2018年12月9日日曜日

‘18年待降節第2主日礼拝説教「キリストを迎える道備え」


18年待降節第2主日礼拝説教「キリストを迎える道備え」       2018.12.09
旧約書:イザヤ書401節から5節(旧約聖書p.996
福音書:ルカよる福音書15節から23(新約聖書pp.82-83)
使徒書:テモテへの第二の手紙41節から5節(新約聖書p.336

 教会に飾られたクランツに二つ目のローソクが灯され、待降節の第2週の主日礼拝となりました。先週は、クリスマスというものが、紀元2世紀から4世紀ごろの間にローマ帝国で太陽を不滅の神として崇める冬至の祭りに対してキリスト教会が、真の義の太陽であるイエス・キリスト様を祝うことから始まったと言うことをお話しいたしました。

 そして、この義の太陽こそが、不正や暴虐がはびこっている時代に、神の王国の王として神の国をもたらしてくれる希望であると言うこともお話ししました。その義の太陽であるイエス・キリスト様がこの世界に来られたということは、それはつまり、この世界の中に神の王国がやって来たということです。つまり、クリスマスとは、イエス・キリスト様がお生まれになったことを記念し、それを祝う日であると同時に、この世界の中に、神の王国がやって来たことを祝う日でもあるのです。

 しかし、みなさん、先週の礼拝で旧約聖書のマラキ書をお読みいただき、そのマラキ書の時代背景は、神の民イスラエルの中で信仰が形骸化し暴虐や虐げ、そして不正が蔓延し道徳的にも乱れきっている、そんな時代でした。そして、イスラエルの民の中の神の民としての自覚やほこりが損なわれ、神の民の共同体としての結びつきが崩れてしまいそうな時代であったと言えます。そのような世界に義の太陽がやって来るのです。逆に言うならば、義の太陽であられるイエス・キリスト様が来られる世界は、暴虐や虐げ、そして不正に満ちた世界だと言うことです。

 そのような乱れ切った世界に、神の御子が神の王国の油注がれた王として来られた。しかし、そのような乱れ、腐敗した世界の中に、何の前触れもなくイエス・キリスト様は、私こそが油注がれた神の国の王であると言って登場したわけではありませんでした。父なる神は、イエス・キリスト様が王としてこの世界に現れ出るためにちゃんと道備えをしてくださっている。それが、先ほどお読みいただきましたルカによる福音書15節から23節にあります、バプテスマのヨハネという人物です。

 みなさん、イエス・キリスト様がお生まれなさったという物語、それは、まさに神が人として受肉すると言う奇跡でありますが、神は聖霊によって乙女マリアからイエス・キリスト様をお生まれさせなさったという奇跡の物語でもあります。そしてその奇跡は、イエス・キリスト様と言うお方のお誕生は、神が、不正や暴虐や虐げに満ちた世界にご介入なさると言うことを宣言するものでありました。

 同じように、聖書が告げるバプテスマのヨハネの誕生の物語にも、神がそこに介在するという奇跡的な物語が展開する。それは、今、司式の兄弟にお読みいただいたイザヤ書403節から5節の言葉から始まります。そこにこうあります。

3呼ばわる者の声がする、「荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ。 4:もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ、高低のある地は平らになり、険しい所は平地となる。 5:こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る。これは主の口が語られたのである」。

 みなさん、イザヤ書の40章は、イザヤ書にあっても特別な章です。イザヤ書は、それでの39章までは、イスラエルの民に対する厳しい神の叱責の言葉と、厳しい歴史的現実がかたられるのですが、この40章からはガラッと変わって、神の慰めの言葉が語られるようになる。この39節から40節までの語り口調や文体があまりにも違いすぎるので、旧約を専門とする学者の中には、イザヤ書は一人の人物が書いたのではなく、39章まで書いた人物と40章以下を欠いた人物は違うのではないかという人が少なからずいます。そして、39章までも第一イザヤ、40章以降を第二イザヤと言う具合に区分する。

 私たち福音派と呼ばれるグループの多くの牧師は、このように第一イザヤと第二イザヤと言ったふうに複数の著者がいると言う立場を取らず、イザヤと言う一人の人物の手によるものであると言う立場をとる人が圧倒的に多いのですが、ここではイザヤ書の著者が複数なのか一人なのかと言ったことは問題ではない。大切なのは、神の民に神の慰めと救いの言葉が語れるようになるその冒頭に、荒野に主の道を備え、砂漠にわれわれの神のために大路をまっすぐにする、いうなれば道備えをする者が現れると言うことが語られていると言うことです。

