2018年10月14日日曜日

18年10月14日 説教「約束の御霊の到来」

2018年10月14日 小金井福音キリスト教会 説教

聖書箇所
・ヨエル書 2章 28節~29節
・ヨハネによる福音書 14章~17節 25節~26節
・使徒行伝 2章 1節~4節
説教題 「 約束の御霊の到来 」


 今日の礼拝説教の箇所は使徒行伝2章1節から4節までです。この箇所は、イエス・キリスト様が約束してくださっていた聖霊なる神が、弟子たちのところに下ってきたという、いわゆるペンテコステの出来事を記している箇所です。ペンテコステは、クリスマスとイースターと並んで三大祝祭の一つに数えられる非常に重要な祝祭ですが、それが五旬節と呼ばれる日に起こった。

 五旬節というのは七週の祭りとも呼ばれ、過ぎ越しの祭りが終わってから50日目に行われるお祭りです。ヘブル語ではシャヴオットという収穫を祝い感謝するいわゆる感謝祭です。私たちの国では、農作物の収穫というとお米の収穫をイメージするからでしょうか、秋を連想しますが、イスラエルの小麦の収穫期は春に向かえますので、5月ごろに収穫を祝うお祭りがあってもイスラルの民にとってはおかしくはないのかもしれません。
 
この五旬節は、収穫感謝祭であると同時に、モーセによってエジプトを脱出したイスラエルの民に、神がシナイ山で律法を与えたことを記念する祭りでもあります。この律法授与の出来事は、イスラエルの民がモーセに率いられてエジプトを脱出した過ぎ越しの出来事から50日目に起こりました。ですから、その出エジプトの出来事を祝う過ぎ越しの祭りから50日目にイスラエルの民に律法が与えられたことを記念するのです。
 そのシャヴオットと呼ばれる五旬節をペンテコステというのは、ギリシャ語で50をペンテコステ(Πεντηκοστή)というからです。そのペンテコステの日に聖霊なる神がイエス・キリスト様の弟子たちのところに下って来たのです。

 この聖霊なる神が弟子たちに与えられるということは、既にイエス・キリスト様によって約束されたことでした。それが、先ほどお読みいただいたヨハネによる福音書の14章16節、17節です。そこにはこう書かれています。15節からお読みします。

         15:もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきであ
     る。16:わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつま
  でもあなたがたと共におらせて下さるであろう。17:それは真理の御霊である。この世
  はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あ
  なたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなた
  がたのうちにいるからである。

 ここでイエス・キリスト様は「父は別に助け主を送って、あなたがたと共におらせるであろう」と言っておられます。「別に助け主を送る」というのは、イエス・キリスト様というお方とは別の助け主である真理の御霊を送ると言われている。

 聖霊が下るという出来事は、みなさんもご存知のように、イエス・キリスト様の洗礼の出来事の時にも起こったことです。ルカによる福音書3章21節から22節までを見てみましょう。

   さて、民衆がみなバプテスマを受けたとき、イエスもバプテスマを受けて祈ってお
      られると、天が開けて、 22:聖霊がはとのような姿をとってイエスの上に下り、そし
      て天から声がした、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。

ここでは、神の御霊である聖霊なる神が鳩のような姿をとってイエス・キリスト様の上に下ったとあります。そしてそのとき、天がから「これはわたしの愛する子、私の心にかなう者である」という声がしたとあります。この天からの声は、イエス・キリスト様の語る言葉や行いはすべて神の御心にかなっているということを宣言する言葉です。それは、まさに神のひとり子なるお方が、受肉し、人となられたからです。だから、このお方の言葉と業は神の御心にかなっているのです。
 ですから、イエス・キリスト様の言葉を聞き、この方のなされることを模範とし、このお方に倣って生きるならば、私たちは決して神の前に誤まることなく歩んでいくことができます。つまり、イエス・キリスト様ご自身が、私たちを教え導く助け主なのです。

しかし、イエス・キリスト様が天に昇られた後の時代は、キリストのからだである教会がその働きをしなければなりません。それは、今も同じです。教会はキリストのからだとして人々に神のお心を語り、神のお心にそった業を行っていかなければなりません。そして、それはイエス・キリスト様が「今、ここで」生きておられたならばなさるであろうことを行うのです。
 そういった意味では、今も私たちはイエス・キリスト様に倣って生きる者でなければなりません。なぜならば、イエス・キリスト様のからだなる教会は、私たちひとり一人によって作り上げられるものだからです。だから、私たちひとり一人はイエス・キリスト様に倣って生きるひとり一人であることが大切なことなのです。
 それは、長い教会の歴史の中で、繰り返し繰り返しかたれてきたことです。今週末、私はある事柄について調べていました。それは、クリスチアニタス(Christianis)ということについてなのですが、このクリスチアニタスというのはラテン語です。英語ではChristendomと訳されますが、日本語ではキリスト教一体化社会といった風に訳されたりしますが、要は「キリスト者の集団」ということです。

