2019年11月11日月曜日

2019年10月27日 小金井福音キリスト教会 説教題『 内なる神の声に聴く 』

【聖書箇所】
 ・イザヤ書 第55章8~9節
 ・マタイによる福音書 第26章36~44節
 ・ピリピ人への手紙 第2章12~15節

【説教題】
 『 内なる神の声に聴く 』

2019年10月21日月曜日

2019年10月20日 小金井福音キリスト教会 説教題『 亀裂を産み出す基(もとい) 』


【聖書箇所】
 ・創世記 第11章1~9節
 ・ルカによる福音書 第9章20~25節
 ・使徒行伝 第9章20~25節

【説教題】
 『 亀裂を産み出す基(もとい) 』

2019年10月13日日曜日

2019年10月13日 小金井福音キリスト教会 説教題『 この世は我々を憎むのだ 』

【聖書箇所】
 ・創世記 第3章22~24節
 ・ヨハネによる福音書 第15章16~20節
 ・ローマ人への手紙 第8章18~22節

【説教題】
『 この世は我々を憎むのだ 』

2019年10月06日 小金井福音キリスト教会 説教題『宣教者のつとめ』

【聖書箇所】
 ・マルコによる福音書 第1章16~39節

【説教題】
 『 宣教者のつとめ 』

2019年10月3日木曜日

2019年09月29日 小金井福音キリスト教会 説教題『さしのべられる神の手』

2019年09月29日 小金井福音キリスト教会 説教

【聖書箇所】
 ・出エジプト記 第2章23~25節
 ・マルコによる福音書 第1章16~20節
 ・使徒行伝 第9章10~19節

【説教題】
 『 さしのべられる神の手 』



199月第5主日礼拝説教「さしのべられる神の手」           2019.9.29
旧約書:出エジプト22325
福音書:マルコ11620
使徒書:使徒91020

 先週は、使徒行伝91節から9節を通してサウロの回心物語の前半部分からお話しさせていただきました。厳格なユダヤ教徒であったサウロは、熱心な迫害者としてイエス・キリスト様の弟子たちを迫害し、それこそ「脅迫し、殺害の息をはずませながら」弾圧しようとしていました。
そのサウロが、まさにイエス・キリスト様の弟子たちを迫害しようとしてダマスコと言う都市に向かって旅をしているその途中で、イエス・キリスト様と出会うという敬虔をすることで、それまで信じていた信仰や信念、あるいは価値観や物の見方や物の見方と言ったものまでも揺るがされていったということをお話しいたしました。そしてその前半部分を受け継ぎながら、今日の礼拝説教の中心となる聖書箇所では、パウロの回心物語の後半部分にあたります。

 サウロは、眩いばかりの光の中でイエス・キリスト様がサウロに語りかける声を聴き、心が揺らされ、自分の信仰や信念までが揺らされていくという敬虔を通して、自分の内にある暗闇に目を向けて行きます。それは、まさに光が映し出したサウロの影の部分でした。
それまでサウロは、神の言葉に従って生きてきたという思い、自分はユダヤ人として神を信じることにおいて正しい生き方をしてきたという思いがある。だから、ユダヤ人として神を信じる信仰に反しているイエス・キリスト様の弟子たちを「殺害の息をはずませる」ほどに憎んでいた。けれども、その神の前に正しい生き方をしている自負していた自分が、実は、神の言葉に聴き従って生きているのではなく、むしろ、神に背を向け、どこかで神に言い訳をしながら生きてきた現実を突きつられたのです。
 そのような中でサウロは、自分自身を問い、自分の在り方を問わざるを得なくなってしまった。そんなサウロの姿を、私たちは使徒行伝99節の「彼(すなわちサウロ)は三日間、目が見えず、また食べることも飲むこともしなかった」という言葉の中に、そして今日の聖書箇所である911節の

そこで主が彼に言われた、「立って、『真すぐ』という名の路地に行き、ユダの家で サウロというタルソ人を尋ねなさい。彼はいま祈っている。

という言葉の中に見ることができます。そのサウロに転機が訪れる。それは、サウロの目からうろこのようなものが落ち、もと通り見えるようになったという表現される出来事です。この「目からうろこのようなものが落ちた」という言葉が、修辞的な比喩的表現なのか、実際に何かそのような物理的な現象が起きたのかは定かではありません。
 しかし、それまで心に抱いていた信念や信仰、あるいは信頼を置いていた考えや価値観と言ったものが崩れ去り、暗闇の中でこれからどう生きていけばよいのか、それが全く何も見えないような状態であったサウロの心に光が差し込んできた経験であったことは間違いがありません。
 そしてそれは、新しいサウロの生き方が開けたという出来事を示す言葉であったということもできるでしょう。なぜならば、この使徒行伝91節から始まるサウロの回心の物語は、20節の「(サウロは)直ちに諸会堂でこのイエスのことを述べ伝え、このイエスこそ神の子であると説き始めた」からです。

 みなさん、それまでのサウロは、イエス・キリスト様の弟子たち、すなわちキリスト教徒を迫害し「脅迫し、殺害に息をはずませる」ほどに苦しめてきた人間です。そのためにサウロはダマスコの諸会堂に赴き、そこに集っている諸会堂の人と人の助けを得て、ダマスコにいるイエス・キリスト様の弟子を弾圧しようとていたのです。
そのサウロが、イエス・キリスト様を「この方こそ神の子です」といって、むしろダマスコにいるイエス・キリスト様を信じるキリスト者と共に、イエス・キリスト様のことを述べ伝える者になっていったのです。そしてこのようなことは、だれもが決して起こるなどということは考えなかったことです。

 みなさん、昨日はラグビー・ワールドカップで日本が勝つことが難しだろうと思われていたアイルランドに勝利した私たち日本人にとっては大変喜ばしい日です。もちろん、アイルランドの方にとっては最悪の日でしょうが、日本人のラグビーファンにとっては飛び上がるような日です。もちろん、私も両手を突き上げて飛び上がった。
 しかし、もっと嬉しい日が4年前のワールドカップであった。それは日本が南アフリカに勝利した日でした。正直なところ私は、私が生きている間にラグビー日本代表が、南半球のチームに勝つ姿を見ることはないだろうと思っていた。だから、日本代表が、しかもワールドカップの試合で、その南アフリカに勝ったシーンを見ると、今でも本当に涙が出てくるのです。
 そのとき、イギリスの小説家でハリー・ポッターを書いたジョアン・ローリングという人は「こんな物語は書けない」とツウィっタ―でつぶやいたそうですが、まさに、そのような誰も考えていなかった物語が起こったのです。

