2019年6月30日日曜日

2019年06月30日 小金井福音キリスト教会 説教「拝すべき唯一の神」

2019年06月30日 小金井福音キリスト教会 説教

【聖書箇所】
・出エジプト 第20章 1節 - 6節
・ルカによる福音書 第4章 1節 - 8節
・使徒行伝 第7章 30節 - 43節

【説教題】 「 拝すべき唯一の神 」



196月第5主日礼拝説教題「拝すべき唯一のお方」          2019.6.30 
旧約書:出エジプト書201節~6節(旧約聖書p.102
福音書:ルカによる福音書41節~8(新約聖書p.89)
使徒書:使徒行伝730節~743節(新約聖書pp.191-192

 さて、ここ数回の礼拝にわたって、使徒行伝の中からもっとも原初のエルサレム教会の執事であったステパノが、イエス・キリスト様を十字架に架けたユダヤ人に対して語った説教からお話ししてまいりました。

その説教においてステパノ、ユダヤ人の歴史を掘り起こしながら、彼らの祖先に対して注がれた神の憐れみと恵みを語ります。そこには、イスラエルの民に対する変わらぬ神の真実な愛があり、その愛に基づく一貫してつらぬかれている神の約束があるのです。
 そして、その神の真実な愛と変わらぬ約束ゆえに、神はエジプトの地で苦役に苦しむイスラエルの民を救い出そうと決意なさいます。そして、イスラエルの民を救い、エジプトの地から、彼らがもともと住んでいたカナンの地へ連れ戻すためにモーセという人をイスラエルの民の指導者としてお立てになり、そのモーセによってイスラエルの民をエジプトから脱出させるのです。映画にもなった出エジプトの物語です。

 ステパノはそのモーセの生涯を、先週もお話ししましたように40年ごとに三つに区分します。それは、生まれてから40歳になるまでの壮年期、そして40歳からの失意の中で過ごす40年、そして神によって再びイスラエルの民の指導者として召し出され、イスラエルの民を救い出し、彼らがもともと住んでいたカナンの地へ連れ戻すまでの40年です。

 今日は、その最後の40年についてお話しさせていただきます。この最後の40年間、そのほとんどの期間を、モーセとイスラエルの民は荒野をさ迷い歩きます。それはモーセにとってもまた、イスラエルの民にとっても決して楽な旅ではありませんでした。けれども、どうしても経験しなければならない旅でした。なぜならば、この40年間にわたって荒野をさ迷い歩くと言う経験を通して、イスラエルの民は、神に寄りすがって生きると言う信仰と、神の言葉に従い、神を神として崇める敬虔な姿勢を学ぶときだったからです。

 みなさん、想像してみてください。イスラエルの人々にとって自分たちを奴隷のように扱い、苦役を与え、苦しみを与えていたエジプトの支配の下から逃れ出て自由の身にされたのです。ですから、そこに大きな喜びが沸き上がったということは容易に想像することできます。救われるということはそのような大きな喜びをもたらす出来事なのです。

 ところが先週も申し上げましたように、この使徒行伝のステパノの説教では、イスラエルの民がエジプトから助け出される場面に関しては36節で「この人(この「この人」とはモーセのことですが、)」そのモーセ)イスラエルの)人々を導き出して、紅海においても、また40年のあいだ荒野においても、奇跡としるしを行ったのである」とだけ述べるに留まっています。これはいったいどうゆうことなのか。
 みなさん、実際にこの出エジプトの出来事が書き記されている旧約聖書出エジプト記の3章から20章ぐらいまでを読んで見ますと、それこそ面白い小説を一気に読んでしまうような面白い、ドラマティックな物語が記されている。それをステパノは、たった1節でさらりと「この人が、人々を導き出して、エジプトの地においても、紅海においても、また四十年のあいだ荒野においても、奇跡としるしとを行ったのである」と短く告げるだけなのです。

 それは、一つには、この出エジプトの壮大な物語は、イスラエルの民にとっては、決して忘れられない自分たちの民族のアイデンティティともなるような重要な物語だからです。ですから、「この人が、人々を導き出して、エジプトの地においても、紅海においても、また四十年のあいだ荒野においても、奇跡としるしとを行った」といえば、イスラエルの民であるならば、誰でも「ああ、そうそう知っている。神様のなさることは本当に素晴らしい。神様は私たちイスラエルの民を顧みてくださっている」と言うかのような、誰もが知っている神の恵みと愛を物語であり、神とイスラエルの民を結びつける物語だからだと言えます。だから詳しく説明する必要はない。それほどに、イスラエルの民にとって自分たちの祖先がエジプトから救い出されたという神の恵みの物語は浸透しているのです。

 ステパノは、そのエジプトを脱出するという神に恵みと愛を伝える部分は、たった1節でさらりと触れるだけなのに対し、モーセが神によって選ばれ召し出されたと言うことは、それこそ30節から35節に渡って丁寧に述べます。また、39節から42節では、そのエジプトから助け出された人々が、モーセに背き、金の子牛の像を造り偶像礼拝に陥ってしまったということを思い出させるのです。

それだけではない、ご丁寧に、あのエジプトから脱出し、救出されて荒野で40年過ごした人々の子孫たち、つまり出エジプトの物語を話では聞いているが実際には経験していない人たちが、彼らと同じように異教の神々を信じ、偶像崇拝に陥るというアモス書525節、26節にある神の預言の言葉をも思い起こさせる。そして、その偶像礼拝のゆえに、イスラエルの民は再び、エジプトでそうであったように奴隷の民となってしまうのだと言うのです。

 アモス書というのは、預言者アモスに託された神の言葉が記されている書ですが、アモスが実際に活動した時代は、「ユダの王ウジヤの時代、イスラエルの王ヨアシュの子アブサロムの時代」であると言われますから、だいたい紀元前7世紀中盤、つまり紀元前750年以降であると考えられます。
 このアモスの時代は、人々の宗教活動は盛んにおこなわれていたようです。しかし、その人々が行う神礼拝は、形骸化し、世俗化していたと言われます。そのような形骸化し、世俗化していた信仰を、ステパノはアモスの語った預言の言葉を用いながら、それは偶像を礼拝していることなのだと言うのです。

 ステパノがそのように、出エジプトという喜びの出来事を経験したイスラエルの民が、アロンの下で金の子牛を造り偶像礼拝をする姿や、アモスの時代の形骸化し、世俗化してしまった信仰に陥っていた人々を偶像礼拝だというのは、今、ステパノの目の前にいる人々に向かって「神があなたがたの救い主としてあなたがたの世界である「この世」におつかわしになったイエス・キリスト様を拒み、十字架に架けてしまったことは、あのイスラエルの民が金の子牛を拝み、世俗化し形骸化した信仰を生きたあなたがたの先祖の生き方に匹敵する行為なのだと言わんがためなのです。
そして、それこそは神に背を向ける行為なのだ。そのことをステパノは、イエス・キリスト様を十字架に付けたユダヤ人、それはまさに捨てステパノの説教を聞いているパリサイ派の人たちであり、祭司長たちであり、律法学者たち、さらにはイエス・キリスト様を十字架に付けろと叫んだ群衆たちなのですが、その人々に向かって語りかけるのです。