 しかしそれは、単なる「キリスト者の集団」ではなく、「真のキリスト者の集団」ということです。そしてこの真のキリスト者のというのは、私たちひとり一人が神の似姿になるように努め生きているクリスチャンのことを指しています。平たくいうならば、イエス・キリスト様のように生きるように努めている人たちのことです。
 このように、イエス・キリスト様のように生きようとする人たちは、古代教会から存在しました。それは「慈悲の業」を通して、イエス・キリスト様の「隣人愛」を行おうとしたり、10世紀から11世紀の中世には「キリストの人性」への信心といって、レクティオ・デヴィナと呼ばれる聖書や霊的な書物を読む習慣を通して、イエス・キリスト様のように生きようとする修道士たちがいたり、中世後期の15世紀には、近代的敬虔と呼ばれる運動において「キリストに倣う」ということが盛んに言われたりしました。

 これらは、みんなイエス・キリスト様が「この世」で生きられたように、神と人の前で、聖く、隣人愛に満ちた生き方をしたいと願い、聖書を学び、自らを修養するといった信仰の霊性を高めようとする運動でした。そして、そのような流れをクリスチアニタスと呼ぶのです。それは、イエス・キリスト様が私たちの教師であり、導き手だからです。

 けれどもみなさん、私たちはイエス・キリスト様と全く時代背景と価値観の中に生きています。そのような中で、イエス・キリスト様なら「今、ここで」なされることを行おう、語られることを語ろうと思っても、それはなかなか大変なことです。
 例えば、私は牧師として教会にずっといます。みなさんは平日の教会のことはあまり知らないだろうと思いますが、実は、平日の教会にはいろんな人が訪ねてきます。そのような中には、食べ物を求めてくる人もいますし、お金が貸して欲しいと言って来られる方もいます。そんな時、どう対応したらよいか本当に迷います。食べ物を求めてくる人には、対応しやすいのですが、お金を貸してほしいという人の対応には本当に悩みます。

と申しますのも、お金を貸してほしいという人の多くが、お酒を飲むためや、遊興に使うためであったりするからです。もちろん、本当に困っている人が全くないというわけではないでしょう。だから、イエス・キリスト様ならどうするだろうか、実に迷うところですし、実際、本当に難しい判断です。
 ですから、常にイエス・キリスト様にあなたならどうなさいますかと問わざるを得ないのです。イエス・キリスト様の「隣人愛」に生きると言っても、求められるままにお金を差し上げることが「隣人愛」なのかどうかも問われます。その中で、きっと正しい判断もあるでしょうし、間違った判断もあったかもしれない。そのように、イエス・キリスト様のように生きると言っても決してそれは簡単なことではないのです。
 だからこそ、私たちの導き手であり、慰め主であり聖霊なる神様が必要なのです。私は、先ほど申しましたように、「お金を貸してください」言ってこられた方に対応した後は、お金を渡したときもお断りしたときも、しばらく、本当にあの対応でよかったのかを考えると、苦しく、心が重くなる。そんな時に、本当に慰め主なる助け主が必要です。主なる神様の前に、判断を誤ったか正しかったかわかりませんが、慰め主である聖霊なる神様の支えが必要です。そして、できるかぎりイエス・キリスト様の生き方に近づきたいのです。

みなさん、受肉して人となり、神の御心にかなうお方として「この世」で生きられたお方はイエス・キリスト様の他にはいません。そして、このイエス・キリスト様というお方を知る術は聖書以外にはないのです。聖書のみがイエス・キリスト様に近づく唯一の道なのです。
 その聖書を学び、聖書を通してイエス・キリスト様のご人格に触れ、このお方が語る言葉を語り、このお方がなされる業を行うためには、私たちを導いてくれる助け主が必要です。みなさん、私たちホーリネス教団がよって立つ信仰の根源を突き詰めていくと、イギリス国教会のジョン・ウェスレーという人に行きつきます。このウェスレーという人は、聖霊は道案内人(ガイド)であると言いました。
 それは、聖書学的な正しさに導くガイドというのではなく、「今、ここで」という時にどうすればよいかを聖書の言葉を用いながら導いてくださる助け主であるということなのです。その聖霊なる神様が下ってこられたのがペンテコステの出来事であり、私たちにも、その聖霊なる神が与えられているのです。

 実は、先日、私どもの息子が、今日の聖書個所における聖霊なる神が弟子たちに下った出来事と先ほどのイエス・キリスト様の洗礼の際にイエス・キリスト様に聖霊なる神が下った出来事を比較して、「なぜ、イエス・キリスト様のところに下った聖霊は鳩の様だったのに、ペンテコステで弟子たちに下った聖霊は舌のようなものだったのか」と聞いてきました。

 そう尋ねられると、なるほどどうしてなのだろうかと考えさせられる問題ですし、実際それまで、そのようなことは考えたこともありませんでした。しかし、考えてみますと、聖書は実に様々な象徴的な表現をします。
 イエス・キリスト様が天に上げられたという昇天の出来事も、天に昇るという行為が、イエス・キリスト様が父なる神の下に帰って行かれたということを示す象徴的な行為でした。また、聖霊なる神様が、イスラエルの民を神の民として教え導く律法がイスラエルの民に与えらたことを記念する五旬節の日が満ちたその日に与えられたというのも、まさにイエス・キリスト様が

