2019年2月16日土曜日

2019年02月10日 小金井福音キリスト教会 説教題「 勝利を告げる声 」

2019年02月10日 小金井福音キリスト教会 説教

聖書
・ヨシュア記 第6章 12節 - 21節
・ルカによる福音書 第19章 37節 - 40節
・使徒行伝 第4章 24節- 31節

説教題「 勝利を告げる声 」




さて今日の説教箇所の中心となる使徒行伝424節から31節は41節から始まるペテロとヨハネの物語の結末の部分となる箇所です。

 このペテロとヨハネの物語は、二人がエルサレムにある神殿の中にある「美しの門」と呼ばれる門のところで物乞いをしていた生まれつき歩くことができなかった人をイエス・キリスト様の名によって癒し、歩けるようにしてあげたことから始まります。
  みなさん、「イエス・キリスト様の名によって歩けるようにした」ということは、イエス・キリスト様のご人格とイエス・キリスト様の権威がこの人を歩けるようにしたと言うことです。ペテロとヨハネは、そのことをこの神殿の「美しの門」の前でなされた癒しの出来事を見ていた人たちに語り聞かせるのです。そして、このイスラエルの民が十字架に付けて殺したイエスいうお方こそが、旧約聖書が預言し、イスラエルの民が待ち望んでいた「油注がれた王」であり「モーセの再来である預言者」すなわちキリストであると高らかに告げ知らせるのです。
 ところが、この一連のペテロとヨハネの言動が、当時のイスラエルの民の指導的立場にあった役人や長老、あるいは律法学者や大祭司と言った民の中で権力を握っていた人たちから疎んじられます。それは、ペテロとヨハネが、イエスというお方がキリストであると宣言するだけでなく、そのイエス・キリスト様をあなたがたイスラエルの民は十字架に付けて殺してしまったが、神がそのお方をよみがえらせたと述べ伝えていたからです。

 このペテロとヨハネ、あるいはイエス・キリスト様の弟子たちの述べ伝えていた宣教の言葉は、役人や長老、律法学者や大祭司たちの誤りを厳しく糾弾する言葉であったと同時に、それまで、役人や長老、律法学者や大祭司といった権力者たちによって保たれていた秩序を崩壊させ、イエス・キリスト様によってイエス・キリスト様を王とする新しい秩序、すなわち神の国がもたらされたと言うことを述べ伝える言葉だったからです。
 だから、役人や長老、律法学者や大祭司といった権力者たちは、それで、ペテロとヨハネを捕らえ、これ以上彼らが述べ伝えていたことが広がらないようにと力ずくで脅してでも彼らを黙らせようとするのですが、ペテロもヨハネも、役人や長老、律法学者や大祭司といった権力者たちの脅しに屈しないのです。
 結局、ペテロもヨハネも釈放されることになる。それはすでに、多くの人々がペテロとヨハネの言動によって神を崇めていたからです。だから、もはや彼らを罰するすべがなかったのです。そして、ペテロもヨハネも釈放され、仲間たちのところに戻って来る。そして、役人や長老、律法学者や大祭司に捕らえられ、彼らの前で弁明を求められた一連のいきさつを話すのです。その結果何が起こったのかが、先ほどお読みいただいた今日の説教の中心箇所である使徒行伝413節から3節に記されているのです。

 みなさん、ペテロとヨハネから、役人や長老、律法学者や大祭司といった権力者たちによって捉えられ、「これ以上イエス・キリスト様の名によってかたってはならない」と脅されました。しかし、それにもかかわらず

神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか判断しもらいたい。わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを語らないわけにはいかない。(使徒419節)

といって、権力者たちの脅しを完全に退けたのです。 
 この、ペテロとヨハネが語らないわけにはいかないといった「自分の見たこと聞いたこと」とは、彼らが目撃したイエス・キリスト様が復活し、天に昇って行かれた(使徒16-11)という出来事であり、また復活したイエス・キリスト様が40日に渡って弟子たちに現れて教え語られた神の国についての事柄(使徒13節)であろうと思われます。
このように、ペテロとヨハネは、役人や長老、律法学者や大祭司といった権力者たちが二人を捕らえ、脅すことはできても、その脅しに屈せず、これらから「イエス・キリスト様のよみがえりの出来事とイエス・キリスト様によってもたらされた神の国について語ることを辞めない」と宣言するペテロとヨハネを罰することも出来ず、こうして釈放するしかなかったという出来事を聞いて、神の崇めこう言うのです。使徒行伝424節から26節です。そこにはこうあります。

24天と地と海と、その中のすべてのものとの造りぬしなる主よ。 25:あなたは、わた したちの先祖、あなたの僕ダビデの口をとおして、聖霊によって、こう仰せになりました、「なぜ、異邦人らは、騒ぎ立ち、もろもろの民は、むなしいことを図り、 26:地上の王たちは、立ちかまえ、支配者たちは、党を組んで、主とそのキリストとに逆らったのか」。

みなさん、ペテロとヨハネに起こった役人や長老、律法学者や大祭司といった権力者たちに捕らえられ、尋問を受け、脅されたにもかかわらずそれを拒んでも罰せられることもなく釈放されたという一連の出来事を聞いた人々は、神に敵対し神を退ける者や王や支配者と言ったこの世の権力者ですら、もはやイエス・キリストを退けることはできないとそう言うのです。そこには、イエス・キリスト様とイエス・キリスト様が十字架の死に至るまで神に従順に従い抜いた信実な信仰によってもたらされた神の国が「この世」に対しえ勝利したのだという確信が見られます。

 この確信は、使徒業伝2章に記されているあのペンテコステの出来事によって天から下された聖霊なる神によってもたらされた確信です。そうですみなさん。聖霊なる神は、私たちの内にある神を信じる信仰に確信をもたらしてくれるのです。
 その聖霊なる神がもたらす確信が、あの最も原初の教会い集っていたイエス・キリスト様の弟子たちに力を与えたのです。だからこそ彼らは、

29:主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。 30:そしてみ手を伸ばしていやしをなし、聖なる僕イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい

といって、大胆に神の言葉を語り出すのです。そこには、十字架の死に至るまで従順に神に従い抜いたイエス・キリスト様の信実な信仰に倣い、神に聞き従って生きようとするイエス・キリスト様の姿がある。そして、十字架の死に至るまで従順に神に従い抜いたイエス・キリスト様の信実な信仰が、「この世」という罪と悪が支配する世界に勝利したように、神に聞き従って生きる者と、そのように神に従って生きる者が神に呼び集められて築き上げていく「イエス・キリスト様の体なる教会」もまた、「この世」に勝利するのだと信じ生きる教会の姿があります。

