2018年12月23日日曜日

2018年クリスマス礼拝説教「キリストが住み給う場所」

2018年12月23日 クリスマス礼拝説教「キリストが住み給う場所」    

旧約書:申命記7章6節から11節(旧約聖書pp.256-257)
福音書:ルカによる福音書1章26節から38節(新約聖書pp.83)
使徒書:エペソ人の手紙2章19節から22節(新約聖書p.303)



 2018年のクリスマス礼拝をみなさんと共に過ごせることを、心から神に感謝いたします。私、個人のことを申しますと、今年のクリスマスは、二つのことに思いをはせながらアドベントの時を過ごさせていただきました。その二つのこととは、一つがインマヌエルということであり、もう一つが、先ほど司式の兄弟にお読みいただきました、ルカによる福音書の箇所にもある処女降誕と言うことでした。

 インマヌエルと言う言葉は、マタイによる福音書18節から25節にある言葉ですが、先週、池田修養生が礼拝説教の中で取り上げてくださいましたように、ヘブル語で「神、われらと共にいます」と言う意味の言葉です。です。だとすれば、いったい「神われらと共にいます」ということはどういうことなのか。いったいどこにおいて、「神われらと共います」というインマヌエルという出来事が起こっているのか。いや、そもそもが、このインマヌエルと言う呼び名はイエス・キリスト様の呼び名として用いられている言葉です。つまり、イエス・キリスト様がインマヌエル取り上げて呼ばれるのふさわしいお方であるということです。

 確かに、イエス・キリスト様は全き神であり、全き人であられます。ちょっとお神学的な言い方をするとするならば、神であり人である神人両性のお方だといえますから、確かに、イエス・キリスト様において、神が人と共にいてくださると言うインマヌエルの出来事が起こっている。しかし、そのイエス・キリスト様において起こっているインマヌエルということが、私たちとどう関係するのか。
 そのようなことをあれこれ考えていると、あっという間に待降節の時間が過ぎて行く。それほど、このインマヌエルと言う言葉一つをとっても、2000年前にイエス・キリスト様がお生まれになったと言うことは実に奥深い出来事だと言えます。

 このインマヌエル(神われらと共にいます)と言うことについては、日本の神学者のhttp://d.hatena.ne.jp/religious/20130414滝沢克己という人が、非常に味わい深い思索を展開しています。滝沢は、イエス・キリスト様が、インマヌエルと呼ばれるのは、まさに人としてお生まれくださったイエス・キリスト様は神であり人であるお方であり、イエス・キリスト様のご人格は、人間性と神性が結びあわされたものであると言います。だからイエス・キリスト様は神の子なのです。そして、それをインマヌエルの原事実と言う。
 原事実という言い方をするのは、それはイエス・キリスト様にだけ起こることではなく、実は私たち人間ひとり一人に起こることだからです。つまり、人間はすべからく神によって、このインマヌエルの原事実を与えられているのであって、そのことに気づくことがたいせつだというのです。
 そうなると、もはやクリスマスは、2千年前の出来事を記念し感謝すると言う出来事に留まりません。クリスマスは、現代に生きる私たちすべての内に起こる出来事であって、今日、私の内に、そして皆さんの内に起こる出来事になってくる。ああ、何と深い味わいだことだと思う。しかし、そうなると馬小屋はどうなるのか、乙女マリヤより生まれたと言う処女降誕はどうなるのか。

みなさん、こういうことを考え黙想しながら聖書を読み、考え、調べてまいりますと、実に聖書はおもしろい。私も、考え、調べてみました。いろいろと調べていく中で、西谷啓治という人が、マリヤの処女降誕について語っている言葉に出くわしました。 
この西谷啓治という人は西田幾多郎と言う哲学者の弟子で、いわゆる京都学派と呼ばれる哲学の流れを汲む人で、西田幾多郎の弟子でおまりますので、どちらかと言うと仏教的な考え方をする哲学者であるといえるでしょう。しかしその西谷が、マリヤの処女降誕について語る。みなさん西谷は、生理的・精神的な事柄は問題ではないというのです。
 考えてみますと、私たちはマリヤの処女降誕と言う奇跡が本当に歴史的事実であったのか、なかったのかと言ったことを問題にして議論しがちですが、西谷はそのようなことは問題ではないというのです。むしろ、そのようなことを問題にしていると、この処女降誕という物語の本質は見えてこないというのです。そして、この乙女マリヤが身ごもったという物語の核にある根本的な事柄は、物事に染まってしまうか染まってしまわないかの問題というのです。

 どういうことか。みなさん、私たちは、知らず知らずのうちに「この世」の価値観に染まってしまって、「この世」の価値観やものの考え方で物事を考えてしまいがちです。けれども、聖書はしばしば「この世」は神に敵対し、イエス・キリスト様を憎み、そして神を信じる者を迫害するものだと言います。その「この世」に染まってしまっては、とても神の民として神の民らしく生きることができません。
 けれども、西谷は、人間の心の奥底には「この世」に染まっていない部分が誰にでもあるのだというのです。そして、その心の奥底にある染まっていない部分から、いかに生きるべきかと言う人間の在り方が現れ出てくる。マリヤが乙女であったと言うことは、まさにその「この世」にあって絶対に汚れを知らない、この世に染まっていないということを象徴的に示す出来事なのだと言うのです。

 西谷のマリヤの処女降誕の解釈は、その聖書解釈の方法論や聖書学的な面から言うとそのまま鵜呑みにしてよいかどうかは十分な検討が必要ですが、しかし聖書の在祝いとしては実に奥深い味わい深い魅力的なものです。「この世」という汚れに染まっていないマリヤに、人間の本来あるべき姿、人間の模範であり、インマヌエルの原事実であるイエス・キリスト様がお宿りになった。
 しかも、そのお方がお生まれになったのは、薄汚く汚れた馬小屋であった。その汚く汚れた家畜小屋の中で、イエス・キリストを宿したマリヤが置かれる。そしてそこでイエス・キリスト様がお生まれになるのです。そのマリヤに象徴されるイエス・キリスト様を宿しす場所である「この世」の如何なる汚れにも、また何ものにも染まっていない、粋な聖い部分は、私たちの心の奥底に「絶対的に何ものにも染まっていない純粋な聖い部分」としてある。
 そのことを想い、私たちの内に在る「純粋で聖い部分」に、イエス・キリスト様が宿りお生まれ下さるのだと思い巡らしますと、この乙女が救い主イエス・キリスト様を身ごもり、家畜小屋で救い主をお産みになられたと言う処女降誕の物語は、なんとも恵み深く味わい深い物語として私たちの心に迫って来る。それは、この乙女が身ごもると言うマリヤの物語が、私の内に在るイエス・キリストと言うお方の存在に目覚める私の物語となるからです。

 みなさん、私たちは「この世」の中で生きています。それはあたかも、あの家畜小屋の中にいるようなものであります。そして家畜小屋の匂いが染み込むように、私たちは、否応なしにどこかで「この世」の在り方に染まって生きている。だから「この世」が神に敵対し、イエス・キリスト様を憎み、私たちキリストにあるクリスチャンを迫害するものであるとわかっていても、どこかで、「この世」的なものの見方や、考え方をし、「この世」的な価値判断をし、行動してしまいます。
 しかし、そのような私たちであっても、イエス・キリスト様は私たちの内に宿り、神は私たちと共にいてくださっている。そう考えると、みなさん、なんともありがたいことではありませんか。それは本当にありがたいことだ。だからこそ、みなさん、私たちは、少しでもイエス・キリスト様に近づき、イエス・キリスト様の倣い、イエス・キリスト様のように生きたいと思うのです。

もちろん、先ほども申しましたように、このような理解は黙想的であり、神学的には厳密な検討が必要ですが、しかし、私は結構いい線を言っているように思うのです。と申しますのも、先ほど司式の方にお読みいただいたエペソ人への手紙において使徒パウロは

   19:そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍 
  の者であり、神の家族なのである。 20:またあなたがたは、使徒たちや預言者たちと
  いう土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石で
  ある。 21:このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成
  長し、 22:そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとな
  るのである。

