分にも、それなりに「なるほどなぁ」と思わされるところがあります。しかし、この12使徒の遺訓を見る限り、使徒たちは、十戒もまた山上の垂訓も神を信じ神に従って生きる民には決して実現不可能なことではないと考えていたようです、それらを実際に実践して生きて行くように努力してい来ることを求めていた。それはつまり、神の国のこの世の表れである教会は、神を信じる神の民が神の言葉に従って生きていくためにあるのだと言うことを私たちに語り、教えていると言うことでもあります。そしてそのような神の民が集まる教会は、必然的に、神の言葉に従って生きて行く者たちの群れとなって行くのです。そしてそれが、本来の教会の姿であり、教会の目指していく方向なのです。

 原初の教会に見られる教会の姿の第二の点は、交わりをなしていたと言うことです。この交わりと言うのは、使徒信条[i]でいうところの聖徒の交わりと言ってもよいでしょう。みなさん、私たちは、毎週の礼拝で使徒信条を唱和します。使徒信条は、私たちが信じるキリスト教の信仰の大切な要素であり、私たちの信仰告白でもあります。

 その使徒信条は、まず「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と言って、父なる神について述べ、それに引き続いて「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん」と子なる神イエス・キリスト様について語ります。そしてその後に「我は聖霊を信ず」と言って聖霊の業として、聖なる公同の教会が建てられ、聖徒の交わりが始まり、私たちに罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえの命が絶えられたことを信ず」といって聖霊がなされる業について語るのです。

 ですから、教会は聖霊によって造られるのであり、その教会に集う者たちは聖徒として互いに愛し合い支え合う交わりを持つのです。その具体的表れが、やはり先ほどの使徒行伝244節から45節では「44:信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし 45:資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた」として実践されていた。つまり、聖書の教えを実践していくならば、一人一人が、神の民として神の言葉に聞き従いながら生きていくならば、神の民の集まりである、教会においては互いに愛し合い支え合う交わりになっていくと言うことです。

 この互いに愛し合うと言うことは聖書が一貫して主張する聖書の教えです。先ほど、司式の兄弟にレビ記19章の910節をお読みいただきました。そこにはこうありました。

9あなたがたの地の実のりを刈り入れるときは、畑のすみずみまで刈りつくしてはならない。またあなたの刈入れの落ち穂を拾ってはならない。10:あなたのぶどう畑の実を取りつくしてはならない。またあなたのぶどう畑に落ちた実を拾ってはならない。貧しい者と寄留者とのために、これを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。

 この言葉は、同じレビ記2022節でも繰り返されます。このように繰り返し述べられると言うことは、それが重要な内容であると言うことを意味していると考えてもよいでしょう。そして、このレビ記19910節の言葉が意味するところは、貧しい人や寄留者が食べるのに困らないように顧みてあげなさいと言うことです。そして、その根底には他者を想い愛する隣人愛がある

 みなさん、私が神学校で学んでいるとき、ある教授から古代のイスラエルの国家は福祉国家であったと言うことを学んだことがあります。それは、まさにこの落ち穂の教えにみられるものです。現代の日本においても福祉の重要性は認められるものであります。そして様々な福祉制度があります。しかし、その反面で、別の価値観がある。それは能力や実力がある者、何らかの成果、結果を残した者が、その能力や実力に見合う報酬を受けるのは当然であると言う考え方です。ここ数日、日産のカルロス・ゴーン氏が逮捕された事件に関する報道が繰り返し行われていますが、その背後には、このようなある種の実力主義的な風潮があることは否めません。何かを生み出すといった生産性や創造性のある人間が優れた人間として尊ばれ、重んじられる風潮です。

 古代イスラエルにおける福祉国家の考え方の基本は、すべての人間は平等に顧みられなければならないというものです。一人一人に差異はあり違いがある。その際や違いを認めつつ、それによって人間の評価が変わってしまわないということが、福祉の根底にある。だから、貧しい人や寄留者の人が食べることに困らないように、すべてを収穫しきらず、残しておくように神はイスラエルの民に命じるのです。

しかし、実力主義や成果主義と併存する福祉の考え方は。能力があり実力もある人間が、その能力や実力に応じて成し遂げられた成果によって報酬を受けるのであって、成果を残すことの出来ない人間は、貧しくても仕方がないが、せめて食べる分だけは面倒を見てやろうと言う考え方です。もちろん、多くの福祉に携わる人がそのように考えているわけではありません。福祉に携わっておられる方のほとんどが、むしろ他者を思いやる優しい心でその仕事をしておられます。ですから、そのように断定しきってしまうことは問題です。

しかし、実力主義や成果主義と福祉と言うことが共存するところには、福祉の現場以外のところからそのような考え方が生まれてくる土壌は確かにある。たとえばそれは、あの神奈川県津久井市の山ゆり学園で起こった重い障害をもっておられる方々を何人も惨殺した事件などになって噴き出してくる。 
あの山ゆり学園の事件が起こり、その犯人が主張した「障害を持った方は家族や社会に不幸を生み出す」と言った考え方も、実力主義や成果主義の社会が生み出すひずみがもっともゆがんだ醜い形で表れたもののように思えるのです。