 じっさい、聖書では、イエス・キリスト様がアナニヤという人にサウロのところに行ってサウロの目が開かれ見えるようになるために祈ってやるようにと幻の中で語りかけたとあります。911節、12節です。そのとき、アナニヤは主イエス・キリスト様にこう言うのです。

13:主よ、あの人がエルサレムで、どんなにひどい事をあなたの聖徒たちにしたかについては、多くの人たちから聞いています。14:そして彼はここでも、御名をとなえる者たちをみな捕縛する権を、祭司長たちから得てきているのです。

 サウロは、教会の迫害者であり、これまでさんざん主イエス・キリスト様を信じる弟子たちを苦しめてきた人物です。そんな人間が回心するなんてアナニヤには考えられない。おそらくアナニヤ以外の人々、それはイエス・キリスト様の弟子たちだけでなく当時のユダヤ人にとっても誰もが信じられない出来事だったでしょう。
 けれども、ただ主なる神だけが、それは父なる神・子なる神イエス・キリスト様、そして聖霊なる神である三位一体の神だけが、その物語を信じ、そのサウロの回心の物語を描こうとしていたのです。ですから、主イエス・キリスト様はアナニヤのこう伝えます。15節です。

さあ、行きなさい。あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である

 みなさん、主なる神は、サウロを「私の名を伝える器として選んだ者である」と言われます。この「選んだ者である」は運命論的に捉えることも出来る言葉ですが、しかし、なにかあらかじめ定まっており、変えることの出来ないサウロの運命として捉えるべきではないように思います。

 確かに、主なる神ははサウロを導いておられる。だからこそ、イエス・キリスト様がダマスコの途上でサウロに呼びかけるのです。その主イエス・キリスト様の呼びかける声を聴いたサウロは、心が揺らぎ、葛藤する中で、神の呼びかけに答えていく。そこには、神の働きかけと、それに応答するサウロの姿があります。
  まさに、サウロの回心の物語は神の差し出すてから始まっている。その差し出された手に
サウロが縋り付くとき、神の思い描いたサウロの回心の物語が、神の歴史の中に描き出されていくのです。そして、それがサウロという名の人生を変え、パウロと呼ばれるようになる新しい人生が、イエス・キリスト様のことを教え、述べ伝えていく新しい生き方が開かれていったのです。

 みなさん、私たちは、自分の人生を自分が切り開いて行くのではありません。イエス・キリスト様を信じ、イエス・キリスト様を主として仰ぎ、このお方の弟子となった者は、自分の力で頑張って自分の人生を切り開くのではなく、主なる神が開いてくださった道を歩んでいくのです。

 私たちは、先ほど司式の兄弟に新約聖書マルコによる福音書116節から20節を読んでいただき、そこに記されている神の言葉に耳を傾けました。そして、そこに記されていたことは、後にペテロと呼ばれるようになるシモンとその兄弟アンデレに「私についてきなさい。人間を獲る漁師にしてあげよう」と呼びかけられ、シモン・ペテロとアンデレはそれに従ったということが記されていました。また、同じようにゼベタイの子ヤコブとその兄弟ヨハネにも同じように呼びかけられ、彼らもまた主イエス・キリスト様の呼びかけに従ったということが書かれています。
 シモン・ペテロもアンデレもヤコブもヨハネも、みんなガリラヤ湖のほとりに住み、漁師をしていました。そのシモン・ペテロやアンデレ、またヤコブもヨハネもイエス・キリスト様が呼びかける言葉に答え、イエス・キリスト様に従っていったことによって、その人生が大きく変わり、新しい生き方に変って行ったのです。

 その新しい生き方が開かれていくとき、必ず先行するのは神の意志です。新しい生活、新しい生き方は、神の意志によって開かれていく。

 たとえば、先ほど旧約聖書の出エジプト記223節から25節をお読みいただきましたが、そこで言い表されていることは神の御意志です。そこにはこう記されている。

23:多くの日を経て、エジプトの王は死んだ。イスラエルの人々は、その苦役の務のゆえにうめき、また叫んだが、その苦役のゆえの叫びは神に届いた。24:神は彼らのうめきを聞き、神はアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を覚え、25:神はイスラエルの人々を顧み、神は彼らをしろしめされた。

ここにはエジプトの地で奴隷となり、苦しんでいるイスラエルの人々の姿がある。彼らは奴隷となっていましたから、自分の力でその苦しみをどうすることもできない。だからただ呻き、誰に聴かせるともなく叫ぶのです。
まさに「しかし、その叫びが神の届いたとき、神は、その叫ぶイスラエルの民を救おうと意志されるのです。神はアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を覚え、25:神はイスラエルの人々を顧み、神は彼らをしろしめされた」という言葉は、その神の意志が顕われ出た言葉です。つまり、イスラエルの民の救いの物語は神の意志から始まり、この神の意志によって、奴隷として苦しんでいたイスラエルの民に新しい生き方が開かれていくという出エジプト記の壮大な物語が神によって描かれていくのです。そして彼らは、ただその開かれた道を歩き、描かれた物語を生きて行けばよかった。

 みなさん、繰り返して申し上げますが、私たちは、自分の人生を自分が切り開いて行くのではありません。イエス・キリスト様を信じ、イエス・キリスト様を主として仰ぎ、このお方の弟子となった者は、主なる神が開いてくださった道を歩んでいくのです。それは、イエス・キリスト様が人となり、この世で生きられた道です。
神が、神の独り子を人としてこの世界に与え送り出してくださった。そのイエス・キリスト様が生きた生き方そのものが、それまでの人間の在り方、生き方とは異なり全く新しい者なのです。だから、私たちは、私たちの人生に転機的なことが起こっていた時、イエス・キリスト様にならって生きることが大切になる。