と言ってもいるからです。

 みなさん。パウロはここでエペソの人たちに向かって、「あなたがたはもはや異国人でもなく、宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍のものであり、神の家族なのである」と言います。いうまでもなく、エペソの人たちは、民族的には異国人であり異邦人です。そしてユダヤの民にとっては、ユダヤ人こそが聖なる民であり、異邦人は汚れた者たちなのです。しかし、パウロは、その汚れた民である異邦人がイエス・キリストによって一つに結ばれ、同じ国籍となって神の家族となると言うのです。そして、イエス・キリストによって、聖なる宮として成長し、聖なる神がそのうちに住んで下さると言う。
 それは、まさに、インマヌエルと言う出来事が、ユダヤの民の出来事として起こるだけでなく、ユダヤ人にも異邦人にも起こることであり、そして私たちにも起こる出来事だと言うことです。それは、私たちが聖なる存在として聖なる生き方をするものとなったからではありません。「この世」に染まった汚れた者のままで、しかし、その汚れた者であったとしても、私たちの心の奥深いところにある「純粋でなにものにも染まっていない聖い部分」があるからこそ、そこにキリストは宿ってくださる。

 クリスマスは、そのことを私たちに教え、私たちの内にキリストがいてくださり、神が私たちの内に住まわっていてくださることを私たち気付かせ、私たちが聖なる民であることを目覚めさせてくれる出来事なのです。そして、私たちの内にキリストがおられ、神が私たちの内に住み、私たちと共にいてくださると言うことに目覚めるときに、私たちは聖なる生き方をするものとなっていく。

 先ほど私たちは、申命記の7章6節から11節の言葉に耳を傾けました。この箇所は、神がイスラエルの民を聖なる民としてお選びになり宝の民としてくださったと言う出来事とその選びの根拠が記されています。それは「あなたがたがどの国民よりも数が多かったから」ではなく、「ただ主があなたがたを愛し、またあなたがたの先祖に誓われた誓いを守ろうとして」である。というのです。

 あなたがたの先祖に誓われた誓いとは、アブラハムと神との間に結ばれた契約のことを指すと思われます。つまり神がイラエルの民を選び、愛し、宝の民としたのは、あなたがた自身の中にその理由があるのではなく、ただ、あなたがたの先祖であるアブラハムとの約束の故だというのです。
 しかし、一度(ひとたび)約束が結ばれますと、そのアブラハムとの約束ゆえに神は、イスラエルの民を愛するとお決めになると、とことん、イスラエルの民を愛し、宝の民としてくださる。だから、聖なる民として聖なる民らしく生きて行くのだと、そういって聖なる民となるための指針として神は律法をお与えになったと言うのです。

 みなさん、イスラエルの民、それはアブラハムの子孫としてアブラハムの契約の内に在る民です。その民の中に生まれた子供は、生まれたときからアブラハムの契約に基づく聖なる民の性質を内側に宿している。だからこそ、アブラハムの子孫は、アブラハムが神の言葉に従順であったように律法に従って生きて行くことが求められた。まさに神に民として神の民らしく生きて行くために律法があり、律法が養育係だったのです。
 このアブラハムの契約は、イエス・キリスト様の新しい契約へと発展していきます。そして、このイエス・キリスト様による新しい契約の下に置かれた者は、イエス・キリスト様が生きられたように生きる者となっていく。それは、私たちのキリスト者の心の奥底の「何ものにも染まっていない「純粋で聖い部分」にイエス・キリスト様が宿り、そこおいて、神われらと共にいますと言うインマヌエルであられるイエス・キリスト様が生きておられるからです。

 みなさん、クリスマスはそのことに私たちに繰り返し目覚めさせ、私たちがイエス・キリスト様に似たものとなるようにと導いてくれる神の恵みの時なのです。そのことを想いつつ、しばらく静まり静思の時を持ちましょう。

2018年12月18日火曜日

2018年12月16日 小金井福音キリスト教会 説教題 「 共におられる神 」

2018年12月16日 小金井福音キリスト教会 説教

聖書
旧約書 : イザヤ書 7章14節
福音書 : マタイによる福音書 1章23節
使徒書 : ヨハネの第一の手紙 4章15節

説教題 「 共におられる神 」



2018年12月9日日曜日

2018年 12月 09日 小金井福音キリスト教会説教

2018年 12月 09日 小金井福音キリスト教会説教

聖書
旧約書 : イザヤ書401節から5
福音書 : ルカによる福音書15節から23
使徒書 : テモテへの第二の手紙41節から5
説教題「キリストを迎える道備え

 教会に飾られたクランツに二つ目のローソクが灯され、待降節の第2週の主日礼拝となりました。先週は、クリスマスというものが、紀元2世紀から4世紀ごろの間にローマ帝国で太陽を不滅の神として崇める冬至の祭りに対してキリスト教会が、真の義の太陽であるイエス・キリスト様を祝うことから始まったと言うことをお話しいたしました。

 そして、この義の太陽こそが、不正や暴虐がはびこっている時代に、神の王国の王として神の国をもたらしてくれる希望であると言うこともお話ししました。その義の太陽であるイエス・キリスト様がこの世界に来られたということは、それはつまり、この世界の中に神の王国がやって来たということです。つまり、クリスマスとは、イエス・キリスト様がお生まれになったことを記念し、それを祝う日であると同時に、この世界の中に、神の王国がやって来たことを祝う日でもあるのです。

 しかし、みなさん、先週の礼拝で旧約聖書のマラキ書をお読みいただき、そのマラキ書の時代背景は、神の民イスラエルの中で信仰が形骸化し暴虐や虐げ、そして不正が蔓延し道徳的にも乱れきっている、そんな時代でした。そして、イスラエルの民の中の神の民としての自覚やほこりが損なわれ、神の民の共同体としての結びつきが崩れてしまいそうな時代であったと言えます。そのような世界に義の太陽がやって来るのです。逆に言うならば、義の太陽であられるイエス・キリスト様が来られる世界は、暴虐や虐げ、そして不正に満ちた世界だと言うことです。

 そのような乱れ切った世界に、神の御子が神の王国の油注がれた王として来られた。しかし、そのような乱れ、腐敗した世界の中に、何の前触れもなくイエス・キリスト様は、私こそが油注がれた神の国の王であると言って登場したわけではありませんでした。父なる神は、イエス・キリスト様が王としてこの世界に現れ出るためにちゃんと道備えをしてくださっている。それが、先ほどお読みいただきましたルカによる福音書15節から23節にあります、バプテスマのヨハネという人物です。

 みなさん、イエス・キリスト様がお生まれなさったという物語、それは、まさに神が人として受肉すると言う奇跡でありますが、神は聖霊によって乙女マリアからイエス・キリスト様をお生まれさせなさったという奇跡の物語でもあります。そしてその奇跡は、イエス・キリスト様と言うお方のお誕生は、神が、不正や暴虐や虐げに満ちた世界にご介入なさると言うことを宣言するものでありました。

 同じように、聖書が告げるバプテスマのヨハネの誕生の物語にも、神がそこに介在するという奇跡的な物語が展開する。それは、今、司式の兄弟にお読みいただいたイザヤ書403節から5節の言葉から始まります。そこにこうあります。

3呼ばわる者の声がする、「荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ。 4:もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ、高低のある地は平らになり、険しい所は平地となる。 5:こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る。これは主の口が語られたのである」。

 みなさん、イザヤ書の40章は、イザヤ書にあっても特別な章です。イザヤ書は、それでの39章までは、イスラエルの民に対する厳しい神の叱責の言葉と、厳しい歴史的現実がかたられるのですが、この40章からはガラッと変わって、神の慰めの言葉が語られるようになる。この39節から40節までの語り口調や文体があまりにも違いすぎるので、旧約を専門とする学者の中には、イザヤ書は一人の人物が書いたのではなく、39章まで書いた人物と40章以下を欠いた人物は違うのではないかという人が少なからずいます。そして、39章までも第一イザヤ、40章以降を第二イザヤと言う具合に区分する。

 私たち福音派と呼ばれるグループの多くの牧師は、このように第一イザヤと第二イザヤと言ったふうに複数の著者がいると言う立場を取らず、イザヤと言う一人の人物の手によるものであると言う立場をとる人が圧倒的に多いのですが、ここではイザヤ書の著者が複数なのか一人なのかと言ったことは問題ではない。大切なのは、神の民に神の慰めと救いの言葉が語れるようになるその冒頭に、荒野に主の道を備え、砂漠にわれわれの神のために大路をまっすぐにする、いうなれば道備えをする者が現れると言うことが語られていると言うことです。