 神の慰めの言葉が語られ、救いの言葉が語られる時、その言葉が語られる間に、人々がその言葉に耳を傾けて聴くことができるように道備えをする者がいると言うのです。それは、荒野に呼ばわる声だというのです。
 荒野に呼ばわる声と言うのですから、まさに、荒野のような荒廃した世界にいる人々の心を、神に向けさせる働きをする。そして、バプテスマのヨハネ自身が、自分はその荒野に呼ばわる声であるとそう言っている。ヨハネによる福音書119節には、人々から「あなたはキリストですか」と聞かれたときに、ヨハネが「私はキリストではない、私は預言者イザヤがいった荒野で呼ばわる者の声だ」といった記事が出ていますが、バプテスマのヨハネ自身が、荒野で呼ばわる者の声であると自覚しているのです。
 その自覚は、おそらく先ほどお読みいただいたルカによる福音書の1章にある自分が生まれる際に起こった出来事を、まるで物語のように両親から繰り返し聞かされていたからではないかと思われます。それは、まさに神がバプテスマのヨハネの誕生に際して、奇跡的に関わられた物語です。

 みなさん、バプテスマのヨハネの父ゼカリヤと母エリサベツの間には長い間子供が与えられず、二人とも年老いていました。その老夫婦に神は天使をみ使いとして遣わして子供を与えると約束する。そして、その子の名をヨハネとつけなさいと言うのです。その上で、「その子はエリヤの霊と力をもって、みまえに先立っていき、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう」と天使は言う。つまり、人々の心を神に向けさせるというのです、

 実際、バプテスマのヨハネは荒廃した世界の中に出て行き、人々の罪を厳しく糾弾し、神に立ち帰るようにと人々に語り、そしてイエス・キリスト様を「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」といって人々に紹介した、。みなさん、私たちがここで注意しなければならないのは、罪と言うことが単に、犯罪を犯したとか、道徳的に過ちを犯したとか、社会の規範を犯したと言ったことではないと言うことです。

確かに、犯罪とか、道徳的にな過ちとか、社会の規範を犯すと言ったことは悪いことです。そして、それらは罪から生み出されるものです。しかし、それらは悪ではあっても、ここで言う罪ではない。ここで言う罪は、神から離れ、神を意識せず、また私たちが神を見牛まってしまっている状態を指すものです。そのように神から離れ、神を意識せず、神を見失っているからこと、私たちは悪いことをしてします。つまり、問題は私たちと神と関係です。私たちが誰を見、誰を意識し、誰を目標に生きているかなのです。 
そしてその誰かということは、しばしば自分自身であったりする。だから自己中心と言うのは罪だと言うのです。自己中心とは、自分自身の心の鏡に、自分の欲望を映し出すことです。そして、そのような罪は「この世」と言う世界によって私たちにもたらされるのです。

みなさん。そのような世界の中でバプテスマのヨハネは、その見るべき方向を人々に指したのです。誰を見なければならないかを示した。そしてそれが、神が遣わされた油注がれた王であるイエス・キリスト様だったのです。それは、この世界に神の王国が建てら、イスラエルの民が神の王国に招き入れられるれていく道備えであった。

 みなさん、義の太陽が昇る世界は、暴虐や虐げや不正に道、道徳的に乱れ、信仰は形骸化してしまった荒廃した世界です。ですから、真の義の太陽であるイエス・キリスト様がお越しになられる世界は、荒廃した世界なのです。そしてその荒廃した「この世」と言う世界は、私たちの心から神を締め出して神から離れさせ、神を意識せず、神に頼ることも、神を必要とさせず、神を見失って、自分の思いや願い、そして欲に従って生きさせる世界です。そのように罪が支配している世界にイエス・キリスト様はお生まれ下さったのです。