 そうですみなさん。私たちに神の言葉に耳を傾け、神の言葉に聞き従て生きて行こうとする姿勢があるならば、私たち「キリストの体なる教会」は必ず罪と死とが支配する「この世」の支配に打ち勝つことができるのです。
 とは言え、現実の世界に目を向けますと、とても「この世」に勝利したと思えないような出来事があることも否定し難いことです。あの役人や長老、律法学者や大祭司たちが罰しきりれなかったペテロやヨハネも、ペテロはローマ帝国によって殉教の死を遂げ、ヨハネはパトモス島に流刑されると言う苦難に会いますし、「イエス・キリスト様の体なる教会」もまた、「この世」に勝利するのだと信じ生きた教会も多くの試練や迫害に合うのです。

 そして、今という時代に目を向けても、多くの苦しみや悲しみや試練と言ったものが神を信じる民の上にも起こって来るのも事実その通りなのです。いったい、イエス・キリスト様による「この世」に対する勝利というものがどこにあるのかと疑いたくなるような出来事がキリスト者ひとり一人に、また教会の中に起こって来る。
 しかし、みなさん。私たちがイエス・キリスト様が私たちの人生に、そして「イエス・キリスト様の体なる教会」に罪と死が支配する「この世」に対する勝利をもたらすと言うことを信じ、声を上げて語り続けるならば、必ず、それは訪れる。
 さきほど、司式の兄弟に使徒行伝423節から3節の御言葉と共に、旧約聖書ヨシュア記612節から21節の御言葉をお読みいただきました。

 この箇所は、有名なエリコの城壁が崩れ落ちたと言う出来事を記した箇所です。エリコと言う町は、死海の北西部に位置する死海に流れ込むヨルダン川の河口から15kmほどのところにある街で、城壁に囲まれた難攻不落の都市でした。そのエリコの街をイスラエルの民が奴隷として捉えられていたエジプトを脱出して、カナンの地にやって来て最初に攻め落としたのです。

 そのとき、イスラエルの民は何か強力な武器や戦略をもってエリコの街を攻め落としたのではありません。ただ、

2見よ、わたしはエリコと、その王および大勇士を、あなたの手にわたしている。3:あなたがた、いくさびとはみな、町を巡って、町の周囲を一度回らなければならない。六日の間そのようにしなければならない。4:七人の祭司たちは、おのおの雄羊の角のラッパを携えて、箱に先立たなければならない。そして七日目には七度町を巡り、祭司たちはラッパを吹き鳴らさなければならない。5:そして祭司たちが雄羊の角を長く吹き鳴らし、そのラッパの音が、あなたがたに聞える時、民はみな大声に呼ばわり、叫ばなければならない。そうすれば、町の周囲の石がきは、くずれ落ち、民はみなただちに進んで、攻め上ることができる(ヨシュア記62-4節)。

 と言う神の言葉に従って、イスラエルの民は一日一回、朝早くエリコの街の周囲をぐるっと隊列をつくってラッパを吹き鳴らしながら一周するだけ。それを六日間続けるのです。そして7日目には7度エリコの町の城壁の周りを巡り歩き、7週目にラッパを吹き鳴らし、大声を上げて呼ばわっただけなのです。それだけでエリコの街を難攻不落の城塞としていた城壁が崩れ落ちたのです。
 彼らは、「見よ、わたしはエリコと、その王および大勇士を、あなたの手にわたしている」という神の言葉を信じ、神の言葉に従って声を上げただけなのです。彼らは、勝利を約束した神の約束を信じて声を上げた。

 みなさん、イスラエルの民が難攻不落と思われるエリコの街を攻め落とすことは、この神の約束に対する信頼、つまり神の約束に対する信仰がもたらしたものです。神が約束した出来事は必ず実現すると言う神の約束に対する信頼があの城壁を崩したのです。
 現実を見れば、とてもその周りをぐるぐると歩き廻り大声を上げるだけでは城壁は崩れ落ちそうにはない。とても勝てそうもないのです。しかし、神が約束をし、神がその約束を言葉として発したときに、その約束は出来事となるのです。だから、私たちはその神の約束の言葉を信じ、その言葉に従って生きればいい。そのことを、あのエリコの街を攻め落としたイスラエルの民の物語は私たちに教えている。

 あなたも、神の言葉が約束するところのものを信じ、神の言葉に聞き従って生きて行ってごらんなさい。そうすれば、あなたの人生に様々な試練や、難攻不落と思われる困難な出来事があったとしても、神はあなたの人生を必ず勝利の物語へと書き換えてくださるのだと、そう語りかけているのです

 みなさん、教会の歴史を振り返ってみますとあの使徒行伝41節から31節までの物語に励まされ、イエス・キリスト様の「この世」に対する勝利を信じ、イエス・キリスト様によってもたらされた神の国である「イエス・キリスト様の体なる教会」の勝利を信じて大胆に声を上げ、神の言葉を語り出した教会も、その後さまざまな試練や困難や迫害という苦難に会います。けれども、彼らはキリストにある勝利を告げらせる声を上げることを山ませんでした。声を上げ続けたのです。
 その結果、教会は、神を信じイエス・キリスト様を信じる信仰、即ちキリスト教が、313年にはミラノ勅令によりローマ帝国の公認する宗教の一つとなり、さらには392年にテオドシウス帝によってかつてはキリスト教を迫害し苦しめたローマ帝国の国教にまでなると言う出来事を見ることになるのです。

もちろん、今の時代から顧みるとキリスト教がローマ帝国の国教になったと言うことの弊害もあり、その善し悪しが問われる部分もありますが、しかし、ローマ帝国の国教となることで、キリスト教が全世界に広がっていくきっかけになったことも疑いようのないことです。実際、私たち西方教会の伝統の歴史と神学に大きな影響を与えたアウグスティヌスという人は、キリスト教が国教となったローマ帝国が来るべき神の国であると考えたほどです。それは教会が、キリストの勝利、神の国の勝利を告げる声を上げ続けたがゆえのエリコの城壁が崩れ落ちるような出来事だったのです。 
ですから、みなさん。私たちは、そして私たち「イエス・キリスト様の体なる教会」は、どんなに苦難や試練が襲ってきても、このキリストの勝利を告げ知らせる声を止めてはなりません。神の国の到来とその勝利を告げ知らせる福音の言葉を語り続けていくのです。

そうですみなさん。お読みいただきましたルカによる福音書1937節から40節までにおいて、イエス・キリスト様が子ロバにのってエルサレムに入城しようとする際に、大勢の群衆が神を賛美しつつ「主の御名によってきたる王に、祝福あれ。天には平和、いと高きところには栄光あれ」と叫んでいるのをイエス・キリスト様に敵対するパリサイ派の人たちが止めさせようとしたときに「この人達が黙れば、石が叫ぶであろう」といって、イエス・キリスト様が、神の国の油注がれた王であり、イエス・キリスト様によって神の国がもたらされると言う神の約束は必ず実現するものであると言っておられるのです。
 だからこそ私たちは、そして私たち「イエス・キリスト様の体なる教会」は、この必ず実現する神の国の到来とこの罪と死の支配する「この世」に対する勝利という神の約束を告げ知らる声を上げ続けていく必要があるのです。
 そして、その勝利の声を私たちがあげ続けていくならば、神の国がもたらす勝利は、必ず私たちの人生の物語を神の救いの物語へと書き換えて行ってくれるのです。そのことを、聖霊なる神の助けを借りて、確信し、語り続けていくものとなりましょう。お祈りします。