みなさん、それはつまり、本当に人生の転機というものは、神の差し出す手として私たちに訪れるということです。

みなさん、サウロがパウロと名前まで変わってしまうような人生の転機を迎えたとき、サウロは暗闇の中にいました。食事もとれないほどの悩みの中にいた。いや食事をとることも忘れるほどに新しい生き方を求めていたとも言える。 
 そのよう中、サウロにパウロという名の新しい道、新しい生き方を切り開いたのは、主なる神なのです。そして、その新しい生き方は、919節、20節にありますように、それまでサウロが迫害し、苦しめてきたイエス・キリスト様の弟子たちとの間に和解を生み出し、生きる力を与えるものでした。まさに、

19:また食事をとって元気を取りもどした。サウロは、ダマスコにいる弟子たちと共に数日間を過ごしてから、20:ただちに諸会堂でイエスのことを宣べ伝え、このイエスこそ神の子であると説きはじめた。

 という言葉は、そのことを言い表していると言って良いでしょう。

 みなさん。この使徒行伝91節から始まり2節に至るサウロの回心の物語は、人生の転機の物語であり、神を信じクリスチャンとなる回心は、私たちの人生に新しい道、新しい生き方をもたらすものであるということを告げ知らしていると言っても良いでしょう。
 しかし、人生の転機は何も、回心しクリスチャンになる時だけのことではありません。クリスチャンになっても、様々な転機的な出来事はあり、その都度、悩み苦しみ、心がゆる動かされることがある。
 けれどもみなさん。そのような時、いや確かに自分で何とかしなければと思うでしょうし、そう思っても仕方がないと思う。でも、どうぞ心に覚えておいていただきたのです。それが、本当に人生の転機ならば、必ず神は手を差し伸べて下さり、私たちに誰も思いつかないような新し道を切り開いてくださる。主なる神は「誰もかけないような物語」を私たちの人生に書き込んできださるのです。

お祈りしましょう。

2019年9月26日木曜日

2019年09月15日 小金井福音キリスト教会 説教題『彼らを生かせ』

2019年09月15日 小金井福音キリスト教会 説教

【聖書箇所】
 ・エゼキエル書 第37章1~14節

【説教題】
 『 彼らを生かせ 』

2019年09月22日 小金井福音キリスト教会 説教題『自分の心を省みる』

2019年09月22日 小金井福音キリスト教会 説教

【聖書箇所】
 ・レビ記 第19章17~18節
 ・ルカによる福音書 第10章25~29節
 ・使徒行伝 第9章1~9節

【説教題】
 『 自分の心を省みる 』


199月第4主日礼拝説教「自分自身の心を顧みる」           2019.9.22
旧約書:レビ記917節から18
福音書:ルカによる福音書1025節から29
使徒書:使徒行伝91節から9

使徒行伝91節から19節は、かつてはキリスト教徒を迫害していたサウロが、復活したイエス・キリスト様と出会い回心するという壮大な物語が記されている箇所です。なかでも使徒行伝91節から9節は、ダマスコに行き、そこにいるキリスト者を捉えエルサレムまで引っ張ってこようとしていたサウロが、そのダマスコの途上でイエス・キリスト様と出会い、目が見えなくなってしまったという出来事が記されている箇所です。
 その91節および2節には、こう記されています。「さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司のところに行って、ダマスコの諸会堂あを求めた」。ここにある「なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら」という言葉は、キリスト教徒を迫害するサウロの鬼気迫る意気込みというか修羅のごとき意思を感じさせます。とりわけ、「殺害の生きをはずませながら」というのです。
 人を殺害するなどということは、そうたやすくできることではありません。普通の人であるならば、ためらい躊躇するようなことです。なのにサウロはその殺害という行為を「息をはずませながら」行おうとしているというのです。

 みなさん、サウロは当時の一級の宗教指導者ガマリエルの下で律法を学んだ人です。その律法の根底にあるもっとも基本となる者は十戒です。当然、パウロはこの十戒のことを知らないわけがありません。その十戒は、先ほどみなさんで交読した交読文47番、新聖歌の916頁から917頁に記されていますが、その6番目の戒めに殺してはならないと記されている。
 サウロは、それを知らないわけではない。ユダヤ教にはタルムードという書かれた文書としての律法、これをトーラーと言いますが以外に、口伝、すなわち口伝えに言い伝えられた神の律法であるミシュナーと呼ばれるものがあります。このミシュナーを注解し解説したものが5世紀ごろに編纂されたタルムードと言われる書物なのですが、このタルムードには「律法を破らなければ殺す」(バビロニア・タルムード:サンヘドリン74a)と脅されたなら、命を守るために偶像礼拝と性的不品行と殺人以外の律法なら破っても良いという教えがあります。
逆にいうならば、たとえ命を奪われることになっても、偶像崇拝と性的不品行と殺人はしてはならないということです。時代は遡りますが、熱心なユダヤ教徒であり、律法に関してきちんと学んでいたサウロは、このような「殺人」を徹底的に否定するユダヤ教の精神を知っていたものと思われます。なのに彼は、」「殺害の息をはずませながら」、ダマスコに向かうのです。
                                                                                                              
 「いったいどうして?」。疑問符の造言葉が心に湧き上がります。「殺してはならない」という言葉を心に刻んでいるはずのサウロを、「殺害の息をはずませながら」キリスト者を迫害するのか。

 さきほど、ユダヤ教には口伝えで伝えられた律法、これを口伝律法といいますが、その口伝律法であるミシュナーというものがあり、これを解説した書物としてタルムードという書物があるとお話ししました。そしてそのタルムードにおいて、殺人という行為は偶像礼拝、性的不品行に続く、第3の重罪として厳しく禁じられていることもお話ししました。 そのタルムードに、次のようなことも書かれているのです。「いわれのない憎しみは偶像礼拝、姦通、殺人という三大重罪にも匹敵し、神殿崩壊の原因となった」(バビロニア・タルムード:ヨーマ9b)。ここでは偶像礼拝や、姦通、殺人といった三大重罪に結びつけられているのですが、その内容を精査してみますと、それはとりわけ殺人に結びつけられていると考えられます。つまり、憎しみは殺人を引き起こす原因になりうるというのです。

 考えてみますと、先ほど司式の兄弟にお読みいただきましたレビ記1917節から18節におきまして、聖書は

17:あなたは心に兄弟を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろにいさめて、彼のゆえに罪を身に負ってはならない。18:あなたはあだを返してはならない。あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない。あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である。