   15:もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきであ
  る。16:わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまで
  もあなたがたと共におらせて下さるであろう。

と言われたように、私たちがイエス・キリスト様のいましめを守るために、聖霊なる神が、私たちを教え導く御方であるということの象徴となっています。だとすれば、鳩も舌も何かを象徴しているのかもしれません。だとすれば、鳩は何を象徴するのか。

 聖書には、イエス・キリスト様の「わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ」(マタイ10:16)という言葉がありますが、鳩が素直なものの象徴であるならば、まさにイエス・キリスト様の上に下った聖霊は、イエス・キリスト様が神に対して素直に従い、神の心にかなうお方であることを象徴して鳩の姿として自らを現れたのかもしれません。
 
 また、ペンテコステの日に弟子たちに与えられた聖霊なる神が、舌のような形をしていたのは、まさに私たちキリストの弟子は、神の言葉であるイエス・キリスト様に倣い、イエス・キリスト様が語られた教えを語り、福音を伝え、その生き方の中にイエス・キリスト様の隣人愛を生きることで、行いを通してイエス・キリスト様を伝える「キリストの証人」となることの象徴なのかもしれません。聖霊なる神様は、そのために私たちを教え導き支えてくださるお方なのだと、自らを舌という象徴によって示されているのではないか。

 実際、先ほど旧約聖書のヨエル書2章28-29節を司式の方によんでいただきました。その箇所は、ペンテコステの聖霊なる神様が下られるということを預言した箇所だと聖書自身(使徒2:16)によって理解されていますが、そこで言われていることは、

   その後わたしはわが霊を、すべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は
  預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る。29:そ
  の日わたしはまた、わが霊をしもべ、はしために注ぐ。

ということであり、聖霊なる神が与えられ注がれた者は、神の言葉を語り、神の御心を伝えるものとなるということなのです。

 みなさん、イエス・キリスト様は、ヨハネによる福音書の14章16節、17節また25節、26節で、聖霊なる神様を私たちに与えてくださると約束してくださいました。そしてその約束通り聖霊なる神様が私たちのところに来た。イエス・キリスト様を信じ、イエス・キリスト様に代わって私たちによって築き上げあれる神の王国である「キリストのからだなる教会」に来てくださったのです。
 この聖霊なる神様は、真理の御霊として私たちを導き、慰め主なるお方として私たちは支え、励ましながら、私たちひとり一人を「キリストのからだなる教会」につながるものとして、イエス・キリスト様に倣いながら神の似姿に向かって成長していく歩みを共に歩んでくださいます。そうやって、キリスト者となった私たちを、真のキリスト者としてくださるのです。

 これは、聖書の約束であり、イエス・キリスト様の約束なのです。ですから、この約束を信じ信頼して、イエス・キリスト様にように生きる者とさせていただきましょう。それこそが、真のキリスト者となり、真にキリストの証人になるということなのです。
お祈りしましょう。

2018年10月10日水曜日

2017年 11月5日 小金井福音キリスト教会 説教 「 神の義の発見 」

2017年11月05日 小金井福音キリスト教会 説教

聖書箇所
・詩篇 第71篇 1節~3節
・マタイによる福音書 第6章 25節~34節
・ローマ人への手紙 第1章 13節~17節

説教題 「 神の義の発見 」



リクエストがありましたので一年前の宗教改革記念礼拝の説教ですが掲載しました。

旧約書;詩篇7113
福音書;マタイによる福音書6
使徒書;ローマ人への手紙1

 愛する兄弟姉妹のみなさん。今日の礼拝は宗教改革記念礼拝です。今から500年前の15171031日付けで、ドイツの戒律厳守派アウグスティヌス会隠修士黒修道院の修道士であり、当時まだ新設の大学であったウィッテンベルグ大学の旧約聖書の教授であったマルティン・ルターが「贖宥の効力に関する討論」という95ヶ条の提題を発表したことから、当時のキリスト教社会を揺るがす「宗教改革」という歴史的大事件が起こりました。

 この歴史的大事件をきっかけにして、当時の西方ヨーロッパ世界全体に浸透していたカトリック教会教会と別れてプロテスタントとよばれる諸グループが起こってきたのです。そのようなわけで、いわゆるプロテスタントの教会の中で、多くの教団や教派で10月の最後の主日礼拝もしくは11月の第一主日を、宗教改革を記念する宗教改革記念礼拝を行ってきました。

 もちろん、プロテスタントの教会だからと言って、もろ手を挙げて「宗教改革万歳」といって良いというと、必ずしもそうではありません。宗教改革にはさまざまな問題点もありますし、考え直さなければならない点も数多くある。また、その根幹を揺るがすような神学的理解における問題も挙げられています。

 しかし、それでもなお、宗教改革には評価すべき点も多くあり、また大切にしなければならない点も多くあるのです。その中のひとつに、ルターにより「福音的義の発見」というものが挙げられます。

 この「福音的義の発見」というのは、人が神の救いに与り、神の国に招き入れられるのは、人間が行った功徳、つまり善き業に対する神の報酬ではなく、神を信じ、神に寄り縋るものに対して、神が人の行いに寄らす、神の恵みによって与えてくださるというものです。つまり、人間の義なる行い、正しい行いといった人間の義が人間を義とするのではなく、神の恵みによって神の義が私たちに与えられることで、私たちが義と認められるのだということです。