 神の慰めの言葉が語られ、救いの言葉が語られる時、その言葉が語られる間に、人々がその言葉に耳を傾けて聴くことができるように道備えをする者がいると言うのです。それは、荒野に呼ばわる声だというのです。
 荒野に呼ばわる声と言うのですから、まさに、荒野のような荒廃した世界にいる人々の心を、神に向けさせる働きをする。そして、バプテスマのヨハネ自身が、自分はその荒野に呼ばわる声であるとそう言っている。ヨハネによる福音書119節には、人々から「あなたはキリストですか」と聞かれたときに、ヨハネが「私はキリストではない、私は預言者イザヤがいった荒野で呼ばわる者の声だ」といった記事が出ていますが、バプテスマのヨハネ自身が、荒野で呼ばわる者の声であると自覚しているのです。
 その自覚は、おそらく先ほどお読みいただいたルカによる福音書の1章にある自分が生まれる際に起こった出来事を、まるで物語のように両親から繰り返し聞かされていたからではないかと思われます。それは、まさに神がバプテスマのヨハネの誕生に際して、奇跡的に関わられた物語です。

 みなさん、バプテスマのヨハネの父ゼカリヤと母エリサベツの間には長い間子供が与えられず、二人とも年老いていました。その老夫婦に神は天使をみ使いとして遣わして子供を与えると約束する。そして、その子の名をヨハネとつけなさいと言うのです。その上で、「その子はエリヤの霊と力をもって、みまえに先立っていき、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう」と天使は言う。つまり、人々の心を神に向けさせるというのです、

 実際、バプテスマのヨハネは荒廃した世界の中に出て行き、人々の罪を厳しく糾弾し、神に立ち帰るようにと人々に語り、そしてイエス・キリスト様を「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」といって人々に紹介した、。みなさん、私たちがここで注意しなければならないのは、罪と言うことが単に、犯罪を犯したとか、道徳的に過ちを犯したとか、社会の規範を犯したと言ったことではないと言うことです。

確かに、犯罪とか、道徳的な過ちとか、社会の規範を犯すと言ったことは悪いことです。そして、それらは罪から生み出されるものです。しかし、それらは悪ではあっても、ここで言う罪ではない。みなさん、聖書が言う罪とは、神から離れ、神を意識せず、また私たちが神を見失なってしまっている状態を指すものです。そのように神から離れ、神を意識せず、神を見失っているからこそ、私たちは悪いことをしてしまうのです。つまり、問題は私たちと神と関係にあります。用は、私たちが誰を見、誰を意識し、誰を目標に生きているかなのです。 
そしてその誰かということは、しばしば自分自身であったりする。だから自己中心と言うのは罪だと言うのです。自己中心とは、自分自身の心の鏡に、自分の欲望を映し出すことです。そして、そのような罪は「この世」と言う世界によって私たちにもたらされるのです。

みなさん。そのような世界の中でバプテスマのヨハネは、その見るべき方向を人々に指したのです。誰を見なければならないかを示した。そしてそれが、神が遣わされた油注がれた王であるイエス・キリスト様だったのです。それは、この世界に神の王国が建てら、イスラエルの民が神の王国に招き入れられるれていく道備えであった。

 みなさん、義の太陽が昇る世界は、暴虐や虐げや不正に道、道徳的に乱れ、信仰は形骸化してしまった荒廃した世界です。ですから、真の義の太陽であるイエス・キリスト様がお越しになられる世界は、荒廃した世界なのです。そしてその荒廃した「この世」と言う世界は、私たちの心から神を締め出して神から離れさせ、神を意識せず、神に頼ることも、神を必要とさせず、神を見失って、自分の思いや願い、そして欲に従って生きさせる世界です。そのように罪が支配している世界にイエス・キリスト様はお生まれ下さったのです。

みなさん。イエス・キリスト様は、その罪に支配されて荒廃している世界に生きる私たちを、その罪の支配から私たちを解放してくださるためにこの世界に来られた。
だから、誰もがクリスマスと言う出来事を必要としている。神の御子がしみに支配されている世界に来てくださったと言うクリスマスの出来事に無関係な人、無関係でいられる人など一人もいないのです。 
それは、この罪が支配する世界の中で、もっとも荒廃し、砂漠のようになっているのは、私たち人間の心だからです。私たちひとり一人の心が、この罪に支配された世界というもの映し出している鏡なのです。ですからみなさん、私たちの心の中にはイエス・キリスト様が必要なのです。 
また、だからこそ聖書は、「み言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい」というのです。先ほどお読みいただきましたテモテへの第二手紙42節です。 
それは、私たちの心が「この世」というこの世界を映し出すのではなく、イエス・キリスト様と言うお方を映し出すためです。私たちの心の鏡が、神と言うお方を映し出してはじめて、私たちは罪の支配から解放されるのです。

みなさん、聖書は、先ほどのテモテ第二の手紙の42節に続いて、こう言います。3節、4節です。それは、人間の心と言うのが、如何に自分の願いや思い、そして欲望に従いやすいかと言うことを示している言葉です。そこのはこうあります。

人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳ざわりの良い話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして真理から耳をそむけて、作り話の方にそれていくときが来る。

 みなさん、「この世」と言う世界は、私たちの心の鏡が、神と言うお方を映し出させないように私たちの欲望に働きかけながら、私たちの心の鏡に、自分自身の思いや願い、そして欲望を映し出させようとします。

この「この世」と言う世界の私たちを罪に誘う働きかける力、その力に打ち勝ち、私たちの心の中に神の姿を映しだすためには、私たちの心の中にイエス・キリスト様と言うお方がお生まれ下さると言う出来事が必要だ。クリスマスと言う出来事が私たちの内に必要なのです。そのためには、荒野で呼ばわる声となる人が必要です。バプテスマのヨハネが必要なのです。では、誰がその荒野で呼ばわる人となるのか。
それは、こうして教会に集う私たちひとり一人です。私たちひとり一人は、「キリストの証人」となるべく神に呼び集められたひとり一人です。そして、誰かのための「荒野に呼ばわる声」となるものとして神は。私たちを召しておられる。

先ほどのテモテ第二の手紙の第4章は、4節、5節で
  
人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳ざわりの良い話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして真理から耳をそむけて、作り話の方にそれていくときが来る。

と言った後、それに続いて「しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難をしのび、伝道者の業をなし、自分の務めを 全うしなさい」と言っている。この言葉は確かにテモテと言う一人の伝道者向かって語られた言葉です。しかしテモテと同様に、私たちひとり一人がイエス・キリストの証人であり、伝道者であり、人々の心を神に向けさせる荒野で叫ぶ声なのです。
それは何も、言葉で伝えると言うことだけではない。私たちがイエス・キリスト様を信じ、礼拝し、神の言葉に耳を傾けながら生きて行くというその生き方そのものが、荒野で叫ぶ声となるのです。そのことを覚えながら、神を信じ、イエス・キリスト様を信じる者として、神の前に生きる者でありたいと思います。祈りましょう。

2018年12月4日火曜日

2018年待降節第一主日説教「太陽は輝いている」

 2018年12月02日 待降節第一週主日礼拝説教「太陽は輝いている」

旧約書:マラキ書4章1節から6節
福音書:マタイよる福音書5章43節から48節、6章14節から19節
使徒書:テサロニケ人への第一の手紙5章5節から11節

説教題「 太陽は輝いている 」
 ※ 録画中にトラブルがあり、途中録画が切れている部分があります。



さて、2018年も12月に入り、クリスマスのシーズンになってまいりました。もっとも世間では、11月に入りますと早々にクリスマスの飾りつけなど顕われてまいりますので、今さら、教会でクリスマスシーズンになりましたと申しましても、世の中から一歩の二歩も後れを取った感じがあります。しかしそれは、世間が勇み足なのでありまして、私たちクリスチャンにとっては、当然のことではありますが、クリスマスは、イエス・キリスト様の降誕を祝う教会の大切なお祭りなのであり、そのクリスマスを迎える前の4週間を教会ではアドベント(待降節)と呼びクリスマスの時を祝うのですが、そのアドベントは11月30日に最も近い主日からアドベントから始まります。
 
 そのようなわけで、今日がそのアドベントの第一主日となります。そのアドベントの第一主日の礼拝における聖書個所として、私は旧約書としてマラキ書4章1節から、新約聖書福音書からマタイによる福音書5章43節から48節および6章14節から19節、そして新約聖書の使徒書からはテサロニケ第一の手紙5章5節から11節までを選びました。

 その箇所を、今、司式の兄弟が今お読みくださいましたが、みなさんは、その聖書の言葉を聞きながら、なぜこの箇所がクリスマスを迎える待降節の第一主日に読み上げられるのかと不思議に思われたのではないかと思います。