2019年02月03日 小金井福音キリスト教会 説教題「 書き換えられる物語 」

2019年02月03日 小金井福音キリスト教会 説教


聖書
・士師記 第6章 11節 - 16節
・ヨハネによる福音書 第9章 1節 - 7節
・使徒行伝 第4章 13節 - 22節

説教題「 書き換えられる物語 」



今日の礼拝説教の中心となる聖書個所は、使徒行伝413節から22節までです。この箇所は、お読みいただいたようにイエス・キリスト様の弟子であるペテロとヨハネが、役人や、長老、また律法学者や大祭司といった、いわばイスラエルの民の中の権力者を前でおこなった弁明に対して、その場に居合わせた人々の反応を記した箇所です。
 この弁明は、エルサレムにある神殿の中にある「美しの門」の前で物乞いをしていた生まれつき足が利かず歩けなかった人を「イエス・キリストの名によって」癒し、歩けるようにして挙げた出来事について語った説教の内容に関するものです。そして、誰もその弁明に対してかえす言葉がなく、役人や長老、また律法学者や大祭司は、ふたりに議会から退場するように命じてから、互に協議を続けた(15節)と聖書は言うのです。そしてて16節にありますように、

16あの人たちを、どうしたらよかろうか。彼らによって著しいしるしが行われたことは、エルサレムの住民全体に知れわたっているので、否定しようもない。 17:ただ、これ以上このことが民衆の間にひろまらないように、今後はこの名によって、いっさいだれにも語ってはいけないと、おどしてやろうではないか」。

と言うのです。みなさん、脅すというのは尋常ではありません。脅してでも黙らせとうとするのは、よっぽど、ペテロやヨハネが語り伝えていたことが、役人や、長老、また律法学者や大祭司といったイスラエルの民の中の権力者たちにとって都合の悪い事だったということです。

ところがペテロとヨハネとは、ひるむことなく、逆に「19神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。20:わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」と言って、その脅しを敢然と退けるのです。
 みなさん、この使徒行伝の413節から22節の記述には、いくつかの物語の書き換えということがあります。物語の書き換えと言っても聖書の出来事が書き換えられたということではありません。むしろ物語の意味というものが、新しく語り直されているという意味で、物語が書き換えられているというのです。 
 それは、第一に罪びとの物語が聖なる者の物語となる書き換えです。そして第二には、弱い人の物語が強者の物語へと書き換えられる物語の書き換え。そして、第三には、過去の物語の書き換えです。
 そこで、第一の罪びとの物語が聖なる者の物語となる書き換えですが、それは、まさにペテロの弁明の中に見ることができます。それは、10節、11節の言葉の中に現れている事柄です。そこのはこう書かれています。

 10:あなたがたご一同も、またイスラエルの人々全体も、知っていてもらいたい。この人が元気になってみんなの前に立っているのは、ひとえに、あなたがたが十字架につけて殺したのを、神が死人の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのである。 11:このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。

「生まれつきあることができない人が歩くことができるようになったのは、人へにあなたがたが神に反逆する罪びとだと言って退けたイエス・キリスト様の信仰と権威によるものだ。このおかたこそ、神の民イスラエルの王国がよって立つ土台、つまり油注がれた王であり、大祭司であり、預言者なのである」。ペテロは、11節の「このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである」という言葉を通して、そのように主張する。
 みなさん、イエス・キリスト様はローマ帝国に謀反を企てる政治的大犯罪人であるというのが、役人や、長老、また律法学者や大祭司がローマ帝国に対して描いたイエス・キリスト様の罪びととしての物語です。そして、同じように彼らは、イエス・キリスト様は神を冒涜する宗教的罪びとであるとして、イスラエルの民に罪びととしての物語を描いて見せた。

その役人や、長老、また律法学者や大祭司が描きだす罪人としてのイエスの物語を、ペテロは、「このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである」という言葉をもって、聖なる神の子・聖なる油注がれた王であるキリストの物語に書き換えるのです。 
そして、この罪びとの物語を聖なる者の物語へと書き換える書き換えは、イエス・キリスト様の物語です。しかし同時に、このイエス・キリスト様の物語は、イエス・キリスト様につながり、洗礼によってイエス・キリスト様と一つに結ばれ、イエス・キリスト様を頭(かした)とし、そのかしらなるキリストの手足として体なる教会の一員となり、教会を築き上げているキリスト者の物語ともなって、罪びとである私たちを聖なる神の民とする物語の書き換えともなるのです。 
みなさん、この物語の書き換えは、十字架の死に至るまで神に従順であられたイエス・キリスト様の信実な信仰によって起こるものです。だからこそ、洗礼を受け、キリストの体なる教会に繋がるということは、私たちにとって大切なことであり、大きな意味ある価値あるものなのです。

 第二の点です。弱い人の物語が強者の物語へと書き換えられる物語の書き換えということです。

 みなさん、今日の聖書朗読箇所の使徒書の箇所である使徒行伝413節には、「人々はペテロとヨハネとの大胆な話しぶりを見、また同時に、ふたりが無学な、ただの人たちであることを知って、不思議に思った」とあります。
 ペテロとヨハネとが無学なものであるというのは、ある意味当然です。彼らは、漁師ですから、律法学者や大祭司たちのような信仰や旧約聖書に関する専門的な知識を持っていようはずがない。そのペテロとヨハネが大胆に(最も新しい翻訳の新共同訳聖書では「堂々と」)旧約聖書を解き開きながらイエス・キリスト様が旧約聖書に預言された油注がれた王であり、モーセに匹敵する預言者であるというのです。そして、そのイエス・キリスト様の御名、つまり権威によって、足の悪い人を癒しているのです。そこには、無学な者の物語が知恵ある者の物語に書き換えが起こっている。

 しかも、それがペテロとヨハネによって、堂々とイスラエルの民の信仰と聖書に関する権威者たちでもある役人や、長老、また律法学者や大祭司の前で語られるのです。 
昔、ダクラス・グラマン事件という汚職事件で国会に証人喚問された海部八郎(かいふはちろう)という人が緊張と恐れで手が震えて証人の署名が書けなかったということがありましたが、権威者たちの前で、自らの弁明をするということは、それほど緊張することなのです。