 もちろん、あの事件が起こった後、多くの人が憤りや、怒りを感じた。それは、私たちの古ことの中に、それぞれの差異を認めつつも、その際によってその人の存在の優劣を決めない神の像が刻み込まれているからです。そして、その神の像が、思いやりや愛と言った神の子として造られた人間の精神に、互いに愛し合い支え合うと言う神の法を刻み込んでいるからです。それは本当に素晴らしいことですし嬉しいことです。
 しかし同時に、あの山ゆり学園の事件の犯人の主張に共感できる、あるいはわからないわけではないという人がいるのも事実ですし、つい最近でも「同性愛の人は生産性がない」などといって生産性で人の価値を判断するような発言した国会議員の方がおられるのも現実です。

 そのような社会の中で、教会は、様々な差異を持った人が集まり、そして、自分の持っているものを分け合いながら互いに愛し合い支え合うといった神の国を目指した聖徒の交わりを築いて行くところなのだということを最も最初の教会は私たちに示しているように思うのです。
 そのような原初の教会のようになるためには、私たちひとり一人が自分の優れたところを示し、人の上に立って生きる生き方を目指すのではなく、むしろ、へりくだって生きる者となることが必要です。そしてそれはイエス・キリスト様の生き方でもあった。

先ほどのマタイによる福音書2020節から28節において、イエス・キリスト様に私の二人の息子をあなたの右と左においてやって欲しいというゼベダイの子らの母の願いは、より高い地位をえることを善しとする「この世」の価値観のもとでは、親の願いとして極めてまっとうであり、むしろごく自然の願いだと言えます。

 しかし、イエス・キリスト様がそこで弟子たちに求めたのは、人と上に立つ者になるのではなく、むしろ自らを低くして人に仕える生き方でした。そのような、自らを低くし、人のために仕えて生きる生き方は、まさに神の御子が人となられると言う謙遜さ、そして私たち人間の救いのために命をも投げ出してくださった姿であり、そのへりくだりと奉仕に生きるイエス・キリスト様の姿こそが、神を信じて生きる者の模範でありました。

 もちろん、私たちはイエス・キリスト様のように自分の命まで投げ出すことはできないかもしれません。いや、それはできないことでしょう。あの原初の教会に集ったクリスチャンたちが、持っているものを差し出し、必要に応じて分け合ったということだって難しいことです。しかしそこに、互いに愛し合い、支え合う聖徒の交わりの模範があるのです。
 だからこそ、私たちは、今の私たちの置かれた状況の中で、私たちに出来る互いに愛し合い支え合って生きる教会の姿を模索していく必要がありように思うのです。


 そして、原初の教会が示している教会の在り方の三つ目の事柄は、ともに礼拝をすると言うことです。使徒行伝42節の言葉で言うならば「共にパンをさき、祈をしていた」と言うことです。

 この「共にパンを裂き」ということは、今日でいうならば聖餐式のようなものです。原初の教会の人々は、安息日になると、午前中はユダヤ教の会堂に行き、ユダヤの人々とともに礼拝を守り、夜になると信徒の家に集まり、パン裂きというそれぞれが持ち寄ったパンとぶどう酒を食べる愛餐の時を持っていました。そのパン裂きが後の聖餐式となり、ユダヤ教ではないキリスト教の礼拝の中心となったのです。だから、聖餐はキリスト教会の礼拝にはなくてはならないものなのです。だからこそ使徒行伝246節では「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし」ていたと言うのです。
 このように原初の教会は、使徒たちの教え、それは聖書の教えに基づくものですが、その使徒たちの教えに従って自分の欲から離れ悪事を行わず、互いに愛し合い支え合いながら、神を礼拝しながら日々を過ぎしていたのです。それは、一言でいうならば、「神を愛し隣人を愛する」生きた方です。そして、そのような生き方が教会の中だけではなく、広く「この世」の人々に向かって開かれていたのです。そして、そのような教会は、人々に好意を持たれ、そして、神様は救われる者を起こし、そのような教会に日々仲間を加えてくださった。

 みなさん、私たちは、このキリストの体なり教会に加えられたひとり一人です。それは、原初の教会のように、神を愛するがゆえに共に神を礼拝し、聖餐を共にし、隣り人を愛するが故に、互いに愛し合い支え合って生きて行くキリストの体なる教会を築き上げるためです。そのことを覚えつつ、神を愛し隣人を愛する者の群れとなっていきましょう。お祈りします。




[i] 使徒信条「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。アーメン」

2018年11月23日金曜日

2018年11月18日 小金井福音キリスト教会 説教 説教題 「 神の視点 」

2018年11月18日 小金井福音キリスト教会 説教 説教題 「 神の視点 」

2018年11月18日 小金井福音キリスト教会 説教

聖書

・ヨハネによる福音書 第3章 1節 ~ 15節

説教題 「 神の視点 」

2018年11月17日土曜日

2018年11月11日 小金井福音キリスト教会説教 説教題「 悔い改めに生きる 」

2018年11月11日 小金井福音キリスト教会説教 説教題「 悔い改めに生きる 」

2018年11月11日 小金井福音キリスト教会説教

聖書ヶ所
・申命記 第30章1節 ~ 10節
・マタイによる福音書 第16章 13節 ~ 19節
・使徒行伝 第2章 5節 ~ 40節

説教題 「 悔い改めに生きる 」




さて、前回、使徒行伝21節から4節までにありますペンテコステに聖霊が天から下ってきてイエス・キリスト様の弟子たちに与えられたというペンテコステの出来事から説教をいたしましてから2週間がたちました。