 つまり、ステパノが語る使徒行伝739節から42節の金の子牛を造り、それを神として供え物をささげるという偶像礼拝に陥ったイスラエルの民の物語も、また42節から43節にあるアモスの時代の形骸化し世俗化したイスラエルの人々の物語も、それは過去の物語であると同時に、今、ここにいるあなたの物語でもあるのだとそう語るのです。
 それは、イエス・キリスト様が十字架に磔になるように策略を巡らした律法学者が祭司長、あるいはパリサイ派の人たちだけではない、今、ここでの私たち、いつの時代でもどこであっても、私たち人間に起こりうる出来事だからです。

 みなさん、私たちは、先ほど司式の兄弟が朗読する旧約聖書の出エジプト記201節から6節までの言葉に耳を傾けました。そこには、

  1神はこのすべての言葉を語って言われた。2:「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。3:あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。4:あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。5:それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものには、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、6:わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。

 しかし、神があえてそのように言われるのは、他の者を神とする危険性がある、偶像礼拝に陥る可能性が十分ありうるからなのです。だから、あえて、「私はあなたを奴隷の家であったエジプトから導き出した神であるから、あなたがたはそのことを心に気残務のであれば、あなたがたはわたし以外の者を神とは決してしないし、わたし以外の者を礼拝しない」とそうイスラエルの民に語りかける。

 みなさん、私が心から尊敬する人物のひとりにアブラハム・ヘッシェルというユダヤ教のラビがいます。このヘッシェルは、「聖書は人間が神について語った書ではなく、神が人間について語った書である」と言います。なかなか鋭い言葉です。そして、このヘッシェルの言葉に従うならば、神の目に映る人間は、実に偶像礼拝に陥りやすき存在であり、どんなに神の恵みを経験していても、すぐに神ならざるものを神としてしまい、いともたやすく偶像礼拝に陥ってしまう存在だということです。
 だからこそ、奴隷の家であったエジプトを脱出するという神の恵みと愛、慈しみに浴している民に「あなたがたはわたし以外の者を神とは決してしないし、わたし以外の者を礼拝しない」とそう呼びかけざるを得ないのです。それは、人間がすべからく持っている弱さだからです。だから、神は敢えて十戒を律法として偶像礼拝を禁じ、ただ、聖書の神のみを神とするようにというのです。

 偶像礼拝とは、まさに神ならざるものを神とすることですが、それは何も何かに神のかたちを刻みこんだものを神とするということだけではありません。宗教改革者のマルティン・ルターという人は偶像礼拝ということについて、こう言っています。すなわち、「今あなたがあなたの心をつなぎ、信頼を寄せているもの、それがほんとうのあなたの神なのである」と言うのです。

 みなさん、神とは何かということを考えると、いろいろな言葉が頭に浮かんでくるでしょう。例えば、「神とは愛である」と言えるかもしれません。あるいはアンセルムスという中世の大神学者は、「神とは、これ以上、善いものはないと考えられる存在」と定義し、そこから神の存在を証明して行きました。他にも、いろいろ上げられるでしょう。そのような中で、あえてルターの言葉に基づきながら定義づけるとしたら「神とは、私たちが一番大切にし、信頼しなければならない存在である」と定義づけられるかなと思います。

 何よりも大切にしなければならないからこそ、そこに本当は神に私たちの心が結びつき、神に信頼し、神により頼まなければならないのに、実は、私たちは、本当は神以外の何か別の者に心をつなぎ合わせ、信頼を寄せていたりする。まさにルターは私たちのそのような姿を鋭く見抜き、あの今あなたがあなたの心をつなぎ、信頼を寄せているもの、それがほんとうのあなたの神なのである」といって私たちの心を射抜いている。
 そしてそれこそが、聖書がピリピ人への手紙319節で言う「彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである」ということなのです。

 私たちの思いが地上のことであるというのは、この「地上」にあるもの、ある事柄が、私たちを守り、支え、私たちの願望や欲望を見たてくれると思うからです。まさしく、私たちの腹の中にある願望や欲望が私たちの神となっているのです。だから、そこのところを突かれると私たちは、いとも簡単に神ならぬものを神とし、偶像礼拝に陥るのです。

 悪魔あるいはサタンと呼ばれる神に敵対するものは、そこのところはよくわかっている。だから、私たちの願いや欲望を満たしてやると言って誘惑すれば、簡単に神から離れ、偶像礼拝に陥ってしまうことを知っているのです。だから、悪魔は、イエス・キリスト様を誘惑するときに、人間のもつ欲望に語りかけている。それが、先ほど司式の兄弟にお読みいただいたルカによる福音書41節から8節にあるイエス・キリスト様に対する誘惑の記事なのです。

 そこに置いて、悪魔はイエス・キリスト様の食欲という人間の肉体に宿る欲望、聖書はこれを端的に肉と言ったり肉の欲と言ったりしますが、そのような肉の欲に訴えたり、この世の権力や栄華を見せながら、イエス・キリスト様を誘惑し、神を拝し、神を礼拝するのではなく、悪魔を礼拝させようさせます。
 しかし、イエス・キリスト様は敢然として、この悪魔の誘惑を退けます。それは、イエス・キリスト様の心が神様に繋ぎ合わされ、神様を全く信頼していたからです。だから、イエス・キリスト様にとって神様が一番大切なものとなっていたのです。

 この、荒野での悪魔の誘惑を退けられたイエス・キリスト様の物語は、あの荒野を40年彷徨い歩いきながら、神のみに信頼をし、神のみにより頼むことを学んだイスラエルの民の物語でもあります。この二つの物語は重なるのです。
 そして、まただからこそ、この二つの物語は私たちの物語にもなるのです。それは、私たちもまた、神に心をつなぎ、神を本当に信頼して生きることができるものとなることができるということです。

そのためには、あのイスラエルの民が、モーセに導かれながら荒野という厳しい環境の中を旅したように、私たちがどんなに厳しい試練や、激しい試みの中に置かれ、そこを歩もうとも、私たちがイエス・キリスト様に導かれ、イエス・キリスト様に倣って生きていくならば、私たちの必ず、神に心をつなぎ、神を一番大切にし、神を信頼して生きる者となっていくのです。

そのために、私たちはもっともっとイエス・キリスト様のことを知らなければなりません。そしてこうしてみなさんと共に神を礼拝し、聖餐に与り、神の言葉である聖書を読み、思い巡らすことで、私たちはイエス・キリスト様のことをもっともっと知ることができるようになっていくのです。そのことを覚えながら、みなさんと共に信仰生活を歩んでいきたいと思います。祈りましょう。

2019年6月23日日曜日

2019年6月23日 小金井福音キリスト教会 説教題『変わらない神の真実』

2019年6月23日 小金井福音キリスト教会 説教

【聖書箇所】
 旧約書:イザヤ書 第9章6節~7節(旧約聖書p.954)
 福音書:マタイによる福音書 第1章18節~23節(新約聖書p.1~2)
 使徒書:使徒行伝 第7章23節~36節(新約聖書p.191)