 このようなことは、こんにちのプロテスタントの教会では当たり前のように受け入れられている考えかたですが、ルターの時代は必ずしもそうではありませんでした。とりわけルターを取り囲んでいた環境では、人間は自分が死後、神の国に入るためには、、一生懸命努力して善い業を行い、自分が犯した罪の償いを神に対してしなければならないと考えられていました。そうやって神に対する罪の償いを一生懸命努力していたならば、その努力を見て神の憐れみが発動し、神にふさわしくない者も、神の国に入れてくださるのだと考えられていたのです。

 ですから、ルターは善き業と言われるようなことは一生懸命頑張って行っていました。けれども、どれほど頑張っても、神に赦されている、神の国に受け入れられているという確信が持てなかったのです。むしろ、自分の様々な罪が思い出されて、その償っても償い切れない現実に押しつぶされそうになっていたのです。

 ルターを評する人たちは、ルターの人間の罪深さに対する深い洞察をあげます。確かにその通りかもしれません。ルターほど人間は罪深い存在だと言うことを捕らえていた人はいないと言ってもよいでしょう。ルターが理解した罪深さは、人間が神に受け入れられたいと思って善い業をしたとしても、善い業をして受け入れたいと持っているその思いこそが、善い業をしている自分を正しいこと、義なることをしていると思っている自己義認の罪であり、それこそが人間の罪深さの表れなのだというのです。

 このように言われてしまいますと、身も蓋もありません。神の前に正しいものでありたい、良いことを行いたいと言う思いまでもが罪となるならば、もはや人間は救いようがないのです。だからこそルターは、人間はどのようにしたら自分が救われていると言うことを知り、確信できるのかもしれません。ということがルターの問題意識となり、その問題意識の中で自分の救いの確信を探求していったのです。

そのような中でルターは、人間は人間の行いによって救われるのではない。ただ神の恵みと憐みによって救われるのだと言う結論に至ります。つまり、人間はどんなに頑張っても自分自身を自分自身で救うことなどできないのだから、恵みと憐みを与えてくださる神を信頼し、寄り縋り、自分自身を神にゆだねるしかないのです。

 ルターはそれを医者と病人の関係に譬えて言います。つまり、病気の人が自分の病気を治そうと患者自身が頑張るのではなく、医者が必ず治してあげると言っているのだから、直すと言っている医者の自分自身を委ねなさいと言うようなものだというのです。つまり、自分で何とかしようとしていると、いろいろと心を煩わし気分も重くこことも暗くなるが、医者が「治す」と言っている言葉を信じて希望を持っていたならば心も明るくなって生きていけるだろう。それと同じだと言うわけです。

 もちろん、人間、なかなかこのような境地に行けないわけで、ルターもこのように言えるまでには相当悩み苦しんだだろうと思います。このような悩みの苦しみの中で、光を見出す一つのきっかけとなったのが、先ほど司式の方に読んでいただいた詩篇71篇の1節から3節までです。その箇所をもう一度お読みします。

1.主よ、わたしはあなたに寄り頼む。とこしえにわたしをはずかしめないでください。2.あなたの義をもってわたしを助け、わたしを救い出してください。あなたの耳を傾けて、わたしをお救いください。3.わたしのためにのがれの岩となり、わたしを救う堅固な城となってください。あなたはわが岩、わが城だからです。

 ルターは、この2節の「あなたの義をもってわたしを助け、わたしを救い出してください」という言葉がひっかかった。あなたの義、この場合「あなた」というのは神のことですから、あなたの義とは神の義ということです。つまり、「あなたの義をもってわたしを助け、わたしを救い出してください」ということは「神の義をもってわたしを助け、わたしを救い出してください」ということになります。この「神の義が私を救う」ということにルターは疑問を持ったのです。「それはいったいどういうことだろう」。

というのも、ルターの時代には、「神の義」というものは、人間が正しい行いをしているかどうかを図る尺度だと考えられていたからです。人間がどんなに正しいことを積み重ねてきていても神の前で、神の義という神の正しさと比べて測ってみたら人間の正しさなど取るに足らないものだ。だから神の義という基準にふさわしくなるように頑張らなければならないと教えられていたのです。つまり、ルターの時代、「神の義」は人間の行いを量り裁く基準だったのです。

 その「神の義」が「人間を救うとはいったいどうゆうことなのか」ルターはいろいろと考えあぐねた末に至った結果が、「神の義は、私たちを裁くためあるのではなく、私たちに与えられるものだ。神は、どんなに頑張っても神の前に義となることができない私たちに対して、私たちが神に寄り縋るならば、ご自分の中にある義を神の恵みと憐みの心によってその神の義を与えてくださり、本当ならとうてい義人とはいえない私たちに神の義を与え神の子としてくださり、義人とみなしてくださるのだ」というものだったのです。

 その時ルターは、先ほどお読みいただいたローマ人への手紙617節の「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、『信仰による義人は生きる』と書いてあるとおりである」という言葉が、そのことを言っているのだと受け止めた。

