2019年6月30日日曜日

2019年06月30日 小金井福音キリスト教会 説教「拝すべき唯一の神」

2019年06月30日 小金井福音キリスト教会 説教

【聖書箇所】
・出エジプト 第20章 1節 - 6節
・ルカによる福音書 第4章 1節 - 8節
・使徒行伝 第7章 30節 - 43節

【説教題】 「 拝すべき唯一の神 」



196月第5主日礼拝説教題「拝すべき唯一のお方」          2019.6.30 
旧約書:出エジプト書201節~6節(旧約聖書p.102
福音書:ルカによる福音書41節~8(新約聖書p.89)
使徒書:使徒行伝730節~743節(新約聖書pp.191-192

 さて、ここ数回の礼拝にわたって、使徒行伝の中からもっとも原初のエルサレム教会の執事であったステパノが、イエス・キリスト様を十字架に架けたユダヤ人に対して語った説教からお話ししてまいりました。

その説教においてステパノ、ユダヤ人の歴史を掘り起こしながら、彼らの祖先に対して注がれた神の憐れみと恵みを語ります。そこには、イスラエルの民に対する変わらぬ神の真実な愛があり、その愛に基づく一貫してつらぬかれている神の約束があるのです。
 そして、その神の真実な愛と変わらぬ約束ゆえに、神はエジプトの地で苦役に苦しむイスラエルの民を救い出そうと決意なさいます。そして、イスラエルの民を救い、エジプトの地から、彼らがもともと住んでいたカナンの地へ連れ戻すためにモーセという人をイスラエルの民の指導者としてお立てになり、そのモーセによってイスラエルの民をエジプトから脱出させるのです。映画にもなった出エジプトの物語です。

 ステパノはそのモーセの生涯を、先週もお話ししましたように40年ごとに三つに区分します。それは、生まれてから40歳になるまでの壮年期、そして40歳からの失意の中で過ごす40年、そして神によって再びイスラエルの民の指導者として召し出され、イスラエルの民を救い出し、彼らがもともと住んでいたカナンの地へ連れ戻すまでの40年です。

 今日は、その最後の40年についてお話しさせていただきます。この最後の40年間、そのほとんどの期間を、モーセとイスラエルの民は荒野をさ迷い歩きます。それはモーセにとってもまた、イスラエルの民にとっても決して楽な旅ではありませんでした。けれども、どうしても経験しなければならない旅でした。なぜならば、この40年間にわたって荒野をさ迷い歩くと言う経験を通して、イスラエルの民は、神に寄りすがって生きると言う信仰と、神の言葉に従い、神を神として崇める敬虔な姿勢を学ぶときだったからです。

 みなさん、想像してみてください。イスラエルの人々にとって自分たちを奴隷のように扱い、苦役を与え、苦しみを与えていたエジプトの支配の下から逃れ出て自由の身にされたのです。ですから、そこに大きな喜びが沸き上がったということは容易に想像することできます。救われるということはそのような大きな喜びをもたらす出来事なのです。

 ところが先週も申し上げましたように、この使徒行伝のステパノの説教では、イスラエルの民がエジプトから助け出される場面に関しては36節で「この人(この「この人」とはモーセのことですが、)」そのモーセ)イスラエルの)人々を導き出して、紅海においても、また40年のあいだ荒野においても、奇跡としるしを行ったのである」とだけ述べるに留まっています。これはいったいどうゆうことなのか。
 みなさん、実際にこの出エジプトの出来事が書き記されている旧約聖書出エジプト記の3章から20章ぐらいまでを読んで見ますと、それこそ面白い小説を一気に読んでしまうような面白い、ドラマティックな物語が記されている。それをステパノは、たった1節でさらりと「この人が、人々を導き出して、エジプトの地においても、紅海においても、また四十年のあいだ荒野においても、奇跡としるしとを行ったのである」と短く告げるだけなのです。

 それは、一つには、この出エジプトの壮大な物語は、イスラエルの民にとっては、決して忘れられない自分たちの民族のアイデンティティともなるような重要な物語だからです。ですから、「この人が、人々を導き出して、エジプトの地においても、紅海においても、また四十年のあいだ荒野においても、奇跡としるしとを行った」といえば、イスラエルの民であるならば、誰でも「ああ、そうそう知っている。神様のなさることは本当に素晴らしい。神様は私たちイスラエルの民を顧みてくださっている」と言うかのような、誰もが知っている神の恵みと愛を物語であり、神とイスラエルの民を結びつける物語だからだと言えます。だから詳しく説明する必要はない。それほどに、イスラエルの民にとって自分たちの祖先がエジプトから救い出されたという神の恵みの物語は浸透しているのです。