【説教題】
 『変わらない神の真実』



2019年6月16日日曜日

2019年06月16日 小金井福音キリスト教会 説教題 『 神が人を顧みられるとき 』

2019年06月16日 小金井福音キリスト教会 説教

【聖書箇所】
 旧約書:出エジプト記 第2章23~25節(旧約聖書p.76)
 福音書:マタイによる福音書 第2章13~18節(新約聖書p.2~3)
 使徒書:使徒行伝 第7章11~22節(新約聖書p.190~191)

【説教題】
 『 神が人を顧みられるとき 』



196月第3主日礼拝説教「神が人を顧みられるとき」2019.6.16
旧約書:出エジプト223節~25節(旧約聖書p.76
福音書:マタイによる福音書213節~18(新約聖書pp.2-3)
使徒書:使徒行伝717節~722節(新約聖書pp.190-191

 さて、今日の礼拝説教の中心となる箇所は使徒行伝217節から22節になります。この箇所は同じ使徒行伝の72節から続く、ステパノがサンヘドリンと言われる当時のユダヤ人社会の最高議会で弁明した説教の一部分です。

 ステパノは、当時のエルサレムにあったもっとも古い原初の教会の執事、今日でいえば役員のような働きを負い、教会の集まっている人の食事のお世話や様々なお世話をしていました。つまり、イエス・キリスト様の直弟子である12弟子たちに次ぐ、重要な働きを負っていた人だったのです。そのステパノが、あるとき、リベルテンの会堂に集っていたクレネ人やアレキサンドリア人、そのほかキリキヤ人やアジアから来た様々な人々と議論になりました。

 リベルテンというのは、奴隷から解放され自由人とされた人たちのことです。もちろん、奴隷とされていたユダヤ人が、その奴隷の身分から解放され自由人となって、戻りてきて、この会堂に集っていたと言うこともあるでしょう。またその子孫の人たちであったかもしれない。ともかく、それらの人はリベルテンと呼ばれていたのです。それこそクレネ人やアレキサンドリア人、その他もろもろの人種の人が集っていたと言うのは、その地域に奴隷として連れていかれた人々なのかもしれません。あるいは、それらの地域の異邦人であった人達がユダヤ教に改宗した人々が集っていた可能性もある。そして、そのクレテ人やアレキサンドリア人といった異邦人たちもまた奴隷から解放された異邦人であったとも考えることができるのです。

 そこにはいろいろな解釈の可能性がありますが、いずれにしてもリベルテンと呼ばれる人々の集っていた会堂の人たちが、もっとも原初にエルサレム教会の重要な役職をおっていたステパノと議論していたと言うのです。ですから、その内容については、イエス・キリスト様のことについてでありましょう。それこそ、イエス・キリスト様が救い主であるかどうかについて議論していたものと考えられます。

 この議論は、どうやら圧倒的にステパノが優位であったようです。そこで、ステパノと議論していた人々は、人々を扇動し、先ほど申し上げましたサンヘドリンと呼ばれる議会に訴え出たのです。そこで、そのサンヘドリンにおいてステパノは自らの主張を弁明する説教をするのですが、それが使徒行伝72節以降に納められているステパノの説教です。

 このステパノの説教は、アブラハムから始まるイスラエルの民の歴史を紐解きながら、イスラエルの民の歴史が、神がイスラエルの民を憐み、顧みて下さているにもかかわらず神に背を向け逆らって生きてきた歴史であるかを示しつつ、まさに、今、ステパノを裁こうとしている人々が、彼らの先祖と同じように、神がお遣わしになった神の御子イエス・キリスト様を十字架に付けて殺したのだと厳しく糾弾するものでした。

 そのステパノの説教の中で、今日(きょう)取り上げた箇所は、神がイスラエルの民を憐み、顧みてくださった物語を述べている箇所です。その物語は、神とアブラハムの契約から始まります。神はアブラハム、その時はまだアブラムとよばれていたときですが、そのアブラハムに、神の言葉に聴き従い、私の示す地に行けと言われる。アブラムは、その神の言葉に従って、それまで住んでいた土地を離れ、親族を離れて、どこに行くかもわからずに、ただ神の言葉に従って、カナンの地に移住してきた。

そのアブラハムに、神はあなたの子孫を祝福すると言う契約を結ぶのです。そのアブラハムにイサクと言う子供が与えられ、ヤコブと言う孫も与えられる。そして子孫の反映を約束した神の契約もまた、イサク、ヤコブと受け継がれていく。そのアブラハムの子孫であるヤコブの一族は、そのカナンの地で激しい飢饉に出会います。そのとき、そこには、まぁいろいろといきさつがあったわけですが、ヤコブの12人の子供の11番目であるヨセフエジプトで宰相という言わば総理大臣のような地位に上り詰めていた。そのヨセフを頼って移住してきたのです。

ヨセフはエジプトにおいて多大な貢献をなした宰相でした。ですからカナンの地から移住してきたヤコブの一族は最初は厚遇をもって迎え入れられた。そしてそこで民はどんどんと増えて行ったのです。ところが、それから約400年たって、ヨセフがエジプトにもたらした功績を知らない王の時代になると、イスラエルの民の待遇は全く悪くなり、むしろ奴隷のような扱いを受け様々な苦しみに出会うのです。そのような中で神の救いの業がおこる。

その救いの物語の冒頭が、今日の聖書の箇所なのです。そこには、奴隷のように扱われていたイスラエルの民をエジプトから救い出し、もともと住んでいたカナンの地へと連れ帰る導き手となったモーセが生まれたという出来事が記されています。

 この奴隷のように扱われたというのは、旧約聖書の出エジプト記11112節の記述によります。そこにはこうあります。

11: そこでエジプトびとは彼らの上に監督をおき、重い労役をもって彼らを苦しめた。彼らはパロのために倉庫の町ピトムとラメセスを建てた。12:しかしイスラエルの人々が苦しめられるにしたがって、いよいよふえひろがるので、彼らはイスラエルの人々のゆえに恐れをなした。

ここに出てくるパロ、つまり王がだれかについては、ラムセス2世であるとかラムセスの息子のメルエンプタハであるとか言われており、定かなことは言えませんが、メルエンプタハは、戦勝の記念碑を残しているのですが、そこには、エジプトの古代文書の中で唯一の、そして世界最古のイスラエルの民に関する言及が記されてます。それで、このメルエンプタハの碑文は、イスラエル碑文ともいわれるのですが、そこにはこう記されています。すなわち

カナンはあらゆる災いをもって征服され、アシュケロンは連れ去られた。 ゲゼルは捕らわれの身となり、ヤノアムは無に帰した。イスラエルは子孫(ないし種)を断たれ、フルはエジプトにために寡婦とされた。」

と記されているのです。この「イスラエルの子孫(ないし種)は断たれ」ということが、エジプトからイスラエルの民が去っていなくなった出エジプトのことを語っているのではないかと言われたりもするのですが、いずれにせよ、ラムセス2世の時代からメルエンプタハの時代に、大規模な建設事業が行われ、イスラエルの民は、そこで思い労役を負わされたようであります。