 神が、イエス・キリスト様をこの世に贈り、私たちの罪のために十字架につけて死なせてくださった。それが福音であり、その福音の中に、罪びとの私たちを義人とする神の義がある。だから、それを信頼して生きる者は、神の前に義人として生きることができるのだ」というのです。この箇所に対するルターの理解と福音理解は、今日、聖書の研究が進んでいる中で、神学的には問題を多く含んでいますが、しかし、神は恵み深い方であり、神は神に憐れみを求めるものを憐み慈しんでくださるお方であると言うところに思いがいたっていることにおいて十分に評価してよいと思います。

 実際、イエス・キリスト様ご自身が、マタイによる福音書631節で「だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。」とおっしゃった後、33節で「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」と言っておられるのです。

 この言葉をイエス・キリスト様が語られたのは、食べることや着ることと言った毎日の生活を心配し、思い煩っている人たちに対して、神に寄りすがり、神により頼んで生きるならば、神は憐み深いお方であるから、何も思い煩うことはない」ということを教え諭すためでした。だから、「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」と言われたその言葉に続いて、だから、「あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」と言われるのです。

 みなさん。確かに私たちの周りには、様々な心配事や悩み事があり、心を煩わさせます。その中には、心配し「どうしようか」と思い煩ってもどうしようもないことが多くあります。だからといって心配するなと言っても、それは無理な話かもしれません。しかし、少なくとも、神を信頼し、神により頼んで生きるならば、神は私たちを憐んで下さるお方なのです。それは、ルターが心を悩ませ苦しんだ「私たちの罪」の問題でも同じです。

 私たちが犯した罪や過ちは、どんなほかの善い行いをもってしても償えるものではありません。しかし、その罪を含んで、悩み思い煩う私たちの存在そのものを神は救いとってくださるお方なのです。

 イエス・キリスト様は「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは全て添えて与えられる」と言っておられます。「まず、神の国と神の義をもとめなさい」というのですから、最初に求めるのは「神の国と神の義」です。その「神の国」とは、神の憐れみと恵みが支配する世界です。どんなことがあっても、神は私たちを顧み、憐れみ、恵みをもって私たちを導いてくださる。それが神の国です。

 それは、神を信じ、神を信頼する心を持つものに与えられる神の恵みです。そしてそのように神を信頼し神に寄りすがって来るものに、思い煩いから解放し、苦しみや悩みの中にあっても、希望と平安とを与えてくれる、それが神の義です、

 これが与えられると、私たちが自分の力や頑張りでどうしようもない現実の中にあっても、希望を持ち、慰めと平安を得て生きていくことができるのです。ルターは、その神の義を、自分の罪からの救いという問題の中で見出したのです。

 みなさん。私たちはさまざまなことで、心を痛め、心を悩ませ、心配し、不安を感じます。それは、ルターのように必ずしも自分の罪の問題ということ同じでなく、違っているかもしれません。ですから、神の義というものを単純に「罪の赦し」ということに特化して言うことはできないだろうと思います。神の義は、私たちの罪の問題も含め、私たち人間が、思い煩い苦しんでいる現状の中で、神により頼むものに希望と平安と慰めを与えてくれるものだからです。

 そしてその神の義は、ただ神を信じ、神に寄るものに与えられる神の恵みの業なのです。あの500年前の宗教改革は、そのことが私たちの前に明らかにされていくための一つの神の業であったと言えます。だからこそみなさん、今、私たちは神を信じ、神を信頼し、神に寄り縋って生きることの大切さに目をとどめたいと思うのです。それは、私たちが生きる今という時代は、ルターの時代以上に悩みと苦しみが多い時代だからです。しかも、その悩みはとても深く、複雑だからです。そしてそのような時代だからこそ、より一層、神を信じ、神に信頼することで在られる希望と平安と慰めが必要なのではないでしょうか。

お祈りいたします。





2018年10月7日日曜日

2018年10月7日 小金井福音キリスト教会

聖書箇所
・創世記 17章 1節~2節
・ルカによる福音書 15章 1節~10節
・使徒行伝 1章 15節~26節

説教題「 復活の証人として生きる 」


 今日は、10月最初の礼拝です。その今日の礼拝では聖餐式礼拝の説教の箇所は、使徒行伝115節から26節です。この箇所は、12使徒と呼ばれる特別な立場の弟子にマッテヤという人が選ばれたと言うことを伝える箇所です。

 12使徒が特別な立場であったのは、もともと12使徒というのはイエス・キリスト様が直接お選びになった弟子たちだったからです。その12使徒のひとりのイスカリオテのユダがイエス・キリスト様を裏切ってしまい、そのユダの裏切りがきっかけでイエス・キリスト様が十字架にかけられてしまった。
 当然、イスカリオテのユダは他の使徒の仲間の下に戻ってくることはできません。それどころか、そのイスカリオテのユダは良心の呵責からでしょうかマタイによる福音書の275節では、首をつって死んだと言われています。今日の聖書個所の使徒行伝11819節でも括弧書きの中でユダがどのような死に方をしたかがマタイによる福音書のものよりより詳しく、そして詳しいだけにその最後が悲惨なものであったかが刻銘に書かれています。