 確かに、これらの箇所は、イエス・キリスト様がお生まれになったというクリスマスの出来事を思わせるような内容ではありません。しかし、この三つの聖書個所は、ある一つのキーワードを通して、クリスマスの出来事を伝える大切なメッセージを生み出してくるのです。ではそのキーワードとは何か。それは『太陽』と言う言葉です。とりわけマラキ書4章2節にある言葉がクリスマスと言う出来事を考えるときに、重要な意味を持ってくる。そこにはこうあります。 

   1:万軍の主は言われる、見よ、炉のように燃える日が来る。その時すべて高ぶる 
  者と、悪を行う者とは、わらのようになる。その来る日は、彼らを焼き尽して、根
  も枝も残さない。2:しかしわが名を恐れるあなたがたには、義の太陽がのぼり、そ
  の翼には、いやす力を備えている。あなたがたは牛舎から出る子牛のように外に出
  て、とびはねる。3:また、あなたがたは悪人を踏みつけ、わたしが事を行う日に、
  彼らはあなたがたの足の裏の下にあって、灰のようになると、万軍の主は言われる  

 みなさん、このマラキ書というのは、その著者が誰であるかは分かっていません。確かに、マラキ書と言うタイトルはついていますが、このマラキいうのは、人の名前ではなく単に「私がつかわした者」という意味の言葉です。もちろん、モーセと言う名には「引き出す者」という意味や、イザヤと言う名には「主は救い」と言う意味がありますように、ユダヤの人々にとって言葉の意味と名前とが直接的に結びつくことがしばしばあります。 
 しかし聖書の中にマラキと言う名前の前例はなく、実際ユダヤ人の名前の中にそのような名前を見出すことができないのです。つまり、マラキというのは名前ではない。
 その無名の著者によるマラキ書は、イスラエルの民がバビロンに奴隷として捕らえられ、長い捕囚生活から解放され、神殿が再建されたと言う出来事からさらに後の時代、具体的には紀元前5世紀前半のネヘミヤ記が書かれる前の時代に書かれたものであると考えられています。

  その時代においては、イスラエルの民は、既にバビロンから解放され、神殿も再建され、ユダヤ業の宗教儀礼も再開されていました。しかし、現実にはそれまでユダヤの民を支配していたバビロン敵国からペルシャ帝国に代わっただけであり、相変わらず他民族の支配の下におかれていると言う状況はは変わっていません。つまり、自分たちの王を迎え、神の国であるイスラエルの国を再興するというユダヤの民の願いは実現に至っていないのです。言うなれば、イスラエル王国の復興すると言う彼らの夢や希望は、じり貧状態に陥っていたのです。そのようなじり貧の状態が続きますと、いったい神は私達ユダヤの民を本当に愛し下さっているのかと言う思いが沸き上がって来る。 そうなりますと、神を信じる信仰は揺れる葦のように揺らぎ、彼らの信仰は形骸化し、人々の生活は荒廃していきます。そして、彼ら自身の神に選ばれた神の民であると言う意識も薄らいでき、不正や暴虐が起こって来る。

 そのような状況のただ中で、この無名の預言者はユダヤの民に希望を語ります。それが、「しかしわが名を恐れるあなたがたには、義の太陽がのぼり、その翼には、いやす力を備えている。あなたがたは牛舎から出る子牛のように外に出て、とびはねる」と言うことです。 この義の太陽こそが神の王国の油注がれた王であり、神の王国が到来すると言う希望なのです。もちろん、その神の王国の油注がれた王としてこの世界に来られたお方は、イエス・キリストさまであり、イエス・キリスト様こそが義の太陽なるお方である。

  この希望が具体的なクリスマスと言う祝いの祭りとして出来事となっていく。それは、このマラキ書の時代のずっと後の2世紀から4世紀前半頃のローマ時代になってです。そのころの古代ローマ帝国では、「冬至の祭り」という祭りが盛大に行われていました。これは、冬至は一年で日の長さが一番短くなり、そこからまた日の長さがだんだんと長くなっていくところから、太陽の死と復活を読み取り不滅の太陽を祝う祭りでした。それが12月25日に行われていた。 その冬至の祭りに対して、その時代のキリスト者たちが、マラキ書にある義の太陽であるイエス・キリスト様のご降誕を祝おうと始めたのが、今日のクリスマスの起源であると言われます。

 つまり、クリスマスとは、イエス・キリスト様がお生まれになったと言うことを祝う出来事であると同時に、イエス・キリスト様と言う神の王国の王の到来を祝う祭りだと言ってもよい。 この神の王国の油注がれた王であるメシアは、不正や暴虐が支配している世の中を正すお方ですから、そこには義があり公正があり慈しみがある。つまり義の太陽であるメシアは、公正なお方であり、正義のお方であり慈しみ深く愛に豊かなお方なのです。そのお方、イエス・キリスト様が王として支配する国がクリスマスと共にすでに始まっている。 

 みなさん、先ほどマタイによる福音書5章43節から48節の言葉を、私たちは耳を傾けて聴きました。マタイによる福音書の第5章は、いわゆる山上の垂訓と言われるイエス・キリスト様によって示された神の王国に生きる神の民の生き方です。その中で、イエス・キリスト様は、「隣人を愛し、敵を憎め」と言うのはごくごく当たり前のことで、誰もがそう考えることであるが、神の王国の民であるキリスト者は、隣人を愛するようにあなたの敵を愛し、迫害する者のために祈るものとなりなさいと、そう言っておられます。 またマタイによる福音書の6章14節では、人の過ちを赦せとも言われている。
 みなさん、赦すと言う出来事が起こる場面では、赦す者は、赦されるものによって何らかなの損害や危害を受けている。ですから赦す者にとって、許しを受けるものは、本来ならば憎むべき相手です。それを赦せという。
 「この人々の過ちを赦せ」という言葉のすぐ後を見ますと、断食しているのを人に見せるためにする名と言うことが書かれている。そこには、信仰に熱心だと言われるような人が、その実、信仰が形骸化してしまっていると言うことがあった塔ことをうかがわせる言葉です。そのような信仰が形骸化してしまっている中で、イエス・キリスト様は、敵を愛し、迫害する者のために祈り、過ちを犯すものを許してやれと言われる。
 そしてそれは、天の父は、悪い者の上にも、善い者の上にも太陽を登らせ、正しい者に上にも正しくない者の上にも雨を降らしてくださる方だからだと言うのです。

 もちろん、このマタイによる福音書でいう太陽と言うのがイエス・キリスト様のこと直接的に言っていると言うわけではありません。このイエス・キリスト様の言葉は、あくまでも自然現象を比喩として、良い物も悪い者も分け隔てなく愛する神の慈愛を指すためのものです。 その意味で、太陽が良い者の上でも悪い者の上でも輝いているように、神の恵みは全ての人に等しく注がれている。それはつまり、神の御子であり、神の王国の王である救い主イエス・キリスト様がもたらす救いの業もまたすべての人に等しく与えられていると言うことでもあるのです。

 しかし、みなさん。よく考えてみてください。太陽が良い者の上でも悪い者の上でも輝いているように、神の恵みは全ての人に公平に等しく注がれている、あるいは、救い主イエス・キリスト様がもたらす救いの業もまたすべての人に等しく公平に与えられているということは、本当に公正なことであり、公平なことなのでしょうか。悪い者は裁かれ、良い者が救われるというというなら納得もできますが、良い者も悪い者も等しく神の恵みが注がれている、イエス・キリスト様がもたらす救いの業が与えられているといわれると、それはむしろ不公平なことのように、私には思われるのですがどうでしょうか。

  みなさん、確かに私たちが良い者にも悪い者にも救いの恵みが等しく与えられていると言う一点、言うならば救いの入り口だけに目を注いでいたならば、確かにそれは不公平なことかもしれません。しかし、イエス・キリスト様のもたらす救いとは、私たちを神の王国の民とすると言うことです。つまり、救いは入り口だけの問題ではない。神の王国の入り口を入りキリスト者となった者が、マタイによる福音書5章48節にありますね、「あなたがたの父が完全であられるようにあなたがたも完全な者になる」という救いのゴールに至ることによってイエス・キリスト様の救いの業が完成するのです。

 みなさん、興味深いことに、 マタイによる福音書13章43節には「そのとき、義人たちは彼らの父の御国で、太陽のように輝きわたるであろう。耳のある者は聞くがよい」と書かれている。そこで言われていることは、イエス・キリスト様が義の太陽として輝いておられるように、私たちもイエス・キリスト様のように太陽として輝く者なるのだということです。 それは、私たちが神の救いの業により、この罪が支配する世界から解放され救われると言うことは、単に罪が赦されると言う消極的なことだけではなく、もっと積極的に、偽の太陽であるイエス・キリスト様のように、輝くものとなるのだと聖書はいうのです。