 またそれだけではなく、イスラエルの民がエジプトの国内で生み広がり、多くに人数になったのことを王が恐れて、イスラエルの民の間に子供が生まれた場合、女の子なら生かしておいていいが、男の子はナイル川に投げ捨てて殺しなさいと命じるのです。

 まさに、そのような苦役と試練の中にイスラエルの民は置かれていたのです。これらのことは旧約聖書出エジプト記の1章に記されていますが、今日の聖書箇所の使徒行伝218節・19節で、

18:やがて、ヨセフのことを知らない別な王が、エジプトに起った。19:この王は、わたしたちの同族に対し策略をめぐらして、先祖たちを虐待し、その幼な子らを生かしておかないように捨てさせた。

 と言われているのは、まさにこの出エジプト記1章の出来事を指しているのです。そのような中、モーセが生まれるのですが、モーセの母ヨケベドと父アムラムは生まればかりのモーセを3ヵ月間、守り隠し育てるのですが、いよいよ隠しきれなくなり、パピルスというエジプトに自生するカヤツリグサ科の植物の1種で編んだかごに防水のためのアスファルトと樹脂を塗って、ナイル川の岸の葦の中に置いたのです。

 そこには、誰か心ある人が拾い上げてくれないだろうかという両親の期待と願いが感じられますが、その両親の願いがこもったかごは、たまたま身を洗おうと川にやって来たエジプトの王の娘に拾い上げられるのです。このとき、川に置かれたかごがどうなるかを知ろうと、見守っていたモーセの姉が機転を利かせます。そしてモーセを拾い上げた王の娘に、モーセの実の母ヨケベドを乳母として紹介するのです。

こうして、モーセはある程度の年齢、おそらく乳離れするくらいまでの年齢だと思いますが、ともかくある程度成長するまで実の父母に育てられるのです。そして、ある程度にまで育ったあとは、パロの娘に引き取られ、王家の子供として育てられるのです。そのことが使徒行伝720節以降に書かれている内容です。

 みなさん、この出来事を出来事を読むとき、私にはこのモーセの誕生の物語が、私たちの主イエス・キリスト様の誕生の物語と重りあってくるように思えるのです。とりわけ、先ほど司式の兄弟にお読みいただいた新約聖書マタイによる福音書213節から18節の出来事が重なり合ってくる。

 みなさん、モーセが生まれたとき、イスラエルの民はエジプトにあってエジプトの王の下で支配され抑圧されていました。同様に、イエス・キリスト様がお生まれになった時代も、イスラエルの民はローマ帝国の支配下の下に置かれていました。加えて、その当時、ローマ帝国の支配の下で、一応ユダヤの王とされていたのは、ヘロデ王でした。このヘロデという王様は猜疑心が強く、残忍な一面をもった人であったようです。

ですから、マタイによる福音書23節において、「ヘロデ王はこのこと(つまりイスラエルの民の王となるイエス・キリスト様の誕生の知らせ)を聞いて不安を感じた。エルサレムの人々も同様であった」と言う。つまり、エルサレムの人々が、新しい王が生まれたと言うことを聞いたヘロデが、自分の地位を奪われると不安になり、どんな残忍なことを始めるかわからないと不安になったというのです。

実際、それが、先ほどお読みいただいた213節から18節の出来事の中で、16節以降にあるイエス・キリスト様が生まれた場所であるベツレヘムとその周辺に生まれた2歳以下の男の子をすべて殺すと言う残忍な事件に繋がっていくのです。それは、まさにエジプトに生まれた男の子はナイル川に投げ捨ててころしていまいなさいというあのエジプトの王の命令に重なり合う出来事です。

そのような、残忍な出来事の中にあって、神は、イエス・キリスト様をその両親と共にエジプトに逃れさせるのです。それを聖書は「『エジプトからわが子を呼び出した』と言われたことが成就するためである」というのです。

この「エジプトからわが子を呼び出した」という言葉は、旧約聖書ホセヤ書の111節にある言葉ですが、そのホセヤ書31節を読みますと、それは明らかに出エジプトの出来事を指す言葉なのです。ですから、神がエジプトの王がイスラエルの民にしたようなベツレヘムとその周辺の男の子を殺すと言う蛮行からイエス・キリスト様を逃れさせたのは、イエス・キリスト様によって、もう一度、あの出エジプトのような支配と抑圧からの解放という救いの出来事を起こさせるためなのです。

実際、マタイによる福音書は、旧約聖書にあるイスラエルの民の歴史をイエス・キリスト様が踏みなおしていくことで、神の救いが完全に全うされていくという意図をもって書かれていると言われますから、ある意味、出エジプト記のモーセの誕生の出来事と、マタイによる福音書のイエス・キリスト様の誕生の出来事が重なり合ってもおかしくはないのです。

 おそらく、ステパノもまた、モーセとイエス・キリスト様を重ね合わせながら、サンヘドリンの議会において、この弁明の説教を語っていただろうと思います。そして、確かに、神から遣わされてくる救い主は、私たちが支配され、抑圧され、様々な試練の中に置かれているときに、その苦しみや悲しみや痛みの中から救い出してくさるお方なのです。

 けれども、その中で私が特に皆さんに知って欲しいことは、あの出エジプト記における救いの出来事が、神がアブラハムになさった約束に基づく契約によって起こっていると言うことです。それが、先ほど司式の兄弟に読んでいただいた出エジプト記223節から25節にあるのです。

 実は、みなさん。私はある時、神の救いと言う問題に向き合わざるを得ないことがありました。神の救いとは何なのか。私は、そのことに真剣に向き合わざるを得なくなった。それまで私は、救いとは私の罪が赦されることだと思っていた。そう教えられてきたからです。そして、その教えは間違ってはいないでしょう。確かに、聖書は罪の赦しを語っている。

 しかし、本当にそれだけだろうか。私たちは実際に生きているとき、自分の罪深さに苦しむだけではありません。人から加えられる様々な中傷や、人間関係の難しさで苦しんだり、それこそお金が支配する世界の中で、労働する苦しみや経済的な苦しみもある。

 もちろん、神を信じる信仰があったら、お金が与えられ金銭問題が解決したり、人間関係が突然よくなるといったことではないにしろ、この試練や試みの中にある苦しみから救われ、私たちの心に傷や痛みが癒やされなければ、本当に救わると言えないのではないか。

 そんな思いになって、信仰に向き合い、聖書に向き合ったのです。そんな時、この出エジプト記23節から25節に出くわした。衝撃でした。25節には「神はイスラエルの人々を顧み、神は彼らをしろしめられた」とある。「このイスラエルの人々を顧み、知ろしめられた」と言う出来事は、具体的には救いに導くモーセをお建てになったと言うことです。

 モーセによって、イスラエルの民をエジプトの支配と抑圧、苦役の苦しみから救い出すと言うのです。そして、そのように神が、イスラエルの人々を顧みられるのは、彼らが、自分の罪を悔い改めたからではありません。また神に何かをした、何かを捧げたからでもありません。かれらはただ、苦役のゆえにうめき、叫んだだけです。それも神向かって叫んだと聖書は書いていない。ただ、「苦役の務めのゆえにうめき叫んだ」としか書かれていない。しかし、その叫びが神に届いたというのです。