みなさん。イエス・キリスト様は、その罪に支配されて荒廃している世界に生きる私たちを、その罪の支配から私たちを解放してくださるためにこの世界に来られた。
だから、誰もがクリスマスと言う出来事を必要としている。神の御子がしみに支配されている世界に来てくださったと言うクリスマスの出来事に無関係な人、無関係でいられる人など一人もいないのです。 
それは、この罪が支配する世界の中で、もっとも荒廃し、砂漠のようになっているのは、私たち人間の心だからです。私たちひとり一人の心が、この罪に支配された世界というもの映し出している鏡なのです。ですからみなさん、私たちの心の中にはイエス・キリスト様が必要なのです。 
また、だからこそ聖書は、「み言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい」というのです。先ほどお読みいただきましたテモテへの第二手紙42節です。 
それは、私たちの心が「この世」というこの世界を映し出すのではなく、イエス・キリスト様と言うお方を映し出すためです。私たちの心の鏡が、神と言うお方を映し出してはじめて、私たちは罪の支配から解放されるのです。

みなさん、聖書は、先ほどのテモテ第二の手紙の42節に続いて、こう言います。3節、4節です。それは、人間の心と言うのが、如何に自分の願いや思い、そして欲望に従いやすいかと言うことを示している言葉です。そこのはこうあります。

人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳ざわりの良い話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして真理から耳をそむけて、作り話の方にそれていくときが来る。

 みなさん、「この世」と言う世界は、私たちの心の鏡が、神と言うお方を映し出させないように私たちの欲望に働きかけながら、私たちの心の鏡に、自分自身の思いや願い、そして欲望を映し出させようとします。

この「この世」と言う世界の私たちを罪に誘う働きかける力、その力に打ち勝ち、私たちの心の中に神の姿を映しだすためには、私たちの心の中にイエス・キリスト様と言うお方がお生まれ下さると言う出来事が必要だ。クリスマスと言う出来事が私たちの内に必要なのです。そのためには、荒野で呼ばわる声となる人が必要です。バプテスマのヨハネが必要なのです。では、誰がその荒野で呼ばわる人となるのか。
それは、こうして教会に集う私たちひとり一人です。私たちひとり一人は、「キリストの証人」となるべく神に呼び集められたひとり一人です。そして、誰かのための「荒野に呼ばわる声」となるものとして神は。私たちを召しておられる。

先ほどのテモテ第二の手紙の第4章は、4節、5節で
  
人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳ざわりの良い話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして真理から耳をそむけて、作り話の方にそれていくときが来る。

と言った後、それに続いて「しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難をしのび、伝道者の業をなし、自分の務めを 全うしなさい」と言っている。この言葉は確かにテモテと言う一人の伝道者向かって語られた言葉です。しかしテモテと同様に、私たちひとり一人がイエス・キリストの証人であり、伝道者であり、人々の心を神に向けさせる荒野で叫ぶ声なのです。
それは何も、言葉で伝えると言うことだけではない。私たちがイエス・キリスト様を信じ、礼拝し、神の言葉に耳を傾けながら生きて行くというその生き方そのものが、荒野で叫ぶ声となるのです。そのことを覚えながら、神を信じ、イエス・キリスト様を信じる者として、神の前に生きる者でありたいと思います。祈りましょう。

2018年12月4日火曜日

2018年待降節第一主日説教「太陽は輝いている」

 2018年12月02日 待降節第一週主日礼拝説教「太陽は輝いている」

旧約書:マラキ書4章1節から6節
福音書:マタイよる福音書5章43節から48節、6章14節から19節
使徒書:テサロニケ人への第一の手紙5章5節から11節

説教題「 太陽は輝いている 」
 ※ 録画中にトラブルがあり、途中録画が切れている部分があります。



さて、2018年も12月に入り、クリスマスのシーズンになってまいりました。もっとも世間では、11月に入りますと早々にクリスマスの飾りつけなど顕われてまいりますので、今さら、教会でクリスマスシーズンになりましたと申しましても、世の中から一歩の二歩も後れを取った感じがあります。しかしそれは、世間が勇み足なのでありまして、私たちクリスチャンにとっては、当然のことではありますが、クリスマスは、イエス・キリスト様の降誕を祝う教会の大切なお祭りなのであり、そのクリスマスを迎える前の4週間を教会ではアドベント(待降節)と呼びクリスマスの時を祝うのですが、そのアドベントは11月30日に最も近い主日からアドベントから始まります。
 