 その2週間前の説教では、ペンテコステの時に聖霊なる神が下った際に、舌のような形をしていたという点に着目し、聖霊なる神が舌のような形をしていたと聖書が記しているのは、聖霊なる神が与えられ注がれた者は、神の言葉を語り、神の御心を伝えるものとなるということの象徴的表現であったのではないかとお話ししました。

 実際、今日の聖書個所にルカによる福音書の24節にはすると、「一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した」とありますが、この他国の言葉というのは、ギリシャ語で舌を意味する(γλσσα:グロッサ)という言葉なのです。つまり聖霊を受けた弟子たちは、イエス・キリスト様のことを様々な外国語で証し始めたというのです。その様子が、今日お読みいただいた使徒行伝25節から12節までに記されています。

 そこを見ますと、弟子たちの言葉を聞いていた人たちは、パルテア人、メディア人、エラム人やメソポタミヤ、ユダヤ、カッパドキアや、ポントとアジア、フルギアとパンフリア、エジプトとクレネに近いリビア地方、またアラビアと言った様々な地方から来た人であったとあります。そのような様々な国から来た人が、自分たちの国の言葉で、イエス・キリスト様のことを聞いたのです。ですから、まさに聖霊なる神が与えられ注がれた者は、全世界に向かって神の言葉を語り、神の御心を伝えるものとなるということが、そこで現実に起こり、宣教の業が始まっていったのがペンテコステの出来事だと言えます。

 そのような弟子たちの宣教の業を、驚きをもってしかし冷ややかに見ていた人たちがいました。それはユダヤ人たちでした。ユダヤ人は、神がお選びになった神の民として神の救いの歴史を担ってきた人たちです。その意味では最も神に近く、神に最も愛され続けてきた民です。そのユダヤ人たちが、イエス・キリスト様の弟子たちが外国の言葉でイエス・キリスト様のことを伝えているのを聞いて当惑し、中には「彼らがぶどう酒に酔っているのだ」といって嘲る者さえいたというのです。

 彼らの目にペテロをはじめとする人々が「酒に酔っている」ように見えたのは、それこそ、彼らが訳の分からない言葉で、しかも大声で熱心にしゃべっていたからもしれません。それが酒に酔っているように見えたということは十分に考えられることです。

そこで、ペテロは、自分たちが何を語っていたかをそのユダヤの人たちに語り始めます。それが14節から36節に記されているペテロの言葉です。そこでペテロは、自分たちは酒に酔っているのではなく、聖書の預言通り、神から霊を注がれて預言をしていると述べ、イエス・キリスト様の十字架の死と復活の出来事が、神の救いのご計画に基づくものであり、このイエス・キリスト様こそが、イスラエルの油注がれた王であることを旧約聖書の言葉を用いながら述べるのです。

 このとき、ペテロの言葉を聞いたユダヤ人の中に、動揺し恐れを感じる人たちが出てきます。それは、ペテロが、イエス・キリスト様は神が主ともキリストともされたお方であるのにもかかわらず、あなた達ユダヤの民が、この方を十字架に殺したのだと指摘したからです。
 イエス・キリスト様が十字架に架けられて死なれたということは、ほんの数か月前にエルサレムで起こった出来事ですし、イエス・キリスト様の墓が空っぽいになり弟子たちが、イエス・キリスト様のご遺体を盗んでいったといううわさがユダヤ人の間に広がっていました。ですから、エルサレムにいたユダヤ人たちは、そのことを知っていたでしょうし、同時にイエス・キリスト様の弟子たちの間にイエス・キリスト様がよみがえられたと言っているという話も聞いた居たでしょう。
 そのイエス・キリスト様の十字架の死と復活について、今、イエス・キリスト様の弟子であったペテロが、大胆に、しかも彼らも神の言葉として大切にしている聖書の言葉に基づきながら語るのです。

 みなさん、ペテロは言うのです。イエスというお方は十字架の死は、神が聖書であらかじめ預言なさっていたことであり、神のご計画と予知によるものである。そのイエス・キリスト様は、神がお立てになった主でありキリストである。私たちは神から注がれた聖霊によってそのことを証ししているのであるが、あなたがたは、その主でありキリストを異邦人の手に渡して殺したのだと。
 この言葉がユダヤ人の心を揺さぶり、恐れさせるのです。なぜなら、イエス・キリスト様が、神がつかわした主でありキリストであったとするならば、そのイエス・キリスト様を異邦人の手に渡し、十字架に仮付けさせて殺させたユダヤの民は、神に反逆したことになるからです。しかも、その反逆が神の予知とご計画によるものであるとするならば、彼らはもはや神から捨てられ、もはや神の選びの民でも何でもない異邦人と同じ存在になっていることになる。

