2019年6月9日日曜日

2019年06月09日 小金井福音キリスト教会 説教題 『ガイドとしての聖霊』

2019年06月09日 小金井福音キリスト教会 説教

聖書箇所
旧約書:詩編 第119篇 105~112節(旧約聖書p.859)
福音書:ヨハネによる福音書 第5章 27~39節(新約聖書p.144)
使徒書:コリント人への第一の手紙 第12章 1~3節(新約聖書p.270)

説教題
『ガイドとしての聖霊』


196月第2主日ペンテコステ記念礼拝説教「ガイドとしての聖霊」    2019.6.9

 みなさんもご存知のように、キリスト教会には三大祝日と呼ばれるクリスマスとイースターとペンテコステがありますが、今日はそのペンテコステ(聖霊降臨日)を記念する礼拝です。
 ペンテコステは聖霊降臨日といわれるように、イエス・キリスト様が十字架に架けられ、三日目に死からよみがえられ、天に昇られた後に、イエス・キリスト様と入れ替わるかのようにして、天から私たちの下へ、助け主として聖霊なる神が送られたことを記念する日です。具体的には新約聖書使徒行伝の21節から4節に記されています。そこにはこうあります。

1:五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2:突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3:そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4:すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

 ここには五旬節とありますが、この五旬節というのはユダヤ教の三大祝祭の一つで、過ぎ越しの祭りから50日後に行われる収穫祭のことです。その収穫祭の日に聖霊なる神が天から私たちのところに送られたのです。そしてその日を境として、イエス・キリスト様の弟子たちは積極的な伝道を繰り広げるようになり、教会が築き上げられていきました。その意味では、収穫を祝う収穫祭である五旬節に聖霊なる神が「この世」に降ったということには、極めて象徴的な意味が感じられます。

 その聖霊なる神ご自身について、また聖霊なる神がどのような働きをなさるかについては、聖書はあまり多くのことを語りません。ですから、この聖霊なる神ご自身とその働きについては、それぞれの教派によって様々な意見があります。逆に、この聖霊なる神に対する理解、および聖霊なる神の働きに対する理解の違いから、いくつかの教派に分かれているといった現実もあるのです。もちろん、違いは違いとしてそこにあるとしても、その違いによって角を突き合わせるのは神学の世界の中に留め置いて、それぞれの教派や教会は尊重しあう必要があります。

ところが、そのように多くの面で理解の違いを生み出している聖霊理解の中にあってもあるにせよ、聖書が最も明確な聖霊なる神の働きとして述べていることは、先ほど司式の兄弟にお読みいただいた新約聖書コリント人への第一の手紙121節から3節に記されていることです。特にそれは3節にある。すなわち

そこで、あなたがたに言っておくが、神の霊によって語る者はだれも「イエスはの ろわれよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。

ということです。「イエスは主である」と言う言葉は、最も古い信仰告白の言葉、信条であると言われます。今日、私たちが使徒信条を唱えるように、古代の教会、もっとも原初の教会の人たちは「イエスは主である」と言う言葉をもって、自分自身の信仰を言い表したのです。

この「イエスは主である」という信仰告白は、「イエスは私の王である」と言うことを意味します。というのも、その当時は「カエサルは主である」と言う言葉をもって、人々は「カエサル」つまりローマ皇帝を王として、そのローマ皇帝に従う忠誠を誓ったからです。つまり「イエスは主である」と言う言葉をもって信仰を告白するということは、イエス・キリスト様を私の王とし、私はイエス・キリスト様にお従いしますということを意味しているのです。 
その「イエスは主である」という信仰告白に私たちを導くのは、聖霊なる神の働きによるのだというのです。だから、私たちが「イエス・キリスト様は私の主です」と告白する告白は、私自身の思いや力だけでなされるものではなく、聖霊なる神の助けがあってはじめてできることなのです。まさに、信仰は、私たちの力で勝ち取るものではなく、神の恵みによって受け取るべきものなのです。
 この「イエスは主である」という信仰告白は、ただ口で言い表すだけのもではありません。「イエスは主である」という信仰と告白をするものは、同時にこの信仰告白に生きる者となって生きる必要があのです。