 それは使徒行伝の著者であるルカが、このようにイスカリオテのユダの悲惨な最期を語る背景には、イエス・キリスト様を敵の手に売り渡したものの最後が如何に悲惨なものに終わってしまったかを記すことで、神の計画を妨げようとするものに待ち受けている恐るべき運命を示しものであり、イスカリオテのユダはその様な運命に陥ったのだと言うことを着てある意図があったのではないかとも言われますが、確かにそのような事だったのかもしれません。そして、それもまた聖書の預言するところであったとルカは言うのです。

 いずれにしても、このイスカリオテのユダがイエス・キリスト様を裏切り死んでしまったことで、12使徒と呼ばれる特別な立場にある弟子たちに欠員がっ出来てしまったので、その欠員を補充するために、新しく12使徒となる一人を選ぼうとしたのです。
 この12弟子が特別な立場であったと言うのは、イエス・キリスト様がルカによる福音書222829節で次のように言われているからです。そこにはこうあります。

それで、わたしの父が国の支配をわたしにゆだねてくださったように、わたしもそれをあなたがたにゆだね、わたしの国で食卓について飲み食いをさせ、また位に座してイスラエルの十二の部族をさばかせるであろう。

ここには、12使徒と呼ばれる弟子たちは、神の国の支配を委ねられ、イスラエルの12部族を治める立場になるのだと言われている。最も新しい訳の新改訳2017ではもっと明快に訳されています。お読みしますと

わたしの父が私に王権をゆだねてくださったように、私もあなたがたに王権をゆだねます。そうしてあなたがたは、私の国でわたしの食卓について食べたり飲んだりし、王座にについて、イスラエルの12部族を治めるのです。

このように、12使徒は教会という神の国の王座に就き、神の民を治めるという特別な使命を負っているのです。もちろん、王権を委ねられ王座について神の民を治めるといっても、この世に君臨してきた王たちのように、偉い人になって受けから仕えられながら治めると言うのではありません。むしろ一番弱い者のようになって、仕えられるものではなく仕える者としての王としての働きに召されているのだと、このルカによる福音書221819節の直前にイエス・キリスト様は言われている。

 この神の民に仕え、支え、支援し、正しい歩みに導く働きのために、12使徒は特別な立場にある者として選ばれているのです。その中のひとりが欠けている。今、まさにもうじき、「キリストのからだなる教会」という12使徒が委ねられた神の王国が始まろうとしているその時に、12使徒のひとりが欠け、完全な状態ではなくなっている。 
 12人がきちっとそろった完全な形の12使徒となって、彼らはイエス・キリスト様から権威と力と使命を全うしようとして新しい使徒を選ぼうとするのです。その時に、彼らは12使徒として選ぶための条件を決めます。それは、122節にありますようにヨハネのバプテスマの時から始まって、イエス・キリスト様が弟子たちの下を離れて天に上げられた日に至るまで、始終イエス・キリスト様とまたほかの12人と行動を共にした人だということです。

 11人の弟子たちが根是このような条件を出したのかは定かではありません。ただ、イエス・キリスト様が12弟子に王権を委ねると言われたときに、あなたがたは、「わたしの様々な試練の時に、一緒に踏みとどまってくれた人たちです」といって、「あなたがたに王権を委ねます」と言っておられますので、イエス・キリスト様のご生涯のすべてをその目で見ており、またイエス・キリスト様の語られたことを直接その耳で聞いた人が、それをかたり聞かせる為であっとろうと思います。

 それは、人間の人生の中には様々な苦難や試練があり苦しみや悲しみがあるからです。
そのような様々な試練の時に、私たちの主であるイエス・キリスト様も同じような苦しみを味わい生きられたそのお姿を、神の民が心に思い浮かべることができるためです。そのために、イエス・キリスト様のご生涯が語られなければならいのです。
だからこそ、そのイエス・キリスト様のご生涯のすべてをその目で見、イエス・キリスト様の語られた言葉をその耳で聞いた人から使徒を選ぼうとしたと言うことではなかろうかと思うのです。そして、こういうのです「わたしたちに加わって主の復活の証人にならねばならない」

 イエス・キリスト様のご生涯には、様々な試練や苦しみがあった。その試練がもたらす苦しみと痛みの中を生きたご生涯の最後が十字架の死でした。いろいろな試練を経験し、苦しいことや心に痛みを感じることが多くあった生涯の最後が、弟子たちの中のひとりい裏切られて十字架に磔られて死ななければならない。
 そのような人生を思い起こさせても、そこには希望は見いだせません。そのような人生が語られても、そこからは何の慰めも得られませんし、希望もない。ところが、イエス・キリスト様のご生涯は、その十字架の死では終わらなかった。死からよみがえるという復活の出来事があるのです。