とあります。このレビ記19章は、1節、2節で

1: 主はモーセに言われた、2:「イスラエルの人々の全会衆に言いなさい、『あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたも聖でなければならない。

と述べられています。それは、イスラエルの民は神の民であるというの神の宣言です。イスラエルの民は、神に属する神の民である。だから神の民として聖なる生き方をしなければならない。では、その聖なる民として聖なる生き方はどのようなものかということが、3節以降にしるされているのですが、17節、18節ものの聖なる民はどのようなものかが記されている中にある。

 今日のこの礼拝説教では、このレビ記193節以降にある聖なる民の生き方を一つ取り上げてお話しすることは致しませんが、その聖なる民の生き方の一つ一つの根底にあるものは隣人愛と言ってもよろしいかと思います。そうしますと、憎しみや恨みは、この隣人愛の真逆にある感情と言ってもいい。だからこそ、聖書は「あなたは心に兄弟を憎んではならない」と言い、「あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない」というのです。そして、「あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない」と言う。

 みなさん、この言葉は先ほどお読みいただきました。ルカによる福音書1025節から29節にあるイエス・キリスト様の言葉にそのまま反映されている。そこには、神の戒めの中で最も大切なもの神を愛し、あなたの隣人を愛することだと言われている。そしてそれは、神の民が神の民らしく生きていくための根本にある精神なのだというのです。
 そのルカによる福音書の10章の記事で、イエス・キリスト様に「何をしたら永遠の命を得られるでしょうか」と尋ねた律法学者に、イエス・キリスト様は、聖書には何と書いてあるかと尋ねます。するとその律法学者は、心をつくして神を愛し隣人を愛することだと答えます。すると、イエス・キリスト様は、「その答えは正しい、だからあなたもそうしなさい、つまり心を突きして神を愛し隣人愛に行きなさい」というのです。

問題はここからです。神を愛し隣人を愛せと言われて、この律法学者は「自分の立場を弁護しよう思った」(29節)というのです。そして「わたしの隣人は誰かと」と問いかえしたのです。
 「隣人を愛しなさい」と言われても、愛せない人間がいる。愛そうと思っても愛せない人間がいる。むしろ愛せないどころか憎んでしまう相手がいる。だから自分の立場を弁護しようとするのです。そのような姿を聖書は見事にイエス・キリストさまが描き出している箇所があります。マタイによる福音書の543節です。そこにおいて、イエス・キリスト様は「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている」とそう言っておられます。

 つまり、「殺してはならない」「憎んではならない」と律法に命じられているユダヤの人々であっても、「敵は憎め」と教えられていた。この言葉の中に、愛することの出来ない存在がいる事への言い訳がある。「あいつは敵だから、愛せない。むしろ憎んで当然だ。だから殺したって仕方がない」。そう言った言い訳がある。

 しかし、この「隣人を愛し、敵を憎め」と言われている言葉の「敵を憎め」という言葉は文章として著された律法、すなわち旧約聖書に言い出すことができません。ですから、当時にユダヤ人たちが「隣人を愛せ」と言う聖書の教えの言葉に対して、そうすることの出来ない自分に揺らぎ、その揺らぎが「隣人を愛し、敵を憎め」という言葉になって、言い伝えられていたのでしょう。
 
そして、サウロもその言葉の中に、キリスト教徒を「殺害の息をはずませ」るほどの憤りを感じる自分の気持ちのよりどころを求めたとしてもおかしくはありません。つまり、サウロにとってキリスト教徒は敵なのです。それは「憎め」と言われている相手である。だからこそサウロは、「主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませるのです。
 そのサウロが、主の弟子たちを苦しめるために向かったその途上で、天に昇られたイエス・キリスト様と出会うのです。正確に言うならば、突然、彼らを地に倒れさせるほどの光が天からさし、彼らを巡り照らし、その光の中でサウロは目を開けることも出来ず、声だけは聞こえるが姿は見えなかったという経験をするのです。

 この表現は、極めて重要です。人を地に打ち倒すほどの光が、サウロを巡り照らしたというのです。この光は神の栄光を表す光だと考えてよいでしょう。と申しますのも、この使徒行伝9章を記したルカが記したルカによる福音書28節で、神のみ使いである天使が、野宿をしていた羊飼いに、救い主がお生まれになったということを知らせるために現れたときに「主の栄光が彼らをめぐり照らした」と記しているからです。
 ですから、「彼らをめぐり照らす光」は主の栄光を表す光であると言えます。その同じ表現をもって、ルカはイエス・キリスト様の「「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声や「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねるサウロに「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と答えるイエス・キリスト様の言葉を伝えるのです。

 しかも、ルカによる福音書の2章において、み使いの姿を見ていますが、この使徒行伝9章においては、誰もイエス・キリスト様のお姿を見ていないのです。それは、彼らが目を開いていることができなかったからです。使徒行伝98節には、「サウロは血から起き上がって目を開いてみたが、何も見えなかった」書かれています。目を開くことができないほどの神の栄光、その中でイエス・キリスト様が語られる。それはイエス・キリスト様が神の人であり、神の御子であることを示しています。

 その神の前に立たされ、神の人であり神の御子であるイエス・キリスト様から「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」という呼びかけを受けたとき、それまで「キリスト教徒を敵とし、「敵を憎め」と言い伝えられている言葉を支えに、彼らを脅迫し、殺害するほどに息づいていたサウロの心は揺り動かされたのです。そのサウロの心の揺らぎは、9節の「彼は三日間、目が見えず、また食べることも飲むこともしなかった」という言葉に現れ出ています。

 目が見えないという状況、それはサウロを暗闇の中に陥れます。周りのものが何も見えない。それは、それまでサウロが見ていた世界、サウロの目に映っていた世界といっさい断たれてしまっている状況です。それは物質的なものが見えなくなったというだけではなく、信じていたものさえも見失ってしまった状況でもあります。それは、様に暗闇の中にいるようなものです。サウロは、主の栄光の光に照らされて、初めて自分の内にある暗闇に気が付いたと言って良いでしょう。
 そのような中で、サウロの心が迷い揺らされている。それこそ、食事をすることもできない状況なのです。おそらく、そのような中で、サウロはじっと自分のこれまでの歩み、考え方を見つめ直していたのでしょう。