 そのとき、「神は、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を覚え、神はイスラエルの潤び徒を顧み、神は彼らをしろしめされた」とある。みなさん、このアブラハム、イサク、ヤコブとの契約は、ヤコブから400年もたっている、この出エジプト記の時代のイスラエルの民とは直接的に関係ありません。彼らが、神の前に悔い改めて神との契約を結んだと言うのではない。400年も前に神が先祖と結んだ契約のゆえに、苦役に苦しむあなたがたを神は救うと言うのです。

 それは、アブラハムが神の言葉に聴き従って、行先も分からずに故郷を離れ親族を離れて旅立ったというアブラハムの神への信頼と従順というアブラハムの信仰によって結ばれた契約です。その契約の内にアブラハムの子孫は置かれている。だから、神は伊豆アエルの民を顧みられると言う。顧みられてモーセによって彼らを、支配と抑圧と苦しみから救い出してくれると言うのです。

 この聖書の言葉に出会った時、私は本当に私と言う存在がすくい取られたと思いました。いや、もちろん、それまでも救われていたのでしょう。だから、神は私を牧師と言う職務に召し出されたのだと思う。でも、その時に、単に私の罪が赦されたと言うだけではなく、私と言う存在そのものがすくい取られたとそう思ったのです。いえ、長い思索を通してそこに至ったと言った方が正確ですが、いずれにしても、本当に全てから解放されたのです。

 それは、私たちがイエス・キリスト様が十字架に架かられることでもたらされた新しい契約に与っているからです。そこには十字架の死に至るまで、神を信頼し、神にすべてを委ね、神に従順に従われたイエス・キリスト様の信仰がある。このイエス・キリスト様の信仰が新しい契約を神と人との間に結ばれたのです。

 だから、私たちが苦しみの中でうめき、叫びをあげるとき、神が私たちを顧みられないなどといったことは決してあり得ない。神は、私たちが苦しみうめくとき、私たちを顧みて下さり、私たちを支配し、苦しめ、うめき声を上げさせているところから、救い出してくださるお方なのです。

 そのために、イエス・キリスト様と言うお方をお立て下さり、この方によって新しい契約を私たちに結んでくださったのです。ステパノはモーセの誕生の出来事を語りながら、そこに救い主の誕生の物語を語っている。まさに、民をエジプトの王の支配と抑圧から救い出す働きを担うモーセの誕生を語りながら、「この世」の中で苦しみうめく私たちを神は顧みてくださり、イエス・キリスト様による救いの出来事を語るのです。

 その救いをもたらす、新しい契約の下に私たちも置かれている。そのことを覚えながら、みなさん、私たちは神の民として、イエス・キリスト様の新しい契約の内にあるもとして、神を見上げ、イエス・キリスト様を信じ仰ぎながら歩んでいきたいと思います。お祈りしましょう。

2019年6月9日日曜日

2019年06月09日 小金井福音キリスト教会 説教題 『ガイドとしての聖霊』

2019年06月09日 小金井福音キリスト教会 説教

聖書箇所
旧約書:詩編 第119篇 105~112節(旧約聖書p.859)
福音書:ヨハネによる福音書 第5章 27~39節(新約聖書p.144)
使徒書:コリント人への第一の手紙 第12章 1~3節(新約聖書p.270)

説教題
『ガイドとしての聖霊』


196月第2主日ペンテコステ記念礼拝説教「ガイドとしての聖霊」    2019.6.9

 みなさんもご存知のように、キリスト教会には三大祝日と呼ばれるクリスマスとイースターとペンテコステがありますが、今日はそのペンテコステ(聖霊降臨日)を記念する礼拝です。
 ペンテコステは聖霊降臨日といわれるように、イエス・キリスト様が十字架に架けられ、三日目に死からよみがえられ、天に昇られた後に、イエス・キリスト様と入れ替わるかのようにして、天から私たちの下へ、助け主として聖霊なる神が送られたことを記念する日です。具体的には新約聖書使徒行伝の21節から4節に記されています。そこにはこうあります。

1:五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2:突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3:そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4:すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

 ここには五旬節とありますが、この五旬節というのはユダヤ教の三大祝祭の一つで、過ぎ越しの祭りから50日後に行われる収穫祭のことです。その収穫祭の日に聖霊なる神が天から私たちのところに送られたのです。そしてその日を境として、イエス・キリスト様の弟子たちは積極的な伝道を繰り広げるようになり、教会が築き上げられていきました。その意味では、収穫を祝う収穫祭である五旬節に聖霊なる神が「この世」に降ったということには、極めて象徴的な意味が感じられます。

 その聖霊なる神ご自身について、また聖霊なる神がどのような働きをなさるかについては、聖書はあまり多くのことを語りません。ですから、この聖霊なる神ご自身とその働きについては、それぞれの教派によって様々な意見があります。逆に、この聖霊なる神に対する理解、および聖霊なる神の働きに対する理解の違いから、いくつかの教派に分かれているといった現実もあるのです。もちろん、違いは違いとしてそこにあるとしても、その違いによって角を突き合わせるのは神学の世界の中に留め置いて、それぞれの教派や教会は尊重しあう必要があります。

ところが、そのように多くの面で理解の違いを生み出している聖霊理解の中にあってもあるにせよ、聖書が最も明確な聖霊なる神の働きとして述べていることは、先ほど司式の兄弟にお読みいただいた新約聖書コリント人への第一の手紙121節から3節に記されていることです。特にそれは3節にある。すなわち

そこで、あなたがたに言っておくが、神の霊によって語る者はだれも「イエスはの ろわれよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。

ということです。「イエスは主である」と言う言葉は、最も古い信仰告白の言葉、信条であると言われます。今日、私たちが使徒信条を唱えるように、古代の教会、もっとも原初の教会の人たちは「イエスは主である」と言う言葉をもって、自分自身の信仰を言い表したのです。

この「イエスは主である」という信仰告白は、「イエスは私の王である」と言うことを意味します。というのも、その当時は「カエサルは主である」と言う言葉をもって、人々は「カエサル」つまりローマ皇帝を王として、そのローマ皇帝に従う忠誠を誓ったからです。つまり「イエスは主である」と言う言葉をもって信仰を告白するということは、イエス・キリスト様を私の王とし、私はイエス・キリスト様にお従いしますということを意味しているのです。 
その「イエスは主である」という信仰告白に私たちを導くのは、聖霊なる神の働きによるのだというのです。だから、私たちが「イエス・キリスト様は私の主です」と告白する告白は、私自身の思いや力だけでなされるものではなく、聖霊なる神の助けがあってはじめてできることなのです。まさに、信仰は、私たちの力で勝ち取るものではなく、神の恵みによって受け取るべきものなのです。
 この「イエスは主である」という信仰告白は、ただ口で言い表すだけのもではありません。「イエスは主である」という信仰と告白をするものは、同時にこの信仰告白に生きる者となって生きる必要があのです。