 ところがみなさん。ペテロとヨハネは、イスラエルの民の中の権威者たちの前で、
緊張することなく、むしろ大胆に「あなたがたが十字架に架けて殺したイエスというお方こそが、神が旧約聖書で予言していたキリストなのだ」と堂々とその論を展開する。そして、「イエスの名によって語ることも説くことも、いっさい相成らぬ」と脅されても、いっさいひるむことなく、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。 わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」と言って一歩も引かないのです。

 みなさん、あのペテロとヨハネとがですよ。イエス・キリスト様が裁判にかけられとする時、三度も「私はイエスなどという人は知らない」と言ってイエス・キリスト様を裏切ったペテロ。またマルコによる福音書14章では、イエス・キリスト様が捉えられそうになった時、裸で逃げ出したのはこのヨハネであると言われる。そのような弱々しいペテロとヨハネが、ここでは力強い者として描きなおされているのです。
 それは、彼らが聖霊に満たされていたからだと聖書は使徒行伝の48節で言っている。そこにはこうあります。

 その時、ペテロが聖霊に満たされて言った、「民の役人たち、ならびに長老たち 
よ」。

 そうです皆さん。ペテロは聖霊なる神に満たされることで、大胆に、堂々と語ることができたのです。聖霊なる神がペテロの内に在ってペテロと共にいる。このことが弱々しいペテロの物語を大胆で力あるペテロの物語へと書き替えて行くのです。

 同じような事例は、旧約聖書の中にも見られる。それが先ほどお読みいただいた士師記6章にあるギデオンの物語です。ギデオンは、神からイスラエルの民のリーダーとなって、イスラエルの民を襲い虐げているミディアン人から救い出せという使命を受けます。 
 ところが、ギデオンは「ああ主よ、わたしはどうしてイスラエルを救うことができましょうか。わたしの氏族はマナセのうちで最も弱いものです。わたしはまたわたしの父の家族のうちで最も小さいものです」と言ってしり込みするのです。いわばギデオンもまた一人の弱い存在なのです。
 そのギデオンが、「神が共にいてくださる」という確証を得ると、しり込みしていたイスラエルのリーダーである士師となり、弱小であったイスラエルの民を率い、強者であるミディアン人に勝利する。ここには、弱者の物語が強者の物語に書き換える物語の書き換えがある。そして、そのカギになるのが、神が共にいるということなのです。

 みなさん。新約聖書ローマ人への手紙831節には「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」という言葉がありますが、神は私たちと共にいてくださるお方です。そして、その神と共に私たちが生きて行くならば、私たちの人生の物語は弱者の物語から強者の物語に書き換えられている。聖書はそう私たちに語るかけているのです。第三の点に行きましょう。過去の物語の書き換えということです。

 今日の聖書個所は使徒行伝31節から10節までにある、ペテロが神殿の門の前で物乞いをしていた歩けなかった人に「金銀は私にはない。私にあるものを上げよう。イエス・キリストの御名によって歩きなさい」と言って歩けるようになったというの出来事を起点として展開した物語の一部です。

 このような癒しの物語は、聖書の中に数多く出てきますが、この使徒行伝31節から10節にあるイエス・キリストの御名に基づく癒やしに非常によく似ているのが、先ほどお読みいただいたヨハネによる福音書91節から7節にあるイエス・キリスト様の癒しに記事です。
 この記事では、イエス・キリスト様が生まれつき目の見えなかった人を癒すという出来事ですが、この癒しの出来事を通して、イエス・キリスト様はこの癒しについて短く語り、そののちこの癒しの出来事に関して当時の宗教的権威の一つであったパリサイ派の人々から尋問を受けるという構造的にも類似した癒しの出来事です。

 この目の見えない人の癒しの出来事においてイエス・キリスト様が語られた言葉は、弟子たち「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」という問いに答える形でなされます。
 「目が見えない」。このことは、罪の結果起こることである。というのがこの当時のイスラエルの民の発想です。だから、弟子たちは「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」と問うのです。死土居質問です。でも、誰もがそう思っている。だから聞くのです。そしておそらく、周囲も、そしてこの「生まれつき目の見えなかった人」も、この「目が見えない」という現実は誰かの罪の結果であると思っていた。
 そのような中で、ただ一人、イエス・キリスト様のみが、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」といって、この「生まれつき目の見えない人」を癒すのです。そこに喜びの出来事が起こる。

 みなさん、この時、イエス・キリスト様は、この人の目が見えないという、「今、ここで」の現実を癒すと同時に、この人の過去の物語を書き換え、この人の過去をも癒すのです。
この人は、確かに癒されました。しかし「目が見えなかった」という過去の事実は変わらない。それが、本人の罪、あるいは両親の罪であると思い続けるならば、その過去は悲しい歴史です。そして、確かに「目が見えなかった」という過去は悲しい過去なのです。
 しかし、イエス・キリスト様は、この人の目が見えなかったことは「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」といって、罪のためと考え思い描いていた悲しい物語を、神の栄光のためという喜びの物語の一部へと書き換えていくのです。
 それは、この「美しの門」の前で物乞いをしていた人も同じです。生まれつき足が悪く歩けない。だから物乞いをして生活を成り立たせている。それは彼にとって悲しい、そしてみじめで切ない物語でした。しかし、その物語も今や喜びの物語となり、神の栄光を表す物語となっている。そして、この歩けなかった人は、その物語を人々の前で証し、役人や、長老、また律法学者や大祭司の前で自らの存在を通して証しているのです。

 みなさん。人間の人生、私たちの人生には、何らかの悲しい物語、苦しみの物語があったりするものです。誰もがそのような物語を持っているのかもしれない。あなたにあるかもしれない。でも、その過去の物語も、イエス・キリスト様につながり生きるならば、もはや悲しい物語としてではなく、喜ぶ物語の一部として書き換えられるのです。
 それは、イエス・キリスト様の十字架の死という悲しく、辛く、苦しい物語が、神によって蘇らされるという出来事に結びつくことで、悲しみと苦しみと辛い物語が、よみがえりという喜びの物語の一部となり書き換えられるからです。
 みなさん。どうか知ってください。イエス・キリスト様に結び付けれた者、洗礼を受けイエス・キリスト様と一つとなり、キリストの体なる教会の一員となり、キリストの体なる教会を築き上げている私たちは、私たちの人生の物語の全てを、神によって神の聖なる物語、イエス・キリスト様の聖なる物語として書き換えられるのだということを。お祈りしましょう。

2019年1月29日火曜日

2019年01月27日 小金井福音キリスト教会 説教題「 キリストの名の外なし 」

小金井福音キリスト教会 説教

聖書
・ゼカリヤ書 第4章 1節 - 10節
・マルコによる福音書 第11章 27節 - 33節
・使徒行伝 第4章 1節 - 12節

説教題「 キリストの名の外なし 」



 今日の聖書個所である使徒行伝41節から12節は、使徒ペテロが役人や、長老、また律法学者や大祭司などを前に行った弁明が記さされている箇所です。

ペテロが、役人や、長老、また律法学者や大祭司といった、いわばイスラエルの民の中の権力者を前に弁明をしなければならなくなったいきさつは、4章の1節から4節に記されている通りです。そこにはこのように記されています。