 みなさん、確かに、私たちひとり一人は良い者と悪い者と言うわけではないにしろ、スタートラインが違います。ひとり一人が個性ある、差異あるひとり一人です。しかし、神が私たちを導いて行かれようとするゴールは同じです。だれもが、完全な者となる。イエス・キリスト様のようなものとなることができるのです。

  それは、私たちが神の子とされているからです。義の太陽の光が輝く光の下に置かれているからです。先ほど使徒書テサロニケ人への第一の手紙5章4節から6節には、このように書かれています。 4:しかし兄弟たちよ。あなたがたは暗やみの中にいないのだから、その日が、盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはないであろう。5:あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない。6:だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう。

  義の太陽であるイエス・キリスト様が、闇のようなこの世界に来てくださり神の王国をもたらしてくださった。それは私たちがもはや夜のものでも闇のものでもなく、明るく輝く昼の日差しの中で、私たちまた、イエス・キリスト様のように太陽として輝くためなのです。  みなさん。神の言葉である聖書は、私たちに完全な者となりなさいとか、敵を愛しなさいとか、互いに赦しあいなさいとか、結構、無理難題と思われることを私たちに要求してきます。とてもそのような聖書が求めてくる生き方などできないように思います。けれども、聖書は、私たちがイエス・キリスト様のようになるというのです。大切なのは。その聖書の言葉を信じてイエス・キリスト様のようになろうとして生きることなのです。それじゃぁ、イエス・キリスト様のようになるとはどういうことか。 

 イエス・キリスト様のようになると言っても、イエス・キリスト様がどのようなお方かがわからなければ、なりようがありません。みなさんイエス・キリスト様とはどのようなお方なのか。  聖書は、イエス・キリスト様がお生まれになる時に、マリヤにあなたは神の子を身ごもりますよ。その子はインマヌエルと呼ばれますよと伝えている。インマヌエルとは「神、われら共にいます」と言う意味です。そう、いつも神と共にあり、神と共に生き、神の御旨を生きたお方がイエス・キリスト様と言うお方です。

  確かに、イエス・キリスト様は愛のお方でした。赦しのお方でした。慈愛にあふれた方であり、恵みと憐みに富んだお方でした。義なるお方であり、公平で公正なお方でした。しかしこれらは、イエス・キリスト様が神と共に在られたお方であると言いことの結果として現れ出たものです。ですから、神我らと共にいますというインマヌエルということを意識し、神、共に生きると言う生き方ぬきで、イエス・キリスト様のように愛ある者、赦す者、慈愛にあふれた者、恵みと憐みに富む者、正しい者、公平で公正な者になろうとしてもそれは土台無理なことです。

  けれども、私たちがいつも神と共にあり、神と共に生きようと意識するならば、私たちは、義の太陽であるイエス・キリスト様のように、太陽のようになって輝くことができるのです。  みなさん、クリスマスは義の太陽であるイエス・キリスト様がお生まれ下さったことを記念し祝う日でありますが、それは神の王国がこの世界にもたらされたことを祝う日です。そして、私たちが、イエス・キリスト様がインマヌエルなるお方であったように、神が私たちと共にいて下さり、神が私たちと共に歩んで下さる新しい人生がもたらされた日でもあるのです。そのことを覚えながら、今日から始まるアドベントの期間を、神を想い、イエス・キリスト様を思いながら過ごしていきたいですね。みなさん、義の太陽は今日も分け隔てなく、私たちの上で輝き、私たちを導いておられるのです。お祈りしましょう。

2018年11月25日日曜日

2018年 11月25日 小金井福音キリスト教会 説教題「 キリストの体なる教会の在り方 」


2018年 11月25日 小金井福音キリスト教会 説教

聖書
旧訳書 : レビ記
福音書 : マタイによる福音書
使徒書 : 使徒業伝
説教題 「 キリストの体なる教会の在り方」




今日の礼拝説教の中心となる聖書個所は使徒行伝240節から47節ですが、この箇所はもっとも最初期の教会がどのようなものであったかを私たちに教えてくれる箇所です。イエス・キリスト様は十字架に架けられ死なれ蘇られることによって、私たちを罪の支配から解放して下さり、神との新しい契約で結ばれた神の国の神の民としてくださいました。

 そのよみがえられたイエス・キリスト様は、そのことを弟子たちに教え、そして天に昇られると言う象徴的な行為によって、ご自分がまさに神のひとり子であられることをお示しになりつつ、父なる神の御元へとお戻りになられたのです。それと引き換えに、イエスキリスト様は聖霊なる神がこの世界にお下しになった。それが使徒行伝21節から40節にあるペンテコステの出来事でした。

 このペンテコステの出来事を通して、具体的な形として見ることはできませんが、この世界に唯一普遍の、世界中のすべての教会を包む神の国であるキリストの体なる教会が始まった。私たちは、そのキリストの体なる教会が、具体的に目に見える形で結実した一つの教会である小金井福音井リスト教会に結びつけられ、今日、こうして神を礼拝しているのです。ですから、この小金井福音キリスト教会という具体的な教会は、神の国であり、キリストの体なる教会の、「この世」での表れの一つなのです。

 この神の国の表れである教会とはどのようなところであるか。それがこの使徒行伝240節から47節に表されている。逆に言いますと、この使徒行伝240節から47節をみますと、神の国である教会とはどういうところであるかがわかる。また神の国である教会は、どのような教会を目指し教会形成をして行けばよいかということがわかるのです。

 では、その原初の教会の姿とはどのようなものであったのかと言うと、まず第一に彼らは使徒たちの教えを固く守っていたと言うことです。

 ここでいう使徒たちの教えがどのようなものであったのかについて、これが使徒たちの教えだよと言ってまとまった形で示して箇所は聖書の中にはありません。しかし、聖書以外の歴史的資料の中にそれらしいものがある。それが使徒たちの遺訓と呼ばれる書物、ギリシャ語ではディダケ―(διδαχη)と呼ばれる書物です。

 この12使徒の遺訓は1世紀から2世紀、おそらくは紀元100年前後に書かれたものだと考えられています。ですから、12使徒たちが生きた時代に非常に近い時代に書かれたものですので、この使徒行伝242節で書かれている使徒たちの教えというものの内容は、おそらくはこの12使徒に遺訓に反映されているものと考えてもいいだろうと思います。

 実際、今日の聖書個所の使徒行伝244節、45節には「44:信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし 45:資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた」と記されていますが、これなどは、12使徒の遺訓第4章「人を敬うこと」の5節から8節にある言葉が実践されていた一つの事例だと言える出来事です。すなわちそこには、こう書かれているのです。

5:なんじ、もらうときには手を伸ばし、与えるときには手を引っ込める人のようで
あってはならぬ。6:自分の労働で獲得した何かを持っているときには、罪の贖いとしてそれを人に与えよ。7:与えることをためらってはならぬし、与えるときにつぶやいてもならぬ。やがてなんじへの報い主がだれであるかがわかるであろう。8:日々の生活に事欠く人を退けず、持てる物はすべて分ちあい、何物をも自分だけの物としてはならぬ。なぜなら、なんじら不死性に一緒にあずかるから、むろん、はかないものを分ちあわなければならない。

 この12使徒の遺訓は、肉の欲と悪事から離れて、神の民として神の民らしく生きなさいと言う倫理的な教えと教会の洗礼や聖餐、あるいは断食や祈り、そして教職制度などの教会制度や礼典に関する教えが記されていますが、特に神の民がいかに生きるべきかと言う倫理的な面では、主に十戒と山上の垂訓に立脚して書かれています。

 この十戒や山上の垂訓は、歴史的には聖書解釈上いろいろと意見や主張が分かれてきた箇所です。例えば、宗教改革の時期に山上の垂訓を巡っては、ルターとエラスムスの間でその解釈が分かれました。どのようにわかれたかと言いますと、宗教改革者のルターは、山上の垂訓は罪びとである人間には行えない神の道徳基準であって、人間が神の道徳基準を行うことができない罪びとであることを教えるものであると言う。そして、この罪びとである自覚が起こることからこそ、行いではなく信仰によって救われる神の恵みを求めさせるためにあるのだと言うのです。それに対して人文主義者であるエラスムスは、いや山上の垂訓は人間に決してできない道徳基準といったものではない。人間にはそれを行うことが可能である。そもそも聖書は人間にできないことを要求などしないと主張したのです。