 そこには、それまで信じていたサウロのユダヤ教徒としての信念や、信仰における確信もあったでしょう。しかし、神の栄光の中から呼びかけてくるイエス・キリストの言葉の前に立たされた時、サウロはそれまで自分がよって立っていたところの信念や確信が崩れ落ち、それまで見ていた世界や目に映っていた世界から離れて、一人、神を想い、神を見上げるところに立たされた。

 みなさん、それが悔い改めということなのです。それまでのものの見方や価値観から離れ、神の言葉の前に立ち、神を見上げるそれが悔い改めるということなのです。11節で神がアナニヤの「彼(すなわちパウロ)は祈っている)といっておられるでしょう。この「彼は祈っている」言葉が、そのすべてをあらわしている。
サウロは、まさに、ダマスコの途上で、イエス・キリスト様と出会い。自分のそれまでの自分の在り方が全て問い直され、それまでの自分の在り方やものの見方や価値観から離れ、神を見上げましたのです。そしてそれが、サウロを回心へと導いていった。みなさん、そこから神の民としてのサウロの生き方が始まったのです。

 みなさん、今日も神は、サウロと同様に皆さんの名を呼び掛けています。それは皆さんが、神の言葉の前に立ち、神に目を向け、聖なる神の聖なる民として生きる生き方生きるためです。その神の民としての聖なる生き方、それは隣人愛を実践していく生き方に、今日、神は皆さんを招いておられるのです。


静まって、声を出さず、沈黙のうちに祈り、神に応答しましょう。

2019年9月14日土曜日

2019年09月08日 小金井福音キリスト教会 説教題『神の先行する恩寵』

2019年09月08日 小金井福音キリスト教会 説教

【聖書箇所】
 ・創世記 第22章9~13節
 ・マタイによる福音書 第6章31~34節
 ・使徒行伝 第8章26~40節

【説教題】
 『 神の先行する恩寵 』



199月第2主日礼拝説教「神の先行する恩寵」            2019.9.8
旧約書:創世記229節~14節(旧約聖書pp.25-26
福音書:マタイによる福音書631節~34(新約聖書p.9
使徒書:使徒行伝826節から40(新約聖書pp.281-282)

先週の創立記念礼拝を挟んで、先々週の主日礼拝も使徒行伝826節から40節の言葉を中心に、神の言葉が語り替えてくるメッセージに耳を傾けました。

 そこで開かれていったことは、この使徒行伝826節から40節の出来事は、十字架に架かられ死なれたイエス.キリスト様が、3日目によみがえられた後に弟子たちに「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」と言われた使徒行伝18節で語られた言葉が現実になっていっているさまを示しているということです。

 特に、「地の果てまで、わたしの証人となる」という言葉が、まさに現実になっているさまがそこに現れている。というのも、この使徒行伝826節から40節は、異邦人であるエチオピアの宦官が、ピリポによってイエス・キリスト様を信じ、キリスト者となっていく姿が描かれているからです。

 みなさん、先週のお話ししましたように、イエス・キリスト様の時代のユダヤ人は、異邦人を犬と呼び蔑んでいました。また宦官という職にあるものは神を礼拝することができないとされていました。そう言った意味では、異邦人であり、また宦官という職についていた男が、神を信じ、またイエス・キリスト様を信じてキリスト者になるということは、まさに、地の果てにまでイエス・キリストが伝えられ、証にあるような出来事なのです。
 しかも、そのエチオピアの宦官が居た場所は、当時あれは荒れ果てていると言われておたガザ地方です。その荒れ果てた地に滞在していた神から最も遠いところにいるようなエチオピアの宦官にも神の言葉が伝えられ、福音が語られのです。

それは、まさにその地の果てにまでも福音が届けられ、イエス・キリスト様のことが証されていくのだということを示す出来事であったと言えます。しかも、そのために、神はサマリアの地での伝道に成功していたピリピを送るのです。

この荒れた地にたった一人いる神に最も遠い地の果てのひとであるような異邦人であり宦官であるエチオピア人のために、大成功を収めているピリピを送り出すこの使徒行伝の物語に、私たちは、たったひとりであっても最善の愛を注ぎ込み、どのような場所、どのような状況にあろう人でもお救いになろうとする神の愛と強い意志を読み取ることができます。 
この神の深い愛と強い意志は、別の角度から捉えられることができます。それが、今日の説教題ともなっております。「神の先行する恩寵」ということです。

「神の先行する恩寵」というのは、神の恵みは私たち人間の思いや意志、そして行動に先立って私たちに働きかけ、導いているということです。ですから、私たちが神を信じクリスチャンになることを決断する、その私たちの決断に先駆けて、神は私たちを恵み、憐れんで下さっていて私たちをキリスト教の信仰に招いていてくださっているのです。 
その「神の先行する恩寵」を、私はこの使徒行伝826節から40節は、異邦人であるエチオピアの宦官が、ピリポによってイエス・キリスト様を信じ、キリスト者となっていく姿が描かれている物語の中に感じられるのです。

 では、なぜこのエチオピアの宦官がキリスト者となる物語に、「神の先行する恩寵」を感じるのか、それは、極めて素朴な疑問から始まりました。それは、エチオピアの宦官とピリポとの出会いの場面から始まります。それは使徒行伝826節から30節に記されています。
 この箇所において、ピリポは神から「立って南方に行き、エルサレムからガザへ下る道に出なさい」と語りかけられ、神の言葉に従います。そこにエチオピアの女王カンダケの高官で女王の財産の管理をしている宦官がいた。そのエチオピア人の宦官は、礼拝のためエルサレムに上り、その帰途であったと聖書は記します。
 そのエチオピアの宦官が馬車に乗ってエチオピアに帰ろうとしているその時に、ピリポは、その「宦官が乗っている馬車と並んで聞きなさい」という聖霊の導きを感じます。すると馬車の中からイザヤ書53章を読んでいる人の声が聞こえてきたのです。そこでピリポは、「今あなたがお読みになっているところのことが分かりますか」と話しかける。すると、エチオピア人の宦官は、自分の馬車にピリポを招き入れた。それが、エチオピアの宦官とピリポとの出会いの出来事です。