 むかし、ある先生がこんな話をしてくださいました。ある牧師という言い方ではなく、あえて、ある先生という言い方をしたのはその方が、神学校で教える神学教師だからです。その方が神学を学ぶために留学をしていた。その時にその方が属していた教団の指導的立場にある人が留学先にたずねてこられた。そして、こう尋ねたそうです。「君は留学して勉強しているが、勉強をして将来どうしたいのだ」。その問いに、留学中のその先生は「私は、将来神学教師となって教えたいです」と答えたというのです。

 すると、訪ねてきた来られた方は「あなたは、今、口に出して言われましたね。口に出して言われた以上、そこに苦しみが来ますが、頑張ってください」と言われたそうです。つまり、口に出した以上、それが実現するように頑張りなさい。神学教師になるためにはそれなり努力が必要で大変だけれども頑張りなさいと言うことなのです。

 同じように、「イエスは主である」と信仰の告白をしたものは、その告白通り、イエス・キリスト様を主とし、王としてこのお方に従って生きて行く者とならなければなりません。それは、今日の私たちにも言えることです。

 みなさん、今朝も私たちは、使徒信条を私たちの信仰の告白として唱えました。そこには、「我らの主イエス・キリストを信ず」と言う文言があります。つまり、私たちもイエス・キリスト様を私たちの主であり王であると告白しているのです。ですから、神を信じ、イエス・キリスト様を信じるクリスチャンは、すべからく、イエス・キリスト様に倣い、イエス・キリスト様に従って生きて行く者となっていくのです。

 だとすれば、そこには、どうやってイエス・キリスト様に従て生きていく者となることができるのかと言う問いが生まれてきます。もちろん、そんなことは私が言わなくても皆さん十分にわかっていることだと思いますが、神の言葉である聖書の言葉に従って生きることです。ただ、厄介なことに、聖書の言葉は新約聖書はおおよそ2000年前、旧約聖書に至っては、最も古い部分になりますと3000年以上前のパレスチナの時代に生きていた人々を背景に書かれています。
 ですから、21世紀の今日の、しかも日本という状況の中で生きている私たちの状況や考え方とは全く違っています。また、同じ21世紀と言う時代を生きていましても、ひとり一人の生い立ちや生活環境も違いますから、全部を十把一絡げに考えるわけにはいきません。おまけに、日本人である私たちが手にしている聖書は日本語に翻訳されているものですから、もともとの聖書の原語、ギリシャ語やヘブル語の持つニュアンスが必ずしも正確に伝わっているかどうかと言う問題もある。だから聖書は解釈される必要がある。
 だとしたら、聖書学者でなければ、聖書が言っていることは分からないのかと言うことになります。もちろん、聖書を解釈すると言うことにおいては、そうなのかもしれません。しかし、学者のならなければ神の言葉である聖書の言葉に聴き従って生きていくことできないのかと言うと、実は必ずしもそうではない。というのも、私たちが聖書の言葉を読み、それを神の言葉として聞き、読み取っていくところには、聖霊なる神の働きがあるからです。

みなさん、先ほど私は、聖霊なる神ご自身について、またその聖霊なる神の働きに対しては、それぞれの教派や教会に置いて違いがあると申し上げました。それは確かに事実です。しかし、そのような違いがあるにはあるのですが、実は多くの教会に共通して理解されている聖霊なる神の働きもあります。それは、私たちが神の言葉であると信じる聖書が、聖霊によって産み出されたものであるということです。
たとえばそれは、テモテへの第2の手紙315節から17節の言葉などに見られます。テモテへの第2の手紙は、パウロがパウロの弟子テモテへ書き送った手紙ですが、そこにはこうあります。お聞きくださればよろしいかと思いますが。

15また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。16:聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。17:それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。

 ここには、聖書は神の霊感を受けて書かれたものであると言われています。もちろん、ここで言う聖書というのは、まだ新約聖書というものが教会会議で定められる前のことですから、旧約聖書を指していますが、その旧約聖書は神の霊感を受けて書かれたものであるというのです。霊感というのは、今日広く一般社会で言われているような、霊の存在を感じる能力といったものではなく、神の言葉が、神の口から吹き出され、それが預言者の口を通して語られたものだと言うのです。
 だから、「聖書は人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。17:それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者」にするのだというのです。