 ユダヤの民にとって、自分たちは神の選びの民であるということが、彼らのよって立つところであり、彼らの自尊心の根拠であり、彼らを支えているものです。ユダヤの民から彼らば神の選びの民であるということが奪い去られたとするならば、彼らには、もはや依って立つところも依り縋るところもなくなるのです。だからこそ、動揺もすれば恐れもする。そしてペテロに「わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」とたずねるのです。

 人間っていうのものは、何か依って立つところのもの、寄り縋る何かがあるならば、それが最後の砦となって何とかやっていけるのです。また自尊心やプライドがあれば頑張りも踏ん張りも効く。でもそれらがすべて奪われてしまったならば、もはや途方に暮れるしかありません。それはユダヤの民であろうと、日本人であろうと、古代人であろうと現代人であろうと変わらない。実際、私たちもそうじゃありませんか。 
 そしてそうなったら、もうどうしていいかわからないのです。ユダヤの民にとっては、その最後の砦は、彼らが神の選びの民であるということでした。それが、ローマ帝国の植民地にされ支配され、蔑まれても、それでも私たちは神の選びの民であり、異邦人とは違うのだという思いが、虐げられていたとしてもユダヤ人をユダヤ人として立たせていたのです。

 ところが、ペテロに、神の予知とご計画の中で、神に反逆するものとされたのだと言われると、もはや彼らはどうしていいのかわからない。自分たちがよって立つ土台が揺るがされているからです。だからペテロに「わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」とたずねるのです。そのように「わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」とたずねられたペテロは、次のように答えます。使徒行伝238節から39節です。そこにはこうあります。

38:悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。 39:この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである。

 ペテロは、「どうしたらよいのですか」と問われて「悔い改めなさい」と答える。「悔い改めて、罪の赦しを得るためにバプテスマ(つまり洗礼)を受けなさい」というのです。新改訳聖書2017では「それぞれに罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストのなによってバプテスマを受けなさい」となっているようですが、もともとの原語であるギリシャ語を見ますと、口語訳聖書のように「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとり一人が罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい」と訳す方が良いように思われます。

 いずれにしましても、ペテロに「わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」とたずねたユダヤ人たちは、ペテロの「悔い改めなさい。そしてイエス・キリスト様の名によるバプテスマ(洗礼)を受けなさい」と言われ、さらに40節で「この曲がった時代から救われよ」と言われ、ペテロの言葉通りに洗礼を受け、弟子たちの仲間に加わっていったというのですが、その数が三千人もあったというのです。

 ここで私たちは、「悔い改めよ」という言葉に注意したいと思います。ともうしますのも、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとり一人が罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい」と聖書に書かれていますと、何か、悔い改めとは罪を赦していただくために、自分の罪を反省し、それを神にお詫びし、神の赦しを請うことのように思われるかもしれないからです。しかし、悔い改めるということは、必ずしもそうではない。

 実は、たまたま昨日、インターネットでFEBCというキリスト教のラジオ局が放送している番組を聞いていました。本当に偶然でしたが、カトリックの司祭で上智大学の名誉教授をしておられる雨宮慧という神父様が悔い改めについて語っておられる番組をやってました。この番組は来年の110日までFEBCのホームページ(http://netradio.febcjp.com/2018/11/09/root181109/)で聞くことができるということですのでお時間がある方はぜひ聞かれるとよいと思うのですが、とても良い内容でした。そしていろいろと教えられることがあった。

 その番組の中で、雨宮神父は、旧約聖書を見ていくと、旧約聖書には悔い改めるという言葉が6回しかないということに気が付いたというのです。そんなわけないだろうと思っていろいろと調べてみると悔い改めという言葉を表すヘブル語はシューブשָׁ ב)という言葉であり、立ち帰る、あるいは回復するという言葉であり、実際、旧約聖書のあちらこちらで使われているというのです。

 先ほどお読みいただいた旧約聖書申命記301節から10節、この箇所は雨宮神父もその番組の中で引用なさっていたのですが、そこにも2節から3節にかけて

2:あなたもあなたの子供も共にあなたの神、主に立ち帰り、わたしが、きょう、命じるすべてのことにおいて、心をつくし、精神をつくして、主の声に聞き従うならば、3:あなたの神、主はあなたを再び栄えさせ、あなたをあわれみ、あなたの神、主はあなたを散らされた国々から再び集められるであろう。

と言われていますし、10節には「これはあなたが、あなたの神、主の声に聞きしたがい、この律法の書にしるされた戒めと定めとを守り、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に帰するからである」と、神に帰するという表現でありますが立ち帰るというシューブשָׁ ב)という言葉が記されています。

雨宮神父は、ほかにも3節にある「再び栄えさせ」や「再び集められる」という「再び」、また8節の「再び主の言葉に聞き従い」という「再び」、そして、9節の「あなたの先祖たちを喜んだように再びあなたを喜んでという再び」という言葉は、立ち帰るという意味のシューブשָׁ ב)という言葉が使われているというのです。そう言われますと確かに、新共同訳聖書は、口語訳聖書では「再び主の言葉に聞き従い」と訳されているところを「あなたは立ち帰って主の御声に聞き従い」と訳している。

