2019年11月11日月曜日

2019年10月27日 小金井福音キリスト教会 説教題『 内なる神の声に聴く 』

【聖書箇所】
 ・イザヤ書 第55章8~9節
 ・マタイによる福音書 第26章36~44節
 ・ピリピ人への手紙 第2章12~15節

【説教題】
 『 内なる神の声に聴く 』

2019年10月21日月曜日

2019年10月20日 小金井福音キリスト教会 説教題『 亀裂を産み出す基(もとい) 』


【聖書箇所】
 ・創世記 第11章1~9節
 ・ルカによる福音書 第9章20~25節
 ・使徒行伝 第9章20~25節

【説教題】
 『 亀裂を産み出す基(もとい) 』

2019年10月13日日曜日

2019年10月13日 小金井福音キリスト教会 説教題『 この世は我々を憎むのだ 』

【聖書箇所】
 ・創世記 第3章22~24節
 ・ヨハネによる福音書 第15章16~20節
 ・ローマ人への手紙 第8章18~22節

【説教題】
『 この世は我々を憎むのだ 』

2019年10月06日 小金井福音キリスト教会 説教題『宣教者のつとめ』

【聖書箇所】
 ・マルコによる福音書 第1章16~39節

【説教題】
 『 宣教者のつとめ 』

2019年10月3日木曜日

2019年09月29日 小金井福音キリスト教会 説教題『さしのべられる神の手』

2019年09月29日 小金井福音キリスト教会 説教

【聖書箇所】
 ・出エジプト記 第2章23~25節
 ・マルコによる福音書 第1章16~20節
 ・使徒行伝 第9章10~19節

【説教題】
 『 さしのべられる神の手 』



199月第5主日礼拝説教「さしのべられる神の手」           2019.9.29
旧約書:出エジプト22325
福音書:マルコ11620
使徒書:使徒91020

 先週は、使徒行伝91節から9節を通してサウロの回心物語の前半部分からお話しさせていただきました。厳格なユダヤ教徒であったサウロは、熱心な迫害者としてイエス・キリスト様の弟子たちを迫害し、それこそ「脅迫し、殺害の息をはずませながら」弾圧しようとしていました。
そのサウロが、まさにイエス・キリスト様の弟子たちを迫害しようとしてダマスコと言う都市に向かって旅をしているその途中で、イエス・キリスト様と出会うという敬虔をすることで、それまで信じていた信仰や信念、あるいは価値観や物の見方や物の見方と言ったものまでも揺るがされていったということをお話しいたしました。そしてその前半部分を受け継ぎながら、今日の礼拝説教の中心となる聖書箇所では、パウロの回心物語の後半部分にあたります。

 サウロは、眩いばかりの光の中でイエス・キリスト様がサウロに語りかける声を聴き、心が揺らされ、自分の信仰や信念までが揺らされていくという敬虔を通して、自分の内にある暗闇に目を向けて行きます。それは、まさに光が映し出したサウロの影の部分でした。
それまでサウロは、神の言葉に従って生きてきたという思い、自分はユダヤ人として神を信じることにおいて正しい生き方をしてきたという思いがある。だから、ユダヤ人として神を信じる信仰に反しているイエス・キリスト様の弟子たちを「殺害の息をはずませる」ほどに憎んでいた。けれども、その神の前に正しい生き方をしている自負していた自分が、実は、神の言葉に聴き従って生きているのではなく、むしろ、神に背を向け、どこかで神に言い訳をしながら生きてきた現実を突きつられたのです。
 そのような中でサウロは、自分自身を問い、自分の在り方を問わざるを得なくなってしまった。そんなサウロの姿を、私たちは使徒行伝99節の「彼(すなわちサウロ)は三日間、目が見えず、また食べることも飲むこともしなかった」という言葉の中に、そして今日の聖書箇所である911節の

そこで主が彼に言われた、「立って、『真すぐ』という名の路地に行き、ユダの家で サウロというタルソ人を尋ねなさい。彼はいま祈っている。

という言葉の中に見ることができます。そのサウロに転機が訪れる。それは、サウロの目からうろこのようなものが落ち、もと通り見えるようになったという表現される出来事です。この「目からうろこのようなものが落ちた」という言葉が、修辞的な比喩的表現なのか、実際に何かそのような物理的な現象が起きたのかは定かではありません。
 しかし、それまで心に抱いていた信念や信仰、あるいは信頼を置いていた考えや価値観と言ったものが崩れ去り、暗闇の中でこれからどう生きていけばよいのか、それが全く何も見えないような状態であったサウロの心に光が差し込んできた経験であったことは間違いがありません。
 そしてそれは、新しいサウロの生き方が開けたという出来事を示す言葉であったということもできるでしょう。なぜならば、この使徒行伝91節から始まるサウロの回心の物語は、20節の「(サウロは)直ちに諸会堂でこのイエスのことを述べ伝え、このイエスこそ神の子であると説き始めた」からです。