 むかし、ある先生がこんな話をしてくださいました。ある牧師という言い方ではなく、あえて、ある先生という言い方をしたのはその方が、神学校で教える神学教師だからです。その方が神学を学ぶために留学をしていた。その時にその方が属していた教団の指導的立場にある人が留学先にたずねてこられた。そして、こう尋ねたそうです。「君は留学して勉強しているが、勉強をして将来どうしたいのだ」。その問いに、留学中のその先生は「私は、将来神学教師となって教えたいです」と答えたというのです。

 すると、訪ねてきた来られた方は「あなたは、今、口に出して言われましたね。口に出して言われた以上、そこに苦しみが来ますが、頑張ってください」と言われたそうです。つまり、口に出した以上、それが実現するように頑張りなさい。神学教師になるためにはそれなり努力が必要で大変だけれども頑張りなさいと言うことなのです。

 同じように、「イエスは主である」と信仰の告白をしたものは、その告白通り、イエス・キリスト様を主とし、王としてこのお方に従って生きて行く者とならなければなりません。それは、今日の私たちにも言えることです。

 みなさん、今朝も私たちは、使徒信条を私たちの信仰の告白として唱えました。そこには、「我らの主イエス・キリストを信ず」と言う文言があります。つまり、私たちもイエス・キリスト様を私たちの主であり王であると告白しているのです。ですから、神を信じ、イエス・キリスト様を信じるクリスチャンは、すべからく、イエス・キリスト様に倣い、イエス・キリスト様に従って生きて行く者となっていくのです。

 だとすれば、そこには、どうやってイエス・キリスト様に従て生きていく者となることができるのかと言う問いが生まれてきます。もちろん、そんなことは私が言わなくても皆さん十分にわかっていることだと思いますが、神の言葉である聖書の言葉に従って生きることです。ただ、厄介なことに、聖書の言葉は新約聖書はおおよそ2000年前、旧約聖書に至っては、最も古い部分になりますと3000年以上前のパレスチナの時代に生きていた人々を背景に書かれています。
 ですから、21世紀の今日の、しかも日本という状況の中で生きている私たちの状況や考え方とは全く違っています。また、同じ21世紀と言う時代を生きていましても、ひとり一人の生い立ちや生活環境も違いますから、全部を十把一絡げに考えるわけにはいきません。おまけに、日本人である私たちが手にしている聖書は日本語に翻訳されているものですから、もともとの聖書の原語、ギリシャ語やヘブル語の持つニュアンスが必ずしも正確に伝わっているかどうかと言う問題もある。だから聖書は解釈される必要がある。
 だとしたら、聖書学者でなければ、聖書が言っていることは分からないのかと言うことになります。もちろん、聖書を解釈すると言うことにおいては、そうなのかもしれません。しかし、学者のならなければ神の言葉である聖書の言葉に聴き従って生きていくことできないのかと言うと、実は必ずしもそうではない。というのも、私たちが聖書の言葉を読み、それを神の言葉として聞き、読み取っていくところには、聖霊なる神の働きがあるからです。

みなさん、先ほど私は、聖霊なる神ご自身について、またその聖霊なる神の働きに対しては、それぞれの教派や教会に置いて違いがあると申し上げました。それは確かに事実です。しかし、そのような違いがあるにはあるのですが、実は多くの教会に共通して理解されている聖霊なる神の働きもあります。それは、私たちが神の言葉であると信じる聖書が、聖霊によって産み出されたものであるということです。
たとえばそれは、テモテへの第2の手紙315節から17節の言葉などに見られます。テモテへの第2の手紙は、パウロがパウロの弟子テモテへ書き送った手紙ですが、そこにはこうあります。お聞きくださればよろしいかと思いますが。

15また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。16:聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。17:それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。

 ここには、聖書は神の霊感を受けて書かれたものであると言われています。もちろん、ここで言う聖書というのは、まだ新約聖書というものが教会会議で定められる前のことですから、旧約聖書を指していますが、その旧約聖書は神の霊感を受けて書かれたものであるというのです。霊感というのは、今日広く一般社会で言われているような、霊の存在を感じる能力といったものではなく、神の言葉が、神の口から吹き出され、それが預言者の口を通して語られたものだと言うのです。
 だから、「聖書は人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。17:それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者」にするのだというのです。

聖書の言葉が私たちを教え導くものである。それは旧約聖書においても言われていることです。先ほど司式の兄弟に詩篇119篇の105節から112節までを読んでいただきました。詩篇119篇は、御言葉の詩篇と言われるほど、神の言葉について語られている。それは戒めであるとか、律法と言う言葉によって語られていますが、要は神の言葉と言うことです。それが最も明確な形で語られているのが詩篇119篇の105節か112節なのです。そこにはこうあります。

105:あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。106:わたしはあなたの正しいおきてを守ることを誓い、かつこれを実行しました。107:わたしはいたく苦しみました。主よ、み言葉に従って、わたしを生かしてください。108:主よ、わがさんびの供え物をうけて、あなたのおきてを教えてください。109:わたしのいのちは常に危険にさらされています。しかし、わたしはあなたのおきてを忘れません。110:悪しき者はわたしのためにわなを設けました。しかし、わたしはあなたのさとしから迷い出ません。111:あなたのあかしはとこしえにわが嗣業です。まことに、そのあかしはわが心の喜びです。112:わたしはあなたの定めを終りまで、とこしえに守ろうと心を傾けます。

 この詩篇の119篇の詩人の時代には、旧約聖書のすべてが整えられていたわけではありません。しかし、神の言葉として伝えられている律法があり、戒めがあった。その神の言葉に対して、「あなたの御言葉はわが足のともしび、わが道の光です」という。まさに神の言葉が私たちを教え、導きくものだと言うのです。そしえ、そのみ言葉を守ることを誓い、実行してきたと言うのです。

 でも、それでもなお、「わたしはいたく苦しみました。主よ、み言葉に従って、わたしを生かしてください」という。107節です。神の言葉に従って生きていても、人生には困難や苦難が繰り返し起こって来る。私たちに道を誤らせ、神から私たちを遠ざけようとする試練は、必ず起こってくるのです。
 その中にあってこの詩人は「主よ、み言葉に従って、わたしを生かしてください」という。それは神の言葉に従って生きていくならば、試練や試み乗り越えていくことができるからです。

 その聖書の言葉は神の霊感の働きです。神ご自身が神の言葉として聖書記者の口を通して神の言葉を噴出させたのです。そして、その聖書の言葉を読み解こうとする私たちを、聖霊なる神は私たちを導き、イエス・キリスト様に従うものとしてくださるのです。ですから、私たちが聖書を読み解くとき、その聖書の箇所が主イエス・キリスト様とどうかかわっているかに注意を向ける必要があります。
 それは、ヨハネによる福音書539節に「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである」とありますように、「聖書はイエス・キリスト様をあかしするものだからです。

 もちろん、この場合の聖書も旧約聖書を指しますが、新約聖書がイエス・キリスト様をあかしすることはいうまでもありません。福音書はイエス・キリスト様の伝記をつづる物語であり、使徒行伝や手紙は、そのイエス・キリスト様の教えや生き様から導き出され合者だからです。だから、新約・旧約の全巻は、イエス・キリスト様を指し示していると言うことができます。だから私たちが聖書を読み解くとき、その聖書の箇所が主イエス・キリスト様とどうかかわっているかに注意を向ける必要があるのです。