また雨宮神父は、他にも1節にある「心に考えて」の「考える」という言葉もまたシューブשָׁ ב)という言葉であるというのです。そこで私もヘブル語の旧約聖書で調べてみましたが、確かにそうなっていました。

 そして、雨宮神父は、悔い改めるという言葉は、ユダヤ人にとって本来ある場所に立ち帰ることであるというのです。そう言われてみますと、この申命記は、イスラエルの民が奴隷となっていた異邦人の国であるエジプト地を脱出して、彼らの先祖がもともと住んでいたカナンの地に再び帰っていくその直前に語られたモーセの説教が記されているところです。

まさに、本来あるべき地に戻ろうとするユダヤの民の物語が語られているのが申命記です。そのもともと住んでいた地で、神を主として崇め、礼拝し神の言葉に聞き従いながら生きて行くのだよと導き教えるのが申命記です。それが、ユダヤの民の本来の姿なのです。

 そのようなユダヤの民に、ペテロが「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい」と言う。このペテロの言葉を聞いたユダヤ人は、悔い改めと言う言葉を聞いて、「罪を反省しお詫びしなければ」と考える以上に、「本来あるべき場所に帰らなければならない」と考えただろうと思うのです。

 では、その本来帰らなければならない場所とはどこか。それは神が王として、主として治めておられる神の国であり、イエス・キリスト様の名によってバプテスマを受け、仲間とされていった教会と言う場所なのです。

 みなさん。私たちは先ほど司式の兄弟にマタイよる福音書1613-19節を読んでいただきました。そこには「わたしを誰だと思うか」と問われた、イエス・キリスト様に対して、ペテロが弟子たちを代表して「イエス・キリスト様を行ける神の子キリストです」と答えたことに対して、イエス・キリスト様が「ペテロ、よく言った。私はこの岩の上に教会を建てる」と言った箇所です。

 実は、イエス・キリスト様のご生涯を綴った福音書には、この箇所以外に教会と言う言葉は出てきません。そして、このイエス・キリスト様が、この岩の上に教会を建てると言われた岩とは何であるかについては、いろいろと解釈が分かれるところでもあるのです。

 カトリック教会は、この岩とはペテロのことであると言い、ペテロが初代の教皇であるとして教皇を中心とした組織の上に教会が成り立つと言いますし、プロテスタントのある教派では、これはペテロが「イエス・キリスト様を行ける神の子キリストです」と答えた信仰告白であると言って、信仰告白が教会の基盤だと言う。また、別の人々は、この岩とはイエス・キリスト様ご自身のことであると捉えます。

 では、どの解釈が正しいのか。私は、おそらくこの岩と言うのはイエス・キリスト様ご自身であると理解するのが妥当であろうと考えています。なぜならば、教会はキリストの体であると聖書が言っているからです。

 そのキリストの体なる教会と言う場所に立ち換えていくこと。それがまさに、ペテロがあの使徒行伝236節で言った本来ある場所に立ち帰ると言う意味を持つ「悔い改め」と言うことであろうと思うのです。

 そして、そこでイエス・キリスト様と一つに結ばれるバプテスマ(すなわち洗礼)を受け、罪が赦されていく。みなさん、この罪の赦しという言葉はギリシャ語でハフェーシン(φεσιν)と言いますが、罪が赦される(forgive)という意味と同時に罪から解放される(release)というニュアンスも持つ言葉です。つまり、罪の赦しとは、罪にしばりつけららている縄目から解き放たれると言うことでもあるのです。

 みなさん、罪は様々なものを打ち壊していきます。神と人との関係を打ち壊し、人と人との関係も打ち壊していく。そのように、すべての本来あるべき関係を打ち壊す働きをするのが罪というものであり、私たちはこの罪の支配する世界の中で生きている。だから私たちは様々な人間関係で苦しみ、傷を負い、心を痛めます。

 ある人は、親子関係で苦しみ、傷を負う。ある人は友人関係で悩み、ある人は仕事関係で苦しんでいる。あるいは自分自身が自分自身の問題で苦しみ傷ついていると言うこともある。これは私たち人間が、罪の支配するこの世界で生きている限り逃れえない現実です。そして、それは本来私たちのあるべき姿ではありません。なぜならば、私たちは互いに愛し合うものとして神から作られているからです。私たちは、本来は傷つけあうために造られた者ではないのです。
 
 しかし、罪が支配する世界は、私たちの間にある交わりや結びつきを傷つけ壊していく。そのような中にあって、ただ神のみが、神の恵みが支配する神の王国に立ち帰れ、神の恵みと愛が支配するキリストの体である教会に立ち帰れというのです。そして、私たちはそのキリストの体なる教会に呼び集められたものとして、今日ここで共に礼拝を守っているのです。これは聖霊なる神の御業です。
 
 そして、その聖霊なる神は、今日も私たちに、そして私たちの周りにいる人たちに、神に立ち帰れ、キリストの体なる教会に立ち換えて、互いに愛し合いなさいと言う神の戒めに生きる者になろうと呼び掛けているのです。みなさん、聖霊なる神が心に注がれた者は、そのことを語り伝えていくものとなるのです。そして、今日、個々に集っている私たちひとり一人はその聖霊なる神が、わたしたちの心に注がれているのです。