 どちらの言い分にも、それなりに「なるほどなぁ」と思わされるところがあります。しかし、この12使徒の遺訓を見る限り、使徒たちは、十戒もまた山上の垂訓も神を信じ神に従って生きる民には決して実現不可能なことではないと考えていたようです、それらを実際に実践して生きて行くように努力してい来ることを求めていた。それはつまり、神の国のこの世の表れである教会は、神を信じる神の民が神の言葉に従って生きていくためにあるのだと言うことを私たちに語り、教えていると言うことでもあります。そしてそのような神の民が集まる教会は、必然的に、神の言葉に従って生きて行く者たちの群れとなって行くのです。そしてそれが、本来の教会の姿であり、教会の目指していく方向なのです。

 原初の教会に見られる教会の姿の第二の点は、交わりをなしていたと言うことです。この交わりと言うのは、使徒信条[i]でいうところの聖徒の交わりと言ってもよいでしょう。みなさん、私たちは、毎週の礼拝で使徒信条を唱和します。使徒信条は、私たちが信じるキリスト教の信仰の大切な要素であり、私たちの信仰告白でもあります。

 その使徒信条は、まず「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と言って、父なる神について述べ、それに引き続いて「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん」と子なる神イエス・キリスト様について語ります。そしてその後に「我は聖霊を信ず」と言って聖霊の業として、聖なる公同の教会が建てられ、聖徒の交わりが始まり、私たちに罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえの命が絶えられたことを信ず」といって聖霊がなされる業について語るのです。

 ですから、教会は聖霊によって造られるのであり、その教会に集う者たちは聖徒として互いに愛し合い支え合う交わりを持つのです。その具体的表れが、やはり先ほどの使徒行伝244節から45節では「44:信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし 45:資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた」として実践されていた。つまり、聖書の教えを実践していくならば、一人一人が、神の民として神の言葉に聞き従いながら生きていくならば、神の民の集まりである、教会においては互いに愛し合い支え合う交わりになっていくと言うことです。

 この互いに愛し合うと言うことは聖書が一貫して主張する聖書の教えです。先ほど、司式の兄弟にレビ記19章の910節をお読みいただきました。そこにはこうありました。

9あなたがたの地の実のりを刈り入れるときは、畑のすみずみまで刈りつくしてはならない。またあなたの刈入れの落ち穂を拾ってはならない。10:あなたのぶどう畑の実を取りつくしてはならない。またあなたのぶどう畑に落ちた実を拾ってはならない。貧しい者と寄留者とのために、これを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。

 この言葉は、同じレビ記2022節でも繰り返されます。このように繰り返し述べられると言うことは、それが重要な内容であると言うことを意味していると考えてもよいでしょう。そして、このレビ記19910節の言葉が意味するところは、貧しい人や寄留者が食べるのに困らないように顧みてあげなさいと言うことです。そして、その根底には他者を想い愛する隣人愛がある

 みなさん、私が神学校で学んでいるとき、ある教授から古代のイスラエルの国家は福祉国家であったと言うことを学んだことがあります。それは、まさにこの落ち穂の教えにみられるものです。現代の日本においても福祉の重要性は認められるものであります。そして様々な福祉制度があります。しかし、その反面で、別の価値観がある。それは能力や実力がある者、何らかの成果、結果を残した者が、その能力や実力に見合う報酬を受けるのは当然であると言う考え方です。ここ数日、日産のカルロス・ゴーン氏が逮捕された事件に関する報道が繰り返し行われていますが、その背後には、このようなある種の実力主義的な風潮があることは否めません。何かを生み出すといった生産性や創造性のある人間が優れた人間として尊ばれ、重んじられる風潮です。

 古代イスラエルにおける福祉国家の考え方の基本は、すべての人間は平等に顧みられなければならないというものです。一人一人に差異はあり違いがある。その際や違いを認めつつ、それによって人間の評価が変わってしまわないということが、福祉の根底にある。だから、貧しい人や寄留者の人が食べることに困らないように、すべてを収穫しきらず、残しておくように神はイスラエルの民に命じるのです。

しかし、実力主義や成果主義と併存する福祉の考え方は。能力があり実力もある人間が、その能力や実力に応じて成し遂げられた成果によって報酬を受けるのであって、成果を残すことの出来ない人間は、貧しくても仕方がないが、せめて食べる分だけは面倒を見てやろうと言う考え方です。もちろん、多くの福祉に携わる人がそのように考えているわけではありません。福祉に携わっておられる方のほとんどが、むしろ他者を思いやる優しい心でその仕事をしておられます。ですから、そのように断定しきってしまうことは問題です。

しかし、実力主義や成果主義と福祉と言うことが共存するところには、福祉の現場以外のところからそのような考え方が生まれてくる土壌は確かにある。たとえばそれは、あの神奈川県津久井市の山ゆり学園で起こった重い障害をもっておられる方々を何人も惨殺した事件などになって噴き出してくる。 
あの山ゆり学園の事件が起こり、その犯人が主張した「障害を持った方は家族や社会に不幸を生み出す」と言った考え方も、実力主義や成果主義の社会が生み出すひずみがもっともゆがんだ醜い形で表れたもののように思えるのです。

 もちろん、あの事件が起こった後、多くの人が憤りや、怒りを感じた。それは、私たちの古ことの中に、それぞれの差異を認めつつも、その際によってその人の存在の優劣を決めない神の像が刻み込まれているからです。そして、その神の像が、思いやりや愛と言った神の子として造られた人間の精神に、互いに愛し合い支え合うと言う神の法を刻み込んでいるからです。それは本当に素晴らしいことですし嬉しいことです。
 しかし同時に、あの山ゆり学園の事件の犯人の主張に共感できる、あるいはわからないわけではないという人がいるのも事実ですし、つい最近でも「同性愛の人は生産性がない」などといって生産性で人の価値を判断するような発言した国会議員の方がおられるのも現実です。

 そのような社会の中で、教会は、様々な差異を持った人が集まり、そして、自分の持っているものを分け合いながら互いに愛し合い支え合うといった神の国を目指した聖徒の交わりを築いて行くところなのだということを最も最初の教会は私たちに示しているように思うのです。
 そのような原初の教会のようになるためには、私たちひとり一人が自分の優れたところを示し、人の上に立って生きる生き方を目指すのではなく、むしろ、へりくだって生きる者となることが必要です。そしてそれはイエス・キリスト様の生き方でもあった。

先ほどのマタイによる福音書2020節から28節において、イエス・キリスト様に私の二人の息子をあなたの右と左においてやって欲しいというゼベダイの子らの母の願いは、より高い地位をえることを善しとする「この世」の価値観のもとでは、親の願いとして極めてまっとうであり、むしろごく自然の願いだと言えます。

 しかし、イエス・キリスト様がそこで弟子たちに求めたのは、人と上に立つ者になるのではなく、むしろ自らを低くして人に仕える生き方でした。そのような、自らを低くし、人のために仕えて生きる生き方は、まさに神の御子が人となられると言う謙遜さ、そして私たち人間の救いのために命をも投げ出してくださった姿であり、そのへりくだりと奉仕に生きるイエス・キリスト様の姿こそが、神を信じて生きる者の模範でありました。

 もちろん、私たちはイエス・キリスト様のように自分の命まで投げ出すことはできないかもしれません。いや、それはできないことでしょう。あの原初の教会に集ったクリスチャンたちが、持っているものを差し出し、必要に応じて分け合ったということだって難しいことです。しかしそこに、互いに愛し合い、支え合う聖徒の交わりの模範があるのです。
 だからこそ、私たちは、今の私たちの置かれた状況の中で、私たちに出来る互いに愛し合い支え合って生きる教会の姿を模索していく必要がありように思うのです。


 そして、原初の教会が示している教会の在り方の三つ目の事柄は、ともに礼拝をすると言うことです。使徒行伝42節の言葉で言うならば「共にパンをさき、祈をしていた」と言うことです。

 この「共にパンを裂き」ということは、今日でいうならば聖餐式のようなものです。原初の教会の人々は、安息日になると、午前中はユダヤ教の会堂に行き、ユダヤの人々とともに礼拝を守り、夜になると信徒の家に集まり、パン裂きというそれぞれが持ち寄ったパンとぶどう酒を食べる愛餐の時を持っていました。そのパン裂きが後の聖餐式となり、ユダヤ教ではないキリスト教の礼拝の中心となったのです。だから、聖餐はキリスト教会の礼拝にはなくてはならないものなのです。だからこそ使徒行伝246節では「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし」ていたと言うのです。
 このように原初の教会は、使徒たちの教え、それは聖書の教えに基づくものですが、その使徒たちの教えに従って自分の欲から離れ悪事を行わず、互いに愛し合い支え合いながら、神を礼拝しながら日々を過ぎしていたのです。それは、一言でいうならば、「神を愛し隣人を愛する」生きた方です。そして、そのような生き方が教会の中だけではなく、広く「この世」の人々に向かって開かれていたのです。そして、そのような教会は、人々に好意を持たれ、そして、神様は救われる者を起こし、そのような教会に日々仲間を加えてくださった。