 逆に言うならば、私たちが聖書を読み、考え、生きていったとしても「イエスは主である」と言う聖霊によってなされる信仰告白に繋がる生き方となっていないならば、それはは、極論ではありますが、聖霊の導きによる聖書の読み解きではなかったと言ってもいい。

 私たちホーリネス教団は、神学的にはウェスレアン・アルミニアンだと言います。それはアルミニウスと言う人の神学、ウェスレーと言う人の神学の影響下にあると言うことです。そのウェスレーと言う人は、このような言葉を残しています。「聖書は地図であり、聖霊はガイドである」。
 みなさん、地図は目的地に向かって歩んでいくためには必要なものです。しかし、その地図があってもそれが正しく読み解かれなければ無用なものになってしまします。その地図をただしく読み解き、聖霊なる神は私たちが正しく歩んで生けるようにガイドとして働いてくださるとウェスレーは言うのです。 

 その聖霊が与えられたことを教会に置いて祝い喜ぶのがペンテコステです。そのことを覚えながら、私たちは「イエスは主である」という信仰告白を生きる者となっていきたいと思います。お祈りします。

2019年6月2日日曜日

2019年06月02日 小金井福音キリスト教会 説教題 「 災いをも益となす神 」

2019年06月02日 小金井福音キリスト教会 説教

聖書
・詩編 第28編 1 - 9 節
・ルカによる福音書 第23章 32 - 43 節
・使徒行伝 第7章 8 - 16 節

説教題 「 災いをも益となす神 」


196月第一主日聖餐式礼拝説教「災いをも益となす神」          2019.6.2
旧約書:詩篇281節~9節(旧約聖書)
福音書:ルカによる福音書2332節~43(新約聖書)
使徒書:使徒行伝78節~716節(新約聖書)

 今日の礼拝の説教の中心となる箇所は、聖書の箇所は、使徒行伝78節から16節です。この箇所は、神がアブラハムに子孫にカナンの地に所有地を与え、繁栄を約束されたその約束にもとづいて、アブラハムの約束を受け継ぐイサクが生まれ、そのイサクにヤコブが生まれ、そのヤコブからの地のイスラエルの国を形成する12の部族の族長となる12人の子供が生まれたことが記されている箇所です。
それだけではない、そのヤコブとヤコブの12人の子供たちが受けた試練と、試練の中で一つの民族が生み出されていくその民族の始まりが記されている箇所です。そしてそれは、先ほど司式の兄弟にお読みいただいた使徒行伝78節から16節に先立つ7節、8節に記されています。その箇所をお読みしますが、このように記されています。

6:神はこう仰せになった、『彼の子孫は他国に身を寄せるであろう。そして、そこで四百年のあいだ、奴隷にされて虐待を受けるであろう』。 7:それから、さらに仰せになった、『彼らを奴隷にする国民を、わたしはさばくであろう。その後、彼らはそこからのがれ出て、この場所でわたしを礼拝するであろう』。

 この神の言葉がいかに現実になっていったかということをこの使徒行伝の78節から16節は記しているのです。その中でも、とりわけこの8節から16節は、イスラエルの民が他国に身を寄せることになったいきさつが記されているところです。
 聖書は、この使徒行伝の8節で、アブラハムの契約がイサクそしてヤコブ、さらにはヤコブの12人の子供たちに受け継がれていったと告げます。9節にある族長とは、そのヤコブの12人の子供たちのことです。

 このヤコブの12人の子供たちの中でも、とりわけヨセフという子供は、父ヤコブからもかわいがられていました。また神は、このヨセフをヤコブの12人の子供たちを束ね導く、いうならばリーダー的存在になさろうと考えていました。ヨセフは、ヤコブの12人の子どもの中では11番目の子供です。そのヨセフが父の寵愛を受け、さらには神からも特別な扱いを受けているということに妬みを感じ、ヨセフを殺そうとするのですが、最終的には殺すのではなくエジプトに奴隷として売り飛ばしてしまうのです。

 このあたりのいきさつは創世記37章に書かれていますのでお読みいただければと思いますが、いずれにせよ、ヨセフにしては兄弟から殺されそうになったり、奴隷として売りとばされたりするのですから、なんとも理不尽なことを経験するのです。

 ところが、ヨセフはその奴隷として売られた先のエジプトで宰相になるまで週セするのです。宰相と言うのは、いわゆる総理大臣のようなものですから、大変な出世です。もちろん、そのような出世をするに至るまでには、様々な苦労がありました。それこそ奴隷として売られた先の女主人から濡れ衣を着せられて投獄されるというような、これまた理不尽な扱いを受けるのです。

 みんさんね。私たちはヨセフがうけたような理不尽な目に合わされますと、正直嫌になっちゃってしまいますよ。ましてや神を信じていながら、理不尽な苦しみに会いますと、神を信じている意味なんてあるのかという思いが心に浮かんでくる。でもね。そんな時聖書は何ていっているかというと、「神は彼(この彼とはヨセフですが)」「神は彼と共にいまして」と言うのです。
神がヨセフと共にいました時、ヨセフは理不尽な苦しみの中にいたときです。ヨセフにしてみれば神なんかいるもんか。神がいるならどうしてこんな苦しみがあるのか、神なんかいるもんか、もしいたとしても神を信じていて何のいいことがあるのか、そんな思いの中にある時、その時にも神はヨセフと共にいたと聖書は言うのです。

私は、この兄弟たちの妬みのゆえに、殺されそうになり、奴隷に売られてしまうヨセフの人生、そして奴隷に売られた先で女主人の恨みを買い、無実の罪で牢獄に入れられ苦しめられるヨセフの人生を想う時、十字架の上で、人々に「もし神のキリストなら、選ばれた者であるなら、自分自身を救うがよい」と嘲笑され、十字架に付けられた強盗からも「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、また我々を救ってみよ」と悪口を言われているイエス・キリスト様のお姿が、そのヨセフの人生に重なってみえるのです。

そんな、苦しみやあざけりや悪口の中で理不尽な苦しみを味わっておられるイエス・キリスト様のお姿は、まさにヨセフの姿と重なり合ってくる。そして、おなじように私たちの人生にも苦難の中に置かれて苦しみ、嘲られ、悪口を言われるようなときがある。そんな時に「神は彼と共にいまして、あらゆる苦難から彼を救いだし、エジプトの王パロのまえで恵みを与え、知恵をあらわされた」と聖書はそう語るのです。
「神は彼と共にいまし」と言われても、ヨセフにとっては神なんかいないと思われるような状況です。神なんかいないと私たちがそう思ってしまうようなときに、実は神がそこに共にいてくださる。何か言葉をかけてくれるのでもない、ただ黙して、神は悲しみ苦しむ私たちの側にいてきださる。