 ステパノは、そのエジプトを脱出するという神に恵みと愛を伝える部分は、たった1節でさらりと触れるだけなのに対し、モーセが神によって選ばれ召し出されたと言うことは、それこそ30節から35節に渡って丁寧に述べます。また、39節から42節では、そのエジプトから助け出された人々が、モーセに背き、金の子牛の像を造り偶像礼拝に陥ってしまったということを思い出させるのです。

それだけではない、ご丁寧に、あのエジプトから脱出し、救出されて荒野で40年過ごした人々の子孫たち、つまり出エジプトの物語を話では聞いているが実際には経験していない人たちが、彼らと同じように異教の神々を信じ、偶像崇拝に陥るというアモス書525節、26節にある神の預言の言葉をも思い起こさせる。そして、その偶像礼拝のゆえに、イスラエルの民は再び、エジプトでそうであったように奴隷の民となってしまうのだと言うのです。

 アモス書というのは、預言者アモスに託された神の言葉が記されている書ですが、アモスが実際に活動した時代は、「ユダの王ウジヤの時代、イスラエルの王ヨアシュの子アブサロムの時代」であると言われますから、だいたい紀元前7世紀中盤、つまり紀元前750年以降であると考えられます。
 このアモスの時代は、人々の宗教活動は盛んにおこなわれていたようです。しかし、その人々が行う神礼拝は、形骸化し、世俗化していたと言われます。そのような形骸化し、世俗化していた信仰を、ステパノはアモスの語った預言の言葉を用いながら、それは偶像を礼拝していることなのだと言うのです。

 ステパノがそのように、出エジプトという喜びの出来事を経験したイスラエルの民が、アロンの下で金の子牛を造り偶像礼拝をする姿や、アモスの時代の形骸化し、世俗化してしまった信仰に陥っていた人々を偶像礼拝だというのは、今、ステパノの目の前にいる人々に向かって「神があなたがたの救い主としてあなたがたの世界である「この世」におつかわしになったイエス・キリスト様を拒み、十字架に架けてしまったことは、あのイスラエルの民が金の子牛を拝み、世俗化し形骸化した信仰を生きたあなたがたの先祖の生き方に匹敵する行為なのだと言わんがためなのです。
そして、それこそは神に背を向ける行為なのだ。そのことをステパノは、イエス・キリスト様を十字架に付けたユダヤ人、それはまさに捨てステパノの説教を聞いているパリサイ派の人たちであり、祭司長たちであり、律法学者たち、さらにはイエス・キリスト様を十字架に付けろと叫んだ群衆たちなのですが、その人々に向かって語りかけるのです。

 つまり、ステパノが語る使徒行伝739節から42節の金の子牛を造り、それを神として供え物をささげるという偶像礼拝に陥ったイスラエルの民の物語も、また42節から43節にあるアモスの時代の形骸化し世俗化したイスラエルの人々の物語も、それは過去の物語であると同時に、今、ここにいるあなたの物語でもあるのだとそう語るのです。
 それは、イエス・キリスト様が十字架に磔になるように策略を巡らした律法学者が祭司長、あるいはパリサイ派の人たちだけではない、今、ここでの私たち、いつの時代でもどこであっても、私たち人間に起こりうる出来事だからです。

 みなさん、私たちは、先ほど司式の兄弟が朗読する旧約聖書の出エジプト記201節から6節までの言葉に耳を傾けました。そこには、

  1神はこのすべての言葉を語って言われた。2:「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。3:あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。4:あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。5:それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものには、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、6:わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。

 しかし、神があえてそのように言われるのは、他の者を神とする危険性がある、偶像礼拝に陥る可能性が十分ありうるからなのです。だから、あえて、「私はあなたを奴隷の家であったエジプトから導き出した神であるから、あなたがたはそのことを心に気残務のであれば、あなたがたはわたし以外の者を神とは決してしないし、わたし以外の者を礼拝しない」とそうイスラエルの民に語りかける。

 みなさん、私が心から尊敬する人物のひとりにアブラハム・ヘッシェルというユダヤ教のラビがいます。このヘッシェルは、「聖書は人間が神について語った書ではなく、神が人間について語った書である」と言います。なかなか鋭い言葉です。そして、このヘッシェルの言葉に従うならば、神の目に映る人間は、実に偶像礼拝に陥りやすき存在であり、どんなに神の恵みを経験していても、すぐに神ならざるものを神としてしまい、いともたやすく偶像礼拝に陥ってしまう存在だということです。
 だからこそ、奴隷の家であったエジプトを脱出するという神の恵みと愛、慈しみに浴している民に「あなたがたはわたし以外の者を神とは決してしないし、わたし以外の者を礼拝しない」とそう呼びかけざるを得ないのです。それは、人間がすべからく持っている弱さだからです。だから、神は敢えて十戒を律法として偶像礼拝を禁じ、ただ、聖書の神のみを神とするようにというのです。