 イエス・キリスト様は試練を経験し、苦しみも知っている。死という人間の最大の苦悩をも知っておられる。そのお方がわたしと共にいてくださると思うだけでも、それは大きな慰めなのかもしれません。けれども12弟子たちが語り聞かせなければならないのは、それだけであってはならないのです。
かれらは、イエス・キリスト様が死からよみがえるという復活の出来事を語り聞かせなければならないのです。それは、この復活の出来事は苦悩の中にあっても、試練の中にあっても、そこから必ず立ち上がることができるのだと言うことを私たちに教えてくれる出来事だからです。それが、たとえ死という私たちには決して抗えないような苦しみや悲しみであっても、それを乗り越えていく希望を与え力を与えてくれるからです。

12使徒は「わたしの様々な試練の時に、一緒に踏みとどまってくれた人たちです」と言われる人です。イエス・キリスト様の試練を一部始終見ていた人です。イスカリオテのユダに裏切られ、むち打たれ、十字架の上で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と言われて死んでいったお姿を見てきた人たちです。

 けれども、その12使徒は、その苦しみを経験なさったイエス・キリスト様がよみがえり天に昇られ、神の栄光の座につかれることも見てきているのです。だから彼らは語ることができる。私たちの人と人と間にあって、虐げられたり、侮られたり、裏切られたりする苦しみや悲しみや痛みを知ってくださっているイエス・キリスト様がその悲しみや苦しみを知っていてくださると語ることができる。その苦しみの中にある私たちと共にいてくださると語ることができる。そしてそれだけでなく、そういった悲しみや苦しみや痛みのなかに押しつぶされている私たちが、そこから立ち上がっていく希望を語ることができるのです。

 そのような使命をおった12使徒働きを他の11人と共に負っていくために、

「そういうわけで、主イエスがわたしたちの間にゆききされた期間中、(ゆききした期間中というのは一緒に死活をしたと言うことですが、)すなわち、 ヨハネのバプテスマの時から始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日に至るまで、始終わたしたちと行動を共にした人たちのうち、だれかひとりが、わたしたちに加わって主の復活の証人にならねばならない」

 と言って、その条件に適うユストと呼ばれるバルサバとマッテヤのうちのどちらかを選び、欠けてしまった12弟子の穴を埋めようとするのです。

 その際、彼らが選んだ方法はくじを聞くと言うことです。「なんだくじ引きかよ」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。実際私もそのように思う気持ちがある。けれども、確かに、今の時代にくじ引きに任せるということは、さすがにどうかとは思いますが、っしかし、この当時のユダヤの民の間では、神の御心を求めてくじを引くということは特別なことではありませんでした。くじを引くと言うことで、そこに人間の思惑が入らずに神のみこころにゆだねると言うことなのでしょう。だから

「すべての人の心をご存じである主よ。このふたりのうちのどちらを選んで、 ユダがこの使徒の職務から落ちて、自分の行くべきところへ行ったそのあとを継がせなさいますか、お示し下さい」。

と祈ってくじを引くのです。その結果、マッテヤという人が選ばれたのです。これで、ようやく欠けていた一人が加えられて12人がそろい、「キリストのからだなる教会」という神の王国を建て上げると言う使命に向かっていくことができる。

 けれども、どうしてくじ引きまでして一人を選んで12人にしなければならなかったのでしょうか。11人ではだめだったのだろうか。二人のうち一人を選ぶと言うようなことをせずに、二人とも加えて13人ではいけなかったのか。いろいろ思うところがりますが、おそらくそこには、イスラエルの12部族ということが意識されているのだろうと思います。だから12使徒という特別な立場に置かれた弟子たちに働きは、12人で構成されると言うのが完全な形だったのでしょう。

 その完全な完成形となって、互いに支え合いながら、それこそ役割を分担しながら、神の王国を、キリストのからだなる教会を建て上げていく働きを共に追っていこうとしているのだと思います。その意味では、12使徒というイエス・キリスト様の直弟子の集まりは、12人で一人の人間のような存在なのです。

 みなさん、イエス・キリスト様の譬え話に次のような話があるじゃないですか。ルカによる福音書158節から10節までにある10枚の銀貨を持っている女性が、そのうちの一枚の銀貨をなくしてしまったら、家中の明かりをつけて家をはいて見つけるまで探す。そしえ見つけたら近所の人や友人を呼んでともに喜ぶと言う話です。

 このたとえ話それ自体は、イエス・キリスト様は一人一人を愛し、その人が神に立ち帰るように探し求めていられると言うことを伝えるたとえ話ですが、10枚の銀貨の内、その一つがどこかに行ってしまったというので、こんなに熱心に探すのは、この10枚の金貨は
当時のパレスチナの既婚女性のしるしとされた銀の鎖に10枚の銀貨を差し通して髪飾りが背景にあるのではないかと言われたりします。

 この髪飾りは10枚の銀貨がそろって初めて完全な形であり完成形です。その中の一枚でも欠けたならば完全ではないのです。もちろん価値もない。だから一生懸命探したというのです。同じように12使徒という働きは12人そろって意味を成す働きだと考えられていたのでしょう。だから完全な者になろうとして祈り、くじを引き、二人のうちのひとりを選ぶのです。

 この完全な者となろうとすること、その努力というものはキリスト教の信仰にとって大切な一面があります。たとえば、先ほどお読みいただいた創世記1712節は、神様がアブラハムに完全であるようにともめられた場面です。もちろん、この場面はアブラハム個人に対して神との契約の中で完全な者となりなさいと言っていることですから、先ほどの12使徒が12人であろうとしたということとは、若干違っています。