1:彼らが人々にこのように語っているあいだに、祭司たち、宮守がしら、サドカイ人たちが近寄ってきて、2:彼らが人々に教を説き、イエス自身に起った死人の復活を宣伝しているのに気をいら立て、3:彼らに手をかけて捕え、はや日が暮れていたので、翌朝まで留置しておいた。 4:しかし、彼らの話を聞いた多くの人たちは信じた。そして、その男の数が五千人ほどになった。

この1節にあります「彼が人々にこのよう語っているあいだに」というその「語って」いた内容は使徒行伝の31節から10節において、使徒ペテロと使徒ヨハネがエルサレムにある神殿の「美しの門」呼ばれる場所にいた生まれつき足が利かず、そのため歩けなかった男性を、イエス・キリストの名によって癒し、歩かせるという癒しの業についてです。

ペテロは、「この歩けなかった人を立たせ、歩かせるという癒しの業は、ペテロの信仰や力によってなされたわざではなく、イエス・キリスト様の信仰によるものだ」と言います。そしてこのお方は、「旧約聖書において預言された油注がれた王であり、祭司であり、また預言者であるお方であり、あなたがたイスラエルの民が十字架に磔け殺してしまったお方である。その十字架に磔られたイエス・キリスト様を神は死人の内より蘇らせられたのであり、私たちはその証人である」というのです。

使徒行伝を書いたルカの記述をみますと、どうやら、このようにイスラエルの民が十字架に磔けて殺したイエス・キリスト様が神によって死人の中から蘇らされたと言い広めているペテロとヨハネを、祭司たちや宮守がしら、サドカイ人たちは、快く思っていなかったようです。当然です。イエス・キリスト様を十字架に付けるように民衆を扇動したのは、まさしく、祭司たちや宮守がしら、サドカイ人たちであり、また役人や長老、律法学者や大祭司たちというイスラエルの民の中にあっては、有力者や権力者たちだったからです。

だから、ペテロやヨハネといったイエス・キリスト様の弟子たちが「あなたがたイスラエルの民が十字架に磔けて殺したイエス・キリスト様が神によって死人の中から蘇らされた」と言い広め、しかも男の数にして5千人の人が、そのペテロとヨハネの言う話を信じたというのですから、面白くないのは当り前だと言えます。だから2節にありますように、彼らはイライラと気をいらだたせ、ペテロとヨハネを捕らえて留置したのです。。

 それにしましても、ペテロが語る言葉を聞いて5千人もの男性が、その話を信じたというのは驚きです。ここでは男性で5千人というのですから、女性や子供を含むといったいどれぐらいの人が、ペテロの話を聞いて信じたのでしょうか。実際には万を超えていたのかもしれません。そう考えると、どのような語り方をすれば、それだけ多くの人が信じ受け入れるのだろうかと興味津々になります。

 もちろん、その背景には、彼らがイスラエルの民という神の選びの民であり、幼い時から聖書に親しみ、神を身近に感じることができる環境にあったということも影響しているでしょう。しかし、それ以上に、ペテロが使徒行伝、311節から26節で語った内容は、その直前の31節から10節までの歩くことができなかった人が歩けるようになったという癒しの出来事と結びついているからです。つまり、語る言葉と行いとが密接に結びついている言行一致した説教だったのです。

みなさん、どんなに良いことを語ったとしても行いが伴わなければ、その言葉は説得量を持ちません。それこそ、私たちの教会は今年の標語となるみ言葉として、ヨハネ第一の手紙318節の「子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか」という御言葉を掲げましたが、どんなに「教会が神は愛である」、「イエス・キリスト様は私たちを愛しえ下さっている」といっても、その教会が、たがいに愛し合うということ実践していなければ、その言葉は空しく響くだけなのです。

 しかし、ペテロが使徒行伝311節から26節までで語った説教は、あの歩けなかった人が歩き出すという実践が伴っていた。行いと真実とが伴った説教だったのです。だから、5千人以上の人、それこそ万を数えるであろう人が、そのペテロが語る説教、それは死人がよみがえるという人間の知性には荒唐無稽に聞こえるような話であっても、その話に耳を傾け、受け入れ、信じたのです。

 だから、祭司たちや宮守がしら、サドカイ人たちは苛立ちを隠せず、ペテロとヨハネとを捕らえ留置し、翌日には役人や長老、律法学者や大祭司たちの前にたたえるのです。それは、ペテロやヨハネといったイエス・キリスト様の弟子たちが、祭司たちや宮守がしら、サドカイ人たちをはじめとし、役人や長老、律法学者や大祭司たちに取って代わるかもしれない恐れがあるからです。

そのような恐れは、47節にあるペテロとヨハネを厳しく詰問する役人や長老、律法学者や大祭司たちの「あなたがたは、いったい、なんの権威、また、だれの名によって、このことをしたのか」という言葉の中に読み取れます。

 みなさん、先ほどから申し上げていますように、祭司たちや宮守がしら、サドカイ人たちをはじめとし、役人や長老、律法学者や大祭司たちは、イスラエルの民の間では、いわゆる権力者であり権力の側にいる人たちです。その人たちが、「あなたがたは、いったい、なんの権威、また、だれの名によって、このことをしたのか」と問い詰めるのです。

その背後には、自分たちこそがその権力を持つものだ。なのにいったい誰の断りを得て、勝手のそのようなことを言うのかといった響きを感じるのは私だけでしょうか。なんだか私には、役人や長老、律法学者や大祭司たちが「あなたがたは、いったい、なんの権威、また、だれの名によって、このことをしたのか」とすごんでいるように感じるのですが、みなさんはどう思われるでしょうか。

実際、ペテロは、使徒行伝の214節から36節を通し、また使徒行伝311節以降のペテロの説教において、ペテロはイエス・キリスト様がダビデの王位を継ぐ油注がれた王であり、大祭司であり、モーセに匹敵するモーセのような預言者であるということを、聖書によって論証しています。そこにはペテロの聖書解釈があります。しかし、この時代、聖書を解釈する権威は律法学者にありました。その律法学者の解釈によらず、ペテロはイエス・キリスト様こそ、来るべき王であり、来るべき大祭司であり、来るべき預言者であるキリストだというのです。

また、その説教をペテロが語った場所は神殿です。そしてその神殿を管轄する祭司たちにあって最高の権威を持つものが大祭司です。その大祭司に断りもなくペテロは神殿の中で説教をしている。それが、琴線に触れたのかもしれません。それに、大祭司というのは、原則として世襲であり、だからこそ大祭司の一族がこの場に呼び集められているのでしょうが、世襲制を飛び越えて、イエス・キリスト様こそがイスラエルの民に祝福に与らせる大祭司であるというのです。