 私は、この部分を読んだ時、とても不思議な感じがしました。というのも、このエチオピアの女王カンダケに仕えていた宦官は、どうしてエルサレムに礼拝に行ったのだろうかということが疑問に思え、不思議で仕方なかったのです。しかも、彼は旧約聖書のイザヤ書の言葉を読んでいたというからです。
 そもそも、エチオピアの宦官がエルサレムに礼拝に行った問いこと自体が不思議なことではないですか。礼拝のためにエルサレムに上ったというのですから、この礼拝は聖書の神ヤーウェに対する礼拝です。

 みなさん、先々週もお話ししましたが、ユダヤ教は、極めて民族的傾向が強い宗教です。その様な中で、エチオピア人のしかも女王に仕える宦官が礼拝のために
エルサレムに向かっていくということは一体どういうことなのか。
 一説には、旧約聖書において、列王記上101節から10節にソロモンの知恵を聞きにシバの女王がやって来たという記述があり、紀元1世紀のヨセフスという歴史が、彼の著書「ユダヤ古代誌」で、このシバの女王がエチオピアの女王であったと記されていることから、ソロモンの時代にエチオピアに聖書の神を信じる信仰が伝えられており、それで、この宦官はエルサレムに礼拝に上ったなどと言われることもあるようですが、それはちょっと信ぴょう性に欠ける説だと言わざるを得ないように思われます。
 しかし、いずれにせよ。このエチオピア人の宦官がエルサレムに神を礼拝するために
やって来たというのは、誰かが聖書の神ヤーウェのことをこのエチオピア人に伝えたからです。その意味において、このエチオピアの宦官がイエス・キリスト様のことを信じ受け入れる土壌は、ピリポと出会う前の備えとして、もうすでにできていたと言えます。
 そして、そのエチオピア人の宦官が馬車の中でイザヤ書を読んでいたというのです。この時、この宦官がヘブライ語でイザヤ書53章を読んでいたのかギリシャ語で読んでいたのかは分かりません。しかし、彼は確かにイザヤ書を持っていたのです。

 みなさん、いまの時代の日本においては、私たちは容易に聖書を手に入れることができます。しかし、2000年前のこの使徒行伝の時代には、個人が旧約聖書を持っているということ自体、そうそうあることではありませんでした。その様な中で、このエチオピアの宦官は、預言者イザヤの書を持ち、それを読んでいた。しかも、その読んでいた箇所が53章だというのです。

 みなさんもご存知のように、このイザヤ書53章は、苦難のしもべの歌と言われ、イエス・キリスト様の十字架の出来事を預言している場所であると言われている箇所です。まさに、使徒行伝832節、33節にある言葉は、現代に生きるクリスチャンにイエス・キリスト様を思い出させるような言葉になっています。すなわち

32:彼は、ほふり場に引かれて行く羊のように、また、黙々として、毛を刈る者の前に立つ小羊のように、口を開かない。 33:彼は、いやしめられて、そのさばきも行われなかった。だれが、彼の子孫のことを語ることができようか、彼の命が地上から取り去られているからには。

と預言者イザヤは言うのです。

 もちろん、極めて当然のことですが、預言者イザヤが生きた時代、このイザヤ書が記された時代には、イエス・キリスト様という存在はこの世にお生まれになっておられるわけではありませんから、イザヤ書53章が書かれた時代には、誰もイエス・キリスト様のことなど知りません。ですから、このイザヤ53章に出てくる人がイエス・キリスト様であるというのは、今日の私たちによるイザヤ書の読みであって、イザヤ書の書かれた時代も、またエチオピアの宦官も、このイザヤ書53章に預言された人が誰であるかはわからないのです。 
 ですから、このエチオピアの宦官はこの箇所を読みながら、それをどう読み解いていくか困惑の最中にあるのです。その時に、まさにそのタイミングで神は、ピリポをエチオピアの宦官のもとに送るのです。

 みなさん。私はこのピリポとエチオピアの宦官が出会う物語に、神は、私たちの思いに先立って全てを備えてくださるお方なのだということを感じぜずにはいられないのです。それはまさに、先ほど司式の兄弟にお読みいただいた旧約聖書創世記229節から14節に「主の山に備えあり」と言われているような、あるいは、新約聖書の福音書マタイによる福音書631節から34節のあるように、その時に私たちにとって何が必要かを御存知であり、本当に必要なことを神は、あらかじめ備えてくださるお方である、。

 創世記229節から14節においては、アブラハムが神の言葉に従って、自分の息子イサクを神に奉げようとする行動において、神に対する信仰を表そうとしたその時に、その神に対する従順な信仰を示すために、彼の息子ではなく、その代わりとなる犠牲の動物があらかじめ神によって備えられていたように、私たちの信仰にとって、その時々に必要なものを神はあらかじめ備えてくださっている。だからこそ、私たちは明日のことを思い煩うことはないのです。

 みなさん、時間というものは、日々、刻々と生起してきます。ほんの数分先に何が起こるかということを私たちは確証をもって知ることはできません。もちろん、私たちの経験が、どのようなことが起こるかを予測させることはできますが、その結果がどこに行きつくかという最終的なことは分かりません。だから、明日のことを心配して備えるのです。 
それは、ひょっとしたら起こるかもしれないことに対して最善の対処ができるようにと準備をするのです。しかし、聖書は、明日のことは想い煩うなという。実際、どんなに思い煩っても、明日に何が起こるかは誰も分からないのです。それは神様でも知りえないことかもしれません。明日という時間そのものが、そこに生起していないからです 
 しかし、すべてのことを知りたもう神様は、そこで何が起ころうと、私たちが神を信じる信仰にとって、最も大切で、最も有益な最善のことを私たちにしてくださいます。神は、私たちに何が起こってきても、その出来事に対してどのようにすれば、どのような結末に至るかを知っておられます。その神の全知が、私たちに最善がもたらされるために、すべての備えをもって、私たちを導いて行ってくださるのです。