お祈りしましょう。

2018年11月6日火曜日

2018年11月4日 小金井福音キリスト教会 説教 「 恐れからの解放 」

2018年11月4日 小金井福音キリスト教会 説教

聖書個所
・イザヤ書 第41章 8節 ~ 13節
・マタイによる福音書 第14章 22節 ~ 33節
・ヨハネ第一の手紙 第4章 11節 ~ 18節

説教題 「 恐れからの解放 」






1811月第一主日召天者・宗教改革記念礼拝説教「恐れからの解放」    2018.11.4

旧約書:イザヤ書48節から13
福音書:マタイよる福音書1422節ら33
使徒書:ヨハネ第一の手紙411節から18



 今日は、召天者記念礼拝と宗教改革記念礼拝とをみなさんと共に過ごしたいと思います。もとより、この召天者記念礼拝と宗教改革記念礼拝の二つの記念礼拝は記念する内容は違っています。召天者記念礼拝はなくなられた方を覚えつつ、死をも乗り越える深い神の恵みの中に私たちが置かれていることを感謝するためのものであると言えます。

死をも乗り越える神の恵みは、一つには記憶という形で私たちに与えられています。今、ここには教会の関係者の方々で召された方々のお写真が飾られています。このお写真の顔を見るたびに、私たちはその故人のことを思い出し、その生涯を思い起こします。そして、その思い出を語る。その思い出の中で故人とたちと深く結びつけられる。それは、死をも乗り越えて与えられている深い絆なのです。召天者記念礼拝は、その思い出を思い起こすときであります。

また死をも乗り越える神の恵みは、二つ目には約束という形で与えられている。みなさん、聖書にはイエス・キリスト様が十字架に磔にされて死なれた後、三日目によみがえられたという一見する荒唐無稽と思われる出来事が記されています。それだけではない、イエス・キリスト様を信じクリスチャンとなったものもまた、イエス・キリスト様と同じように資からよみがえる時が来ると約束されています。そして、私たち教会に集う者はその約束を信じている。召天者記念礼拝は、その約束を確認するときでもあります。

 それに対して、宗教改革記念礼拝は、宗教改革のきっかけとなった95ヶ条の提題と呼ばれる当時のカトリック教会の贖宥という考え方に反対する文書をマルティン・ルターが公にしたことを覚え、記念する礼拝です。

 贖宥と言う言葉はちょっと難しい言葉ですが、要は罪の償いということです。罪を犯したものは罪の償いをしなければならないと言うのが贖宥という考え方です。悪いことした者はひたすら神にその罪を謝罪しその罪の償いをする。それは、ある意味極めてまっとうな教えであり考え方だと言えます。ところが、そのまっとうな教えであり考え方である贖宥に、ルターという人は敢然と否を唱えたのです。

 というのも、ルターという人は、自分の罪と罪深さに真摯に向き合ったからです。自分の罪に向き合えば向き合うほど自分には自分の犯したすべての罪、それこそ大きな罪から心の中で犯した小さな罪に至るまですべての罪、中には忘れてしまって思い出せない罪もあるでしょうそんなすべての罪に対して償いをするということなど不可能です。ルターは、そのことに気づいた。
   結局ルターは、人間は、どんなに頑張っても自分の罪を償い切ることはできないのだと悟るのです。そして、イエス・キリスト様がその償い切れない罪を十字架の上で贖ってくださったのだと信じ、罪を赦す神の愛と憐れみにすがるしかないと考えた。それがルターが表した95ヶ条の根底に流れている信仰義認という考え方です。

こうしてみると、召天者記念礼拝と宗教改革記念礼拝とは、内容的には何のつながりも脈絡もないもののように思われます。しかし、実はこの二つのものは、その根底において深く結びついているのです。それは、両者とも私たちに死がもたらす恐れから私たちを解放するものだということです。

みなさん、死というものは私たちに不安を感じさせ、心を動揺させ、悲しみを与え、そして恐れを感じさせます。それは、自分自身が死ぬという出来事だけでなく、身近な人の死ぬにおいても起こる出来事です。みなさん、私はM.ルターという人は、自分自身の罪に真摯に向き合った人であったと言いましたが、実はそのようにルターが自分の罪深さに向き合った背後には、死という現実に恐れを感じていたからです。

 ルターという人は、宗教改革の中心にある信仰義認という考えに至るまでに何度かを実感する機会がありました。その一つが、ルターにとって決定的な転機となったシュットッテンハルムの高原で落雷にあった時でした。
 この落雷にあったという出来事は、ルターに大きな衝撃を与えました。それは、罪に対する神の裁きとしての死ということを強く意識させたのです。それでルターは、その出来事の後すぐにエルフルトにある修道院に入り、修道士となります。そこには、死に対する恐れがある。そして、神の裁きである死から何と救われたいと願いから、厳格な修道生活を始めるのです。

 みなさん、ルターに限らず私たち人間は、どこかで死に対する嫌悪感と恐れを感じる。だから、死というものを忌み嫌うことはあっても、決して好ましいものとして喜ぶことはありません。そして確かに死というものは決して良いものではない。それは、私たちの様々な可能性を奪ってしまうからです。だから、私たちは、命のある限り精一杯生きて行くことが大切です。私たちのたちの前にあるたくさんの可能性を断ち切ってはいけないのです。