 みなさん、それまでのサウロは、イエス・キリスト様の弟子たち、すなわちキリスト教徒を迫害し「脅迫し、殺害に息をはずませる」ほどに苦しめてきた人間です。そのためにサウロはダマスコの諸会堂に赴き、そこに集っている諸会堂の人と人の助けを得て、ダマスコにいるイエス・キリスト様の弟子を弾圧しようとていたのです。
そのサウロが、イエス・キリスト様を「この方こそ神の子です」といって、むしろダマスコにいるイエス・キリスト様を信じるキリスト者と共に、イエス・キリスト様のことを述べ伝える者になっていったのです。そしてこのようなことは、だれもが決して起こるなどということは考えなかったことです。

 みなさん、昨日はラグビー・ワールドカップで日本が勝つことが難しだろうと思われていたアイルランドに勝利した私たち日本人にとっては大変喜ばしい日です。もちろん、アイルランドの方にとっては最悪の日でしょうが、日本人のラグビーファンにとっては飛び上がるような日です。もちろん、私も両手を突き上げて飛び上がった。
 しかし、もっと嬉しい日が4年前のワールドカップであった。それは日本が南アフリカに勝利した日でした。正直なところ私は、私が生きている間にラグビー日本代表が、南半球のチームに勝つ姿を見ることはないだろうと思っていた。だから、日本代表が、しかもワールドカップの試合で、その南アフリカに勝ったシーンを見ると、今でも本当に涙が出てくるのです。
 そのとき、イギリスの小説家でハリー・ポッターを書いたジョアン・ローリングという人は「こんな物語は書けない」とツウィっタ―でつぶやいたそうですが、まさに、そのような誰も考えていなかった物語が起こったのです。

 じっさい、聖書では、イエス・キリスト様がアナニヤという人にサウロのところに行ってサウロの目が開かれ見えるようになるために祈ってやるようにと幻の中で語りかけたとあります。911節、12節です。そのとき、アナニヤは主イエス・キリスト様にこう言うのです。

13:主よ、あの人がエルサレムで、どんなにひどい事をあなたの聖徒たちにしたかについては、多くの人たちから聞いています。14:そして彼はここでも、御名をとなえる者たちをみな捕縛する権を、祭司長たちから得てきているのです。

 サウロは、教会の迫害者であり、これまでさんざん主イエス・キリスト様を信じる弟子たちを苦しめてきた人物です。そんな人間が回心するなんてアナニヤには考えられない。おそらくアナニヤ以外の人々、それはイエス・キリスト様の弟子たちだけでなく当時のユダヤ人にとっても誰もが信じられない出来事だったでしょう。
 けれども、ただ主なる神だけが、それは父なる神・子なる神イエス・キリスト様、そして聖霊なる神である三位一体の神だけが、その物語を信じ、そのサウロの回心の物語を描こうとしていたのです。ですから、主イエス・キリスト様はアナニヤのこう伝えます。15節です。

さあ、行きなさい。あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である

 みなさん、主なる神は、サウロを「私の名を伝える器として選んだ者である」と言われます。この「選んだ者である」は運命論的に捉えることも出来る言葉ですが、しかし、なにかあらかじめ定まっており、変えることの出来ないサウロの運命として捉えるべきではないように思います。

 確かに、主なる神ははサウロを導いておられる。だからこそ、イエス・キリスト様がダマスコの途上でサウロに呼びかけるのです。その主イエス・キリスト様の呼びかける声を聴いたサウロは、心が揺らぎ、葛藤する中で、神の呼びかけに答えていく。そこには、神の働きかけと、それに応答するサウロの姿があります。
  まさに、サウロの回心の物語は神の差し出すてから始まっている。その差し出された手に
サウロが縋り付くとき、神の思い描いたサウロの回心の物語が、神の歴史の中に描き出されていくのです。そして、それがサウロという名の人生を変え、パウロと呼ばれるようになる新しい人生が、イエス・キリスト様のことを教え、述べ伝えていく新しい生き方が開かれていったのです。