聖書の言葉が私たちを教え導くものである。それは旧約聖書においても言われていることです。先ほど司式の兄弟に詩篇119篇の105節から112節までを読んでいただきました。詩篇119篇は、御言葉の詩篇と言われるほど、神の言葉について語られている。それは戒めであるとか、律法と言う言葉によって語られていますが、要は神の言葉と言うことです。それが最も明確な形で語られているのが詩篇119篇の105節か112節なのです。そこにはこうあります。

105:あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。106:わたしはあなたの正しいおきてを守ることを誓い、かつこれを実行しました。107:わたしはいたく苦しみました。主よ、み言葉に従って、わたしを生かしてください。108:主よ、わがさんびの供え物をうけて、あなたのおきてを教えてください。109:わたしのいのちは常に危険にさらされています。しかし、わたしはあなたのおきてを忘れません。110:悪しき者はわたしのためにわなを設けました。しかし、わたしはあなたのさとしから迷い出ません。111:あなたのあかしはとこしえにわが嗣業です。まことに、そのあかしはわが心の喜びです。112:わたしはあなたの定めを終りまで、とこしえに守ろうと心を傾けます。

 この詩篇の119篇の詩人の時代には、旧約聖書のすべてが整えられていたわけではありません。しかし、神の言葉として伝えられている律法があり、戒めがあった。その神の言葉に対して、「あなたの御言葉はわが足のともしび、わが道の光です」という。まさに神の言葉が私たちを教え、導きくものだと言うのです。そしえ、そのみ言葉を守ることを誓い、実行してきたと言うのです。

 でも、それでもなお、「わたしはいたく苦しみました。主よ、み言葉に従って、わたしを生かしてください」という。107節です。神の言葉に従って生きていても、人生には困難や苦難が繰り返し起こって来る。私たちに道を誤らせ、神から私たちを遠ざけようとする試練は、必ず起こってくるのです。
 その中にあってこの詩人は「主よ、み言葉に従って、わたしを生かしてください」という。それは神の言葉に従って生きていくならば、試練や試み乗り越えていくことができるからです。

 その聖書の言葉は神の霊感の働きです。神ご自身が神の言葉として聖書記者の口を通して神の言葉を噴出させたのです。そして、その聖書の言葉を読み解こうとする私たちを、聖霊なる神は私たちを導き、イエス・キリスト様に従うものとしてくださるのです。ですから、私たちが聖書を読み解くとき、その聖書の箇所が主イエス・キリスト様とどうかかわっているかに注意を向ける必要があります。
 それは、ヨハネによる福音書539節に「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである」とありますように、「聖書はイエス・キリスト様をあかしするものだからです。

 もちろん、この場合の聖書も旧約聖書を指しますが、新約聖書がイエス・キリスト様をあかしすることはいうまでもありません。福音書はイエス・キリスト様の伝記をつづる物語であり、使徒行伝や手紙は、そのイエス・キリスト様の教えや生き様から導き出され合者だからです。だから、新約・旧約の全巻は、イエス・キリスト様を指し示していると言うことができます。だから私たちが聖書を読み解くとき、その聖書の箇所が主イエス・キリスト様とどうかかわっているかに注意を向ける必要があるのです。

 逆に言うならば、私たちが聖書を読み、考え、生きていったとしても「イエスは主である」と言う聖霊によってなされる信仰告白に繋がる生き方となっていないならば、それはは、極論ではありますが、聖霊の導きによる聖書の読み解きではなかったと言ってもいい。

 私たちホーリネス教団は、神学的にはウェスレアン・アルミニアンだと言います。それはアルミニウスと言う人の神学、ウェスレーと言う人の神学の影響下にあると言うことです。そのウェスレーと言う人は、このような言葉を残しています。「聖書は地図であり、聖霊はガイドである」。
 みなさん、地図は目的地に向かって歩んでいくためには必要なものです。しかし、その地図があってもそれが正しく読み解かれなければ無用なものになってしまします。その地図をただしく読み解き、聖霊なる神は私たちが正しく歩んで生けるようにガイドとして働いてくださるとウェスレーは言うのです。 

 その聖霊が与えられたことを教会に置いて祝い喜ぶのがペンテコステです。そのことを覚えながら、私たちは「イエスは主である」という信仰告白を生きる者となっていきたいと思います。お祈りします。

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