 そのようなわけで、今日がそのアドベントの第一主日となります。そのアドベントの第一主日の礼拝における聖書個所として、私は旧約書としてマラキ書4章1節から、新約聖書福音書からマタイによる福音書5章43節から48節および6章14節から19節、そして新約聖書の使徒書からはテサロニケ第一の手紙5章5節から11節までを選びました。

 その箇所を、今、司式の兄弟が今お読みくださいましたが、みなさんは、その聖書の言葉を聞きながら、なぜこの箇所がクリスマスを迎える待降節の第一主日に読み上げられるのかと不思議に思われたのではないかと思います。

 確かに、これらの箇所は、イエス・キリスト様がお生まれになったというクリスマスの出来事を思わせるような内容ではありません。しかし、この三つの聖書個所は、ある一つのキーワードを通して、クリスマスの出来事を伝える大切なメッセージを生み出してくるのです。ではそのキーワードとは何か。それは『太陽』と言う言葉です。とりわけマラキ書4章2節にある言葉がクリスマスと言う出来事を考えるときに、重要な意味を持ってくる。そこにはこうあります。 

   1:万軍の主は言われる、見よ、炉のように燃える日が来る。その時すべて高ぶる 
  者と、悪を行う者とは、わらのようになる。その来る日は、彼らを焼き尽して、根
  も枝も残さない。2:しかしわが名を恐れるあなたがたには、義の太陽がのぼり、そ
  の翼には、いやす力を備えている。あなたがたは牛舎から出る子牛のように外に出
  て、とびはねる。3:また、あなたがたは悪人を踏みつけ、わたしが事を行う日に、
  彼らはあなたがたの足の裏の下にあって、灰のようになると、万軍の主は言われる  

 みなさん、このマラキ書というのは、その著者が誰であるかは分かっていません。確かに、マラキ書と言うタイトルはついていますが、このマラキいうのは、人の名前ではなく単に「私がつかわした者」という意味の言葉です。もちろん、モーセと言う名には「引き出す者」という意味や、イザヤと言う名には「主は救い」と言う意味がありますように、ユダヤの人々にとって言葉の意味と名前とが直接的に結びつくことがしばしばあります。 
 しかし聖書の中にマラキと言う名前の前例はなく、実際ユダヤ人の名前の中にそのような名前を見出すことができないのです。つまり、マラキというのは名前ではない。
 その無名の著者によるマラキ書は、イスラエルの民がバビロンに奴隷として捕らえられ、長い捕囚生活から解放され、神殿が再建されたと言う出来事からさらに後の時代、具体的には紀元前5世紀前半のネヘミヤ記が書かれる前の時代に書かれたものであると考えられています。

  その時代においては、イスラエルの民は、既にバビロンから解放され、神殿も再建され、ユダヤ業の宗教儀礼も再開されていました。しかし、現実にはそれまでユダヤの民を支配していたバビロン敵国からペルシャ帝国に代わっただけであり、相変わらず他民族の支配の下におかれていると言う状況はは変わっていません。つまり、自分たちの王を迎え、神の国であるイスラエルの国を再興するというユダヤの民の願いは実現に至っていないのです。言うなれば、イスラエル王国の復興すると言う彼らの夢や希望は、じり貧状態に陥っていたのです。そのようなじり貧の状態が続きますと、いったい神は私達ユダヤの民を本当に愛し下さっているのかと言う思いが沸き上がって来る。 そうなりますと、神を信じる信仰は揺れる葦のように揺らぎ、彼らの信仰は形骸化し、人々の生活は荒廃していきます。そして、彼ら自身の神に選ばれた神の民であると言う意識も薄らいでき、不正や暴虐が起こって来る。

 そのような状況のただ中で、この無名の預言者はユダヤの民に希望を語ります。それが、「しかしわが名を恐れるあなたがたには、義の太陽がのぼり、その翼には、いやす力を備えている。あなたがたは牛舎から出る子牛のように外に出て、とびはねる」と言うことです。 この義の太陽こそが神の王国の油注がれた王であり、神の王国が到来すると言う希望なのです。もちろん、その神の王国の油注がれた王としてこの世界に来られたお方は、イエス・キリストさまであり、イエス・キリスト様こそが義の太陽なるお方である。