 みなさん、私たちは、自分の人生を自分が切り開いて行くのではありません。イエス・キリスト様を信じ、イエス・キリスト様を主として仰ぎ、このお方の弟子となった者は、自分の力で頑張って自分の人生を切り開くのではなく、主なる神が開いてくださった道を歩んでいくのです。

 私たちは、先ほど司式の兄弟に新約聖書マルコによる福音書116節から20節を読んでいただき、そこに記されている神の言葉に耳を傾けました。そして、そこに記されていたことは、後にペテロと呼ばれるようになるシモンとその兄弟アンデレに「私についてきなさい。人間を獲る漁師にしてあげよう」と呼びかけられ、シモン・ペテロとアンデレはそれに従ったということが記されていました。また、同じようにゼベタイの子ヤコブとその兄弟ヨハネにも同じように呼びかけられ、彼らもまた主イエス・キリスト様の呼びかけに従ったということが書かれています。
 シモン・ペテロもアンデレもヤコブもヨハネも、みんなガリラヤ湖のほとりに住み、漁師をしていました。そのシモン・ペテロやアンデレ、またヤコブもヨハネもイエス・キリスト様が呼びかける言葉に答え、イエス・キリスト様に従っていったことによって、その人生が大きく変わり、新しい生き方に変って行ったのです。

 その新しい生き方が開かれていくとき、必ず先行するのは神の意志です。新しい生活、新しい生き方は、神の意志によって開かれていく。

 たとえば、先ほど旧約聖書の出エジプト記223節から25節をお読みいただきましたが、そこで言い表されていることは神の御意志です。そこにはこう記されている。

23:多くの日を経て、エジプトの王は死んだ。イスラエルの人々は、その苦役の務のゆえにうめき、また叫んだが、その苦役のゆえの叫びは神に届いた。24:神は彼らのうめきを聞き、神はアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を覚え、25:神はイスラエルの人々を顧み、神は彼らをしろしめされた。

ここにはエジプトの地で奴隷となり、苦しんでいるイスラエルの人々の姿がある。彼らは奴隷となっていましたから、自分の力でその苦しみをどうすることもできない。だからただ呻き、誰に聴かせるともなく叫ぶのです。
まさに「しかし、その叫びが神の届いたとき、神は、その叫ぶイスラエルの民を救おうと意志されるのです。神はアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を覚え、25:神はイスラエルの人々を顧み、神は彼らをしろしめされた」という言葉は、その神の意志が顕われ出た言葉です。つまり、イスラエルの民の救いの物語は神の意志から始まり、この神の意志によって、奴隷として苦しんでいたイスラエルの民に新しい生き方が開かれていくという出エジプト記の壮大な物語が神によって描かれていくのです。そして彼らは、ただその開かれた道を歩き、描かれた物語を生きて行けばよかった。

 みなさん、繰り返して申し上げますが、私たちは、自分の人生を自分が切り開いて行くのではありません。イエス・キリスト様を信じ、イエス・キリスト様を主として仰ぎ、このお方の弟子となった者は、主なる神が開いてくださった道を歩んでいくのです。それは、イエス・キリスト様が人となり、この世で生きられた道です。
神が、神の独り子を人としてこの世界に与え送り出してくださった。そのイエス・キリスト様が生きた生き方そのものが、それまでの人間の在り方、生き方とは異なり全く新しい者なのです。だから、私たちは、私たちの人生に転機的なことが起こっていた時、イエス・キリスト様にならって生きることが大切になる。

みなさん、それはつまり、本当に人生の転機というものは、神の差し出す手として私たちに訪れるということです。

みなさん、サウロがパウロと名前まで変わってしまうような人生の転機を迎えたとき、サウロは暗闇の中にいました。食事もとれないほどの悩みの中にいた。いや食事をとることも忘れるほどに新しい生き方を求めていたとも言える。 
 そのよう中、サウロにパウロという名の新しい道、新しい生き方を切り開いたのは、主なる神なのです。そして、その新しい生き方は、919節、20節にありますように、それまでサウロが迫害し、苦しめてきたイエス・キリスト様の弟子たちとの間に和解を生み出し、生きる力を与えるものでした。まさに、

19:また食事をとって元気を取りもどした。サウロは、ダマスコにいる弟子たちと共に数日間を過ごしてから、20:ただちに諸会堂でイエスのことを宣べ伝え、このイエスこそ神の子であると説きはじめた。