 まさに、あのエチオピアの宦官がイエス・キリスト様を信じるというもっとも大切な事柄のために、あらかじめ聖書の神を伝え、心を耕してくれた人が備えられていた。そして、預言者イザヤの書が与えられていた。そこには、神の先行する恩寵が働いているのです。その聖書の箇所、すなわちイザヤ書をエジプトの宦官に向かい読み解き語るピリポまでもが、あらかじめ備えられており、あのエチオピアの宦官をイエス・キリスト様の名による洗礼へと導いていくのです。
 まさに、そこに「神の先行する恩寵」があったのです。その私たちの思いや、意志や行動に先立つ神の恵みが、今日も私たちに注がれ続けています。だからこそ私たちは、決して思い煩うことなく、神を信頼し、神に従っていく者となりたいのです。お祈りしましょう。

2019年9月6日金曜日

2019年09月01日 小金井福音キリスト教会 説教題『教会の本質』

2019年09月01日 小金井福音キリスト教会 説教

【聖書箇所】
 ・民数記 第20章2~13節
 ・マタイによる福音書 第16章13~20節
 ・コリント人への第一の手紙 第12章12~27節

【説教題】
 『 教会の本質 』
19.9.1 9月第1主日創立記念礼拝式説教「教会の本質」            2019.9.1
旧約書:民数記202節~13節(旧約聖書pp.215-216
福音書:マタイによる福音書1613節~20節(新約聖書p.246
使徒書:コリント人への第一の手紙1212~27(新約聖書(pp.271-272)

 201691日に三鷹キリスト教会とキリスト信愛会小金井教会の統合が正式に認可され、小金井福音キリスト教会としての歩みが始まって丸3年が経ちました。ですので。今日は、その小金井福音キリスト教会の4回目の創立記念礼拝になります。
 この創立記念礼拝を迎えるにあたり、もちろんそれだけではないのですが、ここ数週間、私は教会ということについて、いろいろと考え、想い巡らしてきました。私が、考え、想い巡らすという時、それは大体において神学的な思考に入っているときであり、今回も。「教会とは何か」という、神学用語で言うならば教会論について思い巡らしていたのです。

 普通、「教会とは何か」ということを説明する際には、教会と訳されているギリシャ語の言葉がεκκλησιαであるというところから入ります。つまり、このεκκλησιαという言葉が神に呼び集められた会衆であるという意味から「教会とは何か」が語られるのです。 
例えば、歴史上では、宗教改革の先駆者の一人であると言われるボヘミアのヤン・フスと言った人や、そのフスの影響を強く受けた英国のジョン・ウィクリフと言った人の教会論は、この教会とは、神によって呼び集められた真のキリスト者の群れであるというところから始まります。そして、現代においても、そのようなアプローチから教会を語る言葉をしばしば耳にします。そして、そこから、神に呼び集められた神の民であり教会は何をするのかが問題になります。つまり、私たちが何をするのかが問題になるのです。

もう30年以上前の話になりますが、ある牧師から、その牧師が会堂建築をしたときの話を聞きました。その牧師がいうには、教会の会堂建築をするにあたり、会堂の設計をある設計士に依頼したそうです。するとその依頼された設計士は、その牧師に、「わかりました。ではお引き受けするにあたって教会とは何をするところですか」と尋ねたというのです。そこでその牧師は、熟考した上で、「教会とは、礼拝をし、信徒と教育をし、交わりをするところです」と答えたそうです。

その話を聞いたとき、私はまだ修養生(神学生)でしたが、「なるほどなぁ」と思い、その話を聞いていました。この「教会とは何をするところですかWhat dose church  do?」という問いは、教会がなす働き、つまり教会のもつ機能のついての問いです。そして、それに対する答えとして「教会とは、礼拝をし、信徒と教育をし、交わりをするところです」という答えは決して間違ってはいない正しい答えです。 
しかし、この数週間私が考え思い巡らしていたことは「教会とは何か(What is church?ということなのです。というのも、教会という言葉がεκκλησια であり、その意味が神によって呼び集められた会衆であるとするならば、まず呼び集められる前に、呼び集められる「場」があるはずではないかと思ったからです。

 そうでしょ、皆さん、皆さんがお友達を呼び集めるときに、「おい、明日、何時に集合な」とメールを打ったとしたら、必ず「どこに集まるのか」と問い返されるでしょう。呼び集めるならば、呼び集めてくる場所がある。神は、私たちを呼び集めてくださって、そこを εκκλησια だというのならば、その呼び集めてくださったところこそが教会であり、それが教会の本質ではないか。そう思ったのです。
 では、その神が呼び集めてくださった場所とは、どこなのか。いろいろと思い巡らしながら行きついた先が、キリストの体としての教会ということです。このキリストの体としての教会ということを言葉として最も明確に、そして直的に言い表しているのは、エペソ人への手紙の12223節です。そこにはこうあります。

22:そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。23:この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。

 このように、ここでは教会はイエス・キリスト様を(かしら)にいただくキリストの体であると、明確にそして直接的に言われている。しかし、私は今日の聖書朗読において、あえてこのエペソ人への手紙122節から23節ではなく、あえてコリント人への第一の手紙1212節から27を司式の兄弟に読んでいただいた。もちろん、それにはそれなりの意図があります。
それは、コリント人への第一の手紙1212節から27節には、そのキリストの体なる教会を築き上げるために、私たち一人一人が神によって呼び集められているのだということを鮮やかに表現しているからにほかなりません。まさに、コリント人への第一の手紙1212節から27節には、キリストの体なる教会と、そのキリストの体なる教会に召し集められたεκκλησιαである神の会衆、すなわち私たちクリスチャンひとり一人の結びつきが描かれている。

 そうなのです。みなさん、私たち一人一人は、キリストの体なる教会、それはすなわち、イエス・キリスト様というお方を、この世に現わし、イエス・キリスト様の業を行うために教会に呼び集められているのです。それは、イエス・キリスト様が生きられた生き方を教会がするためなのです。

 みなさん、しかし勘違いをなさってはいけません。みなさん、お一人お一人がイエス・キリスト様が生きられたように、イエス・キリスト様の生き方をするのではありません。
もちろん、私たちは、イエス・キリスト様に倣い、イエス・キリスト様のように生きようとすることは大切なことであり、尊いことです。
 しかし、私たち一人一人は不完全な者であり、欠けが多いものです。持っている才能や能力も違っている。だから、一人で完全にイエス・キリスト様と同じ業を行うとなると、それはもう大変なことです。あるいは、世界中を探せば、そのような人が数えるほどいるかもしれません。しかし、それはほとんど不可能に近いことです。
 だから、私たち一人一人は、自分ができることをもって、イエス・キリスト様に仕え、互いに欠けたるところを補いながら一つのキリストの命を持ってキリストの体を生きるのです。