 みなさん、私たちは、このキリストの体なり教会に加えられたひとり一人です。それは、原初の教会のように、神を愛するがゆえに共に神を礼拝し、聖餐を共にし、隣り人を愛するが故に、互いに愛し合い支え合って生きて行くキリストの体なる教会を築き上げるためです。そのことを覚えつつ、神を愛し隣人を愛する者の群れとなっていきましょう。お祈りします。




[i] 使徒信条「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。アーメン」

2018年11月23日金曜日

2018年11月18日 小金井福音キリスト教会 説教 説教題 「 神の視点 」

2018年11月18日 小金井福音キリスト教会 説教 説教題 「 神の視点 」

2018年11月18日 小金井福音キリスト教会 説教

聖書

・ヨハネによる福音書 第3章 1節 ~ 15節

説教題 「 神の視点 」

2018年11月17日土曜日

2018年11月11日 小金井福音キリスト教会説教 説教題「 悔い改めに生きる 」

2018年11月11日 小金井福音キリスト教会説教 説教題「 悔い改めに生きる 」

2018年11月11日 小金井福音キリスト教会説教

聖書ヶ所
・申命記 第30章1節 ~ 10節
・マタイによる福音書 第16章 13節 ~ 19節
・使徒行伝 第2章 5節 ~ 40節

説教題 「 悔い改めに生きる 」




さて、前回、使徒行伝21節から4節までにありますペンテコステに聖霊が天から下ってきてイエス・キリスト様の弟子たちに与えられたというペンテコステの出来事から説教をいたしましてから2週間がたちました。

 その2週間前の説教では、ペンテコステの時に聖霊なる神が下った際に、舌のような形をしていたという点に着目し、聖霊なる神が舌のような形をしていたと聖書が記しているのは、聖霊なる神が与えられ注がれた者は、神の言葉を語り、神の御心を伝えるものとなるということの象徴的表現であったのではないかとお話ししました。

 実際、今日の聖書個所にルカによる福音書の24節にはすると、「一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した」とありますが、この他国の言葉というのは、ギリシャ語で舌を意味する(γλσσα:グロッサ)という言葉なのです。つまり聖霊を受けた弟子たちは、イエス・キリスト様のことを様々な外国語で証し始めたというのです。その様子が、今日お読みいただいた使徒行伝25節から12節までに記されています。

 そこを見ますと、弟子たちの言葉を聞いていた人たちは、パルテア人、メディア人、エラム人やメソポタミヤ、ユダヤ、カッパドキアや、ポントとアジア、フルギアとパンフリア、エジプトとクレネに近いリビア地方、またアラビアと言った様々な地方から来た人であったとあります。そのような様々な国から来た人が、自分たちの国の言葉で、イエス・キリスト様のことを聞いたのです。ですから、まさに聖霊なる神が与えられ注がれた者は、全世界に向かって神の言葉を語り、神の御心を伝えるものとなるということが、そこで現実に起こり、宣教の業が始まっていったのがペンテコステの出来事だと言えます。

 そのような弟子たちの宣教の業を、驚きをもってしかし冷ややかに見ていた人たちがいました。それはユダヤ人たちでした。ユダヤ人は、神がお選びになった神の民として神の救いの歴史を担ってきた人たちです。その意味では最も神に近く、神に最も愛され続けてきた民です。そのユダヤ人たちが、イエス・キリスト様の弟子たちが外国の言葉でイエス・キリスト様のことを伝えているのを聞いて当惑し、中には「彼らがぶどう酒に酔っているのだ」といって嘲る者さえいたというのです。

 彼らの目にペテロをはじめとする人々が「酒に酔っている」ように見えたのは、それこそ、彼らが訳の分からない言葉で、しかも大声で熱心にしゃべっていたからもしれません。それが酒に酔っているように見えたということは十分に考えられることです。

そこで、ペテロは、自分たちが何を語っていたかをそのユダヤの人たちに語り始めます。それが14節から36節に記されているペテロの言葉です。そこでペテロは、自分たちは酒に酔っているのではなく、聖書の預言通り、神から霊を注がれて預言をしていると述べ、イエス・キリスト様の十字架の死と復活の出来事が、神の救いのご計画に基づくものであり、このイエス・キリスト様こそが、イスラエルの油注がれた王であることを旧約聖書の言葉を用いながら述べるのです。

 このとき、ペテロの言葉を聞いたユダヤ人の中に、動揺し恐れを感じる人たちが出てきます。それは、ペテロが、イエス・キリスト様は神が主ともキリストともされたお方であるのにもかかわらず、あなた達ユダヤの民が、この方を十字架に殺したのだと指摘したからです。
 イエス・キリスト様が十字架に架けられて死なれたということは、ほんの数か月前にエルサレムで起こった出来事ですし、イエス・キリスト様の墓が空っぽいになり弟子たちが、イエス・キリスト様のご遺体を盗んでいったといううわさがユダヤ人の間に広がっていました。ですから、エルサレムにいたユダヤ人たちは、そのことを知っていたでしょうし、同時にイエス・キリスト様の弟子たちの間にイエス・キリスト様がよみがえられたと言っているという話も聞いた居たでしょう。
 そのイエス・キリスト様の十字架の死と復活について、今、イエス・キリスト様の弟子であったペテロが、大胆に、しかも彼らも神の言葉として大切にしている聖書の言葉に基づきながら語るのです。

 みなさん、ペテロは言うのです。イエスというお方は十字架の死は、神が聖書であらかじめ預言なさっていたことであり、神のご計画と予知によるものである。そのイエス・キリスト様は、神がお立てになった主でありキリストである。私たちは神から注がれた聖霊によってそのことを証ししているのであるが、あなたがたは、その主でありキリストを異邦人の手に渡して殺したのだと。
 この言葉がユダヤ人の心を揺さぶり、恐れさせるのです。なぜなら、イエス・キリスト様が、神がつかわした主でありキリストであったとするならば、そのイエス・キリスト様を異邦人の手に渡し、十字架に仮付けさせて殺させたユダヤの民は、神に反逆したことになるからです。しかも、その反逆が神の予知とご計画によるものであるとするならば、彼らはもはや神から捨てられ、もはや神の選びの民でも何でもない異邦人と同じ存在になっていることになる。

 ユダヤの民にとって、自分たちは神の選びの民であるということが、彼らのよって立つところであり、彼らの自尊心の根拠であり、彼らを支えているものです。ユダヤの民から彼らば神の選びの民であるということが奪い去られたとするならば、彼らには、もはや依って立つところも依り縋るところもなくなるのです。だからこそ、動揺もすれば恐れもする。そしてペテロに「わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」とたずねるのです。

 人間っていうのものは、何か依って立つところのもの、寄り縋る何かがあるならば、それが最後の砦となって何とかやっていけるのです。また自尊心やプライドがあれば頑張りも踏ん張りも効く。でもそれらがすべて奪われてしまったならば、もはや途方に暮れるしかありません。それはユダヤの民であろうと、日本人であろうと、古代人であろうと現代人であろうと変わらない。実際、私たちもそうじゃありませんか。 
 そしてそうなったら、もうどうしていいかわからないのです。ユダヤの民にとっては、その最後の砦は、彼らが神の選びの民であるということでした。それが、ローマ帝国の植民地にされ支配され、蔑まれても、それでも私たちは神の選びの民であり、異邦人とは違うのだという思いが、虐げられていたとしてもユダヤ人をユダヤ人として立たせていたのです。

 ところが、ペテロに、神の予知とご計画の中で、神に反逆するものとされたのだと言われると、もはや彼らはどうしていいのかわからない。自分たちがよって立つ土台が揺るがされているからです。だからペテロに「わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」とたずねるのです。そのように「わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」とたずねられたペテロは、次のように答えます。使徒行伝238節から39節です。そこにはこうあります。

38:悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。 39:この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである。