 という言葉は、そのことを言い表していると言って良いでしょう。

 みなさん。この使徒行伝91節から始まり2節に至るサウロの回心の物語は、人生の転機の物語であり、神を信じクリスチャンとなる回心は、私たちの人生に新しい道、新しい生き方をもたらすものであるということを告げ知らしていると言っても良いでしょう。
 しかし、人生の転機は何も、回心しクリスチャンになる時だけのことではありません。クリスチャンになっても、様々な転機的な出来事はあり、その都度、悩み苦しみ、心がゆる動かされることがある。
 けれどもみなさん。そのような時、いや確かに自分で何とかしなければと思うでしょうし、そう思っても仕方がないと思う。でも、どうぞ心に覚えておいていただきたのです。それが、本当に人生の転機ならば、必ず神は手を差し伸べて下さり、私たちに誰も思いつかないような新し道を切り開いてくださる。主なる神は「誰もかけないような物語」を私たちの人生に書き込んできださるのです。

お祈りしましょう。

2019年9月26日木曜日

2019年09月15日 小金井福音キリスト教会 説教題『彼らを生かせ』

2019年09月15日 小金井福音キリスト教会 説教

【聖書箇所】
 ・エゼキエル書 第37章1~14節

【説教題】
 『 彼らを生かせ 』

2019年09月22日 小金井福音キリスト教会 説教題『自分の心を省みる』

2019年09月22日 小金井福音キリスト教会 説教

【聖書箇所】
 ・レビ記 第19章17~18節
 ・ルカによる福音書 第10章25~29節
 ・使徒行伝 第9章1~9節

【説教題】
 『 自分の心を省みる 』


199月第4主日礼拝説教「自分自身の心を顧みる」           2019.9.22
旧約書:レビ記917節から18
福音書:ルカによる福音書1025節から29
使徒書:使徒行伝91節から9

使徒行伝91節から19節は、かつてはキリスト教徒を迫害していたサウロが、復活したイエス・キリスト様と出会い回心するという壮大な物語が記されている箇所です。なかでも使徒行伝91節から9節は、ダマスコに行き、そこにいるキリスト者を捉えエルサレムまで引っ張ってこようとしていたサウロが、そのダマスコの途上でイエス・キリスト様と出会い、目が見えなくなってしまったという出来事が記されている箇所です。
 その91節および2節には、こう記されています。「さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司のところに行って、ダマスコの諸会堂あを求めた」。ここにある「なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら」という言葉は、キリスト教徒を迫害するサウロの鬼気迫る意気込みというか修羅のごとき意思を感じさせます。とりわけ、「殺害の生きをはずませながら」というのです。
 人を殺害するなどということは、そうたやすくできることではありません。普通の人であるならば、ためらい躊躇するようなことです。なのにサウロはその殺害という行為を「息をはずませながら」行おうとしているというのです。

 みなさん、サウロは当時の一級の宗教指導者ガマリエルの下で律法を学んだ人です。その律法の根底にあるもっとも基本となる者は十戒です。当然、パウロはこの十戒のことを知らないわけがありません。その十戒は、先ほどみなさんで交読した交読文47番、新聖歌の916頁から917頁に記されていますが、その6番目の戒めに殺してはならないと記されている。
 サウロは、それを知らないわけではない。ユダヤ教にはタルムードという書かれた文書としての律法、これをトーラーと言いますが以外に、口伝、すなわち口伝えに言い伝えられた神の律法であるミシュナーと呼ばれるものがあります。このミシュナーを注解し解説したものが5世紀ごろに編纂されたタルムードと言われる書物なのですが、このタルムードには「律法を破らなければ殺す」(バビロニア・タルムード:サンヘドリン74a)と脅されたなら、命を守るために偶像礼拝と性的不品行と殺人以外の律法なら破っても良いという教えがあります。
逆にいうならば、たとえ命を奪われることになっても、偶像崇拝と性的不品行と殺人はしてはならないということです。時代は遡りますが、熱心なユダヤ教徒であり、律法に関してきちんと学んでいたサウロは、このような「殺人」を徹底的に否定するユダヤ教の精神を知っていたものと思われます。なのに彼は、」「殺害の息をはずませながら」、ダマスコに向かうのです。
                                                                                                              
 「いったいどうして?」。疑問符の造言葉が心に湧き上がります。「殺してはならない」という言葉を心に刻んでいるはずのサウロを、「殺害の息をはずませながら」キリスト者を迫害するのか。