  この希望が具体的なクリスマスと言う祝いの祭りとして出来事となっていく。それは、このマラキ書の時代のずっと後の2世紀から4世紀前半頃のローマ時代になってです。そのころの古代ローマ帝国では、「冬至の祭り」という祭りが盛大に行われていました。これは、冬至は一年で日の長さが一番短くなり、そこからまた日の長さがだんだんと長くなっていくところから、太陽の死と復活を読み取り不滅の太陽を祝う祭りでした。それが12月25日に行われていた。 その冬至の祭りに対して、その時代のキリスト者たちが、マラキ書にある義の太陽であるイエス・キリスト様のご降誕を祝おうと始めたのが、今日のクリスマスの起源であると言われます。

 つまり、クリスマスとは、イエス・キリスト様がお生まれになったと言うことを祝う出来事であると同時に、イエス・キリスト様と言う神の王国の王の到来を祝う祭りだと言ってもよい。 この神の王国の油注がれた王であるメシアは、不正や暴虐が支配している世の中を正すお方ですから、そこには義があり公正があり慈しみがある。つまり義の太陽であるメシアは、公正なお方であり、正義のお方であり慈しみ深く愛に豊かなお方なのです。そのお方、イエス・キリスト様が王として支配する国がクリスマスと共にすでに始まっている。 

 みなさん、先ほどマタイによる福音書5章43節から48節の言葉を、私たちは耳を傾けて聴きました。マタイによる福音書の第5章は、いわゆる山上の垂訓と言われるイエス・キリスト様によって示された神の王国に生きる神の民の生き方です。その中で、イエス・キリスト様は、「隣人を愛し、敵を憎め」と言うのはごくごく当たり前のことで、誰もがそう考えることであるが、神の王国の民であるキリスト者は、隣人を愛するようにあなたの敵を愛し、迫害する者のために祈るものとなりなさいと、そう言っておられます。 またマタイによる福音書の6章14節では、人の過ちを赦せとも言われている。
 みなさん、赦すと言う出来事が起こる場面では、赦す者は、赦されるものによって何らかなの損害や危害を受けている。ですから赦す者にとって、許しを受けるものは、本来ならば憎むべき相手です。それを赦せという。
 「この人々の過ちを赦せ」という言葉のすぐ後を見ますと、断食しているのを人に見せるためにする名と言うことが書かれている。そこには、信仰に熱心だと言われるような人が、その実、信仰が形骸化してしまっていると言うことがあった塔ことをうかがわせる言葉です。そのような信仰が形骸化してしまっている中で、イエス・キリスト様は、敵を愛し、迫害する者のために祈り、過ちを犯すものを許してやれと言われる。
 そしてそれは、天の父は、悪い者の上にも、善い者の上にも太陽を登らせ、正しい者に上にも正しくない者の上にも雨を降らしてくださる方だからだと言うのです。

 もちろん、このマタイによる福音書でいう太陽と言うのがイエス・キリスト様のこと直接的に言っていると言うわけではありません。このイエス・キリスト様の言葉は、あくまでも自然現象を比喩として、良い物も悪い者も分け隔てなく愛する神の慈愛を指すためのものです。 その意味で、太陽が良い者の上でも悪い者の上でも輝いているように、神の恵みは全ての人に等しく注がれている。それはつまり、神の御子であり、神の王国の王である救い主イエス・キリスト様がもたらす救いの業もまたすべての人に等しく与えられていると言うことでもあるのです。

 しかし、みなさん。よく考えてみてください。太陽が良い者の上でも悪い者の上でも輝いているように、神の恵みは全ての人に公平に等しく注がれている、あるいは、救い主イエス・キリスト様がもたらす救いの業もまたすべての人に等しく公平に与えられているということは、本当に公正なことであり、公平なことなのでしょうか。悪い者は裁かれ、良い者が救われるというというなら納得もできますが、良い者も悪い者も等しく神の恵みが注がれている、イエス・キリスト様がもたらす救いの業が与えられているといわれると、それはむしろ不公平なことのように、私には思われるのですがどうでしょうか。

  みなさん、確かに私たちが良い者にも悪い者にも救いの恵みが等しく与えられていると言う一点、言うならば救いの入り口だけに目を注いでいたならば、確かにそれは不公平なことかもしれません。しかし、イエス・キリスト様のもたらす救いとは、私たちを神の王国の民とすると言うことです。つまり、救いは入り口だけの問題ではない。神の王国の入り口を入りキリスト者となった者が、マタイによる福音書5章48節にありますね、「あなたがたの父が完全であられるようにあなたがたも完全な者になる」という救いのゴールに至ることによってイエス・キリスト様の救いの業が完成するのです。