けれども、それが個人の事柄であろうと、教会という共同体の事柄であろうと、信仰者が信仰者として生きて行くにあたって神様は、私たちが完全であることを求めておられますし、完全となるということの重要性に目を向けるということおいては同じことです。

そして、完全になると言うことは欠けているものが補われると言うことなのです。私たちには、欠けがある。いろんなところにかけをもって生きているのです。その欠けを補ってくれるものが信仰です。

完全になれと言うわれますと、それはとてもしんどい感じがします。そんなの無理だと正直そう思います。でも、それは自分の力で完全になろうとするからではないか。それこそ、自分の力ではどうしようもないほどの大きな欠けをいくつももって私たちは生きているのです。その欠けを信仰が補ってくれる。そして、その欠けをおぎなってくれる信仰とは、神様に自分自身をお委ねする信仰なのです。

 今、全世界に、イエス・キリスト様の復活の証人である12使徒を中心にして教会が建て上げられて行こうとするとき、その12使徒は、イエス・キリスト様の母マリヤとその兄弟たちと心を一つにして祈りを積み重ねてきていました。そのことが今日の聖書個所の直前の使徒行伝112節から14節に記されています。

 そうやって祈りを積み重ねていく中で、彼らは教会を建て上げていくために、このままではよくない。十分ではない、完全ではないと言うことに気づいて行ったのではないでしょうか。そして、それを決して包み隠そうとはしていない。だから120人ほどの仲間が一つになって集まっているその真ん中で、くじを引いて決めようとするのです。
 自分たちではどうしようもないから、くじを引いて自分たちの神様に欠けを補っていただこうとしたのです。そこには、神を信頼し神にゆだねる信仰がある。イエス・キリスト様から、「あなたがたに王権を委ねます」と言われても、自分たちの主は神様であると言うことを決して忘れずに、神様に自分自身を委ねながら歩もうとしている12使徒たちの姿がある。

みなさん、私はイエス・キリスト様が、ご自分にゆだねられた王権を、12使徒たちにお委ねになられたのは、12使徒たちに、この神にゆだねる信仰の芽生えを見ていたからではないのだろうかを経験して乗り越えていく姿を通して弟子たちの心に巻いて行った種が芽生えてきたものであった。そのように思うのです。
 
イエス・キリスト様の試練と苦しみと悲しみの頂点にある出来事は、イスカリオテのユダに裏切られ、十字架に磔られて死なれると言う出来事でした。その十字架の上でイエス・キリスト様は「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか」という引かい悲しみと沈痛な思いを叫ばれる。その苦しみにあったイエス・キリスト様が「父なる神様、私の霊をあなた委ねます」と言って十字架の上で死んでいかれた。

12弟子たちは、その姿を見ていたのです。そしてその苦しみと「父なる神様、私の霊をあなた委ねます」と言って自分自身を父なる神にゆだねて十字架の上で死んでいかれたイエス・キリスト様のお姿を見た弟子たちは、その死からよみがえり復活したイエス・キリスト様のお姿をも見ている。

12使徒は、神にすべてを委ねて生き、そして死んでいった者がどうなるのかということを12弟子は目撃したのです。だからこそ、イスカリオテのユダが死に、12弟子に欠けが生じ、十分ではない、完全ではない自分たちが、これからキリストのからだなる教会を建て上げつつ、悪魔が支配する「この世」の中で、神の王国を世界中に広めていこうとするその時に、神にその欠けを補っていただき、完全なものへと「再生」していただいて、その委ねられた使命を全うしていこうとするのです。だから、復活の証人でなければならないのです。 
みなさん。私たちひとり一人は欠けの多いものです。私自身、人間として牧師としてどんなに欠けが多い者かと思い知らさらされます。そして教会もまた、そのような欠けがある人間が呼び集められていますから、欠けが一杯ある。でも、信仰があるならば、その欠けは神様が補って下さり、試練の中にあり、苦しみや悲しみや痛みが訪れるようなことがあっても、私たちは、そこから立ち上がり、力をいただき、完全に「再生」されて歩んでいけるのです。だから、私たちが神から求められている完全性とは神を信頼し、神に自分自身を委ねる信仰の完全性なのです。

そして、そのような信仰をもっていきるということ、それが復活の証人となるということでもある。イエス・キリスト様の復活の証人となると言うことは、ただ言葉で伝えると言うことだけではない。試練や苦しみ、悲しみの中で、イエス・キリスト様に自分自身を委ねる信仰によって「再生」され、立ち上がって生きて行く姿をもって証しすると言うことでもあるのです。
みなさん、私たちはそのことを証しする復活の証人なるものとして、「キリストのからだなる教会」に呼び集められたひとり一人です。それは、どんな試練や苦しみがあっても、神にゆだねる信仰があるならば、そこから立ち上がらせていただけると言う約束の中に生かされていると言うことでもあるのです。
 
そのことを心に刻みながら、イエス・キリスト様の復活の証人として歩んでいきたいですね。お祈りしましょう。