もっとも、このイエス・キリスト様が大祭司であるという理解は、使徒行伝2章、3章にあるペテロの説教においては、直接的に言及されているわけではありません。それは、むしろ、このペテロの説教が語られた時よりもは、もっと後のへブル人への手紙に見られるものです。このへブル人への手紙における大祭司としてのイエス・キリスト様はメルキゼデクに等しい祭司であると言われています。

メルキゼデクというのは、サレムという国の王で、アブラハムに神の恵みがあるようにという祝福を与えた大祭司です。聖書はこのメルキゼデクのことを「いと高き神の大祭司」と言っています(創世記1413節から20節、口語訳聖書旧約p.15)。そのメルキゼデクに等しい祭司というへブル人への手紙の中に見られる考え方は、当然、使徒たちの語り伝えた教えを通して熟成されたものであります。

実際、読み込み過ぎと言われるかもしれませんが、使徒行伝326節において、ペテロが「神がまずあなたがたのために、その僕を立てて、おつかわしになったのは、あなたがたひとりびとりを、悪から立ちかえらせて、祝福にあずからせるためなのである」と言っている言葉の背後には、アブラハムに祝福を与えたサレムの王である大祭司メルキゼデクに等しい、神の王国の王であり大祭司であるイエス・キリスト様の姿が垣間見られているようにも思えるのです。

 いずれにせよ、ペテロやヨハネといった弟子たちが、大胆に語った「あなたがたが十字架に架けて殺したイエス・キリスト様というお方こそが、来るべき王であり、預言者であり、大祭司である」というメッセージは、イスラエルの民の秩序を成り立たせていた土台となる権力者構造を揺るがすものであったことは間違いがありません。それは、まさに使徒行伝411節の「このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである」という言葉が端的に示している。

 そのことを、祭司たちや宮守がしら、サドカイ人たちをはじめとし、役人や長老、律法学者や大祭司たちは、気づいているのです。だからこそ、「あなたがたは、いったい、なんの権威、また、だれの名によって、このことをしたのか」とすごむように詰問している。

 そして、それはこの時に始まったことではありませんでした。先ほど司式の兄弟にお読みいただいたマルコによる福音書1127節から33節の出来事においても、同じ問いががイエス・キリスト様に投げかけられているのです。

 このマルコによる福音書1127節では、同じくマルコによる福音書1115節から18節でイエス・キリスト様がエルサレムの神殿の庭で、神に奉げる犠牲の動物を売り買いしている人々や、またその売り買いのために使うお金に両替をする両替商を追い払ったという出来事の後に、祭司長たちや律法学者、長老たちがイエス・キリスト様のところにやって来て「何の権威によってこれらの事をするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか」と問いかけられています。

 神殿で両替をすること、あるいは神殿で捧げる犠牲の動物を売り買いすることは、祭司長たちや律法学者、長老たちが許可している事柄でした。しかし、イエス・キリスト様は、そういった一連の行為を、「『わたしの家は、すべての国民の祈の家ととなえらるべきである』と書いてあるではないか。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」といって、イエス・キリスト様は、それらの行為を咎め辞めさせるのです。

 みなさん、イスラエルの民は、自分たちが神の選び民であるということを、時間や空間を聖別することで示してきました。聖、すなわちきよいということは、神のものであるということです。つまり、自分たちが神の選びの民であるということをイスラエルの民は聖なる場所に集い、聖なる時を過ごすことで表してきました。

 そのために場所を聖別し、時間を聖別してきた。それが神殿という場所であり、安息日という時なのです。みなさん、私たちの教会でも、平日は講壇のある場所にロープを張り、そこを聖なる場所として場所を聖別します。また、聖日の礼拝の時を、聖なる時として重んじ、時の聖別をしています。それは、私たちが、イエス・キリスト様のもたらした新しい契約によって神の民とされたからです。ですから、礼拝の場は、「この世」の全てのものから離れ、神に近づき、神と交わり、神から与えられる恵みに与り、神の与え給う安息の時を喜ぶ聖なる空間であり聖なる時間なのです。

 そのような聖なる場所である神殿のきよさを損なってしまっているといって、イエス・キリスト様はその神殿をきよめる、宮清めの業をなさった。それは、そのように神殿の清さを損なう行為を許している、祭司長たちや律法学者、長老たちの権威を非難・否定し、イエス・キリスト様による新しい秩序をたてる行為です。まさに新しい秩序の土台としておられる。だから、祭司長たちや律法学者、長老たちは、「何の権威によってこれらの事をするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか」と問いかけるのです。

 その問いに対して、イエス・キリスト様は、見事な切り返しで祭司長たちや律法学者、長老たちを黙らせます。そのことを、祭司たちや宮守がしら、サドカイ人たちをはじめとし、役人や長老、律法学者や大祭司たちは経験しているのです。

ですから、「イエス・キリスト様は、イエス・キリスト様がダビデの王位を継ぐ油注がれた王であり、大祭司であり、モーセに匹敵するモーセのような預言者であったのだが、そのイエス・キリスト様をあなたがたが十字架に架けて殺した。しかし、その殺されたイエス・キリスト様を神は蘇らされた」というペテロに、「何の権威によってこれらの事をするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか」と問い、このイスラエルの民を支える権力や権威は私たちにあるのだと主張するのです。

 しかし、神の国の権威は、「この世」の権勢や能力によるのではないのです。それはただ、神の霊によるのです。先ほど私たちは旧約聖書のゼカリヤ書41節から10節の御言葉に耳を傾けました。ゼカリヤ書というのは、バビロンに奴隷として捉えられたイスラエルの民が、その奴隷という身分から解放され国を再建する物語です。

 その物語の最中にあって、この41節から10節は、そのイスラエルの国の再興、神殿の再建は人間の能力や力によって成し遂げられるのではなく、神によってもたらされる力によって成し遂げられるということを告げ知らせる天のみ使いの言葉です。まさに、神の国の土台となるかしら石は、人間の力や能力によって据えられるものではなく、ただ神の恵みとして据えられるのです。

 だからこそ、ペテロは、神「何の権威によってこれらの事をするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか」と問いながら、神の民の土台、イスラエルという神の国のを建て上げる土台は、私たち祭司たちや宮守がしら、サドカイ人たちをはじめとし、役人や長老、律法学者や大祭司たちの権威にあるのではないかと言う人々に、聖霊に満たされ、その聖霊の力に突き動かされて

11:このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである12:この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである

 というのです。それは、まさに神の救いの業である神の王国は、いかなる人の知恵や能力によるのでもなく、神が恵みとして私たちに与えてくださったイエス・キリスト様の信仰によってのみ打ち建てられるものであるということです。

 みなさん。私たちは今、この場所において神の王国の表れである教会を建て上げようとしています。この神の王国の表れである教会は、誰かの力や能力で建て上げられるものではありません。だから、そこに権威者などいないのです。誰かが中心となり、土台となって教会が建て上げられるのではない。当然、牧師だって権威者ではありません。