 みなさん、興味深いことに、 マタイによる福音書13章43節には「そのとき、義人たちは彼らの父の御国で、太陽のように輝きわたるであろう。耳のある者は聞くがよい」と書かれている。そこで言われていることは、イエス・キリスト様が義の太陽として輝いておられるように、私たちもイエス・キリスト様のように太陽として輝く者なるのだということです。 それは、私たちが神の救いの業により、この罪が支配する世界から解放され救われると言うことは、単に罪が赦されると言う消極的なことだけではなく、もっと積極的に、偽の太陽であるイエス・キリスト様のように、輝くものとなるのだと聖書はいうのです。

 みなさん、確かに、私たちひとり一人は良い者と悪い者と言うわけではないにしろ、スタートラインが違います。ひとり一人が個性ある、差異あるひとり一人です。しかし、神が私たちを導いて行かれようとするゴールは同じです。だれもが、完全な者となる。イエス・キリスト様のようなものとなることができるのです。

  それは、私たちが神の子とされているからです。義の太陽の光が輝く光の下に置かれているからです。先ほど使徒書テサロニケ人への第一の手紙5章4節から6節には、このように書かれています。 4:しかし兄弟たちよ。あなたがたは暗やみの中にいないのだから、その日が、盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはないであろう。5:あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない。6:だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう。

  義の太陽であるイエス・キリスト様が、闇のようなこの世界に来てくださり神の王国をもたらしてくださった。それは私たちがもはや夜のものでも闇のものでもなく、明るく輝く昼の日差しの中で、私たちまた、イエス・キリスト様のように太陽として輝くためなのです。  みなさん。神の言葉である聖書は、私たちに完全な者となりなさいとか、敵を愛しなさいとか、互いに赦しあいなさいとか、結構、無理難題と思われることを私たちに要求してきます。とてもそのような聖書が求めてくる生き方などできないように思います。けれども、聖書は、私たちがイエス・キリスト様のようになるというのです。大切なのは。その聖書の言葉を信じてイエス・キリスト様のようになろうとして生きることなのです。それじゃぁ、イエス・キリスト様のようになるとはどういうことか。 

 イエス・キリスト様のようになると言っても、イエス・キリスト様がどのようなお方かがわからなければ、なりようがありません。みなさんイエス・キリスト様とはどのようなお方なのか。  聖書は、イエス・キリスト様がお生まれになる時に、マリヤにあなたは神の子を身ごもりますよ。その子はインマヌエルと呼ばれますよと伝えている。インマヌエルとは「神、われら共にいます」と言う意味です。そう、いつも神と共にあり、神と共に生き、神の御旨を生きたお方がイエス・キリスト様と言うお方です。

  確かに、イエス・キリスト様は愛のお方でした。赦しのお方でした。慈愛にあふれた方であり、恵みと憐みに富んだお方でした。義なるお方であり、公平で公正なお方でした。しかしこれらは、イエス・キリスト様が神と共に在られたお方であると言いことの結果として現れ出たものです。ですから、神我らと共にいますというインマヌエルということを意識し、神、共に生きると言う生き方ぬきで、イエス・キリスト様のように愛ある者、赦す者、慈愛にあふれた者、恵みと憐みに富む者、正しい者、公平で公正な者になろうとしてもそれは土台無理なことです。

  けれども、私たちがいつも神と共にあり、神と共に生きようと意識するならば、私たちは、義の太陽であるイエス・キリスト様のように、太陽のようになって輝くことができるのです。  みなさん、クリスマスは義の太陽であるイエス・キリスト様がお生まれ下さったことを記念し祝う日でありますが、それは神の王国がこの世界にもたらされたことを祝う日です。そして、私たちが、イエス・キリスト様がインマヌエルなるお方であったように、神が私たちと共にいて下さり、神が私たちと共に歩んで下さる新しい人生がもたらされた日でもあるのです。そのことを覚えながら、今日から始まるアドベントの期間を、神を想い、イエス・キリスト様を思いながら過ごしていきたいですね。みなさん、義の太陽は今日も分け隔てなく、私たちの上で輝き、私たちを導いておられるのです。お祈りしましょう。