 ペテロは、「どうしたらよいのですか」と問われて「悔い改めなさい」と答える。「悔い改めて、罪の赦しを得るためにバプテスマ(つまり洗礼)を受けなさい」というのです。新改訳聖書2017では「それぞれに罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストのなによってバプテスマを受けなさい」となっているようですが、もともとの原語であるギリシャ語を見ますと、口語訳聖書のように「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとり一人が罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい」と訳す方が良いように思われます。

 いずれにしましても、ペテロに「わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」とたずねたユダヤ人たちは、ペテロの「悔い改めなさい。そしてイエス・キリスト様の名によるバプテスマ(洗礼)を受けなさい」と言われ、さらに40節で「この曲がった時代から救われよ」と言われ、ペテロの言葉通りに洗礼を受け、弟子たちの仲間に加わっていったというのですが、その数が三千人もあったというのです。

 ここで私たちは、「悔い改めよ」という言葉に注意したいと思います。ともうしますのも、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとり一人が罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい」と聖書に書かれていますと、何か、悔い改めとは罪を赦していただくために、自分の罪を反省し、それを神にお詫びし、神の赦しを請うことのように思われるかもしれないからです。しかし、悔い改めるということは、必ずしもそうではない。

 実は、たまたま昨日、インターネットでFEBCというキリスト教のラジオ局が放送している番組を聞いていました。本当に偶然でしたが、カトリックの司祭で上智大学の名誉教授をしておられる雨宮慧という神父様が悔い改めについて語っておられる番組をやってました。この番組は来年の110日までFEBCのホームページ(http://netradio.febcjp.com/2018/11/09/root181109/)で聞くことができるということですのでお時間がある方はぜひ聞かれるとよいと思うのですが、とても良い内容でした。そしていろいろと教えられることがあった。

 その番組の中で、雨宮神父は、旧約聖書を見ていくと、旧約聖書には悔い改めるという言葉が6回しかないということに気が付いたというのです。そんなわけないだろうと思っていろいろと調べてみると悔い改めという言葉を表すヘブル語はシューブשָׁ ב)という言葉であり、立ち帰る、あるいは回復するという言葉であり、実際、旧約聖書のあちらこちらで使われているというのです。

 先ほどお読みいただいた旧約聖書申命記301節から10節、この箇所は雨宮神父もその番組の中で引用なさっていたのですが、そこにも2節から3節にかけて

2:あなたもあなたの子供も共にあなたの神、主に立ち帰り、わたしが、きょう、命じるすべてのことにおいて、心をつくし、精神をつくして、主の声に聞き従うならば、3:あなたの神、主はあなたを再び栄えさせ、あなたをあわれみ、あなたの神、主はあなたを散らされた国々から再び集められるであろう。

と言われていますし、10節には「これはあなたが、あなたの神、主の声に聞きしたがい、この律法の書にしるされた戒めと定めとを守り、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に帰するからである」と、神に帰するという表現でありますが立ち帰るというシューブשָׁ ב)という言葉が記されています。

雨宮神父は、ほかにも3節にある「再び栄えさせ」や「再び集められる」という「再び」、また8節の「再び主の言葉に聞き従い」という「再び」、そして、9節の「あなたの先祖たちを喜んだように再びあなたを喜んでという再び」という言葉は、立ち帰るという意味のシューブשָׁ ב)という言葉が使われているというのです。そう言われますと確かに、新共同訳聖書は、口語訳聖書では「再び主の言葉に聞き従い」と訳されているところを「あなたは立ち帰って主の御声に聞き従い」と訳している。

また雨宮神父は、他にも1節にある「心に考えて」の「考える」という言葉もまたシューブשָׁ ב)という言葉であるというのです。そこで私もヘブル語の旧約聖書で調べてみましたが、確かにそうなっていました。

 そして、雨宮神父は、悔い改めるという言葉は、ユダヤ人にとって本来ある場所に立ち帰ることであるというのです。そう言われてみますと、この申命記は、イスラエルの民が奴隷となっていた異邦人の国であるエジプト地を脱出して、彼らの先祖がもともと住んでいたカナンの地に再び帰っていくその直前に語られたモーセの説教が記されているところです。

まさに、本来あるべき地に戻ろうとするユダヤの民の物語が語られているのが申命記です。そのもともと住んでいた地で、神を主として崇め、礼拝し神の言葉に聞き従いながら生きて行くのだよと導き教えるのが申命記です。それが、ユダヤの民の本来の姿なのです。

 そのようなユダヤの民に、ペテロが「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい」と言う。このペテロの言葉を聞いたユダヤ人は、悔い改めと言う言葉を聞いて、「罪を反省しお詫びしなければ」と考える以上に、「本来あるべき場所に帰らなければならない」と考えただろうと思うのです。

 では、その本来帰らなければならない場所とはどこか。それは神が王として、主として治めておられる神の国であり、イエス・キリスト様の名によってバプテスマを受け、仲間とされていった教会と言う場所なのです。

 みなさん。私たちは先ほど司式の兄弟にマタイよる福音書1613-19節を読んでいただきました。そこには「わたしを誰だと思うか」と問われた、イエス・キリスト様に対して、ペテロが弟子たちを代表して「イエス・キリスト様を行ける神の子キリストです」と答えたことに対して、イエス・キリスト様が「ペテロ、よく言った。私はこの岩の上に教会を建てる」と言った箇所です。

 実は、イエス・キリスト様のご生涯を綴った福音書には、この箇所以外に教会と言う言葉は出てきません。そして、このイエス・キリスト様が、この岩の上に教会を建てると言われた岩とは何であるかについては、いろいろと解釈が分かれるところでもあるのです。

 カトリック教会は、この岩とはペテロのことであると言い、ペテロが初代の教皇であるとして教皇を中心とした組織の上に教会が成り立つと言いますし、プロテスタントのある教派では、これはペテロが「イエス・キリスト様を行ける神の子キリストです」と答えた信仰告白であると言って、信仰告白が教会の基盤だと言う。また、別の人々は、この岩とはイエス・キリスト様ご自身のことであると捉えます。

 では、どの解釈が正しいのか。私は、おそらくこの岩と言うのはイエス・キリスト様ご自身であると理解するのが妥当であろうと考えています。なぜならば、教会はキリストの体であると聖書が言っているからです。

 そのキリストの体なる教会と言う場所に立ち換えていくこと。それがまさに、ペテロがあの使徒行伝236節で言った本来ある場所に立ち帰ると言う意味を持つ「悔い改め」と言うことであろうと思うのです。

 そして、そこでイエス・キリスト様と一つに結ばれるバプテスマ(すなわち洗礼)を受け、罪が赦されていく。みなさん、この罪の赦しという言葉はギリシャ語でハフェーシン(φεσιν)と言いますが、罪が赦される(forgive)という意味と同時に罪から解放される(release)というニュアンスも持つ言葉です。つまり、罪の赦しとは、罪にしばりつけららている縄目から解き放たれると言うことでもあるのです。

 みなさん、罪は様々なものを打ち壊していきます。神と人との関係を打ち壊し、人と人との関係も打ち壊していく。そのように、すべての本来あるべき関係を打ち壊す働きをするのが罪というものであり、私たちはこの罪の支配する世界の中で生きている。だから私たちは様々な人間関係で苦しみ、傷を負い、心を痛めます。

 ある人は、親子関係で苦しみ、傷を負う。ある人は友人関係で悩み、ある人は仕事関係で苦しんでいる。あるいは自分自身が自分自身の問題で苦しみ傷ついていると言うこともある。これは私たち人間が、罪の支配するこの世界で生きている限り逃れえない現実です。そして、それは本来私たちのあるべき姿ではありません。なぜならば、私たちは互いに愛し合うものとして神から作られているからです。私たちは、本来は傷つけあうために造られた者ではないのです。
 
 しかし、罪が支配する世界は、私たちの間にある交わりや結びつきを傷つけ壊していく。そのような中にあって、ただ神のみが、神の恵みが支配する神の王国に立ち帰れ、神の恵みと愛が支配するキリストの体である教会に立ち帰れというのです。そして、私たちはそのキリストの体なる教会に呼び集められたものとして、今日ここで共に礼拝を守っているのです。これは聖霊なる神の御業です。
 
 そして、その聖霊なる神は、今日も私たちに、そして私たちの周りにいる人たちに、神に立ち帰れ、キリストの体なる教会に立ち換えて、互いに愛し合いなさいと言う神の戒めに生きる者になろうと呼び掛けているのです。みなさん、聖霊なる神が心に注がれた者は、そのことを語り伝えていくものとなるのです。そして、今日、個々に集っている私たちひとり一人はその聖霊なる神が、わたしたちの心に注がれているのです。


お祈りしましょう。