 偶像礼拝とは、まさに神ならざるものを神とすることですが、それは何も何かに神のかたちを刻みこんだものを神とするということだけではありません。宗教改革者のマルティン・ルターという人は偶像礼拝ということについて、こう言っています。すなわち、「今あなたがあなたの心をつなぎ、信頼を寄せているもの、それがほんとうのあなたの神なのである」と言うのです。

 みなさん、神とは何かということを考えると、いろいろな言葉が頭に浮かんでくるでしょう。例えば、「神とは愛である」と言えるかもしれません。あるいはアンセルムスという中世の大神学者は、「神とは、これ以上、善いものはないと考えられる存在」と定義し、そこから神の存在を証明して行きました。他にも、いろいろ上げられるでしょう。そのような中で、あえてルターの言葉に基づきながら定義づけるとしたら「神とは、私たちが一番大切にし、信頼しなければならない存在である」と定義づけられるかなと思います。

 何よりも大切にしなければならないからこそ、そこに本当は神に私たちの心が結びつき、神に信頼し、神により頼まなければならないのに、実は、私たちは、本当は神以外の何か別の者に心をつなぎ合わせ、信頼を寄せていたりする。まさにルターは私たちのそのような姿を鋭く見抜き、あの今あなたがあなたの心をつなぎ、信頼を寄せているもの、それがほんとうのあなたの神なのである」といって私たちの心を射抜いている。
 そしてそれこそが、聖書がピリピ人への手紙319節で言う「彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである」ということなのです。

 私たちの思いが地上のことであるというのは、この「地上」にあるもの、ある事柄が、私たちを守り、支え、私たちの願望や欲望を見たてくれると思うからです。まさしく、私たちの腹の中にある願望や欲望が私たちの神となっているのです。だから、そこのところを突かれると私たちは、いとも簡単に神ならぬものを神とし、偶像礼拝に陥るのです。

 悪魔あるいはサタンと呼ばれる神に敵対するものは、そこのところはよくわかっている。だから、私たちの願いや欲望を満たしてやると言って誘惑すれば、簡単に神から離れ、偶像礼拝に陥ってしまうことを知っているのです。だから、悪魔は、イエス・キリスト様を誘惑するときに、人間のもつ欲望に語りかけている。それが、先ほど司式の兄弟にお読みいただいたルカによる福音書41節から8節にあるイエス・キリスト様に対する誘惑の記事なのです。

 そこに置いて、悪魔はイエス・キリスト様の食欲という人間の肉体に宿る欲望、聖書はこれを端的に肉と言ったり肉の欲と言ったりしますが、そのような肉の欲に訴えたり、この世の権力や栄華を見せながら、イエス・キリスト様を誘惑し、神を拝し、神を礼拝するのではなく、悪魔を礼拝させようさせます。
 しかし、イエス・キリスト様は敢然として、この悪魔の誘惑を退けます。それは、イエス・キリスト様の心が神様に繋ぎ合わされ、神様を全く信頼していたからです。だから、イエス・キリスト様にとって神様が一番大切なものとなっていたのです。

 この、荒野での悪魔の誘惑を退けられたイエス・キリスト様の物語は、あの荒野を40年彷徨い歩いきながら、神のみに信頼をし、神のみにより頼むことを学んだイスラエルの民の物語でもあります。この二つの物語は重なるのです。
 そして、まただからこそ、この二つの物語は私たちの物語にもなるのです。それは、私たちもまた、神に心をつなぎ、神を本当に信頼して生きることができるものとなることができるということです。

そのためには、あのイスラエルの民が、モーセに導かれながら荒野という厳しい環境の中を旅したように、私たちがどんなに厳しい試練や、激しい試みの中に置かれ、そこを歩もうとも、私たちがイエス・キリスト様に導かれ、イエス・キリスト様に倣って生きていくならば、私たちの必ず、神に心をつなぎ、神を一番大切にし、神を信頼して生きる者となっていくのです。

そのために、私たちはもっともっとイエス・キリスト様のことを知らなければなりません。そしてこうしてみなさんと共に神を礼拝し、聖餐に与り、神の言葉である聖書を読み、思い巡らすことで、私たちはイエス・キリスト様のことをもっともっと知ることができるようになっていくのです。そのことを覚えながら、みなさんと共に信仰生活を歩んでいきたいと思います。祈りましょう。

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