もし、私が牧師の権威というものを振りかざすようになったら、それは牧師としておしまいです。牧師は教会の権威でもなければ権力者ではない。それは、信徒の皆さんも同じです。教会を建て上げる土台となる権威は、ただイエス・キリスト様の名のほかにはないのです。

そして、私たちがこのイエス・キリスト様を見上げ、イエス・キリスト様に倣いつつ、言葉や口先でなく、真実とまことをもって愛し合うということが実践されていくとき、はじめて、教会は教会として、キリストの体なる教会として建て上げられていくのです。


そのことを、心に刻み込みながら、みなさん、イエス・キリスト様を土台とし、ただこのお方のみを教会の中心に置き、このお方に倣いながら歩もうではありませんか。お祈りします。

2019年01月20日 小金井福音キリスト教会 説教題「 さあ帰ろう 」

小金井福音キリスト教会 説教

聖書
・詩篇 第24章 1節 - 10節
・マルコによる福音書 第11章 14節 - 15節
・使徒行伝 第3章 17節 - 26節

説教題「 さあ帰ろう 」


私たちは、新しい年を迎えて以降、使徒行伝の3章から神の言葉に耳を傾けて言います。この使徒行伝の3章は1節から10節までが、ペテロが神殿の門の前にいた生まれつき足の効かない歩けない人をイエス・キリスト様の名によって癒したと言う物語から始まります。それは、ペンテコステと言う聖霊なる神がイエス・キリスト様の弟子たちの上に下って来るという出来事によって教会が建て上げられた後におきた、使徒たちによる最初の奇跡であったと言うことができます。

 この足の歩けなかった人が歩けるようになり、躍り上がり神をさんびしながら、ペテロたちと共に神殿に入って行ったという癒しの業は、神の王国と言う神の恵みが支配する国が、「この世」の中に始まったと言うことを示す出来事でもありました。もちろん、聖書では、しばしば「この世」という世界は、神に敵対し、神を締め出している世界であると言われていますから、神の恵みが支配する神の王国が始まったといっても、「この世」と言う世界がすべて神の王国に取って代わったわけではありません。

 教会と言う、イエス・キリスト様こそが、私たちをこの世の支配から救い出し、私たちを神の王国の民としてくださるお方であると信じ、イエス・キリスト様に寄り縋る者たちの群れの中に神の王国が始まったのです。

 みなさん、先ほど新約聖書マルコによる福音書の114節から15節をお読みいただきました。ここではイエス・キリスト様が宣教を始められた時の第一声が記されていますが、それは次のような言葉でした。すなわちイエス・キリスト様は「時は満ちた、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ」と言う言葉をもって、教えを語り、癒しの業を行い、人々を導く宣教の業を始められたのです。

 みなさん、私たちは福音というと、イエス・キリスト様の十字架の死が私たちの罪を償うための身代わり死であり、そのことを信じる者の罪が赦され救われると言うことであるとそう理解してきました。確かに、イエス・キリスト様の十字架の死が、私たちの罪に赦しをもたらすものであると言うことは間違いではありません。

 しかし、近年の聖書学の研究、とくにジェーム・ダンであるとかN.T.ライトといった学者たちによって、イエス・キリスト様が語られた福音の中心にあるものは、神の王国の到来を告げるものであったということが言われるようになってきました。そして、イエス・キリスト様の十字架の死がもたらす救いというのは、私たちが犯した罪を償い赦すと言うことよりも、むしろ私たちを支配している罪の支配から、私たちを解放し、神の恵みが支配する救いの業であると言うことが強調されるようになってきたのです。
 この私たちの犯した罪を償い赦すということと、私たちを支配する罪から私たちを贖い解放すると言うことは、非常に近い関係にありますが、しかし同じものであるというわけではありません。たしかに、私たちが犯した罪は赦されると言うことがなければ解決しない問題です。ですから、罪の赦しということは必要なことであり大切なことです。

 しかし、どんなに罪の赦しと言うことがあっても、私たちが罪の支配から解放されず、罪の支配の下に奴隷として置かれているならば、私たちは繰り返し罪を犯すのであり、問題は根本的に解決されません。私たちが罪の支配から解放されなければ、問題は根本から解決しません。

 しかし、イエス・キリスト様は、その罪の問題に根本から解決を与えてくださったのです。みなさん、あの使徒行伝の31節から10節までのペテロがイエス・キリスト様の名によって生まれつき歩けなかった人を癒すという癒しの物語をもう一度振り返って欲しいのです。

と申しますのも、先週も申し上げましたが、この生まれる気足の効かない歩けない男は、神殿の「美しの門」と言うところに毎日連れてきてもらい、そこで施しを求め、人々から施してもらったもので生計を立てていたからです。だから、ペテロとヨハネにも施しを求めたのです。

その施しを求めている人にいくらかの金銭を与えても、彼はそれを食い尽くしたならば、繰り返しまた施しを求めなければなりません。毎日毎日施しを乞い、与えてもらうと言うことが彼の目の前の問題でした。だから、この足の効かない生まれつき歩けない人は、自分を人目に付き、人々の注意を惹くように神殿の門のところに置いてもらっていた。

けれども、ペテロがこの男に与えたものは、「イエス・キリストの名によって歩きなさい」ということでした。つまり、この歩けない人の目のあえにある生きる糧を手に入れるというではなく、この人の苦しみや悲しみの大元にある生まれつき歩けないという、存在の根源にある問題の本質に分け入って、その問題の本質に解決を与えたのです。

みなさん、イエス・キリスト様の名による救いの業は、問題の本質を解決するであり、私たちの存在そのものを救う救いの業です。それは、私たちが犯した罪を償い赦すと言うこと以上に、私たちを罪に誘い、罪を犯させる罪の支配から解放し、神に立ち帰り、神に目を向けて生きる神の恵みが支配する神の王国に招き入れ、神の子として創造された私たちの命を回復し与えるという、私たちの存在そのものを救う救いの業なのです。まさに、イエス・キリスト様というお方は、神に背を向け、神との関係が立たれ神との関係において断絶し死んだものであったような人を神の前に再びよみがえらせ生すお方なのです。

みなさん、そのイエス・キリスト様が、十字架に磔られて死んだと言うことは、イエス・キリスト様のご生涯の中でとても大きな出来事です。その人生の歩みの頂点であると言ってもいいだろうことです。しかし、その十字架の死は、十字架の死として死に放しであったとしたら、無意味なものであったかもしれません。その十字架の死が、復活と言う出来事に結びついているからこそ、十字架の死がイエス・キリスト様の人性の歩みと頂点であると言うことができるのです。どうしてでしょう。