 さきほど、ユダヤ教には口伝えで伝えられた律法、これを口伝律法といいますが、その口伝律法であるミシュナーというものがあり、これを解説した書物としてタルムードという書物があるとお話ししました。そしてそのタルムードにおいて、殺人という行為は偶像礼拝、性的不品行に続く、第3の重罪として厳しく禁じられていることもお話ししました。 そのタルムードに、次のようなことも書かれているのです。「いわれのない憎しみは偶像礼拝、姦通、殺人という三大重罪にも匹敵し、神殿崩壊の原因となった」(バビロニア・タルムード:ヨーマ9b)。ここでは偶像礼拝や、姦通、殺人といった三大重罪に結びつけられているのですが、その内容を精査してみますと、それはとりわけ殺人に結びつけられていると考えられます。つまり、憎しみは殺人を引き起こす原因になりうるというのです。

 考えてみますと、先ほど司式の兄弟にお読みいただきましたレビ記1917節から18節におきまして、聖書は

17:あなたは心に兄弟を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろにいさめて、彼のゆえに罪を身に負ってはならない。18:あなたはあだを返してはならない。あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない。あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である。

とあります。このレビ記19章は、1節、2節で

1: 主はモーセに言われた、2:「イスラエルの人々の全会衆に言いなさい、『あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたも聖でなければならない。

と述べられています。それは、イスラエルの民は神の民であるというの神の宣言です。イスラエルの民は、神に属する神の民である。だから神の民として聖なる生き方をしなければならない。では、その聖なる民として聖なる生き方はどのようなものかということが、3節以降にしるされているのですが、17節、18節ものの聖なる民はどのようなものかが記されている中にある。

 今日のこの礼拝説教では、このレビ記193節以降にある聖なる民の生き方を一つ取り上げてお話しすることは致しませんが、その聖なる民の生き方の一つ一つの根底にあるものは隣人愛と言ってもよろしいかと思います。そうしますと、憎しみや恨みは、この隣人愛の真逆にある感情と言ってもいい。だからこそ、聖書は「あなたは心に兄弟を憎んではならない」と言い、「あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない」というのです。そして、「あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない」と言う。

 みなさん、この言葉は先ほどお読みいただきました。ルカによる福音書1025節から29節にあるイエス・キリスト様の言葉にそのまま反映されている。そこには、神の戒めの中で最も大切なもの神を愛し、あなたの隣人を愛することだと言われている。そしてそれは、神の民が神の民らしく生きていくための根本にある精神なのだというのです。
 そのルカによる福音書の10章の記事で、イエス・キリスト様に「何をしたら永遠の命を得られるでしょうか」と尋ねた律法学者に、イエス・キリスト様は、聖書には何と書いてあるかと尋ねます。するとその律法学者は、心をつくして神を愛し隣人を愛することだと答えます。すると、イエス・キリスト様は、「その答えは正しい、だからあなたもそうしなさい、つまり心を突きして神を愛し隣人愛に行きなさい」というのです。

問題はここからです。神を愛し隣人を愛せと言われて、この律法学者は「自分の立場を弁護しよう思った」(29節)というのです。そして「わたしの隣人は誰かと」と問いかえしたのです。
 「隣人を愛しなさい」と言われても、愛せない人間がいる。愛そうと思っても愛せない人間がいる。むしろ愛せないどころか憎んでしまう相手がいる。だから自分の立場を弁護しようとするのです。そのような姿を聖書は見事にイエス・キリストさまが描き出している箇所があります。マタイによる福音書の543節です。そこにおいて、イエス・キリスト様は「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている」とそう言っておられます。

 つまり、「殺してはならない」「憎んではならない」と律法に命じられているユダヤの人々であっても、「敵は憎め」と教えられていた。この言葉の中に、愛することの出来ない存在がいる事への言い訳がある。「あいつは敵だから、愛せない。むしろ憎んで当然だ。だから殺したって仕方がない」。そう言った言い訳がある。

 しかし、この「隣人を愛し、敵を憎め」と言われている言葉の「敵を憎め」という言葉は文章として著された律法、すなわち旧約聖書に言い出すことができません。ですから、当時にユダヤ人たちが「隣人を愛せ」と言う聖書の教えの言葉に対して、そうすることの出来ない自分に揺らぎ、その揺らぎが「隣人を愛し、敵を憎め」という言葉になって、言い伝えられていたのでしょう。
 