 けれども、時おり、死というものが私たちの面前に立ちふさがり、私たちを恐れさせることがある。先ほどお読みいただきましたマタイよる福音書1422節ら33節には、イエス・キリスト様の弟子たちが、小舟に乗って湖を横切ろうとしたときに嵐にあった出来事が記されています。
 この湖はガリラヤ湖と呼ばれる湖では、確かに突然嵐が襲ってくるということがあるそうです。その嵐に巻き込まれて今にも弟子たちが乗っていた小舟は沈んでしまいそうなほどに揺れている。そこに、イエス・キリスト様が湖の上を歩いて舟に近づいてきた。そのイエス・キリスト様の姿を見た弟子たちは、幽霊だと思ったと聖書には書いてあります。

 みなさん、幽霊に、仮に出会ったとしたら、やっぱり怖いですよね。それは、幽霊は、死と生の狭間に現れ出るものだからです。幽霊は、既に死んでしまってこの世の存在ではない。そのこの世のものでない者が現れ出るとき、私たちは死というものを否応なしに感じさせられる。ましてや、嵐にあって自分自身が死んでしまいそうな場面で、幽霊を見たと思った弟子たちは、もう生きた心地はしなかったでしょう。ただただ恐れと不安が心を支配していた。

 そのような恐れと不安のただ中にいる弟子たちのところにイエス・キリスト様はやって来て、「私が、あなたがたの側にいる。だから大丈夫だ、心配しないでいい」と、そう弟子たちに語りかけるのです。

 ところが、何を思ったのかイエス・キリスト様の弟子の中でもリーダー格にあったペテロという男が「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」というのです。この言葉は口語訳聖書では「主よ、あなたでしたか」となっていますが、もとらのギリシャ語の聖書を見ますと「主よ、もしあなたでしたら、わたしに命じて水の上を歩かせてください」という表現になっています。

 そう言った意味では、このペテロという男は、完全に安心しきっていない信じきれない思いがある。それでもペテロは、イエス・キリスト様が来なさいという言葉に従て、イエス・キリスト様に向かって歩き出すのです。すると、彼もまたイエス・キリスト様のように水の上を歩くことができた。ところが、歩き始めたペテロは、吹き荒れている強風をみると、再び怖くなって沈み始めたのです。

 私は、この物語を読みつつ、私自身のことを思い出していました。それは数年前に勝浦に出かけたときのことです。勝浦には、岬から少し離れたところに、海の中の様子が見える海中展望台がある。そこには岬から出ている一本の橋を渡っていくのですが、その橋は海面から5メールか10メートルぐらいの高さがある。実は私は高いところが大の苦手です。でも、せっかく来たのだからと展望台を目指してその橋を歩き出した。しかし、怖いものは怖いのです。だから、下を見ないように真っ直ぐ目標の展望台だけに焦点を合わせて歩いていた。ところが、見なければいいのに橋の真ん中あたりで、目線が少し下を向いてしまったのです。すると、とたんにずっと下の方にある海面が目に入ってきてしまい、その習慣、足がすくんでしまったのです。そして歩けなくなってしまった。

 ただ一つに目標を定め歩いているときには、高さと私を恐れさせるものを感じることがなかったのに、その目標からほんのちょっと目をそらして、「高さ」といったものを意識したとたん、恐れと不安が私の心をとらえて、歩けなくなってしまったのです。

 この新約聖書マタイによる福音書14章で描かれたペテロの姿は、まさにその時の私の姿に重なって見えたのです。それこそ、自分が置かれている状況には、恐れを感じさせるものが一杯ある。強風や荒れ狂う波といった不安材料や恐れるものが一杯ある。イエス・キリスト様は、そのような中にあるペテロに「私があなたの側にいる。だから恐れることはない。あなたは、ただ私を見つめて歩けばよい」とそう語りかけておられる。
 ところが、人間というのはそう言われても、なかなかそうはいかない。見なければいいものを見てしまったり、見なければいいものが目に飛び込んでくる。そうするとたちまち、不安や恐れで心が掻き乱されてしまうのです。そういった意味では、このペテロという男は、実に人間らしい人間だと言えますし、このペテロという男言う男に、私たちは自分自身の姿を重ね合わせることができる。
 そんなペテロが再び恐れを感じて「主よ助けてください」と叫ぶとき、イエス・キリスト様はすぐに、みなさんすぐにですよ、手を伸ばしてペテロをつかみ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」といってペテロにと共に舟に乗り込む。すると嵐は止んだというのです。

 私は、このイエス・キリスト様の「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」という言葉をイエス・キリスト様はどんな調子で語られただろうかとと思い巡らしてみました。怒ったような口調であっただろうか。ペテロを情けない奴だというかのようなちょっと見下したような口調であったろうか。それとも、愛と慈しみにあふれた語り方でいわえたのであろうか。みなさん、これは、想像するしかない世界です。しかし私は、かなりの確信をもって、愛と慈しみにあふれた口調であったろうと思うのです。