みなさん、私たちはしばしばイエス・キリスト様の十字架に死が私たちの罪の身代わりとなり私たちの罪を償うためであったと教えられてきましたし、そう考えてきました。たしかに、キリスト教の歴史の中で、とりわけカトリックおよびプロテスタントにおいてイエス・キリスト様の十字架の死をそのように捕らえてきた歴史があります。

しかし、同時に、イエス・キリスト様の十字架の死は、罪を償うと事以上に、「この世」を支配する悪魔に対する勝利であると言うとらえ方が、キリスト教会の中に古代からずっと受け継がれているのもまた事実です。まさに、イエス・キリスト様の十字架の死は、神に背き、神に背を向けさせようとする罪に対して、十字架の死にまで従順に従い生きると言うイエス・キリスト様の信実のゆえに、罪に対する勝利をもたらし、罪がもたらす死という結末にも勝利をもたらしたのなのです。

みなさん、この罪と死に対する勝利、それは神と人間の間にとげの様に刺さっていた問題に対する根本的な解決をもたらすものです。それは、断絶してしまっている神と人との関係を、和解の契約を基づいて再び結び合わせるものだからです。だから、この使徒行伝311節以降のパテロの説教においてペテロは、この足の効かない生まれつき歩けなかった人が歩けるようになったのは、あなたがたが殺してしまったあのイエス・キリスト様ではあるけれども、神が死人の中からよみがえらせたイエス・キリスト様の信実な信仰の故なのだということを強調して言うのです。

それは、まさに神の前に死んでしまっているものをよみがえらせ、神の民として癒し、立たしめる救いの業が、イエス・キリスト様によってもたらされたということです。そしてそれは、あの「時は満ちた、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ」と言うイエス・キリスト様の宣教の開始を告げる言葉が、この生まれつき歩かなかった人が癒やされ、躍り上がり賛美しながら神殿に入って行ったと言う物語を通して証されていると言えます。

ペテロは、そのことが実はイスラエルの歴史の中で繰り返し示されていたのだと言います。だから、悔い改めて本心に立ち帰りなさいというのです。この悔い改める(μετανοια)ということは、単に罪を後悔すると言うことではありません。自分自身の生き方の方向性を神向け、神を見上げながら生きて行く生き方への方向転換を意味しています。それが人間の本来あるべき姿なのです。

みなさん、聖書は私たち人間は神によって神の像が与えられ神に似るものとなるため創造されている。聖書の最初にある創世記1章にはそう書かれている。そう言った意味で私たちは神の子となるために、神によって造られているのです。その私たち人間が、神の前に死んだものとなっているのは、罪と言ったものが私たちにからみつき、私たちを支配しているからです。この罪に絡めとられて、私たちの神の子としての命は神の前に死んだものとなっているのです。肉は生きていても霊が死んでいる。

みなさん、私は昔、村上宣道牧師がへブル人への手紙121節の「いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか」という御言葉を用いながら、私たちに死をもたらす罪について語った言葉が実に印象深く残っています。

このとき村上宣道牧師は、この「からみつく罪」という言葉を、水にぬれた浴衣に譬えました。つまり、浴衣を着て水の中に入ると浴衣が体に、ぴたっとまつわりつき、からみついてくるようなものだというのです。みなさん、このように浴衣がからみついた状態で、仮に泳ごうとしても、とても泳げないません。ですから、どんなに泳ぎが上手な人でも、浴衣を着て泳ごうものなら、本当なら泳げる人も十分に泳げない。だから溺れ死ぬしかなくなってくる。なるほど罪とはそのように私たちにからみつき、いかに私たちが神のあえで生きようとしても、生かさせてくれないのです。そうやって私たちにからみつき、神の前で死んだもののようにするもの、それが罪というものだと言えます。

だからこそ私たちは罪の支配から解放されてなければならない。罪から解放されて神の王国の民とならなければ神の命、永遠の命に生きることができないのです。その私たちが、神の前に生き罪をぬぐい去っていただくために本心に立ち帰りなさいとペテロは言うのです。この言葉は重要です。なぜならば、ペテロは、自分自身で罪をぬぐい去れ(ξαλεφω)とは言ってません。むしろぬぐい去っていただきなさい(ξαλειφθναι)と言っている。

つまり、「からみつく罪」は、自分では脱ぎされないのです。だから、罪に勝利したイエス・キリスト様によってぬぐい去っていただければならないのです。そのために、私たちが本来あるべき神の王国に身を置く必要がある。神の王国に身を置く神の民となって、その私たちにからみつく罪に打ち勝たれた神の王国の王であるイエス・キリストに「からみつく罪」をぬぐい去っていただくこと、私たちもまた罪に打ち勝つものとなっていくことができるのです。

そのことを、神は旧約聖書の預言者を通し、またイスラエルの民の歴史を通してあなたがたに示してきたのだとペテロは語る。そしてその罪に打ち勝つ油注がれた王であり、大祭司であり、預言者であるイエス・キリスト様が、まさに「時が満ちた」といって「この世」に来られたのです。

それは、先ほど詩篇247節から8節でお読みいただいた

7:門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。8:栄光の王とはだれか。強く勇ましい主、戦いに勇ましい主である。 9:門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。 10:この栄光の王とはだれか。万軍の主、これこそ栄光の王である。

と歌われているさまであります。この詩篇24篇は、栄光の王、光輝く王が城門を通って城に入る様を謳い描いています。この王は、正しくお方で、神が造られた世界を秩序正しく治める王として描かれています。この王は、10節で「この栄光の王とはだれか。万軍の主、これこそ栄光の王であると言われていますから、神ご自身が王として神の王国を治めるために城の門をくぐられるという物語がそこにあります。それは、神の王国が築き上げられる物語なのです。

 その神の国が、イエス・キリスト様によってもたらされる。その時が満ち、神の国が到来したのです。それは、イエス・キリスト様が十字架の死に至るまで神に従順に従い抜いた生き方の中に築き上げられたものです。そのお方が、王として私たちを守り、祭司として私たちと神との間にあって執成しをしてくださり、預言者として私の歩みを導き祝福をもたらしてくださるとペテロは、この使徒行伝311節から始まる説教を通して語り、彼の言葉に耳を傾ける人、あなたがたは本来は神の契約の民なのだから、その本来あるべき神の契約の中で、契約の子、すなわち神の民として生きるものなのだと訴えている。

 みなさん、私たちは今、このペテロの説教が語る言葉の前に立たされています。イエス・キリストというお方は、十字架の死によってすべての人に新しい契約をもたらしてくださった。そして、神の創造の業において、神の像が与えられ神に似た神の似姿となる生き方へ私たちを招いてくださっているのです。

 だからこそ、私たちは本来あるべき姿に立ち帰ろうではないですか。神が私たちを、創造の秩序の中で、正しいものとしてくださっている。清いものとしてくださっている。神を愛し、人を愛し、神のお造りになった自然を愛するものとしてくださっているのです。


お祈りましょう。