そして、サウロもその言葉の中に、キリスト教徒を「殺害の息をはずませ」るほどの憤りを感じる自分の気持ちのよりどころを求めたとしてもおかしくはありません。つまり、サウロにとってキリスト教徒は敵なのです。それは「憎め」と言われている相手である。だからこそサウロは、「主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませるのです。
 そのサウロが、主の弟子たちを苦しめるために向かったその途上で、天に昇られたイエス・キリスト様と出会うのです。正確に言うならば、突然、彼らを地に倒れさせるほどの光が天からさし、彼らを巡り照らし、その光の中でサウロは目を開けることも出来ず、声だけは聞こえるが姿は見えなかったという経験をするのです。

 この表現は、極めて重要です。人を地に打ち倒すほどの光が、サウロを巡り照らしたというのです。この光は神の栄光を表す光だと考えてよいでしょう。と申しますのも、この使徒行伝9章を記したルカが記したルカによる福音書28節で、神のみ使いである天使が、野宿をしていた羊飼いに、救い主がお生まれになったということを知らせるために現れたときに「主の栄光が彼らをめぐり照らした」と記しているからです。
 ですから、「彼らをめぐり照らす光」は主の栄光を表す光であると言えます。その同じ表現をもって、ルカはイエス・キリスト様の「「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声や「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねるサウロに「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と答えるイエス・キリスト様の言葉を伝えるのです。

 しかも、ルカによる福音書の2章において、み使いの姿を見ていますが、この使徒行伝9章においては、誰もイエス・キリスト様のお姿を見ていないのです。それは、彼らが目を開いていることができなかったからです。使徒行伝98節には、「サウロは血から起き上がって目を開いてみたが、何も見えなかった」書かれています。目を開くことができないほどの神の栄光、その中でイエス・キリスト様が語られる。それはイエス・キリスト様が神の人であり、神の御子であることを示しています。

 その神の前に立たされ、神の人であり神の御子であるイエス・キリスト様から「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」という呼びかけを受けたとき、それまで「キリスト教徒を敵とし、「敵を憎め」と言い伝えられている言葉を支えに、彼らを脅迫し、殺害するほどに息づいていたサウロの心は揺り動かされたのです。そのサウロの心の揺らぎは、9節の「彼は三日間、目が見えず、また食べることも飲むこともしなかった」という言葉に現れ出ています。

 目が見えないという状況、それはサウロを暗闇の中に陥れます。周りのものが何も見えない。それは、それまでサウロが見ていた世界、サウロの目に映っていた世界といっさい断たれてしまっている状況です。それは物質的なものが見えなくなったというだけではなく、信じていたものさえも見失ってしまった状況でもあります。それは、様に暗闇の中にいるようなものです。サウロは、主の栄光の光に照らされて、初めて自分の内にある暗闇に気が付いたと言って良いでしょう。
 そのような中で、サウロの心が迷い揺らされている。それこそ、食事をすることもできない状況なのです。おそらく、そのような中で、サウロはじっと自分のこれまでの歩み、考え方を見つめ直していたのでしょう。

 そこには、それまで信じていたサウロのユダヤ教徒としての信念や、信仰における確信もあったでしょう。しかし、神の栄光の中から呼びかけてくるイエス・キリストの言葉の前に立たされた時、サウロはそれまで自分がよって立っていたところの信念や確信が崩れ落ち、それまで見ていた世界や目に映っていた世界から離れて、一人、神を想い、神を見上げるところに立たされた。

 みなさん、それが悔い改めということなのです。それまでのものの見方や価値観から離れ、神の言葉の前に立ち、神を見上げるそれが悔い改めるということなのです。11節で神がアナニヤの「彼(すなわちパウロ)は祈っている)といっておられるでしょう。この「彼は祈っている」言葉が、そのすべてをあらわしている。
サウロは、まさに、ダマスコの途上で、イエス・キリスト様と出会い。自分のそれまでの自分の在り方が全て問い直され、それまでの自分の在り方やものの見方や価値観から離れ、神を見上げましたのです。そしてそれが、サウロを回心へと導いていった。みなさん、そこから神の民としてのサウロの生き方が始まったのです。

 みなさん、今日も神は、サウロと同様に皆さんの名を呼び掛けています。それは皆さんが、神の言葉の前に立ち、神に目を向け、聖なる神の聖なる民として生きる生き方生きるためです。その神の民としての聖なる生き方、それは隣人愛を実践していく生き方に、今日、神は皆さんを招いておられるのです。


静まって、声を出さず、沈黙のうちに祈り、神に応答しましょう。