 先ほど、私たちは司式の兄弟が朗読するマタイによる福音書1613節から20節の言葉に耳を傾けました。この箇所は、イエス・キリスト様がピリポ・カイザリヤ地方に行かれた時に、弟子たちに、人々が私のことを何と言っているかとお尋ねになったことが記されている箇所です。
 このピリポ・カイザリヤと言う地方はイエス・キリスト様のお姿が白く輝く姿に代わったという姿変りの出来事があったヘルモン山の南麓に広がる地域ですが、この地域にイエス・キリスト様が来られた時、イエス・キリスト様は弟子たちに、人々が自分のことをどのように言っているかについて尋ねます。
 そうすると弟子たちは、口々に「ある人々は、バプテスマのヨハネだと言っています」とか「ほかの人々はエリヤだと言い、またエレミヤあるいは預言者の一人だと言っているものもあります」と答えるのです。もちろん、それらの人々が描いているイエス・キリスト様の人物像は、的を射たものではありませんでした。

 そのような中で、イエス・キリスト様と共に過ごし、共に旅してきた弟子たちに向かて、「あなたがたはわたしをだれと言うか」と問われるのです。そのイエス・キリスト様の問いに対して、ペテロは「あなたこそ、生ける神の子キリストです」とそう答える。
 このペテロの答えは、イエス・キリスト様の心にかなう者でした。だからこそ、イエス・キリスト様は「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである」と言い、「あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない」と言われるのです。
 
 このイエス・キリスト様の答えは、ペテロに対する最大級の賛辞の言葉であることは間違いありませんが、解釈上は極めて議論があるところであり、その解釈が大きく分かれるところです。とりわけ、「あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう」という「この岩」の解釈がいろいろとある。

 たとえば、カトリック教会は、岩という言葉がギリシャ語では、πέτρᾳとなっており、ペテロ(ギリシャ語ではΠέτρος)に絡めて、この岩のことはペテロであると理解します。そして、そのペテロに天国の門の鍵が与えられたのだから、ペテロは他の弟子たちのリーダ-として任じられており、そのペテロの後継者がローマ法王だから、ローマ法王は他のキリスト者の誰にも勝る権限(これを首位権と言いますが)があると言います。
 これは、教皇を頂点とする階層的な教会組織を形成しているカトリック教会らしい解釈です。あるいは、ペテロの「あなたこそ、生ける神の子キリストです」という答えを、ペテロ、および弟子たちの信仰告白の言葉として捉え、教会は、私たちクリスチャンの信仰告白という「岩」の上に建て上げられていくのだという理解もあります。このようなはプロテスタント教会の多くの教会がとる解釈の立場ですが、ペテロの答えを信仰告白の言葉と捉え、そこから「岩」を信仰告白の比喩的表現と捉えるところには、いかにも、今日の改革派の教会的な捉え方です。

 このような解釈の外に、この「岩」をイエス・キリスト様というふうに理解する解釈があります。たとえば、西方教会の歴史中で最も影響力が強い神学者であるアウグスティヌスなどが、このような「ここで言われている岩はイエス・キリスト様のことだ」という解釈をしますが、このアウグスティヌスの解釈は、なかなか捨ておくことができない解釈です。というのも、コリント人への手紙101節から5節に次のように言われているからです。

   1:兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、2:みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。3:また、みな同じ霊の食物を食べ、4:みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。5:しかし、彼らの中の大多数は、神のみこころにかなわなかったので、荒野で滅ぼされてしまった。

ここのおいて、教会はキリストの体というパウロは、このコリント人への第一の手紙104節でイエス・キリスト様のことを岩だ( πτρα δ ν Χριστς.)と言っている。に譬えるからです。
 この「イエス・キリスト様は岩だ」という「みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち彼らについてきた霊の岩から飲んだのである」という出来事は、旧約聖書出エジプト記171節から7節、あるいは先ほど司式者にお読みいただきましたところの民数記202節から13節にあった出来事を指しています。

この二つの箇所には、いずれも。モーセによって奴隷として苦しく辛い生活をしていたイスラエルの民が救け出され、荒野で40年間にわたって彷徨っていく中で、水がなくなってしまい、民が神に不平・不満をつぶやいたということが記されています。 
その、イスラエルの民のつぶやきは、イスラエルの民の指導者であるモーセに対する不満となり、イスラルの民の間で争いが起きた。そのとき、神は、岩から水を湧き上がらせ、渇きに苦しむイスラエルの民ののどを潤し、争いを沈めたのです。 
いうなれば、この岩から湧き上がった水は、渇きに苦しむイスラエルの民にとっては命の水となり、イスラエルの民を一つの民として結び合わせる水となったのです。その命のを湧き上がらせた岩がイエス・キリスト様だというのです。

だとすれば、ひとり一人、違った個性を持ち、賜物を持ち、そして欠けを持つ私たちを呼び集め、一つの結びあわせεκκλησιαとしての教会を建て上げる土台となる岩は、イエス・キリスト様であるということができる。だからこそ、イエス・キリスト様ご自身が「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない」と言われる「岩」はイエス・キリスト様ご自身のことを指していると考えられる。

 みなさん、確かに私たちは欠けの多いひとり一人です。自分の力では自分を救うことなどできません。しかし、私たちがイエス・キリスト様という霊の岩であるお方から湧き上がる命の水、誤解を恐れず大胆に言わせてもらうならば、霊の岩から湧き上がる命の水は聖書の言葉、そして教会で語られる聖書の言葉を説き明かす説教の言葉と言ってもいい、それらに耳を傾けていくならば、私たちは、私たちを神の子、神の民として、また教会としてイエス・キリストの生き方を生きる力を得ることができるのです。


 みなさん、私たちはちょうど3年前に、共に相互的に支え合い、イエス・キリスト様のように生きるために、この小金井福音キリスト教会に、呼び集められたのです。そのことを覚えながら、神を称え、岩であるイエス・キリスト様から命の水を戴きながら、この岩であるイエス・キリスト様の上に、キリストの体なる教会を建て上げて行こうではありませんか。私たちは、そのために呼び集められているのです。お祈りします。