その確信の根拠は、嵐が止んだということにある。そこでは、ペテロを含む弟子たちの恐れと不安の根底にあった原因が取り除かれているのです。みなさん、この出来事を目撃し経験した弟子たちの中に、ヨハネという男がいた。この男は、先ほど司式の兄弟にお読みいただいたヨハネによる第一の手紙を書いた男です。そのヨハネ第一の手紙の418節には「愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである」と書かれている。この「完全な愛は恐れを取り除く」という言葉は、完全な愛が恐れを心の中から追い出すそんな状況を表している言葉です。

 私たちの心に中に、愛が注ぎ込まれて来ると、その注がれた愛が、私たちの心の中にある不安や恐れを締め出していくとヨハネは言うのです。そして、ヨハネ自身がそう言い切ることができるのは、彼が、そのような経験をしたからです。その彼の愛が注がれていくときに恐れや不安が消えていくという経験を、この小舟が嵐に巻き込まれ自分たちが死のう淵に立たされるという恐れの中にある時に、「恐れるな、私だ」といってイエス・キリスト様が嵐を沈めた出来事を通してヨハネも経験していたと思われるからです。

 みなさん、私たちの人生には、様々な出来事が起こってきます。嬉しいこともあれば悲しいこともありますし、私たちの心をかき乱し不安と恐れのどん底に陥れる出来事もあるでしょう。けれども、仮にそのような事態に陥ってしまったとしても、そこに愛があり、その愛が心に注ぎ込まれて、愛で心が一杯になったならば、恐れや不安は心から閉め出されていくのです。だからヨハネはあなたがたは互いに愛し合いなさいと勧めるのです。

 私たちが愛し合うところには不安や恐れがないからです。けれども、私たちの住む世界には、互いに愛し合うということでは済まされないに事態も起こって来る。愛が感じられないような冷たい風が吹きすさんでいることもあるのです。また、死の恐れという私たちの力ではどうしようもないものもある。

 そのような中でも、恐れるな、私はあなたの側にいるとイエス・キリスト様は言っておられるのです。

みなさん、聖書の語るメッセージの中心的なもの一つが、神が私たちと共にいてくださるから「恐れるな」というメッセージです。先ほどお読みいただきました旧約聖書イザヤ書419節か13節の言葉も、その「恐れるな」ということを告げるメッセージです。そこでは

恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあな たの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。

と言われている。

みなさん、神は、そして神の御子イエス・キリスト様は、私たちに「恐れるな」と言われるのです。それは、父なる神と子なる神イエス・キリストというお方が、私たちと共におられ、私たち人間の愛では包み込み切れないほどの試練や冷たい風が吹くすさぶような出来事や、死の恐れまでも閉め出すほどの愛で、私たちを愛して下さっているからです。実際、父なる神・子なる神イエス・キリスト様、そして聖霊なる神である三一体の神は、御子イエス・キリスト様が十字架の上で命を投げ出すほどに私たちを愛して下さっている。だから、この神の愛の中に身を置いているならば、その愛が、私たちの心にしみ込んできて、恐れを取り除いてくれます。

 そして、そのような愛の中に、この今前にあるお写真の方々は今も置かれている。そしてルターもまた、一度は雷に打たれ、死の恐れの中で神の裁きを見、罪を裁く神を恐ろしいと感じ恐れたのですが、しかし、聖書を深く学んでいく中で、神は、実は罪を裁く恐ろしい神ではなく、罪びとを赦し受け入れる愛の神であることを知っていったのです。そしてその愛で愛されていることを知ったときに、死の恐れは閉め出され、あのペテロのように、私たちに差し出された神の御子イエス・キリスト様の手に寄り縋れば、救われるのだということを知り、心に平安を得たのです。

みなさん、私たちも、その神の愛で愛されています。神の御子イエス・キリスト様は、自分の命を投げ出すほどに私たちを愛して下さっているのです。そして、私たちにその手を差し伸べてくださっている。ですから、この神の愛を信じ、死をも乗り越える力を与える神の恵みを信じ生きて行くならば、私たちに様々な不安や恐れが襲い来ることあっても、神の愛が私たちの心から恐れや不安を締め出してくれるのです。祈りましょう。



2018年10月28日 小金井福音キリスト教会 説教 「 一粒の麦 」

2018年10月28日 小金井福音キリスト教会 説教 

聖書個所
・ルツ記 第4章 12節 ~ 17節
・ヨハネによる福音書 第12章 20節 ~ 26節
・ヨハネ第一の手紙 第3章 13節 ~ 18節

説教題 「 一粒の麦 」


2018年10月21日 小金井福音キリスト教会 聖会 「 わたしの霊による 」

2018年10月21日 小金井福音キリスト教会 聖会

聖書箇所
・ゼカリヤ書 第4章 1節 ~ 14節


説教題 「 わたしの霊による 」





2018年11月2日金曜日

2018年10月21日 小金井キリスト福音教会 説教 「 なおりたいのか 」

2018年10月21日 小金井キリスト福音教会 説教

聖書個所
・民数記 第12章 9節 ~ 16節
・ヨハネによる福音書 第5章 1節 ~ 9a節
・使徒行伝 第3章 1節 ~ 11節

説教題 「 なおりたいのか 」