みなさん、新約聖書のマタイによる福音書の2746節にはイエス・キリスト様が十字架の上でお語りになった7つの言葉の中の一つが記されています。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言う言葉です。日本語に訳すならば「わが神、わが神、どうして私をおみすてになったのですか」と言う言葉です。

それは、まさに祭司長や律法学者たちの恨みを買い、無実の罪で訴えられて死刑宣告を受け、十字架に磔られて死の時を迎えようとしている理不尽な苦しみの中にあるイエス・キリスト様の叫びです。そのイエス・キリスト様の叫びに、神は沈黙を守られる。一言も言葉を発しない。慰めの言葉も励ましの言葉もかけないのです。
けれども、父なる神は、神の御子イエス・キリスト様を見捨てたわけではない。苦しむイエス・キリスト様の傍らに共にいてくださったのです。なぜそれが言えるか。マタイによる福音書の27章の46節の後を読み進んでいくと、十字架に付けられたイエス・キリスト様が死なれた後、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂け、墓が開けて多くの聖徒たちに死体が生き返ったと記されているからです。

神殿の幕は、神殿の中の至聖所と聖所を隔てていた幕です。その幕はいわば神の世界と人の世界を隔てていた隔ての幕だと言えるのでう。その隔ての幕が真っ二つに裂けたのですから、その出来事は、イエス・キリスト様の十字架の死が、神と人とを隔てていたものを取り去り、神に神にとの間の和解をもたらすものであったということを象徴的に見召す出来事であったと言ってよいでしょう。
 また、多くの聖徒たちの肢体が生き返ったというのですから、それはまさに死に対する勝利の出来事がそこに記されている。ですから、イエス・キリスト様の十字架の死は、神に見捨てられたために起こった出来事ではなく、むしろ神と共に働き、罪と死に対して完全な勝利をもたらすものだったのです。
 このイエス・キリスト様の十字架の死における勝利は、私たちすべての人に対する神の救いをもたらしました。まさに一人の人の死が、死を乗り越える命の勝利をもたらしたのです。

 みなさん。イエス・キリスト様の十字架の死は、罪のないお方が、多くの人から嘲笑され、あざけられる理不尽な死でした。しかし、その理不尽な苦しみと理不尽な死が、神と人との間の和解をもたらす契約となり、多くの人に祝福をもたらすものとなったのです。

 みなさん。多くの学者は、ヨセフの生涯にイエス・キリスト様のお姿を重ね合わせて聖書を読み解きます。ヨセフはまさにイエス・キリスト様の予型(モデル)であるというのです。それは、ヨセフが受けたこの理不尽な苦しみの中で、神がヨセフと共にいて下さり、その苦しみを乗り越えて行ったことが、父と兄弟たちが暮らすカナンの地に非常に大きな飢饉がおこるという危機的状況に陥った時に、エジプトにある十分に食べ物を持って父と兄弟を救うという救済の出来事に繋がっていくからです。

そして、そのエジプトの地で、アブラハムの子孫、イサク、ヤコブ、そして12人の族長へと受け継がれていった多くの国民となるという約束が実現するために、民が生み広がっていったのです。

 みなさん、ここにまさに、ヨセフと言う一人の人に起こった苦難が、災いの出来事が、災い転じて神の祝福がもたらされるという神の救いの業が顕われ出ている。そしてその救いの業が、ヨセフと同様に、理不尽な苦しみと悲しみであるイエス・キリスト様の十字架の死として実を結ぶのです。そして、私たちは、今、そのイエス・キリスト様のもたらした神の祝福に与るものとされている。また与ることができるものとされているのです。

 みなさん、私たちの人生には、苦しみや悲しみが全くないと言うことではない。それは神を信じているものであっても経験することです。例えばアブラハムに対する神の祝福の約束を受け継いだイスラエルの民は、その祝福の約束通り、神の民として古代イスラエルの国を建国します。しかし、そのような神の祝福の約束を受け継いでも、不条理な苦しみや悲しみは襲ってくるのです。

 私たちは、先ほど司式の兄弟がお読みくださいました旧約聖書の詩篇28篇の言葉に耳を傾け聞きました。この詩篇28篇は、まさにそのような神を信じる神の民にもたらされた苦しみの中から生み出された詩篇です。苦しみの中にある神の民が、苦しみの中で神に呼ばわっても神が答えられない神の沈黙の中に置かれている中で、なおも神を求め、神に祈る中で、必ず神がその苦しみから救って下さることを確信し、神を信頼し、賛美し神の恵みを確信にたったことを詠った詩が、この詩篇28篇なのです。

 しかも、この詩篇28篇は、3節を見ますと「悪しき者および悪を行う者らと共にわたしを引き行かないでください。彼らはその隣り人とむつまじく語るけれども、その心には害悪をいだく者です」とありますから、自分自身の悪や過ちによって苦しんでいるのではない、人からもたらされた虐げや災いの中で苦しんでいるのです。

 そして、その苦しみの中で神に叫びの声を上げるのですが、しかし、神はその叫びに沈黙なさる。だから、1節、2節で

1: 主よ、わたしはあなたにむかって呼ばわります。わが岩よ、わたしにむかって耳の聞こえないものとならないでください。もしあなたが黙っておられるならば、おそらく、わたしは墓に下る者と等しくなるでしょう。2:わたしがあなたにむかって助けを求め、あなたの至聖所にむかって手をあげるとき、わたしの願いの声を聞いてください。

と祈るのです。しかし、この詩人は、そのような祈りの中で、神が彼の祈りの声に耳を傾けてくださったという確信を得るのです。それは、彼が神を本当に心の底から信頼したと言い換えても良い出来事です。そのことをこの詩人は、こう言います。67節です。

6:主はほむべきかな。主はわたしの願いの声を聞かれた。7:主はわが力、わが盾。わたしの心は主に寄り頼む。わたしは助けを得たので、わたしの心は大いに喜び、歌をもって主をほめたたえる。

 みなさん。この信頼です。この確信です。この詩人には、今日の聖書箇所である使徒行伝79節、10節で言われている「神が彼と共にいまして、あらゆる苦難から彼を救いだし」と言う出来事が、彼の内に起こっていることを確信しているのです。そして神を信頼している。その時に、この詩人は、苦しみの中に置かれているにも関わらず、「私は助けを得たので、私の心は大いに喜び、歌をもって主をほめたたえる」と言うことができるようになった。

 みなさん。私たちは主イエス・キリスト様のもたらした契約に基づいて神の祝福を約束された神の民です。またその神の民となりように召されたひとり一人です。けれども、その祝福の約束の中に召されてはいても、理不尽な苦しみの中で生きなければならないものです。確かに、私たちは理不尽な苦しみを経験することがある。ヨセフのように、またイエス・キリスト様のように理不尽な苦しみや試練を通ることがあるのです
 しかし、その理不尽な苦しみの中で、私たちが神が共にいてくださることを信じ、神を信じることを決してやめず、神を信じる生涯を生きて行くならば、その私たちの歩みが、私たちに、そして私たちに繋がる者に、災いをも益と変えて神の民に与えられる祝福と恵みをもたらしてくれるのです。そのことを信じ、神を信じ、神を信頼して生きる生涯をしっかりと歩んでいきましょう。お祈りします。